本ゼミへの入室を希望する学生は、以下の「内藤ゼミ入室試験応募書類」のファイルをダウンロードしてください。
そのファイルを用いてエントリーシートとレポートを作成し、情報コミュニケーション学部の事務室の指示に従って提出してください。
「内藤ゼミ入室試験応募書類」
本ゼミへの入室を希望する学生は、以下の「内藤ゼミ入室試験応募書類」のファイルをダウンロードしてください。
そのファイルを用いてエントリーシートとレポートを作成し、情報コミュニケーション学部の事務室の指示に従って提出してください。
「内藤ゼミ入室試験応募書類」
みなさん、こんにちは!今回のブログを担当する飯尾です。
やらないといけないことを後回しにしてしまい、生活リズムが崩れ、学校生活も就活もグズグズになっており、激焦り中です。毎日のやることリストを作って、確実にリストを埋めていけるように行動したいと思います。頑張ります。。。
それでは早速ですが、授業の内容に入っていきたいと思います。
前座
今回は日本刀について紹介しました。たまに博物館、美術館に刀剣を見に行ったり、地方に観光に行った際は必ず歴史博物館に行って刀剣を見たりしています。鑑賞する際はいつも、その展示の中でどの刀剣が一番好きかを理由もともに考えるようにしています。私は特に長くて細い姿のものや、大慶直胤の皆焼刃(ひたつらば)が好きです。
日本刀は、鋭い切れ味だけでなく、美しい反りや繊細な刃文(はもん)、そして刀鍛冶の卓越した技術が息づく日本の伝統工芸品です。一本一本に異なる個性や歴史があり、武器であると同時に芸術作品としても高く評価されています。初めて日本刀を鑑賞する際は、まず全体の姿やバランスを楽しみ、次に刃文に注目してみましょう。刃文とは、焼き入れによって刃に現れる波や直線などの美しい模様で、日本刀ごとに異なる表情を持っています。
3限
古田さんの発表でした。
廣野由美子著『批評理論入門 フランケンシュタイン解剖講義』
6 フェミニズム批評
フェミニズム批評では、性差別を暴く批評として、男性作家のテクストを女性の視点から批評する方法、対して女性が書いたテクストを体操とする「ガイノクリティックス」、女性と言語の関係といった様々な批評方法がとられている。『フランケンシュタイン』に用いると、作者の環境と作品の関係や、テクスト内における女性の登場人物の言動、そして女性である作者の精神的な部分とテクストとの関わりにおいて女性であることが大きく影響していると捉えられる。
ゲイ批評やレズビアン批評、フェミニズム批評はこれまでのテクストを、男性の物語、異性愛の物語だとそれだけで読まないでという動きであったことに価値があり、それによって我々は読みの選択肢が増えているといえる。
7 ジェンダー批評
ジェンダー批評とは、性別とは社会や文化によって形成された差異・役割とみて、両性を連続的なものとして捉える。ゲイ批評、レズビアン批評、クイア批評が挙げられる。『フランケンシュタイン』では、ゲイ批評の視点からフランケンシュタインとクラヴァルの関係は特別な親密さが含まれていると捉えられ、レズビアン批評の視点からジャスティーヌとエリザベスの関係には同性愛的雰囲気が見受けられる。しかし、ここから何が言えるのかを考察しなければ意味をなさず、むしろクイアをあら捜しするような危険が伴う。
4限 ジュディス・バトラー『パフォ―マティブ・アクトとジェンダーの構成』
ジェンダーは実体ではなく、歴史によって示された可能性により抑圧・規定された状況下で自身のジェンダーを、身体を通して演じることである。その規範は沈殿しており、身体のスタイルはジェンダーによって構成されているが、そのことは身体を二分した生物学的な性へと自然に配置したものであるかのように見える。女性らしさや男性らしさといったジェンダーは、そういった観念があるのではなく、身体を動かし続けることによって具体化されているのである。規範に外れないように生き抜くために、ジェンダーを演じる必要があるのである。
フェミニストと近しいものが感じられるかもしれないが、フェミニストは女性を擁護することが男女という二分をより強固なものにしている点で異なる。
以上が第12回の授業内容です。フェミニズム批評やジェンダー批評は、用いやすい一方で、そこからなにが言えるのかをきちんと考察しなければ危険をはらむ可能性があるため、この理論を用いるのには少し気を付けなければならないと思いました。
飯尾
みなさん、こんにちは!今回のブログを担当する飯尾です。
就活に勤しむ今日この頃でございます。要約ESの提出の締め切り祭りが落ち着いてきました。しかし、どこにも受かる気がせず焦るばかりです。もっと行動しなければと反省するばかりでございます。
それでは早速ですが、授業の内容に入っていきたいと思います。
前座
今回は私の高校三年間という青春といっても過言ではない、呪術廻戦について紹介しました。芥見下々先生による少年ジャンプ連載の漫画で、アニメでは現在第三期まで放送され物語のクライマックスに近づいてきております。『呪術廻戦』は、人間の負の感情から生まれる「呪い」と、それを呪術で祓う呪術師たちの闘いを描いたダークファンタジーです。人間の負の感情から生まれる「呪霊」と、それを呪術で祓う「呪術師」の戦いを描くダークファンタジーです。主人公・虎杖悠仁が「呪いの王」両面宿儺をその身に宿し、呪術高専の仲間や教師・五条悟と共に世界の運命をかけた壮絶な戦いに身を投じます。 世界中でも人気の作品となっています。私は教師の五条の学生時代の物語が一番好きで、五条と夏油が最推しです。2人の関係性や物語にドキドキしてしまいます。ここでは語りきれないので、気になる方はぜひ読んで見てみてください。
3限
古田さんの発表でした。
廣野由美子著『批評理論入門 フランケンシュタイン解剖講義』Ⅱ批評理論編
3 読者反応批評
