第4回 6期生ブログ「子ども」

こんばんは、本日ゼミ担当でした。おそらく3回分このブログが円滑に回っていないので、本来ならば7回目になるはずです、、、。

さて、私は最近「子どもを産むこと」についてかなり毎日のように考えています。地元の友達が出産をしたり、友達の兄に子どもが生まれたり、友達の友達の赤ちゃんをSNSで見たり、、、などなど。子ども、出産について考える機会が一気に舞い込んできたという感じです。

ゼミでも何度か話していますが、私は本当に子どもが大好きで、可愛いな、面白いなと思います。しかし、子どもならみんな可愛いので、「自分の子ども」に対してどんな感情を抱くのかが全く想像できません。

そんな私ですが、一応は子どもや子育てに興味がありすぎて、SNSで主婦の「子育てあるある漫画」のような投稿をかなり読み込んでいます。子どもの可愛らしい面白い日常の発言や、子育てで大変だったことを興味本位で読んでいました。しかし最近は考えすぎた結果「全部、産む選択をしたのはあなたなんだから、子育てが大変と言っているのはおかしいのではないかな」と思ってしまい、そういう類の投稿をみるのが嫌になってしまいました。また、子ども、赤ちゃんのことを「可愛い」と言っているのもなんだかおかしな感覚になっています。目的はなんであれ、子どもを「欲しい」というそのシンプルな気持ちだけで世の中の人々はよく人間を生むことができてしまうな、と恐ろしく思っています(笑)

「みんなやっていることだから」「可愛いから」「パートナーとの関係を円滑にするため」「親からのプレッシャー」「パートナーとの子どもが欲しいから」などなど、、、出産する理由なんかいくらでも思いつきますが、私はどんな理由も1人の人生を背負うには軽すぎるように思えてしまいます。

子どもを生むということは、今の時代においてもはや自分のためでしかないように思えてならないのです。(国のためではない、国のためであったとしてもそれは自分のために回帰するようにも思う)

私は子どもが好きですし、子どもを生むときっと楽しいことや喜びがたくさんあるのだろうなと思いますが、自分のため以外の何かを見出せないと中途半端なこの気持ちがずっとどこかに残ってしまう気がします。(と言いつつ、けろっと忘れるかもしれませんが)

一度この思考沼にハマってしまうと永遠にループして抜け出せないと思うので誰かに救ってもらいたいです。

第3回 6期生ブログ「暗いもの」

遅くなりましたが先週担当だったのでブログを更新していきたいと思います。

先週は皆さんに改めて映画『友罪』を見ていただきました。私はもう何回目かになりますが、何回見てもこの映画は暗いなと思います、、、。

思い返せば、私は小学生の頃から何かと暗いものが好きでした。ピアノを習っていましたが、発表会の曲を選ぶときに「とにかく暗いもので短調の曲がいいです」とピアノの先生にリクエストしていたのを思い出しました。

クラシックでも映画でも小説でも割と暗いものが好きです。(暗ければなんでもいいというわけではありませんが!)なぜ暗いものが好きなのか考えてみても答えがあまりはっきり出ないので、これは感覚的なものなのかなと思います。

ですが、論文を書くにあたっては、この「感覚的」なものだけではなく、はっきりと目的意識と順序立てて理論を展開しなければなりません。

今からただの感想作文になってしまわないかとても不安ですが、自分が惹かれた作品に自信を持って、自分の中の主張や考え方を整理して論文という形で提示できればなと思います。

引き続き色々な作品を見つつ、私から見えた『友罪』をしっかり言語化していきたいです。

小野寺

 第2回 6期生ブログ「仁義なき戦い」

今回から本格的に卒論に向けての個人発表が始まりました。私は『仁義なき戦い』を題材にし、様々な議論をしました。

それぞれの意見の違いや感じ方の違いを共有することは、映画を観るという行為の醍醐味であると思っています。しかし、私は残念ながら語り合う人がそんなにいないので、このような場で議論することができたのはとても良い経験になりました。そして一人では見る気にならないだろう(?)『仁義なき戦い』をみなさんに観ていただけたのは、よかったです。今は古い映画にも簡単にアクセスできるので、積極的に観ていただきたいですね。

以下、私が以前書いた『仁義なき戦い』シリーズの批評文になります。この機会に載せます。内容は議論で私が話したこととそこまで変わっていません。

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「極道っちゅうもんは、死を覚悟しなければいいけないのだよ!」

