9期生第3回 『film analysis 映画分析入門』第1部第4章アートディレクション

2連続の阪口緑です。

みなさん、新緑の季節となりましたね。

新緑の季節といえば、そう、私の所属する明治大学マンドリン倶楽部の創設者の一人で、昭和の歌謡史に燦然と輝く偉業を残された古賀政男先生作曲の「緑の地平線」ですよね!!

※ここからしばらく宣伝です

阪口がコンサートミストレスを務める明治大学マンドリン倶楽部は、年に2回定期演奏会を行っています。

この春は6月1日土曜日に、神宮球場のすぐ近くにある「日本青年館ホール」にて第194回定期演奏会を開催いたします👏

今回のテーマは「古賀政男先生、生誕120年を祝して」です。

そしてゲストはなんと、あの小林幸子さんです✨

実は小林幸子さんは、古賀政男先生が審査員を務める番組でグランドチャンピオンを獲得し、デビューのきっかけを掴んだんです!

懐かしい古賀メロの旋律、そして小林幸子さんの代表曲や、学生なら誰しも歌える「千本桜」をマンドリンの音色でお楽しみいただけます!!!

昼の部は完売目前ですが、夜の部でしたらまだ小林幸子さんを近くで見られるお席もあります!

ぜひお越しください!!!!!

公式HP↓

http://mumc.jp/concert/?id=22

長文お付き合いいただきありがとうございました!

本日の課題文

さて、9期生3回目はマイケル・ライアン&メリッサ・レノス著『film analysis 映画分析入門』第1部第4章アートディレクションを扱いました。

今回のキーワードは「アートディレクション」です。

アートディレクションとは、プロダクション・デザインとも呼ばれ、映画の中の視覚・聴覚的な環境を構築することを指します。

著者の主張はこちら!

視覚・聴覚的な環境(セット、ロケ地、照明、色彩、音響など)は、単なる背景や映像・音ではない。そこには、何かしらの意味が込められている!

大論点:映画におけるアートディレクションとは何か?

結論:セット、ロケ地、照明、色彩、音響などの意味づけを行う重要な要素

Q.映画のセットには、どのような意味づけがされているか?どのようなアートディレクションの要素があるか?

→下記の4つ

①作品テーマの想起

②作品テーマの強調

③アクションの示すことの強調

④ストーリー内で起きる重大な変化の提示

Q.道具・衣装には、どのような意味づけがされているか?どのようなアートディレクションの要素があるか?

→下記の3つ

①人物の内面の表現

②人物の内面の変化の表現

③作品テーマの表現

Q.照明には、どのような意味づけがされているか?どのようなアートディレクションの要素があるか?

→下記の4つ

①作品全体を統一する雰囲気の提示

②人物の感情表現

③人物の性格表現

④観客のミスリーディング

Q.色彩には、どのような意味づけがされているか?どのようなアートディレクションの要素があるか?

→下記の2つ

①人物の変化の表現

②作品全体を統一する雰囲気の提示

Q.音(音源、音響)には、どのような意味づけがされているか?どのようなアートディレクションの要素があるか?

→下記の2つ

①観客の感情的反応を引き出す、観客の注意を引き付ける

②作中のテーマやモチーフの提示

本日の応用

この理論を踏まえて、1980年のアメリカ映画『シャイニング』はどのように解釈できるのかを議論しました。

シャイニングの道具やセットには、本や写真、貯蔵庫、文化財のホテル、寒い場所といった「保管、貯蔵に向いたもの」が登場します。

これらは人工的かつ一方的に保管されてきたものなので、サバルタンとして機能しているアートディレクションなのではないかと考えました。

サバルタンとは、「自らを語る声を持たない従属させられた社会的集団※1」を意味します。

※1時事用語事典「サバルタン」

https://imidas.jp/genre/detail/L-101-0117.html

つまり、『シャイニング』に登場する「保管、貯蔵に向いたもの」をアートディレクションとして全面に出すことによって、視聴者に埋もれた歴史(=人工的かつ一方的に保管されてきた自らを語る声を持たないもの)を考えさせているのではないでしょうか。

また、『シャイニング』では、主人公が最後凍死します。

この描写を記述された歴史の一部として貯蔵されたと解釈するのであれば、主人公も最終t系に、人工的かつ一方的に保管されてきた自らを語る声を持たないサバルタン側になったと述べることができるのでは、と結論づけました。

私はアートディレクションめちゃくちゃ好きな理論でした!

