卒論構想発表を終えて

お久しぶりです!だいぶ日数が経ってしまいましたが、9月5日に行われた「卒論構想発表」の振り返りをしたいと思います。
オンラインでの発表となりましたが、なんと8時間も発表、話し合いを行いました。地下ゼミのOBの先輩方も参加してくださり、とても濃い時間となりました。
私は、映画を用いて卒論を書きたいと思っており、今回もみなさんには映画「友罪」を見てきてほしいとお願いしました。お忙しい中先輩方は見てくださっていて、それぞれのご意見をお話していただきました。本当にありがとうございました。私の発表と映画にとても真剣に向き合ってくださり、全く衰えを感じさせない鋭いご指摘をたくさんもらえたので自分自身がどういう方向性で書いていきたいのかが以前よりも見えてきました。
しかし、私が考えたいテーマ「家族・つながり」については、先輩方がすでに考え尽くしたテーマでもあるので、何かしら自分らしい色をつけなければならないなと思います。とても難しいです。がんばります。
また来年OBとして、この地下ゼミの7期生の卒論構想発表で鋭い意見を言いたいいなあ。なんて考えています(笑)
後半戦もがんばります!

小野寺

第16回 6期生ブログ「もういくつもの世界」

春学期のゼミを終えてから、このブログを書くまでに一週間もかかってしまった。何を書こうかしばらく考えていたが、どうしても『リキッドモダニティ』の絶望的ともいえる結末に何も言葉が出てこなくなってしまったのだ。

答えのないバウマンの語りに終始ウンザリしつつも、その的確さに、ついつい納得してしまうもどかしさ。『じゃあどうしたらいいの?!』でも、答えはそう簡単にわからない、そう簡単にわからないからこそ、こうして同じように頭を抱えるしかないのだ。

私は最終的に、以前から少しだけ知っていた理論「思弁的実在論」に可能性を見出した。なぜなら、この思弁的実在論は、まさにバウマンをはじめとするカント以来の相関主義を乗り越えることを目的としているからだ。どうして乗り越えなくてはいけないのか。世界は私たちの意識の網の中の作り物であるという認識を持つ相関主義は、今となっては当たり前に感じてしまう考え方であり、これを土台にしているからこそ、様々な作り物を壊し再構成することが求められているのだ。だからソリッドモダニティは溶けて、リキッドモダニティになった。世界は変わるのだ。しかもリキッドモダニティにおいては、世界の形が全く不安定になってしまい、一寸先すら見えぬ道を迷いながら行く孤独で過酷なレースを行く必要があるのだ。バウマンが範疇に入れていたのは、社会と呼ばれる場所で起こる様々な営みだった。個人の行動としての買い物、都市空間や時間認識、仕事形態、そして共同体の姿…その批判的な主張は全く一貫していた。しかし、バウマンは思いもしなかった社会の変化が、この2020年に起きてしまっているのだ。(私はこの点に、ゼミが終わってから気づいたのだった)

もはや政治的な扱いを受けてしまっているようにも感じる新型コロナウィルスは、元はと言えば、人間の力ではどうにもこうにもできないエコロジカルな危機の一つだ。他にも、地震、台風、気候変動などの自然災害も入れることができる。(そういえばバッタの大群はどこで何しているのだろう)しかし、地球環境に何らかの影響を多かれ少なかれ及ぼしてしまっている人間にとって、自然災害が全く無関係なものとして起こるとは考えづらい。しかし、それでもなお操作は不可能なのだ。人間が生きている限り、地球の地面を踏み続ける限り、環境に変化を与え、環境の変化を共に受け入れるしかないのだ。このとき私が対象にしているのは、人間の認識の網の外を出た<世界>だ。これはバウマンが散々語ってきた社会=世界とは異なる。(バウマンはエコロジーについては全く言及していない)バウマンの範疇であった社会=世界が、あまりにも人間中心ではないだろうか?今ここで、ゼミが終わってみて初めての問題提起をしたい。