そんなセリフはないものの、でも、そういうことなんだろう。言うまでもない共通認識なんだろう。死と、刑務所は、極道のつきものかもしれない。このシリーズを通じて多くのものが血を流し、多くのものが刑務所に放り込まれた。それが極道なのだからしょうがないね、の視点もありつつも、結局は…結局戻ってくるのは、死の匂いだった。死んでも守りたいものはあるのか?無駄な死と呼びたくない気持ちを抑えてまでも、無駄だと思ってしまう死があまりにも多くないか?広能は最終的に、死んでまでも行う組の増殖に、懐疑的になってしまったのだ。そのことを決して口には出さないし、体現はしない。彼は身を引くだけだ。

このシリーズはどの話も最終的には若者の死を描いていることからも、制作人の意図的なメッセージが伝わってくる。広島という死の記憶がこびりついている場所を舞台としながら、さらに上乗せされていく多くの死に、それを引き起こしてしまう制御の効かない組という生き物に、懐疑的な目を向けていく。組員の駆け引きは非常に人間味があふれ、広能の筋の通った力強さ、感情豊かにぶつかりながらの生き方は、このシリーズの唯一無二の答えを提示していた。広能に寄り添うばかりで、広能の弱さが見えてこないところがまた映画のずるいとことではあるが。広能は死に対して人一倍敏感だったのだと思う。特に部下たちの死に。殺した本人でさえ責任を取ることのできない、組という生き物が引き起こした死に、彼はやり場のない怒りを持つ。その怒りは、結局は復讐という形をとってしまう場合も多々あったが、抱え込んで生きていく道徳の教科書ではないのだから、当然だと言ってもいいだろう。しかし、他のヤクザたちには欠けているような、広能の死を嗅ぎ分ける繊細な心遣いに、観客はひかれたのだろう。

物語の最後は、常に原爆ドームが象徴的に使われる。弱肉強食の暴力は、押さえ込んでも時代が経ても、形を変えて続いていく。これは今も言えるだろう。物理的な暴力ではない様々な暴力も多々溢れている。そんな中で発生してしまう死に、広能のような繊細さを持って、深く傷つき、絶望する必要があるのだと思う。たとえそれを防げないとしても、固有名詞の死に、自分一人で接すること。原爆ドームという非常に匿名的で象徴的な存在をまえに、広能は一人ひとりの死を嘆くのだ。顔にも言葉にも出さずに。

宮本

卒論構想発表を終えて

お久しぶりです!だいぶ日数が経ってしまいましたが、9月5日に行われた「卒論構想発表」の振り返りをしたいと思います。
オンラインでの発表となりましたが、なんと8時間も発表、話し合いを行いました。地下ゼミのOBの先輩方も参加してくださり、とても濃い時間となりました。
私は、映画を用いて卒論を書きたいと思っており、今回もみなさんには映画「友罪」を見てきてほしいとお願いしました。お忙しい中先輩方は見てくださっていて、それぞれのご意見をお話していただきました。本当にありがとうございました。私の発表と映画にとても真剣に向き合ってくださり、全く衰えを感じさせない鋭いご指摘をたくさんもらえたので自分自身がどういう方向性で書いていきたいのかが以前よりも見えてきました。
しかし、私が考えたいテーマ「家族・つながり」については、先輩方がすでに考え尽くしたテーマでもあるので、何かしら自分らしい色をつけなければならないなと思います。とても難しいです。がんばります。
また来年OBとして、この地下ゼミの7期生の卒論構想発表で鋭い意見を言いたいいなあ。なんて考えています(笑)
後半戦もがんばります!

小野寺

第16回 6期生ブログ「もういくつもの世界」

春学期のゼミを終えてから、このブログを書くまでに一週間もかかってしまった。何を書こうかしばらく考えていたが、どうしても『リキッドモダニティ』の絶望的ともいえる結末に何も言葉が出てこなくなってしまったのだ。

答えのないバウマンの語りに終始ウンザリしつつも、その的確さに、ついつい納得してしまうもどかしさ。『じゃあどうしたらいいの?!』でも、答えはそう簡単にわからない、そう簡単にわからないからこそ、こうして同じように頭を抱えるしかないのだ。