9期生第2回 『映画の理論』第8章 音楽

9期生の4年ゼミ2回目を担当する阪口です!

4年春学期は映画の分析について学んでいきます!

本日の課題文

それでは早速参りましょう。

『映画の理論』第8章 音楽

ジークフリート・クラカウアー

今回のキーワードは「映像の写真的な生」

映画のショットは写真の延長である

=音があることで現実的なものとして感じられる。生がある!

写真:本質的に自己完結

映画:充溢した生を完全再現

無音の映像を長時間見続けるって、想像してみると結構退屈だと思います。

私は5分ももたないです。

これをクラカウアーさんは「色褪せた亡霊」と呼んでます

大論点「映画音楽にどのような機能があるのか」

結論「観客に映像へ向かわせる機能がある!」

  • 中論点1:映画音楽の生理的機能とは何か

結論:観客をスクリーン上の映像の流れに生理的に適合させること

映画音楽は美的欲求から必要とされたのではなく、「音楽が伴奏されていること」が必要だったから生まれた

Q.無声映画時代における音楽の役割とは?

→観客を無声の映像の中心に引き込み、映像の写真的な生を経験させること

・現実の生を実感させる

・聴衆の受容能力を刺激する(共感覚効果)

Q.有声映画時代における音楽の役割とは?

→音楽伴奏(「解説的な」音楽)の役割は、観客の焦点を映像に合わせること

・音楽が全部環境音の映画は、映像に集中できない

・自然な音は断続的にしか知覚されず、それによる空隙を保つために必要

・言葉の陰に隠れてしまいそうになった映像を支えることができる

  • 中論点2:映画音楽の美的機能とは何か

結論:聴衆を視覚的探求へと向かわせること

音楽は、解説的音楽や伴奏として機能するだけでなく、実際の音楽や作品の核としても使用される

Q.解説的な音楽とは?

→ショットに潜在しているさまざまな含意の一部を控えめに強調する機能を担っている

・並列法では、物語全体の雰囲気や特定の視覚的テーマを重視して表現し、強化している

・対位法では、映画と音楽との齟齬によって、観客が映像をよく調べるよう導く

Q.実際の音楽は映画に対して適切か?

→使われ方によって問題を含んだり、映画的になったりする

・音楽演奏を映像化することは映画とは相容れない

・ミュージカル映画のストーリーは現実の生に基づいており、歌の数々はプロットに基づいている。ゆえにプロット的リアリズム傾向と歌を使いたい造形的傾向の葛藤から緊張感が生まれる

・音楽演奏を中位の中心から外すことによって、映画の一要素に注目させる

Q作品の核として音楽が使われる場合の美的効果は?

→作品の核としての音楽は、映像の糧にありながら映像を強調する

・視覚化された音楽は、映画において映像の方が音声より優先される結果、音楽が主導的役割を放棄し、伴奏という役割に逆戻りする

・オペラ映画では、オペラの世界の前提がが映画的アプローチと異なっているため、融合するために一体感が生まれることがある。 

作品分析

応用では、2016年のアメリカ映画『ラ・ラ・ランド』を今回の理論を用いて分析したらどのように解釈できるかを話しました。

ラ・ラ・ランドでは繰り返し使われている曲があります(シティ・オブ・スター)

この音楽は映像に集中させていると考えられます。でも、ラ・ラ・ランドは最初の曲と最後のIFの世界のシーンしか覚えてないよねって話になり、ちゃんと論理的にこの理論を使わないと説得力は生まれないと結論づけました。最終的には、この理論を用いて分析を行うこと自体の難しさが争点になりました。

2023年度研究発表会の様子を1カ月遅れでお届けします…

タイトルにある通り、もう1か月が過ぎ5月に入ってしまいましたが…
3月24日にゼミの研究発表会がありました。今回はその発表会についてのブログです。
前半はわたくし高山が、後半は宮澤さんがブログ執筆を担当します!

