プレゼミ合宿(2019.3)

こんにちは、4年生になりました、川上です。更新が遅れてしまいましたが、3月のプレゼミ合宿についてまとめます!

今回で3回目となるプレゼミ合宿ですが、今年も南房総の「シラハマ校舎」をお借りし、多くの社会人の方々にお集まりいただきました。講師は、5期生2名、川上・川田が勤めました。

テーマは「作者の死と読者行為論」です。

作品を解釈する際、絶対視しがちな作者の意見から一度離れ、読者のもつ力や、その読解の自由さを、把握しようとする内容でした。

講義形式でゼミ生2名が理論の概要を説明し、その後、班ごとにワークショップ形式で理解を深めるという構成で、展開していきました。

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皆さんが積極的に参加してくださり、ゼミ生の私達もとても心強かったです。

最終的には、班ごとに小説を二次創作し、個性的な作品が4つも生まれました。どれもオリジナル小説に引けをとらない出来です。

その晩は懇親会を行い、二日目は南房総を観光しました。

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思い返すと、講義を企画・準備・実践することはとても大変でしたが、普段のゼミで鍛えられていたこともあり、やり遂げることが出来ました。そして何より、参加頂いた皆さんのご助力があってこそ、とてもいいプレゼミになったのだと思います。本当にありがとうございました!

 

 

3年ゼミ 秋学期第4回

お久しぶりです。紆余曲折ありましたが、ようやくブログの執筆を再開することができました。最近はちょっと遅めな反抗期の到来を実感している川田です。

 

今回はジェンダー批評の振り返りにあたって、田山花袋『蒲団』および中島京子『FUTON』、そして生駒夏実による論文『田山花袋「蒲団」にみる日本の近代化とジェンダー』を取り扱いました。

 

『蒲団』は作家・時雄と彼の女弟子・芳子、そして彼女の恋人・田中を中心とした、田山花袋による私小説です。一方『FUTON』では、日本文学の教授・デイブによる「『蒲団』の打ち直し」、つまり時雄の妻・美穂の視点から『蒲団』の内容を再構成した物語が展開されます。さらに「打ち直し」が進行するとともに、デイブを含む『FUTON』の登場人物たちは『蒲団』における人間関係をなぞる様に、それぞれに複数の三角関係を形成し変化させていきます。

 

私小説の成立は言文一致運動と深く関わっています。明治期の日本は近代国家として成長していく時期にありました。その過程として国民に対し教育を普及させたことで、言文一致体の文学が広く親しまれるようになりました。さらに当時の日本文学は西洋文学の特徴である、第三人称によるリアリズムの方法を取り入れようとしました。しかし明治期以前の日本文学では伝統的な表現や主観的な描写のものが多かったため、西洋文学的特徴はなかなか受け入れられない状況にありました。その中でも一部の作家は、リアリズムの客観的視点をこれまで日本文学で主流であった「私」に向けることで、批判的視点による物語を描こうと試みました。この潮流から生まれたのが”私小説”という形態です。したがって私小説は、西洋に追いつく意志と日本の独自性を反映したものといえるのです。

 

小説は人口に膾炙することで、近代日本という共同体意識を強化させる役割を担いました。それは時としてなんらかの排除や抑圧を伴います。生駒氏は、私小説によって生まれた「日本国民」という同一性から、ジェンダーに関する排除・抑圧に注目しました。

当時の日本の女性は「良妻賢母」のための教育がなされ、権力者によって将来は母親になることが目標とされました。『蒲団』では作家を目指す女学生として芳子が登場します。彼女は母親になるのではなく、作家になるために勉学に励んでいます。これはこれまで特権的であった男性知識階級を脅かす行為であり、女性の自立へとつながります。また物語の中で、時雄は田中に惹かれる芳子を疎ましく思ったり、芳子の手紙の文体が変化したりしています。これらは男性が女性の近代化を好ましく思っていないことを示しています。