人間の認識の網の外を出た<世界>は「存在する」のだ。人間が生きている世界だけが、世界だろうか?そうなったら私の愛犬は世界の一員ではないのか?家の外で様々な姿を見せてくれる植物や動物は?また、この熱い太陽は本当の意味で地球には存在していないが、人間をはじめ世界に暮らす様々な存在に大きな影響をもたらしている。バウマンが言うような社会=世界=生活世界だけが、世界ではない。それは広大な世界の、たった一部分なのだ。その一部分が残りの部分に影響をもたらし、もたらされるのだ。私の知らない、絶対経験することのできない<世界>が、私の認識とは関係なしに、紛れもなく「存在する」…そこは決してリキッドモダニティではないだろう。答えのないバウマンの『リキッドモダニティ』を乗り越え明日へと活かすには、リキッドモダニティの外へと出る必要があるようだ。

これらが「思弁的実在論」が語ろうとしている、大まかな考えの一部部分らしい。(ただいま絶賛勉強中です!)これらを貫くのは、温暖化や海洋汚染などのエコロジカルな危機からもたらされる人間の脆さや実在の不安定さとどう向き合っていくかという危機意識だ。その意味で、リキッドモダニティであるが故に生まれたと考えてもおかしくはないだろう。バウマンはここで初めて警告書の外に出るのだ。

私はまだ、知ったかぶりで語ることも許されぬほど、この分野に関しては未熟であるが、本当に大きな可能性を感じていることは確かだ。何よりも、私が生き辛いと感じてしまう世界は広大な世界の小さな小さな一部分でしかないという紛れもない「事実」が、私を生かすのだ。それは現実逃避になってはいけないと思う。脆くて儚くて、不完全で未完成な人間が、それでも生きていくことのできる場所を探すような作業なのだ。リキッドモダニティの外に出て、リキッドモダニティを眺めること。他の世界との関連性の中で、人間の居場所を探すこと。人間中心的な思考を出たときに、初めてバウマンの束縛(これは多くの社会学が陥るようなアポリアである)から解放することができるように感じるのだ。

ふと、童謡『手のひらを太陽に』を思い出して口ずさんでみる。ミミズやオケラやアメンボと友達になった記憶はない。この先も友達として飲み会に誘うようなこともないだろう。それでも、この<世界>を構成する大切な一員であるのだ。人間がリキッドモダニティであろうとなかろうと、ミミズやオケラやアメンボと、人間は友達であり続けるのだ。

もういくつも、世界がいくつでも存在する。リキッドモダニティはその一つに過ぎないのです、みなさん。

宮本

第16回 6期生ブログ「共同体」

昨日、春学期最後の自主ゼミが終了しました。なんと5時間にも及ぶ話し合いになりました!
これまで『ディスタンクシオン』と『リキッド・モダニティ』を読み進めましたが、毎週多くの文量を読んできて、隔週でレジュメを作成し、ゼミでは3時間半もの話し合いという、今振り返れば16回もよく乗り越えられたな、と自分に感心してしまいます(笑)
私は正直、同期のゼミ生2人よりも怠惰な性格であり、大学の授業への向き合い方も違っているなと毎回のゼミでひしひしと感じていました。そんな私がここまで頑張れたのも、義務感からくるものではなく、心から楽しいと感じ、絶対に個人的には読まないであろう文章を読むことで得られる知識、価値観、私とは似ていない(きっと何か共通点もあるからこそ集っているのでしょうが)2人の意見を聞くことで得られる新しい考え方、新しい自分、、、様々な収穫があるからこそ積極的にやってこれたのかなと思っています。

