9期生第6回「傲慢と善良と天皇賞・秋」

 はじめまして!内藤ゼミ9期生の高橋凱です!

 少し遅いかもしれませんが、内藤ゼミを考えて下さっている2年生の方々へ、当ゼミへのお誘いです!

 完全に手遅れっぽいことに書いてから改めて気づきましたが、書いちゃったので載せます。来年以降の2年生見てね。

 この学部に一定数存在している(と個人的に感じている) 「授業やゼミの傍ら、とにかく飲んで遊んで恋愛して~」といったノリがしっくり来ない方、ココです!しっくり来てない(はずの)9期生10人が毎週木曜日に集っては、批評理論について議論しています。

 どんな事を学ぶのかはゼミの案内に書いてあると思うので割愛しますが、映画、小説、漫画、アニメ、音楽…などなど、あらゆる芸術作品が好きな方大歓迎のゼミです。

 個人的なオススメポイントは、哲学や新しい考え方に触れる事が多い点です。今まで生きづらさを感じていた事に関して、「救われた」と感じる事が何度もありました。社会に出て再び生きづらさを感じても、内心で言い返せる武器を手に入れることができます。悩みやコンプレックスを抱える人たちへ。学問に「救われる」経験、ぜひ体感してみてほしいです!!

 上述したようなノリから最も遠い「ガチゼミ」であることは間違いないですが、かといって真面目一辺倒な人は一人もいません。内藤先生はたしかに厳しいですが、とても魅力的な方で、理不尽なことで叱るような人では決してありません(当たり前ですが)。

 全員で弱音と文句を垂れ流しながら、協力して何とか立ち向かっているような感じなので、どうかあまり気負わずに検討していただけたら嬉しいです!

 来年以降の2年生がはたしてここまで遡ってくれるのかという疑念は置いといて、第6回の授業内容を説明していきたいと思います!ゼミ志望の2年生の方が読んでも分かりやすいようにしたつもりなので、良ければ読んでみて下さいね!

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第6回 「構造分析」

 前回に引き続き、「構造分析」を学んでいきます!構造分析についてはこの後詳しく説明します。とはいえ、前回扱った小森陽一の論文とは異なる内容です。

 今回使用したテキストはこちら!

論文:Yu.ロトマン著/磯谷孝編訳『文学と文化記号論』

作品:辻村深月著『傲慢と善良』

 前半では、まず論文『文学と文化記号論』を読み解きました。

前半 『文学と文化記号論』について

 この論文を書いたユーリ・ロトマン(1922-1993)はロシアの記号学者であり、「文化記号論」を提唱し「構造分析」という批評理論の手法の形成に貢献した人物です。

 そもそも「批評理論」とは、「構造分析」とはなんでしょう?

 そんな先輩たちの流れを受けて、ロトマンは「文化記号論」の提唱を通して、批評理論の代表的な手法として知られる「構造分析」の発展に寄与しました。「構造分析」とは一言でいうと、小説や映画などのあらゆるテキスト(小説や映画をはじめとした、言語を用いたあらゆる創作物と捉えて下さい!)に含まれる様々な要素を客観的に捉えて、理論的に分析する手法のことです。しっくり来なかった方、この後説明する「文化記号論」は「構造分析」の具体例なので、一旦読み進めてやって下さい。

 ここから、ロトマンの提唱した「文化記号論」について詳しく説明していきます。余談ですが、このゼミの課題論文は本当に読みづらいです。大学入試の現代文を解いた時、こんな分かりづらい文章がどこにあるんだと思っていましたが、ここにありました。あの経験、ホントに大事です。

 さて、ロトマンはまず「文化テキスト」と「文化モデル」という2つの概念を用いて、「文化記号論」を組み立てます。

 人間世界には様々な文化や価値観があり、全てのテキストは、それらの応用物として生まれたものといえます。ロトマンは、これらのテキストにおける諸要素を空間的にモデル化していきます。「たくさんのテキストの諸要素を一つの空間に落とし込んでいくことで、人間の文化の〈綜(総)合テキスト〉が完成する!」とロトマンは主張するのです。意味が分からないですよね。

 言い換えると、テキストを理論的に分解していくことで、人間の文化(およびその応用物であるテキスト)を理論的に分析することができるのです。この分析の形を「文化モデル」と呼びます。そしてこうした「文化モデル」をたくさん合体させると、人間の文化全体を理論的に分析する「綜合テキスト」ができる!と言っているのです。ロトマンはこの綜合テキストを「文化テキスト」と呼びました。何となくでも伝わってたら嬉しい…!

 では「テキストを理論的に分解する」とは、どういうことでしょうか?

 今回の題材(『傲慢と善良』)が物語のため、ここからはテキストの中でも「物語」に絞って話を進めます。先ほども言いましたが、登場人物の心情や性格、「お前が好きだ!」といったようなセリフを解釈するのは、読み手によって解釈のズレが生まれてしまいます。とても主観的なアプローチなのです。

 ロトマンは、物語を理論的に切り分けるには、明確な「境界」が必要だと主張します。例えば、「上―下」「寒―暖」「包摂的―排他的」「奴隷―自由民」といったような「境界」です。物語を正確に切り分けられる「要素」を見つけ出すこと、これがロトマンのいう「テキストを理論的に切り分ける」ということなのです。ここで大事なのは、「切り分けた要素にダブりがないか」ということです。例えば、「個人―社会」というのも明確な「境界」に思えますが、必ずしもそうとは言えません。「社会」は「個人」の集合体である以上、「個人」は「社会」の一部でもあるのです。つまり、どちらの要素にも当てはまる例があっては、その切り分け方は正確ではありません。

 またロトマンは、テクストの切り分け方の手法として重要なのは「空間的特徴づけ」である、とも主張します。なぜなら空間的・物質的な切り分け方は人間文化の中でもっとも形式的な成分だからです。例えば、『トイ・ストーリー』の物語内容を、「ウッディがアンディの家にいた時」「ウッディがガソリンスタンドでアンディとはぐれた時」「ウッディがシドに捕まり、シドの部屋に閉じ込められた時」と空間的に切り分けたとします。この切り分け方は誰からも異論のでない、とても客観的なものだと思いませんか?

 この後、論文では、文化モデルの具体的な検討法について例をたくさん挙げていますが、説明しだしたらキリがないので割愛します!

 こうして私たちは物語を理論的に切り分ける手法について学んだのでした。

 そしていよいよ応用編です!

後半 小説『傲慢と善良』への応用

 ゼミの後半では、この理論を『傲慢と善良』に応用しました。

 辻村深月著『傲慢と善良』は、2019年刊行の大ヒット小説です。主人公の架が、婚約者である真実の失踪事件を追いかける中で、彼女の「過去」と向き合っていくという物語です。

 【以下、ネタバレ注意!】

 ここからの内容は『傲慢と善良』のネタバレが含まれます!

 まず、『傲慢と善良』のストーリーをおさらいします。

 この物語の主な登場人物は西澤架と坂庭真実の二人です。架は、東京で生まれ育ったシティボーイです。垢抜けた友人と都会的な価値観に自然と囲まれて育ってきました。一方、真実は生まれてから社会人になるまで故郷の群馬県で過ごし、親の強い束縛から逃れるために最近上京しました。二人とも30歳を過ぎており、長いこと婚活をしているものの、どちらも納得いく相手が見つからずに悩んでいました。そんな中、婚活アプリを通して二人は知り合い、婚約するに至りました。

 物語は、架視点の前半、そして真実視点の後半の2つに分けられます。

 前半は、真実が失踪するシーンから幕を開けます。架は、真実が以前から「ストーカーに悩まされている」と悩んでいた事から、真実がストーカーに誘拐されたと考え、真実の母親と共に捜索します。架は、真実がそのストーカーの正体について「群馬時代の人だと思う」と言っていた事を思い出し、真実の群馬時代、ひいては「過去」全体に向き合っていくのです。紆余曲折を経て、真実が訴えていた「ストーカー被害」は全くのウソであることが判明し、前半は幕を閉じます。

 後半では真実に焦点を当て物語が展開します。真実は、架が過去に自分の友人らに話した「真実は結婚相手としては70点」(直接こうした表現を用いたわけでなかったのですが)という発言を聞き、耐えられずに宮城県へ逃避してしまっていたのです。宮城での震災復興のボランティア活動を通して、真実は様々な人物や場所と触れ合い、今までの自分を見つめなおします。真実は気持ちの整理をつけたことで再び人生と向き合う覚悟を決め、架に連絡します。そうして二人が再会し、宮城県の神社で結婚式を挙げるシーンで物語は終わります。

 分析する前に、まずお互いの意見・感想を交換しました。すると、私を含めた多くの人が「なぜ物語の最後に架と真実は結婚したのか」という疑問を持っている事が判明しました。こうした感想を踏まえて我々は、2グループに分かれて、架と真実についてそれぞれ分析を試みました。ロトマンの手法である「空間的特徴に着目すること」と「〈内〉と〈外〉で切り分ける」という2つのアプローチを組み合わせて分析を進めました。まず「空間的特徴に着目」すると、この物語は、「真実の群馬時代」「真実・架の東京時代」「真実の宮城時代(逃避行)」の3つにわけることが出来ます。そして真実と架それぞれにとっての「内」を「物理的に同居している存在」、「外」を「それ以外の存在」と定義し、物語内容を分析していきました。すると、真実の行動パターンについてある特徴が見えてきました。

 まず「真実の群馬時代」について、真実は実家に住んでいた為、真実の「内」には「家族」が当てはまります。真実は大学の進学先から結婚相手まで、強く親の影響を受けており、心身ともに「家族」に縛られていたといっていいでしょう。真実は、結婚相手まで親に縛られる生活に嫌気が差し、東京へ向かいます。その後の「東京時代」において、真実と架は同棲していたため、それぞれの「内」にはお互いがいたことになります。しかし、そこで真実は、架が自分を「70点の存在」(語弊あります!ごめんね架!)と評価していた事を知り、宮城県へと逃避します。ここから、真実の行動パターンは、〈「内」にいる存在〉に疑念を抱くと空間的に移動し、新たな空間と〈「内」にいる存在〉を獲得していたといえるでしょう。