読者反応批評とは、テクストはその定義が限定的な読者による活発な関わりによって共同作業を行い意味が生産されるものとして、読者を刺激し思考を引き出すテクストを研究対象とする考えを持ちます。『フランケンシュタイン』は、前景化や手紙という特殊な形式、入れ子構造によって読者に共感や違和感などの刺激を与えるだけでなく、不完全なテクストに対してその境界を逸脱させるような反応を引き出す作品といえます。
12 文体論的批評
文体論とは、テクストにおける文学的要素に着目し、作者が語や語法をどのように用いているかを科学的に分析する方法です。作家論にもよく用いられていました。この批評で『フランケンシュタイン』を分析すると、主人公の普段の語りと感情的な語りの比較により、文の長さや表現の複雑さなどから、主人公の性質と感情的な場面の語りの違いを見ることで、その場面で内的逸脱が起こっていることがわかります。
13透明な批評
「不透明な批評」とは、テクストを客体として捉え、その形式上の仕組みをテクストの外側から分析する方法で、 「透明な批評」とは、作品世界と読者の世界との間に仕切りが存在しないかのようにテクスト中に入り込んで論じるような方法です。この方法を用いると『フランケンシュタイン』について、アーネストやフランケンシュタイン、怪物についての記述を入口とし、現実世界を踏まえてその内容を深堀りすることで、物語の中心部の解明につながると分析できます。しかし、それはどこか主観的なものになってしまう可能性があります。そのためあくまで、現実と虚構のしきりを意識して私たちは研究すべきだとも考えます。
4限
古田さんの発表でした。
ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』
グラマトロジーとは、ロゴス中心主義、その本質である言語中心主義に対して警鐘を鳴らす、音声言語と文字言語の限定的な閉域の中におけるエクリチュールについての学のことです。例えば、驚いたときに発する第一声の「アッ」は、驚くという行為と寸分たがわずに発せられたわけではなく、驚くという現象から少なからず時間差があると捉え、それについての研究ともいえます。
ロゴス中心主義とは、表音的文字言語の形而上学です。根本的には民族中心主義と同じであり、表音文字以外の言語を手前味噌の賞賛で無視してしまいます。例えば、アルファベットなどの表音文字は論理的である一方で、支那的な言語を表音文字の一面もあるにも関わらず漢字の形にのみ注目して意味を表象する、表音文字(ヨーロッパ)とは全く異なる理解不能なものとして決めつけてしまうという考え方です。
グラマトロジーは、このような二項対立に挑戦し脱構築させることに取り組んでいます。
以上が第10回の授業内容です。
飯尾
みなさん、こんにちは!今回のブログを担当する飯尾です。
前学期の留学を経て、最盛期なみに太りました。最近になり、さすがに太りすぎだと思ってダイエットすることを決意しました。しかしこれまでダイエットが長続きした試しがないので、不安もありつつ今回で最後にしたいと思ってます。まずは第一歩として、食事の記録と帰りに一駅歩くことを始めました。長い目でみて、結果を焦らないように頑張って継続したいです。
それでは早速ですが、授業の内容に入っていきたいと思います。
前座
今回は私の趣味の一つであるコスプレについて紹介しました。アニメやゲームなどのキャラクターの恰好をして遊んだり撮影したりします。私自身もコスプレをしていて、他大学のコスプレインカレサークルの代表をしていたりもしています。私は特に、ウィンドブレイカーや銀魂、刀剣乱舞などの少年漫画を中心にコスプレしています。普段の私ではない恰好ができる、推しの恰好をして遊べるという非日常感にとても魅了されてハマったのだと思います。また、推しが三次元にいて会えるのも楽しい点です。コスプレについて少しでも興味を持ってもらえたら嬉しいです。
3限
古田さんの発表でした。
廣野由美子著『批評理論入門 フランケンシュタイン解剖講義』
13 間テクスト性
13章では間テクスト性が取り上げられていました。間テクスト性とは、文学テクストにおける他の文学テクストとの関連のことです。文学テクストは、常に先行するテクストから何らかの影響を受けているものであり、作者が経験の中で見聞きしたテクストや歴史的背景の影響が意識的・無意識的に反映されているというものです。
14 メタフィクション
メタフィクションとは、語り手が語りの前面に現れ、読者に大して語りそのものについて口上をのべるような小説のことです。『フランケンシュタイン』では、完全なるメタフィクションではないが、語り手によって語り自体について物語そのものについて語られる点にメタフィクション的な要素が見受けられます。
15 結末
結末には、「閉じられた終わり」と「開かれた終わり」に分類でき、また前者には「ハッピーエンド」、「悲劇的結末」、「意外な結末」があります。『フランケンシュタイン』は手紙の結部が描かれていない点や怪物が死ぬ場面が描かれていない点から「開かれた終わり」の結末だといえます。
4限
古田さんの発表でした。
ジュリア・クリステヴァ『記号の解体ーセメイオチケ1』
本テクストは、バフチンのテクストがどのように描かれているかについて論じています。結論としてバフチンのテクストは、ひとつの固定的な意味だけを持つのではなく、いくつものテクストや作家、受けて、文化のコンテクストが交差しあって様々な主体のありかとなっているのです。通時態が作家に読まれ書かれることで共時態に変換されるとは、歴史のテクストや過去から現在へと生み出されてきた様々なテクストが、作家によって一つのテクストに集約されることで、集約されたテクストという特定の時間の中に固定されるということです。
以上が第8回の授業内容です。
飯尾
みなさん、こんにちは!12期生第9回のブログを担当する古田です。
今回のゼミでは、ありがたいことに10期生の方々と留学生として一緒に内藤ゼミで学ばれていた、アレッシオさんが来てくださいました!
