11期生 第6回 映画と小説が違うのは〈映像か活字か〉だけ?

突然ですが、皆さんは、映画と小説の違いはどこにあると考えますか?


映像であるか活字であるか ── それも違いのひとつだといえるでしょう。
では、違いはそれだけでしょうか?

今回はそんな【映画と小説の類似と相違】について、11期生の井上紬がお話させていただきます。

扱う理論は『映画の理論 – 幕間:映画と小説』(ジークフリート・クラカウアー著)です。

まず映画と小説の類似点について。
クラカウアーによれば、これは「劇的なプロットを作ることが求められている点と、始まりも終わりもない時系列順の時間の中で展開されている点」だといいます。

例を用いて解説すると、たとえば、主人公の死によって物語が閉じられる作品があるとします。
これは、【主人公が死ぬ】という事実までを「劇的」に描く「プロット」、 つまり淡々と登場人物の人生が描かれているのではなく、見た人あるいは読む人が引き込まれるように構成されているのです。

また、「始まりも終わりもない時系列順の時間の中で展開されている」とは、さきの例でいうと【主人公の死】が何もかもの終わりを意味するわけではない、ということです。主人公がいなくなろうとも世界は続いていき、周辺の登場人物の生も続いていく。しかしあくまでその物語は、【主人公の死】によって閉じられる。
結末の後に続くだろう展開が途中で切り詰められてしまった感覚に陥り、ある種もどかしく感じるのが、映画と小説の類似点だといえます。

一方で、映画と小説の相違点とは何か。

それは、映画は物質的連続体を表現するのに対して、小説は精神的連続体を表現する点です。

映画において表現されるのは、たとえば【主人公が走っている】というような、「物理的な出来事」の連続。

対する小説において表現されるのは、焦点化されている登場人物の「内面の出来事」の連続。
つまり、映画では再現できない領域まで広がった登場人物の思考の流れを表現することができるのが、小説の特徴なのです。

ここで、実際に今回授業の題材としても扱った、黒澤明監督『羅生門』を見てみましょう。

この映画の特徴は、芥川龍之介による小説『羅生門』に着想を得つつも、そのプロットに、同作家による『藪の中』のプロットを織り交ぜているところにあります。

小説『藪の中』には7人の登場人物が出てきて、とある出来事に対する証言を求められるのですが、7者7様で言っていることが異なります。

そのプロットは、登場人物たちの思考の流れを反映する、小説的な、いわば「非映画的」な翻案。

一方で小説『羅生門』は、ひとりの下人が、(生きるためには仕方ない)と女の死体から髪を引き抜いてかつらを作り売ろうとしている老婆を目にし、「ではおれが引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ」と言ってその老婆から着物を剥ぎ取り闇夜に消えていくさまを三人称・外的焦点化で描いた、小説でありながら「映画的」な翻案の作品です。

これを踏まえて私たちゼミ生は、「映画的」な翻案である『羅生門』の、(生きるためには自分に都合が良いように行動するのも仕方ない)という作品の核にたどりつくために、「非映画的」な翻案である『藪の中』の、登場人物がそれぞれ異なった証言をするというプロットを組み込んだのが、黒澤監督の映画『羅生門』なのだという結論を出しました。

映画『羅生門』は、ふたつの小説のプロットを織り交ぜるという一風変わった例でしたが、原作:小説の作品を映画するという行為自体は珍しくありませんよね。

映画と小説では、表現されるものが 物質的連続体と精神的連続体か で違っている。

この理論を習得することを通じて、あらためて小説を映画化する難しさを想像できるようになった気がします。

最近の作品ですと、朝井リョウさんの『生殖器』なんて、「非映画的」な翻案かもしれませんね。生殖器が己の思考を語っているようす …… 一歩間違えたら大変滑稽な絵面になりそうです(笑)

では、今回のブログはここまで。
ここまで読んでいただき、誠にありがとうございました!

11期生 第5回 視点についての話

みなさん、こんにちは今回もブログを担当します。土田です。

最近は暑いのか寒いのかもよく分からない気候が続いていて、何月なのかもあやふやなのですが、もう春学期も折り返し地点らしいです!びっくり

溜まっていくブログたちに追い抜かされないよう、今回も書いていきたいと思います。

今回は井上さんの発表で、『小説と映画の修辞学』より「「視点」についての新しい視点」を扱いました。

文学作品や映画における「視点」を考えるにあたって、分析者が何をする必要があるのかを考えました。

「視点」を考える際には、視座、フィルター、中心、利害・関心=焦点、の四要素に細分化されています。

視座:語り手の違憲の心理的・社会学的・イデオロギー的な諸問題を捉えることができる。さらに、物語言説と物語内容の境界において、精神活動の限界を捉えることができる。

フィルター:登場人物の意識(知覚、認知、感情、夢想)を媒介する機能を捉えることができる。また、どの領域に焦点を当てたいのか、ぼんやりさせたいのかを選択するニュアンスを表すことができる。

中心:中心的登場人物の意識に接近できるかできないかは限定せずに、ある登場人物が門とも重要であるという風にストーリーを提示することができる。

利害・関心:ある登場人物の視覚的視点からものを見なかったり考えていることを知らなかったりするが、その人物にも同一化するし、いかに影響を及ぼしたかというように解釈することができる。

視点の中でもこれらの細かく区別した観点があれば、より正確にテクストを捉えることができます。

また、視点に関して、誤った見方を促すような手法があります。

「信頼できない語り」はある出来事についての語り手の話が、テクストが暗示することと食い違って見えることです。一方で「誤りやすいフィルター作用」とは、ある登場人物が知覚したり考えたりしていることが、語り手が語ったり示したりしていることと食い違って見えることです。

