7期生ブログ第19回「みなさん(特にあなた)のおかげでした」

ハピニュイヤ。あけましておめでとうございます。徳村です。

またすっかり滞ってしまいましたね。

もう最近はオープニング世間話を考えるのも面倒くさくなってきました。

ていうか、いつからブログの最初はおもしろ世間話する流れになってるんですか!?

個人的にこの本題と全く関係のないオープニング世間話っていうのは、筆者のセンスとか趣向とかが無駄にダダ漏れになっている部分だと思っているのですが、もう最近では段々とプレッシャーになってきています•́ ‿ ,•̀

読者諸君の中にも、「本当はもう本題からスッと始めてしまいたい。。。」「ゼミにあんまり関係ないことわざわざ書く意味が分からない。。。」とブログ執筆のたびにさげぽよ状態に陥っている人がいるかもしれません。

そんなアナタに私は手を差し伸べてあげたい。。。with慈愛。。。慈しむこと。。。愛すること。。。

つまり𝓛𝓸𝓿𝓮。。。

イット・イズ・𝓛𝓸𝓿𝓮。。。𝓨𝓮𝓼。。。

ていうか今思い出したんだけど『恋っていう字は心が下にあるから下心、愛っていう字は心が真ん中にあるから真心』って最初に言ったヤツのこと恋側は訴えた方がいいと思う!うっせーお前に何がわかんだバーカ!!!恋ナメんな!!!

というわけで今回は、7期生ゼミ最長となる3週に渡って行われた『闇の奥』の脱構築批評の様子を、ギュッと凝縮してお届けしていきます!

『闇の奥』は1889年にイギリスの小説家・コンラッドによって発表された小説です。マーロウという船乗りが植民地時代のアフリカ大陸でカーツという人物と出会うことで、自分自身の中にある空虚や闇を悟るというストーリーになっており、植民地主義の凄惨さや人間の闇について考えされられるような作品になっています。

この物語を脱構築批評したのが、今回扱った田尻芳樹氏の『空虚な中心への旅』という批評。『闇の奥』の重要なテーマの一つとして文明/野蛮、西洋/非西洋という二項対立の脱構築を挙げていました。ヨーロッパから見たアフリカは野蛮な他者であり、境界線の外側にいる存在のはずが、マーロウが実際に経験したアフリカの様子や、カーツという人物の存在によってその境界が揺るがされるのです。

また、マーロウの奥地への旅は「暗黒で空虚な中心への旅」であると田尻氏は述べています。田尻氏はその理由として3つのレベルで考察しています。

まずひとつ目に、地理的なレベルでマーロウの旅は空虚であり、それはマーロウ自身がアフリカ大陸のことを暗黒で空っぽな土地であると語っていることからわかります。二つ目に、心理的なレベルでマーロウが探ろうとするカーツの心=中心の中に最後に見出されるのが深い闇と空虚であるということです。さらに、カーツに共鳴しているマーロウ自身の心の闇=空虚に触れることになります。

3つ目に、語りの表現のレベルでもマーロウの旅は暗黒で空虚なものであると言えます。マーロウは「暗黒で空虚な中心」に到達してしまったことによって、自己同一性の崩壊を経験してしまうのですが、そのような人物によって語られる物語は確固たる中心的な意味を持っておらず、それはこの小説が目的論的なテクストの読みを否定し、さまざまな意味と解釈とが複雑に織り合わされたものとしてテクストを読む脱構築的思想を提示しているのです。

このように、脱構築的・脱中心的な思想が濃いように感じられる『闇の奥』ですが、唯一ジェンダーに関しては二項対立を強化されてしまっていると田尻は指摘しています。それは終盤のシーンで、カーツの妻に嘘をつき真実を隠そうとするマーロウに現れています。このシーンでは、男性/女性という二項対立が真実/虚偽という二項対立と重ねられることで、二項の境界線が明瞭に引かれ女性が真実から遠ざけらているのです。

以上が、田尻氏による『闇の奥』の脱構築批評になります。『闇の奥』を読んだことがないと、理解がちょっと難しいかもしれませんね。

そうそう、今回は『闇の奥』だけでなく、本作品をもとにして制作された『地獄の黙示録』にも軽く触れることになりました。序盤の衝撃的なシーンの連発と終盤のジメジメとしたシーンの継続が気持ち悪いコントラストになっていて面白い映画でした。『闇の奥』との大きな違いは戦争映画になっているという点で、人間の心の闇や空虚さというよりも、戦争(今作で扱われたのはベトナム戦争)の空虚さや狂気について考えさせられる作品になっていました。

そして今回の『闇の奥』批評で最も熱を帯びたのは、脱構築批評ではなく夏目漱石の『こゝろ』との比較でした。どうやら夏目漱石は『こゝろ』を執筆するよりも前にこの『闇の奥』を読んでいたようで、村上さんや先生からその共通点が挙げられたことによってこの比較をすることになったのですが、まさか丸々200分をこの批評に費やすとは思ってもみませんでした。200分の議論を全部書き起こすのは私の腕と精神が著しく疲弊するので遠慮させていただきますが、今回は特別にゼミ終了後のホワイトボードをお見せしちゃおうと思います。

ある観点ではクルツ(カーツ)とKが重ねられたりマーロウと先生が重ねられたり、また別の観点ではクルツと先生が重ねられたり、マーロウとKが重ねられたりしているなど、着目する要素によって多様な関係性を見つけることができて面白かったです。こうやって私と村上さんと先生の考察やその場の思いつきで、どんどん議論が深まっていく過程がとてもワクワクして好きですね〜。

さて、私が3年生でブログを書くのはこれで最後でしょうか。ヒーヒー言って滞らせながらなんとか1年間走り切ることができました。よかったー。勢いだけで書いてる故にほとんど怪文書みたいになってる回が数回ありましたが、皆さんが広い心で受け止めてくれたので甘んじまくってやりたい放題やりました。読んでくれた皆さんありがとうございました。

ていうかこのゼミ、ほとんど村上さんのおかげで何とかなってたゼミでした

居てくれてめっちゃ助かりました。ありがとうございました。

何より、帰り道に聞いた村上さんの衝撃的な恋バナの数々は一生忘れません

毎週毎週、結構ドラマチックな展開があるので聞いてて全然飽きませんでした。木曜19時の恋愛ドラマっていう感覚で毎回の楽しみになるレベルです。

あの続き気になるので、また今度聞かせてください。

それでは、私もあなたも誰も彼も、1年間お疲れ様でした!

また曖昧な時期に曖昧な場所で曖昧に会いましょう!

徳村

2年ゼミ第12回「2021年最後の日に綴る。。」

こんにちは!第12回のブログを担当する松島です。なんと!今回年内最後です、、!時の流れが早すぎる、、、

名前の流れをあえてスルーしようと思ったのですが、せっかくの流れなので少しだけ、笑

私の下の名前が「和佳那」でまあ被らない漢字3文字なんですね。文字変換の際は1文字ずつ探す、という手間を毎回かけてます。”わかな”という名前は割と聞きますが、漢字となると当たらないだろう!だと思い、アルバイトの塾講師で担当している中学一年生のクラスの子達に下の名前の文字を当てるクイズを毎週開催しています。もう7.8回くらいチャンスは与えてるのに今だ20人のクラスの子達、誰も当たらず、笑 (中学生なら漢字知らない可能性もありますね) もはや当たる日を待ち遠しく思ってます。

前置きはここまでにして本題に入ります。今回も盛りだくさんでした。毎度毎度ゼミの内容量の多さにはびっくりです!(それほど有意義ということですね)

1.前座

今回の前座は石橋さんです。

“エンドロールの世界”について熱弁していただきました!映画やアニメなどで流し見してしまいがちなエンドロール。しかし、その中にはNGシーンが含まれていたり、作品の伏線が張られていたり様々な魅力がつまっているそうです。私は今まで全然意識していなかったため、作品が終わったあとでも楽しみがあるのか!ともっとエンドロールを見てみようと思いました。色々な作品を紹介していただき、着眼点が面白すぎるととても興味がそそられました!