私は初めてお会いしたのですが、内藤先生がおっしゃっていたようにとってもチャーミングな方でした!でもそれだけではなく、テクストを丁寧に読み様々な指摘をしてくださる方で、大変刺激的なゼミの時間となりました。いつか行ってみたいと思っていたドイツについても少し知ることができ、アレッシオさんのおかげでいつもより有意義な時間を過ごすことができました。
そんな第9回の授業についてまとめていきます!どうぞよろしくお願いいたします。
【前座】
今回は私が映画「クレヨンしんちゃん」シリーズについて紹介させていただきました。
映画「クレヨンしんちゃん」は普段週に1回放送しているアニメとは異なり、日常系の話ではなく冒険譚のようなストーリーの構成となっています。
映画「クレヨンしんちゃん」の魅力はしんちゃんのおバカな行動によるギャグはもちろんですが、それだけではありません。この映画は子どもだけではなく、付き添いで来た大人も楽しめるような要素がところどころに散りばめられています。子供騙しの映画ではないのです。ここで私がつらつら書き連ねるより、見てもらった方が早いので私的おすすめトップ3をご紹介します。
『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦』
クレヨンしんちゃんの映画といえば、オトナ帝国の名が挙がることが多いですが、戦国大合戦はオトナ帝国と並ぶほど大人も楽しめる作品かつ、まとまりが美しい作品だと思います。戦国とタイトルにあるようにタイムスリップものですが、戦国時代の身分によって引き裂かれる儚い恋模様と避けられない戦、そこに突然舞い込む現代の5歳児という要素からして面白い作品です。見てください。
『クレヨンしんちゃん 伝説を呼ぶブリブリ 3分ポッキリ大進撃』
プリキュアや仮面ライダーといった変身して悪者と戦い、世界を救う存在に憧れたことはあるでしょうか。3分ポッキリ大進撃ではひょんなことから野原家が並行世界と現実世界を行き来し、並行世界において彼らは変身し、現れる怪物を倒す役目を引き受けることになります。怪物を倒すと、もちろんその世界の人々から称賛されます。しかし、現実世界の人々はそんなこと知ったこっちゃありません。だんだん、しんちゃんの両親はそのギャップに耐えられなくなって…といったストーリです。ただ悪者を倒すだけじゃ終わらないのが、映画クレヨンしんちゃんのいいところです。いい意味で子供に見せる話じゃないだろ!となります。見てください。
『クレヨンしんちゃん 伝説を呼ぶ 踊れ!アミーゴ!』
これはホラーです。本当に子供に見せる映画ではありません。私は今年で21になりますが、もしこの映画におけるしんちゃんの立場だったら、もう怖すぎて悪者を倒そうとか微塵も思わないと思います。ただ、敵の目的は大変おバカなもので、サンバを全世界の人に踊らせたいという考えのもと様々な悪事を起こします。そのため、ラストはみんなでサンバを踊って終わるのですが、それにしてもここまで怖くする?という映画です。でもその分本当に面白いです。私は幼稚園の頃からこの作品が1番好きで、かれこれ30回以上は見ていると思います。そんなに!?って思いますよね、見てください。
アレッシオさんがお住まいになられているドイツでも、クレヨンしんちゃんのアニメ自体は親しまれているようでしす。しかし、映画クレヨンしんちゃんはどうやら翻訳されていないとのこと…残念!
