9期生第12回 性別っていつ決まるんだろうね

※このブログは、2023/7/14が最終更新日のデータを眠りから呼び覚まして、再編集したものです。筆無精ここに極まれり。本当に申し訳ございません。過去の私の努力をぜひ見ていただけますと幸いです泣 2024/03/31の私より

ここからがブログ

ブログ2回目の阪口緑です!

この頃の大学3年生って忙しいんですね。

インターンの申し込みとテストとサークルの「やるべきこと」が山のように積み上がっていて、私、驚きが隠せません。

もっとゆっくりしたい…。寝ることに罪悪感を持ちたくない…。

しかし、今日は罪悪感を打ちまかし8時間寝たので、今がチャンスとばかりに文章を書いていきたいと思います!!

前座

今回はヤンさんがNETFLIXで配信されている『サイレン』を紹介してくれました!

あらすじは以下(公式HPより)

警察官、消防士、警護員、兵士、アスリート、そしてスタントウーマン。24人の女性たちが職業別にチームを組み、孤島での過酷なバトルに挑む。

監督や出演者は韓国の方々です。

女性の身体が不利になると思われている職業についている女性たちが、自分の専門知識や培った身体能力を用いて、生存戦略をめぐらせるリアリティ番組だそうです!

いろんな地域の方が出演しているようで、方言の話になりました。

韓国出身のヤンさんが、韓国にも京都弁のように遠回しな言い方を好む地域があると話してくれました!

私は方言が好きです!!方言は演劇や放送などの言葉の表現の世界において重要なアイデンティティです!東京都育ちの私にその表現の幅はないので羨ましいです…!

今度、日本語の方言だけでなく、韓国語や英語などの方言も聴いてみたいなと思いました。

3限

今回も廣野由美子著「批評理論入門」を用いて『フランケンシュタイン』を読みました。

レジュメ担当は高山さんでした。

  • フェミニズム批評

まずフェミニズム批評とは。

フェミニズム批評は1970年代以降、性差別を暴く批評として登場しました。

立場や目的によって様々な批評方法があるそうです。

例1:男性作家の作品を女性の視点から批評。男性による女性の抑圧や家父長制的なイデオロギーの形成を明らかにする。

例2:女性作家の作品を対象とする「ガイノクリティックス」。男性文化によって無視されてきた女性作家の作品の発掘や再評価を行う。

例3:女性と言語との関係を探究する立場。女性作家の作品がいかに女性特有の言語で書かれているか検討する。

以上の例を踏まえて、フランケンシュタインをフェミニズム批評で読み解きます。

ガイノクリティックスの観点から

〈女性として書くこと〉

・女性の読み書き能力は男性よりも劣るとされており、ペンで自己表現することが男の領分に属するとみなされていた。

→メアリがフランケンシュタインを匿名で出版した理由

・夫パーシーが、妻メアリの作品に多くを介入していた。(前書きや校正など)

         →夫が妻に対して無限の優越感を持つという当時のイデオロギーが表面化

〈母性/産むこと〉

・メアリは16歳で最初の妊娠を経験。フランケンシュタインを完成させるまで、ほぼずっと妊娠していたが、生まれた子が次々と死んでゆく経験をした。

         →出産の恐怖、罪悪感を怪物の物語として昇華

・18世紀から19世紀にかけて、名だたる作家で出産を経験した女性はいない

         →出産が文学のテーマとして描かれない

などなど、女性だからこその作品の生まれがあったと解釈できます!

また、作品内容としては、『フランケンシュタイン』の女性の登場人物に注目し、以下の点を廣野さんは説明します。

・男女の領域を二分する19世紀の中産階級的イデオロギーが反映されている。

・一方で、女性の家庭的愛情は男性を守ることも、癒すこともできないことを描き『フランケンシュタイン』は破滅的な終わり方を迎える。ゆえに二分論的イデオロギーの欺瞞も暴露しているのではないか。

女性が書くことで生まれた新たな価値を評価している感じですね〜。

  • ジェンダー批評

ジェンダー批評とは。

男・女という一般のカテゴリー自体に疑問を突きつける批評です。

これは「女であること」を一括りにするフェミニズム批評の批判することから出発しています。また、両性を連続的なものと捉え、いわゆるLGBTQの存在も対象とします!

ここで廣野さんはゲイ批評やレズビアン批評を用いて読み解こうとしたのですが、その際のゲイやレズビアンの定義が広すぎて、ゼミのメンバー的には納得できない感じでした。また、結局ゲイやレズビアンとして研究してしまっていることから、男女の枠を取り外せていないのではとゼミ内で議論が交わされました。

議論の展開からイヴ・コゾフスキー・セジウィックが提唱した「ホモソーシャル」の考えを先生が付け加えてくれました。ホモソーシャルというのは、女性と同性愛を排除して男性間の緊密な結びつきを意味します。いわゆる「男同士の絆」ってやつですね。

フランケンシュタインを批評理論で読み解く上で、ゲイ批評よりもホモソーシャルで解釈する方がわかりやすい部分がありました。

4限

4限の時間ではジュディス・バトラー(1956-)さんの「ジェンダー・トラブル」を学びました。

レジュメは白井さんでした。

フェミニズムは以下の功績を残しました。

“身体的な特徴に基づく男女の差異(Sex)を社会における男女の役割や規範に応用する見方に対し、そうした規範や役割は男女の性差とは関係なく、社会的に構築されるとし、社会性差としての「ジェンダー」を掲げた。”

どういうことかというと、フェミニズムにおいては、男女という身体的な性差に基づき、男性や女性のステレオタイプや性役割は構成されてきたと述べます。そしてこのステレオタイプや性役割は、身体的性を理由に押し付けられていいものじゃないと批判します。

しかし、ここで問題が生じます。ジェンダーは男女の差は関係ないとしつつも、「男」「女」を想定してジェンダーが語られているよね?「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」というが、女になる前は何なのか。女になるということは中立的な「ひと」が存在するかのように語られるが、実際には「男」「女」の区別を前提に議論が始まっているじゃないか。ということは、身体がつねにすでにジェンダー化されているのではないか?とバトラーは考えました。

『ジェンダー・トラブル』でバトラーが行ったことは以下です。

“バトラーはジェンダーとセックスの二項対立を脱構築した。ジェンダーに先んじてセックスが存在したとするフェミニズムの見解に対し、セックスこそジェンダー概念によって構築されていることを主張する。”

難しいですね。つまりどういうことかというと、「生物学的性差(セックス)自体がジェンダー化されたカテゴリー」ということです!

これでもよくわからないですよね。もっとわかりやすく説明すると「性器(胸やペニス、膣など)を性器として見なし、男女の区別をつけること自体が、社会的性差に由来しているのではないか」とバトラーさんは指摘しています!

フェミニズムでは、生物学的性差が、社会的性差を規定していた

ジェンダー・トラブルでは、社会的性差が、生物学的性差を規定している

人間の身体って他にもいろんな違いがありますよね。

例えば、目が一重か二重か、耳たぶが離れているかくっついているかなどなど。内藤先生は、腕を伸ばした状態で小指と小指、肘と肘がくっつけられる「猿腕」らしいんですが、私はできません。

性器と呼ばれているもの以外にも人間の身体には違いがあるのに、性器で分けることで「男/女」という自然の性差が存在すると偽装されているとバトラーは述べました。

ちょうど歌舞伎町タワーの「ジェンダーレストイレ」が話題になっていたので、ゼミ生の議論も白熱していました。文化的な抑圧を受けた性別が自明であるとされている現状では、このトイレは早かったのでしょうか。

皆さんはどう考えますか?

9期生第10回 アニメーションにおける他者表象

こんにちは。満身創痍の阪口緑です。

はじめに謝罪の言葉を述べさせてください。

このブログの締め切りはなんと4ヶ月前でした。

申し訳ございませんでした!!!

この年末年始、そして春休みは、あまりの忙しさに風呂場で気絶する日々でした。

「申し訳ない…!」という懺悔の念に苛まれつつも、腰だけでなく身体まで重く、今やっと筆を取った次第です。

本題

さて、私がブログを担当するのは、12月7日の第10回分です。

吉田香織著『アニメーションにおける他者表象──オリエンタリズムの観点から観たディズニーと宮崎駿の世界──』を分析していきます。

動く絵は無からの創造である。ゆえにアニメーションは「欲望のメディア」である。

また、アニメーションで国家的物語を創造することは、アニメをイデオロギー形成組織として分析する必要があると筆者の吉田さんは述べています。

つまり、本書ではディズニー作品とジブリ作品の「アジア表象」を分析し、どのように異なっているか比較しようと試みます。

第1章「アメリカにおけるアニメーションによるアジア表象例」で、ディズニーの『ムーラン』は再オリエンタル化を促していると分析します。また、第2章「日本のアニメによるアジア表象例」では、ジブリの『千と千尋の神隠し』が「東洋」の中の多様性を示唆し、オリエンタリズム的な「西洋/東洋」という二項対立を脱構築していると指摘します。そして、第3章は「結論」と題し、「『ムーラン』におけるオリエンタリズム的東洋の構築」と「『千と千尋の神隠し』におけるオリエンタリズム的思考の脱構築」を述べます。

ここで、上段で登場する「オリエンタリズム」とは何なのか、確認していきましょう!