 ラストで真実は架を自分のいる宮城に呼び出し、話し合います。そこで架は改めて真実に求婚します。彼女もそんな彼のことが改めて好きである事に気づき、結婚を受け入れるのです。こうして再びそれぞれの「内」にお互いが入ることになるのです。

 しかし、そもそも真実は「東京時代」に、〈「内」にいる存在(=架)〉に疑念を抱き宮城まで逃避したはずです。そこで自分を改めて見つめ直すことができたのならば、新たな〈「内」にいる存在〉を獲得するはずです。にもかかわらず、真実は架と結婚する事を選択します。これは〈「内」にいる存在〉の再獲得とでも言うべき状況で、これまでの真実の行動パターンとは異なるのです。

私たちはこの議論を通して、ここに、多くの人が感じた違和感の正体があるのではないかという結論に至りました。

 このように今回は、ロトマンの理論を学び『傲慢と善良』に応用する事で、多くの人が感じていた違和感の原因を理論的に示す事が出来ました。一方で、では「なぜそんな違和感を感じる選択を真実がしたのか」という根本的な解決まで考える時間がなかったことは心残りです。前半のロトマンの論文を読解するのに時間をかけすぎてしまったことが原因かもしれません(難しすぎる)。また、これまでは課題論文が明確に課題作品について論じたものである事が多かったのに対し、今回はこの議論を通して論文を課題作品に当てはめていくものだったので、ホント難しかったです……。

個人的に、感情移入して読んだ(見た)物語を、客観的に切り分けることほど苦痛なことはありません。どうしてもムズムズしてしまいます。今回もやはり苦手意識を感じながら過ごしていました。それでも、ある物語内容を分析するとき、こうしたアプローチでしか得られない知見があることを実感できたので、何とか会得したいです!

さて、10月末に行われた天皇賞・秋に、同じく9期生の室井、滝沢と行ってきました。目玉はなんといっても世界最強馬イクイノックスと、宿命のライバル・ドウデュースの対決。私は初めて当てた馬券がダービーのドウデュースの馬券だったため、ドウデュースの馬券を買うよう脳が焼かれてしまっています。

 今回が競馬デビューの2人と一緒に東京競馬場のゲートをくぐると、そこには8万人近い大観衆が!天皇陛下が行幸されていた事もあり、盛り上がりは最高潮に達していました。

室井はドウデュースの姿を見るや否や、「本命はドウデュース!」と一目惚れ。顔をほころばせてドウデュースの馬券を買っていました。ドウデュース党の私としても嬉しい限りです。

滝沢の本命はなんとジャックドール。なかなか渋いチョイスですが、確かに展開次第では上位に食い込んでくる一頭です。

当然、私もドウデュースの馬券を購入。ドキドキしながらレースに臨みました。

結果は、イクイノックスの圧勝。ドウデュースはまさかの7着に散り、ジャックドールも11着に沈んでしまいました。

それでも、2人は「馬券は外れたけど、来て良かった!」「かけがえのない経験が出来た!」と満面の笑みを浮かべていました。私もとても嬉しくなり、3人で「絶対にまた来ようね!」と約束したのでした。

そんなイクイノックスとドウデュースの再戦が見られるのは、なんと今週末!

今回はこの2頭に加え、今年の三冠牝馬リバティアイランドと昨年の二冠牝馬スターズオンアース、捲土重来を期す昨年の最強馬タイトルホルダー、さらに土壇場で伝説の大逃げ馬パンサラッサまでもが参戦し、まさに現役最強馬を決めるに相応しい役者が揃いました。

今度の日曜日は15時にフジテレビをチェック!今から待ちきれませんね!!

9期生第5回 お前はもう、、、死んでいる

こんばんは~!

9期生の宮澤です!お久しぶりです。(前回、自己紹介したので今回は割愛させていただきますね)

最近、ゼミが楽しいです。秋美とのコラボワークショップも始動し、本格的にゼミしてるーって感じがしてます。秋美の方は素敵な方ばかりで、実際に秋田に行く日が楽しみでなりません!

話は変わりますが、いよいよ2年生のゼミ見学が始まったようで、先日2年生の子がゼミに来てくれました。初々しくてとてもかわいい、、、

私も去年はこんな感じだったなーと懐かしい思いをした今日この頃です(お前は初々しくなかったやろ、かわいくもなかったやろ)

宮澤の不要な雑談はここまでにして、さっそく第5回の授業内容に入っていきたいと思いますー


第5回 『構造としての語り』〈書く〉ことと〈語る〉ことの間で

今回使用したテクストはこちら!

論文:小森陽一 『構造としての語り』  作品:小説『坊ちゃん』

発表者担当は、坂口さんでした!

・小森陽一『構造としての語り』の内容

『構造としての語り』では、夏目漱石著作『坊ちゃん』の語りが構造的に分析されています。

本論文では、語りを分析することで、物語内の坊ちゃんが「自分/他者」「本音/建前」「表/裏」といった境界を知り、自己の価値基準・判断基準を確立したと分析できると結論づけられています。

では、具体的な論文の内容に入っていきましょう。

はじめに小森は、坊ちゃんの語りが常に他者を意識しているものであることを指摘します。

『坊ちゃん』の冒頭は、「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている」という一文から始まります。ここで注目したいのが、語り手(坊ちゃん)により、「無鉄砲」な性格という自身の自己規定がされているという部分です。なぜ坊ちゃんは、突然「無鉄砲」という自己規定を聞き手に対して、しかも冒頭で行ったのでしょうか?

この疑問に対して、小森は、〈常識ある他者〉が坊ちゃんによって意識され、語られているからだと述べます。

〈常識ある他者〉とは、他者の言葉は常にその表層とは異なる裏を持つ。場合によっては、裏にある真意や意図を隠蔽するために発せられることもあるとわきまえている他者のことを指します。

坊ちゃんは、2階から飛び降りたり、喧嘩したりするやんちゃ坊主でしたが、彼の行動は「無闇」で「無謀」な行動として人々の目にうつります。そこでは、「なんでそんな無闇なことをしたのか」問い詰めてくるであろう潜在的な聞き手が想定されています。

つまり、坊ちゃんは自分の行動に対して、理由を明示するために、予め冒頭で言い訳がましく、「無鉄砲」という自己定義をしたと考えられるのです。

では、語り手と聞き手という語りの構造は、『坊ちゃん』にどのような影響を及ぼしているのか?以下で、詳しく紹介していきます。

①読者の裏表という二重性

小森によると、読者は坊ちゃんにとって、〈常識ある他者〉と言えます。

読者は、坊ちゃんの非常識性を陰で笑いながら物語を楽しみます。坊ちゃんが2階から馬鹿正直に飛び降りたなどという無闇な行動をしているのを聞いて、なんて単細胞なんだ坊ちゃん(笑)という目線で物語を読み進めるのです。

一方では、「無鉄砲」な性格なせいで無闇な行動をとるんだという坊ちゃんの言い訳を受け入れたふりをする。しかし、一方では、坊ちゃんの非常識性を(彼に隠れて)あざ笑う。これが、読者であり、読者の裏表との二重性の現れだと小森は主張します。

②作中の登場人物と作外の読者という二重性

二重性は①だけではありません。小森は、〈常識ある他者〉は作品外の読者だけでなく、作品内の登場人物にもいると主張します。

作品内の〈常識ある他者〉とは、赤シャツや野だいこ、狸などです。彼らは、作品内で坊ちゃんの非常識性を笑い、馬鹿にする〈常識ある他者〉として描かれています。

その面で、読者は、赤シャツであり、野だいこであり、狸であると言えるでしょう。つまり、読者も作中の登場人物と同じ〈常識ある他者〉という点で、彼らと二重構造になっているのです。

しかし面白いことに、読者は自分たちのことを、赤シャツや野だいこ、狸と同じ〈常識ある他者〉だとは思っていません。むしろ、彼らの俗物ぶりを笑います。そのため、聞き手である〈常識ある他者〉が、物語に登場する〈常識ある他者〉を笑うと言う皮肉的な構造になっていると言えるでしょう。

以上、坊ちゃんの語りからみた、語り手と他者の関係性についての分析でした。次に、上記の語りの分析から、小森さんが坊ちゃんをどのように解釈したのか、3つのポイントに分けてお伝えしていきます。

・裏/表のある世界に放り込まれた坊ちゃん

・公/私に巻き込まれる坊ちゃん、私的価値基準獲得

・坊ちゃんが憧れたうらなり君

・裏/表のある世界に放り込まれた坊ちゃん

坊ちゃんは、四国の中学校に赴任することで、世間の裏表を知ることになります。

赴任前の坊ちゃんは、清という下女と過ごすことで、裏表のない世界で生きていたと小森は考えます。

清は、坊ちゃんにとって良き了解者であり、彼を肯定してくれる存在でした。そのため、赴任前の坊ちゃんは、裏表のない世界で生きることができていたのです。

しかし、四国の中学校に赴任し様々な事件を経た坊ちゃんは、嘘をつく方法や人を乗せる策を知らなければ世間では生きていけないことを知ります。ここで坊ちゃんは、世間の裏表を初めて知るのです。

つまり、清(裏表のない世界)↔四国の中学校(裏表のある世界)と解釈できます。

・公/私に巻き込まれる坊ちゃん、私的価値基準獲得

裏表のある世界では、公の言葉と私的行為が使い分けられます。例えば、赤シャツは公の場では、教育者としての立場を演じ発言します。しかし、プライベートではうらなり君の婚約者を奪い取るという、公の教育者という立場ではあるまじき行動をとります。

このような裏表を知った坊ちゃんは、次第に他者の言葉に対する無意識の信頼と実践という行動原理でを失い、他者の言葉を疑うことを覚えます。そして、今までの公私を使い分けない、裏表のない坊ちゃんは死んでしまい、裏表を知った坊ちゃんが誕生したのです。

坊ちゃんは他者と接し公私を知ったことで、自分の中に「人間は好き嫌で働くものだ。論法で動くものぢゃない。」という考えを抱きます。つまり、裏表のある世界を体験したことで初めて、「好き嫌」という自己の価値基準、行動基準を獲得したのです。

