前のブログから見ていただいている方はお久しぶりです。前回の投稿時に遅れてすいませんと言いましたが、今回もかなり日数が経過してからの投稿になります。全然学習しておりません。はい。……申し訳ありません。
このブログから初めて見たって方は初めまして。3年の相田恭兵と申します。詳しくは後日作成される(作成されますよね?)メンバー紹介をご覧ください。
まだ全然こちらには投稿していないにもかかわらず、ゼミでの議論は後半戦に突入。4限に行っている『批評理論入門』もⅡ「批評理論篇」へ突入いたしました。今回は「批評史概略」に始まり、「伝統的批評」、「ジャンル批評」、「読者反応批評」の豪華3本立て(概略も含めれば4本ですが)でした。
批評史概略では、1970年以前と1970年代以降で文学批評の流れが変化していったことが挙げられ、『フランケンシュタイン』の批評も変化していったことが示されています。1970年以前はキャノンと呼ばれる白人男性のエリート集団が書いた文学的な正典と権威づけられた作品が重視され、作者ありきの文学批評が主流であり、女性の作品や労働者の作品は軽視されていました。しかし、それを見直し、文学伝統の幅を広げる動きが1970年代より起こり、その後、1990年代以降『フランケンシュタイン』は文学伝統と大衆文化の両方の流れに位置付けられ、多様な観点から議論されるようになりました。
「伝統的批評」では、モデルが誰であり、作品が作者の人生における特定の出来事や挿話を反映しているという見方を用います。
「道徳的批評」では、メアリー・シェリーの夫パーシーの批評が用いられます。彼はこの作品を「人造人間がなぜ怪物になったのか」という責任の問題を提起していると論じました。つまり、怪物の犯罪や敵意は「人間性と必然性」から生じたものでり、「ひどい扱いをすると人は邪悪になる」ということをこの作品の教訓としていると指摘した。
しかし同時代の多くの批評家はこの作品を道徳に悪影響を及ぼすと批判していました。
現代においては、訳が分からない存在であるが故の恐怖や不安に隠喩として「怪物」と名付け排除している状況をどのように扱うかが問題であるという指摘もあります。
「伝記的批評」では、作品が作者の伝記的な意味があるものだとするアプローチで批評がされます。典型的な例としてここではヴィクター・フランケンシュタインのモデルは誰なのかというアプローチが提示されました。
次の「ジャンル批評」は、形而上のカテゴリーに基づくジャンルやテーマや背景といった内容上のカテゴリーに基づくジャンルごとに分類された諸問題を扱う批評です。
この批評理論自体は1950年代から存在しましたが、大成したのは1970年以降になります。この理論は、もともと「ジャンル」があるのではなく、ほかの作品との差異から「ジャンル」ができるという考えのもと成り立っています。
『フランケンシュタイン』に見られる「ジャンル」としては、「ロマン主義文学」、「ゴシック小説」、「リアリズム小説」、「サイエンス・フィクション」などがあげられます。
「ロマン主義文学」とは、自然のあらゆる現象は、人間が制御できるという考えを持つ啓蒙主義への反動として、自我や個人の経験、無限なるものや超自然的なものを重視する思潮です。『フランケンシュタイン』においては題材やテーマが恐怖や無限なるものを扱っている。
「ゴシック小説」とは、ロマン主義文学の中に含まれる、中世の城や館を舞台として超自然的な現象や陰惨な出来事が展開する恐怖小説のことを指します。メアリはこのジャンルから大きな影響を受けていました。『フランケンシュタイン』においては恐怖を主題とし、「異国」が舞台である点など、当てはまる点が多く存在します。
「リアリズム小説」とは、人生を客観的に描写し、物事をあるがままの姿でとらえようとする芸術上の信条を描いた小説であり、ロマン主義の行き過ぎに対する反動として19世紀から20世紀初頭にかけて盛んになった形式でした。『フランケンシュタイン』においては、ロマン主義の性質が強く対極に位置しているように見えますが、出来事に蓋然性を与えようとする作者の態度が様々な点で見受けられます。また、人間を個としてのみならず、人間関係において描くリアリズム小説の特色も含まれています。