2.レポートの構想発表

1人目は関根さん。様々な分野で展開される”アラジンと魔法のランプ”の相違点に着目するそうです。たしかに、よく知られているディズニー作品でアニメだけでなく、映画、演劇など広く親しまれているため、それぞれの表現の仕方の違いはとても気になります。ジェンダー観の違いがあるのでは?と問いも浮き彫りになっており、全体の構想がまとまっていそうでした。私も好きな作品なので、どのような分析がなされるのかとても楽しみです!

2人目は伊藤さんです。韓国で話題となった”82年生まれキム・ジヨン”の小説と映画での相違点についてまとめるそうです。偶然にも関根さんと近い構想発表でした。伊藤さんは小説のこの作品に感動して、映画化を楽しみにしていたのに少し期待はずれだったそうです、、どうしてこのような違いが生まれてしまったのか明らかにしたいと思い、今回これを取り上げたと言っていました。もうすでに、内容がまとまりすぎていて素晴らしすぎました、!これからもっと深く分析されていくと思うと、、とても楽しみです!

3.リアクションペーパーに対する応答

時間の都合上、授業では割愛。

授業資料にゼミ生の前回の授業に対する意見がたくさん載っているのですが、私はこれを見るのをいつも楽しみにしています。なんといってもみんなの知識量や意見の深さがすごすぎる!なるほどと感心する内容が本当に多いんです。これを読むと自分の理解も深まり、レポートの構想も新たな方向性が浮き彫りなったりします。今回もゼミ生に刺激を受けるリアペが盛りだくさんでした。

4.論文の書き方の学習

今回は前回までの論文の書き方についての振り返りをしました。

まず初めに論文とは何か。大学生も1人の研究者である。そのため、論文を通して研究の成果を発表する権利があるとのこと。そして、論文は青春の叫びではない!読者を説得するための文章であり、自分の意見をただ述べれば良いというわけではありません。この青春の叫びではない!という表現が私にはしっくりきました。自分の考えとか思ったことを述べていいわけではなく、論理的に理解を求める構造が求められるわけです。一気に難しく思えてきました、、

続いて、引用の方法について。論文を書くにあたり、他の文献から情報を集めることは当然のこと。これを自分の文章に引用する方法は大きく分けて2つあるといいます。

まず一つは「」に入れて直接引用を行う方法。これは文献に記載された内容を「」にそのまま入れる方法になります。要約したり、言い換えをしたりしてはいけません!

そしてもう一つが文献の内容を要約して引用を行う方法です。これは文献の内容が長い場合などに、要約して端的にまとめる手法です。

以上二つの方法どちらも、引用箇所がどこか分かるように「〜によると」や「〜と述べている」など、自分の意見と区別したことがわかる表現が求められます。

そして!これらを引用した際には絶対に引用文献リストを付けなければなりません。これをやる際でも分野によって違いがあるんですね。

人文科学系の論文では、注番号を用いて、注の中に引用文献を記載します。

一方、社会科学系の論文では、著者名と公刊年を用いて文献リストを繋ぎます。

分野によって引用の方法が違うとは!全然知らなかったです。

論文を書く際には色々なところに注意を配り、定型に従うことが大切ですね。なんといってもゼミ生はあと1ヶ月の間にこれを使って論文を完成させなければならないので!へぇ〜って思うんじゃなくて、実践していかないとですね、、泣 大変だ〜〜!

以上が第12回の授業の内容でした。

こんな感じでまとめてきましたが、、

とても難しいですね文章にまとめるって作業。

しかし!書いていくうちに楽しくなってました。

もしまたやる機会があるならばもっと

おしゃれに、賢い人!面白い人!って感じで文章書きたいですね。

「つらいな」って最初は思ってたんですがこういうき

かいってあまりないのでやれて良かったです。あとは

レポートが待ってますね、、しかも冬休み中、泣 頑張っていきましょう!!!

とりあえずここまで乗り越えたからには完成させます!上の最後の文の秘密に気づくでしょうか!最後まで読んでいただきありがとうございました。。

ではでは!また来年!!!!!(^^)/

2年ゼミ第10回「本当に伝えたいことは先延ばしにせず最初に言うのが吉」

みなさんこんにちは〜!第10回のブログを担当します、佐藤舞です。佐藤、の時点で分かっていただけると思うのですが、日本一ありきたりな名前で残念ながら特筆することもありません。ですが、せっかくなので1つだけ佐藤あるあるでも言っておこうかなと思います。

「クラスに自分以外の佐藤さんがいなくても先生からフルネームで呼ばれる」

前置きはこのぐらいにして、今回もかなり内容が盛りだくさんなので、さっそく本題に入っていきたいと思います。

1.前座

今回の前座は関根さん。テーマは「コミックバンドで笑顔に」。ユーモアに溢れた歌詞を主体にした楽曲を演奏するバンドである、コミックバンドの紹介をしてくれました。

1つ目に紹介してくれたのは、打首獄門同好会。生活感溢れる歌詞と高い技術による演奏が特徴のバンドです。2つ目は、ヤバイTシャツ屋さん。メッセージ性を極力排除した歌詞が特徴となっています。

これらのコミックバンドを周知させ、聞かず嫌いをなくしたい、またコロナ禍における笑いの大切さを伝えたいといった関根さんの思いが伝わってくる、非常にアツい発表でした。

笑いの大切さを伝えるため、笑いの効果を医学的根拠に基づいて述べるなど、説得力がありつつ笑顔になれるような発表で、構成も素晴らしかったです。

余談ですが、筆者もヤバTことヤバイTシャツ屋さんが結構好きです。特に受験期に頭をからっぽにしたい時によく聴いていました。個人的なおすすめ曲は「ざつにどうぶつしょうかい」です。ざつにどうぶつをしょうかいする、それ以上でも以下でもない歌詞が大好きで、中毒性のある曲なのでぜひ聴いてみてほしいです(関根さんの代わりに宣伝)。

今回紹介してくれた打首獄門同好会は、名前を見て「う、打首…?!」とギョッとしがちですが、関根さんの発表にもあったように聞かず嫌いせずにぜひ聴いてみようと思います。

2.レポートの構想発表

1人目の発表は石橋さん。テーマは「細田守監督作品における家族像」です。サマーウォーズやバケモノの子、おおかみこどもの雨と雪といった作品の中で描かれる、いわゆる特異性を持つ家族に着目するそうです。例えば、おおかみこどもの雨と雪の場合は人間ではないうえ母子家庭である、というように不完全な家族が描かれます。