大事なことはすぐ忘れてしまうのに、どうでもいい会話の内容はなぜかずっと覚えていたりしませんか…
私はまさにそのタイプすぎて、如何せん1カ月が過ぎてしまったこともあり、研究発表会の記憶がだいぶ断片的ですが、
なんとか記憶を手繰り寄せながら書いていきたいと思います。

 

前半(午前)は私たち9期生の発表でした。

 

まずは阪口さん

阪口さんは、映画『M・バタフライ』のラストシーンについて、主人公ガリマールは何に愛を捧げるために蝶々夫人に扮して自害したのか という問いに対し、
オリエンタリズム、アブジェクション、パフォーマティヴィティを用いて
ガリマールは京劇役者のソンを愛した両性具有的な「完ぺきなヒト」である自分に愛を捧げるために、蝶々夫人に扮して自害した と結論付けていました。

『M・バタフライ』という作品が、実際の事件やオペラ『蝶々夫人』を取り入れた作品だという点や、京劇を扱っている点から、
それらの事件や『蝶々夫人』、京劇について知っているかどうかによっても作品の解釈が変わるのではないか という意見が出ました。

また、疑問点や感想を伝え合う中で、
ラストシーンについては阪口さんの出した結論以外にも様々な解釈が出て来て議論が盛り上がりました。

論文自体はもちろん、発表やその後の議論でも阪口さんの作品への熱量がとても高く、
私個人としてはあまり熱量を言葉で伝えることが苦手なので、
作品愛のにじみ出る素敵な論文だなぁと感じました。

 

2番目は白井さんでした。

白井さんは朝井リョウ『世界地図の下書き』を題材に、童心について生権力を使って論じていました。

子どもとはどのような人間の状態なのか という問いに対し、
子どもとは年齢に関わらず規律訓練されていない、あるいは規律訓練に順応しきれていない人間の状態を意味し、
彼らは自身の身体をコントロールし、〈戦う〉・〈無気力になる〉・〈逃げる〉・〈誤用・撹乱する〉などの複数の方法で生権力に抵抗している と結論付けていました。

議論の中では、
そもそも子どもは童心を意識していない、子どもにも子どもの社会の規律があるなどの意見が出ました。

生権力に抵抗するのが子どもである、
とは言え、年を重ねるにつれて童心に返ることは難しく、どうしたら童心に返ることができるのか という話も議論に上がり、
過去の童心を語る行為が童心に返る一つの方法になるのではないか という話もしました。

個人的には、内藤先生からのフィードバックで、
白井さんが物語の登場人物に伴走しながら論文を書くタイプだというようなことを言われていたところが印象的でした。

 

3番目はわたくし、高山が発表を行いました。

私はミヒャエル・エンデ『はてしない物語』を題材に、
語りの観点、パフォーマティヴィティの観点から、人生の物語化について論文を書きました。

『はてしない物語』の主人公は、自分の人生を語ることを通して、人生を作り上げていっているという結論から、私たちはそれぞれが自分の人生という物語のたった一人の語り手であるという考察を述べたものだったのですが、

他者の人生を物語化して消費してしまうことへの懸念を出発点としていたので、
その点で懸念を払拭し切れたかというと、し切れなかったなぁと感じていました。

しかし、議論の際に、今後人生という物語を語る側ではなく消費する側の視点を取り入れていけたらいいのではないか とアドバイスをいただくことができ、大変参考になりました。

正直、先輩方や先生からもっと詰められるのではないかと思っていたので、
思いの外アドバイスやお褒めの言葉をいただくことができて、頑張って論文書いてよかったなと素直に感じました。

 

9期生最後は宮澤さんでした。

宮澤さんは、アニメ『ユリ熊嵐』から、愛するとは何かについて書いていました。

結論としては、「本物のスキ」とは、「自分の属性の一部を失ってでも、他者をスキでいる選択をすること」であるとし、
「愛する」こととは、「相対するとされる他者の属性を自らの中に受け入れていること」だと考察していました。

“愛”という途方もないテーマに取り組んだ時点ですごいなぁと思っていたのですが、
その中でもきちんと一つの答えを提示しているところが本当にすごいと感じました。

“好き”と“愛する”の共通点や、
愛することが自分の中に革命を起こすことにつながるという考えに気付かせてくれる素敵な論文だったと思います。

また、白井さんは先生から伴走者だと例えられていましたが、先生曰く宮澤さんは憑依して同化するタイプだそうです。
普段宮澤さんと接していて、時々とても深く他者のことを見ているなと感じていたので、
他者の中に入り込んで考えるタイプだからこそなのかなと個人的には納得がいきました。

 

 

いよいよ、研究発表会も後半戦。ここからの執筆は、9期生の宮澤が承ります。

午後の部では、8期生の先輩4名が、卒論の発表をしてくれました!