また、『蒲団』は時雄による告白文学であり、日本文学史上はじめて性が描かれた作品です。作者である田山花袋はキリスト教徒であり、作中でも芳子や田中にキリスト教の影響が強く表れています。キリスト教では、性とは「恥ずべきもの」であり「罪」でした。そして告白という形態、つまり外側へ向けて自ら発信する行為によって境界が生まれ、真の自己という「内面」が作られたのです。花袋は告白形式を用い、告白されるべき内面・隠すべきこととして性を描きました。彼は『蒲団』をとおして真の自己を描き赦しを得ることを確信しています。作中では時雄の罪は許される一方で芳子の罪は許されることがありません。これは明治期のジェンダー階層を反映しているといえます。

田山花袋から始まった私小説は、その汎用性の高さから急速に普及しました。以前まで男性知識階級が担ってきた文学において、女流作家誕生の兆しがみえると、彼らの特権的地位が不安定で不確実なものとなり始めました。そうした脆弱な特権性を「私」語りによって保つために、私小説は生み出されたのです。そのような作品では女性は差別的に描かれ、男性と対等になることはありません。この「私」語りの特徴は今日の文学作品でも見られるものですが、日本がグローバル化する今まさに「私」の在り方は問い直される必要があるのです。

 

明治期と比べれば現在は男女間の格差は見直され始めていると思います。しかし実際の日本社会では女性に対する差別的視点が未だ根強く残っています。東京大学入学式の祝辞にて、上野千鶴子教授が述べた内容は大きな話題となりました(本文)。ネット上では共感も批判も様々な反応がありました。

また『さよならミニスカート』という少女漫画は、女性および女の子のジェンダー問題を鋭い視点で描き話題となりました(公式サイト)。キャッチコピーは「このまんがに、無関心な女子はいても、無関係な女子はいない。」

昨今話題になりやすいジェンダー問題、今こそひとりひとりが考えていくべき時期なのではないかなと思います。

3年ゼミ 秋学期第3回

久々の更新となってしまい、申し訳ございません。最近自炊が少しだけ出来るようになって調子に乗っている川上です。こういう時にミスは起こるんです…。

今回は秋学期第3回の講義内容についてです。

春学期に学習した「精神分析批評」の理解を深めるということで、キース・ヴィンセント『夏目漱石『こころ』におけるセクシュアリティと語り』を用いて議論しました。今回の論文では、『こころ』をセクシュアリティという観点で分析しています。

作中に登場する青年と先生の関係が同性愛的であるという議論は、これまでもありました。あるいは『こころ』を、同性愛に対する異性愛の勝利の物語として捉える解釈も存在します。同性愛とは、未熟な人物の一時の「倒錯」であり、やがて異性愛に取って代わられるとする理論は、まさにフロイト的なものです。

論文では、『こころ』とは、セクシュアリティの理論化を巡って異なる方法が対峙する様を描き出していると主張します。つまり、セクシュアリティをここで規定しようとするのではなく、むしろ捉えようとする言説を概観可能にし、その有効性を失わせようとします。その根拠を、筆者は次の2つに求めます。

・『こころ』の未完性

・青年(私)の語り

『こころ』は「先生の遺書」以降の描写が存在しません。青年が、先生の自殺を知った後、どういう人生を送るかについての決定的な根拠がなく、その想像は読者に委ねられます。

また、『こころ』は青年(私)によって語られる物語です。語る青年(私)は、先生の自殺を知った後の青年(私)ですね。「同性愛的人生」の果てに自殺してしまった先生を、青年(私)はどう考えたのでしょうか。「先生は同性愛的で潔癖だ」「自分は異性愛者として成熟した」。概ねこのような語りで展開されますが、重要なのは、あくまでそれは青年(私)によって小出しにされた情報に過ぎないということです。

「本当は今の自分も同性愛的な部分があるが、世間的には異性愛者が認められているから、そういう風に演じておくか(汗」

と考え、語っている可能性もあります。つまり、ここでも、青年のセクシュアリティを決定する根拠はないということになります。

『こころ』は、非常に「誤読」に寛容な小説であり、だからこそ面白いのだと思いました。『こころ』がどういう小説であるかよりも、私たちがそれをどう捉えているかの方が重要なのかもしれませんね。