石橋さんの問題意識が今の時点でかなり明確なので、綿密な内容のレポートになりそうだなと思います。

2人目は木川さんです。木川さんのテーマは「千と千尋の神隠しにおける油屋は優良企業か」。

非常に興味深いテーマ設定だなと思うのですが、ここで重要になるのが「何をもって優良企業とするのか」ということでした。企業の良し悪しを判断する絶対的な価値観はないため、一口に優良ではない!と言うことは難しいという先生のご指摘がありました。

また、レポートを書くにあたって意義が必要となるため、単に優良かどうかということにとどまるべきではない、といった問いに対するアドバイスがありました。

すごく面白い視点なので、最終的に木川さんがどのような問題意識を持って油屋を分析していくのか、非常に楽しみです。

3.リアクションペーパーに対する応答

今回もたくさんの興味深いリアペが勢揃いしました。一部抜粋して紹介します。

はじめに、K-POPアイドルのルッキズムやジェンダーに対する問題について述べた、坂入さんの前座について。

ファンはアイドルを好きだからこそ、これらの問題から目をそらすべきではなく、ファンの価値観も今後問われるのではないか、といった意見が挙げられました。また、韓国のアイドルと比較して、日本の音楽文化はあまりジェンダーやルッキズムの問題に触れさせないことに対する疑問の声もありました。

次に、前回のレポート構想発表の1人目、斎藤さんに関して。ポケットモンスターの悪役の変容に対する理由を考察する意見が見られました。特に、犯罪が犯罪者個人の責任ではなく、社会的な責任として捉えられ始めていることが影響しているのでは、という意見は興味深いです。

構想発表2人目の竹本さんに対しては、具体的な他の映画を例に挙げ、こんな作品を分析したら面白そう!という提案が数多くありました。

4.批評理論の学習4:ジャック・デリダ「脱構築」

今回の授業では、デリダの音声中心主義批判について学びました。

声と文章という二項を並べたとき、私たちは音声の方が先であるという先行関係を思い浮かべがちです。

ソシュールの言語学では、エクリチュール(文字言語)はパロール(音声)を投影した副次的なもの、つまりついでだと考えられていました。特にヨーロッパにおいては、声(音声言語)と文章(文字言語)の2つは対立するものでした。

この考え方に対して異議を唱えたのがデリダです。脱構築という方法を用いることで、音声中心主義を批判しました。

「ワンワン」ということばを例に挙げてみます。私たちは「ワンワン」という鳴き声を音声、つまりパロールにより耳にすると、「ワンワン」という音声が先行していると考えます。しかし、実際にはそのパロールが「ワンワン」であると認識するにあたって、脳内でエクリチュールに変換するという過程が含まれる。つまりパロールを伝える過程でエクリチュールが入り込んでいるのです。

音声に書記言語が入り込んでいる、と考えることで、従来の音声と文字言語の二項対立の構造を批判しました。

また、デリダの民族中心主義に対する考え方についても学習しました。当たり前のように書記言語を使用する文化を持つ私たちは、無文字社会を「無垢」なものとして位置付けてしまいます。しかし、デリダはこれをヨーロッパの自民族中心主義に基づく、として批判します。エクリチュールはパロールの派生であるという時間的な発展に基づき、文字社会は無文字社会の発展であるという考え

少し説明が長くなってしまいました。前回のリアクションペーパーにも意見がありましたが、脱構築はまさに天才的な考えだなと思います。

5.パラグラフ・ライティングの学習

まず抑えておくべき点は、パラグラフと段落の違いです。パラグラフの直訳は「段落」ですが、実際には両者には明確な違いがあります。段落はなんとなく同じ内容の文章のかたまりであるのに対して、パラグラフとは意味付けされた文書のまとまりのことを指します。

パラグラフ・ライティングをするうえで重要となるのは、「トピック・センテンス」を必ずパラグラフの先頭に置く、という点です。論述文を書くうえで、トピック・センテンスの役割を理解することは欠かせません。

とにかく重要なことは、パラグラフ・ライティングをする上では1文目であるトピック・センテンスが超重要、ということです。

私は文章をだらだら書いてしまいがちなので、この点には留意していきたいです。

ということで、今回の講義の内容は以上になります。

これほど長い文章を不特定多数の人に見られる形で書いた経験がほとんどないので、なんだか緊張しました。最近はSNS上での何気ない発言が取り沙汰される時代なので、発信すること自体が少し怖くなっている部分があったのですが、いざブログを書き始めてみると思ったより楽しんで書けた気がします。

拙くまとまらない文章でしたが、読んでいただきありがとうございました!

2年ゼミ第9回「乱れても変わらない日本語力」

こんにちは、第9回ブログ担当の木川です。

流れ的にまずは名前の話から始めようと思います。木川という名字ですが、濁点をつけて読むのかどうかと聞かれることが多いのです。私の木川は「きがわ」と濁点をつけて読みます。濁点をつけるかつけないかは、名字を作った人のこだわりなのでしょうか?名字について全然知らないので、気になるところではあります。ですが濁点をつけるかつけないか、どちらかで統一していただけると、私自身も迷わず読めるのでいいな~と勝手に思っています。

では、授業内容に入ります。

1. 前座

今回の前座は、坂入夏さんです。

最近のK-POPの良さから、ジェンダーやルッキズム問題まで様々な視点でK-POPを紹介してくれました。最近のK-POP では、作詞作曲をアイドル自らがしたり、アルバムのプロデュースをしていて、本人たちのメッセージがファンにより伝わりやすくなっているそうです。またK-POPアイドルといえば、その素晴らしい容姿に憧れを抱いている方も多いのではないでしょうか?ですが、この容姿のためには体重制限や男性らしさの押し付けがあり、これらが本人たちを苦しめてしまっているのではないかとのことです。K-POPの良さを知るだけでなく、勉強にもなるお話でした!

2. レポートの構成発表

1人目は、竹本光さんです。

竹本さんのテーマは「映画やドラマにおける登場人物の人数」で、この登場人物の人数とは総計の人数ではなく、場面ごとの人数とのことです。「ホームアローン」であれば、なぜ泥棒は2人だったのか?「花より男子」であれば、なぜF4は4人組だったのか?などなど。たくさんある作品から、どんなジャンルで、どの視点から分析するのでしょうか。とても面白いテーマです!

2人目は、齋藤穂花さんです。

齋藤さんは「ポプテピピック」と「ポケモン」の二つの作品で迷っているとのことでした。「ポプテピピック」では、どうして竹書房は爆破されたのか?というテーマ。「ポケモン」では、悪役の質の変容についてというテーマでした。どちらも面白そうなテーマですが、「ポケモン」の方が取り組みやすいのでは?という意見があり、「ポケモン」を推す声が多かったです。齋藤さんはどちらを選ぶのでしょうか?楽しみです!

3. リアクションペーパーに対する応答

今回もみなさんの素晴らしいリアぺがてんこ盛りでした。その中でも、ジェンダーの話が盛り上がりました。コスプレにもステレオタイプがあり、女装にも色々あるのではないかということや、同性カップルなどLGBTQに対して、社会によって享受の仕方が違うことなど。実際にオランダではどう享受されているかを聞き、日本との違いを感じました。このような違いは、作品への影響があるのではないかという話にもなりました。今回も新たな発見ができた時間でした!