 

トップバッターは、大本さん

大本さんのテーマは、「『鋼の錬金術師』から見る幸福追求の形」です。

『鋼の錬金術師』と言えば、超王道ものの少年漫画。ゼミで度々話題になる作品らしいです(笑)
私はまだ読んだことがないのですが、大本さんの論文を拝読して、是非読みたいと思いました。

大本さんは、2人の登場人物を中心に、旅路で出会う人物や、彼らが起こした行動を分析することで、幸福の形に関する結論を導きました。また、幸せになる方法は決して1つではなく、十人十色の幸福追求の形があると考察されています。

大本さんの論文の凄さは何か。ずばり、「幸福とは何か?」という、答えのない問いに立ち向かったことです。
全人類が1度は考えたことがある(であろう)幸福について、真っ向から向き合い、結論を出すことは、決して容易ではありません。このような難題に対して、1コマ1コマの発言を追いかけ、緻密にかつ丁寧に分析することで、結論を導いたこの論文は本当に素晴らしいと感じました。
何事にも真っ向から向き合い、努力されてきた大本さんだからこそ、書くことのできる論文だと思いました。

「幸福の形は千差万別で、論文を書いても、自分の幸せが何かは分からなかった」と言っていた大本さん。「幸せになれそうか?」と問われた際、「幸せになれるように頑張ります。」とおっしゃっていた場面が、印象的でした。
簡単に「幸せになりたい」と言うことのできる現代社会で、改めて「幸せ」ってなんだろうと考える機会をくれる。大本さんの論文は、そんな社会の根本を突く素晴らしい論文だと感じました。
「幸せになれるように頑張ります。」とおっしゃった大本さんの姿を見て、もしかしたら「幸せが何か」を追い求められることも、また幸せなのかもしれないと感じました。

 

さて、次の発表者は、斎藤さんです。

斎藤さんのテーマは、「理不尽な暴力や苦しみに対する防御壁を探してー三つの作品に学ぶー」です。

斎藤さんの論文は、他者から振るわれる抗えない暴力、暴言、自分では制御不能な事態に対して、3つの実践可能な解決策を提示してくれました。作品は、『フレッシュプリキュア!』『あの子の考えることは変』『SINK』の3つです。

3つの作品の各登場人物は、理不尽な暴力や苦しみに苛まれます。斎藤さんは、そんな彼らがどのようにその理不尽から身を守ったのか、その具体的な方策を、
① 理不尽に向かって戦い続けること
② 理不尽そのものを解釈し直し、自分や仲間を守ること
③ 自分を苦しめる記憶を改竄し、自分自身のバイアスを可変的なものにすること
と結論づけました。

斎藤さんの論文の凄いところは、「誰でも今すぐにできる実践的な身の守り方」を提示されていることだと感じました。斎藤さんは、「理不尽な暴力や苦しみに対する防御壁は他にもあるけれど、自分自身が使えるものしか取り上げなかった」とおっしゃいました。ここに、斎藤さんの信念を感じました。そんな斎藤さんの信念が源泉となって、他者に救いを与える論文を書くことができるんだな、と思います。

斎藤さんの論文からは、生きる勇気をいただけます。今後も、斎藤さんの論文をお守りに、生きていきたいです。そして、私もそんな論文を書ける人になれたらなと思いました(笑)

 

続いての発表者は、ゼミ長の佐藤さんです。

佐藤さんの発表テーマは、「「不健全」なテクストに宿る精神―再生産の呪縛から逃れる「不健全」な読本―」です。

佐藤さんの論文では、生権力を用いて、「不健全」の表現の正体を分析されました。そして、生権力に従属せず、それに抵抗しようとする作品を排除しようとする政治的配慮の結果、「不健全図書」が生まれたという結論を導きました。

佐藤さんの論文の凄さは、ずばり「不健全の発見」です。
佐藤さんの論文を読んでると、何となく何かが不健全だと分かってしまう(思ってしまう)ことが、日常の中によくあると実感しました。このような今まで何となくの感覚でしかなかったものを、言語化し、形にした素晴らしい論文だと思います。
また、「不健全」という概念が作り出される歴史性に着目している点も、一線を画している部分だと思います。
私自身も、学校教育、はたまた政治的配慮のなされた社会で、「不健全」という感覚を植え付けられていたのだと気づかされ、はっとしました。