たくさんの話し合いを経て、私は結局「自分が何者なのか」が知りたくて知りたくてしょうがないのだろう、ということがはっきりわかりました。春学期のゼミで取り上げた二つの文章と、先生が講義してくださった内容は共通して「他人・他者性をどう捉えるか」ということだったと、私は感じています。今期のゼミの内容をその観点から捉えているのも、「私らしい」のではないのかなと思います。
私は他人にとても強い関心があり、嫌がられないのであれば、全員に人生について、価値観についてをインタビューしたいぐらいの勢いですが、それも結局「他者を知ることで自分を知るため、結局自分のため」に他者への関心が強いのだな、とようやく理解しました。他者はどういう道を歩み、どう物事を捉えるのか、それは自分とどう違うのか、自分はその他者に対してどういう感情を抱いて接しているのか、自分はその他者に対してなぜその感情を抱くのか、、、という風に、結局は自分自身という人間について明らかにしたくて、他者への関心がどんどん増しているのだろうと思います。自分自身について知りたければ、内省的に考えればいいじゃないか、という意見もあるのでしょうが、私は本能的に、他人を通して自分を浮き彫りにするタイプであります。また、自分とは絶対に同じではない「他人」という存在をとても面白いと思うことができる才能があるのだと思います。だから、「八方美人」と言われがちですし、他人から「あなたは私のことをすごくわかってくれるよね」とよく言われます。他人のことをよく理解しているのは、私が他の人よりも関心が強いからこそなのだな、と思います。完全には理解できないので、おそらく、その他大勢より私が観察をした結果、理解が深まってしまっているだけなのです。好き嫌い関係なく興味があるだけです。
最近では、表象作品に関しても純粋に思う存分楽しんだ後に(私は分析はあまりできません、純粋に鑑賞します)、なぜこの作品に関して自分はこのような感情を抱くのだろうか、という自己分析に繋げてしまうようになりました。結局自分のことばかりです。
最初はきっと他人への関心も表象作品同様に、純粋に楽しんでいたのだと思います。なんでこの人はこんな考え方、こんな行動、こんな趣味があるのか?知りたい!!!私とは違う考え方、知りたい!!!!みたいな。
けれども今は、なぜ各人間はこのような考え方に至り、行動ができるのだろうか、自分は?という風に他人から自分へ繋がってくることが多いです。

そんな私なので、私にとって「他人」はなくてはならない存在であり、一番の興味対象です。いや、一番の興味対象は自分のことも含めるので「人間」ですね。
この春学期のゼミではここには書ききれないほどの多くのことを学び、世界の見方も変わり、自分自身も変化しました。そこで発見したことの一部を綴らせていただきました。
後期も過酷でしょうが、私にとっての「仕事」であり、重要な共同体の一つであるので頑張っていきたいと思います。とても楽しみです!!!

小野寺

第15回 6期生ブログ 「蒸発宣言」

 

将来に対する漠然とした不安、一歩先すら見えない恐怖、ますます何が何だかわからなくなり、自分がどこに立っているのかすらはっきりしない。私は今、とてもじゃないほど、不安で押しつぶされそうになっている。

そんな私をピタリと言い当てるようなバウマンの仕事は、私をますます苦しめる。だからこそ、そんなバウマンを倒したい気持ちに駆られるのだ。私はリキッドモダニティの犠牲者かもしれない、だけども、新しい何かが私を救い出してくれるかもしれない。例え机上の理論であったとしても、私はそんな私を助け出す考えを求めている。それが欲しくて何かにすがりたくて必死になっているのだ。

実はこの春学期に、みるみる元気がなくなり、床に冷やし中華をぶちまけてしまったことをきっかけにして、精神科にかかったことがある。そこの、診療室はSMAPのポスターやグッズで埋め尽くされていて、医者はボロボロの白衣を着てボサボサの髪でマスクはずり落ちていて、私の言葉を半分苛立ちながら聞き、私は完全に間違ってしまった!と悔やむような気持ちだったのだが、しばらくして医者が言った言葉に驚愕したのだった。医者は、自身が勉強ができず留年して中退を考えた経験から、「テキトーでイイんだ!」と思ったそうだ。一度置いてけぼりを食らって、社会の規範やレールから落ちることを経験して、何もすることがなくなった”失格”の称号を食らってしまった医者は、もうどうでも良いや!とサジを投げてしまったそうなのだ。それでも、その肩の力を抜いたことによって、もう一度医者になってみる気力が湧いてきたそうなのだ。「そんな感じで、テキトーで良いんじゃないかなあ」と医者は、医者としてのアドバイスとより、ただの人間として私と接し、人生の先輩として助言を試みたのだった。私はまずその事実に驚愕し涙ぐみ、次に、自分が悩ましいと思っていた不確実で不安定な未来に、なんとか乗っかっていけるような気がして再度涙ぐんだのだった。昔から心配性でどこか優等生気質が消えない私が、そういった考えに至ることはなかった。いつも落ちたら終わり=死んだ方がマシ!のような、エリートであることを是として生きてきた私にとっては、目から鱗の考え方だった。そうか、立派(?!)に医者になっているこの人も、テキトーに生きてるんだな、と。テキトーとは、柔軟性と近い考えかもしれないが、臨機応変で計算高い柔軟性に比べて、行き当たりばったりのようなゲーム感覚が強いだろう。そして、偶然性に身を委ねるかのような、達観している印象も持つ。自分で責任を取らなければいけないリキッドモダニティにおいて、テキトーは自己責任が通用しないような、そんな乱暴さもある。