4. 課題文「日本語は乱れているのか」に関する宿題の解答

課題の答え合わせをしながら、文章の構造について学びました。この課題文の第3章は反論が多くなってくる部分なので、事例をたくさん用意する必要があり長くなっています。事例を分厚くすることで、説得させるとのことです。ですが、このように文章が長くなってくると、読むのが大変になってきますよね?(私はなります笑)そこで、論文を構造から読み解くという方法があります。構造から要素を取り出すように読むことで、すっきりして見えるようになるのです。そのため論文が読みやすくなり、量も読めるようになります。私みたいな活字が苦手な方にも、論文が読みやすくなる!というおすすめの方法です。これからはこの読み方で頑張ります…!

5. 批評理論の学習4:ジャック・デリダ「脱構築」

ジャック・デリダはアルジェリア出身で、中心地の出身ではないことが重要です。そんなジャック・デリダは、脱構築という新たな概念を立ち上げました。脱構築とは、Aの中にB的な要素があり、AだかBだかぐちゃっとした状態にすることです。そのため、AとBは対立しないことになります。この具体的な事例は来週となりました。

以上が第9回の授業となります。

今回初めてブログを書いてみて、自由だからこそ文章力が問われている気がしましたね。みなさんのブログが面白すぎて、日本語が下手と言われてきた私ですが、人を惹きつけられるような文章を書けるようになりたい!と思ったり。(あぁレポートも頑張らないと…)

長くなりましたが読んでくださり、ありがとうございました!それでは~。

7期生ブログ第18回『現実逃避?いや、現実と戦うためのパワーチャージだ』

12月2日(木)のゼミでは、オリエンタリズム研究の題材として、ソフィア・コッポラ監督の「ロスト・イン・トーキョー」を扱った。この作品は、家庭や仕事について悩みを抱えているアメリカ人の男女2人がそれぞれ東京のホテルに宿泊し、言語や文化もわからない孤独の中で出会い、交流を深める筋書きだ。

そもそもオリエンタリズムにおいて、西欧の男性はアジアの女性を肉感的でエロチックな存在であると規定し、それとは対照的な自分を理性的な人間だと確立する。つまり、他者を規定することによって、それとは違う自分を初めて確立できるようになるのだ。本作で、物語の前半で精神的に日本から疎外されていたアメリカ人である2人が、後半にいくにつれ自らを取り戻せたことは、人を疎外されている人とされていない人に分けるのではなく、アメリカ人、日本人といった人種では他者を規定できないのだという考えにシフトできたことが要因ではないかと考える。その根拠は2人が東京の夜の街で様々な言語を使う人と会話、交流をしたことや、他のアメリカ人、ドイツ人のような白人が近くにいてもそこには馴染もうとしなかったことなどが挙げられる。単なる彼ら2人と日本人との対比構造ではなく、様々な人種の人間が作品には出てきて、その中には彼らと同じアメリカ人もいたのに彼らは異国の地で心を通いあわせることはなかった。

2人の主人公−−−−−−シャーロットとボブは、何もオリエンタルな枠組みからのみ脱出した訳ではない。彼らは様々な面で疎外を感じていたし、そのたび孤独を感じてもいた。シャーロットが東京に来たのはフォトグラファーである旦那さんの付き添いであるが、自身は物書きを目指しているがまだ芽は出ていない。そんな夫との関係にも違和感を感じていた。だが東京で高尚な神社や花道に全く何も感じなかったがアングラカルチャーに自ら飛び込み楽しんだ経験により、夫からはお高くとまっていると言われていたシャーロットはこれから旦那さんのカルチャーをフラットに見ることができるかもしれない。もう1人の主人公、ボブは俳優だが最盛期は過ぎ、日本のCMには出演するものの、本国での俳優としての活動は思うようにいかなくなっていた。そして結婚して長い妻との関係にも倦んでいた。普段の夫や俳優という属性が東京という地でアンロックされることを彼は望んでいたのかもしれない。アメリカ人のファンに対応を求められた時、遠慮して引く態度をとったことも関係があるだろう。2人は同郷なのだからアメリカに帰っても交流を続けようと思えばできたはずだがそうはなりそうになく、2人の関係は東京の地でだけ成り立つものだ。それはお互いにとってお互いが非日常でなければその地で得たもの、感じたことが無駄になってしまうからで、もしアメリカで出会ったとしたらこのマジックはかからなかった。

物語のはじめ、男性主人公のボブがタクシーから東京の街を眺めるとき、その目は目新しい景色に泳ぎ、戸惑っていた。しかし、ラストシーンでアメリカに帰る際に乗ったタクシーからは、落ち着いた眼差しで東京の街を眺めていた。他者と自分の規定が変わったことで、彼らの見ている世界は変わった。今見ている現実は自分の見方によって変わるということを知った彼らは、アメリカでの普段の生活に戻った時、それまでとは違うようにそれらを見ることができるだろうし、自ずと家族や仕事とも向き合うことができるようになるだろう。

非日常は私たちの世界の見方を時に変えてくれる大切なものだ。だからこそ日々に疲れた時はフィクションの世界に浸ったり、旅に出ることは悪くないと思う。そこで世界と自分に対する、自らの先入観を捨て、元の現実と戦うパワーを身につけて帰ってくることができるかもしれないから。

(最後になりましたが、先日の無用之用さんでのイベントに来てくださった皆様、ありがとうございました。たくさんの人が来てくださって、お話できてとっても楽しかったです。また、一緒に店長をした徳村さん、機会を与えてくださった先生もありがとうございました。本来なら何か企画をするべきだったのに、私の力不足でできなくてごめんなさい。でもやって良かったと思います。今回来られなかった皆様も、無用之用さんはとっても素敵な本屋さんで売られている林檎も美味しいので機会がありましたらぜひ立ち寄ってみてくださいね。私も林檎をたまに買いに行くつもりです。)

村上菜々子

2年ゼミ第8回「天才の思考の片鱗に触れる喜びを噛みしめる時、自分もまた天才になったと錯覚してしまう」

今回、第8回のブログを書かせていただく形部龍之介です。ここまで同じゼミに参加されてる皆さんにはぜひルビなしで読んでいただきたいと思います。名前について触れることが定例となっているらしいので触れておくと、この名前(特に苗字)を初見で読める人はあまりいないと思います。ついでに書き間違えもよく起こります。形部が刑部になっているなんてことはよくありますね。前置きはこのくらいにして授業の内容を振り返るところから始めます。

  • レポートの構想発表

 一人目は自分でしたので感想を込みで話させていただきたいと思います。自分がテーマとして取り上げたのは「宇宙よりも遠い場所」という作品です。女子高生が南極を目指すという結構びっくりするような設定のものですが、設定だけでなく話も作りこまれていてとても面白い作品であり、2018年の覇権アニメであると個人的に思っています。(覇権アニメの話をすると大概もめるので個人の感想にとどめておきます)いろんな意見を聞き、自分の頭で考えるだけでは限界があると感じました。発表後に気づいたのですが、作品を分析し発表するということは、ネタバレをしてしまうということになります。素晴らしい作品なのでネタバレをしたくないという思いとレポートで扱いたいと思う気持ちのジレンマはいかんともしがたいですね。