代償として、裏表なく他者を疑うことを知らない坊ちゃんは死んでしまったと言えるでしょう、、、

・坊ちゃんが憧れたうらなり君

しかし、そんな裏表のある世界に身を置きながら、巻き込まれなかった人間が一人います。それが、うらなり君です。

うらなり君は、婚約者を奪われても、九州まで左遷されても、最後まで沈黙を貫きました。沈黙することで、裏表のある世界に染まらない、正直で純粋な美質を最後まで保ったと言えます。そして、坊ちゃんはそんなうらなり君を、聖人だと考えるようになるのです。

以上をまとめると、坊ちゃんは、赴任し裏表のある世界に巻き込まれることで、「好き嫌」という自己の価値基準、行動基準を獲得したと言えます。

ここで思い出したいのは、坊ちゃんの語りでは、〈常識ある他者〉が意識されているということです。坊ちゃんは裏表を知り、他者の価値基準を自分の中に組み込んだことによって、〈常識ある他者〉を認識できるようになりました。

つまり、「坊ちゃん」が死んでいたからこそ、この語りがされている。『坊ちゃん』は、坊ちゃんが死んで初めて語られた小説なのです。


以上が、小森さんの分析による『坊ちゃん』の解釈です。ここからは、私たちゼミ生が、『構造としての語り』と『坊ちゃん』をどのように読んだのかについて軽く触れていきます。

最初に、小森さんの『構造としての語り』について、ゼミ生から出た意見(と少々の不満)記載していきます。

私個人としては、小森さんの分析、チョベリ納得~って感じだったのですが。ゼミ生のみんなと議論して、小森さんの論文には反論できる余地があるなと思いました!

まず、そもそも〈常識ある他者〉って何やねん

小森さんは、〈常識ある他者〉って言いますけど、〈常識ある他者〉って本当にいるんかいな!?って疑問がゼミ生からあがりました。いや、マジでそう。

そもそも、常識って時代によって変わりますよね。今は常識でも、昔は非常識だったことを例に挙げればきりがないです。

ってことは、『坊ちゃん』が描かれた時代の常識と現代の私たちの常識って違くない!?そしたら、現代の読者は〈常識ある他者〉って言えなくない!?

しかも、常識なんて目に見えないもの、現代人の間でもみんなが同じ共通認識できてるわけないじゃないですか。だったら、〈常識ある他者〉なんてどこにもいないだろーーーー!って。

つぎに、漱石の言葉を根拠づけにしちゃいかんやろ、、、という意見。

小森さんは本論文で、作者(漱石)の言葉を引用して根拠づけを行いました。

しかし、構造主義の観点から考えると、こりゃよろしくないかも。

そもそも、構造主義は、何でもかんでも作品と作者を紐づけて考えるのはやめようよーという立場のはず。だったら、作者の言葉を根拠づけにして良いものだろうか。過去の時代の一つの意見として引用するならいざ知らず。根拠薄くて不安だったのかな、小森さん(´;ω;`)なんて話もしました。

次に、『坊ちゃん』を私たちがどう解釈したかについて触れます。

今回は、2グループに分かれて『坊ちゃん』を構造分析しました。

1グループは、小森さんの論文に沿って、「自分/他者」「本音/建前」「表/裏」という境界について分析していました。秋美とのワークショップの題材である「コンビニ人間」における境界と絡めながら、2項対立で分析を行いました。

もう1グループは、プロップの31の機能に当てはめて分析してみました。

そこで『坊ちゃん』では、18.勝利の機能が抜けていることに気が付きました。家を出て、敵と遭遇し、お供と一緒にバトルして、帰還するという流れ自体は、プロップの時代の物語と変わりないのですが。

18.勝利の機能だけが抜けている。その意味で、坊ちゃんは、勝たなくてもいい主人公、近代の新しい人物像の表れなのかもしれないねという話をしました。

個人的には、坂口さんの「坊ちゃんは最後まで坊ちゃんだったよね」という発言が印象に残っています。坊ちゃんは、四国の赴任経験を経て確かに、昔の坊ちゃんではなくなった。それでも、坂口さんが最後まで坊ちゃんを坊ちゃんだと思えた理由はどこにあるのか、とても気になります。

以上で今回のブログは終わりですー。

最後に、第3回で白井君が飯テロしてたので、私も猫テロしておきます(うちの猫かわいいでしょ自慢もかねて)矢場とんおいしいよね。

↓ 写真撮られてご機嫌斜めなうちの猫です。猫には肖像権なんかなくてかわいそうですね

2024年度問題分析ゼミナール2次募集入室試験要項

本ゼミへの入室試験2次募集に応募を希望する学生は、情報コミュニケーション学部の事務室の指示に従い、以下の書類を提出してください。

1. レポート: 以下の内容について論じること。

1) 志望理由 2)ゼミで取り組みたいこと(対象・作品があれば,それも示すこと)。

書式:WordもしくはPDF、A4横書き、字数2,000字前後

2. エントリーシート: 以下のファイルをダウンロードし、必要事項を記入すること。

9期生第3回 「精神分析批評 他者の存在が必要。自己分析には限界があるらしい」

第3回

こんにちは、今回担当させていただく白井です!

10月5日に扱ったのは、山田広昭「テクストの無意識はどこにある」、谷崎潤一郎『夢の浮橋』で、レジュメ担当は室井さんでした。

様々な内容があったのですが、精神分析批評が成り立つ上で重要なのは「転移」でした。

なぜ重要なのか。簡単にいえば、転移しないと、無意識的欲望を分析できないからです。

カウンセラーや精神科医は患者を治療しますが、その際にこれまでの他無意識的欲望が再演されることがあります。そうした反復を診断することで、患者は無意識的欲望を把握することができるようになります。

つまり転移を発生させるためには、他者の存在が不可欠であり、転移を経験して初めて無意識を把握することができます。

精神分析批評の転回点

テクスト分析を行うためには、上記の転移を基に、読者もまた「テクスト」との間に転移関係を生む必要があるそうです。

批評家(カウンセラーや精神科)はテクスト(患者)を解釈します。その過程で、テクスト無意識が批評家に反復されます。つまり、批評家が解釈するとき、テクストは批評家に無意識的欲望を転移するため、互いに欲望を貸し合う状態だといえます。

そうして、「精神分析」ならぬ「テクスト分析」の実践が開始されます。

『夢の浮橋』の批評 山田広昭「テクストの無意識はどこにある」

『夢の浮橋』は谷崎潤一郎著の小説です。彼が73歳の時に書かれたものです。

今回の論文では、『夢の浮橋』は「転移された欲望、受け渡されたナルシズムの物語」と結論づけられています。

2つの謎

・誰が武(第二の母の子)の父親なのか

息子である「私」

・誰が母を殺したのか

おそらく「私」

作品のテーマ「分身」

・産みの母の分身としての第二の母の姿

・「私」の顔が父親と非常に似ている事実の反復

・武(弟)の顔が母に酷似している

キーワードは隠蔽欲望です。隠蔽欲望とは、主体にとってはるかに重要な意味を持つ記憶、抑圧された性的記憶や幻想を覆い隠したものです。

山本さんは、この用語をずらして、ある欲望が特別な鮮明さをもって現れることで、もう一つの別のより重要な欲望が露出してくることを隠蔽しているとみなしうる場合に、前者の欲望を「隠蔽欲望」と呼んでいます。

では『夢の浮橋』における隠蔽欲望とは何だったのでしょうか?

繰り返される母子相姦的欲望により覆い隠されている欲望。

それは「父の欲望」と呼ばれるべき、息子を自分の分身と設定することで現れるナルシズム色を帯びる欲望のことです。

息子に取り込まれるのはナルシズム的な欲望はそれ自体でした。

それゆえに、ある時点において欲望対象としての母は不要となり、むしろ阻害要因へと変化します。つまり、母を欲望するのは息子である私の欲望から発せられるのではなく、父のナルシズムによるものであるがゆえに、そのナルシズムがエスカレートすると、母の存在は不要になります。

ナルシズムは反復されています。そして、物語の終幕が「私」の独りよがりの理屈、すなわち、武が望んでもいないのに二人で暮らす選択を突き通して終わっています。

端折り端折って、このように『夢の浮橋』は「転移された欲望、受け渡されたナルシズムの物語」と結論付けられるわけですが、

ゼミ内で、この『夢の浮橋』がどのような小説なのかを結論づける必要がありました。

まず武という存在は母に顔が似ているため母のコピーだと考えられますが、私は離れ離れにされてしまった武を武の同意なしに引き戻します。次におそらく私は母を殺しています。

これらは父母>私の権力関係を逆転させる行動です。

なぜならば、主に父への抵抗が見て取れるからです。私は父親の思惑通りに母を欲望し、結果的に武をつくりますが、父親は私と武を遠ざけました。その武を連れ戻す行動は父への抵抗の表れです。さらに父のナルシズムに従うのであれば、母を殺すに至ることはないだろうと考えられます。

つまり『夢の浮橋』とは、私は武を引きずり戻すことで自らの帝国を築き上げることに成功し、父から転移されたナルシズムを私基準で高める物語なのではないか、と授業時間内にまとまりました。私基準というのは、もはや父のナルシズムのレベルではないということです。

しかし、「ぬるい!!」

ゼミ内でそんな声が聞こえてきました。解決したかのように思われた今回の議論も、もっと先にいけるのではないかと。たしかに、もっと先にいけたらよかったかもしれません。

ただ、ちょうど時間になってしまったので、今回はできませんでした。

別作品にはなってしまいますが、精神分析の回はまだ残っているので、作品への理解・解釈を深められたら良いなと思っています。

『夢の浮橋』は初めて読んだので良い体験でした。

正直、精神分析は理論として非常に興味深い一方で、作品批評に用いることは難しそうだなと感じてしまいました。それでも、夏目漱石『こころ』の精神分析の授業がまだ残っているので、その際にビビッとくるものがあれば、是非用いてみたいと思っています。

ここからは雑談です。

先日、名古屋までライブ目的で行ってきました。

何で行ったかというと、高速バスです。朝早くは嫌で、調べたところバスタ新宿を8時ごろに出発するバスがあったので、それに乗ることができました。

始めて使いましたが大学生の味方ですね、高速バスは。

乗るバスの種類にもよりますが、新幹線の半額かそれ以上に安いです。

8時ごろ出発して、少し道路が混んでいて14時前ごろに着いた気がします。

それで、何のライブに行ったかというと、水瀬いのりです。有名な声優さんなので、知っている方も多いかもしれません。

友人がファンクラブに入っていて、その友人が当ててくれた席はなんと6列目!爆音スピーカーが目の前にある状態で、振動と音量がヤバかったです。

それ以上にヤバかったのは、ステージ端の6列目だったので水瀬さんも近くまで来てくれました。目が合っていたのではないかと思います。楽しかったです。

大学生に入ってからライブに行く回数が確実に増えています。楽しいのは良いのですが、確実に耳が悪くなっています。(貯金もできないです)ライブ用の耳栓も売っているみたいなので、買ってみようかなとも思います。

それと矢場とんに行きました。矢場とんはみそカツで有名な飲食店です。

みそカツ食べたくてどこ行くか迷ったとき、矢場とんに行けば後悔しないのではないでしょうか。他の店を知らない白井ですが。

そのくらい美味しかったです。

飯テロしときます!

