11期生 第2回 同じ画面に映されているのは何だ!

みなさんこんにちは

久しぶりにブログを書きます!担当の土田です。

気が付いたらもう4年生になっていて、5月も中盤に差し掛かっていて、時の流れの速さに驚いています。

2コマ分あったゼミの時間も1コマになったため、ここでも時間の流れる速さを感じています。また、今年度からは映画の作品分析に入ったため、昨年度とはまた違った視点を養うことができそうで楽しみです。

しっかりと有意義なものにするぞ、ということで忘れないうちにブログを書くことを目標に、頑張りたいと思います。

「カメラワーク」

今回の担当は井上さんで、『Film Analysis』から、カメラワークについて学びました。

まず、映画においてカメラワークとは、対象物との距離によって変化するショット、アングル、カメラの動き方、レンズの焦点距離の組み合わせによって発生するものです。

例えば、表情や細部を強調するために被写体を画面いっぱいに映し出す「クローズアップショット」では親密性を、クローズアップショットよりも引いた胴体も映す「ミディアムショット」では人間関係を強調する意味を持ちます。そして、さらに被写体とその周囲の環境を広く捉えた「ロングショット」は、非人格性や客観性と相性がよく、周囲の環境と人間の環境に注目させる意味を持ちます。

他にも、アングルにおいて、上から映すハイアングルは支配的な印象を、下から映すローアングルは優越感や権威などを意味します。

また、カメラの動かし方にも手法別の効果があり、カメラを水平に左右に振って被写体を追う「パンショット」は、関係の意味付けのために用いられ、人間関係の樹立や社会集団の説明に意味を持ちます。

パンショットはカメラは固定されていますが、カメラ事態を動かすショットとしては、被写体に沿ってスムーズに移動させる「トラッキングショット」や、カメラを台車に載せて被写体に対して平行移動させながら撮る「ドリーショット」という手法が挙げられています。

特にドリーショットは、この後分析する映画『シャイニング』にも用いられており、ダニー(息子)がホテルの廊下を進む場面では、人間の生命の「循環」や「繰り返し」を表していて、これは映画全体のテーマでもあるようです。

最後にレンズについても説明します。

観念を伝える道具としても用いられるレンズでは、焦点を調整することで観客の目線を誘導できます。

また、ズームインすることである人や物に焦点を絞り、ズームアウトすることで事物から焦点物を遠ざけて、周囲の空間との対比の中で消してゆく効果があるのです。

以上が今回の論文の内容になります。

これを踏まえて後半は、映画『シャイニング』の分析を行いました。

私たちは特に、ジャック(ホテルの管理人・夫)とウェンディ(妻)が、大広間の階段とお風呂場で対峙するシーンについて考えました。

分析に入る前に、この物語の前提を振り返りました。ジャックらが滞在することになったホテルは、本来ネイティブアメリカンたちの土地で、彼らを追い出して建てたのが、オーバールックホテルなのです。

それらを示唆するように、ロビーにはネイティブ柄のラグが大きく広げられていました。

よってこの映画の背景にはネイティブアメリカン対白人の二項対立が存在していると考えられます。その視点で考えると、ネイティブアメリカンに憑かれたジャックは白人側であるウェンディを追い詰めます。階段で2人が対峙するシーンでは、ジャックとウェンディを視点を変えながら、1画面に2人の姿が映るようなカメラワークが採用されています。

この場面ではウェンディはバットを持っているものの、迫ってくるジャックにひどく怯えています。この時点では、2人が1画面に映るという点から、ウェンディもジャックも相互作用が可能な状態であると考えられます。よって、ウェンディは危害を加えられる可能性があり、ジャックもまた同じで、最終的にジャックはウェンディによってバットで殴られ転落します。

続いて、お風呂場に逃げたウェンディをジャックが追いかけるシーンで考えます。こちらのシーンでは、先ほどの階段の場面と比較すると、2人が1画面に映る瞬間がないことが分かります。ジャックは斧という武器を持ちウェンディに迫っているため、一見ジャックの方に優位性があるよう感じますが、2人が同じ画面に映ることができない、という点で、もはや2人は相互に作用することが不可能な状況になっているのです。

つまり、階段のシーンではまだ、ネイティブアメリカンの気を背負っている程度であったジャックは、お風呂場のシーンになると完全に憑りつかれてしまい、白人側のウェンディに危害を及ぼすことは不可能となるのです。

その後、家の外の迷路で息子のダニーをジャックが追いかけるシーンでも、2人は同じ画面に映ることはありません。

このことを踏まえるとカメラワークから、同じ場所にいる2人の相互関係についてを明らかにすることができるのです。

つまり、同じ画面上に映るか否かに注目すると、ウェンディとダニーの無事を予測することができた、ということです。

私は、お風呂場のシーンを見た時、ジャックの狂気と斧の強さにあぁもうダメか、とウェンディの命を案じてハラハラドキドキしてしまっていたので、このことを知ったらホラー映画も怖くないかも?と思いました。

これからも1画面に映る人物の関係に注目すると、新たな発見をすることができるかもしれません!

それでは今回はここで終わります。

ここまでお読みくださりありがとうございました~!次回へ続く

12期生 第二回 テクストとは何か

内藤ゼミ11期生初回のブログを担当いたします、飯尾月葉と申します。先輩方に倣って、初めに簡単に自己紹介をしたいと思います。

私は秋田県出身で、大学進学を機に上京してきました。アニメや漫画が好きで、最近は『WIND BREAKER』や『暁のヨナ』、『呪術廻戦』にはまっています。また、ゲーム『刀剣乱舞ONLINE』も大好きで、特にミュージカル作品をよく観ています。東京ではこうしたイベントが数多く開催されるため、以前から「大学生になったら上京したい」と考えていました。内藤ゼミでは、特に『刀剣乱舞』をテーマに研究していきたいと思っています。

現在は居合道部白鷺会と早稲田大学のインカレサークルに入っています。中でもぜひ知っていただきたいのが居合道ですね。剣道でも合気道でもありません。模擬刀(竹刀ではなく金属製)で演武する武道です。刀をビュンビュン振るのはあこがれませんか?まだ知名度は高くありませんが、この機会に少しでも興味を持っていただけたら嬉しいです。

少し長くなりましたが、授業の内容にうつります!

前座

今回は、私が『刀剣乱舞ONLINE』について紹介しました。『刀剣乱舞ONLINE』には、キャラクター(刀剣男士)たちの魅力的なビジュアルや、実在する日本刀がモチーフになっていることなど、さまざまな魅力があります。その中でも特に面白いのは、「はっきりしたメインストーリーがない」という点だと思います。

刀剣男士たちは、プレイヤー(審神者)それぞれの本丸に顕現するという設定なので、同じ刀剣男士が複数存在していても問題ありません。歴史を改変しようとする敵と戦う、という基本設定はあるものの、実際にはそれぞれの本丸で起こる出来事が“本編”になっています。そのため、メディアミックス作品や二次創作でどんなストーリーが描かれても、違和感なく共存できるのが特徴です。さらに、「同担拒否」が起こりにくいのも面白いところだと思います。なぜなら、自分の本丸の刀剣男士と、他の人の本丸の刀剣男士は、それぞれ別の存在として考えられるからです。

こうした自由度の高さや、解釈の幅広さが、『刀剣乱舞ONLINE』ならではの魅力だと感じました。

3限

廣野由美子著『批評理論入門 フランケンシュタイン解剖講義』

1冒頭 

古田さんの発表でした。

第1章では『フランケンシュタイン』の冒頭について取り上げられています。小説の冒頭部は読者にとって、現実世界から虚構の世界に入るための敷居です。初版の『フランケンシュタイン』では、「11月のある陰鬱な夜のこと、、」という書き出しになっていましたが、この書き出しは読者に急激に情報を与え大きな疑問を残して今します。一方で、再編された『フランケンシュタイン』では、ある男の姉に宛てた手紙文から始まっています。現実的な手紙という形式に物語を収めて、読者に信憑性を与えることで小説の冒頭という敷居を跨がせやすくさせる技法がとられているのです。

