4年春期第9回

こんにちは。春期第9回のブログ担当、室です。
今回は、『Film Analysis』第12章・ジェンダー批評を扱いました。

ジェンダー批評では、映画の中に描かれる性別に関する「主張」に着目します。
『Film Analysis』第12章の中では、アメリカ映画『ミルドレッド・ピアース』(1944)を取り上げ、作中の性別役割分業に対する主張を抜き出しています。
第二次世界大戦末期に公開されたこの映画における主張は、「女性は伝統的な女性役割に従うべき」というものでした。
以下、今回のレジュメです。

第9回_相田

また、章末の課題では『レザボア・ドッグス』(1992)を扱いました。
作品内で「男らしさ」がどのように描かれたのかを議論したほか、第5章「語り」で扱った『テルマ&ルイーズ』(1991)を用いて、「女らしさ」との比較も行いました。

ジェンダー批評については昨年から何度も議論してきましたが、そのたびに新しい問題が浮かんできます。
今回の議論を通じて、ジェンダーの描かれ方というのは、多くの作品において議論ができる問題であると改めて感じました。

大学生活最後の1年も、前半が終わりました。
内藤ゼミでは、作品を用いて議論を行うのは4年前期が最後です。
後期は卒論に向けた時間になります。
ゼミ生同士協力し合い、乗り越えたいと思います。

春学期第11回 3年ゼミ

今回の担当は増尾です。

6/27の第11回では
3限 廣野由美子著『批評理論入門-「フランケンシュタイン」解剖講義-』(中公新書)の第2部 4「脱構築批評」、5「精神分析批評」
4限 マルクス『経済学批判』「資本論1」
をとりあげました。

3限の担当は増尾。
今まで様々な主義を学んできましたが、脱構築 は主義ではなく二項対立を崩す手続きであるという話から始まりました。

そもそも、構造主義とは作家(作家性やしゃかいせいなど)を排除し、テクストだけを分析するというもの。
テクストだけがその物語の世界のすべてであるという考え方でした。
これに対して、脱構築主義はテクストの統一性を否定。

脱構築とはどのような方法で行うのか。
二項対立を崩せば良い!!

良く用いられるものですが、西洋東洋を例にすると、
西洋:東洋 は 知的:野蛮
という二項対立が表されたがち。
→西洋の野蛮性を、東洋の知的性を見出すことで二項対立を崩すことができる。
ということになります。

どちらが正しいかの決定が不可能(=決定不可能性)であると示す方法がとられます。

二項対立の解体をあえてさせることによって、予想のつかない展開、読者への驚きを増すことが出来るのだなぁと感じました!

ただ、脱構築もテクストに焦点をあてており、作家性や時代背景を意図的に解釈に持ち込まないということで、私の考えとは違うなぁ……と反論したくなったりしました笑

次に「精神分析批評」

フロイト的解釈
→作品の中の登場人物ではなく、作者自身に関心を向けている。作者の無意識が作品に反映されているという考え。
間テクスト性的解釈ができる。

ユング的解釈
→人間の無意識には民族や人類全体の記憶がある。
そのため文学作品には文明によって抑圧された人類全体の欲望が表れている。

神話批評
→時代・歴史をこえ、現在の作品に共通するものを見出すことで、人間精神の類似性を指摘。

それぞれの解釈が『フランケンシュタイン』に当てはめて例が出されており、授業準備のために読んでいるのが楽しかったです笑
自分で使えるかと言われると……。それぞれの理論がぐちゃぐちゃにこんがらがってしまっていてちゃんと整理しないと……と危機感を覚えました。

4限の担当は大下。
これがまた強者でした!!!!!
マルクス主義を学ぶべく頑張りました。がしかし、頭をフル回転させて、読み込み、理解しようという心意気虚しく惨敗でした。(大下はわかりませんが、私は惨敗です!)

大まかに言うと、
社会構成がAからBへ変わるのはなぜかというと、Aのままでは矛盾があるから。変化が起こるときには闘争なども多く起こる。
流れる歴史の中において、何か矛盾を見出すことができれば歴史の変わり目がわかる!
ということでした。

13回の3限でまたマルクス主義について学びます。
今回のことを元にちゃんと理解ができるように頑張ります!!
授業担当は私、ブログ担当も私。果たして、増尾はマルクス主義と仲良くなれるのか……!!!!
第13回のブログをお楽しみに……。

増尾