佐藤さんの論文を読んだ時、佐藤さんと初めて話した時の衝撃を思い出しました。
不健全か健全かに関わらず、自分の好きなものを好きと言えるその姿を、かっこいいと思いました。
この1年で、そんな佐藤さんや、佐藤さんの論文を通じて、私自身の価値観も大きく変わりました。好きなものを、臆せず好きと言う。そんな姿を、論文や日頃の姿で伝えてくださった先輩に、この場を借りてお礼を申し上げたいです。

 

いよいよ最後の発表者、関口さん

関口さんのテーマは、「映画『天気の子』における「大丈夫」という言葉は、どういった意味を有しているのか?」です。

関口さんの論文では、作中で使われた「大丈夫」という言葉を抽出し、「大丈夫」の再意味化をしました。そして、「大丈夫」という言葉は、ケア・ケアレス・アイロニー・ユーモアの4つの独自の意味を有していると結論づけました。

関口さんの論文の凄いところは、「大丈夫」という言葉自体を分析しているところです。
「大丈夫?」「うん。大丈夫」
このような会話は、日常的に当たり前に使われており、その意味をついつい見過ごしてしまいがちです。
私自身も「大丈夫」という言葉を安易に使うことに、抵抗がありつつも、それでも日常的に使ってしまっていましたと思います。だからこそ、自分自身の発する「大丈夫」を見直す機会になりました。

また、関口さんの論文を通じて、「大丈夫」という言葉の多義性を実感できました。1つの「大丈夫」に、ケア・ケアレス両方の意味が込められることもある点がとても印象的でした。

私自身、「大丈夫?」と言葉に発すること、「大丈夫」と答えてしまうことに不安感を抱いていました。しかし、関口さんのこの論文は、そんな不安感を掬い上げてくれるような論文だと思います。「大丈夫」という言葉の後押しをしてくれる、勇気を与えてくれる、そんな論文でした。

 

 

以上!8期生の先輩4名の研究発表でした!!

4万字を超える素晴らしい論文を残してくださった先輩たちの背中を見て、私もこんな論文が書けたらな、と改めて思います。けれど、まだまだ道のりは長そうです(笑)

先輩たちの論文をバイブルに、残りの1年間を駆け抜けていきたいと思います!!

ここまで読んでくださった皆さん、本当にありがとうございます。また、先日の研究発表会で素敵な発表をしてくださった8期生の先輩方、参加してくださった皆々様、ありがとうございました!

相変わらず投稿は滞りがちですが、次回のブログでまたお会いしましょう!!

10期生第1回 虚構を読ませるためには

第10期生はじめてのブログを担当いたします、中村美咲子です。

といっても、私の更新が遅く第2回の秋尾さんの投稿の後になってしまっております。。。

さて、 今回は4/18の授業について書いていきます。

我々10期生は3人でのスタートとなりましたが、幸いなことに春学期は留学生であるダンドレアさんも一緒に勉強できるということで、4人で多くのことを議論していくのが非常に楽しみです。

今回の授業では、まず廣野由美子による「批評理論入門」の1.冒頭と2.ストーリーとプロットについて、そしてロラン・バルトの「作者の死」についてそれぞれ議論をいたしました。

まず批評理論入門の発表を行ったのは、山崎さんです。 この理論から、我々は『フランケンシュタイン』の冒頭部分であるウィルトン氏の手紙についてとても活発に意見を交わしたのですが、先に理論から説明したいと思います。

『フランケンシュタイン』において、当初怪談話としてつくられた際の冒頭である「一一月のある陰鬱な夜のこと・・・」という文章を、物語になるにあたりウォルトン氏が姉にあてた手紙に変えています。なぜ冒頭の変更を行ったのでしょう。それは、読者にとって小説の冒頭は現実世界と虚構の世界を分かつ「敷居」であり、手紙という形式にすることでより現実味を帯びたものにすることができるからだ、と廣野は述べています。

次に、「ストーリーとプロット」では、廣野は、ストーリーは出来事の時間順に並んだものであり、プロットはそれを再編成したものだとしました。さらにプロットは物語を効果的に伝えることができ、それによりサスペンス効果がもたらします。例えば、物事の真相の提示を先延ばしにすることで、読者の不安をあおることができます。