しかし私は、手紙が一般的ではなくなっている現代では、手紙が読者にとって良い敷居であるとは言えないと考えました。物語の世界に入り込みやすいメディアは時代によって変化していくのかもしれません。

2ストーリーとプロット

第2章では小説におけるストーリーとプロットについて取り上げられています。ストーリーは出来事を起きた時間順に並べたもので、プロットは物語が語られる順に出来事を再編成したものです。つまり、ストーリーは時系列で、プロットは因果関係によって出来事を組み替えているのです。『フランケンシュタイン』では、物語がほとんど終わりに達した段階から始まり、過去に遡って語るという配列法がとられています。またプロットで語られることで、読み進めると生じる疑問がすぐには解消されず、真相の提示が先延ばされるため、謎やサスペンスが生み出されています。

4限

ロラン・バルト『作者の死』

引き続き古田さんの発表でした。

授業内容の前に言葉の整理をしたいと思います。テクストとは、作品そのものであり、作品となる内容のこと。エクリチュールとは、書くこと、言語活動全般のこと。

本テクストでは、テクストの中に作者(の意図や背景)を読み取ろうとするのではなく、むしろテクストと書き手は分離して考えなければならない、と主張しています。つまり、書き手は単に文字を書いたにすぎず、読者はテクスト自体を解釈しなければならないということです。テクストは、それまでに書き手が経験してきたあらゆる他者の文化やエクリチュールが反映されたものであるため、そこに書き手由来のものは含まれないとする考え方です。

このようにテクストと作者を分離して考えると、テクストには多様なエクリチュールが存在し、それぞれがそれぞれと様々な形で関係しあっています。そのため、テクストは、解読し一つの答えを見つけ出すことはできず、読者によって多種多様に解釈されるのです。

以上が第二回の授業内容です。語が難しく、読み内容を理解するのもまた難しかったですが、何がわからないのか、どう解釈したのかをきちんと整理し、引き続き授業に臨みたいと思います。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

飯尾

11期生 第1回 映像作品における『構図』

皆さん、こんにちは!

久々の更新となりました。

11期生の井上紬です。

このたび4年生に進級するとともに、ゼミで学習する理論も、文学を対象にしたものから映像作品を対象にしたものに移りました。

今回はその第1回ということで、映像作品における『構図』について、本ブログにまとめたいと思います ^_^

本日の理論:『Film Analysis』第1章「構図」

分析対象:『第三の男』(キャロル・リード監督)

皆さんは、映画において「構図」とは、ストーリーにどのような意味をもたらすと考えますか?

今回扱った図書『Film Analysis』の著者(マイケル・ライアン、メリッサ・レノス)によれば、

「構図」、つまり、画面上の密集率・登場人物の位置や大きさ・演者の配置などは、登場人物同士の関係性を表したり場面の強調をしたりする意味をもたらすといいます。

これは具体的にどういうことなのでしょうか。

たとえば、画面上に登場人物が密集している様子(タイトなフレーム)からは「抑圧」や「強さ」のイメージが読み取れます。

一方で、広大な背景に対して登場人物がぽつんと佇んでいる様子(ルースなフレーム)からは「空虚さ」や「脆弱さ」のイメージが読み取れるというのです。

文章にするとわかりづらいかもしれませんが、実際にこのような映像を目にしたとき、確かに私たち視聴者はこういったイメージを抱いているような気がします。

密集率以外にも、【重要人物はフレームの中央か上半分に置かれている】のに対して【従属的な人物は下半分か端の方に置かれる】といった位置の問題や、【背景(の人物)の存在によって前景の人物の属性を際立たせる】といった大きさの問題もあり、次何か映画を観るときには「本当にそうなの?」と確かめたくなってきますね。

フレーム内にいる登場人物たちの秩序をみるという点では、シンメトリ/アシンメトリの概念も重要になってきます。

シンメトリといいますと、最もイメージしやすいのは軍事パレードの様子でしょうか。

一糸乱れぬさまから伝わってくるように、シンメトリの構図には統一や調和、規律の厳格さや融通の効かなさといった意味合いがあります。

また、シンメトリという語から「上下または左右が対照的な構図」だけを想像されるかもしれませんが、決してそれだけには限らないのもポイントです。

たとえば、映画『ミルドレッド・ピアース』において、4人の登場人物(女・彼女とよりを戻そうとする男・女の母・女の妹)がフレーム内に収まるシーンがあるのですが、このとき(女)と(彼女とよりを戻そうとする男・女の母・女の妹)が1:3で対立しているかのような構図がとられています。

しかしよく見てみると(彼女とよりを戻そうとする男・女の母・女の妹)は背の順で横一列に並んでおり、ある意味で不自然なのです。

つまりこの構図は、よりを戻したい・戻してほしい(彼女とよりを戻そうとする男・女の母・女の妹)と、そうは思っていない(女)という対照。

このような場合もシンメトリと解釈されることから、私たちゼミ生は、

シンメトリという構図を「パワーが均衡している様子」と説明することにしました。

一方でアシンメトリは、不道徳や裏切り、嘘や殺人などを表現する場合に、光と影のコントラストを作る構図です。

以上を踏まえて、ゼミでは最後に、映画『第三の男』の分析を行いました。

今から70年以上前の作品とは思えないほど、光と影の表現が前衛的な名作。

ラストで女性が並木道を歩いてくる長回しは、それこそ「ルースなフレーム」として読み取れますね。

また、印象的なのは観覧車にて主人公・ホーリーと死んだはずの『第三の男』・ハリーが対話するシーン。

ハリーがホーリーのもとにやってくるとき、ハリーの背景にある遊園地の様子は閑散としていて「空虚さ」や「脆弱さ」を感じさせるのですが、ホーリーとの熱い問答を繰り広げたあと、ハリーが姿を消していく遊園地の様子は賑やかで、彼が物語において「強さ」を取り戻したことがこの一連の流れから読み取れます。

今回は第1回ということもあり手探りで進めてしまったため、物語全体の解釈にはおよびませんでしたが、「構図」に着目してみる映画は、それまでとは違った様相を見せてくれると感じました。

皆さんもぜひ次見る映画では「構図」を意識して観てみてくださいね!

11期生 闇の奥の語り手

みなさん、こんにちは。

あっという間に年の瀬ですね!年内のブログは年内に片付けなければ!ということで今回も土田が担当します。

3限 ポストコロニアル批評

田尻芳樹『空虚な中心への旅』

担当はジョウくんです。今回の論文では『闇の奥』を用いながら、作品に存在する二項対立とそこから逸脱する脱構築について述べられていました。

そもそも、脱構築とはジャック・デリダが提唱した考えで、音声(ロゴス)を文字(エクリチュール)の上位に置く思考法(=ロゴス中心主義)を指摘し批判するものです。

一方で、書かれた言葉は音声を書き写したものに過ぎない、という発想は私達の常識として備わっています。

この音声優位の思考は、文字を貶めているようで、実は文字に依存しているということをデリダは明らかにして、音声/文字という階層構造を持った二項対立は成り立たないと主張します。このように、階層秩序の中にある対立していると思われている二つの物の共通性を見出して、対立関係を揺るがすことが脱構築の基本操作です。

ジョセフ・コンラッドの『闇の奥』では文明/野蛮、西洋/非西洋というわかりやすく二項対立の関係にあるものが大きなテーマとなっている、と読むことが出来ます。

元船乗りのマーロウが、4人のイギリス人に自身のアフリカへの旅について語ることで進んでいきます。アフリカに憧れたマーロウはヨーロッパから船に乗り、目的地へと進める中で、カーツという極めて有能であるが危険視されている人物のことを知ります。