「オリエンタリズム」(orientalism)とは、芸術作品や、歴史・政治資料などあらゆる言説の中に「オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式(スタイル)」を読み解く理論です。ポストコロニアル批評の旗手であるパレスチナ出身のエドワード・サイード(1935-2003)さんが打ち立てました。

サイードさんは、オリエンタリズムとは「西洋にない属性が東洋にはある」と西洋が一方的に表象することで成り立つ、ヘゲモニー(支配)関係のある二項対立から生じると指摘します。そして、ルネッサンス以降、西洋優位的な世界の中で東洋を叙述した過程で、「東洋の『不変的』ないしは超自然的な性質」や「東洋のエロティシズムの『女らしさ』」といった典型的な東洋のステレオタイプは生産されたといいます。

特徴的な部分

さて、本書の興味深いところは、『ムーラン』の男性キャラクターは「非理性的で、受身的で、女性的な東洋」という他者として描かれているため、西洋の眼差しが反映されていると指摘します。吉田さんは、これを「アブジェクション」の一形態だと説明できるといいます。

この「アブジェクション」こそ、3年ゼミにとってはじめましての考え方でした。

「アブジェクション」(abjection)はブルガリア出身の文学理論家ジュリア・クリステヴァ(Julia Kristeva, 1941-)が著書『恐怖の権力〈アブジェクシオン〉試論』のなかで用いた概念です。元々は精神分析の用語で、主客未分化の状態にある幼児が、自身と精神的に融合した状態にあった母親を「おぞましいもの」として「棄却」することを意味したそうです。

しかし、クリステヴァは『恐怖の権力〈アブジェクシオン〉試論』において、アブジェクト(おぞましきもの)を、「同一性、体系、秩序を撹乱し、境界や場所や規範を尊重しないもの、つまり、どっちつかず、両儀的なもの」と定義します。そして、アブジェクト(おぞましきもの)は人間の生活や文化を維持するために棄却すべきものであると同時に、主体に対し反逆的であり、かつ誘惑し魅了するような不気味さを持つとクリステヴァは述べます。また、高度な変化を遂げた人間は、アブジェクト(おぞましきもの)を切り取り、アブジェクシオン(棄却作用)を放逐することで自己定義を行うとも指摘します。

つまり、『ムーラン』に登場する男性キャラクターの中には、このキャラクターが西洋の白人という属性であればそうは描かないよね、と思うような描写があると吉田さんは述べます。「西洋とは異なる不純なもの」を東洋の描写として描くことで、東洋の他者性を誇張し、再オリエンタル化を世界市場に普及させているとも述べていました。

『千と千尋の神隠し』に関して、吉田さんは「自己」と「他者」の二分法と本質主義の脱構築が行われていると述べます。「日本」「西洋」「アジア」の関係と、その中で日本アイデンティティの形成を示唆しているとも指摘します。

あまり理論が登場しなかったので、ここは省略します。

本書のまとめ

最後に、結論として吉田さんは「『ムーラン』におけるオリエンタリズム的東洋の構築」と「『千と千尋の神隠し』におけるオリエンタリズム的思考の脱構築」を述べます。

また、アニメーションは虚構の世界ではあるが、アニメーションを見るという行為は現実であり、アイデンティティの形成に寄与し得る芸術だと説明しています。

応用

授業ではこの議論を踏まえて、応用として実写版『アラジン』を鑑賞しました。

アニメ版と比較して、露出度合いが低くなったジャスミンの衣装、ジャスミンのソロ曲の増加、そしてジャファー(悪役)とのキスシーンがなくなったこと、これらのことがオリエンタリズムやアブジェクションの観点から説明できるのではないかと話し合いました。

この授業を踏まえて私は秋学期レポートを書いたので、改めて復習できてよかったです…!遅くなって申し訳ございませんでした!!!!!

9期生第9回「実は私たちの選択って不自由なのでは」

第9回のブログを担当します9期生の高山です!

11月30日は、ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン』とディディエ・エリボンの自伝『ランスへの帰郷』を扱いました。

『ディスタンクシオン』も『ランスへの帰郷』もとにかく長かったです…

普段ゼミで扱う文章はPDF10~15ページ分くらい、多くても20ページ前後なのですが、
なんと『ディスタンクシオン』は1章だけで71ページもありまして…
紙派なのでいつもはPDFを印刷して書き込みながら読んでいるのですが、さすがに印刷を諦めました。
レジュメ担当の高橋さんの苦労は相当だったと思います、お疲れ様です、、

そもそもの文章が長い分ブログも長くなってしまいそうなので、さっそく本編に参りましょう!



ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン』

まず用語の説明をしておきます。

・ディスタンクシオン:卓越性
・文化資本:各人が身に着けたあらゆる文化(教養、学歴、文化財、好きなモノ、美的センスなど)を「資本」として捉えたもの。個人に投資され、所有される。
・ハビトゥス:人生において選択や価値判断を行う際に作用する「心理的な傾向性」のこと。社会的・歴史的に構築されるものであって、個人のパーソナリティは関係ない。


さて、前述の通り『ディスタンクシオン』はかなり長いのですが、筆者の主張は割とシンプルです。それは、
「人間の行動・好みはどれも社会によって決定された必然的なものである」
ということです。

正直、1章の内容自体はこれに尽きるのですが、さすがにこれだけで終わらせるのはちょっと…と思うのでもう少し説明していこうと思います。


ブルデューは、「趣味の世界では学歴水準と社会階級に対応して主に3つの趣味世界に分けられる」と主張し、社会階層別の趣味嗜好の傾向の例を挙げています。

ブルデューはフランスの人なので、『ディスタンクシオン』で挙げられている例はあまり身近でないものもあるのですが、一つ共感できたものを紹介します。

正統的趣味支配階級学歴資本高いバッハ『平均律クラヴィーア』
中間的趣味中間階級学歴資本普通ガーシュウィン『ラプソディー・イン・ブルー』
大衆的趣味庶民階級学歴資本低いヨハン・シュトラウス2世『美しく青きドナウ』

どこに共感できたのかというと、『美しく青きドナウ』が大衆的趣味という部分です。

私が通っていた中高ではクラス対抗の合唱コンクールがあったのですが、その曲決めの際に、先生から『美しく青きドナウ』をおすすめされたものの、(ドナウはちょっとダサくない…?笑)みたいな雰囲気があり、結局ドナウが選ばれることはありませんでした。

(ここまで書いてふと思い出したのですが、同じドナウでも『ドナウ川のさざなみ』の方だったかもしれません、なんなら『モルダウ』かもしれない気もしてきました、どれも川の流れがテーマなので…)


…とまぁ、つまりは階級と学歴資本が高いほど正統的趣味を持っており、階級と学歴資本が低いほど大衆的趣味を持っている ということが明らかになったわけですが、

『美しく青きドナウ』に注目してみると、中間階級である小学校教員や文化媒介者の支持率が、支配階級の大商人や自由業の支持率より低いという結果でした。

傾向をそのまま当てはめれば、中間階級の支持率の方が支配階級の支持率より高くなるはずです。

そうなっていないということは、趣味の傾向には階級だけでなく学歴資本が関係している、つまりハビトゥスを形成する要素は一つではないということが言えます。

なぜ学歴資本が趣味の傾向に関係するかというと、ブルデュー曰く「学校教育には一般教養を獲得する「姿勢」を身に着けさせる役割がある」からだそうです。


じゃあ正統的趣味と大衆的趣味はどう分けられるのか?というところが気になるのではないかと思います。

それについてブルデューは「その芸術が形式的かどうか」が基準となると言っています。

作品を抽象化し、その形式を認知して評価できるかどうかが、正統的趣味を持てるかどうか、美的センスがあるかどうかを決めるものとなっているらしいです。


ここまで階級による趣味がどうのこうのという話をしてきましたが、そもそも趣味って何?というところで、ブルデューは「趣味は自分自身を正当化する道具であり、自己表現の一つ。ある文化を評価するとき、別の文化を否定していることは否めない」と言っています。

つまり、私たちは自分の好きなものを主張すると同時に自分のハビトゥスの優位性を誇示する卓越化の闘争をやっているのです。

ちょうどこのゼミの回の前日か当日が、Spotifyの「今年聞いた曲ランキング」がシェアできるようになった日で、インスタのストーリーに挙げている人がたくさんいたので、それこそ「私はこんなに良い曲を聞いてますよ~!」という卓越化じゃん!という話になりました。タイムリーすぎて面白かったです。


少し話は逸れますが、この「何かを“好き”ということ自体が他と比較することになっている」というような話を星野源さんがラジオで言っていたなぁと思い、ネットサーフィン力を駆使してその回の文字起こしを見つけたのですが、

なんと星野源さんがNHK『100分de名著』の『ディスタンクシオン』回を見た上での感想の流れでその話をしていたらしく。私の記憶には全くその情報がなかったので衝撃でした、まさかゼミで扱うより前に星野源ANNで『ディスタンクシオン』の内容をかいつまんで知っていたとは…

文字起こしは公式ではないのでここにリンクを貼ったりはしませんが、「星野源 ディスタンクシオン」とかで検索すれば出て来るので興味のある方はよかったら。


話を戻します。

ここまでブルデューはしきりに「私たちの好みや行動は社会に決定されている」と主張してきましたが、そんなことを主張しても誰も幸せにならないじゃないか、ブルデューはなぜこんなことをしたのか?と疑問に思うのではないでしょうか。


それについて、2つメリットが考えられます。

一つ目は、他者を正しく理解できるようになること。
各々がハビトゥスによって判断を下しているということは、他者がどんなハビトゥスを持っているのかを知ろうとすることが相手を理解することにつながるのではないか ということです。

二つ目は、自分自身を正しく知ることができること。
ブルデューの主張によって、私たちが「自由」な選択だと思っていたものはすべて「不自由」なものであったことが証明されてしまったわけですが、一方でブルデューの言葉には「重力の法則は飛ぶことを可能にする」というものもあります。

つまり、私たちを縛る「法則」「不自由さ」を知ることで初めて、「自由」を知ることができるということです。



ディディエ・エリボン『ランスへの帰郷』

では、『ディスタンクシオン』を踏まえて『ランスへの帰郷』はどのような作品と言えるのでしょうか。

まず概要を紹介します。
『ランスへの帰郷』は、ディディエ・エリボンの自伝です。貧困家庭で生まれたエリボンは、パリの大学に進学し知識人と交流を深めていくうちに下層出身であることを恥じるようになり、家族と距離を置いていました。しかし、父の死をきっかけに帰郷することになり、エリボンが旅の中でいかに家族や自分自身と向き合っていったのかが書かれた作品です。


平たく読めば『ランスへの帰郷』は『ディスタンクシオン』の実践本のように見えるのですが、もう少し深く読み解いてみましょう。

エリボンはずっと自分の階級について考えることを避けていました。しかし、父の死を契機に自分の階級について考えることで、自分の過去を取り戻した、つまり自己を発見したと言えます。また、それは同時に自分の家族の発見でもありました。

ここで本文のラストを引用します。

「現在、私は大学教授だ。大学のポストが提供されたことを母に知らせると、彼女は感激して私に尋ねた。
 それで、何の教授になるんだい?哲学なの?
 というか、社会学だよ。
 何のこと?社会についての学問なのかい?」

ディディエ・エリボン『ランスへの帰郷』みすず書房、2020年5月1日、pp.236-23

この親子の会話には、同じ階級でも学歴資本を手にしたエリボンと手にしていない母との間に壁があることが表れています。しかし、その壁は個人的なものではなく、社会によるものだとエリボンは旅を通して納得できるようになったのです。

つまり、『ランスへの帰郷』はエリボンが社会による「不自由さ」を知ることで、「自由」と「安心」を手に入れ、自己と家族の新しい関係を発見できた過程を描いた作品と結論付けられます。


以上です!