このように、様々な視点から描かれる物語は、観客に対して様々な見え方を提示し、意図的・故意的に真実をわかりにくくさせるのです。

以上のことを学んだ後、是枝裕和監督の『怪物』を分析しました。

『怪物』は1つの出来事に対して、3人の異なる登場人物の視点で展開される構成になっています。そのため観客は、視点が変わるごとに新事実に気が付き、何が本当なのか、何が嘘なのか分からない状況に陥ります。

今回は、どの視点が真実なのかではなく、焦点を当てられていない人物について考えました。

焦点を当てられていない人物とは麦野湊の同級生、星川依里です。彼は、学校でいじめられていたり、家でも父親に暴力を振るわれていたりする中で、彼視点の場面はありません。よって、星川依里が自分の言葉で語る場面は非常に限られているのです。

そこで私たちは、湊と依里が秘密基地の中で行う「怪物だーれだ」のゲームに着目しました。この時、ナマケモノのヒントとして依里は「すごい技を持っています」と一つ目のヒントを与えます。2つ目のヒントで「敵に襲われると、体中の力を全部抜いて諦めます」と言って湊は「それは星川依里くんですか?」と聞きます。

ここで観客は、依里は攻撃を受けた時に、無になって諦めているんだ、ということに気が付きます。しかし、それは湊のフィルターを通した依里の姿に過ぎず、観客は湊の視点に誘導されていると言えます。

このような描写や、依里の本心が一切語られないことから、観客は依里が「被害者」であるというフィルターのもと、この作品を見てしまっているのです。

では、依里は被害者じゃないとしたら?この作品も違ったように見えることでしょう。

『怪物』は、ラストシーンの解釈について議論が盛んに行われていますが、この「視点」の観点から見ることで、また新しい見え方が広がるかもしれません。

視点、捻ったタイトルにできそうで何も思いつかず、、、

では、本日のブログはここまで!また次回~

第7回 12期生 異化で見える世界

こんにちは!第7回のブログは古田が担当します。


夏本番が来る前に服を買いたいのですが、今流行っている服が自分の骨格に全く似合わず途方に暮れています。メーカーの方はぜひ、どの骨格にも合う服を作っていただけると嬉しいです。

それでは、本題に入ります!

【前座】

今回、私は自身が好きなVtuberの中でも特に好きな「にじさんじ」というグループについてお話しさせていただきました。

「にじさんじ」は株式会社ANYCOLORが運営するVtuberグループのことです。グループというより事務所みたいなものだと思ってもらえるとわかりやすいです。
現在、にじさんじには約150名のVtuberが男女、国籍問わず所属しています。かなり数が多い上、どんどん新人ライバーが増えていくので今後の展開が予測できないグループです。

Vtuberの界隈では、にじさんじのように企業が運営するグループが存在することは珍しくありません。しかし、数あるVtuberのグループの中で、私がにじさんじに惹かれる点がいくつかあります。

一つ目は、男女和気あいあいとした雰囲気がグループ全体で形成されているという点です。他のグループでは、女性だけ、男性だけ所属しているといったところも存在します。対して、にじさんじは男女混合グループであるだけでなく、コラボ配信やイベント参加など男女関係なしに活動が活発に行われています。というかそもそも所属ライバーの個性が強く、性別云々を忘れさせるほどの楽しい活動を提供してくれています!

二つ目は、にじさんじを運営する会社がライバーに自由に活動させている点です。にじさんじは所属ライバーの数がとても多いものの、配信や企画、イベントがライバー主体で自由に行われています。利益よりもライバーの意思が尊重されるような環境が整っていることは見る側としてもすごく嬉しいです。

今回は主に上記の2点についてお話しさせていただきました。まだまだたくさんの魅力があるのですが、長くなってしまうのでここらへんで切りたいと思います。

【3限】第11章:反復、第12章:異化

さて、本題に入ります。本日は飯尾さんが発表担当でした。
前回に引き続き、まずは批評理論入門の分析を行いました。

第11章:反復では、タイトル通り「反復」…韻や語句、場面を繰り返す文学の修辞技法について述べられていました。

『フランケンシュタイン』では、場面だけでなく、言葉、イメジャリーがテクスト内で数多く反復されています。特に、「破壊・運命・魂・敵・創造・神秘」といったワードは群としてテクスト内で反復していました。

反復が行われることで、その場面やワードについて重要性が高められるだけでなく、他の効果をも読者に対して生み出します。その効果については第12章に書かれていました。

第12章:異化では異化、そして前景化について述べられていました。前景化は異化の一つであり、ある要素や属性を強調すること、異化は前景化などを通し、普段見慣れた事物からその日常性を剥ぎ取り新たな光を与えるという意味です。
前景化はイラストのレイヤーで捉えるのが分かりやすいと個人的に思います。物事は層になっていて、そのうちの一つの層だけが1番前に来ているというイメージです。

『フランケンシュタイン』では、怪物の視点から人間や人々の言葉や歴史といった文化について異化されるとともに、怪物自身についても異化されていました。

このように、異なる視点から物事を見つめることで元々知っていることをまた違うもののように捉える。これが異化なのです。

とすると先ほどの反復も異化だと言えます。反復されることで、言葉やイメージが強調され、その言葉やイメージが前景化される=異化されているのです。
異化は小説内だけでなく、映画、詩、アニメなどのテクストの他、日常生活にも起こります。旅行などはその一例です。

皆さんもぜひ普段の生活を異化してみてください。面白い発見があるかもしれません!