カーツは半分イギリス人の母と半分フランス人の父から生まれ、「全ヨーロッパが彼の形成に寄与した」と表現されているほど西洋的(=文明)な人物です。しかし彼はアフリカの奥地にとどまり、象牙集めに狂奔し、最終的には対立する原住民の首を切ってさして並べるような蛮行を犯すのです。

このことから、カーツは文明的な存在から野蛮的な存在に変化した、と考えられます。また、文明は野蛮を内包していた、とも言うことが出来ます。

つまり、文明と野蛮はもはや対立する存在ではなく、見かけの対立構造から逸脱していたのです。

二つの要素を分けていた境界線が揺るがされているのです。

そして、マーロウの旅は徐々に闇の奥、暗黒の中心部へと向かいます。

以前は空白だったアフリカ大陸はヨーロッパ人によって暗黒が発見され、空白に暗黒が重ねられることとなりました。本文中でも「空っぽ」と表現されており、マーロウが向かう暗黒の土地は空虚である、と述べられています。

カーツは死ぬ直前に「恐怖だ!恐怖だ!」という叫びを残し、マーロウはそれにひどく感動します。この臨終の言葉はカーツの心が空虚であり暗闇であるということも表されていて、マーロウは、カーツの生を要約した勝利と肯定の言葉だと解釈します。

マーロウはこのことを、カーツの婚約者には隠したことで、男性/女性の二項対立を維持していることになります。

『闇の奥』では白人/黒人、西洋/非西洋などの二項対立は脱構築していると言えますが、例えば実際に人種差別を受けている立場で見ると、悪しき現状肯定に過ぎず、文学テクストと現実社会の問題を切り離してはいけないのがポストコロニアル批評であるとして本論文は締められています。

4限 『闇の奥』

3限の論文内容や議論を踏まえて、4限ではカーツの臨終の言葉「恐怖だ!恐怖だ!」や、タイトルにもある「闇の奥」とは何だったのかについて考えました。

議論を進めていった結果、私たちは『闇の奥』の語りに注目しました。

本作品は、マーロウが他の船員に語っている部分がほとんどで、鍵括弧付きのマーロウのセリフで構成されています。

マーロウが語る1人称小説ではなく、マーロウが他者に語っているという語り手の手法がとられているのです。

読んでいる我々はマーロウの語りとして物語を読み進めますが、実はそれはマーロウが聴き手に対して語っている言葉でしかなく、つまりマーロウが見たり聞いたり体験したことが、一度マーロウの中のフィルターを通って発される言葉を語りとすることで、語りの内容は彼によって選別されたものであることが言えるのです。

また、マーロウの語りでしかないため、そこで語られているカーツはマーロウが思うカーツでしかないのです。そこに信頼はないと言えるでしょう。

もしもマーロウが何か新事実を発見していたとしても、彼が語らない選択をとっていたら我々はそのことを一生知ることが出来ないのです。これはマーロウが語っている様子を語るという本作の手法でないとできないことだと思います。

この物語はあえて「信頼できない語り手」による語りの方法がとられていたのです。

だからタイトルに『』はついていません。

アフリカを目指して、中心を求めていた旅でマーロウが見つけた闇とは何だったのでしょうか。3限で扱った文章には闇=空虚として扱われていましたが、私は、闇は空虚つまり空っぽということではなかったのではないかと思います。

むしろそこには、これまでの様々なものがごちゃまぜになったが故の闇だったのではないでしょうか。カーツの臨終の言葉「恐怖だ!恐怖だ!」は闇の空虚さを恐れたのではなく、闇の中の見えなさ、不明瞭さ、それからこれまでの人生の無秩序さやもっと複雑などろっとした感情などすべてが合わさって真っ暗、闇に見えたのではないかと思いました。

闇=空っぽでは何だか救いがないような気がします。

以上で今回の授業内容についての記録は終わりです!

さて、2025年もついに終わりますね!

毎年思っていますが、今年はよりあっという間に12月がやってきて終わろうとしています。でも1年前がはるか昔のことのようにも思えます。。。

私は先日、かなり熱を上げていたサークルをついに引退して、暇になるかなと思ったのもつかの間、レポートや諸々の準備に明け暮れる毎日を送っています。年が明けるとすぐにレポートやワークショップが待ち構えているので、休日ムードに流されつつ流されずに、頑張っていきたいと思います!

来年もどうぞよろしくお願いします。

それでは、良いお年を~!

11期生 主人公は移動する。

みなさんこんにちは。

本日ブログを担当します土田麻織です。

今期ブログを溜めてしまっており、随分と前の回の内容となっていることをお許しください。

そして、このブログは先生とゼミ生くらいしか読まないだろう!と比較的自由に色んなことを書き連ねていたのですが、何かの間違いで話題にあがってしまい非常に戦慄しております。ブログを書く筆が乗らないのですが、早速授業内容に移ります!

3限

「文学と文学記号論」ユーリー・ロトマン

今回は井上さんが担当でした。私はこの文章をほとんど理解することが出来なかったのですが、井上さんの発表で何となく骨格が見えてきたような気がしました。わかりやすい発表をありがとう!

この文章の要点は「文化モデルとはどのような要素によって構成されているか」です。

まず本論では、物語の登場人物は【動的登場人物である主人公と、不動的登場人物である彼の敵対者たち】と区別することが示されており、不動的主人公という例外を覗いては、このような分類が可能なのです。

不動的要素を担う登場人物は、動かないため自分の環境を変えることができません。反対に、ある環境からある環境へと移動して自分の環境を変えるということが、主人公を主人公たらしめるのです。

不動的主人公は与えられた世界絵図の中に完全に収まり、最大限の「一般性、典型性」を特色とします。完全に物語世界の中に収まっているため移動を必要とせず、その欲や使命に駆られることがありません。

また、文化モデルは3つの要素によって特徴付けられています。

  • 普遍的空間の分割タイプ
  • 普遍的空間の規則性
  • 方向性

文化モデルにおける境界線の存在は内部と外部の対立、そしてさらに内部の中でも内部と外部を区切ることが出来ます。

そんな文化モデルは【我々(内部)⇆彼ら(外部)】という対立に簡単に分類することが出来ます。この対立は閉ざされた世界への加入とその対立項として解釈されます。

例えば世界を生者と死者の二項対立として捉えるのではなく、善神と悪神のような区別も存在するため、【組織化⇆脱組織化】という対立において組織内では境界線を引くことが出来ないということです。

境界について話してきましたが、この境界を越境する事こそが題材を構成する典型的な図式となるのです。境界は不変体として登場し、空間の連続性を破壊することも出来ます。

また、題材の最も典型的な構成法としては空間協会の越境があげられ、世界の更生との闘いとして題材の図式が生じるというのです。

また、題材におけるテキストは、登場人物によるモデル空間の境界の横断や、より個別的な区分の横断によって描かれ、これらの横断によって描かれる軌跡は、人間の道程や事件として描かれます。「事件」を別の構造へと移行させるために動的な要素が、自分の空間と他人の空間を持っていることが問題となります。

以上が3限の内容になります。

ここから4限では辻村深月さんの『傲慢と善良』を、登場人物の移動の観点から分析することにしました

4限

『傲慢と善良』辻村深月

傲慢と善良は、主人公の西澤架が婚約者の坂庭真実の突然の失踪を追うところから始まります。真実の居場所を探していくうちに、架は彼女の「過去」と向き合うことに。真実の失踪の本当の理由は何なのか、真相に近づくたびにそれぞれがが無意識に持つ傲慢さと善良さが浮き彫りになるようなお話です。

本ブログでは議論の内容を中心にしたいので、物語の詳しい内容は割愛させていただきます。

失踪していた真実はいくつかの土地を移動していたことが明らかになります。そして最終的には宮城県石巻市で地図を作る仕事をして、自分の意思で日々を充実させていました。そこで、今回私たちは「真実が東北に行ったことはどのよう意味があったのか。」という問いを立てて移動について考えました。