私は最終的に、以前から少しだけ知っていた理論「思弁的実在論」に可能性を見出した。なぜなら、この思弁的実在論は、まさにバウマンをはじめとするカント以来の相関主義を乗り越えることを目的としているからだ。どうして乗り越えなくてはいけないのか。世界は私たちの意識の網の中の作り物であるという認識を持つ相関主義は、今となっては当たり前に感じてしまう考え方であり、これを土台にしているからこそ、様々な作り物を壊し再構成することが求められているのだ。だからソリッドモダニティは溶けて、リキッドモダニティになった。世界は変わるのだ。しかもリキッドモダニティにおいては、世界の形が全く不安定になってしまい、一寸先すら見えぬ道を迷いながら行く孤独で過酷なレースを行く必要があるのだ。バウマンが範疇に入れていたのは、社会と呼ばれる場所で起こる様々な営みだった。個人の行動としての買い物、都市空間や時間認識、仕事形態、そして共同体の姿…その批判的な主張は全く一貫していた。しかし、バウマンは思いもしなかった社会の変化が、この2020年に起きてしまっているのだ。(私はこの点に、ゼミが終わってから気づいたのだった)

もはや政治的な扱いを受けてしまっているようにも感じる新型コロナウィルスは、元はと言えば、人間の力ではどうにもこうにもできないエコロジカルな危機の一つだ。他にも、地震、台風、気候変動などの自然災害も入れることができる。(そういえばバッタの大群はどこで何しているのだろう)しかし、地球環境に何らかの影響を多かれ少なかれ及ぼしてしまっている人間にとって、自然災害が全く無関係なものとして起こるとは考えづらい。しかし、それでもなお操作は不可能なのだ。人間が生きている限り、地球の地面を踏み続ける限り、環境に変化を与え、環境の変化を共に受け入れるしかないのだ。このとき私が対象にしているのは、人間の認識の網の外を出た<世界>だ。これはバウマンが散々語ってきた社会=世界とは異なる。(バウマンはエコロジーについては全く言及していない)バウマンの範疇であった社会=世界が、あまりにも人間中心ではないだろうか?今ここで、ゼミが終わってみて初めての問題提起をしたい。

人間の認識の網の外を出た<世界>は「存在する」のだ。人間が生きている世界だけが、世界だろうか?そうなったら私の愛犬は世界の一員ではないのか?家の外で様々な姿を見せてくれる植物や動物は?また、この熱い太陽は本当の意味で地球には存在していないが、人間をはじめ世界に暮らす様々な存在に大きな影響をもたらしている。バウマンが言うような社会=世界=生活世界だけが、世界ではない。それは広大な世界の、たった一部分なのだ。その一部分が残りの部分に影響をもたらし、もたらされるのだ。私の知らない、絶対経験することのできない<世界>が、私の認識とは関係なしに、紛れもなく「存在する」…そこは決してリキッドモダニティではないだろう。答えのないバウマンの『リキッドモダニティ』を乗り越え明日へと活かすには、リキッドモダニティの外へと出る必要があるようだ。

これらが「思弁的実在論」が語ろうとしている、大まかな考えの一部部分らしい。(ただいま絶賛勉強中です!)これらを貫くのは、温暖化や海洋汚染などのエコロジカルな危機からもたらされる人間の脆さや実在の不安定さとどう向き合っていくかという危機意識だ。その意味で、リキッドモダニティであるが故に生まれたと考えてもおかしくはないだろう。バウマンはここで初めて警告書の外に出るのだ。

私はまだ、知ったかぶりで語ることも許されぬほど、この分野に関しては未熟であるが、本当に大きな可能性を感じていることは確かだ。何よりも、私が生き辛いと感じてしまう世界は広大な世界の小さな小さな一部分でしかないという紛れもない「事実」が、私を生かすのだ。それは現実逃避になってはいけないと思う。脆くて儚くて、不完全で未完成な人間が、それでも生きていくことのできる場所を探すような作業なのだ。リキッドモダニティの外に出て、リキッドモダニティを眺めること。他の世界との関連性の中で、人間の居場所を探すこと。人間中心的な思考を出たときに、初めてバウマンの束縛(これは多くの社会学が陥るようなアポリアである)から解放することができるように感じるのだ。