【4限】フォルマリズムー詩的言語論 手法としての芸術

3限に引き続き飯尾さんが担当でした。今回はヴィクトル・シクロフスキイによる「手法としての芸術」について分析しました。

今回の文献では、シクロフスキイは対立した立場に立つポテプニャーの意見を批判しながら議論を進めています。

「芸術(詩を含む)は、イメージによる思考である」という考えはポテプニャーをはじめとする多くの人に根付いた考えでした。しかし、シクロフスキイはこれを否定し、さらには詩の言語と散文、つまり思考を要するテクストと、簡潔に分かりやすく伝えることを目的としたテクストにおけるイメージの区別さえもポテプニャーがしていなかったことを指摘しました。

散文における実用的なイメージとは、「おい、そこのメガネ」というように対象の一部をとって抽象化しているものです。今回の例は換喩ですが、それだけには留まりません。対して、詩的イメージとは、「おい、そこの間抜け」というように印象を強めるために利用されている物のことを指します。
この二つは似通って見えますが、全く異なるものです。

散文においては、上記の実用的なイメージの他に創作エネルギー節約の法則が見受けられます。
創作エネルギー節約の法則とは、事物をできる限り容易に理解し、知覚するためのエネルギーの消費を最小限にすることを指します。

それは知覚においても適用されます。知覚においては、これを自動化と言います。

皆さんは、初めて自分のスマホを持った時の感覚を覚えていますか?私は、中学2年生の時に初めてスマホを買ってもらったのですが、周りと比べて持つのが遅かったのもあって感動はひとしおでした。LINEで友達とすぐに連絡が取れるし、写真や動画が撮れる、外でもネットで検索できる…などなど楽しくてしょうがありませんでした。
それに比べ、今はどうでしょうか。LINEよりも、setlogで友達と日常を共有する方が楽しいですし、写真が撮れるのは当たり前、ネット検索ができるのを喜ぶばかりか、通信制限に文句を言う日々…
これが自動化です。つまりは当たり前になり、様々なことを意識しなくなる状態を指します。

そんなことばかりでは、やがて事物、衣服、家具、家族、そして戦争の恐怖までも自動化してしまう。そうならないよう、感覚を取り戻すために自動化はあるとシクロフスキイは述べます。また、そのような感覚を読者に感じさせるために「異化」という手法が取られているとも述べます。

つまり、詩的言語、芸術と呼ばれるものは「異化」を筆頭とする手法を用いて読者に本来なら忘れていた感覚を取り戻させるために存在しているのです。

こう考えると、異化はすごく重要な考えですね。すでに慣れ親しんだものを別のもののように捉える感覚は忘れてはいけないと思います。

以上で今回のブログは終わりです。ここまで読んでいただき、ありがとうございました!

11期生 第4回 映像と音声の力関係

皆さん、こんにちは!今回もブログを担当します、土田です。

最近は本文に入る前の小話も特にないので、さっそく授業内容に移ります!

今回は、『映画の理論』より「台詞とサウンド」について学びました。

映画において、台詞やサウンドなどの音声情報は、映像の優位に立って情報を伝達したり、反対に映像の付属物として意味を持たないものとして扱われています。

今回の論文では、台詞が主導権を持った作品は、あらゆる情報を伝えるにあたって映像に頼る必要がなくなり、台詞に召喚されたイメージよりさらに映像の重要性が下落すると言われています。

また、写真的イメージと言語的イメージは互いに相殺されてしまうため、言語と映像の間で均衡を図ることはできないとも言われています。

そこで、映像の優位性を回復させるために、

➀音声の重要性を減らす

②音声を内部から弱体化させる

③音声の意味から音声の物質的性質へと強調点をずらす

以上の3つの方法が挙げられています。

また、ここからは音声と映像の関連について、いくつかの概念を提示します。

同期化と非同期化…サウンドと、本来の音源の映像の関わり

同期化:スクリーン上のサウンドと映像が現実の生でも同期している

非同期化:現実では同時に生じていないサウンドと映像が、スクリーン上では同時に起こったように処理されている

並列法と対位法…言葉と映像は何を伝えているのか

並列法:同期化の場合、話し手の言葉かショット、どちらかで既に必要なことを意味する

対位法:非同期化の場合、話し手の言葉とショットが異なるものを意味していて、共働作用によって現れる

●音声が優位で支配的な同期化が行われるとき、

・並列法では、映像は無意味な視覚的説明になり、何も注意して見ない観客のまなざしの前で揮発してしまいます。

・(見かけだけの)対位法では、同期された言葉に対して何かを付け加える意図があるように思われるため、発言内容に注目が集まり、映像が無視されます。

●音声が優位で非同期化が行われるとき、

・並列法では、実際のサウンドでは映像は単なる表象や記号となります。

・解説的なサウンド(ナレーション等)の場合も、映像の内容を反復する演説が観客の注意をそらしたり、重要な情報が解説者にゆだねられているため映像が補助的に甘んじられたりします。

●映像が優位で同期化が行われるとき、

・並列法では、言葉がなくとも話し手が伝えようとしている外観を理解することができます。

・対位法では、音声に集中することが求められずに目立たないため、映像に発言の機会が与えられます。

●映像が優位で非同期化が行われるとき、

・並列法では、音声による重複表現があっても映像から注意がそらされることはありません。

・対位法では、映像に強調点が置かれるショットから心理状態を表現することができたり、ストーリーを補完しつつ残した軌跡を垣間見せたりもすることができます。

このように、映像と音声は複数の関係性があり、映像と音声がある場面においてどのように対応しているかで、観客に与えられる情報や印象が異なります。

ここで、言葉による詩が重要なため映像の重要性が下落していると説明されていた映画『ハムレット』を分析しました。特に、ハムレットが岩にぼんやりと座りながら独白をするシーンについて考えました。

作中の中でも印象的なシーンですが、台詞の深刻さに対して映像の不明瞭さが印象的です。

これは、ハムレットの声を、ハムレットを演じるオリヴィエが聞いてそれを伝達するように台詞として言っているため、映像と比べて遅れて見えるのではないかと考えました。つまり、映像のハムレットがぼんやりとしているのは、魂としてのハムレットの言葉をオリヴィエの身体を通してハムレット役となった彼から言葉が発されているのではないか、ということです。

今回学んだ理論より、映像と音声を拮抗させようとした狙いは両立することができないため、『ハムレット』も音声が優位になり、映像は強いメッセージ性の台詞に負けた、ということになるのです。

『ハムレット』は台詞が主導権を握る作品のため、映像との均衡がとれずに、ぼんやりとした背景での独白のシーンが誕生した、ということが言えます。

台詞とサウンド、映像についての考え方は複雑で難しいですが、汎用性が高そうだなと思いました。

.