要約能力が低いので長くなってしまいましたが、『ディスタンクシオン』の内容には共感できる人も多いのではないでしょうか?
実際、インスタなどの投稿を見ると卓越化を感じるという声は多く上がり、SNSやメディアの発達によって卓越化がかなり見えやすくなっているよね という話を議論の中でしました。何かを好きである以上卓越化は避けられないので、なかなか難しいものではありますが。


最後に、宮澤さんが猫ちゃんの写真を載せていて、私もうちの猫かわいい自慢したい!と思ったので写真を載せようかと思ったのですが、動画ばかりで良い感じの写真がなかったのでやめておきます。

ちなみにうちの猫は最近5歳にして初めて毛布をふみふみしまして…!!
超かわいかったのですが、その動画を撮影したのが祖母でスマホの扱いに慣れていないためピントが全く合っておらず。しかもその1回きりしかふみふみしていないので、またふみふみしているところを見たいなぁというのが最近の願いです。

お読みいただきありがとうございました~!

9期生第6回「傲慢と善良と天皇賞・秋」

 はじめまして!内藤ゼミ9期生の高橋凱です!

 少し遅いかもしれませんが、内藤ゼミを考えて下さっている2年生の方々へ、当ゼミへのお誘いです!

 完全に手遅れっぽいことに書いてから改めて気づきましたが、書いちゃったので載せます。来年以降の2年生見てね。

 この学部に一定数存在している(と個人的に感じている) 「授業やゼミの傍ら、とにかく飲んで遊んで恋愛して~」といったノリがしっくり来ない方、ココです!しっくり来てない(はずの)9期生10人が毎週木曜日に集っては、批評理論について議論しています。

 どんな事を学ぶのかはゼミの案内に書いてあると思うので割愛しますが、映画、小説、漫画、アニメ、音楽…などなど、あらゆる芸術作品が好きな方大歓迎のゼミです。

 個人的なオススメポイントは、哲学や新しい考え方に触れる事が多い点です。今まで生きづらさを感じていた事に関して、「救われた」と感じる事が何度もありました。社会に出て再び生きづらさを感じても、内心で言い返せる武器を手に入れることができます。悩みやコンプレックスを抱える人たちへ。学問に「救われる」経験、ぜひ体感してみてほしいです!!

 上述したようなノリから最も遠い「ガチゼミ」であることは間違いないですが、かといって真面目一辺倒な人は一人もいません。内藤先生はたしかに厳しいですが、とても魅力的な方で、理不尽なことで叱るような人では決してありません(当たり前ですが)。

 全員で弱音と文句を垂れ流しながら、協力して何とか立ち向かっているような感じなので、どうかあまり気負わずに検討していただけたら嬉しいです!

 来年以降の2年生がはたしてここまで遡ってくれるのかという疑念は置いといて、第6回の授業内容を説明していきたいと思います!ゼミ志望の2年生の方が読んでも分かりやすいようにしたつもりなので、良ければ読んでみて下さいね!

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

第6回 「構造分析」

 前回に引き続き、「構造分析」を学んでいきます!構造分析についてはこの後詳しく説明します。とはいえ、前回扱った小森陽一の論文とは異なる内容です。

 今回使用したテキストはこちら!

論文:Yu.ロトマン著/磯谷孝編訳『文学と文化記号論』

作品:辻村深月著『傲慢と善良』

 前半では、まず論文『文学と文化記号論』を読み解きました。

前半 『文学と文化記号論』について

 この論文を書いたユーリ・ロトマン(1922-1993)はロシアの記号学者であり、「文化記号論」を提唱し「構造分析」という批評理論の手法の形成に貢献した人物です。

 そもそも「批評理論」とは、「構造分析」とはなんでしょう?

 そんな先輩たちの流れを受けて、ロトマンは「文化記号論」の提唱を通して、批評理論の代表的な手法として知られる「構造分析」の発展に寄与しました。「構造分析」とは一言でいうと、小説や映画などのあらゆるテキスト(小説や映画をはじめとした、言語を用いたあらゆる創作物と捉えて下さい!)に含まれる様々な要素を客観的に捉えて、理論的に分析する手法のことです。しっくり来なかった方、この後説明する「文化記号論」は「構造分析」の具体例なので、一旦読み進めてやって下さい。

 ここから、ロトマンの提唱した「文化記号論」について詳しく説明していきます。余談ですが、このゼミの課題論文は本当に読みづらいです。大学入試の現代文を解いた時、こんな分かりづらい文章がどこにあるんだと思っていましたが、ここにありました。あの経験、ホントに大事です。

 さて、ロトマンはまず「文化テキスト」と「文化モデル」という2つの概念を用いて、「文化記号論」を組み立てます。

 人間世界には様々な文化や価値観があり、全てのテキストは、それらの応用物として生まれたものといえます。ロトマンは、これらのテキストにおける諸要素を空間的にモデル化していきます。「たくさんのテキストの諸要素を一つの空間に落とし込んでいくことで、人間の文化の〈綜(総)合テキスト〉が完成する!」とロトマンは主張するのです。意味が分からないですよね。

 言い換えると、テキストを理論的に分解していくことで、人間の文化(およびその応用物であるテキスト)を理論的に分析することができるのです。この分析の形を「文化モデル」と呼びます。そしてこうした「文化モデル」をたくさん合体させると、人間の文化全体を理論的に分析する「綜合テキスト」ができる!と言っているのです。ロトマンはこの綜合テキストを「文化テキスト」と呼びました。何となくでも伝わってたら嬉しい…!

 では「テキストを理論的に分解する」とは、どういうことでしょうか?

 今回の題材(『傲慢と善良』)が物語のため、ここからはテキストの中でも「物語」に絞って話を進めます。先ほども言いましたが、登場人物の心情や性格、「お前が好きだ!」といったようなセリフを解釈するのは、読み手によって解釈のズレが生まれてしまいます。とても主観的なアプローチなのです。

 ロトマンは、物語を理論的に切り分けるには、明確な「境界」が必要だと主張します。例えば、「上―下」「寒―暖」「包摂的―排他的」「奴隷―自由民」といったような「境界」です。物語を正確に切り分けられる「要素」を見つけ出すこと、これがロトマンのいう「テキストを理論的に切り分ける」ということなのです。ここで大事なのは、「切り分けた要素にダブりがないか」ということです。例えば、「個人―社会」というのも明確な「境界」に思えますが、必ずしもそうとは言えません。「社会」は「個人」の集合体である以上、「個人」は「社会」の一部でもあるのです。つまり、どちらの要素にも当てはまる例があっては、その切り分け方は正確ではありません。

 またロトマンは、テクストの切り分け方の手法として重要なのは「空間的特徴づけ」である、とも主張します。なぜなら空間的・物質的な切り分け方は人間文化の中でもっとも形式的な成分だからです。例えば、『トイ・ストーリー』の物語内容を、「ウッディがアンディの家にいた時」「ウッディがガソリンスタンドでアンディとはぐれた時」「ウッディがシドに捕まり、シドの部屋に閉じ込められた時」と空間的に切り分けたとします。この切り分け方は誰からも異論のでない、とても客観的なものだと思いませんか?

 この後、論文では、文化モデルの具体的な検討法について例をたくさん挙げていますが、説明しだしたらキリがないので割愛します!

 こうして私たちは物語を理論的に切り分ける手法について学んだのでした。

 そしていよいよ応用編です!

後半 小説『傲慢と善良』への応用

 ゼミの後半では、この理論を『傲慢と善良』に応用しました。

 辻村深月著『傲慢と善良』は、2019年刊行の大ヒット小説です。主人公の架が、婚約者である真実の失踪事件を追いかける中で、彼女の「過去」と向き合っていくという物語です。

 【以下、ネタバレ注意!】

 ここからの内容は『傲慢と善良』のネタバレが含まれます!