ふと、童謡『手のひらを太陽に』を思い出して口ずさんでみる。ミミズやオケラやアメンボと友達になった記憶はない。この先も友達として飲み会に誘うようなこともないだろう。それでも、この<世界>を構成する大切な一員であるのだ。人間がリキッドモダニティであろうとなかろうと、ミミズやオケラやアメンボと、人間は友達であり続けるのだ。

もういくつも、世界がいくつでも存在する。リキッドモダニティはその一つに過ぎないのです、みなさん。

宮本

第16回 6期生ブログ「共同体」

昨日、春学期最後の自主ゼミが終了しました。なんと5時間にも及ぶ話し合いになりました!
これまで『ディスタンクシオン』と『リキッド・モダニティ』を読み進めましたが、毎週多くの文量を読んできて、隔週でレジュメを作成し、ゼミでは3時間半もの話し合いという、今振り返れば16回もよく乗り越えられたな、と自分に感心してしまいます(笑)
私は正直、同期のゼミ生2人よりも怠惰な性格であり、大学の授業への向き合い方も違っているなと毎回のゼミでひしひしと感じていました。そんな私がここまで頑張れたのも、義務感からくるものではなく、心から楽しいと感じ、絶対に個人的には読まないであろう文章を読むことで得られる知識、価値観、私とは似ていない(きっと何か共通点もあるからこそ集っているのでしょうが)2人の意見を聞くことで得られる新しい考え方、新しい自分、、、様々な収穫があるからこそ積極的にやってこれたのかなと思っています。

たくさんの話し合いを経て、私は結局「自分が何者なのか」が知りたくて知りたくてしょうがないのだろう、ということがはっきりわかりました。春学期のゼミで取り上げた二つの文章と、先生が講義してくださった内容は共通して「他人・他者性をどう捉えるか」ということだったと、私は感じています。今期のゼミの内容をその観点から捉えているのも、「私らしい」のではないのかなと思います。
私は他人にとても強い関心があり、嫌がられないのであれば、全員に人生について、価値観についてをインタビューしたいぐらいの勢いですが、それも結局「他者を知ることで自分を知るため、結局自分のため」に他者への関心が強いのだな、とようやく理解しました。他者はどういう道を歩み、どう物事を捉えるのか、それは自分とどう違うのか、自分はその他者に対してどういう感情を抱いて接しているのか、自分はその他者に対してなぜその感情を抱くのか、、、という風に、結局は自分自身という人間について明らかにしたくて、他者への関心がどんどん増しているのだろうと思います。自分自身について知りたければ、内省的に考えればいいじゃないか、という意見もあるのでしょうが、私は本能的に、他人を通して自分を浮き彫りにするタイプであります。また、自分とは絶対に同じではない「他人」という存在をとても面白いと思うことができる才能があるのだと思います。だから、「八方美人」と言われがちですし、他人から「あなたは私のことをすごくわかってくれるよね」とよく言われます。他人のことをよく理解しているのは、私が他の人よりも関心が強いからこそなのだな、と思います。完全には理解できないので、おそらく、その他大勢より私が観察をした結果、理解が深まってしまっているだけなのです。好き嫌い関係なく興味があるだけです。
最近では、表象作品に関しても純粋に思う存分楽しんだ後に(私は分析はあまりできません、純粋に鑑賞します)、なぜこの作品に関して自分はこのような感情を抱くのだろうか、という自己分析に繋げてしまうようになりました。結局自分のことばかりです。
最初はきっと他人への関心も表象作品同様に、純粋に楽しんでいたのだと思います。なんでこの人はこんな考え方、こんな行動、こんな趣味があるのか?知りたい!!!私とは違う考え方、知りたい!!!!みたいな。
けれども今は、なぜ各人間はこのような考え方に至り、行動ができるのだろうか、自分は?という風に他人から自分へ繋がってくることが多いです。

そんな私なので、私にとって「他人」はなくてはならない存在であり、一番の興味対象です。いや、一番の興味対象は自分のことも含めるので「人間」ですね。
この春学期のゼミではここには書ききれないほどの多くのことを学び、世界の見方も変わり、自分自身も変化しました。そこで発見したことの一部を綴らせていただきました。
後期も過酷でしょうが、私にとっての「仕事」であり、重要な共同体の一つであるので頑張っていきたいと思います。とても楽しみです!!!

