4年ゼミ 第4回 「論文の書き方」

更新遅れてしまい失礼しました……。第4回5月7日の講義文の担当、増尾です。
2週にわたりお休みをいただいておりましたが、ようやく先週から復活しました!
先生と大下には大変ご迷惑をおかけしましたが、いつも通りの雰囲気で迎えていただけて心の底からほっとしました。
更なる飛躍目指してもう一度走り出したいと思います!!

さて、今回の講義は「論文の書き方講座」です。
卒論を書き上げるに至るまでに必要な過程として全3回論文執筆に必要な技術や考えを学ぶ機会を設けました。
第1回は「どのような論文が構造として説得力をもつか」というものを理解するため、私たちの先輩である内藤ゼミ2期生の清水 智美さんが4年前期に執筆された『「広島への原爆投下」をめぐる歴史認識のプロセス~井伏鱒二『黒い雨』の分析から~』(初稿と最終稿)を題材に講義を進めていきました。

まず論文に一通り目を通してみて、清水さんの論文は1つの章も置いていかれることなく繋がりをもっていて、流れるように序論から考察まで読むことができるものだと感じました。
私の論文はいつも章ごとにぶつ切りになってしまっていると感じているため、どのポイントが流れを作り出しているのかについて注視して読み込んでいきました。

先生の問いかけから自分であったらどのように『黒い雨』を分析したいか、『黒い雨』のどのような点が気になったかを話し合いました。
・なぜ1947年、1948年といった原爆投下直後に執筆された作品よりも約20年後に登場した本作が「原爆文学」として評価されているのか。
・ポストコロニアルの視点からみるとどのように分析できるのか。
などといった点があがりました。
こういった疑問や気づきが論文執筆の「動機」となります。

では、清水さんはなぜこの題材を選んだ理由とは?
論文を読み、私たちなりに清水さんの論文執筆の動機について考えをめぐらせました。
・(清水さんが卒論では春画・戦争画を扱っていたことからも)多くの日本人がタブー視しているものはそのような見方をされていてよいのかという疑問があったのではないか。
・表象作品から歴史の知識を得、理解したつもりになってしまう恐れのある社会に疑問を投げかけたかったのではないか。
などの意見があがりました。清水さんの動機を想像してみて、書いているうちに動機を見失ってしまう私の論文がいかにもろいものであるかを改めて思い知りました。私は自分の疑問や意見について何かしらの答えをみつけるための論文だということを頭では理解しながらも実践できていなかったのだと感じました。

いよいよ、論文本編へ。
何よりも大切で、そして私たちが上手く書ききれていない部分「第1章」。
清水さんの論文では、分析対象である『黒い雨』については第2章から詳細に記されていて、第1章ではその前段階として「過去に起きた歴史上の出来事を、人はどのように認識しているのか。」ということについて書かれていました。
このように、本論に入る前により広い範囲での話をすることで
・この論文が単なる「黒い雨論」ではなく、「歴史認識のプロセス」を明らかにするための1つの事例としてそれがとりあげられていることがわかる。
・『黒い雨』が様々な読み方をされる可能性が広がる。
ことになります。
また、他作品との比較も可能にし、高次の土台として研究の意義を広めることにもつながり、「黒い雨」に興味がある人だけではなく、歴史認識について興味がある人など多くの人に“読ませる”論文になるそうです。

より広範囲の方によんでもらえ、深みのある論文になることは理解出来たのですが、
知りたいこと、調べたい事象に合わせて分析する作品を選ぶのは難しそう…だと頭を悩ませていたところ、
「分析したい題材から可能性を広げて1章を書いても良いのですよ。」と救いの一言が!
なるほど、その逆転の発想はなかった!私が前回の論文でモヤモヤしていた霧が晴れていきました。
第1章を書いたあとは
テクストについて説明→理論を用いて分析する→分析した結果を記す
という流れになり、このあとは「考察」にはいるのですが、ここで第1章に記した内容につながるように書けると説得力のある論文の構造になります。
たしかに、清水さんの論文では考察部分で「歴史認識のあり方」について述べられていました。だからこそ、第1章から考察までが流れるようなまとまった文章である印象を受けたのだと思います。

今回の講義は論文の組み方について改めて学ぶものでした。
論の流れが章ごとにぶつぎりにならないような書き方、単なる作品分析の論にならないようにするための考え方など、私ができていなかった部分、上手くできていなかった部分について理解することができたのでまずは春学期の論文で上手く構造を組み立てたいと思います!

