3次募集要項

ゼミ入室試験の3次募集に応募する人は、レポートとエントリーシートを提出すること。

  1. レポート:以下の内容を1,500-2,000字の文章にまとめる。(A4横書き)
    ・志望理由
    ・ゼミで取り組みたいこと(対象・作品があれば、それも示すこと)
  2. エントリーシート:以下のリンクからファイルをダウンロードし、必要事項を記入する。エントリーシート

提出締切日時及び提出場所は、情報コミュニケーション学部事務室に確認すること。

なお、レポートとエントリーシートの両方を提出した者のみ、面接試験を受けられるものとする。

秋学期 第2回特別講義

 

どうもこんばんは。今年度のやり残しは今年度のうちに。

第2回特別講義の担当の相田です。

11月29日に行われた秋学期第2回目(通算4回目)の特別講義は、前回の平井さんに続いて、東京大学大学院より井川理さんをお招きし、横溝正史『鬼火』を中心に戦時中の検閲とメディア、そして挿絵の文化についてお話を伺いました。

 

自分はMembersにも書いてある通り、推理小説好きなので、横溝正史の金田一シリーズも大好物なのですが、今回取り上げられた『鬼火』は恥ずかしながら読んだことがありませんでした。

しかし、日本の戦時中のメディアに対する検閲の研究は数多くある中、当時の新聞記事を探し、推理小説という大衆娯楽からアプローチをかけた井川さんの研究に、自分は一推理小説好きとして、また文学研究をする端くれとして、とても興味をそそられる内容でした。

 

『鬼火』は、ある二人の従兄弟の画家の「深讐綿々たる憎念と、嫉妬と、奸策の物語」を、「私」が関係者の元警官から話を聞くという構成をとっている。この作品も他の例にもれず、検閲により一部改稿、一部削除といった措置を受けましたが、それを逆手に取り、「削除処分、伏字処理を受ける程過激な作品である」ことを宣伝文句として活用した元編集者の横溝の妙が窺えます。

また、今ではライトノベルに代表される挿絵の文化が戦前の作品にあったことも自分の中で驚きでした。しかし、『鬼火』の挿絵はただ情景を読者に見せるだけでなく、二人の物語を、また別の視点から魅せているという点で、今のライトノベルの挿絵文化とは一線を画していると感じました。

 

作品を構成するのはテクストだけではない、もっと多くの要因が複雑に絡み合って作品が出来上がっているのを実感するお話でした。

ありがとうございました!!

プレゼミ合宿 in南房総

こんにちは。今回ブログ執筆担当の室です。

今回の記事は、二月に行ったプレゼミ合宿の報告です。

 

2月25・26日に、一泊二日のプレゼミ合宿を行いました。

開催場所は千葉県南房総市。ゼミ生だけでなく、卒業生や、株式会社ココロマチからも2名に参加していただいた他、南房総市の職員さん、2日目の会場であるヤマナハウスのメンバーのみなさんなど、多くの方に参加してもらい、賑やかな合宿になりました。

新三年生にゼミの活動を理解してもらうことが目的の合宿でしたが、リバティータワーの一室で行っている活動とは全く異なる体験ができ、現三年生もたっぷり楽しんだ二日間になりました。

 

初日は、シラハマ校舎にて内藤先生による講義を受けた後、懇親会を行いました。

 

午前中にハイウェイオアシス富楽里に到着しました。南房総市の新鮮な食材にはしゃぎつつ、昼食のお総菜や、懇親会用の野菜を購入。

その後、会場であるシラハマ校舎へ。宿泊棟なども案内していただきました。

南房総プレゼミ_170227_0089

そして今回の合宿のメインとなるプレゼミ授業に。

授業の前に、ちょっと変わった自己紹介をしました。

参加者それぞれが、本名とは違う名前を名乗るというものです。合宿中の二日間は、その名前で活動するというルールを設けました。

好きな映画のヒロインの名前、飼い猫の名前、好きな食べ物の名前・・・などなど、それぞれが自由に名乗り、覚えきれずに大混乱に。

普段と全く違う名前で呼ばれたりするのが、いつもの自分とは違うような気持になれて面白かったです。

 

授業の内容は、内藤先生の授業では恒例の「論点を立てる練習」に始まり、その後事前に配布されたテキストをもとに、チームごとに議論していく形で進めていきました。

チーム分けは、学生と社会人で分けたりはせず、一緒に議論をしました。

学生と社会人で区別しなかったのは、今回はみんな内藤先生の授業を受ける「生徒」という関係だからです。普段は社会人の方と対等に接する機会はないため、新鮮でした。

 