今回は以上です。ありがとうございました!

9期生第13回「なんのこっちゃの説明の中にも意思があるのです」

こんにちは、第13回のブログを担当します高山です。

夏休みこそはゆっくりする予定だったのですが、バイト先の塾は夏期講習だし、出るつもりのなかったサークルの本番に出演しなければならなくなってしまい、忙し人間から脱出できそうにありません。

というわけで時間がないので授業内容へ。

[前座]

前座では、これを機にそれぞれの呼び方を決めよう!ということで、それぞれ今までどんな呼び方をされてきたのか、どう読んでほしいか話していきました。

私自身は圧倒的に下の名前で呼ばれることが多く、どちらかと言えばその方がしっくりくるのですが、苗字で呼ばれる方がいいという人もいたり、だいぶ人それぞれだなぁと思いました。

その中でも白井くんが白井→白井健三の流れで派生して健二と呼ばれていたことがある話はめちゃくちゃ笑ってしまいました。実際の名前の要素が一つもないところが個人的にかなりツボだったのですが笑いすぎて後から申し訳ない気持ちになりました、すみません。(私に笑われると悲しくなるという人が一定数いるので)

では、本編に参りましょう。

[ポストコロニアル批評]

ポストコロニアル批評は、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』で提起された考え方が基盤となっています。

その考え方とは、西洋の帝国主義諸国が搾取と支配を正当化するために、第三世界に対しいかに誤ったイメージや定型化された神話をでっちあげてきたか という問題提起です。

ポストコロニアル批評の方法は大まかに二つ。

①植民地化された国や文化圏から生まれた文学作品を研究する方法

この方法では、「植民地主義による定型化への異議申し立てがどのようになされるか」「植民地主義の文化的影響からの脱皮がいかに図られているか」に注目します。

②帝国主義文化圏出身の作家が書いた作品において、植民地がいかに描かれているかを分析する方法

『フランケンシュタイン』の作者メアリは西洋出身のため、方法②を『フランケンシュタイン』に当てはめて考えてみます!

植民地支配をする人物をどう描いているか という観点で見ると、

植民地支配をする人物=クラヴァルと言えます。

これは、クラヴァルが少年の頃から「インドでの植民地建設と貿易の発展に貢献する」という「冒険的偉業への情熱」に駆られており、大学で東洋の語学・文学を研究していたことが理由として挙げられます。

つまり、クラヴァルが目指した「偉業」には植民地支配という帝国主義的侵犯要素が含まれていたのです。

しかし、クラヴァルはインドに出発する前に怪物によって殺されてしまいます。

⇒西洋が東洋を侵犯すると失敗する。

⇒『フランケンシュタイン』は東洋を支配しようとする西洋に対して警鐘を鳴らす作品

と読み解けます。

[新歴史主義]

新歴史主義が成立するまでには、以下の三つの考え方がありました。

歴史主義(20C前半):歴史は客観的であり、確固とした事実である とする考え方

ニュークリティシズム(1930~1950):作品と作家や時代背景とを切り離して、作品を独立した統一的有機体とみなす考え方

ニュークリティシズムへの反動(1970~):テクストの意味は読者とテクストとの相互作用だとする読者反応批評や、テクストとは内部矛盾をはらんだものだとするポスト構造主義など

⇒ニュークリティシズムへの反動では、歴史が文学と切り離されていましたが、再び文学研究に歴史を復活させたのが新歴史主義です。

新歴史主義では、

歴史=客観的事実ではなく、語り手が出来事に対し取捨選択を行い再編したもの

ととらえ、文学テクストと他の領域のテクスト(歴史資料など)の境界を取り払います。

世間一般で客観的とされている歴史を客観的でないと示すことで、歴史資料などと文学テクストが同じ土俵にいることを示すということですね。

ここで疑問として出たのが、間テクストと新歴史主義の違いは何か?というものです。

どちらも、他のテクストと関係がある という点では同じですが、

間テクスト:先行する文学テクストから影響を受けている

新歴史主義:同時代の異なる領域の考え方などが含まれている

という点に違いがあることが分かりました。

[ミシェル・フーコー『知への意思』]

かなり内容が難しく、書いているうちに何を言っているのかよくわからなくなりそうなので、フーコーが『知への意思』で何を明らかにしたかったのか先に述べておくと、「死の権力から生の権力がどのようにつくられていたか」ということです。

これを念頭においてこの先を読んでいただければと思います。

・性に関する歴史について

17世紀以降、人口を増やすことのできる夫婦の関係や、夫婦間の性的行為のみが正しいとされ、その他の性的欲望は抑圧されたと考える「抑圧の仮説」があります。

しかし、この時代以降、性に関する言説が増えていることから、フーコーはこれを否定し、

権力が性的欲望を抑圧したのではなく、性的欲望を言説化できる場所が限られたことによって沈黙が生じたのだと主張します。

・性の科学が打ち出される

フーコーはこの言説化する行為=「告白」という行為 としています。

性の言説は「告白」を通して科学的な知見と結びつけられ、真理を引き出すことができるとし、

「告白」と科学的な言説性の証明が交差する点で、「性的欲望」が存在すると定義されました。

→つまり、性が秩序だった知の体制のなかに登録された ということだと思います。

・性的欲望の装置が使われる

そして18世紀以降、権力は性的欲望を道具として使い、「性的欲望の産出」がなされました。

・死に対しての権利と生に対する権力

この権力ですが、君主制など古典主義以前の権力は、死に対しての権利(生殺与奪の権)でした。権力を裏付けていたのは「血」(血筋など)だったからです。

それが近代の権力になると、国民を資本主義国家の生産力の一員として緩やかに拘束・管理する「生-権力」へと変化しました。

それにより、「性的欲望の装置」が権力の中で大きな意味を持つようになったのです。

以上、第13回の内容でした。

私の説明が下手すぎて、これをお読みになっている方はなんのこっちゃという状態になっていることが想像できますが、私自身もなんのこっちゃという感じです。

ニュアンスまみれであいまいなこの文章が授業内容とあっていることを願いつつ、今回はここまでとさせていただきます。

では!

8期生第7回 語り「プロップ信者としては何としてでも新しい解釈を発見したかったなどと供述しており」

こんにちは、8期生の齋藤です。タイトルがバカ長くてほんとすみません。その代わりに(?)、前書きはあまりせずに内容紹介に入っていこうと思います!

まあぶっちゃけおもしろいネタが思いつかなかっただけです(正直)。

今回は、「語り」について学んでいきました。

ストーリーの語られ方は、無数の中から重要な出来事のみを抜き出して、最も意味深く面白くなる順序になるように並べることだそう。今回のゼミではそんな語りの方法・戦略を、名作映画『テルマ&ルイーズ』を批評テクストとして見ていきました。

○映画の語りの戦略

数々の映画では、観客を謎で引っ張り、情報を小出しにすることで謎への興味を持続させています。例えば今回のテクストである『テルマ&ルイーズ』では、ルイーズがつらい経験をしたという情報を小出しにすることで、「何があったの?」と謎で引っ張っていますね。

○ネガティブ→ポジティブの語り

『テルマ&ルイーズ』では……

・テルマが主体性を獲得した

・支配的な家庭にいたテルマが旅に出る

などがあります。

ただ、逆のポジティブ→ネガティブの語りもあります。

『テルマ&ルイーズ』では、バカンスしていたテルマが男に乱暴されそうになるシーンがその一つです。このシーンは序盤も序盤で、主人公二人の逃走劇の始まり。最初からハラハラさせられる展開ですが、この事件があるから『テルマ&ルイーズ』が動き出していくわけですね。

人生山あり谷ありといいますが、このように映画の中ではネガティブ→ポジティブ、ポジティブ→ネガティブの語りが効果的に使われています。

○プロップの31の機能

語りの方法には、このゼミではお馴染みになりつつある「プロップの31の機能」も紹介されています。31の機能をずらずらと並べるのは尺の都合で遠慮を……とも思いましたが、レポートを書くときに自分がコピペできるように記しておこうと思います。

1 家族の一人が家を留守にする (不在)

2 主人公にあることを禁じる (禁止)

3 禁が破られる (侵犯)

4 敵が探りをいれる (探りだし)

5 敵が犠牲者について知る (漏洩)

6 敵は犠牲者またはその持ち物を入手するために、 相手をだまそうとする (悪計)

7 犠牲者はだまされて、 相手に力を貸してしまう (幇助)

8 敵が家族のひとりに、 害や損失をもたらす (敵対行為)

9 不幸または不足が知られ、主人公は頼まれるか、命じられて、派遣される(仲介・連結の 契機)

10 探索者が反作用に合意もしくはこれに踏み切る(始まった反作用)

11 主人公は家を後にする (出発)

12 主人公は試練をうけ、 魔法の手段または助手を授けられる (寄与者の第一の機能)

13 主人公は将来の寄与者の行為に反応 (主人公の反応)

14 魔法の手段を主人公は手に入れる (調達)

