第12回 6期生ブログ「人間」から「女性」へ

久しぶりに雨のない日を迎え、梅雨明けはもうすぐなのではと淡い期待を寄せる今日この頃です。
梅雨が明けても気軽に遠出はできませんが…
初めての日曜日開催で行われた内容は「ジェンダー、セクシュアリティ、クィア研究」について。

最近ジェンダーの授業を履修していることもあり、色々思うこともあります。
今回の授業ではジュディス・バトラーの「ジェンダートラブル」を扱いました。
話が進む中で、「そもそも男女を規定したのも、男女の枠組みで勝手に人を判断しているのも人間なのではないか」(意訳)というところに行きつきました。

ここで思い出したのが女子校時代。
表象作品の影響かわかりませんが、女子校というと「お嬢様」「女性だけだから陰湿そう」といった印象を持たれがちです。
これは断じて違うと女子校出身者の大半は口をそろえて言うでしょう。
体育祭では必死になりすぎた結果脳震盪起こして保健室に運ばれたり、
学園祭の中夜祭では盛り上がりすぎて体育館の床が抜け翌日からの公演ができなくなったり、
多分世間の一般的なイメージからはかけ離れた女子校でした。
(あまり書きすぎると学校名がバレてしまう…)

しかし、ここで何度も「女子校」と連呼をしていますが、女子校時代「女性」であることを意識したことはほとんどなかったように思います。
なぜか。「男」と「女」というような二項対立として捉えられるものは、片方が存在しないともう一方も存在しません。でも女子校は(生徒は)女子しかいないので、この二項対立は成立しません。結果、私たちは「女性」ではなく「人間」だったのです。

女子校育ちはよく「温室育ち」と言われることがあります。
この意味は社会に出てよーーーーーく分かります(笑)
「人間」から「女性」にならなくてはいけないことを端的に表している言葉だと感じます。

p.s.
結局この話も男女の枠組みありきで話しているので枠組みにとらわれないのって難しい…

第11回 6期生ブログ「個人的経験からリキッドモダニティを体感する」

授業の直接的なテーマではないことを、これから書こうと思う。あまりにもセンシティブかつ、プライベートな出来事であるが、このブログがそこまで多くの人に読まれていないことを願い、このようなことを書こうと思う。

『リキッドモダニティ』全体を通じて考えなければいけない問題、「自己責任」この自己責任がますます問われ、今まで隠されていた様々な闇のようなものが表に晒されてしまった出来事こそが、コロナウィルスの蔓延なのかもしれない。

私自身の例を通じて、この問題を考えてみたい。

先日、父親がPCR検査を受けた。毎日測っている体温が、ここ数日37度台を一体きたりしていることと、仕事上の都合から心配に思い、自費で検査させてもらったそうなのだ。私はこのことを聞き、もし陽性だったら…と同じく心配に思い、検査結果が出るまでバイトを休むことにした。そのことを父に言ったら「念押しのために検査したのに、まだ陽性とわかったわけではないのに、どうしてバイトを休むのか。どうして周りの人に伝えたのか。そういう奴が経済を止めるんだよ」と怒られたのだ。私としては、万が一の、最悪のケースを考えた行動であるため、今でも全く悪いことしたとは思っていない。しかし、父の立場に立ってみれば、この発言も少しは同情できる。そういう奴が経済を止めるんだよ…コロナを恐れるがあまり、行動を止めてはならないということだろうか。この発言の根本を流れるのは、次のような価値観だ。コロナにかかるのは完全に自己責任であり、かかったら資本主義というレースからは脱落する。だから、コロナにかかったことは隠さなければいけない。なるべく身内で処理し、極秘で治療しなければいけない…。父は一線で働くビジネスマンであるがゆえに、このような発言が出てきてしまうのだろう。まさに、社会の写し鏡のような、模範解答だった。

父の口から出た言葉は真っ先に溶け、液体と化し、私の体に染み込んでいく。リキッドモダニティを流れる、自己責任の原理は、未曾有のウィルスでさえ、溶かしてしまった。いや、考えろ。コロナにかかるのは、自己責任ではない!だから大声で、「私はコロナにかかりました!だから、休みます!経済止めます!」と叫びたい。そして、その声が受け入れられる社会になるべきだ。優しく、温かい社会に…。

咳をしているスーツ姿の男性を見る車内の乗客は、あいつはコロナではないか?と疑いの厳しい目を向ける。コロナにかかった人はレースから脱落する。だから、自分はかからないようにと、その人を避ける。かかった人は自己責任であるため、好きなだけ差別されるし、休んだ分の補償はない。いつからこんなおかしな世の中になってしまったのか。22歳の私はすっかり絶望し、リキッドモダニティのドロドロの液体に、これから浸からなければならないことを、すっかり恐れてしまう。(逃げるために私は進学するのかもしれない。)

ああ、終わりのないこの問いはしばらく続いていくのです。

『神よ願わくばわたしに 変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと 変えることのできる物事を変える勇気と その違いを常に見分ける知恵とを さずけたまえ』

カート・ヴォネガット