えー、いま私は土下座をしています。え、見えないって? そうですよね、文字で書いてあるだけではわかりませんよね。
とにかく、私はいま土下座をしています。なんでかって、このブログが第10回のものだからです。ちなみに、第9回のゼミは6月23日、第11回は7月7日にありました。これが意味するところが何か、もうおわかりでしょう……。
ということで、私は土下座をし続けています。ついでに言うと、授業内容をなかなか思い出せなくて白目を剥いています。え、見えない? それはもう……心の目で見てください……。それが今回学習した「読者反応批評」というものです(※全然違う)。
あ、名前を申し上げ忘れていました。齋藤です。ブログ担当は2回目になります(雑)。
では、さっそく授業のおさらいに参りましょう!
ジャンル批評
「ジャンル」と言われるものは以下の2種類があり、今回は②をジャンルとして学びました。
①形式上のカテゴリーに基づくもの(小説/詩 など)
②テーマや背景など、内容上のカテゴリに基づくもの
トドロフ(ロラン・バルトの弟子)によると、「ジャンルとは、つねに他の隣接ジャンルとの差異によって定義されるものである」といいます。
ジャンル批評は、ゼミで題材にしている『フランケンシュタイン』でもできます。以下の通り。
1.ロマン主義文学
自我や個人の体験、無限なるものや超自然的なものを重視する文学。啓蒙主義への反動として現れました。
ロマン主義 ←→ 写実主義
超自然的 科学的
個人を凌駕 個人
<『フランケンシュタイン』におけるロマン主義的な要素>
・「老水夫行」や「ティンターン寺院」などロマン主義の発端ともいわれるような作品を引用
・題材やテーマそのものが恐怖や無限なるものの、超自然的なものと密接に関わる
・「若きウェルテルの悩み」を怪物が読んで主人公の苦悩に共感する日々。
2.ゴシック小説
ロマン主義文学の中に位置づけられる小説。中世の異国を舞台に、超自然的な現象や陰惨な出来事が展開される恐怖小説を指します。
<『フランケンシュタイン』におけるゴシック小説的な要素>
・作者の父ゴドウィンからの間テクスト性
・少年フランケンシュタインが中世の錬金術に魅せられること、スイスやドイツなど異国が舞台となっていること
しかし、当時のゴシック小説の権威・オースティンは、『フランケンシュタイン』をゴシック小説として認めたものの、嫌悪感を示したといいます。理由は以下の通り。
・ゴシック小説には真実味に欠けた内容を仰々しく語るという特色がある。一方『フランケンシュタイン』はリアリスティックな描写における飾り気のない文体。
・伝統的なゴシック小説では超自然的要素が侵されないが、『フランケンシュタイン』では主人公が科学によって自然の神秘に乱入する。
3.リアリズム小説
これは近代につれてできたジャンルです。人生を客観的に描写し、ものごとをあるがままの姿で捉えようとする芸術上の信条のこと。非現実的な描写や美化を避け、人生における日常的・即物的側面を写実的に描く、ロマン主義とは逆方向の文学となります。
<『フランケンシュタイン』におけリアリズム小説的な要素>
・怪物が険しい山を楽に登る、超人的な速度で歩くなどの要素で、出来事に蓋然性を持たせる
・人造人間を造るという非現実的出来事に驚異的進歩を遂げた科学的発見がそれを可能にしたという設定を加えることで、リアリティを帯びさせる
・フランケンシュタインと家族との関係
④サイエンス・フィクション
いわゆる「SF」です。空想上の科学技術に基づく物語のこと。また、サイエンス・フィクションには認知的・化学的なものの見方が不可欠とされています。『フランケンシュタイン』は最初の本格的なサイエンス・フィクションと言えるでしょう。
読者反応批評
次に、読者反応批評。教材に使ったのは、ヴォルフガング・イーザー『行為としての読書』です。
みんなで血反吐を吐く思いで読み解きました(死)。
・読者反応批評とは……
読者によって作品に対する反応の仕方が異なることに着目した批評方法。これは、読者がテクストに活発に関わる存在であることを前提としています。
伝達(読書)はテクスト構造と理解という行為の相互作用によって成り立ちます。
そして、理解という行為はテクストが完全にコントロールしているのではありません。「理解させるテクスト」と「理解する読者」、双方によって理解が成り立つということですね。
理解は作者と読者が想像力の“ゲーム”を分かち合うことです。つまり、読者はテクストをただ鵜呑みにしているのではなく、想像力を働かせて読んでいるということですね。
ここで、テクストがすべてを明らかにしすぎたりしなさすぎたりすると、読者は“ゲーム”から落ちてしまいます。しかしこれは、「読者の教養がないとテクストを読み解くことができない」という意味ではありません。
<視点の移動>
例えば紙の本は、ページを捲らないと読み終えることができません。テクストには、物理的にその全体を目で一度に把握することができないという特徴があるのです。
必然的に、読者は視点を移動させながら(ページをめくりながら)読み進めます。そのため見えない部分が出てくるという意味で、テクストは理解において超越性を持ちます。読者は見える範囲までしか捉えることができませんが、テクストの美的対象(=テクストを読んだときに立ち表れるイメージ)は総体を捉えます。
<読解の過程>
読者はテクストを単語(「あ」「い」)ではなく、ある程度、意味の塊として把握します。テクストが虚構(=物語!)である場合、読者の関心は文の相関体(=関わり合う文の前後の文脈)に置かれるため、その塊と知覚対象は同一視できません。……うーん、難しい。
例を挙げると、テクストに「眠る」と書かれていても、読者がすべて経験則の対象、つまり「睡眠」と理解するとは限らないということです。
虚構テクストでは、相関体が相互に入り組み、読者の領域で意味が満たされます。
同じ相関体において、個々の文が示す意味方向は、常に予覚(=次へ来る内容への予測)を含んでいます。個々の相関体は、その都度生み出す予覚を絶え間なく変化させ、読者に追いつかれまいとするのです。
このとき、読者がいる位置(ページのめくり具合など)は予覚(=次へ来る内容への予測)と保有(=過去のイメージ)の頂点になります。しかし、それはすぐに次の相関体の背景に回ってしまい、修正されることに。文の相関体はどこかが欠落しており、それに対して予覚がまた生み出されます。
つまり、文脈はどれも次にくる内容への予測を補足しており、同時に新しい内容の予測を生み出すことになります。
また、読者はテクストを読むときに視点を調節し、遠近法のレベルで見ていきます。
遠近法は絵を描くときに中心点をつけ、それにそって遠くの光景は小さく、手前は大きく見せるあれですね。中心点がずれると同じ線ではなくなってしまいます。視点が移動する中で、線が道のように立体になるのです。
まとめます(雑)。
読書過程において、読者の領域で期待は常に修正を加えられ、記憶は新たな変化を起こし、相互に作用しあいます。つまり、読書は予覚と保有との弁証法なのです。
(※弁証法=一つの物事を対立した二つの規定の統一としてとらえる方法)
『行為としての読書』では他にも難しい用語がたくさんでてきたのですが(死)、積み残しとなりました(死)。
ちなみに私はまだ土下座をし続けています。みなさんは積極的にテクストに関わる存在なので、反省している私の姿が見えますよね? ……はい、すみませんでした。