3年ゼミ 秋学期第二回

こんにちは。今回の担当の山口です。まだ11月の半ばですが、もうクリスマスのイルミネーションがいろいろなところで見られるようになりましたね。ついこの間まで残暑が厳しかったと思えば、クリスマスまでもうあっという間です!

 今回は、イギリスの小説家ジョセフ・コンラッドの作品『闇の奥』と、田尻茂樹『知の教科書 批評理論』より、この作品を脱構築的に批評した「第四章 空虚な中心への旅――脱構築批評」を学習しました。
 『闇の奥』は、貴重な象牙を獲得するためにフランスの貿易会社によってアフリカの奥地へと送り込まれたマーロウが、その最奥の営業所でクルツという人物に出会うというストーリーです。この中で今回は、「言葉」ではなく「声」という表現が文中で多数使われていることに着目しました。田尻さんの論文を参考に議論をした結果、この「声」という表現は、ソシュールの言語論の矛盾を指摘したデリダの理論と重ねて解釈することができ、言語の相対性や、言語は恣意的な約束事でしかなくそこに文明と未開の差などない、ということを指摘したかったのだと解釈しました。
 また、全体を通して、テクストのレベルから見ても物語内容のレベルから見ても、中心に確固たる意味や真理があると信じ、そこへ向かっていこうとする行為=ロゴス中心主義的な行為は、『闇の奥』から読み取ることができる脱構築的な側面によって揺らがされ、「空虚な中心」に向かっているようなものであると読解しました。

二週間目には各自で『闇の奥』に対する自分の意見を持ち寄り、発表しました。

・アフリカに行くまでの描写に対し、帰ってくるまでの描写が非常に簡素。これは、後半に物語の中心があるという考え方を読者に改めてほしいからではないか。
・情景描写の丁寧さに比べ、クルツの描写は簡潔である。周縁(情景描写)を極端に際立たせることで、中心の空虚さをアピールしているのではないか。
・マーロウは暗黒大陸からパリに帰還した後、暗黒大陸の様子を知らない文明社会の人間の人生知識を虚偽にすぎないと切り捨てるが、クルツの婚約者を傷つけまいと嘘をついてしまう。彼は暗黒大陸が持つ真実性に魅了されつつも、文明社会における嘘の有用性にも気づき、どちらか一方の社会だけに帰属することが困難になっているのではないか。
・髄所にフランスに対する批判とイギリスに対する賞賛が書き込まれている。ポストコロニアル的な対立だけでなく、同じヨーロッパの内部での英仏の対立も見ることができる。

など、非常に議論の盛り上がる意見が出され、また、ゼミのメンバー間での着眼点の違いにも具体的に気づくことができました。

そろそろ内藤ゼミでは後期の論文執筆がはじまります。がんばるぞー!
以上、山口でした。

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3年ゼミ 秋学期第1回

こんにちは。満員電車に乗っていたのですが、目の前にいた見知らぬ方が猛烈な勢いでLINEの友だちを削除しているの目撃してしまい、車内で天を仰ぎました。というわけで今回のブログ担当は川上です!

秋学期第1回の講義ついてですが、

春学期に学習した「ポストコロニアル批評」の理解を深めるということで、吉田香織『アニメーションにおける他者表象―オリエンタリズムの観点から観たディズニーと宮崎駿の世界ー』を用いて議論しました。この論文中で取り上げられるデイズニー映画『ムーラン』と宮崎駿の映画『千と千尋の神隠し』についてですが、こちらはゼミ生が各自鑑賞しました。

◯アニメーションについて
アニメーションや、キャラクタービシネスなどが複合して作られたファンタジーにおいて、製作者は、自分の、あるいは視聴者の欲望をかなり色濃く投影することが可能です。このように思想が強く反映されるアニメは、集団アイデンティティー形成に大きな影響を及ぼします。また、私達がアニメーションをみることで、それと普段の自分の生活との差異を楽しんだり、自分の在り方を見つめ直したりするように、「自己」「他者」概念をも構築します。社会に存在する偏狭的なイメージを覆すこともあれば、さらに強化してしまうこともあるそうです。アニメーションを、単なる子供向けの娯楽と捉えてしまうと、見逃してしまうことが多そうですね。