 二人目の発表者は佐藤舞さんでした。女児向けアニメであるプリパラを分析するという非常に興味深い内容になっていました。プリパラという作品は年齢や性別に関係なくアイドルになれる空間が存在するという世界観のもので、作品の内容自体もとても興味深いものであると感じます。近年の女児向けアニメは、いろんな価値観が反映されているように思います。プリキュアを例に挙げると、男の子だってプリキュアになっていいんだと肯定するシーンがあってからの男性プリキュアの誕生、出産するプリキュアなど社会性が反映されることが珍しくなくなってきているように感じます。プリパラというアニメもそういう意味で非常に興味深い分析対象だと感じます。レポートの発表が楽しみですね。

  • リアクションペーパーに対する応答

 今回のリアクションペーパーに対する応答をもってして、ようやくバルトの「作者の死」の内容が完了しました。何回もかけて読み解かねばならないような内容のものをゼロから生み出したロラン・バルトという人物の天才性に彼のテクストを読み解くことでふれられたことを非常に幸せにすら感じます。応答の中で出てきたローマン・ヤコブソンの日常言語においては不足なくメッセージが共有されるということは従属関係があるのだという考え方も自分の中には到底ない考え方でした。大学で学ぶ理論などはどれも天才が考えたものであると感じます。天才の思考に頭をぐちゃぐちゃにかき乱されながら、自分の考えが組み替えられ、成熟していく。その過程を楽しめる人間になりたいと感じました。

  • 論文の書き方の学習:パラグラフライティング

ここで、今までの文章とは趣向を変えてみようと思います。

題「つめる」

 期末レポートの文字数を聞いた時、おもわず笑いが込み上げた。8000字というその分量は今までほかの授業で課されてきた文字数の4倍近くにあたるものだったからだ。取り組み始めないことには終わりは来ないので、テーマを選び、課題に沿ってレポートの大きな流れをぼんやりと固めた。しかしまだ8000字という文字数は途方もないものに感じていた。             

そんな気持ちとは関係なく時間は過ぎていく。最近一気に冷え込んできたからか、いろんなことが不安に感じる。授業が8講まで進んでいるという事実もまた不安を掻き立てる材料にしかならないのだ。今日の講義はパラグラフライティングを扱うものであった。論文の書き方を示されるたびに、レポートの進捗がないことが良くないことのような気がして、気分がより一層沈んでいく。

だが、落ち込んでいても腹は減るものである。授業が終わって帰ればもう夕飯時だ。その夜は、自分の胃と相談した結果ピーマンの肉詰めを作ることにした。材料を買って帰り、玉ねぎを刻み、肉と混ぜて肉だねを完成させた。肉詰めの作業の一番手間なところは肉を詰めることである。ところが、悩みがある日は無心で肉を詰める時間が悩みを忘れさせてくれる。

黙々と無心で肉だねを詰めているとき、この作業はパラグラフライティングに近い作業なのではないかと感じた。そのまま焼いてもハンバーグとして成立するであろう肉だねを、ピーマンというアウトラインの中に詰めていく。共通項を見出すことでピーマンの肉詰めと論文が似たものであるかのように感じた。そう考えると何も難しいことはない。8000字という文字数であろうとやることはピーマンの肉詰めと変わらないんだから。

気分も晴れやかになり、おいしくできたピーマンの肉詰めを食べて腹も満たされた。不安なんてもうない。さて、レポートの内容をつめていかなくては。

  • 最後に

 内藤まりこゼミがもともと小説を書くゼミだったと聞いて、授業内容を踏まえつつ何か書けないかと考えた結果が先ほどの文章です。フィクションなのでピーマンの肉詰めは実際には作ってません。登場人物が独りで会話がないと難しいですね。つたない文章ですが読んでいただけたならありがたいです。もう2000字以上書いているみたいですが、意外と楽に書けたので8000字も案外すぐなのかもしれませんね。これにて今回のブログを示させてもらいます。最後まで読んでくださりありがとうございました。

2年ゼミ第7回「最後わかるかな」

 こんにちは、こんばんは。第7回を担当します、石橋と申します。ぶりじすとんです。以上です。残念ながら私はこれ以上特に名前のお話はしません。楽しみにされていた方ごめんなさい、次回以降の担当者さんにこうご期待ですね。その代わり、今回は先生が過去に受け持っていた日本語表現という授業のとある学生さんのお話を共有しようと思います。(ここからは学生さんを〇さんと呼びます)

 〇さんの最終レポートテーマは「なぜクリスマスはカップルのものなのか」について。日本に浸透している、「クリスマスは恋人たちのもの」という認識に怒り心頭だったようです。確かに、日本ってクリスマス≒恋人と過ごす日っていう認識が強いですよね。(私はただただ美味しいものを食べまくっていい日と認識しています。)〇さんはそんな普遍的な現象に疑問を呈したわけです。そしてなんと!そのアプローチ方法が…明治期から直近までのクリスマスに関する新聞記事を全部読むことでした!熱量が凄い(笑)!その研究の結果、〇さんは大発見をしました。クリスマスは以下のように変遷していたのです。

クリスチャンたちが讃美歌を歌う程度のもの→(一般の人にも広がる)→おじさんたちが吞みまくってどぶに落ちるようになる→おじさんだけでなく家族やみんなでワイワイするイベントへ→(バブル期突入)→恋人たちのものに…

そう、”恋人たちのクリスマス”はバブル期以降に突然できたものだったのです!

すごくないですか?!先生曰く、普遍的な現象ほど証明・分析することって難しいようなのです。だからできる限り対象を絞る。でも〇さんは当時1年生にして「大量の新聞記事を読みまくる」(ちなみに新聞の後雑誌も読み漁ってます)という圧倒的熱量でその壁を越えていったのです。私は〇さんのこの熱量をとても面白いと感じました。皆さんはいかがでしょうか?まあ、機会があったら感想教えてください。とりあえず今回の前置きはここらで切り上げて本題に入りたいと思います。では早速、走吧!

1,レポートの構想発表

1人目:大胡田さん

今回のレポート発表でトップバッターを務めたのは、前回発表予定だった大胡田さんです。大胡田さんが扱う作品は、谷崎潤一郎の『細雪』。当時の結婚規範や女性に対する価値観が本作品においてどのように表現されているのか、といった観点からアプローチを試みるようです。実は、本作品はは戦時中に軍部から「内容が戦時にそぐわない」と掲載が取りやめられた作品だったようで、初めはこれをテーマに持ってこようとして選んだのだそうです。こっちもなかなか興味深そうな問いですよね。素敵な作品チョイスだと思います!

2人目:坂入さん

続いての発表者は第五回のブログを担当してくれた坂入さん。扱う内容は「匿名性の高い作者と作品の関係」についてで、前回前々回に取り上げたドランバルト『作者の死』から着想したみたいです。ここでの匿名性の高い作者というのは、ネット小説の作者や性別明かさないアーティストといった情報の流出が極端に少ない作り手のことです。話題の渦中のバンクシーもそうですね。「匿名性の高い作者の作品がなぜ受け入れられるのか」という問いをテーマにしたいと考えているようですが難易度の高い問いのためまだ少しお悩み中のご様子でした。頑張って!!

3人目:松島さん

3人目の松島さんはリモートでパワポを使って発表してくれました。自身の大好きな「美女と野獣」か「シンデレラ」を扱いたいと考えているようです。ただ、「まだテーマが決まっておらず皆のアイデアを聞いてみたい!」とのことだったので数人のメンバーがアイデアを挙げてくれました。「シンデレラ2」「シンデレラ3」の存在を含めた様々なアイデアと情報が出てきました。松島さん、選び放題ですね。どんなテーマにされるのか、楽しみです!!!