.

.

余談ですが、去年の春学期末レポートで扱った湊かなえの小説『未来』の映画を見にいってきました。 

今回の授業の直後だったので自然と言葉と映像の関係を意識してしまったのですが、カラオケを流すシーンで、登場人物のセリフを背景に、カラオケの映像に焦点を当てて構成されているような気がして、これが映像優位か、!と実感しました。他にも台詞優位だなと思うシーンや対位法だ!と気付く場面があり、新しい視点の獲得を実感できました。それはそうと、あのシーンは台詞も重要なような、、、、。

それでは今回のブログはこの辺りで終わりにしたいと思います。

また次回!

12期生 第6回 独立した複数の声

みなさん、こんにちは!今回のブログを担当する飯尾です。

最近は夏インターンのESの締め切りが近くなってきて、焦ってきております。しかし、私は怠けがちなので、大学に行かないと何もしないで時間をつぶしてしまい、自己嫌悪に陥るばかりです。この怠け癖をどうにかするいい方法はありますか(泣)

それでは早速ですが、授業の内容に入っていきたいと思います。

前座

今回は私の取り組んでいる武道である居合道について紹介しました。居合道は、林崎甚助重信公が日本刀の操法をもとに創始しました。居合道には流派が多く、競技では流派ごとに異なる型である古流と、全流派共通の12本の型の全剣連居合道制定から、5本の型をぬいて行います。何歳からでも始められる競技なので、小学生もいれば、80歳近い方もいらっしゃいます。

私の思う居合道の魅力は、単純ですが金属の模擬刀を振ることができる点です。竹刀ではない金属です。二次元の世界だけの話かと思っていたのが、実現できてしまうのです。はじめはなかなか思うように体が動かず、どうしたら上手くなるのかもわからなくて苦しい思いもありましたが、今は筋肉がついてきて刀を軽く感じるようになり以前よりも居合が楽しくなってきました。

3限

古田さんの発表でした。

廣野由美子著『批評理論入門 フランケンシュタイン解剖講義』

10 声

第10章ではポリフォニーについて取り上げられています。ポリフォニーとは、多様な考えを示す複数の意識や声が、それぞれの独自性を保ったまま互いに衝突する状態のことです。『フランケンシュタイン』では主に、手紙を通してポリフォニーが用いられています。例えば、ウィリアムが殺されたことを伝える父からフランケンシュタインへの手紙では、父はその死を悲しんでいますが、その手紙を読んだフランケンシュタインは親族が殺されたことよりも殺人事件が起こったことに対する衝撃が表れていました。ウィリアムの死という一つの出来事に対しても、死を悲しむ父と殺人に驚くフランケンシュタインというすれ違いが発生し、これこそがポリフォニーであります。

11 イメジャリー

第11章ではイメジャリーについて取り上げられていました。イメジャリーとは、メタファー、象徴、アレゴリーといった、ある要素によって想像力が刺激され、視覚的映像などが喚起される場合に、そのイメージを喚起する作用のことです。『フランケンシュタイン』では、水や月がイメジャリーとして使われています。例えば、水は死や忘却、浄化の象徴であり、メタファーです。月は、怪物とフランケンシュタインの対面や狂気の象徴です。

ここでイメジャリーには、メタファー(隠喩)、象徴(シンボル)、アレゴリー(寓意)以外にも、メトニミー(換喩)、シネクドキ(提喩)があることを学びました。それぞれ例をあげながら整理したいと思います。

◎イメジャリー

〇比喩                                                                                         メタファー(隠喩):白雪姫 姫の白雪のように美しくはかない点を表す。                                                       シネクドキ(提喩):霞が関(中央官庁街の代名詞) 具体で抽象を、抽象で具体を例える。                                                                                                                    メトニミー(換喩):赤ずきん 一つの特徴で全体を表す。                                 

〇アレゴリー(寓意):ことわざ 二つの意味世界がある。

〇シンボル(象徴):鳩 平和の象徴とされる。関係性がみられないものでも、社会的ななかで生まれること

4限 ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』                                                      第1章ドストエフスキーのポリフォニー小説および従来の批評におけるその解釈

引き続き古田さんの発表でした。

ドストエフスキーのテクストは従来、「主人公は独自のイデオロギー概念の創始者で、ドストエフスキーの声は登場人物たちの声を総合したもの、またはかき消されるもの」と評価されてきた。

しかしバフチンは、「登場人物の言葉は作者の言葉と同等の自立した価値をもっており、因果関係は第二義的な役割にすぎない」と評価した。

以上が第6回の授業内容です。例を用いながらイメジャリーについての理解を深められました。日本ではメタファーをさらに直喩と隠喩に分類している点が面白いなと思いました。

飯尾

12期生 第5回 アイロニーと昔話の機能について

皆さん、こんにちは。第5回のブログを担当する古田です。

近頃一気に暑くなってきました。私は暑さにも寒さにも弱い人間なので、今からもっと暑くなると思うと大変恐ろしいです…。体調に気をつけて今年の夏も乗り切りたいと思います!