2018年度研究成果発表会

こんにちは。4年の大下と増尾です。久し振りにブログを書きます。
3月3日ひな祭りの日に、今年度の研究成果発表会を行いました。OBOG、社会人の皆さんにお忙しい中参加していただき、現役生にとってとても実りのある日になりました。
5期生の川上は、漫画「弟の夫」を題材に、同性愛を初めとした「レッテル張り」について問題視しました。
川田は、漫画「オハナホロホロ」を取り上げ、新しい家族の形について考察しました。
2人の題材には共通点が多く、家族や恋愛、結婚についての議論の火種となりました。

4期生の大下は、卒業論文で「指輪」を取り扱いました。今では結婚指輪の風習など、広く身につけられている指輪ですが、日本における指輪文化の隆盛は明治期からと、かなり遅いです。その事実から始まり、各時代で指輪がどのように扱われ、人々にどんな益をもたらしてきたのかを追究しました。
増尾は「毒親からの解放」というテーマで小説『放蕩記』の作品分析を行い、子どもが毒親とどう向き合い、解放されていくのかという点について追求していきました。

今回の発表会では私達4期生が昨年お世話になりっぱなしだった3期生の皆さんが全員ご出席くださいました。昨年のにぎやかなゼミが戻ってきたような感覚になりましたし、1年社会人として過ごしてきた皆さんのご意見やお話は、大変貴重でした。
3期生の皆さんだけでなく、1期生の方、社会人の方まで私達のために時間を割いてくださいました。2期生さんにも懇親会でご一緒していただき、内藤ゼミほぼフルメンバーでの大宴会となりました。
本当に、内藤ゼミに来てよかった…!と思える発表会でした。皆さんありがとうございました。

そして、これを書いている今日、私達は明治大学を卒業します。
先生、先輩、後輩にはたくさんたくさんお世話になりました。また、私たちとお関わりくださった南房総の皆さん、そして昨年、今年と内藤ゼミでお世話になりました皆さんも、本当に本当にありがとうございました。
私達2人はこれまで大学で触れさせていただいたたくさんの経験、そして出会いを大切に、これからの人生も邁進していく所存です。そして、内藤ゼミのことを一生忘れません。絶対にまた戻ってきます!

ありがとうございました。

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4期生 大下由佳 増尾未来

3,4年合同ゼミ ワークショップ

こんにちは 3年浦上です。
11/27に3,4年合同のワークショップを行いました。今回は「この大都市の茂みの日陰で」という演劇を分析し、実際に制作者のPuPの方々にお越しいただき発表しました。
PuPの皆様、お忙しい中来てくださり本当にありがとうございました!!!
ワークショップは3限4限の時間で行い、私たちの発表、質疑応答、そして演劇のワークショップというスケジュールで進めていきました。
まずは私たちの発表について。事前情報も無くはじめてこの演劇を見たとき、
私たちは「・・・!?!?」
という感想を抱きました。なぜなら演劇と聞いて思い描く演劇とは違ったからです。私は演劇を感情的で動的なもの、内容がわかりやすく構成されているものだと思っていました。しかしPuPの演劇ではそのような演出は行われていなかったのです。いったいどのような演劇なのか気になる方はYouTubeに「この大都市の茂みの日陰で」がアップロードされているので是非見てみてください!
そのような演劇を前に私たちは戸惑いながらも議論を重ねて、最初に演劇を見た時の「・・・・!?!?」という数々の疑問(話し方が単調なのはなぜ?台本を読むのはなぜ?動作の意味は?などなど)に対する仮説、そしてその仮説の論拠を探していきました。
3年ゼミ生は、ここまで1つの作品を深く議論したのは初めてでした。先輩に助けてもらいながら、そして内藤先生から様々なアドバイスをいただきながら、なんとかワークショップ当日にたどり着くことができました。そして無事、発表をすることができました。
発表のあとはPuPの方々から私たちの発表に対する質疑応答、そして私たちから演劇「この大都市の茂みの日陰で」に対する質疑応答を行いました。
次にワークショップについて。PuP持田睦さんが、石川啄木「A LETTER FROM PRISON」というテクストを用意してくださいました。そのテクストを用い、PuPの方々とゼミ生2グループに分かれ演劇を行いました。
突然ですが、皆さんはこの文章をどのように読みますか?