2,リアクションペーパーに対する応答

今回もたくさんほほう確かに~となるリアクションペーパーが紹介されました。そこでここではみんなの考えとそれへの先生の応答を一部抜粋してQ&A形式で紹介していきます。

Q作者は単なる文字の媒介者ではないためエクリチュールには作者の価値観が少しは入っているのでは?

Aもちろんです。作者の価値観は入っています。ただ、十全に作者の言いたいことが反映されているわけではなく、他のものも入り込んでいます。ここにバルトは注目し、これを用いて作者最強という見方を弱めたかったのだと思われます。

Q作者側の人々は自身の書く文章が読者を通して広がり様々な解釈がされることを望んでいたのではないだろうか。それゆえに、作品の解釈が作者に帰結される事態が生じたときバルトは作者の死を願ったのではなかろうか。

Aとてもなるほどと思います。実際、今の作曲家・写真家・作家といった作者側の方々のお話を聞いても「作品が自分の手を離れた時点でそれはもう自分のものではない。むしろ読者が自分の予想もしないような解釈をどんどんしていってくれる方が喜ばしい」と言う方が多くいらっしゃいますね。

Q引用の織物とは意識・無意識に関係なく今まで見聞きしてきたものの反映に過ぎないのかなと思った。

Aまさにその通りです。ロ二・ホーンの展示はまさしくこの点に関して、私たちがどれほど多様なものを見聞きしていてかつそれを取り込んでいることに気が付いていないのか、ということを明らかにしてくれます。

などなど、色々なリアクションが見られました。皆さんとても熱心に学習されているのが伝わります。次回も楽しみですね。

3,批評理論の学習4:ジャック・デリダ「脱構築」

…の予定だったのですが、時間が無くなってしまったためできませんでした。残念!

4,次週までの課題の案内

今回はアウトラインの作成が課題です。ポイントは題目は問いのかたちで書くこととできるところまで埋めること。アウトラインはver1,2,3…と消さずに更新していくことで俯瞰的な視点を失いにくくできます。ここからver何まで作ることになるのか…根気強く頑張りましょう。

さて、今回の内容はこれで以上となります。こういったものを書いた経験がなかったため拙い文章だったとは思いますが、最後までお読みいただきありがとうございました。見聞きしたことを文字に起こすのってとても大変な作業なんですね。勉強になりました。また誰かのブログで登場すると思うので…その時まで、しばしの別れ!

7期生ブログ第16回『ずれ上等!!!!!!』

「サザエさん時空」って知ってますか?

春夏秋冬はあるけれど、1年がすぎても彼らが歳をとったり、急激に状況が変わったりすることはないような時間の流れのことです。特に長寿アニメに多くて、サザエさんの他にも、名探偵コナンや、ドラえもん、クレヨンしんちゃんなどに当てはまります。キャラクターは確固たるアイデンティティーを持っているし、それが変わることもありません。

しかし、私たちが住んでいる世界は、時間が流れゆき、決して止まることはないですよね。今自分が見ている世界が全てではないし、今見ているものは、明日には姿を変えているかもしれないし、無くなっているかもしれません。私たちはよく、自らのアイデンティティについて考えるし、かなりそれにこだわっている人もいると思います。

「クイア」という概念は、ずっと変わらないその人の本質(アイデンティティー)ではなく、そのひとのその時の状態をさすといいます。それは本質なきアイデンテティーです。何かからずれる状態そのものがクイアです。その考え方に立ってみると、私たちは誰もが少なからずクイアの要素を持っていると言えるかもしれません。

私が子供の頃読んでいた児童書青い鳥文庫の「黒魔女さんが通る!」では、すべてが全国平均である男の子のキャラクターがいました。彼はあらゆることにおいてすべて全国平均をとりますが、それだって日本においては平均なだけで、世界規模では平均ではないですし、そもそも身長や体力測定などすべてで世界平均をとったとしても、所属するコミュニティーでは平均ではないので、周りから「普通」だとは認識されないでしょう。もし仮にそんな人が実際にいたら逆にすべてで平均をとること自体が確固たるアイデンティティーにもなりそうです。

今回、授業教材として、映画『ぐるりのこと』をクイア性から分析した卒業生の小野寺さんの論文を扱いました。『ぐるりのこと』は英訳すると『all around us』 映画のラストシーンで主人公カナヲが街ゆく人々の雑踏を見ながら、「人、人、人」とつぶやくシーンは、カナヲと翔子を絶対化しないための描写だとも取れます。クイア性は誰もが持っているものだということを示唆しているようです。

先日徳村さんとある長い話合いをした際に、彼は私よりもかなり楽観主義者で、明るいという新たな発見をしました。私はこれまで、彼と自分は割と似ている方だと思ってきました。もちろん、似ている部分もあるのかもしれません。しかし、そうではない部分の方が大きく、それはとても根本的な違いでした。そしてその違いがあったからこそ、闘争ができました。価値観が違う人同士は分かりあえませんが、それでも2人にとってもっともいい結論を導き出したいという思いが共通しているとき、そこには闘争がおき、そしてそれを乗り越えた先には、それまでなかった平和が訪れるのだと知りました。

闘争を通して、私は徳村さんへの理解が深まると同時に自分についての理解がさらに深まりました。普通に過ごしていて、自分自身の新たな性質に気づける機会はそうありません。しかし、自分と異なる考えの人と、共通の答えを出さなければならない段階になって、初めて見える自分というのがいるのです。その自分は他人からの期待を内面化して自分を追い込んでおり、何かを完璧にこなして認められないくらいならそれをやる必要はないと考える人間でした。しかしそんな自分に気づけたのは、失敗しても、楽をしてもいいから、楽しんでやることが大切だという、真逆の思考を持った徳村さんがいたからです。

それはちょうど、『ぐるりのこと』で「ちゃんとしなきゃ」と思いすぎてそうできない自分に疲れてしまった翔子にカナヲが言った言葉「おってくれたらいい」に通ずるものがあるように、後から思いました。(まあ、ちょっと違いますが)

つまりは「ちゃんとやる」ことができる人間ばかりじゃないけど、ちゃんとできない自分に絶望しないことは難しい、今の自分の限界を思い知るのは苦しいけれど、限界を受け入れられたら、自分がやるべきことがわかってくる、ということです。

ちゃんとできない人に向かって、自分が今まで抱いてきた思い「努力すればちゃんとできるのに、ちゃんとしないやつは甘えているかサボっている」を内面化しては、自分がちゃんとできなくなったとき、それが自分に還ってきて私のように追い込まれてしまうでしょう。

クイアの状態にいる人に対して、自分とは違う、自分はああならないと思うことは、結局自分を苦しめることになります。自分もどこかの一面ではクイアだと認めること。そしてクイアである人やことに抵抗を感じないこと。それが自分も周囲も楽な気持ちで生きていける秘訣だということをシェアしたところで、今回のブログは締めようと思います。

皆さんも、どうか「ずれ」に寛容に。

村上菜々子

(「なんだかいつもより短い」と思った人のために懺悔すると、実は「ぐるりのこと」を扱う前に同じくクイア研究で夏目漱石の「こころ」を扱ったのですが、私が本作のファンでありすぎるためにクイア研究で「こころ」を批評した論文にどうしても納得することができず、納得できてないことをブログに書くことはできなかったのです。それで分量が少なくなってしまったのです、懺悔。)

7期生ブログ第15回『ハズレじゃないよー。゚(゚´ω`゚)゚』

みんなー!滞ってるかーい!?