真実は群馬で生まれ育ち、30歳を過ぎたタイミングで東京に上京。架の前から姿を消した後は、一度実家のある群馬まで行きそのまま仙台へと住み込みのボランティアをしに移動しました。そしてその後石巻で新たな地図を作る仕事を始めて、物語内の真実の移動は終わります。

まず、私たちはそれぞれの土地は何を象徴しているのか、どのような出来事があったのかを書きだしていきました。

群馬(実家)

実家のある群馬では、狭いコミュニティの中で常に監視されているような生活であったことが明らかになります。

また、そのコミュニティの中での価値観、例えば真実と真実の両親は彼女が香和女子という地元では評判のいい女子高・大出身であることに過剰にステータスを感じています。実際に東京の頭のいい大学に進んだ人物が、香和女子大に何の執着もしていないようなシーンが描かれていますが、真実を始めとする両親は、自分たちが住んでいる小さなコミュニティ内での価値観に縛られていてそれが全てだと思っているのです。それゆえに、近所の他人と比較もしやすく、常に互いの状況を把握して審査しているような状況でした。

よって、群馬では

・他人との比較が日常茶飯事

・序列や差異を過剰に気にする

・優位性が求められる

・人と人が牽制しあう

社会であったと考えました。

続いては東京です。

東京

一般的に上京する、というとポジティブなイメージで、発展や進化といった意味合いが含まれると思います。真実も、前向きな理由で東京に来ました。一見すると、東京への上京は、群馬という閉鎖社会からの解放と考えられそうですが、本作品では違いました。

東京では確かに親からの束縛からは解放されました。しかし架の昔からの女友達は真実のことを詮索して審査して、架の以前付き合っていた女性や周りの人たちと比較して苦言を呈していました。つまり東京でも、他人との比較が行われ、その差異で序列が作り出されていたのです。

これらより、私たちは群馬と東京は監視社会であったと意味づけました。

そして失踪期に移ります。

失踪期

群馬

真実は東京を離れ、行く当てが実家の群馬しかなく、一度群馬に足を運びます。

ここでも監視社会の要素が含まれるのですが、群馬では知っている人に見られるかもしれないという恐怖が起こり、違うどこかへ行こうと決意します。

仙台

そこでボランティアとして東北地方で被災地の支援活動を行っていた人の話を思い出して仙台に行くことになります。

仙台では、震災で汚れてしまった写真を洗浄する仕事を任されました。写真館に住み込みで働き、そこにはもう一組小さなこどもを連れた女性がいました。しかし彼女は真実について詮索するようなことはしませんでした。また、写真館の人も、みんな事情があってここにいるしこれまでにも何人も来て何人もいなくなったから、と深く追求することはありませんでした。

これより仙台に来たことで真実は監視社会から解放され、また真実自身も監視を辞めるきっかけとなったのだと考えることが出来ます。

そして地図作りの仕事を紹介され、石巻市に移動することを決めます。

石巻

石巻市では、震災で一度は建物が無くなってしまった土地を歩いて回り、新しく建ったものを記録するという仕事をしていました。ここで初めて、真実は0から1を作るという、新しいものを想像するというフェーズに行きました。また、建物を一つ一つ確認していく作業、“在る”という存在を顕在化させることが、東京屋群馬での差異でしか物事を理解することが出来なかった状況との対比になっていると言えます。

そしてそこで自分の行く道を決めます。よって、真実は石巻の地図作りという仕事を通して、自分の幸せをも作れるようになった、と考えることが出来ます。

以上より、今回私たちが立てた「真実が東北に行ったことにはどのような意味があったのだろうか。」という問いに対して、「監視社会である群馬・東京から離れ、仙台の写真館で写真洗いをしたことで、監視する・されることを辞めるきっかけとなった。また、石巻での地図作りを通して、監視を辞めた先で自分の幸せを作ることが出来るようになった」として結論付けました。

お疲れ様でした!

今回は特に頭をフル回転させてああでもない、こうでもない、と沢山考えた回だったように思います。

ボツになった仮説ですが、東北パートでは「海」がキーワードとして挙げられるため、内陸の群馬・東京に対して海に面した東北、という構造で何か言えるのではないか、とも考えました。「まみ」の「み」が海で「真海」、真実の海だったら何か違ったかもしれないな、と思いつつ「真実(しんじつ)」であることに大きな意味があると思うので真実ちゃん海の神説はしまっておこうと思います。

長々と書いてしまいましたが、今回は「移動する登場人物が主人公である」という、今まで意識していそうで意識したことがない点に着目することが出来て非常に面白かったです。思い返すと確かにどんな物語も主人公は移動しているような気がします。

その移動先の土地などに対して、作者はここにゆかりがあるからなのかな、この風景を登場させたかったからなのかな、などのことしか考えていなかったのですが、今回のように分析してみるともっと深みのある結論が出せるのかもしれません。

このあたりで今回のブログは終わりたいと思います。ここまで読んでくださった方は、ここまでお読みくださりありがとうございました!

(年末の挨拶をする前にもう一本書きたい、、、!)

11期生 第6回 共同体に貢献しないで自由を得る

こんにちは!

前回に引き続き連続のこんにちは、になりました(笑)藤田雄成です。
もう12月ですね。だんだんと忙しくなってきてブログも忘れないうちに早めに書くことを意識しています。(投稿こそ遅くなってしまいましたが、この内容は11月中に書いています!)
では、ぼちぼち内容に入っていきましょう!

3限

この時間は土田さんがジョルジョ・アガンベンの「ホモ・サケル」について発表してくれました。
いやあ~、難しかった!正直何から書けばいいか戸惑っているとこであります(笑)
まず、ゾーエとビオスについて触れておきましょう。ゾーエとは単に生きているという事実、生物学的な生、むき出しの生のことを指します。一方、ビオスとはそれぞれの個体、集団における特有の生き方を指します。ここで重要なのが古代ギリシャと近代社会の構造の違いです。古代ギリシャにおいて都市(ポリス)には成人男性しか参入することができず、そこはビオスに覆われています。一方のゾーエは家(オイコス)のなかに閉じ込められていて、そこには女性や子供、奴隷などが存在します。それが近代社会になると一変します。ゾーエが政治に浸透し、生政治の時代となったのです。
 さて、続いてホモ・サケルについての話です。この文章ではホモ・サケルは狼男とも呼ばれています。これは殺害可能かつ犠牲化不可能なものであります。どういうことか。古代のポリスでは誰かを殺したりするなど特定の罪を犯した人はホモ・サケルとされ誰でも殺してもいい存在となります。また、彼らは一般的な市民ではなく例外的な存在なので供物としてささげられることもありません。
 なぜ、ホモ・サケルというものが存在するのでしょうか。それは国家が権力を確認するために例外的な存在が必要だからです。どういうことか。先生が分かりやすい例えを出してくださいました。いじめられっ子はなぜ存在するのか。それはいじめっ子が権力を確認するためです。全員が同じ立場であれば自分の権力を確認することができません。これと同じ原理が国家という規模においてなされているのです。ホモ・サケルは国家において必要な存在であり、そこにはとても悲惨な背景があるのです。
 フーコーとアガンベンの考えの違いについても触れておきましょう。フーコーは自然状態つまりゾーエが生まれてから主権が生まれたという考えをもっています。しかしアガンベンは違います。自然状態と主権は同時に生まれたという考えをもっています。ホモ・サケルは法の外の自然状態で生きています。そして上記に挙げた通りそこには国家の権力が深くかかわってきます。法の外という例外状態をつくることで同時に法というものが立ち現れてくるのです。

