ゼミ入室試験:2次募集要項

ゼミ入室試験の2次募集に応募する人は、レポートとエントリーシートを提出すること。

  • レポート:以下の内容を1,500-2,000字の文章にまとめる。(A4横書き)
  1. 志望理由
  2. ゼミで取り組みたいこと(対象・作品があれば、それらも示すこと)
  • エントリーシート:以下のリンクからファイルをダウンロードし、必要事項を記入する。

エントリーシート

提出締切日時及び提出場所は、情報コミュニケーション学部事務室に確認すること。

なお、レポートとエントリーシートの両方を提出した者のみ、面接試験を受けられるものとする。

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未来の内藤ゼミ5期生 現2年生の皆さまに向けて

まずはこの内藤ゼミのブログにアクセスいただきましてありがとうございます。また、ゼミガイダンスにお越しいただいた方、わざわざありがとうございました。先輩ゼミ生として3年生2人で初日に伺いましたが、予想に反し、4人もの学生に来ていただいて、とても嬉しかったです。

さて、数少ないブログ訪問者の方になんの情報もなしにいるのもいけないと思い、こうしてこっそりと2年生に向けてメッセージをしたためています。まず声を大にして言いたいのは、「内藤先生は評判ほど厳しい先生ではない!!」ということ。日本語表現の授業で内藤先生が受け持つと、課題の多さと評価の厳しさに多くの学生が打ちのめされるという噂は、お聞きになった方もいらっしゃるのではないでしょうか。私はその噂、全力で否定して回りたい!!

内藤先生は本当にお優しい方で、びっくりするほど親身に学生の悩みや疑問に寄り添ってくださいます。(あまり言うと先生に引かれるかもしれませんが笑)論文の分量や毎授業の準備は他のゼミに比べて格段に多いですが、それでもどのゼミよりも先生に近いところで手厚い指導を受けながら勉強に励むことができます。15人、20人いるゼミでは、それぞれの学びにムラができてしまうかもしれません。ですが、このゼミでは少人数で先生とみっちり話し合うことができます。それに、先生から厳しいことなんてほとんど言われませんよ!何度も言いますが、本当に優しく、素敵な先生です。

そして、このゼミが幾多の人気ゼミに埋もれ、学生の皆さんに魅力を発見されていないように感じるのが、研究内容です。私も詳しくはないのですが、情コミのゼミで「作品」にじっくり取り組めるのは内藤ゼミくらいなのではないでしょうか。私はゼミにくる以前、文学作品なんてほとんど手を出したことはありませんでしたし、映画も気になったものを3か月に一度…くらいの嗜みでした。けれど、アニメや漫画、絵画や西洋文化(絵から音楽から現代のロリータまで)といったいわゆるサブカルチャーは大好きでした。内藤ゼミでは、そのすべてを研究対象として認めています。

日々ただ娯楽として享受しているものを大学に入って研究できるなんて、はじめは思ってもいませんでした。情コミに入ったからには、なんとなくメディア研究とか、広告研究とかざっくりやるんだろうなーと勝手に想像していた自分の未来。でも、このゼミに入って、世の中にあふれる作品という作品を「批評」という観点から読み直す力がつき、ああこのアニメはこういうことが裏テーマなのかな、この絵はこの時代のこんなものが実は表されているんじゃないかな、なんてことをじっくり考えるようになりました。(抽象的でごめんなさい)今後もこの半年で身についた「読解の新しいクセ」は取り剥がされないだろうし、とってもいいことを学んだなあと思っています。「批評」というものに全く興味がなくても、誰しも「作品」というものには必ず触れた経験があります。意外と門戸が広いのに、なぜか情コミ生は見向きもしない……。ということも、内藤ゼミの研究内容がもっと知られてもいいのに!と私が思う理由です。

以上のことが、来年度このゼミを選ぼうか考えている2年生の方に、私がどうしても伝えたかったことです。人数は決して多くないし、大学生活の残りの2年間、ゼミという枠組みの中で華やかな学生生活を送れる保証があるわけでもありません。でもゼミを決める時、私は「ちゃんと勉強してみたいな」と思いました。「自分で考えて答えを探すことをしてみたいな」と思いました。大学生活を振り返って「飲んで遊んでバイトしてるだけだったな~」って言っちゃうような社会人になりたくなかったんです。そのために、ゆっくりじっくり勉強して研究がしたくて、それでこのゼミに入ることに決めました。これを読んでくださっている2年生の方に、私と同じような考えをしていらっしゃる方がいれば、たぶんドンピシャです。2年間、作品と向き合い、社会と向き合い、格闘する時間を過ごしてみたい!と思う方を、内藤ゼミは歓迎します。あまりまとまった文章でなくてすみません。でも、来年度、私たちに後輩ができることを、本当に本当に、心待ちにしています。