どうも、お久しぶりです。7期の徳村です。

秋学期が始まって早2か月くらい経ってしまっていますが、一度もブログを更新できておりませんでした。

理由としましては、ギリすぎる春学期レポートの執筆と、ギリすぎる明大祭準備スケジュールが挙げられます(以下言い訳パート)。

まず春学期レポート(1万字)なんですけど、これがマジで終わらなくてメチャメチャ精神的な不調に陥り、発表会にもほとんど出来上がっていない状態で参加し、失態を晒すなどした後、先生の助けを借りながら締め切り一週間前にテーマを変更して、締め切り当日に図書館に籠ってなんとか仕上げた、っていう経緯がありました。それ書きながら授業もやってたわけなので、当然ブログなんて書いてる暇ないワケなんですよね!

次に明大祭準備なんですが、私は軽音サークルであるケーパースとお笑いサークルである木曜会Zを兼部しておりまして、今年は初めてそのどちらにも参加することになり、結果的に春学期レポートを終えた後、雪崩れ込むように明大祭準備に飛び込まざるを得なくなってしまったのです。

軽音サークルではレッチリのボーカルだったんですが、私洋楽なんて今までロクに歌ったこともないし、ラップなんてズブの素人だし、もう必死で聴き込んで歌の練習してなんとか形にしました。他のパートの人はメチャメチャ上手い人ばかりなので足を引っ張らないように頑張りました。

そしてお笑いサークルでは、なんと私史上初めて『3日で4ネタやって、そのうち3本のネタを書く』という暴挙に出まして、ネタ披露の当日朝にネタを相方に送って一緒に合わせながら覚えたり、徹夜でコントで使う音楽を編集したりして本当にギリギリのスケジュールをこなしました。ギリギリだった割にはウケてた方なので良かったなと思います。ちなみに私が書いたネタは『フルーチェの黄金比率』『レストラン強盗っぽい人』『パソコンっぽい人』で、私は『~っぽい人』ネタが好きなのかもしれないと思いました。

そんな感じでメチャメチャ多忙を極めた今年の明大祭でしたが、個人的にはもう大満足で、過密スケジュールの中、本番3日間をちゃんと完走できたことが何より嬉しいし、大学生活の中で一番充実感がありました。一夜明けた翌日に「なんか楽しかったなあ」と思えたことって最近あんまりなかったので、私久しぶりに感動してます。過密スケジュールは精神を追い詰めますが、なんとか乗り越えるとこんな感情になるんですね。たぶん現状、私の走馬灯候補のトップ3くらいには入ってるんじゃないでしょうか。もっと走馬灯候補を増やしていける人生でありたいと思っています。過去そして未来のマイ・スウィート・メモリーズの諸君おかれましては、今後一層の熾烈な走馬灯争いを期待したいものです!

さて本題に入りますが何せ1か月前のゼミのブログを書こうとしているため、正直言って記憶がメチャメチャ曖昧です。なので今回は本当に大事なところ(覚えているところ)だけ皆さんにお届けしたいと考えています。ちょっち短くなるカモなんですがヨロシコ!ってなカンジで宜しくお願いします!

※なお、この記事の執筆に際し、同期の村上氏と村上氏がゼミ中に書き留めていたメモに対して最大限の感謝とリスペクトを送りたいと思います。ダンケ!

今回のゼミ前編で精読したのは『異化としてのメディア』という論文で、メディアという『身体を拡張する道具』が知覚を刷新することによって異化作用が生じることが論じられていました。ここでいうメディアとは、新聞や雑誌、テレビやYouTubeだけでなく、『人間の身体機能を拡張するもの』という意味で、車や飛行機なども含んでいます。

例えば、映画『ベッドとソファ』では夫に従属的な立場を取っていた女性が、新聞やラジオ、飛行機、映画などのメディアに触れることで知覚がどんどん刷新され、意識まで変容していく姿が描かれています。

また面白いのは、メディアによって知覚が拡張した場合に起こる『逆転現象』です。例えば『ベッドとソファ』の場合、夫は「妻にもっと家事を頑張ってもらいたい!」「家事の合間に気分転換できればもっと家事をしてもらえる!」という思いから妻にラジオを与えますが、妻はラジオにのめり込んでしまい、結局家事が疎かになり、夫は自分で家事をしないといけなくなってしまったのです。これがメディアによって知覚が刷新された際に、本来の目的とは逆の方向にメディアが作用してしまう結果として起こる逆転現象です。実際、洗濯機が発明された際には「女性にもっと効率的に洗濯をやらせよう」という男性が嬉々として洗濯機を家庭に導入しましたが、結局「誰にでも洗濯ができる」という洗濯機の特性によって、逆に男性が洗濯をする機会が増えてしまったという話があります。

ゼミ後編では、「異化」をテーマにレイ・ブラッドベリの『華氏451度』を読み解きました。『華氏451度』は本を読むことも所持することも禁止された世界が舞台で、主人公のモンターグは本が見つかり次第出動し、本を家ごと燃やし尽くす「昇火士」として働いているものの、クラリスという少女との出会いをきっかけに本が禁止された世界を疑うようになっていくという物語です。本やクラリスによって異化されていく主人公の知覚が克明に描写されていて、今回のテーマにぴったりだと思いました。選書した村上さんに2度目のリスペクトを。

『華氏451度』の考察に関しては、7期生ゼミ史上最もアツい激論が交わされることとなりました。私と村上さんとで意見が対立したり、噛み合ったり、説得したりさせられたり、そして最後には先生も含めた三者の考察が綜合されたより高次の考察がされるに至り、ヘーゲルもにっこりの弁証法的な議論になったことには一種の感動を覚えました。その内容はメチャメチャネタバレなのでここでは書きませんが、ひとつの作品に対して少人数でここまで深く話し合う機会って他のゼミではできない経験だと思いました。みんなも内藤ゼミでヘーゲルをにっこりさせよう!

最後急に宣伝臭くなってしまいましたが、コレなぜかというと、最近他の情コミ生とゼミについて話す機会があって、その際に「徳村はどこのゼミに入ってるの?」と訊かれたので「俺はファッキン刺激的な内藤まりこゼミでファッキン忙しくしてるぜ」的なことを答えたら、「内藤ゼミ?えーそれってハズレゼミじゃない?」と言われて衝撃を受けたからなんですね。

えっ!?俺のゼミってハズレゼミ扱いだったの?