【前座】

今回は私が、「書道」についてお話しさせていただきました。

私は小学2年生から習字を習っていて、高校の時も書道部に所属しており、書道には馴染み深い人生を送ってきました。
そのため、書道の中でも私が今までやってきた”臨書”の分野についてお話ししました。

臨書は古典をお手本として書写することを指します。特に中国の古典を書写することが多いです。
字体によってお手本とする古典作品は変わってきまして、基本的な楷書である「九成宮醴泉銘」や行書の「蘭亭序」と有名どころを紹介しました。しかし、同じ楷書や行書の古典作品でも作品によって文字に特徴があります。お手本に選ぶ古典作品でも、人となりが出るのが臨書の面白いところです!

また、私が高校3年間で特に臨書していた草書の「十七帖」を紹介した際に、使っていた筆も紹介させていただきました。筆の素材にも色々あり、馬や羊の他に孔雀の毛を使ったものもあります。素材によって柔らかさや書きごごちが全く異なるので、書く字体によって筆や墨の濃さを変えて書写していきます。

ただ写すだけのような書写ですが、全く同じに書くのは大変難しく、練習が必要不可欠です。ですが、だんだんと書く字に自分らしさが出てきたり、線やバランスが美しく書けるようになったり、面白い部分がたくさんあります。

自分と向き合える良い時間にもなるので、ぜひ機会があれば臨書にチャレンジしてみて欲しいです!

【3限】第7章:性格描写  第8章:アイロニー

今回は飯尾さんが3限、4限と共に発表を行ってくださいました!

前回に引き続き、「批評理論入門『フランケンシュタイン』解剖講義」(廣野由美子 著)の分析を行いました。

まず、第7章では登場人物の性格描写について述べられていました。
小説は登場人物を造形する場であり、造形には性格描写が不可欠となります。

E.M.フォースターは人物描写の観点から登場人物を「平板な人物」と「立体的な人物」に分類しています。
「平板な人物」とはいつも一様の描き方しかされておらず、いかなる場面も同様である人物、「立体的な人物」は描かれている面とは異なる、描かれていない部分や見えない部分を感じる人物のことです。

上記のように様々ある人物の性格描写は、イギリスの小説家たちに重視されてきました。
もちろん『フランケンシュタイン』もその一つです。

『フランケンシュタイン』では主人公を筆頭に人物たちの性格が描かれると共に、その人生が彼らの性格によって運命づけられていることを示唆しています。

第8章ではアイロニーについて述べられていました。
アイロニーとは見かけと現実の相違が認識されること、そこから生じる皮肉のことです。

本書では「言葉のアイロニー」、「状況のアイロニー」、「劇的アイロニー」が挙げられていました。

「言葉のアイロニー」は表面上述べられていることとは異なる意味を読み取らせようとする技法です。
『フランケンシュタイン』では名前を持たない怪物に対して、老人が「あなたは誰なのですか」と呼びかけた言葉が言葉のアイロニーとして現れています。

「状況のアイロニー」は意図されたり予想されたりすることと実際に起きていることの間に相違がある場合を指します。
『フランケンシュタイン』では、ウォルトンが姉に送った手紙において状況のアイロニーが現れていました。

「劇的アイロニー」はある状況に関する事実と、その状況についての登場人物との認識が一致していないことに観客が気づいた際に生じるアイロニーのことを指します。
『フランケンシュタイン』では婚礼の日において怪物の言葉に対してのフランケンシュタインの受け取り方にアイロニーが現れていました。

ここで、アンジャッシュのすれ違いのネタを見ながら「状況のアイロニー」と「劇的アイロニー」の違いについて考えました。アンジャッシュのネタでは、2人が同じことを話していると考えながら全く違うことを話しています。
このすれ違いを私たち(読者)が認識しているので、これは「劇的アイロニー」と言えます。

しかし、読者がいない状態では「状況のアイロニー」、「劇的アイロニー」の区別はどうつけたら良いのでしょうか。これは、そのすれ違いの状況に時間差があるかないかで説明できるのではないかという結論に至りました。
状況のアイロニーであるウォルトンの手紙は、1枚目の手紙と2枚目の手紙に時間差があるのに対し、アンジャッシュのすれ違いネタはすれ違いに時間差はほぼなく連続的に続いていきます。
この違いによって「状況のアイロニー」と「劇的アイロニー」について腹落ちすることができました!

【4限】昔話の形態学

この時間では、ウラジーミル・プロップによる昔話の形態学の分析を行いました。

この理論は魔法昔話から不変の要素であり、根本的な構成要素である「機能」を抽出し列挙したものです。魔法昔話には31もの機能があります。

今回はその機能を見ていく中で、理解が曖昧な機能を『鬼滅の刃』を参考に理解を深めていきました。

特に『鬼滅の刃』が参考になったのは、17つ目の標づけの機能ですね。この機能は闘いを経て体に何か(傷やハンカチ)が残ることなのですが、これは主人公が主人公たる理由づけの役割を果たします。これを私は炭治郎が発現させる痣が当てはまるのでは?と考えたのですが、これは他の登場人物にも当てはまり、主人公特有とは言えません。

飯尾さんとも話し合い、炭治郎だけが使える「ヒノカミ神楽」がこれに当てはまるのではと考えました。これは技ですが、闘いの中で得られる技でもあるため、標づけとして成立すると結論づけました。

『鬼滅の刃』は社会現象にもなった作品ですが、昔話の形態学を理解するのにもすごく役立つ作品だと改めて感じました!

以上で今回のブログを終わります!