 まず、『傲慢と善良』のストーリーをおさらいします。

 この物語の主な登場人物は西澤架と坂庭真実の二人です。架は、東京で生まれ育ったシティボーイです。垢抜けた友人と都会的な価値観に自然と囲まれて育ってきました。一方、真実は生まれてから社会人になるまで故郷の群馬県で過ごし、親の強い束縛から逃れるために最近上京しました。二人とも30歳を過ぎており、長いこと婚活をしているものの、どちらも納得いく相手が見つからずに悩んでいました。そんな中、婚活アプリを通して二人は知り合い、婚約するに至りました。

 物語は、架視点の前半、そして真実視点の後半の2つに分けられます。

 前半は、真実が失踪するシーンから幕を開けます。架は、真実が以前から「ストーカーに悩まされている」と悩んでいた事から、真実がストーカーに誘拐されたと考え、真実の母親と共に捜索します。架は、真実がそのストーカーの正体について「群馬時代の人だと思う」と言っていた事を思い出し、真実の群馬時代、ひいては「過去」全体に向き合っていくのです。紆余曲折を経て、真実が訴えていた「ストーカー被害」は全くのウソであることが判明し、前半は幕を閉じます。

 後半では真実に焦点を当て物語が展開します。真実は、架が過去に自分の友人らに話した「真実は結婚相手としては70点」(直接こうした表現を用いたわけでなかったのですが)という発言を聞き、耐えられずに宮城県へ逃避してしまっていたのです。宮城での震災復興のボランティア活動を通して、真実は様々な人物や場所と触れ合い、今までの自分を見つめなおします。真実は気持ちの整理をつけたことで再び人生と向き合う覚悟を決め、架に連絡します。そうして二人が再会し、宮城県の神社で結婚式を挙げるシーンで物語は終わります。

 分析する前に、まずお互いの意見・感想を交換しました。すると、私を含めた多くの人が「なぜ物語の最後に架と真実は結婚したのか」という疑問を持っている事が判明しました。こうした感想を踏まえて我々は、2グループに分かれて、架と真実についてそれぞれ分析を試みました。ロトマンの手法である「空間的特徴に着目すること」と「〈内〉と〈外〉で切り分ける」という2つのアプローチを組み合わせて分析を進めました。まず「空間的特徴に着目」すると、この物語は、「真実の群馬時代」「真実・架の東京時代」「真実の宮城時代(逃避行)」の3つにわけることが出来ます。そして真実と架それぞれにとっての「内」を「物理的に同居している存在」、「外」を「それ以外の存在」と定義し、物語内容を分析していきました。すると、真実の行動パターンについてある特徴が見えてきました。

 まず「真実の群馬時代」について、真実は実家に住んでいた為、真実の「内」には「家族」が当てはまります。真実は大学の進学先から結婚相手まで、強く親の影響を受けており、心身ともに「家族」に縛られていたといっていいでしょう。真実は、結婚相手まで親に縛られる生活に嫌気が差し、東京へ向かいます。その後の「東京時代」において、真実と架は同棲していたため、それぞれの「内」にはお互いがいたことになります。しかし、そこで真実は、架が自分を「70点の存在」(語弊あります!ごめんね架!)と評価していた事を知り、宮城県へと逃避します。ここから、真実の行動パターンは、〈「内」にいる存在〉に疑念を抱くと空間的に移動し、新たな空間と〈「内」にいる存在〉を獲得していたといえるでしょう。

 ラストで真実は架を自分のいる宮城に呼び出し、話し合います。そこで架は改めて真実に求婚します。彼女もそんな彼のことが改めて好きである事に気づき、結婚を受け入れるのです。こうして再びそれぞれの「内」にお互いが入ることになるのです。

 しかし、そもそも真実は「東京時代」に、〈「内」にいる存在(=架)〉に疑念を抱き宮城まで逃避したはずです。そこで自分を改めて見つめ直すことができたのならば、新たな〈「内」にいる存在〉を獲得するはずです。にもかかわらず、真実は架と結婚する事を選択します。これは〈「内」にいる存在〉の再獲得とでも言うべき状況で、これまでの真実の行動パターンとは異なるのです。

私たちはこの議論を通して、ここに、多くの人が感じた違和感の正体があるのではないかという結論に至りました。

 このように今回は、ロトマンの理論を学び『傲慢と善良』に応用する事で、多くの人が感じていた違和感の原因を理論的に示す事が出来ました。一方で、では「なぜそんな違和感を感じる選択を真実がしたのか」という根本的な解決まで考える時間がなかったことは心残りです。前半のロトマンの論文を読解するのに時間をかけすぎてしまったことが原因かもしれません(難しすぎる)。また、これまでは課題論文が明確に課題作品について論じたものである事が多かったのに対し、今回はこの議論を通して論文を課題作品に当てはめていくものだったので、ホント難しかったです……。

個人的に、感情移入して読んだ(見た)物語を、客観的に切り分けることほど苦痛なことはありません。どうしてもムズムズしてしまいます。今回もやはり苦手意識を感じながら過ごしていました。それでも、ある物語内容を分析するとき、こうしたアプローチでしか得られない知見があることを実感できたので、何とか会得したいです!

さて、10月末に行われた天皇賞・秋に、同じく9期生の室井、滝沢と行ってきました。目玉はなんといっても世界最強馬イクイノックスと、宿命のライバル・ドウデュースの対決。私は初めて当てた馬券がダービーのドウデュースの馬券だったため、ドウデュースの馬券を買うよう脳が焼かれてしまっています。

 今回が競馬デビューの2人と一緒に東京競馬場のゲートをくぐると、そこには8万人近い大観衆が!天皇陛下が行幸されていた事もあり、盛り上がりは最高潮に達していました。

室井はドウデュースの姿を見るや否や、「本命はドウデュース!」と一目惚れ。顔をほころばせてドウデュースの馬券を買っていました。ドウデュース党の私としても嬉しい限りです。

滝沢の本命はなんとジャックドール。なかなか渋いチョイスですが、確かに展開次第では上位に食い込んでくる一頭です。

当然、私もドウデュースの馬券を購入。ドキドキしながらレースに臨みました。

結果は、イクイノックスの圧勝。ドウデュースはまさかの7着に散り、ジャックドールも11着に沈んでしまいました。

それでも、2人は「馬券は外れたけど、来て良かった!」「かけがえのない経験が出来た!」と満面の笑みを浮かべていました。私もとても嬉しくなり、3人で「絶対にまた来ようね!」と約束したのでした。

そんなイクイノックスとドウデュースの再戦が見られるのは、なんと今週末!

今回はこの2頭に加え、今年の三冠牝馬リバティアイランドと昨年の二冠牝馬スターズオンアース、捲土重来を期す昨年の最強馬タイトルホルダー、さらに土壇場で伝説の大逃げ馬パンサラッサまでもが参戦し、まさに現役最強馬を決めるに相応しい役者が揃いました。

今度の日曜日は15時にフジテレビをチェック!今から待ちきれませんね!!

9期生第5回 お前はもう、、、死んでいる

こんばんは~!

9期生の宮澤です!お久しぶりです。(前回、自己紹介したので今回は割愛させていただきますね)

最近、ゼミが楽しいです。秋美とのコラボワークショップも始動し、本格的にゼミしてるーって感じがしてます。秋美の方は素敵な方ばかりで、実際に秋田に行く日が楽しみでなりません!

話は変わりますが、いよいよ2年生のゼミ見学が始まったようで、先日2年生の子がゼミに来てくれました。初々しくてとてもかわいい、、、

私も去年はこんな感じだったなーと懐かしい思いをした今日この頃です(お前は初々しくなかったやろ、かわいくもなかったやろ)

宮澤の不要な雑談はここまでにして、さっそく第5回の授業内容に入っていきたいと思いますー


第5回 『構造としての語り』〈書く〉ことと〈語る〉ことの間で

今回使用したテクストはこちら!

論文:小森陽一 『構造としての語り』  作品:小説『坊ちゃん』

発表者担当は、坂口さんでした!

・小森陽一『構造としての語り』の内容

『構造としての語り』では、夏目漱石著作『坊ちゃん』の語りが構造的に分析されています。

本論文では、語りを分析することで、物語内の坊ちゃんが「自分/他者」「本音/建前」「表/裏」といった境界を知り、自己の価値基準・判断基準を確立したと分析できると結論づけられています。

では、具体的な論文の内容に入っていきましょう。

はじめに小森は、坊ちゃんの語りが常に他者を意識しているものであることを指摘します。

『坊ちゃん』の冒頭は、「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている」という一文から始まります。ここで注目したいのが、語り手(坊ちゃん)により、「無鉄砲」な性格という自身の自己規定がされているという部分です。なぜ坊ちゃんは、突然「無鉄砲」という自己規定を聞き手に対して、しかも冒頭で行ったのでしょうか?

この疑問に対して、小森は、〈常識ある他者〉が坊ちゃんによって意識され、語られているからだと述べます。

〈常識ある他者〉とは、他者の言葉は常にその表層とは異なる裏を持つ。場合によっては、裏にある真意や意図を隠蔽するために発せられることもあるとわきまえている他者のことを指します。

坊ちゃんは、2階から飛び降りたり、喧嘩したりするやんちゃ坊主でしたが、彼の行動は「無闇」で「無謀」な行動として人々の目にうつります。そこでは、「なんでそんな無闇なことをしたのか」問い詰めてくるであろう潜在的な聞き手が想定されています。

つまり、坊ちゃんは自分の行動に対して、理由を明示するために、予め冒頭で言い訳がましく、「無鉄砲」という自己定義をしたと考えられるのです。

では、語り手と聞き手という語りの構造は、『坊ちゃん』にどのような影響を及ぼしているのか?以下で、詳しく紹介していきます。

①読者の裏表という二重性

小森によると、読者は坊ちゃんにとって、〈常識ある他者〉と言えます。

読者は、坊ちゃんの非常識性を陰で笑いながら物語を楽しみます。坊ちゃんが2階から馬鹿正直に飛び降りたなどという無闇な行動をしているのを聞いて、なんて単細胞なんだ坊ちゃん(笑)という目線で物語を読み進めるのです。

一方では、「無鉄砲」な性格なせいで無闇な行動をとるんだという坊ちゃんの言い訳を受け入れたふりをする。しかし、一方では、坊ちゃんの非常識性を(彼に隠れて)あざ笑う。これが、読者であり、読者の裏表との二重性の現れだと小森は主張します。

②作中の登場人物と作外の読者という二重性

二重性は①だけではありません。小森は、〈常識ある他者〉は作品外の読者だけでなく、作品内の登場人物にもいると主張します。

作品内の〈常識ある他者〉とは、赤シャツや野だいこ、狸などです。彼らは、作品内で坊ちゃんの非常識性を笑い、馬鹿にする〈常識ある他者〉として描かれています。

その面で、読者は、赤シャツであり、野だいこであり、狸であると言えるでしょう。つまり、読者も作中の登場人物と同じ〈常識ある他者〉という点で、彼らと二重構造になっているのです。

しかし面白いことに、読者は自分たちのことを、赤シャツや野だいこ、狸と同じ〈常識ある他者〉だとは思っていません。むしろ、彼らの俗物ぶりを笑います。そのため、聞き手である〈常識ある他者〉が、物語に登場する〈常識ある他者〉を笑うと言う皮肉的な構造になっていると言えるでしょう。

以上、坊ちゃんの語りからみた、語り手と他者の関係性についての分析でした。次に、上記の語りの分析から、小森さんが坊ちゃんをどのように解釈したのか、3つのポイントに分けてお伝えしていきます。