4限

この時間は朝井リョウの「生殖記」について自分たちなりの解釈を導き出しました。
まず、私個人の感想を述べますが、なかなか独特な本でした(笑)非常に哲学的な話が繰り広げられているのですが、とても頭にスッと入ってくるようなお話でした。私も尚成の就活についての描写には共感した部分がありました。
さて、分析ですが、尚成がどういう人物なのかということを中心として議論が進みました。尚成は同性愛者であり、共同体の拡大、維持からは逸脱した存在だといえます。しかし、彼は非常に器用です。体重の増量、そしてダイエットを繰り返すことで共同体の拡大、維持に参入しない独自の生き方を生み出しました。彼は共同体に抵抗しているのでしょうか。それとも逃げているのでしょうか。いや、どちらでもないでしょう。尚成は自分のなかですべてを回しているのです。自分のなかで真の自由を完結させているのです。3限の時間で、自由とは実は共同体の秩序のなかにある、という発言がなされていました。尚成は自由を手に入れるため共同体に抵抗したり逃げたりするのではなく自分一人ですべて完結する自由を生み出したのです。

今回は特に頭を働かせないといけない内容でした。
さて、これから就活が本格的になってきます。ということは、、、そうです共同体の拡大、維持に貢献しないといけないんです。まあ、そういう社会ですからね。尚成のように自分なりの生き方を見つけることができたら貢献しなくてもいいかもですね。でも私は尚成ではないので、とりあえず共同体の拡大、維持に貢献するため就活を頑張ります!

ではまた次のブログで!


11期生 第5回 実は「ほっこり」ではない

こんにちは!

藤田雄成です!秋学期はすでに5回目ですが、私は今学期初めてのブログ担当です。
秋学期はさまざまな作品を見て知ることができるのがとても良いですね。

ぼちぼち内容に入っていきましょう。

3限

この時間は近内さんの『世界は贈与でできている』の後半部分について井上さんが発表してくれました。

この文章の後半部分では、まず言語ゲームについて書かれています。私たちが言葉によって言葉を理解する以前、どうやって言葉を理解したのか。(言葉が多いですね笑)それは、その言葉がどのような生活上の活動や行為と結びついて使われているか、を通して理解するのです。言語は生活と密接にかかわっています。これが言語ゲームの考え方です。
 次に、求心的思考と逸脱的思考です。求心的思考というのは常識に重きをおきます。そして、その常識を地として発生するアノマリー、不合理を説明する思考のことをいいます。逸脱的思考とは私たちの世界像、常識の総体を書き換える想像力のことをいいます。これは例えばSFにみられて、この本では小松左京の作品やテルマエ・ロマエなどが取り上げられています。
 アンサング・ヒーローについての話もありました。アンサング・ヒーローは人知れず社会の災厄を取り除く人のことです。そして、「彼らという存在がいるはずだ、」と想像できる人のみが彼らからプレヒストリーを受け取りアンサング・ヒーローの使命を果たしていくことになるのです。
 最後に、贈与を受け取る、いわば受取人は差出人に使命を逆向きに贈与するということが書かれています。これはどういうことかというと贈与は差出人に与えられるということです。つまり贈与の受取人はその存在自体が差出人に生命力を与えるのです。

発表の後、先生が社会主義の社会と資本主義の社会について話をされました。贈与をこのような社会構造と結び付けて考えるとより深く贈与をとらえることができる、という考えからです。
そこで思ったこととして社会主義ってかなりきつくない?!って思いました笑 富を中央にあつめて平等に分け与えるとは言っていますが、その分け与える主体が誰かによってかなり左右されます。事実、ソ連や中国では汚職が多々発生したようです。今、社会主義の国家がほぼ?ないのも社会主義の社会の難しさを伝えていますね。

4限

この時間ではテルマエ・ロマエについて自分たちの解釈を導き出そうとしました。

 個人的に一番分析に苦労しました。全然、意見をだせず申し訳なかったです…
 「とてもわかりやすくおもしろい作品なのになぜこんなに苦労したのだろう」と考え、授業の終わりにぱっとひらめきました。この作品はほっこりさせようという意図が働いているのです。そうした意図は私たちが分析するにあたってはかなり障害となってしまいます。なんとなく学校で難しい映画や小説を取り扱うかわかったような気がします笑

 さて、私たちがだしたこの作品の解釈としてルシウスは自分の行動を縛られているあらがえない存在だという結論に至りました。
 まず、そもそもルシウスのいたローマ時代は身分が絶対的でした。ルシウスは平民であり、ハドリアヌス帝は皇帝。この上下関係は絶対的です。実際、ルシウスは皇帝のため、そしてローマのために風呂を作ります。(風呂づくりを断ったとき死罪は免れましたが追放されています)
 また、この映画の醍醐味でもあるタイムスリップについてもルシウスはあらがうことができません。ただ流されるままに現代の世界に放り出されてしまうのです。また、井上さんが言っていた涙によって過去に戻るという設定があらがえないルシウスの状況を表しているという発言がなるほど、と思いました。涙というのは生理現象でルシウスの手におえるものではありません。
 このように見ていくとコメディ映画のような作品が一気に自分の行動を縛られるという暗い話になってしまいました…

さあ、こんな感じで今週も終わります。諸事情あって来週も私がブログを書くことになりました…
ではまた次のブログで!

「みんな何かに酔っぱらってねえとやってられなかったんだな、みんな何かの奴隷だった」

                                   進撃の巨人  ケニー
                                 

第4回 贈与はいかにして成立するか

こんにちは!11期生の井上紬です。

今回は「贈与とはいかにして成立するか?」という話をしていきたいと思います。

そもそも『贈与』という単語は、日常生活ではあまり口にしない単語のように思いますが、辞書の上ではどのように定義されているのでしょうか。

広辞苑では以下のように説明されています。

①金銭・物品などをおくり与えること。

②(法)民法上、自己の財産を無償で相手方に与える意思を表示し、相手方がこれを受諾することによって成立する契約。

なるほど、①では解釈の余地がかなりありそうですが、②では法律にかかわっているのもあってより具体的に示されていますね。

「無償で」なんてワードがカギになりそうです。

今回扱う参考書は、近内悠太著『世界は贈与でできているー資本主義の「すきま」を埋める倫理学』です。

はじめに言わせてください。この本、めちゃくちゃ面白いです!

「なぜ親は孫を見たがるのか」や「鶴の恩返しで部屋を覗いてはいけない理由」、「無償の愛とは何か」だなんて哲学的な疑問まで、すべて『贈与』のしくみで解決してくれます。

是非一度、お手に取ってみてくださいね!

『贈与』の8箇条

では、本題に入っていきたいと思います。

私たちゼミ生は本著を精読して、『贈与』が成立する条件として以下の8つが挙げられることに気がつきました。

その1:相手となる他者が必要である

その2:お金で買えない価値がつく

その3:かつて誰かから『贈与』を受け取っていた、というプレヒストリーを必要とする

その4:『贈与』は、それが『贈与』だと知られてはならない

その5:計算不可能である

その6:差出人にとっては「届くといいな」という願いである

その7:受取人にとっては「届いていた」という気づきである

その8:それは不合理なものとしてあらわれる

ここでの肝は、『贈与』は『交換』ではない、というところです。

お金で買えない価値が発生するのが『贈与』である以上、与えた側はそこに見返りを求めることはできません。もし対価を求めるのであれば、それは計算可能で合理的な『交換』となってしまいます。

その4にある、『贈与』は、それが『贈与』だと知られてはならないというのは、「これは『贈与』です、あなたはこれを受け取りなさい」と語られてしまった途端に、受取人に対し「受け取ってしまった」という負い目を感じさせてしまい、返礼の義務を生み出してしまうということです。

それは、見返りを求めない『贈与』から『交換』へと変貌してしまっています。

また、その6その8について、想像していただきたいのがサンタクロースの存在です。

近内は『贈与』の理想的な体現者としてサンタクロースを挙げています。

サンタクロースというのは実に不思議な存在で、つまりその存在によって、「これは親からの贈与だ」というメッセージを消去することができるのです。つまり子が、親に対する負い目を持つ必要がないまま、無邪気にそのプレゼントを受け取ることができます。