その後の懇親会では、念願のバーベキューをしました(夏合宿では天候不良により実現しなかったのです・・・)。

南房総市の食材を楽しみつつ、ゼミ生同士や、ゼミ外からの参加者のみなさんと交流しました。

南房総市ではたくさん咲いている菜の花ですが、焼いて食べるととてもおいしかったです。

 

二日目は、百姓屋敷じろえむさんにて昼食をいただいた後、ヤマナハウスに移動して活動しました。

 

ヤマナハウスに到着後、ゼミの講義に入る前に、ヤマナハウスの活動に参加させていただきました。

農作業組、土間づくり組の二手に分かれ、45分で交代し、両方の作業を体験しました。

普段の活動では着席しひたすら議論・・・という状態なので、体を動かしてゼミ生はヘトヘト気味でしたが、普段はできない農作業などを体験でき、楽しかったです。

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その後、ヤマナハウス室内で円になって座り、「研究とは何か」というテーマについて話し合いました。

社会人のみなさんにとっての「研究」についてお話をうかがい、今やっている研究は大学にいる間だけでなく、今後の人生でも向き合っていくものなのだと知り、身が引き締まる思いでした。

 

以上のプログラムを経て、プレゼミ合宿が終了しました。

天候にも恵まれた南房総ののどかな自然の中、社会人のみなさんと議論したり、経験を語っていただいたりした今回の合宿は、忘れられないものになりました。

 

最後に、参加していただいたココロマチの吉山さん・奈良さん、ヤマナハウスのみなさん、南房総市の職員のみなさん、ありがとうございました。

また、南房総市職員の真田さんには、二日間、ゼミ生の移動を車で助けていただいただけでなく、地元の方ならではのスポットを案内していただくなど、とてもお世話になりました。

たくさんの方に支えられて活動ができているのだと改めて感じました。

ゼミでの活動も残り一年、ひとつひとつの活動を大切にしていきます。

 

秋学期第11回ゼミ

こんにちは!あと数日で春休みも終わりますね…。今年度のやり残しは今年度のうちにということで、12月6日に実施した授業の記事担当の相田です。

 

3ヶ月以上前の授業ですが、覚えている範囲で記事を書いていこうと思います。

 

今回議論したのは、文化批評への足掛かりとして、遠藤英樹氏の『現代文化論:社会理論で読み解くポップカルチャー』より、ポピュラーミュージックとアニメを題材に議論しました。

 

まず初めに、文化資本論という考え方について議論しました。文化資本は、経済資本と社会関係資本に連なる、ピエール・ブルデューによって提示された資本です。

文化資本には、教養や立居振舞といった「身体化された文化資本」、親などから受け継いだ絵画や彫刻品といった「客体化された文化資本」、国家資格や学歴といった「制度化された文化資本」の3種類があります。

 

私達は、社会をこの文化資本、経済資本、社会関係資本の3つを様々に組み合わせながら、生活しているとしています。そして、私達の持つ文化資本がぶつかり合うことで生じるのが、「象徴闘争」であり、今回はその事例として、音楽が取り上げられ、同時に「経路(ラウツ)」という考え方にも議論を進めました。

 

ちなみに、このラウツという考え方、ゼミ内で新歴史主義に次ぐレベルの大議論に発展しました。本質主義でもなく、かといって多元主義でもない。ルーツ(起源)とも違うということで、かなり議論が迷走したのは今でも覚えています。今自分が民族や人種の中でどのような立ち位置にいるのか、また、今まで自分のたどってきた道を何のために、だれのために何を使って表現しているのかを点ではなくもっと広くとらえた考え方なのはかろうじて分かったかなと思います。要復習ですね。

 

 

次に、ディズニーアニメーションを使って、ソフト・パワー論について議論をしました。

ソフト・パワーとは、軍事力や経済力といった強制的で暴力的な力ではない、その国が持つ魅力のことを指します。ソフト・パワーの源泉は政治的価値観、外交政策、文化から成り立っています。

 

日本のアニメーションは「クールジャパン」に代表されるように日本のソフト・パワーの重要な源となっている。しかし、それ以上に世界規模で強力なソフト・パワーを形成しているのが、ディズニーアニメーションである。

 

ディズニーアニメーションは強力なアメリカのソフト・パワーの形成に多大な貢献をしていますが、アジア諸国を「東洋」というステレオタイプ化したイメージのもと表現し、オリエンタリズム論にしばしば取り上げられている。第12回の授業では、「ジャングル・ブック」を用いて、文化批評の実践へと進んで行きました!!