・裏/表のある世界に放り込まれた坊ちゃん

・公/私に巻き込まれる坊ちゃん、私的価値基準獲得

・坊ちゃんが憧れたうらなり君

・裏/表のある世界に放り込まれた坊ちゃん

坊ちゃんは、四国の中学校に赴任することで、世間の裏表を知ることになります。

赴任前の坊ちゃんは、清という下女と過ごすことで、裏表のない世界で生きていたと小森は考えます。

清は、坊ちゃんにとって良き了解者であり、彼を肯定してくれる存在でした。そのため、赴任前の坊ちゃんは、裏表のない世界で生きることができていたのです。

しかし、四国の中学校に赴任し様々な事件を経た坊ちゃんは、嘘をつく方法や人を乗せる策を知らなければ世間では生きていけないことを知ります。ここで坊ちゃんは、世間の裏表を初めて知るのです。

つまり、清(裏表のない世界)↔四国の中学校(裏表のある世界)と解釈できます。

・公/私に巻き込まれる坊ちゃん、私的価値基準獲得

裏表のある世界では、公の言葉と私的行為が使い分けられます。例えば、赤シャツは公の場では、教育者としての立場を演じ発言します。しかし、プライベートではうらなり君の婚約者を奪い取るという、公の教育者という立場ではあるまじき行動をとります。

このような裏表を知った坊ちゃんは、次第に他者の言葉に対する無意識の信頼と実践という行動原理でを失い、他者の言葉を疑うことを覚えます。そして、今までの公私を使い分けない、裏表のない坊ちゃんは死んでしまい、裏表を知った坊ちゃんが誕生したのです。

坊ちゃんは他者と接し公私を知ったことで、自分の中に「人間は好き嫌で働くものだ。論法で動くものぢゃない。」という考えを抱きます。つまり、裏表のある世界を体験したことで初めて、「好き嫌」という自己の価値基準、行動基準を獲得したのです。

代償として、裏表なく他者を疑うことを知らない坊ちゃんは死んでしまったと言えるでしょう、、、

・坊ちゃんが憧れたうらなり君

しかし、そんな裏表のある世界に身を置きながら、巻き込まれなかった人間が一人います。それが、うらなり君です。

うらなり君は、婚約者を奪われても、九州まで左遷されても、最後まで沈黙を貫きました。沈黙することで、裏表のある世界に染まらない、正直で純粋な美質を最後まで保ったと言えます。そして、坊ちゃんはそんなうらなり君を、聖人だと考えるようになるのです。

以上をまとめると、坊ちゃんは、赴任し裏表のある世界に巻き込まれることで、「好き嫌」という自己の価値基準、行動基準を獲得したと言えます。

ここで思い出したいのは、坊ちゃんの語りでは、〈常識ある他者〉が意識されているということです。坊ちゃんは裏表を知り、他者の価値基準を自分の中に組み込んだことによって、〈常識ある他者〉を認識できるようになりました。

つまり、「坊ちゃん」が死んでいたからこそ、この語りがされている。『坊ちゃん』は、坊ちゃんが死んで初めて語られた小説なのです。


以上が、小森さんの分析による『坊ちゃん』の解釈です。ここからは、私たちゼミ生が、『構造としての語り』と『坊ちゃん』をどのように読んだのかについて軽く触れていきます。

最初に、小森さんの『構造としての語り』について、ゼミ生から出た意見(と少々の不満)記載していきます。

私個人としては、小森さんの分析、チョベリ納得~って感じだったのですが。ゼミ生のみんなと議論して、小森さんの論文には反論できる余地があるなと思いました!

まず、そもそも〈常識ある他者〉って何やねん

小森さんは、〈常識ある他者〉って言いますけど、〈常識ある他者〉って本当にいるんかいな!?って疑問がゼミ生からあがりました。いや、マジでそう。

そもそも、常識って時代によって変わりますよね。今は常識でも、昔は非常識だったことを例に挙げればきりがないです。

ってことは、『坊ちゃん』が描かれた時代の常識と現代の私たちの常識って違くない!?そしたら、現代の読者は〈常識ある他者〉って言えなくない!?

しかも、常識なんて目に見えないもの、現代人の間でもみんなが同じ共通認識できてるわけないじゃないですか。だったら、〈常識ある他者〉なんてどこにもいないだろーーーー!って。

つぎに、漱石の言葉を根拠づけにしちゃいかんやろ、、、という意見。

小森さんは本論文で、作者(漱石)の言葉を引用して根拠づけを行いました。

しかし、構造主義の観点から考えると、こりゃよろしくないかも。

そもそも、構造主義は、何でもかんでも作品と作者を紐づけて考えるのはやめようよーという立場のはず。だったら、作者の言葉を根拠づけにして良いものだろうか。過去の時代の一つの意見として引用するならいざ知らず。根拠薄くて不安だったのかな、小森さん(´;ω;`)なんて話もしました。

次に、『坊ちゃん』を私たちがどう解釈したかについて触れます。

今回は、2グループに分かれて『坊ちゃん』を構造分析しました。

1グループは、小森さんの論文に沿って、「自分/他者」「本音/建前」「表/裏」という境界について分析していました。秋美とのワークショップの題材である「コンビニ人間」における境界と絡めながら、2項対立で分析を行いました。

もう1グループは、プロップの31の機能に当てはめて分析してみました。

そこで『坊ちゃん』では、18.勝利の機能が抜けていることに気が付きました。家を出て、敵と遭遇し、お供と一緒にバトルして、帰還するという流れ自体は、プロップの時代の物語と変わりないのですが。

18.勝利の機能だけが抜けている。その意味で、坊ちゃんは、勝たなくてもいい主人公、近代の新しい人物像の表れなのかもしれないねという話をしました。

個人的には、坂口さんの「坊ちゃんは最後まで坊ちゃんだったよね」という発言が印象に残っています。坊ちゃんは、四国の赴任経験を経て確かに、昔の坊ちゃんではなくなった。それでも、坂口さんが最後まで坊ちゃんを坊ちゃんだと思えた理由はどこにあるのか、とても気になります。

以上で今回のブログは終わりですー。

最後に、第3回で白井君が飯テロしてたので、私も猫テロしておきます(うちの猫かわいいでしょ自慢もかねて)矢場とんおいしいよね。

↓ 写真撮られてご機嫌斜めなうちの猫です。猫には肖像権なんかなくてかわいそうですね

2024年度問題分析ゼミナール2次募集入室試験要項

本ゼミへの入室試験2次募集に応募を希望する学生は、情報コミュニケーション学部の事務室の指示に従い、以下の書類を提出してください。

1. レポート: 以下の内容について論じること。

1) 志望理由 2)ゼミで取り組みたいこと(対象・作品があれば,それも示すこと)。

書式:WordもしくはPDF、A4横書き、字数2,000字前後

2. エントリーシート: 以下のファイルをダウンロードし、必要事項を記入すること。

9期生第3回 「精神分析批評 他者の存在が必要。自己分析には限界があるらしい」

第3回

こんにちは、今回担当させていただく白井です!

10月5日に扱ったのは、山田広昭「テクストの無意識はどこにある」、谷崎潤一郎『夢の浮橋』で、レジュメ担当は室井さんでした。

様々な内容があったのですが、精神分析批評が成り立つ上で重要なのは「転移」でした。

なぜ重要なのか。簡単にいえば、転移しないと、無意識的欲望を分析できないからです。

カウンセラーや精神科医は患者を治療しますが、その際にこれまでの他無意識的欲望が再演されることがあります。そうした反復を診断することで、患者は無意識的欲望を把握することができるようになります。

つまり転移を発生させるためには、他者の存在が不可欠であり、転移を経験して初めて無意識を把握することができます。

精神分析批評の転回点

テクスト分析を行うためには、上記の転移を基に、読者もまた「テクスト」との間に転移関係を生む必要があるそうです。

批評家(カウンセラーや精神科)はテクスト(患者)を解釈します。その過程で、テクスト無意識が批評家に反復されます。つまり、批評家が解釈するとき、テクストは批評家に無意識的欲望を転移するため、互いに欲望を貸し合う状態だといえます。

そうして、「精神分析」ならぬ「テクスト分析」の実践が開始されます。

『夢の浮橋』の批評 山田広昭「テクストの無意識はどこにある」

『夢の浮橋』は谷崎潤一郎著の小説です。彼が73歳の時に書かれたものです。

今回の論文では、『夢の浮橋』は「転移された欲望、受け渡されたナルシズムの物語」と結論づけられています。

2つの謎

・誰が武(第二の母の子)の父親なのか

息子である「私」

・誰が母を殺したのか

おそらく「私」

作品のテーマ「分身」

・産みの母の分身としての第二の母の姿

・「私」の顔が父親と非常に似ている事実の反復

・武(弟)の顔が母に酷似している

キーワードは隠蔽欲望です。隠蔽欲望とは、主体にとってはるかに重要な意味を持つ記憶、抑圧された性的記憶や幻想を覆い隠したものです。

山本さんは、この用語をずらして、ある欲望が特別な鮮明さをもって現れることで、もう一つの別のより重要な欲望が露出してくることを隠蔽しているとみなしうる場合に、前者の欲望を「隠蔽欲望」と呼んでいます。

では『夢の浮橋』における隠蔽欲望とは何だったのでしょうか?