15 主人公が探しているもののある場所に運ばれ、 つれて行かれる(二つの王国間の広が

りのある転置、 道案内)

16 主人公とその敵が直接に戦いに入る (戦い)

17 主人公が狙われる (照準)

18 敵が負ける (主人公の勝利)

19 初めの不幸または欠落がとりのぞかれる(不幸または欠落の除去)

20 主人公は帰還する (帰還)

21 主人公は迫害や追跡をうける (迫害、追跡)

22 主人公は追跡者から救われる (救い)

23 主人公は、気付かれずに家または他国に到着する (気付かれない到着)

24 偽の主人公が、 根拠のないみせかけをする (根拠のないみせかけ)

25 主人公に難題を課す (難題)

26 難題が解かれる (解決)

27 主人公が気付かれる (判別)

28 偽の主人公や敵、加害者が暴露される (暴露)

29 主人公に新たな姿が与えられる (姿の変更)

30 敵が罰される (罰)

31 主人公は結婚し、即位する (結婚もしくは即位のみ)

現代の映画の中でもこの31の機能を用いる作品もありますが、 一人の英雄の力や美徳を祝福する形をとらないものをもちろん存在します。 リアリティを出すために主人公に欠点が与えられ、時間による進歩もないような作品もまたある、とのことです。

○断片化された語り口

語りの戦略として、「断片化された語り口」についても学んでいきました。その特徴として、

・別々の人物の視点で語られる

・同じ人物でも別の時間軸で語られる

などが挙げられます。

このような語り口は、通常の物語性の中で一貫性に変化を加える効果があり、登場人物の行動は「時として自身の意図を超えてしまう」とのこと。

○『テルマ&ルイーズ』の批評

ゼミの後半ではいつもと同じく、今回取り上げたテクストである『テルマ&ルイーズ』の批評をしました。毎回、テクストを「この映画は○○という映画だ」と言えるようにするのが目標。

元々『テルマ&ルイーズ』は色々な解釈がされており、

①男性がしきる生権力に屈した(処刑)

②当時の社会の規範からの脱出

③シスターフット 女性同士の絆を作った

といった考え方があります。

これも踏まえ、8期生ゼミでも独自の答えを見つけようと取り組みました!

○『テルマ&ルイーズ』はプロップの31の機能に当てはまる?

今回「語り」でプロップの31の機能をさらったこともあり、本作をその31の機能に当てはめてみよう!ということになりました。そこで、以下の二通りで解釈することができるとわかります。

①結婚や権力、メキシコへたどり着くことを成功報酬とするなら×

②自由を成功報酬とするなら○

詳しくは以下の通りです。

①「メキシコにたどり着かなかった」ネガティブ解釈

 旅をする→敵対者(警察)と闘う(逃亡する)→逃げきれず崖から飛び降りたから二人が敗北→二人はメキシコ到着という報酬を獲得できなかった

②「自由を得た」ポジティブ解釈

 旅をする→敵対者(警察)と闘う(崖から飛び降りる)→警察は二人を逃がしてしまったので敗北→二人は自由・解放を獲得

ですが、ここで疑問が出てきます。なぜプロップの31の機能を当てはめるとき、二通りの解釈ができるんでしょうか?

その問いに対して8期生が出した考察が、以下の通りです。

プロップは「男性主人公が冒険して成功を収める」という、男性的な成功譚です。従来プロップの途中で終わる物語は成功していないと解釈されます。

しかし、本作はそこに「自由を獲得する」というプロップに沿ったもう一つの筋が織り込まれています。構造が二重化されているんです。

その二重化された構造によって、『テルマ&ルイーズ』は「男性的な成功譚」を壊すのと同時に、プロップの構造主義的な絶対性の瑕疵をあぶりだすことができています。

つまり、批評理論的に言うと……

『テルマ&ルイーズ』は、ポストモダン的構造主義の作品。

語りの「自身の意図を超えてしまう」という言葉は批評にさえ通用するということですね。

あくまでこの批評は一つの解釈にすぎませんが、「どんな作品なの?」という問いに語りの手法を絡め、綺麗に決着をつけられたと思います!

私はプロップ信者(?)なので、プロップの31の機能の新たな応用の仕方が見つけられて嬉しい限りです。笑

長くなったのでここらへんで。ご拝読ありがとうございました!

9期生第8回「白井はカーニヴァルへと赴いた」

こんにちは!

今回のブログを担当する白井です。今回の授業後、緑黄色社会のライブに行ってきました。

おかげで授業の記憶が気持ちよく塗り替えられてしまっています。

それでは早速

『シライの日常』という漫画があったとして、物語内のシライがブログを書いているとします。

そんなとき「明日のゼミの文章読み切れてないから、ブログ書かずに逃げちゃってもいいかな?みんなはどう思う?」と漫画の枠を超えて読者に向けて言っちゃったとします。

これがメタ発言。

そんな発言をしちゃったとしても、

「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ! -やります 僕が書きます!」とシライの心が叫んでいる。

これが間テクスト性。      

※この物語はフィクションです

これで第8回の半分を書き終えたようなものです。

自己紹介が苦手なので、挨拶はここらへんにして、お二人のレジュメを頼りにしっかり書き上げていきたいと思います。

前座

授業内容に入る前に前座!

前座はヤンさんでした。ヤンさんはミュージカルが好み。

そんなヤンさんが紹介してくれたのは『イン・ザ・ハイツ』です!

『イン・ザ・ハイツ』は移民をテーマとしたミュージカル映画だそうです。

どうやらミュージカル版『イン・ザ・ハイツ』があるようで、そこから今回紹介してくれた映画版『イン・ザ・ハイツ』が生まれたみたいです。単純に映像美的な面でも面白いそうですが、ストーリー的にも面白いそうです。

自分は見たことがないのですが、温かさとパワーで溢れる映画なのかなと前座を聞いていて思いました。休暇中に見てみたいと思います!

3限

「間テクスト性」

文学テクストとは、常に先行する文学テクストから何らかの影響を受けており、孤立しているものは存在しない→そのテクストと他の文学との間にある関係性=間テクスト性

ジュリア・クリステヴァによると、あらゆるテクストは他のテクストを吸収し変形したものとされます。そして、作品のなかで作者は、先行作品について言及したり、意識的、あるいは無意識のうちにそれについて仄めかしたりします。

『フランケンシュタイン』における関テクスト性を少し確認してみましょう。

作者メアリーに身近の作品の内容や人物像と物語の構成で共通点がみられます。

たとえば、『アラスター』(1816)・ピグマリオン伝説・ファウスト伝説は主人公フランケンシュタインの人物像の原型と考えられるようです。

また『ドン・キホーテ』(1615)は社会から離れることで生まれる悲劇的破局へと向かう点で共通しているようです。

間テクスト性は絵画など他の芸術作品にも現れます。つまり、先行するテクストは文学作品には留まりません。

例として絵画「夢魔」があげられているのですが、苦戦しました。エリザベスが殺害されたシーンを読めば、「夢魔」が浮かんでくるそうなのですが、「夢魔」との関わりが薄い私たちにとって理解しづらい部分。その意味で間テクスト性においてやはり読者が重要となるのだと実感しました。

読者が「夢魔」がどのような絵であるかを社会や思想的な位置づけのレベルで認識している必要があり、同時にそれを読み解かなければこの「夢魔」の間テクスト性を理解しきれません。

そう考えると、「夢魔」が間テクスト性を備えているのではなく、「夢魔」に対する認識にこそ間テクスト性があるのではないでしょうか。

「メタフィクション」

メタフィクションとは語り手が前面にきて読者に向かって、「語り」自体について口上を述べるような小説。もちろん小説にかぎらず創作物全般に当てはまります。

『フランケンシュタイン』におけるメタフィクションをみていきましょう!

と言いたいところですが、『フランケンシュタイン』は枠物語の形式をとっているものの、厳密にいえばメタフィクションではないです。

しかしメタフィクション的な要素はみられます。

まず「語りについての語り」です。フランケンシュタインの語りを包括しているウォルトンの語りにおいて、編集方式や語りに対する言及があります。手紙を書くウォルトンが、どんな状況で書いているのかをウォルトン自身が説明してくれているということです。

次に「真実と語りとの距離」です。読者が目にするフランケンシュタインの物語はフランケンシュタイン→ウォルトン→フランケンシュタインという順番でテクストに手を加えられたものです。つまりウォルトンによる編集版とフランケンシュタインによる修正版が存在し、真実にいくつものフィルターがかけられてしまっています。

このように真実と語りには距離があり、これらによって物語があくまでもフィクションであることを暗示しています。

ではメタフィクションとは?

メタフィクションはジュラ―ル・ジュネットの理論で言い換えるならば「転説法」です。

転説法とはメタフィクション!

転説法の説明通りにいえば、語り手(および聴き手)が位置づけられる世界と物語世界(水準)との関係を扱うものを語りの水準といいますが、その語りの水準の境界を侵犯して登場人物が語ることを指します。

劇場版名探偵コナン『迷宮の十字路』のOP説明には明らかな転説法が使われているらしく、服部と和葉が言い合っている中で

和葉「アホは あんたやん 誰に向かって しゃべってんの?」

それに対して服部「誰って お前… 見てるみんなに 分かりやすう しゃべってんやないかい」と発言します。

この流れの中で服部は誰に向けて話しているでしょうか?

正解は和葉!

だけではないです。

そうです、和葉だけではなくこの映画をみている観客に向けても話しています。

プリキュアの映画もかなりメタフィクションのようです。

劇場で応援ライト(ミラクルライト)を受け取るらしく、プリキュアがピンチに陥ると、「プリキュアに力を!」や「ミラクルライトで応援して!」とプリキュアが観客に呼びかけるようです。

このメタ発言を受け取った観客は、ライトを振りながら全力で応援するわけです。

楽しそうですよね。

しかしここで問題が発生。

なんと、ライトが貰えるのは中学生以下らしく、ライトを受け取れない大人たちは全力で心の中で応援するそうです。

ライトが無くても心でつながっているなんてカッコ良いっす!