できたら世界中の人たちにこの面白い映画シリーズを楽しんで欲しいです。
【3限】第1章…伝統的批評、第2章…ジャンル批評
第9回の発表担当は飯尾さんでした。今回も『批評理論入門』より分析をしました。
今回から批評理論編に入りまして、まずは伝統的批評、そしてジャンル批評について扱われていました。
伝統的批評の例として挙げられていたのは道徳的批評です。その名の通り道徳的観点から物語を見ていきます。
『フランケンシュタイン』は19世紀までは狂気、恐怖を喚起させる、いたずらに心苦しくなる作品と批評されてきました。怪物という命を人間が生み出すという行為は、当時のキリスト教がイデオロギーとして強い状況から見て、ありえないといった感じだったのでしょう。
対して、20世紀では、むしろ道徳・教育目的によって書かれたという批評が現れます。怪物をいかに扱うか、『フランケンシュタイン』を道徳的に見つめる試みは今でも続いています。訳のわからない恐怖を与えてくる存在を、現実の現代社会で私たちはどのように対応すれば良いのでしょうか。その問題提起として『フランケンシュタイン』を批評したのが20世紀以降の道徳的批評でした。
次に、挙げられたのは伝記的批評です。この批評では作品は作者の人生の反映なのではという考えの元、テクストを見ていきます。
『フランケンシュタイン』では主人公フランケンシュタインのモデルは誰かという入り口から伝記的批評を行うことができます。
作者の夫であるパーシー・シェリーは「きちがいシェリー」と呼ばれるほどかなり個性的な人物でした。また、科学に対して並々ならぬ興味を持っていたようです。こういった点からフランケンシュタインのモデルになっているのではと考えられます。また、フランケンシュタインは、作者が大きな影響を受けたダーウィンがモデルなのではという説もあります。
といったように、様々な批評が行われていますが、注意しなければならないのは文学作品を作者が反映されているなどと個人的なものにしてしまうことです。文学作品、テクストには多数の外的状況が付随しています。これを無視してしまっては文学批評によってその作品の解釈を狭めてしまうことになりかねません。
私も批評の際には、その点には十分気をつけていきたいです。
それでは、次の章に移ります。ここではジャンル批評が取り上げられていました。
ロマン主義文学、ゴシック文学、リアリズム小説といったジャンル要素が『フランケンシュタイン』には含まれています。
『フランケンシュタイン』では、間テクスト性の章でも出てきたように「老水夫行」「ティンターン寺院」といったロマン主義文学の影響を多分に受けています。この点からはロマン主義文学と見られるかもしれません。
しかしまた、ロマン主義文学の一つであるゴシック文学とも見ることができます。怪物という超自然的な存在、そして彼が引き起こす凄惨な出来事の数々は大変ゴシック的です。
ですが、さらにロマン主義とは対極にあるリアリズム小説とする見方もあります。怪物の超人的な力、言語能力、そしてその誕生についても現実にはありえないことながら、その理由づけはされています。突拍子もない空想が描かれているわけではないこのテクストはある意味リアリズム小説と言えるかもしれません。
上記を踏まえると、怪物を生み出すのに電気を用いた描写があるこのテクストはサイエンス・フィクションとも捉えらえます。
というように『フランケンシュタイン』は様々なジャンルの要素が見受けられます。
そもそも、テクストをこういったジャンルに分けることで得られることとは何でしょうか。例えば、世間一般でこのジャンルといえばこれ!と言われているような作品をいや、そのジャンルと言えるのか?と批評するのは新たな発見がありそうです。
私たちはテクストをジャンル分けすることで、ある意味わかった気になっているだけなのかもしれません。批評の際にはジャンルに囚われて作品を見ることのないようにしたいと考えています。
【4限】行為としての読書
引き続き飯尾さんの発表となります。今回はヴォルフガング・イーザー「行為としての読書 Aテクスト理解の行為」を分析しました。
タイミングの良いことに、イーザーはアレッシオさんと同じドイツ出身の理論家です。アレッシオさんはドイツ語の原著を読んできてくださいました!
まずイーザーはテクストと読者の関係について、テクスト→読者の一方通行のものではないと述べます。テクスト⇄読者の相互作用が起こっているそうです。
具体的には、テクストがまずその言語記号や構造によって読者の意識からテクストへの転移を誘発します。そして、読者がテクストに転移し、これがイーザーの言う相互行為となります。
「転移」というのはカウンセリングの用語で、過去の他者との関係における感情や行動パターンが、現在の人間関係に無意識に反映されることを指します。
こういった相互作用については、スターンやサルトルによっても述べられてきました。
次に読者はテクストをどのように読むべきなのでしょうか。
そもそもテクスト、特に虚構テクストは客体世界から選択し、率直に表現するのではなく、実際のコンテクストから引き離し逸脱して生み出されています。そのために、テクストが合っているのか間違っているのかと読者はテクストに向き合う必要が出てきます。そういったテクストにおいてどう読者は向き合えば良いのでしょうか。
イーザーは読者は遠近法を用いて、テクスト一文一文連続的に読みつつ、それとともに総合を行うように読者は読むとしています。
私たちはテクストを読むときに全体を見渡して全てを理解することはできません。常に文の一部分にスポットが当たっていて、前の文や後ろの文はフェードイン・フェードアウトしていきます。こういった点をイーザーは局面でしか捉えられないと表現しています。
そのために私たちは文章を理解するのに今まで読んだ文章を常に総合して読み続けているのです。
総合活動からもわかるように、虚構テクストは客体の直示が主ではなく、その文の相関体に関心がおかれています。
といったようにまだ続いていくのですが、アレッシオさんとの議論が盛り上がってしまい時間切れとなってしまいました….
続きは補講の時間に行う予定です。
動的な読者についてさらに知見を深めていきたいと思います!