  地方版編集記者も遂に予の卓氏を離れねばならなかった。予は恰度、予の前に立ちはだかっていた一疋  の野獣が吠え、そうして牙をならしただけで、首をめぐらして林の中に入っていったような安心を感じた。

この文章は「A LETTER FROM PRISON」の一部です。私たちはこの文章(実際にワークショップで使った文章はもっと長いです)のどこに何拍入れるかを話し合いました。

地方版編集記者も/遂に予の卓氏を離れねばならなかった。//予は恰度、/予の前に立ちはだかっていた~~

といった具合に、拍を「/」で表しどこに何拍入れるかを話し合いテクストに書き込み、必要に応じて動作を加えました。何度か通し練習をした後、各グループで発表しました。他グループの発表をみて、「拍の位置や拍数が違うだけでここまで作品の雰囲気が変わるんだ!」と感動しました。「拍にこだわる演劇」を実際に演じたときは、演者同士で拍を合わせること、拍に動作を合わせることがこんなにも大変なんだと感じました。

今回200分という限られた時間の中で濃厚な体験をすることができました。PuPの方々、すてきな体験をありがとうございました。

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写真後ろ 右から持田玲香さん、持田睦さん、古谷さん、内藤先生
実は山崎さんも出席されていたのですが、体調不良で早退してしまったため写真には写っていません。
山崎さん、体調が優れない中参加してくださり、本当にありがとうございました。

3年ゼミ 秋学期第二回

こんにちは。今回の担当の山口です。まだ11月の半ばですが、もうクリスマスのイルミネーションがいろいろなところで見られるようになりましたね。ついこの間まで残暑が厳しかったと思えば、クリスマスまでもうあっという間です!

 今回は、イギリスの小説家ジョセフ・コンラッドの作品『闇の奥』と、田尻茂樹『知の教科書 批評理論』より、この作品を脱構築的に批評した「第四章 空虚な中心への旅――脱構築批評」を学習しました。
 『闇の奥』は、貴重な象牙を獲得するためにフランスの貿易会社によってアフリカの奥地へと送り込まれたマーロウが、その最奥の営業所でクルツという人物に出会うというストーリーです。この中で今回は、「言葉」ではなく「声」という表現が文中で多数使われていることに着目しました。田尻さんの論文を参考に議論をした結果、この「声」という表現は、ソシュールの言語論の矛盾を指摘したデリダの理論と重ねて解釈することができ、言語の相対性や、言語は恣意的な約束事でしかなくそこに文明と未開の差などない、ということを指摘したかったのだと解釈しました。
 また、全体を通して、テクストのレベルから見ても物語内容のレベルから見ても、中心に確固たる意味や真理があると信じ、そこへ向かっていこうとする行為=ロゴス中心主義的な行為は、『闇の奥』から読み取ることができる脱構築的な側面によって揺らがされ、「空虚な中心」に向かっているようなものであると読解しました。

二週間目には各自で『闇の奥』に対する自分の意見を持ち寄り、発表しました。

・アフリカに行くまでの描写に対し、帰ってくるまでの描写が非常に簡素。これは、後半に物語の中心があるという考え方を読者に改めてほしいからではないか。
・情景描写の丁寧さに比べ、クルツの描写は簡潔である。周縁(情景描写)を極端に際立たせることで、中心の空虚さをアピールしているのではないか。
・マーロウは暗黒大陸からパリに帰還した後、暗黒大陸の様子を知らない文明社会の人間の人生知識を虚偽にすぎないと切り捨てるが、クルツの婚約者を傷つけまいと嘘をついてしまう。彼は暗黒大陸が持つ真実性に魅了されつつも、文明社会における嘘の有用性にも気づき、どちらか一方の社会だけに帰属することが困難になっているのではないか。
・髄所にフランスに対する批判とイギリスに対する賞賛が書き込まれている。ポストコロニアル的な対立だけでなく、同じヨーロッパの内部での英仏の対立も見ることができる。