増尾

3年ゼミ 第6回

こんにちは!部屋に置いてある脱臭剤のジェルがいつまでたっても減らないので、大した脱臭剤だと感心していたのですが、ビニール蓋を剥がしていないだけでした。というわけで今回のブログ担当は川上です!

第6回の講義内容についてですが

3限では、廣野由美子著『批評理論入門−「フランケンシュタイン」解剖講義』(中央出版)の「声」「イメジャリー」について学習しました。4限ではミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』について学習しました。

1.「声」について

『批評理論入門』によれば、物語が、作者の単一の意識と視点によって統一されている状態を「モノローグ的」、それに対し、多用な考えを示す複数の意識や声が、それぞれ独自性を保ったまま互いに衝突する状態を「ポリフォニー的」といいます。4限で取り扱った『ドストエフスキーの詩学』の著者であるバフチンによれば、ポリフォニーはあらゆる小説に固有の特徴であるとされています。そうなると、全ての小説はポリフォニー的、つまり、いくつもの異なった文体や声を取り込んだ状態にあるという意見が考えられるでしょう。『フランケンシュタイン』は、ポリフォニー的な特徴が顕著にみられます。主人公の父であるアルフォンスや、主人公の婚約者のエリザベスなど、複数の人物の視点が挿入され、この物語は構成されています。

2.「イメジャリー」について

『批評理論入門』によれば、「イメジャリー」とは、ある要素によって、想像力が刺激され、視覚的映像などが喚起される場合、そのようなイメージを喚起する作用、あるいはイメージの集合体のことです。イメジャリーの働きは主に以下のようなものです。

◯メタファー・・・あることを示すのに別のものを示し、それらの間の共通性を暗示する。隠喩
◯象徴   ・・・とりわけ類似性のないものを示して連想されるものを暗示する
◯アレゴリー・・・具体的なものをとおして、ある抽象的な概念を提示し、教訓的な含みをもたせる

『フランケンシュタイン』内ならば、例えば「月」が「象徴」として用いられています。重要な出来事が起こる際、たびたび月が登場しており、「月」は殺害や復讐といった狂気や、フランケンシュタインの創造行為などを暗示させていました。以下、上記の内容に対する5期生4人から挙がった疑問点と意見を簡潔にまとめました。

・「象徴とアレゴリーの違いとは何か」
ー(象徴はアレゴリーに比べてより限定的に使用されるのではないか・象徴が暗示するものを理解するには、その象徴の文化的背景や示唆するものを理解しておく必要があるのかも)

また、この疑問については内藤先生が以下のような解説を付け加えてくださいました。
ー(「象徴」は、物語内で意味が通じる特殊なものである。一方で「アレゴリー」は、物語内に限らず、現実においても意味が通じるような普遍性を持たせうるものである)

4限では、ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』を用いて学習しました。内容は、『批評理論』の「声」の内容と概ね重複しており、さらにポリフォニー小説の代表とされるドストエフスキー作品の特色について詳しく記述されていました。ドストエフスキーの小説では、物語の登場人物たちが、作者の考えを代弁するに留まらず、作者と肩をならべてしまうような言葉を発し互いにぶつかりあっています。彼の小説は極めて独自であり、ドストエフスキーはポリフォ二ー小説の創始者であると言えるだろうとのことでした。以下、上記の内容に対する5期生4人から挙がった疑問点と意見を簡潔にまとめました。

・「そもそも完全なポリフォニー小説は可能か」
ー(自己から完全に独立した登場人物や言葉を生むのは難しいと思う・自分の意見の矛盾性について自覚的であれば、自分と異なる意見も仔細に述べられるかもしれない)
・「ドストエフスキーは本当にポリフォニー小説の創始者か」
ー(ドストエフスキー以前、以後の小説の特徴についてもっと知る必要がある)

「イメジャリー」の内容は、これまでの先輩方も理解するのになかなか苦労したと耳にしていましたが、確かに難しかったですね。難解な内容とむわっとした気温のダブルパンチで何度か船をこぎかけましたが、メンバーの奮闘に励まされ、なんとか最後まで考えきりました!!