中途半端となってしまいましたが、以上で第9回のブログを締めたいと思います。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
皆さんこんにちは。今回もブログを担当します。土田です。
夏が来るか?と思ったらまだ肌寒い日が続いていますね。私は夏の訪れを感じたら見ようと決めている好きなドラマがいくつかあるのですが、見るのはもう少し先になりそうです、、。
それでは今回の授業内容にいきましょう。今回の担当は井上さんで、『映画の理論』から「歴史とファンタジー」を取り上げました。過去や『非実在的』な世界を映画に組み込む際に生じる主要な問題とは何だろうか、という大論点をもとに、非現実的な題材を扱う作品について考えました。
先ず、本論文では歴史映画は「耐え難いもの」とされていて、その理由として、
・コスチュームやセットが舞台的であること
・映画媒体の特性が無限性であるのに対して、歴史映画は有限的であること
の2点が挙げられています。
そしてこれを緩和する妥協策として、
・歴史そのものに重きを置くのではなく、〈カメラの現実〉へと重点を移動させる
・本当らしさの魅力を利用して、非映画的な領域で獲得した歴史という事実から観客を遠ざける
の2点が提案されています。
ここまでは、非映画的な歴史映画の話であったのですが、ファンタジー映画は映画的なのでしょうか、それとも非映画的なものなのでしょうか。
これらを分類するときに、幻想的なものを表現するうえでの「技法的要因」と「関係的要因」の相互作用が重要になっています。
ファンタジー映画が映画的となる可能性がある時は、
・ファンタジーが現実と同じ美的正当性を装っている場合
・ファンタジーに物理的現実よりも低い位置が付与される場合
の2点が挙げられます。
映画的な手法で確立されたファンタジーは、別世界の物に対して、物理的現実と同じ妥当性が認められているかどうかという点で、適切かどうかを判断されます。
例えば、悪魔や幽霊を作り出すにあたって映画媒体の技法的特性を頼りにしている場合、又はファンタジーが遊戯的なやり方で扱われるか、夢の場合は物理的現実にファンタジーを上回る妥当性が認められる場合は、映画的と認められるのです。
このように、歴史やファンタジーといったジャンルは「非実在的」であるがゆえに、「非映画的」な作品になってしまうため、それぞれに対して「映画的」なアプローチが必要になっているのです。
これらをもとに、映画「2001年宇宙の旅」を分析しました。この映画はスタンリー・キューブリック監督によって、1968年に作られたSF映画です。
物語は、猿人類が正体不明の謎の漆黒の石碑のような物体に出会うところから始まります。そして時が流れ、人類は宇宙へ進出するようになってからまた再びモノリスが観測されます。そしてその後、人工知能HAL9000を搭載した宇宙船が木星探査へと向かいます。
この、モノリスをどのような存在とみなすかで、この作品はどこまでが現実でどこからがファンタジーであるのか、ということを考えることができます。
今でこそ人工知能は日常に根付いていますが、1968年に作られた2001年の世界の物語に登場しているということは、今は夢物語のように扱われているあれこれも、50年くらいたてば当たり前になっているのかもしれません。技術がかなり、作中でファンタジーとして描かれている事象に追いついている分、どの地点からファンタジーとみなすのかを考えることは非常に難解でした。
私はファンタジー作品はあまり得意ではなく普段ほとんど見ないのですが、妥当性などの地に足の着いた観点から分析することは面白いなと思いました。
それでは本日のブログはここまでです!また次回!
突然ですが、皆さんは、映画と小説の違いはどこにあると考えますか?
映像であるか活字であるか ── それも違いのひとつだといえるでしょう。
では、違いはそれだけでしょうか?
今回はそんな【映画と小説の類似と相違】について、11期生の井上紬がお話させていただきます。
扱う理論は『映画の理論 – 幕間:映画と小説』(ジークフリート・クラカウアー著)です。
まず映画と小説の類似点について。
クラカウアーによれば、これは「劇的なプロットを作ることが求められている点と、始まりも終わりもない時系列順の時間の中で展開されている点」だといいます。
例を用いて解説すると、たとえば、主人公の死によって物語が閉じられる作品があるとします。
これは、【主人公が死ぬ】という事実までを「劇的」に描く「プロット」、 つまり淡々と登場人物の人生が描かれているのではなく、見た人あるいは読む人が引き込まれるように構成されているのです。
また、「始まりも終わりもない時系列順の時間の中で展開されている」とは、さきの例でいうと【主人公の死】が何もかもの終わりを意味するわけではない、ということです。主人公がいなくなろうとも世界は続いていき、周辺の登場人物の生も続いていく。しかしあくまでその物語は、【主人公の死】によって閉じられる。
結末の後に続くだろう展開が途中で切り詰められてしまった感覚に陥り、ある種もどかしく感じるのが、映画と小説の類似点だといえます。
一方で、映画と小説の相違点とは何か。
それは、映画は物質的連続体を表現するのに対して、小説は精神的連続体を表現する点です。
映画において表現されるのは、たとえば【主人公が走っている】というような、「物理的な出来事」の連続。
対する小説において表現されるのは、焦点化されている登場人物の「内面の出来事」の連続。
つまり、映画では再現できない領域まで広がった登場人物の思考の流れを表現することができるのが、小説の特徴なのです。
ここで、実際に今回授業の題材としても扱った、黒澤明監督の『羅生門』を見てみましょう。
この映画の特徴は、芥川龍之介による小説『羅生門』に着想を得つつも、そのプロットに、同作家による『藪の中』のプロットを織り交ぜているところにあります。
小説『藪の中』には7人の登場人物が出てきて、とある出来事に対する証言を求められるのですが、7者7様で言っていることが異なります。
そのプロットは、登場人物たちの思考の流れを反映する、小説的な、いわば「非映画的」な翻案。
一方で小説『羅生門』は、ひとりの下人が、(生きるためには仕方ない)と女の死体から髪を引き抜きカツラを作り売ろうとしている老婆を目にし、「ではおれが引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ」と言ってその老婆から着物を剥ぎ取り闇夜に消えていくさまを三人称・外的焦点化で描いた、小説でありながら「映画的」な翻案の作品です。
これを踏まえて私たちゼミ生は、「映画的」な翻案である『羅生門』の、(生きるためには自分に都合が良いように行動するのも仕方ない)という作品の核にたどりつくために、「非映画的」な翻案である『藪の中』の、登場人物がそれぞれ異なった証言をするというプロットを組み込んだのが、黒澤監督の映画『羅生門』なのだという結論を出しました。
映画『羅生門』は、ふたつの小説のプロットを織り交ぜるという一風変わった例でしたが、原作:小説の作品を映画するという行為自体は珍しくありませんよね。
映画と小説では、表現されるものが 物質的連続体と精神的連続体か で違っている。
この理論を習得することを通じて、あらためて小説を映画化する難しさを想像できるようになった気がします。
最近の作品ですと、朝井リョウさんの『生殖記』なんて、「非映画的」な翻案かもしれませんね。生殖器が己の思考を語っているようす …… 一歩間違えたら大変滑稽な絵面になりそうです(笑)
では、今回のブログはここまで。
ここまで読んでいただき、誠にありがとうございました!