この2つの理論から、『フランケンシュタイン』について、議論をしたのですが、そこでこの作品に現実味を与えているのは、冒頭の手紙という形式ではなくウォルトンという人物その人なのではないかという結論に達しました。

まず、ウォルトンの手紙は彼の姉に宛てた手紙であり、説明口調になっても違和感を与えないという効果があるのではないかということになりました。さらに彼の見聞したことが書かれている点で確からしさをもたらしているのです。そしてもう一つが、ウォルトンという人間が第三者目線で語られることがなく、ウォルトン自身による心理描写と行動の記録のみが彼を知る手立てとなっています。それが、フィクションよりも、日記のようにリアリティを持たせているのではないかと考えられました。

続いて、ロラン・バルトの『作者の死』について発表を行ったのは秋尾さんでした。

それは、エクリチュールにおいて本来は作者の存在はないのだが、近代社会においては「作者」が重要視されてしまっていること、しかし、それを揺るがすことに貢献した作家もいたという内容でした。ただ、今回の授業ではこの理論についての発表と議論が終わらなかったため、次週はこの理論についてさらに深めていくことを期待して初回のブログを締めようと思います。

10期生第2回 語り手ってなんだ

こんにちは。

ブログというものを初めて書きます秋尾藍歌です。

今年は葉桜になるのがはやくてびっくりしている気持ちと、とはいえ去年の桜がいつ散りきったかなんて覚えていない気持ちのせめぎ合いを抱えたまま、私は、今年も、花見をしそびれました。

卒業までには一回はうまい酒片手に夜桜見物としゃれこみたいものですが、はてさて、どうなるか…。

それでは本題に入りたいと思います。

前座

先週前座の発表をしそびれていたので、今日は中村さんと私の2人が前座を担当しました!

「やがて君になる」

中村さんは漫画「やがて君になる」を紹介してくださいました!

「やがて君になる」は、人間関係に悩みを持つ小糸侑が、誰のことも好きになれないという七海燈子と知り合い、その関わりの中で、互いに変化をしていく様子を描いた全8巻の恋愛漫画で、アニメにもなっています。

おすすめポイントは心理描写のこまやかさで、読み返すことで再発見できるような演出もあるみたいです!例えば、光と影を用いた心理描写などが出てくるのだそうです!

文字だけではなく絵などの要素を使って描写を行なっているなんて、素敵ですね。読み返すことで得られる発見があるというのもなかなか惹かれます…!

「塊魂」

私はゲーム「塊魂」を紹介させていただきました!

塊魂は、[なんでも巻き込める塊] にいろいろなモノを巻き込んでいって、大きい塊を作るというゲームです。できた塊は空に浮かべられて星になります。塊の大きさに応じて巻き込めるモノの大きさが変わり、塊を大きくするほどより大きなモノを巻き込めるようになります。

巻き込める範囲内でなるべく大きめなモノを効率的に巻き込んでいって、より大きな塊を作ることを目指すゲームです。ある意味、育成ゲーム?

巻き込めるモノは日常に溢れているモノ(信号機、雛人形、てんとう虫、鉢植えなど)から、ヒト(主婦、警察官、オジサンなど)、果ては建物(ビル、観覧車、球場など)や島、雲まで巻き込めるようになります。最初は巻き込めなかったモノも、他の小さいモノを巻き込んでゆくうちに、いつのまにか巻き込めるようになるのがなかなかのおもしろポイントです。

個人的に好きなのは、巻き込んだ時の効果音です。特にヒトを巻き込むとキャラごとに個性のある悲鳴?を聞くことができて面白いです。ヤンキーを巻き込むと単車の口真似をしてくれます。