3年ゼミ 第5回

 寒暖差が激しい日々か続きますね。初めまして、最近干し野菜を作ろうと思い大根を干してみたら思ったよりも細くなったことに驚いた浦上です。「野菜がみずみずしい」という表現を身にしみて感じました。ちなみに私は花は生けてあるものよりもドライフラワーの方が好きです。私の家にある植物は基本逆さまで吊されてます。どうでもいいですね、では本題に入りましょう。

 
 今回は廣野由美子著『批評理論入門−「フランケンシュタイン」解剖講義』(中央出版)の 性格描写、アイロニーそしてウラジミール・プロップ『昔話の形態学』について議論をしました。
 まずは性格描写についてです。登場人物にはそれぞれ性格がありますが、人間の性質を描く上での豊かさと多様性、心理的動作の深さなどでは小説に勝るものはないとのことです。特にイギリスでは、近代小説が生まれる前から「性格」に対する関心が顕著でした。ヴィクトリア朝後期の小説家トロロープ(1815-82)が小説においてはプロットよりも登場人物を優先すべきと主張したほどです。性格を重視するのはイギリス的特徴だと言えるのですが、ここで小説における日本的特徴とは何かという議論になりました。これを議論するには私たちの知識があまりないため深くできませんでしたが、日本の小説に心情吐露シーンが多くなったのは近代以降だそうです。近代以前の小説を読まない私には驚きの事実でした。
 次はアイロニーについてです。アイロニー簡単に言うとズレのことです。アイロニーには①言葉のアイロニーと②状況のアイロニーがあります。
①言葉のアイロニー:表面上の意味と違う意味を読み取らせようとする修辞法。隠喩や直喩とは異なり解釈を通して初めて理解される。
②状況のアイロニー:意図・予想された展開実際の展開との間に相違があることを指す。特に、ある状況についての事実に登場人物の認識が一致しておらず、そのことに観客が気づく場合を「劇的アイロニー」という。
皆さん、どうですか、わかりますか??
①ここで隠喩と直喩の違いはすぐにわかりますが、隠喩と言葉のアイロニーの違いは理解するのに少し時間がかかりました。たとえば、とあるカップルの会話で「君は僕の太陽だ」という表現が使われたとします。「君は僕の太陽だ」は隠喩ですよね。しかし、この表現が使われる前に、君(彼女)が他の男の人と二人で出かけたという事実を僕が知ったとします。僕が「おまえ、もう俺のこと好きじゃないんだな」と煮えたぎる怒りをこらえながら、彼女に「君は僕の太陽だ」と言った場合、これは言葉のアイロニーになります。この場合、他の男の人と出かけたのを知っているのにもかかわらず「君は僕の太陽だ」と言っているところにズレが生じます。このズレに気づくには、文脈を解釈する必要があります。
②言葉のアイロニーは言葉や文節にアイロニー性が潜んでいるのに対して、状況のアイロニーは出来事にアイロニー性が潜んでいます。授業では主に劇的アイロニーについて議論しました。劇的アイロニーとは簡単に言うと、小説を読んでいる読者がその状況に対して「えっ、そうじゃないよ!ちがうのに!」と突っ込んでしまいたくなることです。先ほどカップルの例を出しました。彼女が他の男の人とお出かけしたことを知った僕が、「おまえ、もう俺のこと好きじゃなくなったんだな」と思いながらも「君は僕の太陽だ」と彼女に言いましたね。しかしそれは、もうすぐ誕生日の彼氏に買うプレゼントを買うために、一番信頼できる男の人を買い物につきあわせたという状況だったとします。彼女は彼氏のことが好きで真剣にプレゼントを選びました。しかし彼は彼女はもう自分のことを好きでないと思っています。この状況の真実を知っているのは読者だけですね。
どうですか?理解していただけましたか??