「サイエンス・フィクション」とは、空想上の科学技術の発達に基づく物語を指します。『フランケンシュタイン』においては、科学者によって新しい生物が製造されるという発想やSF的な非日常性が挙げられます。
最後の「読者反応批評」とは、読者によって作品への反応が異なる点に着目し、テクストが何を意味しているかではなくテクストが読者にどのように働きかけるのかという問題に焦点を置く。
従来の「読者」の定義は、「作者がテクストに埋め込んだものを受動的に受け取る者」をさし、この批評における「読者」の定義は、「テクストに活発にかかわりテクストとの共同作業によって意味を生産する存在」、つまり文学を理解している人であるという前提が存在しています。つまり、読者の数だけ正しい解釈があるというわけではない。
また、文学の表現には読者がすでに持っている意見を反映し強化するような「修辞的な示し方」と、読者を刺激し、自分で真実を見つけるよう挑みかかるような「弁証法的な示し方」の2種類あり、読者反応批評では後者を対象としています。
以上を踏まえたうえで、『フランケンシュタイン』において読者反応批評を見ていこう。
怪物が読書をしている描写があるが、読者は怪物を通してテキストに対する自分の反応と、怪物の反応を比較することになる。
また、この作品の枠組みはウォルトンからマーガレット・サヴィル(「含意された読者」)へとあてられた手紙という形である。これは、読者をある程度時代にそぐした人間の立場に立たせることでフランケンシュタインへの共感を保ち続けるための作者側の戦略も含まれています。
ここまで会議を進めた後、小休憩をはさんで5限テクスト、ヴォルフガング・イーザー『行為としての読書』に移ります。
ここでは主に、テクストと読者についての議論になります。
テクストの構造と読者理解は、相互補完の良姜であるとイーザーは述べています。これはテクストが読者の理解を誘発しつつも、読者がテクストにコントロールされているわけではないことに起因します。つまり、読者は興味深いテクストに反応を示し、読書を進めていくことはありますが、それは決して耐え難い欲求ではなく、いつでも読書を中断できるという状況を指しています。これが、読者がテクストを受容するときの創造性の基盤となるのです。
また、小説や詩といった虚構テクストには、読者は遠近法の視点をとりながら移動していくという特異性があります。
それは、虚構テクストが小説の世界観を示しているだけではなく、むしろ随時表現されたものの意味が読者の中で変化していくことが重要になります。
どんな人でも、テクストを同時に読むことのできる人はいません。つまり、テクストを読みその小説を理解するためには、絶えず視点を移動させる必要があります。
自分たちはこの考え方を遠近法という言葉から枠の中に入った絵画のようなイメージで理解しようとしました。虚構テクストに彩られた物語という絵画は普通の絵画と違って絶えず変化していくようですが。
また、読者は文それぞれに関係性があると考え、次のテクストを予覚し、その結果を保有しながらテクストを読み進めていきます。その予覚は限界があり、不完全であるからこそ「期待の充足」という新たな期待を延々と生み出すことができます。
加えて、文の連鎖というものは必ずしも予覚と保有だけで完結するものではありません。
連続する分の流れを唐突に断ち切る「中断」では、読者は腹立ちを生み出すとともに、文の強調などをもたらす視点の調節ともとることもできます。
また、印刷方法を変えることで、例外的ですが視点を大きく動かす手法も存在します。
このように、読書には、テクストや分の連鎖というものが大きくかかわってきます。
いかがでしたか?
読みづらい文で申し訳ありません。
回を重ねるごとに難解になっていくテクストに、一丸となって取り組みたいと思います。
余談ですが、今回のブログ文章,3000文字を超えております。一から読んでいただいた皆様に感謝と謝罪を。最後まで読んでいただきありがとうございます、読みづらい文章で誠に申し訳ありません。