※このブログは、2023/7/14が最終更新日のデータを眠りから呼び覚まして、再編集したものです。筆無精ここに極まれり。本当に申し訳ございません。過去の私の努力をぜひ見ていただけますと幸いです泣 2024/03/31の私より
ここからがブログ
ブログ2回目の阪口緑です!
この頃の大学3年生って忙しいんですね。
インターンの申し込みとテストとサークルの「やるべきこと」が山のように積み上がっていて、私、驚きが隠せません。
もっとゆっくりしたい…。寝ることに罪悪感を持ちたくない…。
しかし、今日は罪悪感を打ちまかし8時間寝たので、今がチャンスとばかりに文章を書いていきたいと思います!!
前座
今回はヤンさんがNETFLIXで配信されている『サイレン』を紹介してくれました!
あらすじは以下(公式HPより)
警察官、消防士、警護員、兵士、アスリート、そしてスタントウーマン。24人の女性たちが職業別にチームを組み、孤島での過酷なバトルに挑む。
監督や出演者は韓国の方々です。
女性の身体が不利になると思われている職業についている女性たちが、自分の専門知識や培った身体能力を用いて、生存戦略をめぐらせるリアリティ番組だそうです!
いろんな地域の方が出演しているようで、方言の話になりました。
韓国出身のヤンさんが、韓国にも京都弁のように遠回しな言い方を好む地域があると話してくれました!
私は方言が好きです!!方言は演劇や放送などの言葉の表現の世界において重要なアイデンティティです!東京都育ちの私にその表現の幅はないので羨ましいです…!
今度、日本語の方言だけでなく、韓国語や英語などの方言も聴いてみたいなと思いました。
3限
今回も廣野由美子著「批評理論入門」を用いて『フランケンシュタイン』を読みました。
レジュメ担当は高山さんでした。
- フェミニズム批評
まずフェミニズム批評とは。
フェミニズム批評は1970年代以降、性差別を暴く批評として登場しました。
立場や目的によって様々な批評方法があるそうです。
例1:男性作家の作品を女性の視点から批評。男性による女性の抑圧や家父長制的なイデオロギーの形成を明らかにする。
例2:女性作家の作品を対象とする「ガイノクリティックス」。男性文化によって無視されてきた女性作家の作品の発掘や再評価を行う。
例3:女性と言語との関係を探究する立場。女性作家の作品がいかに女性特有の言語で書かれているか検討する。
以上の例を踏まえて、フランケンシュタインをフェミニズム批評で読み解きます。
ガイノクリティックスの観点から
〈女性として書くこと〉
・女性の読み書き能力は男性よりも劣るとされており、ペンで自己表現することが男の領分に属するとみなされていた。
→メアリがフランケンシュタインを匿名で出版した理由
・夫パーシーが、妻メアリの作品に多くを介入していた。(前書きや校正など)
→夫が妻に対して無限の優越感を持つという当時のイデオロギーが表面化
〈母性/産むこと〉
・メアリは16歳で最初の妊娠を経験。フランケンシュタインを完成させるまで、ほぼずっと妊娠していたが、生まれた子が次々と死んでゆく経験をした。
→出産の恐怖、罪悪感を怪物の物語として昇華
・18世紀から19世紀にかけて、名だたる作家で出産を経験した女性はいない
→出産が文学のテーマとして描かれない
などなど、女性だからこその作品の生まれがあったと解釈できます!
また、作品内容としては、『フランケンシュタイン』の女性の登場人物に注目し、以下の点を廣野さんは説明します。
・男女の領域を二分する19世紀の中産階級的イデオロギーが反映されている。
・一方で、女性の家庭的愛情は男性を守ることも、癒すこともできないことを描き『フランケンシュタイン』は破滅的な終わり方を迎える。ゆえに二分論的イデオロギーの欺瞞も暴露しているのではないか。
女性が書くことで生まれた新たな価値を評価している感じですね〜。
- ジェンダー批評
ジェンダー批評とは。
男・女という一般のカテゴリー自体に疑問を突きつける批評です。
これは「女であること」を一括りにするフェミニズム批評の批判することから出発しています。また、両性を連続的なものと捉え、いわゆるLGBTQの存在も対象とします!
ここで廣野さんはゲイ批評やレズビアン批評を用いて読み解こうとしたのですが、その際のゲイやレズビアンの定義が広すぎて、ゼミのメンバー的には納得できない感じでした。また、結局ゲイやレズビアンとして研究してしまっていることから、男女の枠を取り外せていないのではとゼミ内で議論が交わされました。
議論の展開からイヴ・コゾフスキー・セジウィックが提唱した「ホモソーシャル」の考えを先生が付け加えてくれました。ホモソーシャルというのは、女性と同性愛を排除して男性間の緊密な結びつきを意味します。いわゆる「男同士の絆」ってやつですね。
フランケンシュタインを批評理論で読み解く上で、ゲイ批評よりもホモソーシャルで解釈する方がわかりやすい部分がありました。
4限
4限の時間ではジュディス・バトラー(1956-)さんの「ジェンダー・トラブル」を学びました。
レジュメは白井さんでした。
フェミニズムは以下の功績を残しました。
“身体的な特徴に基づく男女の差異(Sex)を社会における男女の役割や規範に応用する見方に対し、そうした規範や役割は男女の性差とは関係なく、社会的に構築されるとし、社会性差としての「ジェンダー」を掲げた。”
どういうことかというと、フェミニズムにおいては、男女という身体的な性差に基づき、男性や女性のステレオタイプや性役割は構成されてきたと述べます。そしてこのステレオタイプや性役割は、身体的性を理由に押し付けられていいものじゃないと批判します。
しかし、ここで問題が生じます。ジェンダーは男女の差は関係ないとしつつも、「男」「女」を想定してジェンダーが語られているよね?「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」というが、女になる前は何なのか。女になるということは中立的な「ひと」が存在するかのように語られるが、実際には「男」「女」の区別を前提に議論が始まっているじゃないか。ということは、身体がつねにすでにジェンダー化されているのではないか?とバトラーは考えました。
『ジェンダー・トラブル』でバトラーが行ったことは以下です。
“バトラーはジェンダーとセックスの二項対立を脱構築した。ジェンダーに先んじてセックスが存在したとするフェミニズムの見解に対し、セックスこそジェンダー概念によって構築されていることを主張する。”
難しいですね。つまりどういうことかというと、「生物学的性差(セックス)自体がジェンダー化されたカテゴリー」ということです!
これでもよくわからないですよね。もっとわかりやすく説明すると「性器(胸やペニス、膣など)を性器として見なし、男女の区別をつけること自体が、社会的性差に由来しているのではないか」とバトラーさんは指摘しています!
フェミニズムでは、生物学的性差が、社会的性差を規定していた
ジェンダー・トラブルでは、社会的性差が、生物学的性差を規定している
人間の身体って他にもいろんな違いがありますよね。
例えば、目が一重か二重か、耳たぶが離れているかくっついているかなどなど。内藤先生は、腕を伸ばした状態で小指と小指、肘と肘がくっつけられる「猿腕」らしいんですが、私はできません。
性器と呼ばれているもの以外にも人間の身体には違いがあるのに、性器で分けることで「男/女」という自然の性差が存在すると偽装されているとバトラーは述べました。
ちょうど歌舞伎町タワーの「ジェンダーレストイレ」が話題になっていたので、ゼミ生の議論も白熱していました。文化的な抑圧を受けた性別が自明であるとされている現状では、このトイレは早かったのでしょうか。
皆さんはどう考えますか?