小野寺

第15回 6期生ブログ 「蒸発宣言」

 

将来に対する漠然とした不安、一歩先すら見えない恐怖、ますます何が何だかわからなくなり、自分がどこに立っているのかすらはっきりしない。私は今、とてもじゃないほど、不安で押しつぶされそうになっている。

そんな私をピタリと言い当てるようなバウマンの仕事は、私をますます苦しめる。だからこそ、そんなバウマンを倒したい気持ちに駆られるのだ。私はリキッドモダニティの犠牲者かもしれない、だけども、新しい何かが私を救い出してくれるかもしれない。例え机上の理論であったとしても、私はそんな私を助け出す考えを求めている。それが欲しくて何かにすがりたくて必死になっているのだ。

実はこの春学期に、みるみる元気がなくなり、床に冷やし中華をぶちまけてしまったことをきっかけにして、精神科にかかったことがある。そこの、診療室はSMAPのポスターやグッズで埋め尽くされていて、医者はボロボロの白衣を着てボサボサの髪でマスクはずり落ちていて、私の言葉を半分苛立ちながら聞き、私は完全に間違ってしまった!と悔やむような気持ちだったのだが、しばらくして医者が言った言葉に驚愕したのだった。医者は、自身が勉強ができず留年して中退を考えた経験から、「テキトーでイイんだ!」と思ったそうだ。一度置いてけぼりを食らって、社会の規範やレールから落ちることを経験して、何もすることがなくなった”失格”の称号を食らってしまった医者は、もうどうでも良いや!とサジを投げてしまったそうなのだ。それでも、その肩の力を抜いたことによって、もう一度医者になってみる気力が湧いてきたそうなのだ。「そんな感じで、テキトーで良いんじゃないかなあ」と医者は、医者としてのアドバイスとより、ただの人間として私と接し、人生の先輩として助言を試みたのだった。私はまずその事実に驚愕し涙ぐみ、次に、自分が悩ましいと思っていた不確実で不安定な未来に、なんとか乗っかっていけるような気がして再度涙ぐんだのだった。昔から心配性でどこか優等生気質が消えない私が、そういった考えに至ることはなかった。いつも落ちたら終わり=死んだ方がマシ!のような、エリートであることを是として生きてきた私にとっては、目から鱗の考え方だった。そうか、立派(?!)に医者になっているこの人も、テキトーに生きてるんだな、と。テキトーとは、柔軟性と近い考えかもしれないが、臨機応変で計算高い柔軟性に比べて、行き当たりばったりのようなゲーム感覚が強いだろう。そして、偶然性に身を委ねるかのような、達観している印象も持つ。自分で責任を取らなければいけないリキッドモダニティにおいて、テキトーは自己責任が通用しないような、そんな乱暴さもある。

私はこの、人生史上最も難関の岐路に立たされながら、不安定な未来を恨み、なるべく安全安心な道を行こうとしていたのだった。完全にリキッド・モダニティの犠牲者の私は、それでもまだリキッド・モダニティにいなくてはならない。そうなったらもう一つしかない、不安に思わないことだ。例え不安定であったとしても、失業しても、何があっても、もうどうでも良い。テキトーに生きることだ。それしかない。聞こえ方によってはとても自暴自棄のような考えかもしれない。しかし私は、それがこの神経質なリキッドモダニティを生き抜く一種の抵抗運動なのかもしれないと思っている。だから私は、不安定な未来を考えるのはやめて、かといって一瞬の享楽だけを楽しみ、あとは全て不安に怯えるようなこともやめて、今も未来もそして過去も全てを含めた、どこか達観したような落ち着きと適当さを揃えた、気体のような生き方をしたい。水の沸点は100度だ。私は何度で蒸発できるのだろう。

でも…書き終えて、やっぱりなんだか…どうしてこんなに悲しいんだろう。

これが自由というものかしら

自由になると淋しいのかい

やっと一人になれたからって

涙が出たんじゃ困るのサ

やっぱり僕は人にもまれて

みんなの中で生きるのサ

吉田拓郎『どうしてこんなに悲しいんだろう』より

(最近フォークソングばかり聴いて、しかも涙ながらに歌ってしまうのは完全に、私の気分が、時代の気分が、70年代前半の”若者たちの挫折”と似ているからなのだろうなあ、という話はまた別の機会にでもどうぞ)