 

3年 大下由佳

ゼミ入室試験:エントリーシート

ゼミ入室試験に応募する人は、レポートとエントリーシートを提出すること。

  1. レポート:以下の内容を1,500-2,000字の文章にまとめる。(A4横書き)
    ・志望理由
    ・ゼミで取り組みたいこと(対象・作品があれば、それも示すこと)
  2. エントリーシート:以下のリンクからファイルをダウンロードし、必要事項を記入する。エントリーシート

提出締切日時及び提出場所は、情報コミュニケーション学部事務室に確認すること。

なお、レポートとエントリーシートの両方を提出した者のみ、面接試験を受けられるものとする。

秋学期第2回 3年ゼミ

こんにちは。夏休み、アルバイトして実家に帰って免許合宿に行っていたら終わったような気がします。大下です。

第1回授業は春学期最終課題の反省とオリエンテーションでした。秋学期3年は話し合いの結果、カルチュラルスタディーズ、ジェンダー研究、精神分析、新歴史主義、脱構築と構造主義の5つのテーマに絞って授業を進めることにしました。第2回授業はカルチュラルスタディーズのテーマから、映画『さらばわが愛、覇王別姫』を読み解きます。

 

第2回授業使用論文:本橋哲也『映画で入門 カルチュラル・スタディーズ』第6章〈セクシュアリティ〉『さらばわが愛、覇王別姫』

映画の作品分析は合同ゼミ、4年授業の見学、合宿での合同分析で経験を積んでいた二人。2時間を超える大作に苦闘しながらも、視聴してきました。議題にしたことは ①セクシュアリティとは何か ②セックスとジェンダーは対立ではないといえるのはなぜか ③カルチュラルスタディーズとは何か ④なぜこの作品が「カルチュラルスタディーズ」の論文に掲載されているのか ⑤表象作品を分析する理由とは何か ⑥”象徴”とは何か です。復習がてらにと重たい質問をどんどんぶつけられしどろもどろな二人……。本日はいつも以上に先生にご迷惑をおかけいたしました。

ここにすべての議論をいちから載せるのは字数的によろしくないので、PDFをはりつけておきます。秋学期第2回カルチュラルスタディーズ

積み残しもありますが、ともかく2時間頑張りました。相田さん、助っ人ありがとうございました。

春学期第14回 3年ゼミ

こんにちは。今回の担当は大下です。

3限は前回の内容とかぶりますが「ポストコロニアル批評」、それから「新歴史主義」について、おなじみ批評理論入門から学びます。4限はミシェル・フーコー『知の考古学』から「4 比較に基づく事実」を取り上げます。(権力云々は時間上深く学べず)

 

ポストコロニアルは前回の蓄積があったのでかなりさらっと。植民地化された国や文化圏から生まれた文学作品を研究する、あるいは帝国主義的文化圏出身者の作家が書いた作品で、どのように植民地が描かれているのかを研究するという手法があります。日本はこの場合、西洋から見ると東洋に属する一国である一方、アジアにおいて支配者になった歴史があることから、立場的に微妙な位置におかれています。

では『フランケンシュタイン』ではポストコロニアル的に読み解くとどうなるのでしょうか。批評理論入門では、オリエンタリズムが、ド・ラセー家に訪れるトルコ人娘サフィーの登場する場面に見受けられると書いてあります。作品内においてトルコ人は、民族的偏見ゆえに無実の罪を着せられた犠牲者としての一面と、狡猾な忘恩者としての一面を持たされています。さらに、サフィーの母親がキリスト教のアラビア人であるために、サフィー自体を肯定的に描いていたり、あるいはサフィーにフランス語を教えるものとして使われた『諸帝国の廃墟』において、アジア人の劣勢とヨーロッパ人の先天的・文化的優勢とが対比されているなど、この場面ではさまざまなオリエンタリズムが垣間見えます。一方で、ヴィクターの人造人間製作、ウォルトンの北極探検、クラヴァルのインド植民地化構想は、すべて挫折に終わっていることから、この作品においてアジア人は劣勢に物語られているけれども、ヨーロッパ人による侵犯行為も成功に至っていない(優勢に描かれているわけではない)ということになります。