このとき、親は名乗ることを禁じられているがゆえに「これが私たちからの贈与だったといつか気づいてくれたらいいな」という地点で踏みとどまることができます。そして子はいつか、サンタクロースが親だったことに気づく。「私は親からの贈与をすでに受け取っていた」ということに気がつくのです。

ここでのポイントは、気づいた時点ですでに親からの『贈与』は完了してしまっているということ。今ここにはもはや『贈与」という行為そのものは存在しないのです。

これこそが『贈与』の成功例、「差出人にとっては「届くといいな」という願いであり、受取人にとっては「届いていた」という気づきであるということなのです。

さて、ここで触れられていないのがその3です。

「かつて誰かから『贈与』を受け取っていた、というプレヒストリーを必要とする」とはいったいどういうことなのでしょうか。

それを解明するために用いるのが、今回授業でも分析対象とした映画『ペイ・フォワード 可能の王国』です。

以下、映画のネタバレになりますのでご注意ください。

「ペイ・フォワード(pay it forward)」とは、「誰かから善行を受けたら、自分も3人に善行を施す」という行為のこと。

主人公であるトレバーは、新学期に担任のシモネット先生から「世界をよくするための方法を考えろ」と言われ、この「ペイ・フォワード」を思いつきます。

彼はまずホームレスの男性に食事と住む場所を与え、次にアルコール依存症の母・アーリーンと心身ともに傷を負っているシモネット先生をくっつけようと奮闘します。

トレバーの善行はすぐにはうまくいきません。

しかし、それでも少しずつ伝わっていき、物語の最後には街の見知らぬ人々にまで「ペイ・フォワード」が広がっていたことが明らかになるのです。

ただ、その物語の最後にトレバー自身はいません。

トレバーは3つ目の善行として、いじめられている友だちを庇い、ナイフを持った不良の間に割って入ります。そしてその結果、刺されて亡くなってしまうのです。

なんとも悲しい物語ですが、なぜトレバーは亡くならなくてはいけなかったのでしょうか。

近内によれば、それは彼が「『贈与』を受け取ることなく『贈与』を開始してしまったから」だといいます。

つまり、『贈与』を受け取ってしまった、という負い目によって駆動されていないということです。

(注:ここでいう負い目とは等価交換における負い目ではありません。『交換』における負い目にはそのように感じる理由が確固としてあるけれど、『贈与』における負い目とは『無償の愛』という不当さ・不合理性を受けるということであるために、そのように感じる理由を説明できないのです。返すにもどう返したらいいか明確でないのが『贈与』です。)

トレバーは温かな愛情を知らずに育ちました。つまり、本人の主観で『贈与』を受け取ることができていません。この世界の「何もかもが最悪だから」、そんな世界を少しでも変えたくて、ペイ・フォワードを思いつくのです。あまりにもピュアすぎる動機だとは思いませんか?『贈与』の根源としてのトレバー、それはどこか『神』の姿に重なります。

近内はトレバーの聖性を「『贈与』つまり『不当に受け取ってしまった』という“罪”の意識を背負わない存在」として説明していました。

私たちはその解釈に加え、ペイ・フォワードの成功の裏で命を落としたトレバーの姿は、人類の“罪”の肩代わりをして死んだイエス・キリストに重なるとして、彼の聖性を説明しました。

映画『ペイ・フォワード』は贈与の物語ならぬ、贈与の失敗の物語だったのです。

今回のブログはここで終了です。

次回は藤田くんが『世界は贈与でできている』の後半部分のブログを書いてくれます。

私も読むのが楽しみです!

最後に、今回はちょっと趣向を変えて、いつものエンタメ感想記ではなく【いま観たい・読みたいエンタメ】について備忘録的に書かせていただきたいと思います。

・『かがみの孤城』辻村深月

・『コンビニ人間』村田沙耶香

・『モモ』ミヒャエル・エンデ

・映画『ラーゲリより愛を込めて』

・ドラマ『最愛』

この5本は、前々から興味を持っているのにもかかわらず、まだ手を出せていない5本なのです(!)

本年中にすべて履修したいと思っているのですが、なかなか忙しくてどうなるのやら…(泣)

遅かれ早かれ必ず鑑賞したいと思っています。

皆さんのお気に入りの作品はありましたか?

夏合宿 1日目〜2日目午前中

怠惰に心を支配され、すっかり執筆が遅れてしまったジョウです。秋学期が始まってしまった今、このまま授業開始後の発表ブログに埋もれてしまうのはさすがにまずい…という危機感に背中を押され、ようやく書き出しました。今回の夏合宿は、本当に盛りだくさんで、笑いあり真剣さありの時間でした。3・4年生の論文をめぐって面白くも有意義な議論が繰り広げられ、さらにOB・OGの皆さまと直接お話しできるなど、貴重な経験を得ることができました。このブログでは、合宿を通じて私が感じたことや学んだこと、そして今後の内藤ゼミでのビジョンをお伝えしていければと思います。

さて、私が担当するのは、合宿1日目から2日目午前中までの様子です。まずざっくりスケジュールをお伝えすると、こんな感じでした。

1日目:到着・チェックイン → 発表・議論(井上さん) → 夕食 → 発表・議論(ジョウ)
2日目午前:発表・議論(土田さん) → 発表・議論(藤田さん)

到着・チェックイン

実は「清里セミナーハウス」と聞いても、参加前の私はまったくイメージが湧きませんでした。3・4年生は新宿で集合し、あずさに乗って現地へ向かう予定でしたが、ここでいきなりハプニング。藤田くんの電車が遅延し、新宿到着が発車2分前!「これはもう無理だろう」と思いつつ、心の中で「走れ!藤田くん!」と祈っていました。結果は……なんと見事に間に合い、全員そろってあずさに乗車できました。いやはや、藤田くん、実は陸上部だったのでは?

さて、そこからは長い乗車時間。前期のブログでも少し触れましたが、最近は本当に慌ただしい毎日を過ごしており、ゆっくり自分と向き合える時間がなかなか取れません。そのため移動中は、ある意味で貴重な「ひとり時間」でした。せっかくなので読書をすることにし、手に取ったのは彬子女王の著書『赤と青のガウン』です。

選んだきっかけは帯に書かれていた一文。
「生まれて初めて一人で街を歩いたのは、日本ではなくオックスフォードだった。」
この言葉に強く惹かれました。皇室の教育を受け、日本国内では特別な存在である著者が、留学先のイギリスではまったく異なる日常を体験し、自分自身と向き合っていく姿が描かれています。「女王の冒険譚」というより、「彬子女王の自己発見の旅」といった趣が強い一冊です。興味のある方はぜひ手に取ってみてください。

到着時清里駅の様子

小淵沢駅でローカル線の小海線に乗り換え、高原に纏まる霧を抜けたあと、目の前にシーンとした駅が広がりました。さらに道を進むと、落ち着いた雰囲気のセミナハウスが現れました。予想したのと若干違ったのですが、期待の気持ちを心の中に抱えて、チェックインを済ませ、いざ研修室へ…

発表・議論(井上さん)

さて、いよいよ発表の時間です。トップバッターを務めたのは井上さんです。

タイトルは、「「童話物語」−−−− 信頼関係の構築における種族の枠組みの不在」。

(ちなみに私、井上さんとは1年生の頃から同じ内藤ゼミに所属しておりまして、『童話物語』が彼女にとってのバイブルだということは以前からよく聞いていました。誰かにこの作品を語るときの熱意は、まるで推し活のように感じます笑。そんな姿を見て、私も自然とこの作品に興味を持つようになりました。)