みなさん、こんにちは今回もブログを担当します。土田です。
最近は暑いのか寒いのかもよく分からない気候が続いていて、何月なのかもあやふやなのですが、もう春学期も折り返し地点らしいです!びっくり
溜まっていくブログたちに追い抜かされないよう、今回も書いていきたいと思います。
今回は井上さんの発表で、『小説と映画の修辞学』より「「視点」についての新しい視点」を扱いました。
文学作品や映画における「視点」を考えるにあたって、分析者が何をする必要があるのかを考えました。
「視点」を考える際には、視座、フィルター、中心、利害・関心=焦点、の四要素に細分化されています。
視座:語り手の違憲の心理的・社会学的・イデオロギー的な諸問題を捉えることができる。さらに、物語言説と物語内容の境界において、精神活動の限界を捉えることができる。
フィルター:登場人物の意識(知覚、認知、感情、夢想)を媒介する機能を捉えることができる。また、どの領域に焦点を当てたいのか、ぼんやりさせたいのかを選択するニュアンスを表すことができる。
中心:中心的登場人物の意識に接近できるかできないかは限定せずに、ある登場人物が門とも重要であるという風にストーリーを提示することができる。
利害・関心:ある登場人物の視覚的視点からものを見なかったり考えていることを知らなかったりするが、その人物にも同一化するし、いかに影響を及ぼしたかというように解釈することができる。
視点の中でもこれらの細かく区別した観点があれば、より正確にテクストを捉えることができます。
また、視点に関して、誤った見方を促すような手法があります。
「信頼できない語り」はある出来事についての語り手の話が、テクストが暗示することと食い違って見えることです。一方で「誤りやすいフィルター作用」とは、ある登場人物が知覚したり考えたりしていることが、語り手が語ったり示したりしていることと食い違って見えることです。
このように、様々な視点から描かれる物語は、観客に対して様々な見え方を提示し、意図的・故意的に真実をわかりにくくさせるのです。
以上のことを学んだ後、是枝裕和監督の『怪物』を分析しました。
『怪物』は1つの出来事に対して、3人の異なる登場人物の視点で展開される構成になっています。そのため観客は、視点が変わるごとに新事実に気が付き、何が本当なのか、何が嘘なのか分からない状況に陥ります。
今回は、どの視点が真実なのかではなく、焦点を当てられていない人物について考えました。
焦点を当てられていない人物とは麦野湊の同級生、星川依里です。彼は、学校でいじめられていたり、家でも父親に暴力を振るわれていたりする中で、彼視点の場面はありません。よって、星川依里が自分の言葉で語る場面は非常に限られているのです。
そこで私たちは、湊と依里が秘密基地の中で行う「怪物だーれだ」のゲームに着目しました。この時、ナマケモノのヒントとして依里は「すごい技を持っています」と一つ目のヒントを与えます。2つ目のヒントで「敵に襲われると、体中の力を全部抜いて諦めます」と言って湊は「それは星川依里くんですか?」と聞きます。
ここで観客は、依里は攻撃を受けた時に、無になって諦めているんだ、ということに気が付きます。しかし、それは湊のフィルターを通した依里の姿に過ぎず、観客は湊の視点に誘導されていると言えます。
このような描写や、依里の本心が一切語られないことから、観客は依里が「被害者」であるというフィルターのもと、この作品を見てしまっているのです。
では、依里は被害者じゃないとしたら?この作品も違ったように見えることでしょう。
『怪物』は、ラストシーンの解釈について議論が盛んに行われていますが、この「視点」の観点から見ることで、また新しい見え方が広がるかもしれません。
視点、捻ったタイトルにできそうで何も思いつかず、、、
では、本日のブログはここまで!また次回~
こんにちは!第7回のブログは古田が担当します。
夏本番が来る前に服を買いたいのですが、今流行っている服が自分の骨格に全く似合わず途方に暮れています。メーカーの方はぜひ、どの骨格にも合う服を作っていただけると嬉しいです。
それでは、本題に入ります!