私はこの、人生史上最も難関の岐路に立たされながら、不安定な未来を恨み、なるべく安全安心な道を行こうとしていたのだった。完全にリキッド・モダニティの犠牲者の私は、それでもまだリキッド・モダニティにいなくてはならない。そうなったらもう一つしかない、不安に思わないことだ。例え不安定であったとしても、失業しても、何があっても、もうどうでも良い。テキトーに生きることだ。それしかない。聞こえ方によってはとても自暴自棄のような考えかもしれない。しかし私は、それがこの神経質なリキッドモダニティを生き抜く一種の抵抗運動なのかもしれないと思っている。だから私は、不安定な未来を考えるのはやめて、かといって一瞬の享楽だけを楽しみ、あとは全て不安に怯えるようなこともやめて、今も未来もそして過去も全てを含めた、どこか達観したような落ち着きと適当さを揃えた、気体のような生き方をしたい。水の沸点は100度だ。私は何度で蒸発できるのだろう。

でも…書き終えて、やっぱりなんだか…どうしてこんなに悲しいんだろう。

これが自由というものかしら

自由になると淋しいのかい

やっと一人になれたからって

涙が出たんじゃ困るのサ

やっぱり僕は人にもまれて

みんなの中で生きるのサ

吉田拓郎『どうしてこんなに悲しいんだろう』より

(最近フォークソングばかり聴いて、しかも涙ながらに歌ってしまうのは完全に、私の気分が、時代の気分が、70年代前半の”若者たちの挫折”と似ているからなのだろうなあ、という話はまた別の機会にでもどうぞ)

担当:宮本

第14回 6期生ブログ「時間/空間」

こんばんは!
第14回のゼミでは引き続き『リキッド・モダニティ』の精読と関連することについてたくさん話し合いました
。今回は第3章の「時間/空間」でした。

読み終えてから、今のこの新型コロナウイルスによって人々の時間と空間の使い方、考え方がかなり大きく変わったのではないかと考えていました。
人々はまず「移動時間とは何て厄介だったのか!」ということを、頭ではなく体で実感したのではないでしょうか。頭では「リモートワーク」を理解し、とても合理的なことはわかっていましたが、今まで実際にはそこまで普及していなかったように思います。みんなで満員電車に揺られて、わざわざ出勤していましたし、何事も「直接あることが大事」とされていました。しかし、強制的にリモートワークをしなければならなくなったことにより、リモートワークがここまで機能すること、移動時間も交通費もここまで削減できてしまうことに気づいたのです。これは電車が生活の根幹にあった都市部の人間や会社にとって、かなり大きな事実であり、社会が変わる予感がします。

さらに人と人との関わりが薄れ、「自己責任」がより一層強まる社会になってしまうのでしょうか、、、
そうではなく、仕事や学校といったものに何らかの理由で外へ出られない人々が、家でも参加できるようなポジティブな面が進歩していってほしいなと思いました。

第13回 6期生ブログ「オリエンタリズム」

梅雨明けを迎えた途端、セミの声が鳴り響き、焼けるような暑さに日々悲鳴を上げています。

だいぶ時間が経ってしまいましたが、2週間前のゼミではポストコロニアルとオリエンタル研究について取り扱いました。

「東洋(オリエンタル)」と「西洋(オクシデント)」は特定の地域を指す言葉ではなく、もっと概念的なものである。そしてこの2つの概念の関係性は対等ではなく、複雑なヘゲモニーを包含している。そして、西洋人は自分たちのアイデンティティを確立させるために、東洋という概念を用いた。

つまり、東洋の西洋に対する「憧れ」と西洋の東洋に対する「憧れ」は意味合いが異なるというものである。
分かっていたはずの話なのになぜか悲しい気持ちになった。複雑。

私はタトゥーについて研究したいという想いがあります。
日本の若者のタトゥー文化は海外の影響を受けている部分もあるのではないかと推測していましたが、これにもオリエンタリズムに関連してくるものなのでしょうか。
日本人が英字レターのタトゥーをかっこいいと考え入れるのと、西洋人が漢字のタトゥーをかっこいいと考え入れるのでは意味合いが違うのでしょうか…