それでも必要だと思う人は自前のライトを用意して臨むそうです。覚悟が違いますね。

この話は置いておいて、

メタフィクション全体に関わる問題があります。それは「メタフィクションが興醒めな効果を持ってしまわないか?」ということです。

メタフィクションは物語の世界を侵犯して、語りかけてくることがあるために、そのフィクションの捉え方が良い意味でも悪い意味でも変化します。

個人の解釈が伴う部分であり、一概には言えませんがプリキュアのようなタイプの作品であれば問題がないのではないかと思います。

プリキュアのような状況だったら、呼びかけに応じてフィクション世界の一人としてプリキュアを応援しているかたちになり、他人事ではなくなります。このとき、より一層プリキュアと観客の心は通じ合うのではないでしょうか。(もはやプリキュアの一員まである)

メタフィクションが受け入れられるかどうかは作品の雰囲気にもよるかもしれないです。

3限はここらへんにしておきます。

4限

4限はジュリア・クリステヴァ『セメイオチケ1』です。セメイオチケとはギリシア語で「記号論」という意味になるようです。

クリステヴァはバフチンを褒めまくります。

そして次にクリステヴァは「言葉のあり方」という概念を導入して、「相互テクスト性」という考え方を提唱します。

「言葉のあり方」とは、以下のように定義できます。

まず水平的にみれば、テクストにおける言葉は、書く主体とその受け手との両方に属しています。

次に垂直的にみれば、テクストにおける言葉は、それに先立つあるいは同時点の文字資料の全体へと向けられています。

テクスト上の言葉は、「共時的」に見れば作者と読者それぞれの解釈があり、「通時的」に見れば他の様々なテクストと相互に影響を及ぼしあっているということです。

「作者」と「読み手」の間で、「先行するテクスト」と「テクスト」の間で、それぞれ相互作用によってテクスト上の言葉は理解されていきます。そしてこの部分に「対話」が存在しています。

その相互作用では、相反する考え方や価値観がテクスト空間の中で共存し(どれも排除されない)、対立しながらも相互に影響を与えています。

これについて発表者の高橋さんがナイスな例をあげてくれています。

「人生はチョコレートの箱のようなもの。開けてみるまでは何が入っているかわからない」で有名な映画『フォレスト・ガンプ』の解釈です。

知能の低い少年の人生を温かく描いた、すべての人間を応援する優しい映画⇔反知性主義的で国を疑わない白人男性の主人公を描いた白人至上主義映画

というように

これらは相反する解釈なのですが、相反する考え方や価値観がテクスト空間の中で共存し、対立しながらも相互に影響を与えるからこそ、生まれる解釈でもあります。

「作者」と「読み手」の間

「先行するコンテクスト」と「テクスト」の間

この2つの軸がそれぞれで「対話」あるいは「対立するものの併存」が起きているのであれば、0から生み出されたテクストなんてものは存在せず、あらゆるテクストは何らかのテクストから影響を受けています。

「詩の言葉は、多面的な結合が可能であり、多面的に決定されていることによって、コード化された言説(ディスクール)の論理を凌駕する論理に従っている。」

その論理を研究するためにバフチンはカーニヴァルへと赴いた。

カーニヴァル?カーニヴァルとはなんでしょうか?

カーニヴァルの規範は「通常」の生の規範と対立します。カーニヴァルに投げ込まれたとき、それまでの通常世界の秩序に適合して「正しく」生きてきた人間は従うべき「正しさ」を失います。無秩序が秩序らしいです。

つまりカーニヴァル世界において、通常世界の構築された生の規範は通用せず、身分や宗教観、価値観など異なる人々と同じ空間で接触、すなわち、対話するということです。

文法や意味によって厳しく拘束された一義的な法則や「認識」といったものを凌駕するためにはダイアローグ的・多義的な論理が必要となるわけですが、バフチンは「対話」が絶えず行われる「カーニヴァル」を最適な場として考えたのではないか、ということでした。

カーニヴァル内では、文法と意味によって厳しく拘束された言語を支配する法則を破っています。それによって社会的、政治的異議申し立てなっているのではないかと考えられます。

このように多様な声がぶつかり合うカーニヴァルは、決まりきった言説を転覆させる場として最適だったのでしょう。

話が変わります。

「言葉のあり方」という概念を用いたことで、言葉が「対話を交わしている」あるいは「対立しながら併存している」要素の集合として三つの次元(主体—受け手―コンテクスト)において機能しています。

そうして言葉の特有の働きを記述するためには「言語学を超えた言語研究の方法」が必要となります。

その方法は以下の通り。

  • 文学のジャンルを、「言語の下にあるが、かならず言語とともに意味を表す」という不純な記号体系として捉えること
  • 言説の大きな単位、つまり文、応答、対話などによっておこなわれる操作・意味論の拡張という原理によって根拠が与えられる操作

ここから、文学のジャンルの進化はいずれも、言語構造をさまざまなレヴェルで無意識のうちに外在化することである」という仮説が立てられます。

文学ジャンルや表現の仕方は、時代や文化によって変化していきます。

ここでも高橋さんのナイスな例があげられています。

文体が変化したり、「ヤバい」「エモい」などの新しい言葉が使われるようになったりしますが、そうした言語構造の変化を、文学はとても「自然に」(無意識のうちに)取り入れています。

そして小説は、とくに言語に内在する対話を外に表わしています。

言葉に内在する対話(ダイアローグ)とは何なのか?

バフチンにとっては「対話」と「独話」の区分がフォルマリストたちの区分(直接話法が「独話」、間接話法が「対話」)のようなシンプルなものではないようです。

物語の中の独話的な一人称の独り言であったとしても、読者は作品全体や当時の社会全体の文脈のなかでその言葉を理解するので対話的。

一方で、物語の中の他者との対話的なコミュニケーションでも、その中の一人の視点・捉え方でのみ、そのコミュニケーションが描かれてしまったら独話的。

その意味でバフチンは完全な独話・対話は存在しないと訴えているようです。

バフチンによると対話関係が言語活動それ自体に内在しているようです。

言葉というものは一人の思考や表現から成立するものではなく、常に他者とのコミュニケーションによって成立します。その言葉を扱うのが言語活動であるために、対話が内在していると考えられるのでしょう。

バフチンの想定する対話関係は、主体性としてと同時にコミュニケーションの可能性としてのエクリチュール(書かれたもの)、すなわち、「間テクスト性」としてのエクリチュール(書かれたもの)です。

このような対立関係に突き合わせるとき、「個人=エクリチュールの主体」という考えは明確さを失いはじめ、もうひとつの考え、すなわち「エクリチュールにある対立するものの併存」という考えに場を譲り渡します。

本来エクリチュールというものは、単に書かれたものであり、主体=個人が使っているように思えるエクリチュールであっても、他者からの言語を使っています。

この考えに基づけば、

「作者」と「読み手」の間、「先行するコンテクスト」と「テクスト」の間という併存につながるのではないでしょうか。ここ自信ないです。

ここからは余談です。

白井はカーニヴァルへと赴いた。

カーニヴァル?カーニヴァルとはなんでしょうか?

ゼミの議論でもあがったのですが、社会学者のデュルケームが提唱した「集合的沸騰論」がカーニヴァルに似ているということでした。

集合的沸騰論は、緩んでしまったつながりを祭事によって改めてつなげ直すという考えです。お祭りにかぎらず、音楽ライブやスポーツ観戦なども集合的沸騰に当てはまります。

一方で、カーニヴァルは先述したように、通常規範から逸脱し無秩序世界の中での対話が行われる場です。

というわけなのですが

音楽ライブというカーニヴァルに投げ込まれた白井は、「正しさ」なんてものは失い、無秩序の中で対話していた気がします。

もうこれは、「白井はカーニヴァルへ赴いた。」と言ってしまっていいのでは?

これが言いたいだけのタイトルです。

タイトルを決めるのって難しいですよね?自分だけですかね……

作品とか商品とかってタイトルだけで大分印象変わっちゃうと思っています。

タイトルだけで引かれちゃうやつありますよね、惹かれちゃうやつもありますよね、特に知らない人からしたら。

カーニヴァルから帰還した白井は記憶が定かではありません。もちろんライブは素敵でした。

お二人のレジュメに助けられました。ありがとうございます。

第8回は以上です。ありがとうございました。

9期生第7回 みんな、赤毛のアンになってみない??

こんにちは!

第7回のブログを担当する、宮澤です!今回は、ヴィクトール・シクロフスキーの『手法としての芸術』、特に異化についてご紹介していきたいと思います!

では、早速今回の主題に入っていきましょう!!!

と言いたいところなのですが、、、

まずは、2週間以内に投稿できなかったことのお詫びを。

セルフガチサーしてる2回目担当高山さんのように、特殊な事情を抱えているわけではないのですが、何分忙しく、、、面目ない。

ということで、言い訳がましく始まった第7回目のブログですが、改めて宮澤水月が担当します!

あっ、今「みずき」って読んだ人いますよね?笑笑

実は、水月は、みずきではなく、みつきと読みます。自分で言うのもなんですが、珍しいし良い名前です。今まで、水月と書いてみつきさんに会ったことがないのが、密かな誇りだったりします。(他に同じ名前の人がいても、絶対言わないでくださいね。傷つくから!)

ちなみに、猫2匹、人間2匹と暮らしている、実家住み系女子です!アニメと飯と睡眠さえあれば生きていける、ぴちぴちの20歳です。(猫も必要ですね)

まぁそんなところで、特に自己紹介できるネタがなくなったので、授業内容に入っちゃいます笑

では、気を取り直して、授業内容にレッツらゴーです。

ー--ー----ーー

    反復

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今日のテーマ異化に入る前に、ちょっと違うテーマを。3限の授業で取り扱った反復について、ご紹介しておきます。

反復とは?読んでそのまま、同じことを繰り返し行うことです。

物語内の反復ってほんと多種多様で、筋や出来事、場面、状況、人物、イメージ、言葉など、使われ方は無限大だったりします。『フランケンシュタイン』の物語内でも、随所にみられる表現です。

例えば、最も頻繁に繰り返される「死」という出来事。『フランケンシュタイン』では、登場人物が次々に悲惨な死を遂げるという反復が起こっています。また、怪物の殺しの手口は、いつも絞殺で犠牲者の首に指の跡がつく様子が、3度も描写されています。残酷(´;ω;`)

さらに、言葉が反復されることもあります。例えば、「鍵盤がひとつ、またひとつとふれられた。弦がひとつ、またひとつかき鳴らされた。やがて私の心は、一つの思い、ひとつの概念、ひとつの目的で満たされた。」など。ひとつという言葉を何度も繰り返すことで、フランケンシュタインの熱烈な思いを表現しているんですね。同一語や類語が全編にわたって反復されてたり、同じ文章表現を違う登場人物が繰り返すなんてパターンもあります。

その他にも、deep,dark,deathlike,solitudeのように頭韻での反復や、月・海・湖・雨・雷といったイメジャリーの反復もあります!