繰り返される母子相姦的欲望により覆い隠されている欲望。

それは「父の欲望」と呼ばれるべき、息子を自分の分身と設定することで現れるナルシズム色を帯びる欲望のことです。

息子に取り込まれるのはナルシズム的な欲望はそれ自体でした。

それゆえに、ある時点において欲望対象としての母は不要となり、むしろ阻害要因へと変化します。つまり、母を欲望するのは息子である私の欲望から発せられるのではなく、父のナルシズムによるものであるがゆえに、そのナルシズムがエスカレートすると、母の存在は不要になります。

ナルシズムは反復されています。そして、物語の終幕が「私」の独りよがりの理屈、すなわち、武が望んでもいないのに二人で暮らす選択を突き通して終わっています。

端折り端折って、このように『夢の浮橋』は「転移された欲望、受け渡されたナルシズムの物語」と結論付けられるわけですが、

ゼミ内で、この『夢の浮橋』がどのような小説なのかを結論づける必要がありました。

まず武という存在は母に顔が似ているため母のコピーだと考えられますが、私は離れ離れにされてしまった武を武の同意なしに引き戻します。次におそらく私は母を殺しています。

これらは父母>私の権力関係を逆転させる行動です。

なぜならば、主に父への抵抗が見て取れるからです。私は父親の思惑通りに母を欲望し、結果的に武をつくりますが、父親は私と武を遠ざけました。その武を連れ戻す行動は父への抵抗の表れです。さらに父のナルシズムに従うのであれば、母を殺すに至ることはないだろうと考えられます。

つまり『夢の浮橋』とは、私は武を引きずり戻すことで自らの帝国を築き上げることに成功し、父から転移されたナルシズムを私基準で高める物語なのではないか、と授業時間内にまとまりました。私基準というのは、もはや父のナルシズムのレベルではないということです。

しかし、「ぬるい!!」

ゼミ内でそんな声が聞こえてきました。解決したかのように思われた今回の議論も、もっと先にいけるのではないかと。たしかに、もっと先にいけたらよかったかもしれません。

ただ、ちょうど時間になってしまったので、今回はできませんでした。

別作品にはなってしまいますが、精神分析の回はまだ残っているので、作品への理解・解釈を深められたら良いなと思っています。

『夢の浮橋』は初めて読んだので良い体験でした。

正直、精神分析は理論として非常に興味深い一方で、作品批評に用いることは難しそうだなと感じてしまいました。それでも、夏目漱石『こころ』の精神分析の授業がまだ残っているので、その際にビビッとくるものがあれば、是非用いてみたいと思っています。

ここからは雑談です。

先日、名古屋までライブ目的で行ってきました。

何で行ったかというと、高速バスです。朝早くは嫌で、調べたところバスタ新宿を8時ごろに出発するバスがあったので、それに乗ることができました。

始めて使いましたが大学生の味方ですね、高速バスは。

乗るバスの種類にもよりますが、新幹線の半額かそれ以上に安いです。

8時ごろ出発して、少し道路が混んでいて14時前ごろに着いた気がします。

それで、何のライブに行ったかというと、水瀬いのりです。有名な声優さんなので、知っている方も多いかもしれません。

友人がファンクラブに入っていて、その友人が当ててくれた席はなんと6列目!爆音スピーカーが目の前にある状態で、振動と音量がヤバかったです。

それ以上にヤバかったのは、ステージ端の6列目だったので水瀬さんも近くまで来てくれました。目が合っていたのではないかと思います。楽しかったです。

大学生に入ってからライブに行く回数が確実に増えています。楽しいのは良いのですが、確実に耳が悪くなっています。(貯金もできないです)ライブ用の耳栓も売っているみたいなので、買ってみようかなとも思います。

それと矢場とんに行きました。矢場とんはみそカツで有名な飲食店です。

みそカツ食べたくてどこ行くか迷ったとき、矢場とんに行けば後悔しないのではないでしょうか。他の店を知らない白井ですが。

そのくらい美味しかったです。

飯テロしときます!

今回は以上です。ありがとうございました!

9期生第13回「なんのこっちゃの説明の中にも意思があるのです」

こんにちは、第13回のブログを担当します高山です。

夏休みこそはゆっくりする予定だったのですが、バイト先の塾は夏期講習だし、出るつもりのなかったサークルの本番に出演しなければならなくなってしまい、忙し人間から脱出できそうにありません。

というわけで時間がないので授業内容へ。

[前座]

前座では、これを機にそれぞれの呼び方を決めよう!ということで、それぞれ今までどんな呼び方をされてきたのか、どう読んでほしいか話していきました。

私自身は圧倒的に下の名前で呼ばれることが多く、どちらかと言えばその方がしっくりくるのですが、苗字で呼ばれる方がいいという人もいたり、だいぶ人それぞれだなぁと思いました。

その中でも白井くんが白井→白井健三の流れで派生して健二と呼ばれていたことがある話はめちゃくちゃ笑ってしまいました。実際の名前の要素が一つもないところが個人的にかなりツボだったのですが笑いすぎて後から申し訳ない気持ちになりました、すみません。(私に笑われると悲しくなるという人が一定数いるので)

では、本編に参りましょう。

[ポストコロニアル批評]

ポストコロニアル批評は、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』で提起された考え方が基盤となっています。

その考え方とは、西洋の帝国主義諸国が搾取と支配を正当化するために、第三世界に対しいかに誤ったイメージや定型化された神話をでっちあげてきたか という問題提起です。

ポストコロニアル批評の方法は大まかに二つ。

①植民地化された国や文化圏から生まれた文学作品を研究する方法

この方法では、「植民地主義による定型化への異議申し立てがどのようになされるか」「植民地主義の文化的影響からの脱皮がいかに図られているか」に注目します。

②帝国主義文化圏出身の作家が書いた作品において、植民地がいかに描かれているかを分析する方法

『フランケンシュタイン』の作者メアリは西洋出身のため、方法②を『フランケンシュタイン』に当てはめて考えてみます!

植民地支配をする人物をどう描いているか という観点で見ると、

植民地支配をする人物=クラヴァルと言えます。

これは、クラヴァルが少年の頃から「インドでの植民地建設と貿易の発展に貢献する」という「冒険的偉業への情熱」に駆られており、大学で東洋の語学・文学を研究していたことが理由として挙げられます。

つまり、クラヴァルが目指した「偉業」には植民地支配という帝国主義的侵犯要素が含まれていたのです。

しかし、クラヴァルはインドに出発する前に怪物によって殺されてしまいます。

⇒西洋が東洋を侵犯すると失敗する。

⇒『フランケンシュタイン』は東洋を支配しようとする西洋に対して警鐘を鳴らす作品

と読み解けます。

[新歴史主義]

新歴史主義が成立するまでには、以下の三つの考え方がありました。

歴史主義(20C前半):歴史は客観的であり、確固とした事実である とする考え方

ニュークリティシズム(1930~1950):作品と作家や時代背景とを切り離して、作品を独立した統一的有機体とみなす考え方

ニュークリティシズムへの反動(1970~):テクストの意味は読者とテクストとの相互作用だとする読者反応批評や、テクストとは内部矛盾をはらんだものだとするポスト構造主義など

⇒ニュークリティシズムへの反動では、歴史が文学と切り離されていましたが、再び文学研究に歴史を復活させたのが新歴史主義です。

新歴史主義では、

歴史=客観的事実ではなく、語り手が出来事に対し取捨選択を行い再編したもの

ととらえ、文学テクストと他の領域のテクスト(歴史資料など)の境界を取り払います。

世間一般で客観的とされている歴史を客観的でないと示すことで、歴史資料などと文学テクストが同じ土俵にいることを示すということですね。

ここで疑問として出たのが、間テクストと新歴史主義の違いは何か?というものです。

どちらも、他のテクストと関係がある という点では同じですが、

間テクスト:先行する文学テクストから影響を受けている

新歴史主義:同時代の異なる領域の考え方などが含まれている

という点に違いがあることが分かりました。

[ミシェル・フーコー『知への意思』]

かなり内容が難しく、書いているうちに何を言っているのかよくわからなくなりそうなので、フーコーが『知への意思』で何を明らかにしたかったのか先に述べておくと、「死の権力から生の権力がどのようにつくられていたか」ということです。

これを念頭においてこの先を読んでいただければと思います。

・性に関する歴史について

17世紀以降、人口を増やすことのできる夫婦の関係や、夫婦間の性的行為のみが正しいとされ、その他の性的欲望は抑圧されたと考える「抑圧の仮説」があります。

しかし、この時代以降、性に関する言説が増えていることから、フーコーはこれを否定し、

権力が性的欲望を抑圧したのではなく、性的欲望を言説化できる場所が限られたことによって沈黙が生じたのだと主張します。

・性の科学が打ち出される

フーコーはこの言説化する行為=「告白」という行為 としています。

性の言説は「告白」を通して科学的な知見と結びつけられ、真理を引き出すことができるとし、

「告白」と科学的な言説性の証明が交差する点で、「性的欲望」が存在すると定義されました。

→つまり、性が秩序だった知の体制のなかに登録された ということだと思います。

・性的欲望の装置が使われる

そして18世紀以降、権力は性的欲望を道具として使い、「性的欲望の産出」がなされました。

・死に対しての権利と生に対する権力

この権力ですが、君主制など古典主義以前の権力は、死に対しての権利(生殺与奪の権)でした。権力を裏付けていたのは「血」(血筋など)だったからです。

それが近代の権力になると、国民を資本主義国家の生産力の一員として緩やかに拘束・管理する「生-権力」へと変化しました。

それにより、「性的欲望の装置」が権力の中で大きな意味を持つようになったのです。

以上、第13回の内容でした。

私の説明が下手すぎて、これをお読みになっている方はなんのこっちゃという状態になっていることが想像できますが、私自身もなんのこっちゃという感じです。

ニュアンスまみれであいまいなこの文章が授業内容とあっていることを願いつつ、今回はここまでとさせていただきます。

では!

8期生第7回 語り「プロップ信者としては何としてでも新しい解釈を発見したかったなどと供述しており」

こんにちは、8期生の齋藤です。タイトルがバカ長くてほんとすみません。その代わりに(?)、前書きはあまりせずに内容紹介に入っていこうと思います!