井上さんの論文は、プロップ理論とオリエンタリズムという2つの批評理論を軸に分析が展開されます。

まずはプロップの「物語の31の機能」。
登場人物であるペチカ(人間)・ルージャン(人間)・フィツ(妖精)の3人を主人公として設定し、それぞれの行動を機能に当てはめて整理した結果、次のような構造が明らかになりました。

1)ペチカにとっての助力者→フィツ 2)ルージャンにとっての助力者→フィツ 3)フィツにとっての助力者→ペチカとルージャン

つまり、人間と妖精という「種族の違い」を越えて、互いに「助け合う関係」が成り立っていることを示したのです。

続いて登場するのがエドワード・サイードのオリエンタリズム。
井上さんはこの考え方を「人間が妖精をどう見ているか」という視点に応用しました。
人間たちは妖精を「理解不能で危険な他者」とみなし、自分たちを「正常で理性的な存在」と位置づけていました。
しかし、物語が進むにつれてペチカやルージャンはフィツを「妖精」としてではなく、一人の個人として信頼するようになる。
この変化を、オリエンタリズム的な偏見を乗り越える過程として読み解いています。

井上さんは、「異なる種族間であっても、相互理解と信頼は可能である」という、オリエンタリズムの枠組を乗り越える一例として読むことができるとの結論に導きました。

この発表を聞いて、「オリエンタリズムでファンタジー作品を読む」という発想が私にはなかったので、とても新鮮でした。論文を読めば、『童話物語』を知らなくても、作品世界の解像度が一気に上がるはずです。

井上さんの発表が終わった後、夕食を挟んで次はいよいよ私の番です。
ちなみに、清里セミナーハウスの食事は――普通に美味しかったです。

(完全に主観ですが、学食の数倍は美味しかったです……!)

発表・議論(ジョウ)

次の発表を務めるのは私(ジョウ)です。正直、大学3年生になったいまも、多人数の前にプレゼンするのは若干緊張気味です。(特に満腹になった状態では頭が回らない)

私は、「『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』:「成功と失敗」神話の解体」をタイトルに議論を展開しました。本作のあらすじを簡潔に説明しますと、960年代のニューヨークを舞台に、不運続きのフォークシンガー、ルーウィン・デイヴィスの一週間を描いた映画です。主にクイア批評・間テクスト性・脱構築といった三つの着眼点から分析を行っています。

まず、クイア批評の観点から、主人公ルーウィンを「社会的に逸脱した存在」と「商業的に逸脱した存在」という二つの側面で捉えました。
彼は、当時のアメリカ社会が求めた「安定した生活を送る市民像」にも、音楽業界が重視する「ヒット曲=正義」という価値観に完全に逸脱する存在です。
つまり、彼はどちらの規範にも属さず、以上の二つの具体像から見れば、逸脱者そのものとして生きているのです。

そして、これら二つの理論を組み合わせて考えることで、私はこの作品が提示する「成功」と「失敗」という二項対立の構造明らかにしました。
社会や業界が定義する「成功」から外れた人間は、本当に「失敗者」なのか?
むしろ、歴史の中に去っていったルーウィンのような無数のアーティストに、これから焦点を当たるべきではないだろうかと私は考えました。

夜の飲み会

発表がすべて終わり、入浴でさっぱりした後はお待ちかねの飲み会タイムです。
食堂エリアで集まり、親睦会がスタートしました。

……ところが、どうやら隣のエリアにも他学部の学生たちが合宿に来ていたようで、これがまたものすごく賑やか。
いや、賑やかというより「騒音レベル」というレベルでした。
隣の人の声が聞こえないほどで、「これが合宿の夜か!」と妙に納得してしまいました。

そんな中でも、内藤ゼミの飲み会は終始和やか。
ほどよいテンションで語り合いながら、気づけば消灯時間になっていました。
消灯後は男子組の部屋に自然と人が集まり、二次会がスタート――。

OBの相田さんは、お酒にめちゃくちゃ詳しい方で、まるでバーテンダーのようにウィスキーやジンの魅力を一つひとつ丁寧に解説してくださいました。
私は普段から少しウィスキーを飲む程度ですが、あんなに豊富なコレクションを見せていただいたのは初めてで、正直かなり感動しました。「お酒って、深い…」と思った夜でした。

発表・議論(土田さん)

2日目の朝は、前夜の余韻がの中でスタート。最初に発表を務めたのは土田さんでした。

土田さんは、「救いようのない話」に惹かれる自身の読書経験から出発し、湊かなえの小説『未来』における登場人物たちの「救い」とは何かにフォーカスして考察しました。

「救いようのない話」というテーマは、私自身にも共感するところがあります。幼少期から物語を読むとき、無意識のうちに「ハッピーエンド」を期待してしまう一方で、「救いのある話」ばかりの世界にはどこか物足りなさを感じる。だからこそ、土田さんが扱うような「救いようのない話」は、かえって多層的で現実味のある物語構造を持っているように思います。

発表では、ジュネットの理論を用いて、語りの形式が登場人物の心情変化をどのように映し出しているかを分析していました。手紙や日記、モノローグといった多層的な語りの形式を通して、登場人物たちがそれぞれの苦しみを抱えながらも“過去を受け入れる”姿が浮かび上がります。土田さんは、こうした「過去を受け入れる行為」こそが救済の契機として機能していると指摘。私自身も、「他者に助けを求めることができた」という点において、苦しみからの脱出を「救い」と捉える解釈に強く納得しました。

発表・議論(藤田くん)

続いて藤田くんの発表です。扱うテーマは、私が高く関心を持っている『進撃の巨人』です。

藤田くんは、主に『進撃の巨人』を脱構築の理論で分析しました。まず、構造主義の考え方を導入し、「エルディア人vsマレー人」や「人間vs巨人」の二項対立の理論的根拠を提示しました。しかし、物語の進行につれて、二項対立の境界線は次々と曖昧になっていきます。例えば、巨人=敵ではなく、むしろ人間の一部だったということが明らかになった。(ここは厳密的に言えば「人間」ではなく、「エルディア人」しか巨人になれない設定になっています。なので、ここで「エルディア人」と「マレー」人の身体的対立を強調してさらに面白い議論が建てられるのかなと思いました。)

藤田くんは、この構造崩壊を「脱構築的な展開」として捉えています。また、主人公エレンの初期における「自由のための戦い」がやがて他社を支配する行為へと転化するという分析も説明されていました。

藤田くん自身は、どうやら今回のレポートに不満を持っているらしいですが、私個人的にそこで感じたのは残念さというよりかは、この論文に秘めた可能性は大きいと感じました。脱構築の考え方を『進撃の巨人』に応用したのは面白いし、これからもより良い論文が書けると信じていますので、そこからは頑張ってほしいですね。

おわりに

今回の合宿は、本当に充実した二日間でした。
畳の上でのルームシェアや、集団での生活など、これまでにあまり経験のなかったことばかりでしたが、そのすべてが新鮮で、かけがえのない時間になりました。

議論では多くの刺激を受け、夜は笑いあり学びありの時間を共有できて、まさに“ゼミらしい合宿”だったと思います。
こうした経験は、きっとこれからの研究や人生の糧になっていくはずです。忙しい時期ではありますが、これを励みに今後もゼミ活動に力を入れていきたいと思います。

多様な視点と温かいコメントをくださったOB・OGの皆さま、10期生の先輩方、外部からご参加いただいた方々、そしてロボさん、内藤先生――本当にありがとうございました!

11期生第3回 要らないものを持ち続けるということ 

みなさん、こんにちは。

急に寒くなって上着が必須になってきましたね。前回まではブログのはじめに毎回「暑い!」と書いていたような気がするので、時の流れを感じざるを得ません、、、。

秋学期が始まってからもう数週間たって新しい生活サイクルにも慣れてきたところですので今回のブログを始めます!

第3回授業ブログ担当の土田麻織です。

ということで、授業内容の前にブレイクタイムを挟もうと思います(?)