第12回 6期生ブログ「人間」から「女性」へ

久しぶりに雨のない日を迎え、梅雨明けはもうすぐなのではと淡い期待を寄せる今日この頃です。
梅雨が明けても気軽に遠出はできませんが…
初めての日曜日開催で行われた内容は「ジェンダー、セクシュアリティ、クィア研究」について。

最近ジェンダーの授業を履修していることもあり、色々思うこともあります。
今回の授業ではジュディス・バトラーの「ジェンダートラブル」を扱いました。
話が進む中で、「そもそも男女を規定したのも、男女の枠組みで勝手に人を判断しているのも人間なのではないか」(意訳)というところに行きつきました。

ここで思い出したのが女子校時代。
表象作品の影響かわかりませんが、女子校というと「お嬢様」「女性だけだから陰湿そう」といった印象を持たれがちです。
これは断じて違うと女子校出身者の大半は口をそろえて言うでしょう。
体育祭では必死になりすぎた結果脳震盪起こして保健室に運ばれたり、
学園祭の中夜祭では盛り上がりすぎて体育館の床が抜け翌日からの公演ができなくなったり、
多分世間の一般的なイメージからはかけ離れた女子校でした。
(あまり書きすぎると学校名がバレてしまう…)

しかし、ここで何度も「女子校」と連呼をしていますが、女子校時代「女性」であることを意識したことはほとんどなかったように思います。
なぜか。「男」と「女」というような二項対立として捉えられるものは、片方が存在しないともう一方も存在しません。でも女子校は(生徒は)女子しかいないので、この二項対立は成立しません。結果、私たちは「女性」ではなく「人間」だったのです。

女子校育ちはよく「温室育ち」と言われることがあります。
この意味は社会に出てよーーーーーく分かります(笑)
「人間」から「女性」にならなくてはいけないことを端的に表している言葉だと感じます。

p.s.
結局この話も男女の枠組みありきで話しているので枠組みにとらわれないのって難しい…

第11回 6期生ブログ「個人的経験からリキッドモダニティを体感する」

授業の直接的なテーマではないことを、これから書こうと思う。あまりにもセンシティブかつ、プライベートな出来事であるが、このブログがそこまで多くの人に読まれていないことを願い、このようなことを書こうと思う。

『リキッドモダニティ』全体を通じて考えなければいけない問題、「自己責任」この自己責任がますます問われ、今まで隠されていた様々な闇のようなものが表に晒されてしまった出来事こそが、コロナウィルスの蔓延なのかもしれない。

私自身の例を通じて、この問題を考えてみたい。

先日、父親がPCR検査を受けた。毎日測っている体温が、ここ数日37度台を一体きたりしていることと、仕事上の都合から心配に思い、自費で検査させてもらったそうなのだ。私はこのことを聞き、もし陽性だったら…と同じく心配に思い、検査結果が出るまでバイトを休むことにした。そのことを父に言ったら「念押しのために検査したのに、まだ陽性とわかったわけではないのに、どうしてバイトを休むのか。どうして周りの人に伝えたのか。そういう奴が経済を止めるんだよ」と怒られたのだ。私としては、万が一の、最悪のケースを考えた行動であるため、今でも全く悪いことしたとは思っていない。しかし、父の立場に立ってみれば、この発言も少しは同情できる。そういう奴が経済を止めるんだよ…コロナを恐れるがあまり、行動を止めてはならないということだろうか。この発言の根本を流れるのは、次のような価値観だ。コロナにかかるのは完全に自己責任であり、かかったら資本主義というレースからは脱落する。だから、コロナにかかったことは隠さなければいけない。なるべく身内で処理し、極秘で治療しなければいけない…。父は一線で働くビジネスマンであるがゆえに、このような発言が出てきてしまうのだろう。まさに、社会の写し鏡のような、模範解答だった。

父の口から出た言葉は真っ先に溶け、液体と化し、私の体に染み込んでいく。リキッドモダニティを流れる、自己責任の原理は、未曾有のウィルスでさえ、溶かしてしまった。いや、考えろ。コロナにかかるのは、自己責任ではない!だから大声で、「私はコロナにかかりました!だから、休みます!経済止めます!」と叫びたい。そして、その声が受け入れられる社会になるべきだ。優しく、温かい社会に…。