11期生 第3回 パルプ・ブログ

皆さんこんにちは、今回のブログを担当します、土田です。

今回は『フィルムスタディーズ』より、「映画の構造」について学びました。

映画には様々な要素がありますが、その中でも今回は「物語」と「語り口」について、どのように構成されているのかを学びました。

まず前提として、映画には様々な出来事が原因—結果の論理に基づいて関連しあいながら構成されており、これは登場人物によって動機付けられている、と説明されています。つまり、映画には必ず動機付けるシーンが挿入されており、動機がなければその出来事は意味のないものとなるのです。

また、物語は、冒頭・中間部・結末の3つの段階に構造化することができ、この段階を均衡状態・ある出来事によるこの均衡の崩壊・均衡を回復するのに成功する試みの3段階に分けられます。それぞれの段階に移行する際には必ずターニングポイントが存在すると言います。何かが発端となり均衡が崩れると、それらを取り戻そうという試みに突き動かされて均衡が再び達成するという流れが生まれるのです。

続いて語り口についてです。

映画には、特定の登場人物一人が経験する物語の部分だけを観客が受け取る「制限された語り口」

複数の登場人物を自由にカメラが映すため登場人物の誰よりも多くの情報を得ることができる「全知の語り口」の2種類があります。

この2種類の語り口を効果的に用いることで、観客が知り得る情報を制限して、観客が知らないことを予測させたり、観客は既に知っているが登場人物が知らないことに対して、どのような反応を取るかを期待させたりする役割があります。

ここまで学んだところで、映画『パルプ・フィクション』の分析をしました。

『パルプフィクション』は1994年公開のクエンティン・タランティーノ監督による犯罪オムニバス映画で、時系列がシャッフルされた斬新な構成が特徴的な映画です。

今回の論文では、『パルプ・フィクション』の物語の時系列について取り上げられていました。本作品に描かれている出来事が起こった順、時系列順に並べた時に1,2a,2b,3,4a,4b,5,6と番号を付けた時に、実際に描かれる順番は4a,2a,5,1,6,2b,3,4bの順番で示されると指摘しています。

実際の映画の順番を考えると、観客がラストシーンとして見るシーンは全く物語の中盤であり、実際の時系列で最後のシーンは、観客からすると明確に最後と認識することなく流れてしまうのです。

この時系列の組み換えはなぜ起こっているのか、ということを考えました。

そして今回は、因果律に基づいた一般的な物語では、直接関係のない微細な要素が取りこぼされてしまうことに抗うため、と結論付けました。

つまり、何らかの出来事にはその起因になった動機があるという一般的なルールの中で、無視されてしまう動機以外の事象を生かそうとしているのではないか、と考えました。

我々視聴者は、提示されたものに従順ではないかと思います。そのため、この『パルプ・フィクション』を見たら、綺麗に事態が収拾した場面でエンドロールを迎えるため、何となく、色々あったけどよかったね、くらいの感想を抱くかもしれません。しかし、実際の時系列に直すと、そう呑気にはいられません。

そういったところで、見たようにしか受け取ることのできない視聴者に対して皮肉めいた構成になっているのではないかとも思いました。

一方で、タイトルの『パルプ・フィクション』は、粗悪な紙に印刷された三文小説、つまり安価で大衆向けの娯楽小説という意味を持ちます。

バラバラな時系列に、何か大きな意味を見出そうとすること自体もそもそも意味のないことかもしれません。

授業冒頭で、動機のない出来事は意味のないものであると学んだことで、動機と出来事の場面をバラバラにして分からなくしている、という結論になったので、とても興味深い分析が出来たと思います。

個人的には、動機のないことなんてたくさんあるのにな、と思っています。でもこのゼミではしっかりと言いたいことに対して根拠をもって論証をしなければいけないので、そこは訓練!頑張ります。

それでは今回のブログはここまで!また次回お会いしましょう。

12期生 第4回 物語はどのような順序と速度で語られるのか

皆様、こんにちは!

第4回のブログを担当する飯尾です。GWがあけ、いかがお過ごしですか?私はいまだ新学期に慣れず、余裕のない生活を過ごしています。

手短ですが、早速授業の内容にうつります!

前座

今回私は、『暁のヨナ』について紹介しました。花とゆめ連載の草凪みずほ先生による漫画作品で、アニメ化や舞台化もされています。『暁のヨナ』は、城を追われた王女ヨナの成長と冒険を描くファンタジー作品です。

高華国の王女ヨナは、幼なじみのハクや想いを寄せる従兄スウォンと平和に暮らしていました。しかし、スウォンの反乱によって父王を殺され、ヨナはハクとともに城から逃げ出します。

旅を通して国の現実や人々の苦しみを知ったヨナは、弱かった自分を変えようと決意。伝説の“四龍”の戦士たちを仲間にしながら成長し、自らの力で人々を守ろうとしていきます。旅の途中で仲間を増やしながら、ヨナは弓術や精神力を身につけ、ただ守られるだけの姫から、民を導く存在へと成長していきます。

守られるだけだったヨナが成長し、今度は仲間を守ろうと強くあろうとする姿がとてもかっこいいです。
また、ヨナと従者ハクの恋愛模様も見どころで、鈍感なヨナと片思いをこじらせたハクのやり取りは、もどかしくも切なく、思わず引き込まれます。

3限

古田さんの発表でした。

廣野由美子著『批評理論入門 フランケンシュタイン解剖講義』

5提示と叙述

第5章では提示と叙述について取り上げられています。提示とは語り手が介入したりせずに黙ってあるがままを示す方法、叙述とは語り手が物語の出来事やと往生人物の心理描写を読者に解説する方法です。『フランケンシュタイン』では、提示と叙述がうまく使い分けられており、特に読者からの共感が軽減する恐れのある場面や繰り返しとなる出来事の話などは叙述で語られています。

また三人称の物語は、一見あるがままを示す提示のように見えますが、極めて存在はわかりにくいものの誰かが語っていることに変わりはないため、叙述にあたることに注意が必要です。

6時間

第6章では時間の順序と速度について取り上げられています。

ストーリーにおける出来事の順序と、プロットにおける出来事の順序が一致しない場合を「アナクロニー」といいます。アナクロニーには、出来事を語る最中に過去の出来事に移行する「後説法」、まだ生じていない出来事を先取りして語る「先説法」、既に進行している物語の途中から語り始める「イン・メディア・レース」があります。