論文発表会-2016年度-

2017年3月18日(土)駿河台キャンパスにて
内藤ゼミ3・4年生による学期末論文・卒業論文の合同発表会を行いました。

発表者はPower Pointを使用しながら、
・自分がなぜこの論文を書くに至ったのか
・自分が論文のなかで最も伝えたかったことは何か
・苦労した点、達成できた点
・今後の課題や展望
などを自分の言葉で説明します。その後、お互いの論文を事前に読んできたゼミ生が、発表を聞いたうえで自由にコメントをしていきます。
話題が尽きることはなく、充実した議論の場となりました。

ゼミ生の論文テーマは多種多様であり、論文のなかでは、小説、絵画、映画、アニメ、ゲームなど、形態や年代を問わず幅広い作品が分析されています。

偶然にも、同じ小説作品をまったく違う視点――ひとつは心理学的視点から、もうひとつはミステリの構造的視点から読み解いた二つの論文があり、1つの作品に対する多様な解釈の可能性が提示された点は、とても興味深いものでした。

また、今回の発表会の傾向として、ジェンダーに関心のある論文が(特に3年生に)多く見受けられた点が挙げられます。しかし、ジェンダーへの問題意識や、対象とした作品へのアプローチ方法はそれぞれ違っていて、男性あるいは社会が作り上げた女性の理想像、作品から読み取れる男女間の力関係、ホモソーシャルと男性中心社会の関係性など、その多様性はまさにジェンダー問題の複雑さを表しているように思いました。

どの論文・発表からも、対象とした作品へのこだわりや、社会現象への気づき、分析を通して各々が生み出した深い考察を、感じ取ることができました。内藤ゼミに入り、苦悩しながらも論文を書き上げて、論集にまとめて、この発表会で披露できたという経験は、直接的ではなくとも何らかのかたちで、私達の人生の道標となってくれるのではないでしょうか。

さて、真面目に文章を書くのはここまでです!
(まだ論文を書いてるような気分になりました、ははは…)
論文発表会めちゃめちゃ楽しかったです!!

何度も何度も、根気強く温かな指導をしてくださった内藤先生をはじめ、ご見学くださった本多さん、南房総ゼミについての発表&物怖じせずに発言してくれた2年生、熱量溢れる論文を執筆&準備に協力してくれた3年生、二年間を共に駆け抜けた4年生、、、
皆さん本当にありがとうございました!!!

内藤まりこゼミ2期生 清水智美

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秋学期第13回ゼミ

今回は秋学期第13回ゼミについてのブログです。
執筆担当は提中です。

2016年を締めくくる第13回のゼミは、ゼミ生の希望により、
後期期末論文の相談をしようという回になりました。
4日後に論文の提出を控えていた私たちは、
各自書けているところまでの論文を持ち寄り、1人ずつ時間を取りながら、
執筆において悩んでいることや、修正した方が良い点はあるかなど、
相談をし、それについてアドバイスをしあいました。
このようにひとりひとりの論文に対して時間を取って、
親身になって相談をしあうことが出来る点は、
内藤ゼミに入って本当に良かったと思う点のひとつです。

皆にもらったアドバイスのおかげもあり、
12月24日、クリスマスイブが論文の締め切りだったのですが、
無事に後期期末論文を提出することができました。
そこからさらに何度か修正を加え、なんとか今年度の論集を完成させることが出来た私たちですが、
次は卒業論文が待っています。
もうすでに書きたいテーマが決まっている人も、そうでない人もいますが、
(ちなみに私はまだ考え中です…)
卒業論文も一人で書いていて悩んだ際には、
こうして皆の力を借りつつ、助け合いながら書いていけるといいなと思います。

秋学期第12回ゼミ

こんにちは、横野です。

 

今回はラドヤード・キップリングの小説『ジャングル・ブック』を読み、ポストコロニアル批評を行いました。

 

実は第11回のゼミでディズニーアニメにおけるオリエンタリズムについて議論になった時、「今放映されているディズニー映画の『ジャングル・ブック』は、オリエンタリズムが顕著に出ているのではないか?」という話になり、急遽ジャングル・ブックを扱うことになったんです!

 

今放映されている作品は持ち込むことが出来ないため原作の小説を批評し、比較・参考資料としてディズニーが過去に制作したアニメ版も用いました。

 

実際に作品を読んでみると、ポストコロニアル批評で読み解ける部分がたくさん見つかりました!