つまり、『フランケンシュタイン』では、色んなレベルで反復が起きていると言えます!

反復は、言葉や場面の強調、さらには物語全体の統一性を持たせるために必要な要素です。反復が、『フランケンシュタイン』の作品としての魅力をマシマシにしてくれているんですね~。

ー--------ー

    異化

ー--------ー

お待たせしました!いよいよ、今回の主役の登場なり!

異・化です(^ω^) よろしくね。

まず、異化って何やねんっていうところから。

異化は、普段当たり前だと思っているものを異なるものにしちゃおうぜって考え方のことを指します。異化は英語で、defamiliarization。発表者の白井君が、de(離れる)+familiarization(慣れ親しませること)→ 当たり前と離れる、非日常化という風に考えると分かりやすいよ~、と教えてくれました!

もうちょっと砕いた表現をすると、物事をいつもとは違う角度から見てみようやーってことですね。

次に、異化が生まれた経緯には、『手法としての芸術』の著者であるヴィクトル・シクロフスキーさんが深くかかわっています。そう、彼こそが異化の生みの親なのです。

シクロフスキーさんが言いたいことは主に3つ。

・象徴主義への批判

・芸術は、直視(見ること)のレベルで物事を感じさせること

・自動化に対抗するには、異化

です。これだけ見ても、???って感じだと思いますので、異化という考えが生まれた流れをもうちょっと見ていきますね。

まず、当時は象徴主義的な詞が流行しておりました。象徴とは、抽象的な概念を具体的な事物に置き換える技法のことを指します。

そこで、シクロフスキーさんは象徴主義に対して批判しだすんですね。お前らの言う詩ってやつは、芸術などではないぞ!という具合に。

彼は、イメージが先にあって芸術が生まれる=手段としてのイメージだけが、芸術の在り方ではない。強い印象を生み出す=詩的イメージこそが、芸術なのだと主張します。※ここでのイメージは、比喩的形象のことを指す。

なるほど。んー----、分かりにくいですね。

さらに言い換えると、

今までは、抽象概念を具体的事物に置き換えるという、普段使っている日常レベルでしかない、上澄みの詩が芸術的だともてはやされてきた。けど、そうじゃない。できるだけ、強い印象をもたらす詩こそが芸術的だと主張したということです。

いや、強い印象って何やねん!!って突っ込みたくなりません?笑笑

ここで、例の異化が登場してくるわけです。

シクロフスキーさんは、私たちの知覚は、習慣化していくのと同時に自動化されてしまうと主張します。そして、彼はこの自動化を否定的に捉えます。

皆さん、朝起きたら何しますか?まずは、歯を磨いて、トイレいって、水飲んで、顔洗ってみたいな基本的なルーティンありません?別に、歯を磨きながら、「俺スゲー。今歯磨いちゃってるんだ。てか、歯磨くって何?歯ブラシって何?」とか思いませんよね笑笑 しかし、彼にとっては、歯磨きを何の違和感もなく、習慣として行っている私たちの日常行為こそが、習慣化、自動化された否定すべきものなのです。

彼は、こう思います。習慣化され、自動化されてしまうと、人間の知覚も鈍ってしまう。当たり前を当たり前だと認識し、事物を見慣れたものとしてスルーしてしまうと。(例えば、石が落ちていても、普通はスルーして歩きますよね。いちいち、一個ずつ拾って、これが石というものなのかと感銘を受けたりしないと思います。これが、シクロフスキーの考える自動化、スルーにあたります)

でも、スルーしちゃダメなんだ!何も感じない人間も、何も感じ取らせない詩も、そんなんは芸術じゃなー----------い!!(^ω^)

そして、芸術は、直視(見ること)のレベルで物事を感じさせること。石の石らしさを鮮烈に感じ、「生の感覚」を感じることこそが芸術なのだと主張しました。つまり、事物をスルーせず、一回一回立ち止まり時間をかけて、事物のそのものらしさを「生の感覚」を取り戻さなければならないということです。人々に「生の感覚」を取り戻させる手法こそ、異化という芸術であり、人々を立ち止まらせる異化を使用した詩こそ芸術であると、彼は主張しました。

そんなこんなで、別の視点を通じて当たり前を崩す手法として、異化が爆誕したのです。オメデトウ\(^o^)/

異化とは、実際どのように使われているか?『フランケンシュタイン』を通じて少しだけ見てみましょう。例えば、怪物が初めて人間を見たときに「今まで見たことのあるものと違う」と表現し、異星人が地球人を見るような視点で、人間を捉えます。また、怪物は、夜の闇を「暗い不透明のかたまり」、鳥を「羽のある小さな生き物」と表現します。事物の名称や人間すら知らない怪物の視点を借りて、世界に存在する一つ一つのものが、新鮮に捉えなおされている。これこそが、異化です。

以上、異化の説明はここまでになります。個人的に、シクロフスキーめちゃくちゃ難しくて。上手く伝わるブログになっているか、とても不安です。伝わってると嬉しいな、、、

余談ですが、異化が色濃い作品って、赤毛のアンなのかなって思います。あれって、結構日常ものなのに、なぜか面白いんですよ。その理由が、アンの視点を通じて、異化が多用されているからなのかなと改めて思いました。日常の中でも、アンという一風変わった女の子の視点を借りることで、異化した世界を見ることができるから楽しいのではないかと。むしろ、日常的なお話だからこそ、アンの異化ってる度合いが癖になるのかもしれません。まあ、なかなかアンみたいな感受性を持つことは難しいですよね笑笑

それでも、苦しいときや辛いときに、日常を少し異化してみると、救われるのかもしれないと思う今日この頃です。行き詰ったときでも、異化してみたら違う世界が見えるかも。

そゆことで、皆様もぜひ、異化ってみない??アンになってみない??

ここまで、ブログにお付き合いいただきありがとうございました!また、お会いできることを楽しみにしてます!じゃあねっ★

9期生第6回「もしかしたら私もドストエフスキー小説の主人公かもしれない」

はじめまして。第6回ブログ担当のヤンです。

簡単に自己紹介させていただきます。

ヤン・スビンです。ヤンが苗字で、スビンが名前です。

名前から分かるかもしれませんが、出身は韓国です。日本に来て450日目、孤軍奮闘しています。(笑)

趣味は映画とドラマを見ること、本を読むこと、音楽を聴きながら散歩することなどです。推理小説やドラマが大好きです。

昔クラシック音楽をやった経験があるのでクラシック音楽が好きで、その中でもオペラが一番好きです。オペラお好きな方がいらっしゃるか分かりませんが、もしいらっしゃったらいつでも声をかけていただければと思います。

それでは第6回の授業内容の振り返りに入ります。

3限「声」「イメジャリー」

第9節 「声」

声が物語の中でどう表現されるのかについて廣野さんは主に2つに分けて説明しています。

モノローグ的

:作者の単一の意識と視点によって統一されている状態。自分の考えを自分の視点で話すことが該当する。

ポリフォニー的

:多様な考えを示す複数の意識や声が、それぞれ独自性を保ったまま互いに衝突する状態(第7節「性格描写」の「立体的な人物」を表す。)

ここで桃太郎の例を挙げると、

昔話の「桃太郎」:モノローグ的

芥川龍之介の「桃太郎」:ポリフォニー的

だとも言えます。

  • 昔話の桃太郎では善と悪が戦う二項対立が現れるので、「善」という正義が「悪」を勝つという作者の考え方と視点が入って、桃太郎という登場人物で統一される : モノローグ的
  • 逆に、芥川龍之介の「桃太郎」では鬼の立場を入れることで、多様な考えを示す複数の意識や声が、それぞれ独自性を保ったまま互いに衝突する状態を作っている:ポリフォニー的

第10節 「イメジャリー」

イメジャリーとは、ある要素によって、想像力が刺激され視覚的映像などが喚起される場合、そのようなイメージ(心象)を喚起する作用のこと、または、イメージの集合体です。

ここでフランケンシュタインにおけるイメジャリーを考えると、主に2つの例が挙げられます。

  • 月:物語の中で重要な出来事が起こるとき、しばしばその前後に「月」が描写される。これは強烈な視覚映像を生じさせると同時に、何か別のものを暗示する象徴になる。
  • 水:湖や海などが「死」を象徴する場として描かれる。そしてメタファーとしても、フランケンシュタインが自分の運命について語る時、川に喩えて自分の破滅について比喩的に示す。

ここでイメジャリーを主に5つの分類に分けられます。

  1. メタファー(隠喩):あることを示すために、別のものを示し、それらの間にある共通点を暗示すること。(ex)夏空に浮かんだ綿菓子=雲)
  1. メトニミー(換喩):ある事物を、その属性と密接な関係がある他の単語を借りて表現すること。(ex)黒帯-有段者、やかんが沸騰している-でも実際沸騰しているのはやかんの中の水)
  1. シネクドキ(提喩):物事の一部として全体を、または一言でそれに関連するすべてを表すこと。(ex)お花見-桜を見ること-多くの花の中で「桜」を思い浮かべる)
  1. 象徴:特に類似性のないものを示して、連想されるものを暗示すること。(ex)ハト-平和(別に関係ないじゃん))
  1. アレゴリー:具体的なものを通して、ある抽象的な概念を暗示し、教訓的な含みを持たせること。(ex)イソップ寓話-ある童話を通して我々に教訓を与える)

4限「ドストエフスキーの詩学」

フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(1821年~1881年)は19世紀ロシアを代表する文豪で、著作としては『罪と罰』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』『白痴』などがあります。彼の著作は「現代の予言書」と言われています。