担当:宮本

第14回 6期生ブログ「時間/空間」

こんばんは!
第14回のゼミでは引き続き『リキッド・モダニティ』の精読と関連することについてたくさん話し合いました
。今回は第3章の「時間/空間」でした。

読み終えてから、今のこの新型コロナウイルスによって人々の時間と空間の使い方、考え方がかなり大きく変わったのではないかと考えていました。
人々はまず「移動時間とは何て厄介だったのか!」ということを、頭ではなく体で実感したのではないでしょうか。頭では「リモートワーク」を理解し、とても合理的なことはわかっていましたが、今まで実際にはそこまで普及していなかったように思います。みんなで満員電車に揺られて、わざわざ出勤していましたし、何事も「直接あることが大事」とされていました。しかし、強制的にリモートワークをしなければならなくなったことにより、リモートワークがここまで機能すること、移動時間も交通費もここまで削減できてしまうことに気づいたのです。これは電車が生活の根幹にあった都市部の人間や会社にとって、かなり大きな事実であり、社会が変わる予感がします。

さらに人と人との関わりが薄れ、「自己責任」がより一層強まる社会になってしまうのでしょうか、、、
そうではなく、仕事や学校といったものに何らかの理由で外へ出られない人々が、家でも参加できるようなポジティブな面が進歩していってほしいなと思いました。

第13回 6期生ブログ「オリエンタリズム」

梅雨明けを迎えた途端、セミの声が鳴り響き、焼けるような暑さに日々悲鳴を上げています。

だいぶ時間が経ってしまいましたが、2週間前のゼミではポストコロニアルとオリエンタル研究について取り扱いました。

「東洋(オリエンタル)」と「西洋(オクシデント)」は特定の地域を指す言葉ではなく、もっと概念的なものである。そしてこの2つの概念の関係性は対等ではなく、複雑なヘゲモニーを包含している。そして、西洋人は自分たちのアイデンティティを確立させるために、東洋という概念を用いた。

つまり、東洋の西洋に対する「憧れ」と西洋の東洋に対する「憧れ」は意味合いが異なるというものである。
分かっていたはずの話なのになぜか悲しい気持ちになった。複雑。

私はタトゥーについて研究したいという想いがあります。
日本の若者のタトゥー文化は海外の影響を受けている部分もあるのではないかと推測していましたが、これにもオリエンタリズムに関連してくるものなのでしょうか。
日本人が英字レターのタトゥーをかっこいいと考え入れるのと、西洋人が漢字のタトゥーをかっこいいと考え入れるのでは意味合いが違うのでしょうか…

第12回 6期生ブログ「人間」から「女性」へ

久しぶりに雨のない日を迎え、梅雨明けはもうすぐなのではと淡い期待を寄せる今日この頃です。
梅雨が明けても気軽に遠出はできませんが…
初めての日曜日開催で行われた内容は「ジェンダー、セクシュアリティ、クィア研究」について。

最近ジェンダーの授業を履修していることもあり、色々思うこともあります。
今回の授業ではジュディス・バトラーの「ジェンダートラブル」を扱いました。
話が進む中で、「そもそも男女を規定したのも、男女の枠組みで勝手に人を判断しているのも人間なのではないか」(意訳)というところに行きつきました。

ここで思い出したのが女子校時代。
表象作品の影響かわかりませんが、女子校というと「お嬢様」「女性だけだから陰湿そう」といった印象を持たれがちです。
これは断じて違うと女子校出身者の大半は口をそろえて言うでしょう。
体育祭では必死になりすぎた結果脳震盪起こして保健室に運ばれたり、
学園祭の中夜祭では盛り上がりすぎて体育館の床が抜け翌日からの公演ができなくなったり、
多分世間の一般的なイメージからはかけ離れた女子校でした。
(あまり書きすぎると学校名がバレてしまう…)

しかし、ここで何度も「女子校」と連呼をしていますが、女子校時代「女性」であることを意識したことはほとんどなかったように思います。
なぜか。「男」と「女」というような二項対立として捉えられるものは、片方が存在しないともう一方も存在しません。でも女子校は(生徒は)女子しかいないので、この二項対立は成立しません。結果、私たちは「女性」ではなく「人間」だったのです。

女子校育ちはよく「温室育ち」と言われることがあります。
この意味は社会に出てよーーーーーく分かります(笑)
「人間」から「女性」にならなくてはいけないことを端的に表している言葉だと感じます。

p.s.
結局この話も男女の枠組みありきで話しているので枠組みにとらわれないのって難しい…