ディズニー好きの室さんだからこその発見です。さすが…。

 

早速始めていきますね。

 

まず、『ジャングル・ブック』についてです。

 

ジャングル・ブックは、ジャングルで育った黒髪の少年モウグリの物語です。モウグリは黒ヒョウのバギーラに拾われオオカミに育てられましたが、オオカミ達によって人間の村に帰そうという話になります。オオカミに頼まれたバギーラはモウグリを人間の村に連れていくため、熊のバルーと共にモウグリと過ごしながら様々な困難を乗り越えます。そして、最終的にモウグリは自ら人間の村に帰っていくというお話です。

 

今回はその中でも「カーの狩り」という短編を考察しました。

 

「カーの狩り」では主に下記の人物・動物が登場します。

 

モウグリ:黒髪の少年。

バギーラ:黒ヒョウ。モウグリを拾った存在。

バルー:熊。陽気な存在。

カー:ニシキヘビ。モウグリを食べようとする。

バンダー・ログ:サルの集団。モウグリをさらう。

 

この短編をポストコロニアル批評で読み解くことで、

【登場人物のビジュアル】

【バンダー・ログの存在】

【インド市の描写】

の3点が浮かび上がってくるという話に。

 

【登場人物のビジュアル】

モウグリは作品内で褐色肌、黒髪、黒い瞳など、様々な特徴が描かれています。また、作品内においてモウグリは野性的な描写を誇張して描かれているという話になりました。

最終的にモウグリはインド市に帰っていくため、インド人であることが分かっています。

この事から、作品内でインド人の野蛮さ、野性的さが描かれているという結論に。

 

【バンダー・ログについて】

サルの集団であるバンダー・ログはジャングルにおいて接することが禁じられるなど、疎外された存在として描かれています。

また、掟を持っていない・自分たちの言葉がない・リーダーがいない・記憶がなくなるなど、他の動物に比べ能力の低さを誇張して描かれています。

 

発表者の提中さんは作品を読んでいる中で「インド人か日本人をモデルにしているのでは?」と考察し発表してくれましたが、議論の中では日本人をモデルにしているという結論に。

 

また、作品が執筆された1894年は日清戦争が起きた年でもあります。このことも影響しているのでは…という話になりました。

作者はイギリス人ですが、アメリカでは日本人が「イエローモンキー」と呼ばれていたよね、など様々な事例も

出てきました。

 

やはり私達自身が日本人なので、バンダー・ログについてはかなり盛り上がりました。ちょっと悲しい気持ちにもなりましたが…(笑)

 

【インド市の描写】

作品内でバンダー・ログはインドの廃墟した都市に住んでいます。

モウグリは当初その市が「すばらしいところ」と発言していましたが、その後「すごくひどいところに来てしまった」という消極的な発言に変わっています。

 

作品内ではわざとらしく腐敗した市の描写がされていることに疑問を持ち、「これはインドが植民地であることを表しているのではないか」という話になりました。

 

これら3点の問題は全てアジア、とりわけインドに対する嫌悪感や差別思想が表れています。

これは作者の経歴が大きく影響しているのでは?という話に。ここで軽く作者について説明を。

 

ラドヤード・キップリングはイギリス人作家で、生まれはイギリス領であるインド帝国ボンベイ。『東と西のバラッド』という作品では「東は東、西は西」という言葉を残しています。帝国主義者でもありました。

 

このように、キップリングは“イギリス人であるがインドで生まれ育ったどっち付かずの存在”という特殊な経歴だったんです。

イギリス人でもインド人でもない中途半端な存在…

あれ?これ、どこかで似た人を見ましたよね?

 

そう、モウグリもそっくりな状況なんです!ジャングルで育ったけれど、人間であるどっち付かずな存在。

 

つまり、作品と作者を重ねると、作者のインドに対する嫌悪感やイギリス・西洋の優位思想が表れるんです。

キップリングはインドで生まれ育っているけれどイギリス人であることに悩んでいたのだろうね…と皆で議論していく中で徐々に同情してしまいました。

 

そして、映画作品についても触れることに。

 

3期生は5人中3人がジェンダーに興味を持っていることもあり、映画作品では人間の女の子の描き方に気になる点が集まりました。

 

映画の中でモウグリは人間の村に帰ることを嫌がっていましたが、ジャングルの茂みから見た女の子に恋してしまい、村に行くことを決めます。

 

その女の子を見つけ、出会ったシーンが気になる!という話に。

 

・女の子は黒髪褐色。

・モウグリに気付いた女の子は意味深な微笑みをモウグリに見せる。

・水瓶で水を掬う間も目配せを送る。誘惑の表情。BGMもムーディーな音楽に。

・わざと水瓶を落としモウグリを呼び寄せ、最終的に水瓶をモウグリに運ばせる。

 

これらから、アジア人の女性に対する神秘的魅力・誘惑する存在という思想が表れているよね、という結論になりました。

 

 

今回はここでゼミが終了しました。

これまでこの作品を読んでいればバンダー・ログはただの嫌なやつだという印象で終わっていたとおもいますが、ポストコロニアル批評を通して、自分達アジア人を揶揄している存在と知ることで妙に親近感が湧いたりと、これまでとは違う読み方が出来る「批評理論」の楽しさを実感できる回だったなあと思います。