このドストエフスキーさんを研究して今日扱うテクストを書いたのは、ロシア(ソ連)の文芸学者であるミハイル・ミハイロビッチ・バフチン(1895年~1975年)さんです。

バフチンはこのテクストの中で「詩学」を、狭義の詩に関する理論ではなく、言語芸術の創作において題材、ジャンル、プロット、文体等の選択を支配する、作者の創作姿勢の全体を意味ものだと言っています。

[真のポリフォニー]

批評家たちは、ドストエフスキーの登場人物と対峙し、登場人物のイデオロギーを評価しようとしました。ここで批評家たちがイデオロギー的な側面に注目した理由は、イデオロギー的なのがドストエフスキー作品の特徴であり、彼が作家にさえ反旗を翻す能力を持った自由な人間たちを創造したということ、つまり真のポリフォニーを意味します。ドストエフスキーの主要人物は、作者が登場人物に何かをさせる(客体)のではなく、登場人物が自ら思想を持って行動する(主体)ことでした。彼の小説で登場人物たちは自主性を持って主体的に動きながら物語を進行させ、その点で伝統的な小説とは違うと言えます。

バフチンはここで、他の批評家たちがドストエフスキーの小説の中で登場人物という個別のイデオロギーに注目しすぎて、ドストエフスキーの芸術的特徴に気づいていないと批判します。そして、彼を作家であり芸術家だと表現します。

*バフチンが考えた芸術性は、以前にはなかったスタイルである「自由な登場人物で物語を作っていく」という新しいスタイルを作り出したこと、芸術家として小説の新しいジャンルを開いた開拓者(pioneer)という意味で芸術性が高いと言ったのではないかという議論を授業中に交わしました。

[ポリフォニー小説の創造者ドストエフスキー]

ドストエフスキーの作品は文学史上どの図式にも当てはまらない独自性を持っており、彼を「ポリフォニー小説の創造者」だと言えます。

従来のヨーロッパの小説が

  • 主人公の性格造形は、作者の客観的なイメージに従う
  • 作者の声のメガフォン
  • ストーリーが既に存在し、そのストーリーに合わせて登場人物の性格や行動を作者が決める

という特徴を持っていると言うと、ドストエフスキーの小説では

  • 登場人物の声が極度の自立性を持つ
  • 作者の言葉と登場人物の言葉が肩を並べる
  • 登場人物がいてストーリーが完成される、つまり、登場人物>物語の筋書き

という特徴があります。

また、モノローグ小説の結末が決まっていることが多く、すでに予想が可能な場合が多いのに対し、ポリフォニー小説では人物によって物語が進み、どうなるか予想できないという特徴があります。

そういう意味で、ドストエフスキーが創造したポリフォニー小説の構造は特殊だと言えます。

以上、第6回の内容でした。

ここまで読んでくださった皆様、ありがとうございます!

9期生第5回「近代の産物、“猫に餌をやるヤンキー”」

初めまして。今回のブログは柴田が書かせて頂きま~~~す!

~性格描写~

文学はキャラクターが命!というわけで本日扱った最初のテーマは「性格描写」。

突然ですが「二面性のあるキャラ」っていいですよね。

「ヤンキーが野良猫にこっそり餌やってた!」「優しい糸目キャラが開眼したらメッチャ怖かった!」

こういった「多面性」がキャラに深みを与えてるんではないかなと思います。

ですがなんと、このようなキャラクターが持て囃されるようになったのは近代以降!

割と最近なんですね。

ところで近代といえば…

_人人人人人人人人人_

> 個人主義の登場 <

 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄

そう。個人主義です。

近代以前は「複雑な人間性」というものは認められていませんでした。

人は生まれながらに与えられた「天命」に従って生きればよい。貴族に生まれたら死ぬまで貴族らしく、百姓に生まれたら死ぬまで百姓らしく。そこに人格の多面性は要らなかったのです。

(近代以前の物語、例えば歌舞伎なんかだと善玉/悪玉がハッキリ分かれてますもんね。これを平面的人物というらしい)

ですが近代に入り、天命や身分ってそんなに大事か?みたいな風潮になってきました。

「生まれなんか知らねえ!俺は自分らしく生きる!」

しかし程なくして人類は気付きます。

「自分らしさって、何だ…?」

そう。生まれが関係無くなった今、自分で自分のアイデンティティを模索しなければならない。何者かになろうとする度に、何者にもなれない自分に直面する。そもそも一貫した自分なんて本当に存在するのか…?かくして人類は長きに渡る思春期に突入します。

そこで大切にされるようになったのが「一面的でない複雑な性格描写」だったのです!なるほど〜(こっちは多面的人物という)

〜アイロニー〜

次に取り上げたテーマはアイロニー。アイロニーとは「見かけと現実の相違から来る皮肉」のことを言うらしいです。

これだけだとよく分からないので、アイロニーについて自分なりにまとめてみました!↓

〜あらすじ〜

あるところにAちゃんとBくんがいました。

Bくんのことが好きなAちゃん。

しかしなかなか自分の気持ちに素直になれないご様子…。

【言葉のアイロニー】

Aちゃん「Bくんの、バカ………///」

  →言ってることと意味するところが違うので、言葉のアイロニー

【状況のアイロニー】

Aちゃん「Bくんの、バカ………///」

Bくん「ひっど…近寄らんとこ…」

Aちゃん「振り向かせようと思ったのに!ガーン」

  →意図したことと実際に起きたことが違うので、状況のアイロニー

【信頼できない語り手によるアイロニー】

(Aちゃんによる語り部分で)Bくんは馬鹿だと思った。

  →信頼できない語り手によるアイロニー

以上です!

〜昔話の形態学〜

最後に扱ったのはウラジミール・プロップの「昔話の形態学」です。

昔々誰かが言いました。

「文学も良いけどさ、やっぱり時代は科学だよね〜」

文学者プロップ「なんだと💢」

愛する文学を蔑ろにされブチギレたプロップは、どうやって文学を科学の仲間入りさせるか(どうやって科学的に分析可能にするか)を考え始めました。

そこで目についたのが生物学のいち分野「形態学」。

これは構造主義とも関わる学問で、個々の生物の形態に通底する「型」的なものを分析するものらしい。

これを文学に応用できるのでは?と考えたプロップ。そこで思いついたのが「昔話の形態学」でした。簡単に言うと、昔話には「型」(定項という)がある!という話です。その型とは以下の通り。

【7つの登場人物】

  • 主人公
  • 敵対者 …敵
  • 派遣者 …主人公を旅に出させる
  • 贈与者 …主人公に試練を与え、試練に勝ったらお助けアイテム・お助けキャラをくれる
  • 助手 …お助けキャラ
  •  …攫われたり主人公と結婚したりする
  • ニセ主人公

【31の機能】

  • 留守 …家族の成員のひとりが家を留守にする
  • 禁止 …〈主人公〉に禁が課される。依頼や忠告、命令、提案の場合もある
  • 違反 …禁が破られる
  • 探り出し …〈敵対者〉が探り出そうとする
  • 漏洩 …犠牲者に関する情報が敵対者に伝わる
  • 謀略 …敵対者は、犠牲となる者なり、その持ち物なりを手に入れようとして、犠牲となる者をだまそうとする
  • 幇助 …犠牲となる者は欺かれ、そのことによって心ならずも〈敵対者〉を助ける
  • 加害 …〈敵対者〉が、家族のひとりに害を加えるなり損傷を与えるなりする
  • 仲介 … 被害なり欠如が〈主人公〉に知らされ、主人公に頼むなり命令するなりして主人公を派遣したり出立を許したりする
  • 対抗開始 …探索者型の〈主人公〉が、対抗する行動に出ることに同意もしくは決意する。
  • 出立 …〈主人公〉が家を後にする
  • 贈与者の第一機能 …〈主人公〉が〈贈与者〉によって試され・訊ねられ・攻撃される。そのことによって、〈主人公〉が呪具なり助手なりを手に入れる下準備がなされる。
  • 主人公の反応 …〈主人公〉が、〈贈与者〉となるはずの者の働きかけに反応する
  • 呪具の贈与・獲得 …呪具あるいは〈助手〉が主人公の手に入る
  • 二つの国の間の空間移動 …〈主人公〉は、探し求める対象のある場所へ連れていかれる
  • 闘い …〈主人公〉と〈敵対者〉とが直接に戦いに入る
  • 標づけ …〈主人公〉に標がつけられる  ※カッコイイ傷、痣など
  • 勝利 …〈敵対者〉が敗北する
  • 不幸・欠如の解消 …発端の不幸・災いか発端の欠如が解消される
  • 帰還 …〈主人公〉が帰路につく
  • 追跡 …〈主人公〉が追跡される
  • 救助 …〈主人公〉が追跡から救われる
  • 気づかれざる到着 …〈主人公〉がそれと気付かれずに、家郷か、他国かに、到着する
  • 不当な要求 …〈ニセ主人公〉が不当な要求をする
  • 難題 …〈主人公〉に難題が課される
  • 解決 …〈主人公〉が難題を解決する
  • 発見・認知 …〈主人公〉が発見・認知される
  • 正体露見 …〈ニセ主人公〉あるいは〈敵対者〉(加害者)の正体が露見する
  • 変身 …〈主人公〉に新たな姿形が与えられる
  • 処罰 …〈敵対者〉が罰せられる
  • 結婚 …〈主人公〉は結婚し、即位する

王道RPGですね〜。

ジャンプ作品にも通じるものがあります。

しかしこの物語形態、批判もあるらしい。

すなわち、マッチョイズム全開すぎる!

(姫との結婚など)主人公が男性である前提なのもそうですが、男はこうあるべし!という価値観も固定されているんだとか。男は黙って、冒険!男は黙って、戦闘!

しかし男女平等化が進んだうえ、人類が根性論に疲れ始めた近年。

アンチ・プロップ的な物語も増えているように感じます。(戦う女性キャラ、誰も戦わないほのぼの日常アニメ 等)

私は愚直を愛しているので王道的な物語も好きなのですが、一面的な価値観からの解放はよいことですね。いろんなお話があったほうが楽しいです。

本日はここまで!