他にも演歌歌手にラップを歌わせていたり、ステージが始まる時に色々な国の挨拶をしてくれるキャラがいたりなど、独特なセンスが各所に光る名作ゲームです。

ただ、このゲーム、とてつもなく酔います。画面酔いします。

なのでこのゲームが気になる方は、休みを入れつつやるか、気合いで耐えながらやるといいと思います。

以上!三分で終わらなかった分もここに詰め込んだら長くなってしまいました。ひょえ〜

3限

3限では、先週説明が終わらなかったバルトの『作者の死』を途中から読みました。

レジュメ作成は前回に引き続き私です。

今回は、「多元性を持つエクリチュールの意味が、どこで収斂しているのか」ということについて考察している部分を読みました。

書き手は自らのうちに取り込まれたエクリチュールの模倣を行うものであって、その意味の規定は出来ず、またテクスト自体も、多元性を保ちつつエクリチュールを記しているものであるので、多元性の収斂を行うものではありません。一方で、読者がテクストを読む時、読者は自身のうちでその意味を固定化しながら読書を進めていきます。

ここからバルトは、テクストの解釈は読者に委ねられるものであり、絶対的な解釈はないものと結論づけています。

道徳的な教えが国語教育に組み込まれていたり、ドイツでは、国語は文学史の功績を教えるものであったり、国語教育に担わされているものは、文章を読解するということだけではないようです。しかし、やはり主眼として、国語という教科には、文章の読解が教育目的に据えられているものであると思います。

とすれば、解釈が読者に委ねられる、自由な読み方が見出された今、教育が行う「文章の読解」とはどのようなものであるべきなのでしょうか。

多様な解釈を認める読み方は、教育では行えないのでしょうか。

そもそも多様な解釈とはなんでしょう?

より自由な読み方をしようとした運動として、ニュークリティシズムという運動があったようです。

ニュークリティシズムは、解釈するときに知識をなるべく入れないようにし、そのテクストそのものから解釈を行うことを目指した運動です。

授業教室に詩を一枚だけ置いておいて、学生にそれだけを参照して解釈させようとするなどのことを行っていましたが、結局は詩を読んでいる学生のそれまでの背景を投影して読んでいるに過ぎないとして多くの人に批判されました。

自身の背景を投影して読んでしまう私たちは、自身の持っている背景知識によって、読解はある程度制限されてしまって、完全な「多様な読み方」をすることはできないのではないでしょうか。

そんな中で、教育で「多様な解釈を認める読み方」を学生たちにさせることは、果たしてできるのでしょうか?

4限

4限では、廣野由美子著「批評理論入門」の「語り手」「焦点化」の項目を読みました。

レジュメ担当は、中村さんでした。

  • 語り手

小説は、比較的自由な形式をもっていますが、ただひとつ、「語り手」の存在が不可欠であるという制約だけは守らなければならないものです。

その「語り手」は、どのような位置にいるのかで以下のように分けられます。

  • 一人称の語り手:語り手が物語世界の中に属する場合。物語世界内的語り手ともいう。
  • 三人称の語り手:語り手が物語世界の外に属する場合。物語世界外的語り手、全知の語り手ともいう。
  • 二人称の語り手:語り手がつねに「あなた」と呼ばれる人物に向かって話しかける場合。

「フランケンシュタイン」では、ウォルトンとフランケンシュタイン、怪物が語り手であり、三者とも一人称の語り手に分類されます。

また、「フランケンシュタイン」においては物語のなかに、さらに物語が埋め込まれている「枠物語」の形式も用いられています。ウォルトンの語りのなかにフランケンシュタインの語りがあり、またそのなかに怪物の語りが埋め込まれているという入れ子構造がそれにあたります。

そして、この入れ子構造の一番外側のものとしてウォルトンが姉に書いた手紙というものがあります。よって「フランケンシュタイン」は手紙の形で書いた小説、つまり「書簡体小説」(epistolary novel)の特徴ももっているといえるでしょう。

〈信頼できない語り手〉

「語り手」というものを考える上で問題に上がってくる事柄として、「その語り手は信頼できるか?」という問題があります。 

ブースによると、「信頼できない語り手」は語り手の言葉が読者の疑いを引き起こす場合を指します。この場合において語り手は、作品のなかにいる観念化された作者ともいうべき存在を想定したものである、「含意された作者」(implied author)と価値観を共有しないものと考えられます。

「信頼できない語り手」がもつ効果を、ロッジは、見せかけと現実のギャップや、人がいかに現実を歪めたり隠したりする存在であるかを露わにすることである、といっています。

また、「信頼できない語り手」たりうる理由がいくつかあり、『批評理論入門』では三つがあげられています。

  1. 語り手が未熟でその表現力や理解力に限界がある。
  2. 語り手が知的障害者であるため判然としない。
  3. 語り手の性質や人格に内在する。

では、「フランケンシュタイン」の語り手は信頼できるといえるでしょうか?