まあぶっちゃけおもしろいネタが思いつかなかっただけです(正直)。

今回は、「語り」について学んでいきました。

ストーリーの語られ方は、無数の中から重要な出来事のみを抜き出して、最も意味深く面白くなる順序になるように並べることだそう。今回のゼミではそんな語りの方法・戦略を、名作映画『テルマ&ルイーズ』を批評テクストとして見ていきました。

○映画の語りの戦略

数々の映画では、観客を謎で引っ張り、情報を小出しにすることで謎への興味を持続させています。例えば今回のテクストである『テルマ&ルイーズ』では、ルイーズがつらい経験をしたという情報を小出しにすることで、「何があったの?」と謎で引っ張っていますね。

○ネガティブ→ポジティブの語り

『テルマ&ルイーズ』では……

・テルマが主体性を獲得した

・支配的な家庭にいたテルマが旅に出る

などがあります。

ただ、逆のポジティブ→ネガティブの語りもあります。

『テルマ&ルイーズ』では、バカンスしていたテルマが男に乱暴されそうになるシーンがその一つです。このシーンは序盤も序盤で、主人公二人の逃走劇の始まり。最初からハラハラさせられる展開ですが、この事件があるから『テルマ&ルイーズ』が動き出していくわけですね。

人生山あり谷ありといいますが、このように映画の中ではネガティブ→ポジティブ、ポジティブ→ネガティブの語りが効果的に使われています。

○プロップの31の機能

語りの方法には、このゼミではお馴染みになりつつある「プロップの31の機能」も紹介されています。31の機能をずらずらと並べるのは尺の都合で遠慮を……とも思いましたが、レポートを書くときに自分がコピペできるように記しておこうと思います。

1 家族の一人が家を留守にする (不在)

2 主人公にあることを禁じる (禁止)

3 禁が破られる (侵犯)

4 敵が探りをいれる (探りだし)

5 敵が犠牲者について知る (漏洩)

6 敵は犠牲者またはその持ち物を入手するために、 相手をだまそうとする (悪計)

7 犠牲者はだまされて、 相手に力を貸してしまう (幇助)

8 敵が家族のひとりに、 害や損失をもたらす (敵対行為)

9 不幸または不足が知られ、主人公は頼まれるか、命じられて、派遣される(仲介・連結の 契機)

10 探索者が反作用に合意もしくはこれに踏み切る(始まった反作用)

11 主人公は家を後にする (出発)

12 主人公は試練をうけ、 魔法の手段または助手を授けられる (寄与者の第一の機能)

13 主人公は将来の寄与者の行為に反応 (主人公の反応)

14 魔法の手段を主人公は手に入れる (調達)

15 主人公が探しているもののある場所に運ばれ、 つれて行かれる(二つの王国間の広が

りのある転置、 道案内)

16 主人公とその敵が直接に戦いに入る (戦い)

17 主人公が狙われる (照準)

18 敵が負ける (主人公の勝利)

19 初めの不幸または欠落がとりのぞかれる(不幸または欠落の除去)

20 主人公は帰還する (帰還)

21 主人公は迫害や追跡をうける (迫害、追跡)

22 主人公は追跡者から救われる (救い)

23 主人公は、気付かれずに家または他国に到着する (気付かれない到着)

24 偽の主人公が、 根拠のないみせかけをする (根拠のないみせかけ)

25 主人公に難題を課す (難題)

26 難題が解かれる (解決)

27 主人公が気付かれる (判別)

28 偽の主人公や敵、加害者が暴露される (暴露)

29 主人公に新たな姿が与えられる (姿の変更)

30 敵が罰される (罰)

31 主人公は結婚し、即位する (結婚もしくは即位のみ)

現代の映画の中でもこの31の機能を用いる作品もありますが、 一人の英雄の力や美徳を祝福する形をとらないものをもちろん存在します。 リアリティを出すために主人公に欠点が与えられ、時間による進歩もないような作品もまたある、とのことです。

○断片化された語り口

語りの戦略として、「断片化された語り口」についても学んでいきました。その特徴として、

・別々の人物の視点で語られる

・同じ人物でも別の時間軸で語られる

などが挙げられます。

このような語り口は、通常の物語性の中で一貫性に変化を加える効果があり、登場人物の行動は「時として自身の意図を超えてしまう」とのこと。

○『テルマ&ルイーズ』の批評

ゼミの後半ではいつもと同じく、今回取り上げたテクストである『テルマ&ルイーズ』の批評をしました。毎回、テクストを「この映画は○○という映画だ」と言えるようにするのが目標。

元々『テルマ&ルイーズ』は色々な解釈がされており、

①男性がしきる生権力に屈した(処刑)

②当時の社会の規範からの脱出

③シスターフット 女性同士の絆を作った

といった考え方があります。

これも踏まえ、8期生ゼミでも独自の答えを見つけようと取り組みました!

○『テルマ&ルイーズ』はプロップの31の機能に当てはまる?

今回「語り」でプロップの31の機能をさらったこともあり、本作をその31の機能に当てはめてみよう!ということになりました。そこで、以下の二通りで解釈することができるとわかります。

①結婚や権力、メキシコへたどり着くことを成功報酬とするなら×

②自由を成功報酬とするなら○

詳しくは以下の通りです。

①「メキシコにたどり着かなかった」ネガティブ解釈

 旅をする→敵対者(警察)と闘う(逃亡する)→逃げきれず崖から飛び降りたから二人が敗北→二人はメキシコ到着という報酬を獲得できなかった

②「自由を得た」ポジティブ解釈

 旅をする→敵対者(警察)と闘う(崖から飛び降りる)→警察は二人を逃がしてしまったので敗北→二人は自由・解放を獲得

ですが、ここで疑問が出てきます。なぜプロップの31の機能を当てはめるとき、二通りの解釈ができるんでしょうか?

その問いに対して8期生が出した考察が、以下の通りです。

プロップは「男性主人公が冒険して成功を収める」という、男性的な成功譚です。従来プロップの途中で終わる物語は成功していないと解釈されます。

しかし、本作はそこに「自由を獲得する」というプロップに沿ったもう一つの筋が織り込まれています。構造が二重化されているんです。

その二重化された構造によって、『テルマ&ルイーズ』は「男性的な成功譚」を壊すのと同時に、プロップの構造主義的な絶対性の瑕疵をあぶりだすことができています。

つまり、批評理論的に言うと……

『テルマ&ルイーズ』は、ポストモダン的構造主義の作品。

語りの「自身の意図を超えてしまう」という言葉は批評にさえ通用するということですね。

あくまでこの批評は一つの解釈にすぎませんが、「どんな作品なの?」という問いに語りの手法を絡め、綺麗に決着をつけられたと思います!

私はプロップ信者(?)なので、プロップの31の機能の新たな応用の仕方が見つけられて嬉しい限りです。笑

長くなったのでここらへんで。ご拝読ありがとうございました!

9期生第8回「白井はカーニヴァルへと赴いた」

こんにちは!

今回のブログを担当する白井です。今回の授業後、緑黄色社会のライブに行ってきました。

おかげで授業の記憶が気持ちよく塗り替えられてしまっています。

それでは早速

『シライの日常』という漫画があったとして、物語内のシライがブログを書いているとします。

そんなとき「明日のゼミの文章読み切れてないから、ブログ書かずに逃げちゃってもいいかな?みんなはどう思う?」と漫画の枠を超えて読者に向けて言っちゃったとします。

これがメタ発言。

そんな発言をしちゃったとしても、

「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ! -やります 僕が書きます!」とシライの心が叫んでいる。

これが間テクスト性。      

※この物語はフィクションです

これで第8回の半分を書き終えたようなものです。

自己紹介が苦手なので、挨拶はここらへんにして、お二人のレジュメを頼りにしっかり書き上げていきたいと思います。

前座

授業内容に入る前に前座!

前座はヤンさんでした。ヤンさんはミュージカルが好み。

そんなヤンさんが紹介してくれたのは『イン・ザ・ハイツ』です!

『イン・ザ・ハイツ』は移民をテーマとしたミュージカル映画だそうです。

どうやらミュージカル版『イン・ザ・ハイツ』があるようで、そこから今回紹介してくれた映画版『イン・ザ・ハイツ』が生まれたみたいです。単純に映像美的な面でも面白いそうですが、ストーリー的にも面白いそうです。

自分は見たことがないのですが、温かさとパワーで溢れる映画なのかなと前座を聞いていて思いました。休暇中に見てみたいと思います!

3限

「間テクスト性」

文学テクストとは、常に先行する文学テクストから何らかの影響を受けており、孤立しているものは存在しない→そのテクストと他の文学との間にある関係性=間テクスト性

ジュリア・クリステヴァによると、あらゆるテクストは他のテクストを吸収し変形したものとされます。そして、作品のなかで作者は、先行作品について言及したり、意識的、あるいは無意識のうちにそれについて仄めかしたりします。

『フランケンシュタイン』における関テクスト性を少し確認してみましょう。

作者メアリーに身近の作品の内容や人物像と物語の構成で共通点がみられます。

たとえば、『アラスター』(1816)・ピグマリオン伝説・ファウスト伝説は主人公フランケンシュタインの人物像の原型と考えられるようです。

また『ドン・キホーテ』(1615)は社会から離れることで生まれる悲劇的破局へと向かう点で共通しているようです。

間テクスト性は絵画など他の芸術作品にも現れます。つまり、先行するテクストは文学作品には留まりません。

例として絵画「夢魔」があげられているのですが、苦戦しました。エリザベスが殺害されたシーンを読めば、「夢魔」が浮かんでくるそうなのですが、「夢魔」との関わりが薄い私たちにとって理解しづらい部分。その意味で間テクスト性においてやはり読者が重要となるのだと実感しました。

読者が「夢魔」がどのような絵であるかを社会や思想的な位置づけのレベルで認識している必要があり、同時にそれを読み解かなければこの「夢魔」の間テクスト性を理解しきれません。

そう考えると、「夢魔」が間テクスト性を備えているのではなく、「夢魔」に対する認識にこそ間テクスト性があるのではないでしょうか。

「メタフィクション」

メタフィクションとは語り手が前面にきて読者に向かって、「語り」自体について口上を述べるような小説。もちろん小説にかぎらず創作物全般に当てはまります。

『フランケンシュタイン』におけるメタフィクションをみていきましょう!

と言いたいところですが、『フランケンシュタイン』は枠物語の形式をとっているものの、厳密にいえばメタフィクションではないです。

しかしメタフィクション的な要素はみられます。

まず「語りについての語り」です。フランケンシュタインの語りを包括しているウォルトンの語りにおいて、編集方式や語りに対する言及があります。手紙を書くウォルトンが、どんな状況で書いているのかをウォルトン自身が説明してくれているということです。

次に「真実と語りとの距離」です。読者が目にするフランケンシュタインの物語はフランケンシュタイン→ウォルトン→フランケンシュタインという順番でテクストに手を加えられたものです。つまりウォルトンによる編集版とフランケンシュタインによる修正版が存在し、真実にいくつものフィルターがかけられてしまっています。

このように真実と語りには距離があり、これらによって物語があくまでもフィクションであることを暗示しています。

ではメタフィクションとは?