◯『ムーラン』について
ディズニー・アニメーションは、1998年に初めて東洋がモチーフの作品を制作しました。それが『ムーラン』です。アメリカにおいては、この作品は反オリエンタリズム的アジア描写の作品と評されていましたが、そうとは思えない描写がいくつかあります。アジアの描写はされているものの、それはあくまで西洋の視点から描かれたものであり、つまり、あくまで西洋人に親和性があるレヴェルでのアジア描写に留まっているということです。この作品は、東洋と西洋の対立(支配)構造から脱却できていないのではないか、という意見が挙げられました。

◯『千と千尋の神隠し』について
論文では、『ムーラン』と比較して、『千と千尋の神隠し』は、世界観の相対性と複数性を通しながら他者同士の共存を描いているため、西洋/東洋、自己/他者といったような二分法が通じないと述べています。

また、二項対立と力関係に関連して、主体/客体という観点で注目されるのが、「視線」です。見る/見られるという関係性において、見られる側は、ただ一方的に見る側に見られるのであり、力関係の優劣がほぼ決定しています。映画ならば、私達観客は見る側であり、映画の登場人物たちは見られる側ですね。しかし、『千と千尋の神隠し』では、あらゆる場面で、観客を見つめるような「視線」(目が描かれた看板・襖・小包)が登場し、観客達は見られる側にもなり得て、主体/客体の境界があいまいになるとのことです。

ゼミ生からは、『ムーラン』と比較して、『千と千尋の神隠し』は二分法から脱却しているように感じるが、十分ではないのではないかという意見があがりました。例えば「視線」問題に関しては、映画を見ていて、自分が見られる側に立つ感覚は覚えなかったし、「視線」はむしろ私達にではなく、千尋(主人公)に向けられているように感じたとのことです。もしそうであれば、千尋は相変わらず、一方的に視線に晒される弱い立場のままであり、力関係は覆されるどころか、強化されていることになります。

論文では、アニメを欲望のメディアと表現しています。人々の、普段は表に出ないような欲望が表出する場がアニメだと考えると、アニメをみるときの心持ちが変わるかもしれません。

3年ゼミ 第14回

こんにちは。先日、美容室で蒸しタオルを手渡されたので顔を拭いていたら、「結構全力で拭いてますね笑」と言われ、義憤にかられてしまいました。どなたか僕に優雅な顔の拭き方を教えてください。今回のブログ担当は川上です。更新が遅れてしまい申し訳ございません。

第14回の講義内容についてですが

3限では、廣野由美子著『批評理論入門−「フランケンシュタイン」解剖講義』(中央出版)の「ポストコロニアル批評」「新歴史主義」について学習しました。4限ではミシェル・フーコー『知の考古学』について学習しました。

1.「ポストコロニアル批評」について
『批評理論入門』によれば、ポストコロニアリズムとは、20世紀後半にヨーロッパ諸帝国が衰退し、アジア・アフリカ・カリブ諸国などの「第三世界」が植民地支配から独立したあとの歴史的段階を指します。ポストコロニアル研究は文化研究の一種で、広義には、西洋によって植民地化された第三世界の文化全般の研究を指し、特に文学作品を対象とする場合をポストコロニアル批評といいます。
その方法として、

 ➀植民地化された国や文化圏から生まれた文学作品の研究
 ➁帝国主義文化圏出身の作家が書いた作品において、植民地がどう描かれているかの分析

等があります。このような研究・分析により、帝国主義文化圏が、自己イメージを明確にするために、植民地を比較の対象として持ち出したり、自身らの支配の正当性を担保するために、植民地のイメージを改ざんしたりしていた、ということが明らかになってきます。