など、非常に議論の盛り上がる意見が出され、また、ゼミのメンバー間での着眼点の違いにも具体的に気づくことができました。

そろそろ内藤ゼミでは後期の論文執筆がはじまります。がんばるぞー!
以上、山口でした。

3年ゼミ 秋学期第1回

こんにちは。満員電車に乗っていたのですが、目の前にいた見知らぬ方が猛烈な勢いでLINEの友だちを削除しているの目撃してしまい、車内で天を仰ぎました。というわけで今回のブログ担当は川上です!

秋学期第1回の講義ついてですが、

春学期に学習した「ポストコロニアル批評」の理解を深めるということで、吉田香織『アニメーションにおける他者表象―オリエンタリズムの観点から観たディズニーと宮崎駿の世界ー』を用いて議論しました。この論文中で取り上げられるデイズニー映画『ムーラン』と宮崎駿の映画『千と千尋の神隠し』についてですが、こちらはゼミ生が各自鑑賞しました。

◯アニメーションについて
アニメーションや、キャラクタービシネスなどが複合して作られたファンタジーにおいて、製作者は、自分の、あるいは視聴者の欲望をかなり色濃く投影することが可能です。このように思想が強く反映されるアニメは、集団アイデンティティー形成に大きな影響を及ぼします。また、私達がアニメーションをみることで、それと普段の自分の生活との差異を楽しんだり、自分の在り方を見つめ直したりするように、「自己」「他者」概念をも構築します。社会に存在する偏狭的なイメージを覆すこともあれば、さらに強化してしまうこともあるそうです。アニメーションを、単なる子供向けの娯楽と捉えてしまうと、見逃してしまうことが多そうですね。

◯『ムーラン』について
ディズニー・アニメーションは、1998年に初めて東洋がモチーフの作品を制作しました。それが『ムーラン』です。アメリカにおいては、この作品は反オリエンタリズム的アジア描写の作品と評されていましたが、そうとは思えない描写がいくつかあります。アジアの描写はされているものの、それはあくまで西洋の視点から描かれたものであり、つまり、あくまで西洋人に親和性があるレヴェルでのアジア描写に留まっているということです。この作品は、東洋と西洋の対立(支配)構造から脱却できていないのではないか、という意見が挙げられました。

◯『千と千尋の神隠し』について
論文では、『ムーラン』と比較して、『千と千尋の神隠し』は、世界観の相対性と複数性を通しながら他者同士の共存を描いているため、西洋/東洋、自己/他者といったような二分法が通じないと述べています。

また、二項対立と力関係に関連して、主体/客体という観点で注目されるのが、「視線」です。見る/見られるという関係性において、見られる側は、ただ一方的に見る側に見られるのであり、力関係の優劣がほぼ決定しています。映画ならば、私達観客は見る側であり、映画の登場人物たちは見られる側ですね。しかし、『千と千尋の神隠し』では、あらゆる場面で、観客を見つめるような「視線」(目が描かれた看板・襖・小包)が登場し、観客達は見られる側にもなり得て、主体/客体の境界があいまいになるとのことです。

ゼミ生からは、『ムーラン』と比較して、『千と千尋の神隠し』は二分法から脱却しているように感じるが、十分ではないのではないかという意見があがりました。例えば「視線」問題に関しては、映画を見ていて、自分が見られる側に立つ感覚は覚えなかったし、「視線」はむしろ私達にではなく、千尋(主人公)に向けられているように感じたとのことです。もしそうであれば、千尋は相変わらず、一方的に視線に晒される弱い立場のままであり、力関係は覆されるどころか、強化されていることになります。

論文では、アニメを欲望のメディアと表現しています。人々の、普段は表に出ないような欲望が表出する場がアニメだと考えると、アニメをみるときの心持ちが変わるかもしれません。