私はすぐさま反論し、当ゼミの素晴らしいところと辛いところを2:8くらいの割合で紹介した(※実際の比率です)のですが、まあこれは価値基準の違いに終始する話になってしまうのでその人には届かなかったすね。

確かにコスパの良さ、単位取得のためにかかる時間と労力の観点からみると、内藤ゼミはゼミもゼミの準備もメチャメチャ時間かかるのでハズレゼミと言わざるを得ないのかもしれませんが、もっと長い目で見て、そのゼミが自分のためになっているかどうか、という観点から考えてみると、私は内藤ゼミをあたりゼミだと思うことができます。

このゼミは文学批評のゼミなので、文学と向き合い続けるだけのゼミだと思われがち(私もそう思ってました)が、実際には意外と文学よりも世界・社会、そして自己と向き合うことの多いゼミだと私は感じています。なぜなら文学はいつも社会や世界、そして自己を映しているからなんですね。だから文学批評をするには社会や世界や他者や自己を読み解かないといけないんですよ、マジ大変ですよねコレ。でもそれは他のゼミではなかなかできないことなんじゃないでしょうか。内藤ゼミは決してハズレゼミではありません!ちょっと大変なだけです!ちょっと授業時間が長かったり(200分)、ちょっと隔週で論文をまとめてレジュメにして発表する課題があったり、ちょっと学期末に1万字の論文書いたりするだけです!そしてちょっと病むだけです!こわくないよー!ぜーんぜんこわくないよー!ぜーんぜんハズレじゃないよー!

という訳で最後にはゼミ試を受ける2年生向けてのブログになってしまいましたが、次からはしっかりと書けるように頑張ります。もう滞らせません。たぶん。2年生の方々のブログが凄い熱量なのでプレッシャーも感じつつですが、私は私でマイペースにやっていきたいと思います。

ではまた次回~。再见!

2年ゼミ第6回「作者はもう死んでいる」

 こんにちは。第6回担当の齋藤穂花と申します。

 前回まで名前の話が続いていますね。今回は内藤先生の名前の起源についてお話も聞けました。というわけで、私も何か書き記せることがあればと思ってパソコンに向かったのです。……向かったのですが、いかんせん「齋藤穂花」などという、ひと学年に一人は必ず見かけそうな名前と、ひと学年に一人どころか、うじゃうじゃいそうな苗字のコンビ。どうせなら「山田花子」とか、TOP OF 凡庸! といった名前の方が面白かっただろうに……(失礼)。

 ところが、私のThe 凡庸! な名前にも一応、非凡庸な話がありました。なんと、なんと……私の名前は最初、「ユリア」になる予定だったのです! というのも、厄介ヲタク選手権おじさん部門代表である父(どうか父にはご内密に。笑)が『北斗の拳』に熱を上げるあまり、ヒロイン(超絶美女)の名前「ユリア」をそのまま私につけようとしたというのです。しかしなぜ「ユリア」が「ホノカ」に変貌を遂げたのかはいまだに謎のままです。父の酒の肴は『北斗の拳』語りに逸れ、そのまま直進して戻ってきませんでした。そして、なんということでしょう(某住宅改造番組風)。私も『北斗の拳』が読みたくて堪らなくなってしまいました。お父さん、布教用に全巻買ってくれればいいのに。ヲタクは魂を賭けて信ずるものを布教する生き物だというのに(主観と偏見)。

 というのが、今回のブログの何番煎じか分からないタイトルを決めた経緯でございます。魂を賭けた『北斗の拳』ファンの方がいらしたら申し訳ございません。けれど、実際にバルトもこう思っていたり……なんてことはないか。というわけで、自分語りが過ぎてしまった気もしますが、ここからはちゃんとゼミの内容をお送りいたしますよ、たぶん!


1.前座:形部龍之介さん


 今回の前座を担当してくれたのは、形部龍之介さん。アニメーションの作画についてレクチャーしてくれました。素晴らしい作画は作品のクオリティの底上げに一役買っていて、特に作画が良いと評判なのが京都アニメーションだそうです。逆に作画崩壊で有名なのはキャベツ問題。たしかに調べてみたら「キャベツ色のドッジボール……?」となりました。むしろ芸術? 最後に、京アニ最高傑作の『バイオレットエヴァーガーデン』が金曜ロードショーで二週連続放送中なので是非みてみてね、とのことでした。私の積みアニメリストがどんどん膨らんでいきます。うーん、幸せ。(見ろ)


2.リアクションペーパーに対する応答


 前回の講義内容であったロラン・バルト「作者の死」について、今回も熱い熱いラブレターがたくさん届いていました。

 まずは「個」という概念について。まだ掴み切れていないという声もあり、時代背景も含めて先生から解説がありました。その頃西洋に染みついた「個」の概念は、家父長制の文化があった日本にはなかなか広まらず、明治時代の文明開化でがらりと思想が変わるということが起こったといいます。「歴史を学べば当たり前だと思っていた考え方が絶対じゃないと分かる」という先生のお言葉には目の覚めるような思いでした。(本当に寝ていたわけではありませんよ?)

 また、それに関連して、平野啓一郎著の『私とは何か「個人」から「分人」へ』という本を紹介していただきました。就活鬱になったときに救われそうな内容でしたね。ぜひ読んでみたいと思います。

 次に、エクリチュールについて。こちらは先生に前回できなかった説明をしていただきました。バルトは、あるエクリチュールが生み出された「起源」は特定できないと主張しています。ほほ~、なるほど。たしかに私も『北斗の拳』が何年の連載開始か知らん(知識不足)。……ではなくて、エクリチュールとは、起源とは一体何ぞや。 この純然たる(?)疑問を解消するには、バルトの時代に元々浸透していた考え方を知る必要があります。当時、文学については「書かれたものは死」、「声は生」と考えるのが主流でした。書かれたものは半永久に存在し、逆に声は一回的なものであることからです。バルトはそれに異を唱え、エクリチュールはそれを生み出した主体に紐づけられるものではないと主張したのです。そして、エクリチュールではあらゆる自己同一性が失われるとしました。自己同一性? WHAT? という人は『鬼滅の刃』や『鋼の錬金術師』を見てみてください。これらは女性作者が描いていますが、男の主人公像や物語が薄っぺらいなんてことはありませんよね。

 最後に、テクストについて。「テクスト」とは本来織物のことであり、バルトはテクストを「無数にある文化の中心からやって来た引用の織物である」としています。ここではその「引用」に関連し、先生のお名前の由来を聞くことができました。究極をいえば、私たち人もテクストなのだということが分かりますね。私の中にも『北斗の拳』という偉大なる引用が……入っていると言えるのでしょうか。笑

 そんなこんなで、「作者の死」については今回でひとまず終わりとなります。皆さん、お疲れ様でした! 次週からはもっと難解そうな理論が立ちはだかりますね。頑張り……ましょう……。


3.学期末レポートの構想発表:大胡田さん

 ……のはずだったのですが、時間が押してしまったので次回に発表してもらうことになりました。楽しみです。


4.論述文の書き方の学習2

 今回は論文の構成要素(内容)の復習と、アウトラインの作成について学習しました。論文の構成要素にはテーマ、論点、結論、論拠の四つがあり、アウトラインには序論、本論、結論があります。アウトライン、と聞くと輪郭を思い浮かべそうですが、ここでは骨組みを意味するそうですね。骨を組み立てては崩し、組み立てては崩してまた組み上げる……という作業の大切さは、ブログ執筆にあたって改めて痛感しました。更新が遅くなってしまったこと、お詫び申し上げます。私のようにならないように、皆さん学期末レポートに向けて頑張りましょうね(どの口が)。

 ちょくちょく私見や願望がにょきっと顔を出してしまいましたので、スパッと締めたいと思います。ここまで読んでくださりありがとうございました! 私は期末レポートまでに『北斗の拳』……ではなく、厄介だけど優しいヲタクの父が録画してくれたハガレンの一挙放送と『ヴァイオレットエヴァーガーデン』を、先に見尽くしたいと思います。それではお元気で!