2.「新歴史主義」について
『批評理論入門』によれば、新歴史主義は、旧歴史主義のように出来事を重視したり、歴史を直線的・発展的なものと捉え特定の時代精神と結びつけたりするような方法をとりません。歴史を、旧歴史主義のように文学作品の「背景」とみなすのではなく、社会学や文化人類学などを含む「社会科学」として位置づける点において、新歴史主義は新しいのだといえます。

文学テクストは歴史(事実)よりも信用に値するだとか、逆に、歴史(事実)は文学テクストよりも信用に値するだとかをはっきりさせたいのではなく、ここでは、文学テクストと歴史(事実)は相互に影響しているのだから、その2つを分ける区別をなくさなければならないというわけですね。

4限では、『知の考古学』を用いて学習しました。先述した、歴史的な題材など他の領域のテクストと文学テクストとの境界をなくそうという新歴史主義の手法には、この『知の考古学』を著したミシェル・フーコーの方法論の影響がみられています。

《考古学的比較は、統一化する行為ではなく、多様化する行為である》

つまりは、複数の学問分野が存在するならば、【Aの学問がBの学問に影響を与えた】、【Bの学問がCの学問を生んだ】というような、理論的な一つの構造を見出す(統一化)のではなく、AもBもCも、それぞれ自己の領域を持ちながらも、互いに向かい合い共存していると考える(多様化)のがフーコーです。学問分野の比較のみならず、言説形成と非言説的領域(社会的制度や、政治的実践など)の関係性にも着眼し、考察しています。原因と結果を安易に結びつけてはいけないわけですから、非常に根気のいる分析法だと感じました。

実は、この回は、夏合宿を終えた後に書いています。夏合宿では、春学期に学習した内容の復習もやるのですが、新しい発見が多かったです。例えば今回の『知の考古学』の復習も合宿でやったのですが、レジュメには「やっと分かった!!」的なメモが記されているのですが、合宿で読み返すと「いや、やっぱりよく分からんのだけど。過去の自分なんなの??」となりました。未来の学習が、過去の解釈を塗り替えた瞬間でしょうか。秋学期でも、既存の自分の考えをどんどん上書きしていけたら、大変でしょうが楽しそうだとも思います。

4年ゼミ 第11回『Film art』よりミザンセン後半

遅くなってしまい申し訳ございません。今回は、先週に引き続き大きくて分厚い『Film art』よりミザンセンの章を、後半部のみ扱っていきました。
先週で一通りミザンセンの種類を把握しましたが、今回はそれに加え空間と時間に関するミザンセンと、最後に総集として『荒武者キートン』という映画を用いながら、効果的なミザンセンとはどのように扱われているのかをさらっていきました。

ミザンセンには空間的、時間的な要因が複数存在しており、これが観客に期待をもたらせ、映像の見方を方向付けます。映像は平面ですが、照明や色、動きなどによって、それを立体的、空間があるように見せることができます。色のコントラスト、構図のバランス、奥行きの手がかりといったことがキーワードになります。

時間においては、映画のリズムに関して説明されていました。映画のリズムはビート、ペース、アクセントのパターンがかかわっており、セッティングを駆使して観客の見る方向や時間的な流れを誘導することもできるそうです。

さて、荒武者キートンですが、増尾の発言から、論文に書かれているものとは別のミザンセンを発見する流れになりました。メーキャップに関しては、キートンが以上に顔が白いこと、煤のついた状態のことについて触れました。ライティングに関しては、論文で言われていた最初の決闘のシーンを精査しました。ほかの場面とは違ってキートンの住む家が映されるときのみ青白い光が使われていること、シルエットを映すときの照明の置き方などです。また、ディープスペースに関して、滝のシーンを意見をすり合わせながら理解していきました。キートンが滝の出現によって「後景の後景」に押しやられるため、ディープスペースができ、近くにいるのに遠くに感じるという錯覚を利用しているとのことでした。

映画批評は、映像の解釈があってこそのものだと思います。作品批評をする場合、ミザンセンの理論を効果的に使えるといいなと思います。

(文:大下)