次はウラジミール・プロップの『昔話の形態学』についてです。魔法昔話には31の機能があります。31の機能の前に昔話の機能のテーゼが4つあります。
【昔話の機能のテーゼ】
①昔話の恒常的な不変の要素となっているのは登場人物たちの機能。これらの機能が、どのような人物によって、どのような仕方によって実現されるかは関与性を持たない。これらの機能が、昔話の根本的な構成部分となる。
②魔法昔話に認められる機能の数は限られている。
③機能の継起順列は常に同じである。
④あらゆる魔法昔話が、その構造の点では単一の類型に属する。
これらのテーゼを基軸に魔法昔話の様々な筋を比較し登場人物たちの機能を析出していくことになります。
31の機能については割愛させてください。ここでどうして31の機能がすべての魔法昔話に当てはまるのだろうという疑問に、メンバーのひとりが昔は口で伝えていたから語るのに覚えやすい展開が31の機能なのではないかという意見が出ました。また現代の魔法物語の機能とは違うのだろうかという意見も出ました。
 小説において構造はとても重要です。私は構造を意識して小説を読んだことはあまりなかったので31の機能を習得して、他の小説と比較したりしていろいろな角度から分析していきたいと思いました。

3年ゼミ 第4回

ブログでは初めまして、5期生の川田美沙と申します。
3年ゼミ第4回では引き続き『批判理論入門-「フランケンシュタイン」解剖講義』より「5. 提示と叙述」「6. 時間」と、ジェラール・ジュネット著『物語のディスクール』より時間に関する章「2 持続」を取り扱いました。

今回も批評理論や用語の確認を中心に議論を進めていきました。
まずは提示と叙述について、前者は語り手が介入せずあるがまま示すこと、後者は語り手が出てきて読者に対して解説する形であるという違いがあります。
また、作品ではストーリーとプロットで出来事の順序を変えるアナクロニー=錯時法が用いられます。これは2つにわけられます。ひとつは出来事を語っている途中で過去の場面へ移行する後説法、もうひとつはまだ生じていない出来事を予知的に示す先説法です。
そして、物語内容における時間的持続と物語言説のそれとの関係によって、物語言説の速度は大きく4つに分けられます。ひとつめは省略法で、物語言説(ページ数など実際の空間的な量)は停止し物語内容(物語で経過したと語られる時間)のみが加速する、いわゆる「話が飛ぶ」ところです。ふたつめは休止法といい、先ほどとは反対に物語内容が停止し物語言説が加速する、描写に代表される部分です。3つめは情景法で、二つの持続の関係が等しい、台詞の部分にあたります。4つめは要約法といい、物語内容が物語言説よりも速く、主に叙述と呼ばれるものはこれにあたります。
これらのうち省略法には、時間的観点からみて省略された時間が明示される限定的省略法と、明示されない非限定的省略法に分けられます。また、形式の観点からみたとき、明示的省略法と暗示的省略法に分けることもできます。前者では省略した過去の時間そのものを指示する、もしくは省略の後に経過した時間を指示することになります。後者は存在そのものが明示的でないため、読者が時間的順序の中に何らかの欠落があるとか語りが中断しているという事実から、これを推測する必要があります。
ジュネットはプルーストの作品『失われた時』を具体例として持続について語っています。プルースト以前は情景法は物語の劇的な展開において用いられ、非劇的なものは要約法によって大きく要約されていました。しかし『失われた時』では情景法を非劇的な展開で用い、要約法を物語の最高潮にもってきたという点で注目に値する作品であると述べています。

とりわけこれまでの私たちの議論の中で、とある顕著な傾向があると指摘がありました。
批評理論を適用するときにありがちなこととして、ある作品における著者の意図やある作品から読者が読み取るであろう解釈を想定したうえで語りがちであること、つまり無意識に著者や読者といった何かに依拠してテクストを語ってしまう場合が多いのです。
私たちはこれを自覚し意識した上で、どちらの立場でもない視点(社会情勢や文化的背景など)で作品と向き合わなければなりません。これから各々で作品を考察し調査していく際に重要になる部分ですので、今後のゼミの議論でも上記のような姿勢を習慣づけていく必要があると感じました。

また、今回扱った『物語のディスクール』内の文章がかなり抽象的であったため、読解するのに大変苦労しました。互いに意見をぶつけ合い、途中かなり混乱してしまいましたが、先生の助言をもとになんとか理解までには至ったと思います…。批評理論について理解を深めるよい機会になったので、「わからない」をはっきりさせてわかるようになるまで議論することはとても大切ですね。今のうちに「わからない」を積極的に解きほぐしていきましょう!

ちなみに先週分の課題が残っていたのですが、授業時間内でそこまでたどり着けませんでした。やはりやり残しは授業の初めのほうでやるべきでした…。そして今回は休憩のタイミングも逃してしまい2コマ連続でした…。個人的に反省点も多かったので次回からは改善していきたいです。