速度の形式は四つに分類できます。物語が中断され、光景や情報が描写される「休止法」、物語の内容の時間と文においての時間の速度が等しい「情景法」、何年、何か月と空いた期間を要約して数段落、数ページで描写する「要約法」、ある期間を省略し、一気に飛び越える「省略法」に分類されます。

先説法の理解に特に苦労しました。先説法は、「雨が降りしきる夜だった」のような情景法で先の未来を暗示することではなく、「まもなく」などの直接的な言葉で未来を言い表す文のことを言います。現在にいる語り手が後説法で語る際に、すでに知っていることを過去の語り手本人に語らせていると解釈しました。

4限 ジェラール・ジュネット『物語のディスクール』Ⅱ持続

引き続き古田さんの発表でした。

今回のテクストでも時間の操作について語られています。省略法のより深い形式についても述べられており、省略法には省略された時間を明記する「明示的省略法」、テクストにおいて存在そのものが明示的でない「暗示的省略法」、その存在の位置、省略された期間がともに定めることができない「仮説的な省略法」があります。

また本テクストで取り上げられているプルーストの『失われた時を求めて』はかなり特殊な語りであるようです。事細かに情景が描写されているため、一見休止法で語られているようですが、語り手は決して止まらずに語っているということで、『失われた時を求めて』は非常に細かい情景法であると言えます。

以上が第4回の授業内容です。授業の中で真に理解することが多く、一人で読む段階でもより理解を深めていけるようになりたいと思いました。今後難解な文章を時間をかけてきちんと読み砕いて準備したいと思います。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

飯尾

12期生 第3回 物語はどう語られているのか

皆様、初めまして。
12期生第3回目の授業のブログを担当いたします、古田真夕と申します!


私のブログも飯尾さんや先輩にならって、簡単な自己紹介から始めさせてください。

私は小説やサブカルチャーが好きで、文章を読んだり、書いたりすることも好きなので内藤先生のゼミに入りました。また、文学だけでなく、心理学やジェンダー学にも興味があります。

小説だと特にはやみねかおる先生の作品が好きです!また、Vtuberの配信が好きで日々”推し活”に精を出しています。

これからどうぞよろしくお願いいたします!以上で自己紹介を切り上げ、授業内容についてお話していきます。

【前座】

本日の授業は残念ながら、飯尾さんがお休みだったため、私は先生に「Vtuber」について僭越ながらお話しさせていただきました。

VtuberはバーチャルYouTuberの略称です。主にゲーム配信や雑談配信を行い、リスナー(視聴者)との距離が近いのが魅力です。

しかし、Vtuberの中には小説、音楽などの創作活動や、モーションキャプチャーやAR技術などの最新技術を用いたライブ演出を行う方もいます。
アバターを用いた配信活動だけでは収まらない、日々進化し続けるVtuberたちの活動には目が離せません。

皆さんもぜひVtuberが作り出す世界をのぞいてみてください。

【3限】第3章:語り手  第4章:焦点化

前回に引き続き、「批評理論入門『フランケンシュタイン』解剖講義」(廣野由美子 著)の分析を行いました。

第3章:語り手では、小説の内容を読者に向けて示す役割を果たす「語り手」について取り上げられています。

語り手は主に三つに分けられます。
一つ目は、物語内の登場人物が一人称の視点で語る場合は物語世界内的語り手
二つ目は、登場人物ではない存在が物語の内容、人物の心理を知り尽くした状態で語る場合は物語世界外的語り手
そして、稀ですが、三つ目として二人称の語り手が存在します。

「フランケンシュタイン」では一つ目の物語世界内的語り手によって語られ、語る登場人物は入れ替わっていきます。

しかし、その語り手というのは本当に信頼できるのでしょうか?語り手となる主人公フランケンシュタインは、個性的な性格によって偏った語りになっているところが見受けられます。他の語り手たちも同様です。
語り手になっているからといって読者は完全に信頼することはできないようです…。

また、「フランケンシュタイン」ではウォルトンの手紙>ウォルトンの手記>怪物の談話というように入れ子構造になっている点が挙げられていました。

皆さんは入れ子構造の作品と聞くと、何を思い浮かべますか?私は授業内で「進撃の巨人」を例に挙げました。ネタバレになるので何も言えませんが、すごく緻密に構成された素敵な作品なのでぜひご覧ください!

第4章では「フランケンシュタイン」の焦点化について取り上げられていました。

物語をどう「見る」のかを示す焦点化は、まず焦点人物の位置によって外的焦点化内的焦点化に分けられます。
さらに内的焦点化は焦点人物が変わるか否か、同じ出来事を語るかどうかで固定内的焦点化不定内的焦点化多元内的焦点化に分けられます。

「フランケンシュタイン」では、不定内的焦点化及び多元内的焦点化が部分的に用いられ、物語が展開していきます。

【4限】ジェラール・ジュネットの物語論

本来は、ジェラール・ジュネット「物語のディスクール」の焦点化についての分析だったのですが、私が読む課題文を間違えてしまい…この時間では物語論全体について、より理解を深めました。

特に興味深かったのは、やはり焦点化についてです。現在の小説では、一人称視点、三人称視点から描かれる作品がほとんどです。しかし、物語が人によって語られて伝わっていた時代、その当時の物語では、一人称視点となる物語の登場人物でもなく、自我のない物語の全てを知る三人称視点でもなく、また別の「語り手」が存在していたのです。

先生は「源氏物語」を例に解説を行ってくださいました。
「源氏物語」の語り手は、物語の登場人物ではないので、三人称視点のように思われるのですが、主人公である光源氏の描写は全て尊敬語で語っています。つまり、光源氏より低い身分である語り手なのだということが物語言説から読み取れてしまうのです。現代の、物語内容のどこにも位置しない三人称の語り手とは異なる存在、そんな語り手が平安時代には存在していたのです。

ジュネットの物語論は緻密ですが、古代から現代までのさまざまな作品を例に挙げて考えると、「これはどうなんだ?」と判断が難しい場面が数多く出てきてしまいます。

私は結構そういった話し合いや、例に当てはまるか考えてさらに考えを深めることが好きなので嬉しいのですが、どうしても時間が足りないのが残念です…

以上が今回の授業内容です。

拙い文章で読みにくかったかも知れません。これからのブログ更新で成長していけたらと思っていますので、よろしくお願いいたします!