4年ゼミ 第9回『地獄の黙示録』

こんばんは、大下です。今回は『Film Analysis 映画分析入門』から第14章「政治的批評」を取り扱いました。
この本自体、日本社会に浸っていればあまり鋭く聞かれない「右か、左か」の前提に沿って話をしているらしく、特にこの章は露骨にそれが表れている部分でした。私は公民の授業でリベラルがなんだ、保守がなんだに苦しめられた経験があり、だいぶ大人になったいまでも映画を見てまとめるのに苦労しました。

ブログ第9回『地獄の黙示録』

昨年度の先輩方とは違い、私たちは前年にコンラッドの『闇の奥』を読了しており、話の展開は視聴前から理解していました。また、『闇の奥』を学習する際参考にした田尻芳樹さんの論文も思い出しながら議論しました。田尻さんの論文では、マーロウが最後カーツと出会い、彼の死を見届けることで空虚に出会い、ジャングルを旅して得るものは自己同一性の崩壊とそれによる自己認識の獲得、空虚な中心への旅の物語が、脱構築を先駆的に試みている、とのことが論じられていました。今回の論文ではそうした脱構築的な解釈は一切なく、「右か、左か」「可か、不可か」の二択で議論が展開しているように感じました。二人とも「そうじゃない」と粘り、「右か左、どちらだと思いますか」という先生の問いかけにも「どちらでもありません」と生意気に結論付けました。

この批評は映画作品が一つの政治扇動に利用されているという発想からきています。マスメディアを専攻する学生が多い学部であるゆえに、こうした批評には真摯に向き合いたいですね。たしかに当時のアメリカとしては保守擁護の必要性があり、見方によっては保守的に見えるような描き方があったのかもしれません。けれども、私たちには原作の意図を完全になし崩しにし、見え透いた保守への扇動をしていたようには見えませんでした。人々の争いは右だ左だと言い合っているばかりでは解決しません。別の道を導き出すのも一つの手ではないかと私は思います。まあお金が解決させてくれないんでしょうけど。

(文:大下)

3年ゼミ 第13回

こんにちは夏風邪で寝込んでいた浦上です。意外と長引いてしんどかったです。でも週末にあったライブはちゃんと行きました笑外と屋内の温度差すごいですよね。私は冬が一番好きなので夏が好きな人には申し訳ないのですが早く終わってほしいです。(結構本気)

今回は3限に廣野由美子著『批評理論入門−「フランケンシュタイン」解剖講義』(中央出版)の「マルクス主義批評」と「文化批評」、4限にエドワードW・サイード著 『オリエンタリズム上』について議論しました。

まずは3限から。

「マルクス批評」
マルクス主義批評とは、文学作品を「物」として扱います。作品の意味内容を作品内で完結させず、歴史的背景の「産物」として考えます。そのため作品が書かれた当時の歴史的事情と作品の内容を関連させて読することを主なアプローチとします。個人の思想は所詮社会から生まれたものであるから、社会状況を分析すればよいといったところです。マルクス主義批評はどんな作品でも批評対象となるとあったので、少女漫画や恋愛小説、映画をマルクス主義批評で分析したらどうなるんだろうか、、、という意見が出ました。
たとえば、18歳選挙がはじまるときに書かれた少女漫画を分析するなら、学校にいるいろいろな男子から優しくされ、私が本当に好きな人は誰なの!!贅沢な悩みをしているというシーンは、どの党も演説のなかでいろいろな公約を掲げているけれど私はいったいどの政党に投票すればいいかわからない!!という悩みという風に分析するということ、、、?? 
乙女の恋心を歴史的事情から分析すると数々の登場人物に怒られそうだなと私は思いました笑
マルクス主義批評によると、歴史=闘争です。文学作品を歴史の産物であるとするのなら、作品中には闘争の要素が含まれているという点が重要です。
「文化批評」
文化研究は1960年頃から盛んになりました。生産関係から生まれた文化、(ハイカルチャー、ロウカルチャー)を闘争させ、ロウカルチャー(一般大衆向けの通俗的な文化)に権威を与えようと試みる研究です。カルチャースタディーズは価値評価による作品の位置づけではなく、文化的背景における作品の関係づけを目標としています。マルクス主義批評から生まれた研究なので、考え方はとても似ています。