前座(仮)

私はこの夏、沢山の作品に触れて自分の世界を広げよう!と意気込んで、自分なりに様々なコンテンツを見たので、それらを前座で一挙紹介する気満々でいました。

しかし、秋学期1回目のゼミでこれからのスケジュールを決めて家に帰ると、前座担当を決めていないことに気付きました。なんと!せっかく温めていた前座ネタ、ないしはブログの導入ネタを書きだす場がなくなってしまいました、、、、

ということで、紙幅の都合もあるのでショートバージョンで、この夏に見た作品について、いくつか書かせていただきます。

➀光のとこにいてね/一穂ミチ

まずは小説です。タイトルにひと耳惚れして購入しましたが、本当にタイトルが良い!!この「光のとこにいてね」という言葉がキーなのですが、要所要所でこの言葉を思い出しては涙が出てきました。

読んでいる最中から、すごく好きな本だ!と思っていました。

今のところ2025マイベストブックです。

②モアザンワーズ

Amazon primeで見ることが出来るドラマです。

視聴自体2回目で、この作品は途中からしんどくなるので1回目はしばらく引きずっていたのですが、京都を舞台に、情緒あふれる綺麗な映像と素敵な音楽とで、夏の今にもう一度見たい!となってしまいもう一回見ました。

やっぱりこたえました、、、。がしばらくはサウンドトラックを聞いて物語の世界に浸っていました。

来年の夏も見ようっと。

③Nのために

ティーバーで配信されていたので視聴しました。原作が大好きで何回も読み返していましたが、ドラマだと違った魅力があり、それが全てプラスに働きかけていてとっても良かったです。これを見た後はしばらく主題歌のSillyを聞いていました。やっぱり好きなお話です。

余談ですが、これを2025年に再ドラマ化するならキャストを誰にするか、という議題でChatGPTとかなり盛り上がりました(笑)結論は内緒です。

④番外編

この夏はいろんな映画館にも足を運びました。見たかった映画がもうそこしかやっていなかった、等の消極的理由もあるのですが2本立ての映画を見たり、怪しげな劇場に行ったり、非日常的でワクワクしました。今後も開拓していきたいです。

(気合が入りすぎてこの紹介部分は夏休み中に書いていたものになります汗)

夏の終わりごろに怒涛のドラマブームが来て、今もたくさんの作品を絶賛視聴中ですので、また機会があれば紹介したいと思います。

お待たせしました。

ではここで3限の内容に入りたいと思います。

3限 精神分析・クィア批評

担当はジョウくんです。

課題文はキース・ヴィンセントの「夏目漱石『こころ』におけるセクシュアリティと語り」

『こころ』の語りに着目しながら作中に存在しているセクシュアリティの問題について考えていきました。

本論文では、「先生」は男同士の絆と男性-男性間の性関係とが分裂していないホモソーシャル的な人物であるということが示されています。一方で語り手である「私」(若い青年)は男性間の愛の可能性から切り離された近代世界の象徴として描かれているというのです。そして『こころ』は同性愛から異性愛へと移行する成長物語であると示されています。

どういうことかと言いますと、『こころ』は「私」が一貫して語り手であるため、全て「私」視点で語られています。彼は、先生のことを時代に、過去に、取り残された人として語っています。一人の視点でしか語られないため実際のことはわからないものの、「私」は、先生との対比によって自分自身の成熟した状況(異性愛への変化)を強調したかったのだと考えられるのです。

では、先生の遺書で終わり、「私」の行く先が語られずに終わる物語についてはどのように考えられるのでしょうか。

本書では、ここには病に侵された父親が大きくかかわってくることが示されています。父の苦痛緩和のために浣腸薬を投入する際、まごついていた兄に代わって、「私」は油紙をあてがったり、医師を手伝ったり、様々なことをしたことが書かれています。父の死を目の前にして能動的に動く「私」は成熟した自己を獲得しつつあるのです。

そしてその後、先生からの手紙を受け取り東京行きを決めた「私」は、父親の尻をそのままに列車という主体的行為を奪われた状態に飛び込むのです。実の父親、そして父親のように慕っていた先生、二人の死を目の前にした中で、「私」は受動性と能動性の間で宙づりになるのです。

ここでフロイトの心理性的発達段階の理論が対応します。生後から1歳ごろまでと口唇期を経た先に肛門期があります。肛門期とは自分の身体を意識的にコントロールすることが可能になった時期であり、衝動や欲望を状況に合わせて調節するエゴが発達する段階です。

肛門期を抜けた先は、エディプス期であり性役割を獲得して超自我を形成する。そして潜伏期を経て、恋愛に向く性器期へと向かうのです。

父親の看病をする中で肛門期を卒業した「私」は、父親を置いて東京へ行ったことは自らの父を象徴的に去勢したといえ、「私」が性器的異性愛へ向かったことが示唆されているのです。

そして先生について、先生を再生産可能な異性愛者へと成長することを失敗した存在として語っているため、「私」自身の肛門期への対抗や同性愛性を否定していると言えるのです。

これを踏まえて4限では、

なぜ物語は「私」のその後を描かずに遺書で終えたのか、という点から「私」は本当に成長(異性愛者へと変化)したかったのだろうか。ということを考えました。

結論から言うと、答えはノーです。

論点は「私」が肛門期から抜け出せたのか否か、ということになりますが、私たちは「抜け出せなかった」、いや「抜け出さなかった」と考えました。

一般的な肛門期は排泄コントロールがうまく行くことで、体内の不要物を外に出したいという欲求が満たされて、次の段階へと移ることが出来ます。

つまりここでは、「私」が何らかの不要物を外へ放つことが出来たら肛門期を脱し成熟した存在になったと言えるのです。

先述したように、彼は確かに父親を置いて次のフェーズ(東京)へと旅立ちました。ここではある意味で排泄行為とみなすことが出来ます。一方で、その外へ発った先で、遺書を読んでそのまま物語は終わってしまいます。おそらく、東京に着いた先では先生の死を目の当たりにするのでしょう。それを「私」はあえて語らなかったのです。

遺書を先生から与えられた排泄物と考えると、「私」はその遺書を持ち続けることを選んだのです。それはつまり肛門期から脱出しないことを意味します。肛門期を脱出しない、ということは成熟した状態ではない、成長をやめ異性愛者へとも変化しないということです。

それは、「私」が恋愛感情に分類される前段階の愛おしむ気持ちをもって先生に執着しているからと考えることができます。

よって、この物語は語り手である「私」が遺書を持ち続け、語り続けることで先生のことを死なせないという意思が表れ、「私」は成熟した状態になることなく肛門期にとどまっている、と言えます。

何故、この物語は遺書で終わるのか、「私」は本当に異性愛者へと変化したのだろうか(キースの論文では物語のその後、「私」は先生の妻と一緒になったという説も紹介されている)という問いを立てて1時間議論をした私たちは、上記の結論を導き出すと思わず自分たちで拍手をしてしまいました。

大変長くなりましたが、以上が今回の授業内容になります。

かなり複雑な思考を必要としましたが、遺書=排泄物でそれをあえて持ち続けたという考え方は、一人では絶対に導き出せないものなのでゼミの面白さを改めて実感しました。

秋学期は、春学期とは少し異なり3限で扱う理論をもとに1作品を分析するため、より深い実りのある議論がこれからも出来るのではないか、とワクワクしています。

これからのゼミに期待が膨らむ、そんな回でした。

ちなみに、今回扱った理論的に、普段は躊躇する単語がポンポンと会話の中で登場して議論のキーでもあったため、どうブログに書こうか迷ったのですが、結果的に工夫できず中途半端な表現になってしまいました(反省)

んー、とにかく良い議論のできた実りのある回でした!

それではこのあたりで締めたいと思います。

ここまでお読みくださりありがとうございました。

また次回!