【前座】
今回、私は自身が好きなVtuberの中でも特に好きな「にじさんじ」というグループについてお話しさせていただきました。
「にじさんじ」は株式会社ANYCOLORが運営するVtuberグループのことです。グループというより事務所みたいなものだと思ってもらえるとわかりやすいです。
現在、にじさんじには約150名のVtuberが男女、国籍問わず所属しています。かなり数が多い上、どんどん新人ライバーが増えていくので今後の展開が予測できないグループです。
Vtuberの界隈では、にじさんじのように企業が運営するグループが存在することは珍しくありません。しかし、数あるVtuberのグループの中で、私がにじさんじに惹かれる点がいくつかあります。
一つ目は、男女和気あいあいとした雰囲気がグループ全体で形成されているという点です。他のグループでは、女性だけ、男性だけ所属しているといったところも存在します。対して、にじさんじは男女混合グループであるだけでなく、コラボ配信やイベント参加など男女関係なしに活動が活発に行われています。というかそもそも所属ライバーの個性が強く、性別云々を忘れさせるほどの楽しい活動を提供してくれています!
二つ目は、にじさんじを運営する会社がライバーに自由に活動させている点です。にじさんじは所属ライバーの数がとても多いものの、配信や企画、イベントがライバー主体で自由に行われています。利益よりもライバーの意思が尊重されるような環境が整っていることは見る側としてもすごく嬉しいです。
今回は主に上記の2点についてお話しさせていただきました。まだまだたくさんの魅力があるのですが、長くなってしまうのでここらへんで切りたいと思います。
【3限】第11章:反復、第12章:異化
さて、本題に入ります。本日は飯尾さんが発表担当でした。
前回に引き続き、まずは批評理論入門の分析を行いました。
第11章:反復では、タイトル通り「反復」…韻や語句、場面を繰り返す文学の修辞技法について述べられていました。
『フランケンシュタイン』では、場面だけでなく、言葉、イメジャリーがテクスト内で数多く反復されています。特に、「破壊・運命・魂・敵・創造・神秘」といったワードは群としてテクスト内で反復していました。
反復が行われることで、その場面やワードについて重要性が高められるだけでなく、他の効果をも読者に対して生み出します。その効果については第12章に書かれていました。
第12章:異化では異化、そして前景化について述べられていました。前景化は異化の一つであり、ある要素や属性を強調すること、異化は前景化などを通し、普段見慣れた事物からその日常性を剥ぎ取り新たな光を与えるという意味です。
前景化はイラストのレイヤーで捉えるのが分かりやすいと個人的に思います。物事は層になっていて、そのうちの一つの層だけが1番前に来ているというイメージです。
『フランケンシュタイン』では、怪物の視点から人間や人々の言葉や歴史といった文化について異化されるとともに、怪物自身についても異化されていました。
このように、異なる視点から物事を見つめることで元々知っていることをまた違うもののように捉える。これが異化なのです。
とすると先ほどの反復も異化だと言えます。反復されることで、言葉やイメージが強調され、その言葉やイメージが前景化される=異化されているのです。
異化は小説内だけでなく、映画、詩、アニメなどのテクストの他、日常生活にも起こります。旅行などはその一例です。
皆さんもぜひ普段の生活を異化してみてください。面白い発見があるかもしれません!
【4限】フォルマリズムー詩的言語論 手法としての芸術
3限に引き続き飯尾さんが担当でした。今回はヴィクトル・シクロフスキイによる「手法としての芸術」について分析しました。
今回の文献では、シクロフスキイは対立した立場に立つポテプニャーの意見を批判しながら議論を進めています。
「芸術(詩を含む)は、イメージによる思考である」という考えはポテプニャーをはじめとする多くの人に根付いた考えでした。しかし、シクロフスキイはこれを否定し、さらには詩の言語と散文、つまり思考を要するテクストと、簡潔に分かりやすく伝えることを目的としたテクストにおけるイメージの区別さえもポテプニャーがしていなかったことを指摘しました。
散文における実用的なイメージとは、「おい、そこのメガネ」というように対象の一部をとって抽象化しているものです。今回の例は換喩ですが、それだけには留まりません。対して、詩的イメージとは、「おい、そこの間抜け」というように印象を強めるために利用されている物のことを指します。
この二つは似通って見えますが、全く異なるものです。
散文においては、上記の実用的なイメージの他に創作エネルギー節約の法則が見受けられます。
創作エネルギー節約の法則とは、事物をできる限り容易に理解し、知覚するためのエネルギーの消費を最小限にすることを指します。
それは知覚においても適用されます。知覚においては、これを自動化と言います。
皆さんは、初めて自分のスマホを持った時の感覚を覚えていますか?私は、中学2年生の時に初めてスマホを買ってもらったのですが、周りと比べて持つのが遅かったのもあって感動はひとしおでした。LINEで友達とすぐに連絡が取れるし、写真や動画が撮れる、外でもネットで検索できる…などなど楽しくてしょうがありませんでした。
それに比べ、今はどうでしょうか。LINEよりも、setlogで友達と日常を共有する方が楽しいですし、写真が撮れるのは当たり前、ネット検索ができるのを喜ぶばかりか、通信制限に文句を言う日々…
これが自動化です。つまりは当たり前になり、様々なことを意識しなくなる状態を指します。
そんなことばかりでは、やがて事物、衣服、家具、家族、そして戦争の恐怖までも自動化してしまう。そうならないよう、感覚を取り戻すために自動化はあるとシクロフスキイは述べます。また、そのような感覚を読者に感じさせるために「異化」という手法が取られているとも述べます。
つまり、詩的言語、芸術と呼ばれるものは「異化」を筆頭とする手法を用いて読者に本来なら忘れていた感覚を取り戻させるために存在しているのです。
こう考えると、異化はすごく重要な考えですね。すでに慣れ親しんだものを別のもののように捉える感覚は忘れてはいけないと思います。
以上で今回のブログは終わりです。ここまで読んでいただき、ありがとうございました!