4限『オリエンタリズム上』
4限は時間がなくてレジュメを読んだだけでした。次の授業でしっかり議論していきたいと思います。

あっという間に次は春学期最終回です。毎回積み残しがあるので最終回はきれいに終わりたいものです。

以上浦上祥佳でした。

3 年ゼミ 第12回

こんにちは。暑い日が続きますがいかがお過ごしでしょうか。
皆さんは日焼け対策はしていますか? 私は日焼け止めはもちろんのこと、特に夏期休暇中は絶対に外へ出ないことで日焼けを防止しています。しかし今年は夏合宿がありますので日焼け間違いなしかもしれません……できれば室内で快適に過ごしたい……。
ということで担当は川田です。

今回は3限では廣野由美子『批評理論入門−「フランケンシュタイン」解剖講義』(中央出版)の「フェミニズム批評」「ジェンダー批評」、4限ではマルクスの代表作である『経済学批判』『資本論』について学習しました。

3限で取り扱った「フェミニズム批評」「ジェンダー批評」は前回の内容もふまえて議論を進めました。
おおまかに振り返っておくと、フェミニズム批評は当初、以前より根強く残っていた男性的抑圧から女性を解放することを目標としていました。しかしここで主体とされる「女性」というものがかなり限定的で排他的なものであることが批判されました。また、そもそも解放を目指すのに「女性」という枠組み自体が必要なのかという指摘もなされました。こうして「女性」という主体が揺らぎ始めたとき、バトラーは男性と女性という二分化を脱構築しました。それが、セックスすらもジェンダー的に決められたものである、ということでした。詳しくは前回の記事を参照してください。
このようにフェミニズム批評はその根底からコテンパンにやられてしまったわけですが、ではフェミニズム批評が残したものとはなんだったのでしょうか。それはおそらく、女が差別されているという構造とそれを露見させる役割ではないでしょうか。たとえば女性専用車両はフェミニズム批評を基に施策された典型的な例だといえそうです。

フェミニズム批評の後に発展したのがジェンダー批評です。廣野さんの著書ではゲイ批評、レズビアン批評、クイア理論が挙げられていますが、批評理論についてそれほど踏み入った説明がなされていません。授業内では批評理論というよりも、その対象となっているLGBTやSOGI、クイア、同性愛などについて、多岐にわたって議論をしつつ理解を深めていきました。
近代以前の同性愛は、個人のアイデンティティというよりも、身分によって嗜みとしてある程度受け止められていました。その後国家が成立し国民が生まれ、さらなる国土拡張のために戦力が必要になりました。この流れで人口増加が目指され、国や社会のための「生殖」が重要視されるようになりました。現代のように異性愛が主流となったのは歴史的に見てごく最近だといえます。そして異性愛が個人のアイデンティティに帰属するようになることで、同性愛的志向を持つ人々が排他されるようになってしまいました。
はたして人間というものは子孫を残さなければならないのか。それは社会的に作られた欲望であって本来の自分の欲望は別にあるのではないか。今一度自分で区別してみる必要がありそうです。

4限ではマルクス主義批評の出発点であるマルクスの著作のごく一部を取り扱いました。実際に読んだのは『経済学批判』の序文のみになりました。
マルクスは法律や政治を上層部、経済や生産体制を下層部と考え、経済や生産体制が変化することで法律や政治もそれに伴い変わっていくと述べました。たとえば歴史というものは、権力者による倒幕と新体制の成立を繰り返して成立しているとみなされがちです。しかしマルクスはその流れの根底には経済活動における変化があり、それが表出して政治上の変化が生まれると考えました。
彼の批判は労働者の解放を目指したものであったため、経済があたかも主体性を持つような述べ方をしています。議論の中で、そもそも経済は人間の活動によって生まれているものではないかという指摘もありました。今回取り扱った範囲ではまだ解明できない点も多いですが、マルクスに対するさらなる批評につなげることもできそうです。