残念ながら、完全に信頼できるとはいえないでしょう。

ウォルトンは情熱的で熱しやすく不安定な性質を持ち、南極に行くという目標を達せぬまま船員の要求を飲んで帰ってしまう部分に関して説明が少ないなどといった特徴があります。

またフランケンシュタインも、自身の行いのせいで死刑宣告を受けたジャスティーヌの苦しみと自分の苦しみを比して自身の苦しさを強調する子供じみた振る舞いがあったり、情熱の果てに怪物を作り上げてしまったことを後悔しつつも、最後のシーンでは南極へと赴くことを諦めた船員に対して喝を入れており、行動に矛盾が感じられ、自己欺瞞に陥っていることから完全に信頼しきるには足りません。

そして怪物。彼も一見論理的には見えるものの、フランケンシュタインが死んだ後にその遺体の前で懺悔をしているそのなかで自分の苦しみを強調する子供じみた振る舞いを見せており、信頼できない語り手の理由1.にあてはまるといえるでしょう。

語り手が「信頼できる/できない」という問題はなかなか面白いと思います。

語り手自身が読者に情報を伏せることでトリックを成立させるものはまさしく「信頼できない語り手」の好例なのですが、「語り手は信頼できる」という前提によって成り立っているものです。

また、中村さんが議論で指摘してくださったことで、「信頼できない語り手自身は、自分が『信頼できない語り手』であることを自覚できない」と考えられるのはとても興味深かったです。

  • 焦点化

もともとは美術用語であった「視点」という言葉は多く「語り手の立っている位置」を表す言葉として使われてきました。

しかし、ジュネットは、語り手が語る内容を、視覚的な意味で使われることの多い「視点」というだけでは説明として十分ではないとして「見る」という行為を「焦点化」、見ている人物を「焦点人物」と名付けました。

そして、ジュネットはその焦点人物のいる位置によって分類を行いました。

まず分類は大きく、「内的焦点化」「外的焦点化」に分類されます。

  • 内的焦点化」は焦点人物が物語世界の内側にいる場合。
  • 外的焦点化」は焦点人物が物語世界の外側にいる場合。

さらに、「内的焦点化」は以下の三つに分類されます。

  • 固定内的焦点化」:焦点人物が固定されている場合。
  • 不定内的焦点化」:焦点人物が変わってゆく場合。
  • 多元内的焦点化」:同じ出来事が複数の焦点人物によって語られる場合。

もちろん、一つの作品につきこの分類の一つのみが当てはまるということは少なく、ほとんどの場合、この複合体によって説明することになります。

「フランケンシュタイン」においては、語り手は複数おり、焦点人物が変わっていく「不定内的焦点化」の方法が主にとられているといえるでしょう。

また「フランケンシュタイン」には部分的に「多元内的焦点化」が用いられている箇所もあります。

怪物がウィリアムを殺害するシーンです。

アルフォンス・アーネスト・ジャスティーヌ・怪物、その多数人が証言をおこなっており、それによって事件の全貌が明らかになっています。

このさい特に注目したいのは、殺害をおこなった怪物自身も焦点人物になっていることです。怪物を焦点人物にしたことによって、フランケンシュタインの立場からはわからない、事件の偶然性や動機の存在が明らかになります。

「多元内的焦点化」は、焦点人物が一人に限られていないことによって描写できる量やその範囲が増すものであると言えるでしょう。

まとめ

今回の授業では、

3限:バルト    →エクリチュールの意味が決まるところはどこだろう

4限:批評理論入門 →「語り手」にはどんなやつがいるんだろう

ということについて学び、考えました。

「語り手」についての話では、物語世界の「内/外」ということが、ひとつの分類の指標になっているのが面白かったです。

私たちの世界には外側は、基本的にないと考えられます。(あるいは外側の世界があるとしても、少なくとも我々はそれを知覚できません)

なので、「物語世界の外側の存在」が存在していること自体が、物語のもつ虚構の一部になっているのだと考えられます。

このような小説の虚構性からは、どこまでの虚構が作り出せるのか、実際に読んだ人にどのような影響をおよぼすのか、などいろいろなことを考えることができます。

どうでしょう、皆さんも「虚構」というものに想いを馳せてみては。