皆さん、こんにちは!今回もブログを担当します、土田です。
最近は本文に入る前の小話も特にないので、さっそく授業内容に移ります!
今回は、『映画の理論』より「台詞とサウンド」について学びました。
映画において、台詞やサウンドなどの音声情報は、映像の優位に立って情報を伝達したり、反対に映像の付属物として意味を持たないものとして扱われています。
今回の論文では、台詞が主導権を持った作品は、あらゆる情報を伝えるにあたって映像に頼る必要がなくなり、台詞に召喚されたイメージよりさらに映像の重要性が下落すると言われています。
また、写真的イメージと言語的イメージは互いに相殺されてしまうため、言語と映像の間で均衡を図ることはできないとも言われています。
そこで、映像の優位性を回復させるために、
➀音声の重要性を減らす
②音声を内部から弱体化させる
③音声の意味から音声の物質的性質へと強調点をずらす
以上の3つの方法が挙げられています。
また、ここからは音声と映像の関連について、いくつかの概念を提示します。
同期化と非同期化…サウンドと、本来の音源の映像の関わり
同期化:スクリーン上のサウンドと映像が現実の生でも同期している
非同期化:現実では同時に生じていないサウンドと映像が、スクリーン上では同時に起こったように処理されている
並列法と対位法…言葉と映像は何を伝えているのか
並列法:同期化の場合、話し手の言葉かショット、どちらかで既に必要なことを意味する
対位法:非同期化の場合、話し手の言葉とショットが異なるものを意味していて、共働作用によって現れる
●音声が優位で支配的な同期化が行われるとき、
・並列法では、映像は無意味な視覚的説明になり、何も注意して見ない観客のまなざしの前で揮発してしまいます。
・(見かけだけの)対位法では、同期された言葉に対して何かを付け加える意図があるように思われるため、発言内容に注目が集まり、映像が無視されます。
●音声が優位で非同期化が行われるとき、
・並列法では、実際のサウンドでは映像は単なる表象や記号となります。
・解説的なサウンド(ナレーション等)の場合も、映像の内容を反復する演説が観客の注意をそらしたり、重要な情報が解説者にゆだねられているため映像が補助的に甘んじられたりします。
●映像が優位で同期化が行われるとき、
・並列法では、言葉がなくとも話し手が伝えようとしている外観を理解することができます。
・対位法では、音声に集中することが求められずに目立たないため、映像に発言の機会が与えられます。
●映像が優位で非同期化が行われるとき、
・並列法では、音声による重複表現があっても映像から注意がそらされることはありません。
・対位法では、映像に強調点が置かれるショットから心理状態を表現することができたり、ストーリーを補完しつつ残した軌跡を垣間見せたりもすることができます。
このように、映像と音声は複数の関係性があり、映像と音声がある場面においてどのように対応しているかで、観客に与えられる情報や印象が異なります。
ここで、言葉による詩が重要なため映像の重要性が下落していると説明されていた映画『ハムレット』を分析しました。特に、ハムレットが岩にぼんやりと座りながら独白をするシーンについて考えました。
作中の中でも印象的なシーンですが、台詞の深刻さに対して映像の不明瞭さが印象的です。
これは、ハムレットの声を、ハムレットを演じるオリヴィエが聞いてそれを伝達するように台詞として言っているため、映像と比べて遅れて見えるのではないかと考えました。つまり、映像のハムレットがぼんやりとしているのは、魂としてのハムレットの言葉をオリヴィエの身体を通してハムレット役となった彼から言葉が発されているのではないか、ということです。
今回学んだ理論より、映像と音声を拮抗させようとした狙いは両立することができないため、『ハムレット』も音声が優位になり、映像は強いメッセージ性の台詞に負けた、ということになるのです。
『ハムレット』は台詞が主導権を握る作品のため、映像との均衡がとれずに、ぼんやりとした背景での独白のシーンが誕生した、ということが言えます。
台詞とサウンド、映像についての考え方は複雑で難しいですが、汎用性が高そうだなと思いました。
.
.
.
余談ですが、去年の春学期末レポートで扱った湊かなえの小説『未来』の映画を見にいってきました。
今回の授業の直後だったので自然と言葉と映像の関係を意識してしまったのですが、カラオケを流すシーンで、登場人物のセリフを背景に、カラオケの映像に焦点を当てて構成されているような気がして、これが映像優位か、!と実感しました。他にも台詞優位だなと思うシーンや対位法だ!と気付く場面があり、新しい視点の獲得を実感できました。それはそうと、あのシーンは台詞も重要なような、、、、。
それでは今回のブログはこの辺りで終わりにしたいと思います。
また次回!