11期生 第2回 同じ画面に映されているのは何だ!

みなさんこんにちは

久しぶりにブログを書きます!担当の土田です。

気が付いたらもう4年生になっていて、5月も中盤に差し掛かっていて、時の流れの速さに驚いています。

2コマ分あったゼミの時間も1コマになったため、ここでも時間の流れる速さを感じています。また、今年度からは映画の作品分析に入ったため、昨年度とはまた違った視点を養うことができそうで楽しみです。

しっかりと有意義なものにするぞ、ということで忘れないうちにブログを書くことを目標に、頑張りたいと思います。

「カメラワーク」

今回の担当は井上さんで、『Film Analysis』から、カメラワークについて学びました。

まず、映画においてカメラワークとは、対象物との距離によって変化するショット、アングル、カメラの動き方、レンズの焦点距離の組み合わせによって発生するものです。

例えば、表情や細部を強調するために被写体を画面いっぱいに映し出す「クローズアップショット」では親密性を、クローズアップショットよりも引いた胴体も映す「ミディアムショット」では人間関係を強調する意味を持ちます。そして、さらに被写体とその周囲の環境を広く捉えた「ロングショット」は、非人格性や客観性と相性がよく、周囲の環境と人間の環境に注目させる意味を持ちます。

他にも、アングルにおいて、上から映すハイアングルは支配的な印象を、下から映すローアングルは優越感や権威などを意味します。

また、カメラの動かし方にも手法別の効果があり、カメラを水平に左右に振って被写体を追う「パンショット」は、関係の意味付けのために用いられ、人間関係の樹立や社会集団の説明に意味を持ちます。

パンショットはカメラは固定されていますが、カメラ事態を動かすショットとしては、被写体に沿ってスムーズに移動させる「トラッキングショット」や、カメラを台車に載せて被写体に対して平行移動させながら撮る「ドリーショット」という手法が挙げられています。

特にドリーショットは、この後分析する映画『シャイニング』にも用いられており、ダニー(息子)がホテルの廊下を進む場面では、人間の生命の「循環」や「繰り返し」を表していて、これは映画全体のテーマでもあるようです。

最後にレンズについても説明します。

観念を伝える道具としても用いられるレンズでは、焦点を調整することで観客の目線を誘導できます。

また、ズームインすることである人や物に焦点を絞り、ズームアウトすることで事物から焦点物を遠ざけて、周囲の空間との対比の中で消してゆく効果があるのです。

以上が今回の論文の内容になります。

これを踏まえて後半は、映画『シャイニング』の分析を行いました。

私たちは特に、ジャック(ホテルの管理人・夫)とウェンディ(妻)が、大広間の階段とお風呂場で対峙するシーンについて考えました。

分析に入る前に、この物語の前提を振り返りました。ジャックらが滞在することになったホテルは、本来ネイティブアメリカンたちの土地で、彼らを追い出して建てたのが、オーバールックホテルなのです。

それらを示唆するように、ロビーにはネイティブ柄のラグが大きく広げられていました。

よってこの映画の背景にはネイティブアメリカン対白人の二項対立が存在していると考えられます。その視点で考えると、ネイティブアメリカンに憑かれたジャックは白人側であるウェンディを追い詰めます。階段で2人が対峙するシーンでは、ジャックとウェンディを視点を変えながら、1画面に2人の姿が映るようなカメラワークが採用されています。

この場面ではウェンディはバットを持っているものの、迫ってくるジャックにひどく怯えています。この時点では、2人が1画面に映るという点から、ウェンディもジャックも相互作用が可能な状態であると考えられます。よって、ウェンディは危害を加えられる可能性があり、ジャックもまた同じで、最終的にジャックはウェンディによってバットで殴られ転落します。

続いて、お風呂場に逃げたウェンディをジャックが追いかけるシーンで考えます。こちらのシーンでは、先ほどの階段の場面と比較すると、2人が1画面に映る瞬間がないことが分かります。ジャックは斧という武器を持ちウェンディに迫っているため、一見ジャックの方に優位性があるよう感じますが、2人が同じ画面に映ることができない、という点で、もはや2人は相互に作用することが不可能な状況になっているのです。

つまり、階段のシーンではまだ、ネイティブアメリカンの気を背負っている程度であったジャックは、お風呂場のシーンになると完全に憑りつかれてしまい、白人側のウェンディに危害を及ぼすことは不可能となるのです。

その後、家の外の迷路で息子のダニーをジャックが追いかけるシーンでも、2人は同じ画面に映ることはありません。

このことを踏まえるとカメラワークから、同じ場所にいる2人の相互関係についてを明らかにすることができるのです。

つまり、同じ画面上に映るか否かに注目すると、ウェンディとダニーの無事を予測することができた、ということです。

私は、お風呂場のシーンを見た時、ジャックの狂気と斧の強さにあぁもうダメか、とウェンディの命を案じてハラハラドキドキしてしまっていたので、このことを知ったらホラー映画も怖くないかも?と思いました。

これからも1画面に映る人物の関係に注目すると、新たな発見をすることができるかもしれません!

それでは今回はここで終わります。

ここまでお読みくださりありがとうございました~!次回へ続く