ポストコロニアル、オリエンタリズム共に理論に疑問はなかったので、授業内では少し発展的なことを議論しました。アジア圏内でも日本国内でも、オリエンタリズム的支配があるということ。その根底には国民国家という難しい問題が絡んでいます。何をもってして一国家とし、その国家にどのような人は入ることができ、どのような人が排除されてしまうのか。あるいは日本人とはなんなのか。どんなことを理由に日本人となりうるのか。ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』の話も持ち上がりましたが、”日本”というものがあると想像することで”日本”が沸き起こってくるという現象、たしかに否めないな、と思いました。結局違いなんてないのにわざわざ違いを見出そうとするために他者をさげすみ、自分を優位に見せ、存在を示そうとする。人間のあさましい欲の表れのような気がして、寂しい気持ちになります。

 

さて、新歴史主義に移りますが、大下、ぶっちゃけよく分かっていないような気がします!!ただ忘れているだけなんだったらいいのですが……ひとまず振り返りを。

新歴史主義は1980年代から起こり、再び歴史という要因を文学研究に復活させた一派のことです。旧歴史主義のようにひとつひとつのできごとを重視したり、特定の時代精神と歴史を結び付けたりするのではなく、歴史をより広範に社会学や文化人類学など〈社会科学〉と位置付ける考え方です。

先生から理解しやすいように教わったことがメモ書きされていたのですが、要は旧歴史主義ではアンネの日記、源氏物語を虚構であるためにその時代の歴史として認めず、説明や論証に一切使わないのに対し、新歴史主義ではそういったものもより広い視野で歴史をみるために取り扱うこともある、ということです。これで大分納得がいったのですが、批評理論入門では十分な解説を受けられなかったので、4限フーコーのほうに議論を移しました。

フーコーは新歴史主義的な読解作業のことを、”考古学的分析”と名付けています。文章が難解なため、彼の言いたいことは上記のようなことだという姿勢をブレさせず、文の詳細確認に勤しみました。いままでA領域のことはA領域内でしか語られてこなかったものを、B領域、C領域のなかで咀嚼する。そうしたことが考古学的分析であり、こうして次々と新たなものを浮かびあがらせることができるために多様化を促すものである。また、あるものは一つの領域にしか存在しないと思われていたが実はさまざまな領域にわたって存在することが可能であったことを示したりもできる。ということを読み取りました。的を射ていればよいのですが(笑)

 

春学期、お疲れ様でした。

春学期第13回 3年ゼミ

今回の担当は増尾です。

7/11の第13回では
3限 廣野由美子著『批評理論入門-「フランケンシュタイン」解剖講義-』(中公新書)の第2部 8「マルクス主義」、9「文化批評」
4限 エドワード・W・サイード『オリエンタリズム 上』
をとりあげました。

3限の担当は増尾。

 

第11回ブログ きました!マルクス主義!!!さぁ!!ついに!私はマルクス主義と仲良く………………

なれませんでした!!!!!
知り合いからよっ友(すれ違いざま等に「よっ!」と声をかける程度の友だちのこと)くらいにはなれたと思うのですが……。

と、くだらないことはこれくらいにして。
やはりマルクスは難しかったです。自分の考えたことのないことということがあり、単語単位で調べることからはじまりました。

ただ、今回は『フランケンシュタイン』を絡めた形での読解となったので、前回よりも理解が進みました。

経済状況があるうえで、思念が生み出される。
ということは、作者の考えすらも社会・経済状況があってこそ。
作品には作者の考えが反映されている=社会・経済状況が反映されている ということでした。

直接は描かれていないことに注目し、矛盾を見出していくことから、解釈をしていくということが重要らしいのです。

作者であるメアリ・シェリーは資本主義者であったにも関わらず作品の中では資本主義について描かれていませんでした。ここに矛盾が!!
→新しい主義へと移行していたのでは?という解釈ができる。

マルクス主義自体について深く理解出来た自信はありませんが、文学におけるマルクス主義批評は少しだけ理解が進んだと思います。
まだまだ奥が深そうですが……まけない!!

4限の担当は大下。
オリエンタリズム。
西洋が西洋あるために、東洋に対する植民地支配を正当化するためのものであるということでした。

差別的であり、反人間的な思想ではあるのですが、オリエンタリズムがあるからこそ東洋というものも浮き彫りになったのではないかと思いました。

オリエンタリズムは異なる文化や伝統を極端に区別してしまう。本来世界は少しずつ混ざりながら共存しているものであり、完全な区別は社会に属する人間同士の出会いを制約してしまうものだと言います。

西と東で分けた時、東に位置する日本人としては複雑な思想ではあると感じました。
支配し、されてきた両方の面をもつ日本はオリエンタリズムについてどのように捉えていくべきなのだろうか……。と考えるきっかけになりました。

さてさて、次回で春学期は最後となります。
秋へ向けた有終の美を飾るべくさらに精進していきます!!