咳をしているスーツ姿の男性を見る車内の乗客は、あいつはコロナではないか?と疑いの厳しい目を向ける。コロナにかかった人はレースから脱落する。だから、自分はかからないようにと、その人を避ける。かかった人は自己責任であるため、好きなだけ差別されるし、休んだ分の補償はない。いつからこんなおかしな世の中になってしまったのか。22歳の私はすっかり絶望し、リキッドモダニティのドロドロの液体に、これから浸からなければならないことを、すっかり恐れてしまう。(逃げるために私は進学するのかもしれない。)

ああ、終わりのないこの問いはしばらく続いていくのです。

『神よ願わくばわたしに 変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと 変えることのできる物事を変える勇気と その違いを常に見分ける知恵とを さずけたまえ』

カート・ヴォネガット

第10回 6期生ブログ「自由とは何か」

こんばんは!本日レジュメを担当しました小野寺です。
『リキッド・モダニティ』を読み、4時間半ほどのゼミとなりました。
4時間半はゼミだとあっという間です。アルバイトだと時計ばかり見てしまうのに不思議です。

最後にみんなで話し合った「自由とは何か」について、とても面白い議題だなと振り返っていました。
そもそも、「自由」なんてないのではないか、と思うようになりました。どんなに楽しい時間を過ごしていても、完全な「自由」というものは訪れないし、責任や何かの義務を貸されていない子どもだってある意味「家族」や「弱き存在」という制限がかかっていて完全な自由ではないのではないかな、、、と。
そう考えるとその中でも自分がより納得できる「制限」の中で生きることができる人が「自由」に最も近い存在なのかな、と思います。絶対に生きる上で「制限」というものからは逃れられないのであれば、その「制限」がいかに自分にとって優しく、許容できる内容であるのかが大事だと思いました。(少し消極的な自由ですが)

私はどのような制限下なら「まあいいだろう」と思えるのかを考えて、自分にとっての選択肢を増やしておこうと思います。

第9回 6期生ブログ 「働くこと」の価値

3週に1度の理論を学ぶ日。
理論を学ぶと生きやすくなるという人もいるが私はいつも怖くなる。
新しいものを知る怖さなのか。でも無知の方が怖いとも思うのに。
見たくないものまで見えてしまう気がして、
新たな見方を手に入れたのにそれを無邪気に使えず、
視野が広がるはずなのに視野が狭くなったような不安に陥る…

まだ言語化はできないのですがいつもそんな気持ちで理論を学ぶ回に臨んでいます(笑)

今日のテーマはマルクス主義とカルチュラルスタディーズ。
その中で出てきたのが貨幣経済という仕組み。
貨幣経済であるがためにその価値を歪められてしまっているものはたくさんあるのではないかと思いました。

例えば、娯楽。今回のコロナ対策でも経済が優先され、娯楽産業が後回しにされている印象を受けました。私は、ビジネスを意識していないアートが好きです。例えば、道端の落書きだったり、学生の展示だったり。純粋に表現したいものを表現したい形にしてできたものに魅力を感じます。

もしかしたらこれも貨幣経済への抵抗なのでしょうか。

もう1つはボランティア活動。ボランティアの形態はさまざまですが、無償で本人の意志で参加することが多いように思います。この場合ボランティアは無償労働者とは言えますが、こき使っていい奴隷ではありません。また、お金が発生しない分、募集する側と参加する側の信頼関係が重要になってきます。しかし、なぜかここを取り違えて「ボランティア」という言葉を、その場の都合のいいように解釈している場面を目にすることがあります。

これも貨幣経済の影響なのでしょうか。
賃金でしか人の労働力は判断されないのでしょうか。

どちらの例も「働くこと」と比較すると社会では重要視されにくいものだと感じます。

現代では電子決済やカード決済が多くなり、値段を視覚化された量として見る機会も少なくなりました。また仮想通貨のような新たな概念も生まれました。貨幣において国家の括りがなくなるのは近い未来なのかもしれない…貨幣の概念も変わるのではないかと期待したいです。(期待なのかわからないけれど)