メタフィクションはジュラ―ル・ジュネットの理論で言い換えるならば「転説法」です。

転説法とはメタフィクション!

転説法の説明通りにいえば、語り手(および聴き手)が位置づけられる世界と物語世界(水準)との関係を扱うものを語りの水準といいますが、その語りの水準の境界を侵犯して登場人物が語ることを指します。

劇場版名探偵コナン『迷宮の十字路』のOP説明には明らかな転説法が使われているらしく、服部と和葉が言い合っている中で

和葉「アホは あんたやん 誰に向かって しゃべってんの?」

それに対して服部「誰って お前… 見てるみんなに 分かりやすう しゃべってんやないかい」と発言します。

この流れの中で服部は誰に向けて話しているでしょうか?

正解は和葉!

だけではないです。

そうです、和葉だけではなくこの映画をみている観客に向けても話しています。

プリキュアの映画もかなりメタフィクションのようです。

劇場で応援ライト(ミラクルライト)を受け取るらしく、プリキュアがピンチに陥ると、「プリキュアに力を!」や「ミラクルライトで応援して!」とプリキュアが観客に呼びかけるようです。

このメタ発言を受け取った観客は、ライトを振りながら全力で応援するわけです。

楽しそうですよね。

しかしここで問題が発生。

なんと、ライトが貰えるのは中学生以下らしく、ライトを受け取れない大人たちは全力で心の中で応援するそうです。

ライトが無くても心でつながっているなんてカッコ良いっす!

それでも必要だと思う人は自前のライトを用意して臨むそうです。覚悟が違いますね。

この話は置いておいて、

メタフィクション全体に関わる問題があります。それは「メタフィクションが興醒めな効果を持ってしまわないか?」ということです。

メタフィクションは物語の世界を侵犯して、語りかけてくることがあるために、そのフィクションの捉え方が良い意味でも悪い意味でも変化します。

個人の解釈が伴う部分であり、一概には言えませんがプリキュアのようなタイプの作品であれば問題がないのではないかと思います。

プリキュアのような状況だったら、呼びかけに応じてフィクション世界の一人としてプリキュアを応援しているかたちになり、他人事ではなくなります。このとき、より一層プリキュアと観客の心は通じ合うのではないでしょうか。(もはやプリキュアの一員まである)

メタフィクションが受け入れられるかどうかは作品の雰囲気にもよるかもしれないです。

3限はここらへんにしておきます。

4限

4限はジュリア・クリステヴァ『セメイオチケ1』です。セメイオチケとはギリシア語で「記号論」という意味になるようです。

クリステヴァはバフチンを褒めまくります。

そして次にクリステヴァは「言葉のあり方」という概念を導入して、「相互テクスト性」という考え方を提唱します。

「言葉のあり方」とは、以下のように定義できます。

まず水平的にみれば、テクストにおける言葉は、書く主体とその受け手との両方に属しています。

次に垂直的にみれば、テクストにおける言葉は、それに先立つあるいは同時点の文字資料の全体へと向けられています。

テクスト上の言葉は、「共時的」に見れば作者と読者それぞれの解釈があり、「通時的」に見れば他の様々なテクストと相互に影響を及ぼしあっているということです。

「作者」と「読み手」の間で、「先行するテクスト」と「テクスト」の間で、それぞれ相互作用によってテクスト上の言葉は理解されていきます。そしてこの部分に「対話」が存在しています。

その相互作用では、相反する考え方や価値観がテクスト空間の中で共存し(どれも排除されない)、対立しながらも相互に影響を与えています。

これについて発表者の高橋さんがナイスな例をあげてくれています。

「人生はチョコレートの箱のようなもの。開けてみるまでは何が入っているかわからない」で有名な映画『フォレスト・ガンプ』の解釈です。

知能の低い少年の人生を温かく描いた、すべての人間を応援する優しい映画⇔反知性主義的で国を疑わない白人男性の主人公を描いた白人至上主義映画

というように

これらは相反する解釈なのですが、相反する考え方や価値観がテクスト空間の中で共存し、対立しながらも相互に影響を与えるからこそ、生まれる解釈でもあります。

「作者」と「読み手」の間

「先行するコンテクスト」と「テクスト」の間

この2つの軸がそれぞれで「対話」あるいは「対立するものの併存」が起きているのであれば、0から生み出されたテクストなんてものは存在せず、あらゆるテクストは何らかのテクストから影響を受けています。

「詩の言葉は、多面的な結合が可能であり、多面的に決定されていることによって、コード化された言説(ディスクール)の論理を凌駕する論理に従っている。」

その論理を研究するためにバフチンはカーニヴァルへと赴いた。

カーニヴァル?カーニヴァルとはなんでしょうか?

カーニヴァルの規範は「通常」の生の規範と対立します。カーニヴァルに投げ込まれたとき、それまでの通常世界の秩序に適合して「正しく」生きてきた人間は従うべき「正しさ」を失います。無秩序が秩序らしいです。

つまりカーニヴァル世界において、通常世界の構築された生の規範は通用せず、身分や宗教観、価値観など異なる人々と同じ空間で接触、すなわち、対話するということです。

文法や意味によって厳しく拘束された一義的な法則や「認識」といったものを凌駕するためにはダイアローグ的・多義的な論理が必要となるわけですが、バフチンは「対話」が絶えず行われる「カーニヴァル」を最適な場として考えたのではないか、ということでした。

カーニヴァル内では、文法と意味によって厳しく拘束された言語を支配する法則を破っています。それによって社会的、政治的異議申し立てなっているのではないかと考えられます。

このように多様な声がぶつかり合うカーニヴァルは、決まりきった言説を転覆させる場として最適だったのでしょう。

話が変わります。

「言葉のあり方」という概念を用いたことで、言葉が「対話を交わしている」あるいは「対立しながら併存している」要素の集合として三つの次元(主体—受け手―コンテクスト)において機能しています。

そうして言葉の特有の働きを記述するためには「言語学を超えた言語研究の方法」が必要となります。

その方法は以下の通り。

  • 文学のジャンルを、「言語の下にあるが、かならず言語とともに意味を表す」という不純な記号体系として捉えること
  • 言説の大きな単位、つまり文、応答、対話などによっておこなわれる操作・意味論の拡張という原理によって根拠が与えられる操作

ここから、文学のジャンルの進化はいずれも、言語構造をさまざまなレヴェルで無意識のうちに外在化することである」という仮説が立てられます。

文学ジャンルや表現の仕方は、時代や文化によって変化していきます。

ここでも高橋さんのナイスな例があげられています。

文体が変化したり、「ヤバい」「エモい」などの新しい言葉が使われるようになったりしますが、そうした言語構造の変化を、文学はとても「自然に」(無意識のうちに)取り入れています。

そして小説は、とくに言語に内在する対話を外に表わしています。

言葉に内在する対話(ダイアローグ)とは何なのか?

バフチンにとっては「対話」と「独話」の区分がフォルマリストたちの区分(直接話法が「独話」、間接話法が「対話」)のようなシンプルなものではないようです。

物語の中の独話的な一人称の独り言であったとしても、読者は作品全体や当時の社会全体の文脈のなかでその言葉を理解するので対話的。

一方で、物語の中の他者との対話的なコミュニケーションでも、その中の一人の視点・捉え方でのみ、そのコミュニケーションが描かれてしまったら独話的。

その意味でバフチンは完全な独話・対話は存在しないと訴えているようです。

バフチンによると対話関係が言語活動それ自体に内在しているようです。

言葉というものは一人の思考や表現から成立するものではなく、常に他者とのコミュニケーションによって成立します。その言葉を扱うのが言語活動であるために、対話が内在していると考えられるのでしょう。

バフチンの想定する対話関係は、主体性としてと同時にコミュニケーションの可能性としてのエクリチュール(書かれたもの)、すなわち、「間テクスト性」としてのエクリチュール(書かれたもの)です。

このような対立関係に突き合わせるとき、「個人=エクリチュールの主体」という考えは明確さを失いはじめ、もうひとつの考え、すなわち「エクリチュールにある対立するものの併存」という考えに場を譲り渡します。

本来エクリチュールというものは、単に書かれたものであり、主体=個人が使っているように思えるエクリチュールであっても、他者からの言語を使っています。

この考えに基づけば、

「作者」と「読み手」の間、「先行するコンテクスト」と「テクスト」の間という併存につながるのではないでしょうか。ここ自信ないです。

ここからは余談です。

白井はカーニヴァルへと赴いた。

カーニヴァル?カーニヴァルとはなんでしょうか?

ゼミの議論でもあがったのですが、社会学者のデュルケームが提唱した「集合的沸騰論」がカーニヴァルに似ているということでした。

集合的沸騰論は、緩んでしまったつながりを祭事によって改めてつなげ直すという考えです。お祭りにかぎらず、音楽ライブやスポーツ観戦なども集合的沸騰に当てはまります。

一方で、カーニヴァルは先述したように、通常規範から逸脱し無秩序世界の中での対話が行われる場です。

というわけなのですが

音楽ライブというカーニヴァルに投げ込まれた白井は、「正しさ」なんてものは失い、無秩序の中で対話していた気がします。

もうこれは、「白井はカーニヴァルへ赴いた。」と言ってしまっていいのでは?

これが言いたいだけのタイトルです。

タイトルを決めるのって難しいですよね?自分だけですかね……

作品とか商品とかってタイトルだけで大分印象変わっちゃうと思っています。

タイトルだけで引かれちゃうやつありますよね、惹かれちゃうやつもありますよね、特に知らない人からしたら。

カーニヴァルから帰還した白井は記憶が定かではありません。もちろんライブは素敵でした。

お二人のレジュメに助けられました。ありがとうございます。

第8回は以上です。ありがとうございました。