増尾

春学期第12回 3年ゼミ

こんにちは。今回の担当は大下です。

第12回は性に関する批評体系について。3限では批評理論入門から「フェミニズム批評」、「ジェンダー批評」を取り扱いました。

 

フェミニズムとは1970年代以降に登場した、性差別を暴く批評のことで、これまで男性作家によって書かれていた作品を女性の視点から見直し、男性による女性への抑圧がいかに反映されているかを指摘します。さらに、男性文化によって無視されてきた女性作家の作品を発掘したり、女性の書いた作品を再評価する動きもあります。

メアリ―・シェリーは『フランケンシュタイン』を出版する際、自分の名は伏せていました。メアリーと同時代の女性作家も男性名や中性的な名前を使用していたことから、当時作家が女性であることは批判を招く恐れがあったことが窺えます。また、パーシーの作品介入を黙って受け入れている点、夫の死後、その作品を手直ししている点から、この時代夫が優越権をもつことが当たり前であったことも考察できます。

『フランケンシュタイン』において、登場する女性は直接自らの口で語ることをしません。また、男の登場人物の多くは故郷を離れて旅や仕事をしますが、女性はほとんど家(あるいは土地)から出ることがありません。

 

ジェンダー批評において性別とは、社会や文化によって形成された差異・役割です。フェミニズムと違い、男女両性を連続的なものとして捉え、男・女という一般カテゴリー自体に疑問を突きつけます。

批評理論入門では、ジェンダー批評の括りの中から〈ゲイ批評〉と〈レズビアン批評〉が取り上げられていました。

ゲイ批評の観点から見ると、ウォルトンの男同士の友情に対する憧れ、ヴィクターとクラヴァルの看病と旅行といった男同士の博愛がみてとれます。また、レズビアン批評では、ジャスティ―ヌに焦点が当てられていました。彼女は唯一男性との接点がなく、エリザベスへの熱のこもった言動などから、同性愛的な情念が垣間見えると分析できます。また、ジャスティ―ヌが死んだ理由に、同性愛という不浄の罪があった、と読み取ることもできるのです。

 

以上が批評理論入門のあらかたのまとめです。フェミニズムとジェンダーの違いが分かっていなかった私は、ずいぶんと理解が進みましたが、ジェンダー批評のほうが〈ジェンダー批評〉ではなく〈ゲイ批評〉と〈レズビアン批評〉であったため、肝心の〈ジェンダー批評〉とはなんなのかについて、授業内で少し掘り下げました。フェミニズムでは切り込むことのできなかった”性愛”というものをジェンダーでは取り扱うことができた。そのことによって見える世界も格段に変わりました。もちろんフェミニズム批評も、未だに存在する見えない性差別を暴くために重要な理論です。一方で、人間の性の在り方について問われるようになった現在の動きは、ジェンダー批評の成果でもあります。

まだ乗り越えられていない批評理論を知り、生きた学びをしているような感動を味わいました。うまく言い表せませんが笑

一点私が知りたいなと思ったのは、怪物がどうして自分を「男である」と自認したのかということです。当時は男女の二分に疑問などなかったでしょうから、男であることを認められないということは考えられていなかったでしょう。しかし、ジェンダー研究が進み、性自認の常識が変わりつつあるとき、怪物がなぜ男だと理解したのかを考えるのは面白いのではないかなぁと思いました。

 

4限では、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』の冒頭を取り扱いました。フェミニズムの最大の功績は、生物学的性の上にある社会的な性規範を変えたことにあります。女性の表象の仕方を変えることで、法制度、女性の役割、地位などを変えることに成功しました。でも、それだけ。女性の表象を変えることは確かに大事ですが、性差については考えることができなかった。そのことを問題点として挙げています。女性とはなんなのかが曖昧であり、統一的な女の存在は結果的に無いと示され、フェミニズムの目標とせんことも結局は空洞化し、失敗してしまう……

という内容だったと理解しました。授業ではジェンダーを語る際、クリステヴァをよく例に上げます。「女」は存在しない、「女」というものは構造的に「男ではない」でしか説明できない ということ。逆もまた然り。たしかになぁと思うとともに、自分は今後自分の性をどのように表現したらいいのだろうという感想を持ちます。一般的女性としての風貌、自認をしていますが、本当にこのまま諸書類に「女」と書いてもよいのでしょうか。学べば学ぶほど世界が広がるとともに、変な悩みも広がるなぁとつくづく思います。