9期生第13回「なんのこっちゃの説明の中にも意思があるのです」

こんにちは、第13回のブログを担当します高山です。

夏休みこそはゆっくりする予定だったのですが、バイト先の塾は夏期講習だし、出るつもりのなかったサークルの本番に出演しなければならなくなってしまい、忙し人間から脱出できそうにありません。

というわけで時間がないので授業内容へ。

[前座]

前座では、これを機にそれぞれの呼び方を決めよう!ということで、それぞれ今までどんな呼び方をされてきたのか、どう読んでほしいか話していきました。

私自身は圧倒的に下の名前で呼ばれることが多く、どちらかと言えばその方がしっくりくるのですが、苗字で呼ばれる方がいいという人もいたり、だいぶ人それぞれだなぁと思いました。

その中でも白井くんが白井→白井健三の流れで派生して健二と呼ばれていたことがある話はめちゃくちゃ笑ってしまいました。実際の名前の要素が一つもないところが個人的にかなりツボだったのですが笑いすぎて後から申し訳ない気持ちになりました、すみません。(私に笑われると悲しくなるという人が一定数いるので)

では、本編に参りましょう。

[ポストコロニアル批評]

ポストコロニアル批評は、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』で提起された考え方が基盤となっています。

その考え方とは、西洋の帝国主義諸国が搾取と支配を正当化するために、第三世界に対しいかに誤ったイメージや定型化された神話をでっちあげてきたか という問題提起です。

ポストコロニアル批評の方法は大まかに二つ。

①植民地化された国や文化圏から生まれた文学作品を研究する方法

この方法では、「植民地主義による定型化への異議申し立てがどのようになされるか」「植民地主義の文化的影響からの脱皮がいかに図られているか」に注目します。

②帝国主義文化圏出身の作家が書いた作品において、植民地がいかに描かれているかを分析する方法

『フランケンシュタイン』の作者メアリは西洋出身のため、方法②を『フランケンシュタイン』に当てはめて考えてみます!

植民地支配をする人物をどう描いているか という観点で見ると、

植民地支配をする人物=クラヴァルと言えます。

これは、クラヴァルが少年の頃から「インドでの植民地建設と貿易の発展に貢献する」という「冒険的偉業への情熱」に駆られており、大学で東洋の語学・文学を研究していたことが理由として挙げられます。

つまり、クラヴァルが目指した「偉業」には植民地支配という帝国主義的侵犯要素が含まれていたのです。

しかし、クラヴァルはインドに出発する前に怪物によって殺されてしまいます。

⇒西洋が東洋を侵犯すると失敗する。

⇒『フランケンシュタイン』は東洋を支配しようとする西洋に対して警鐘を鳴らす作品

と読み解けます。

[新歴史主義]

新歴史主義が成立するまでには、以下の三つの考え方がありました。

歴史主義(20C前半):歴史は客観的であり、確固とした事実である とする考え方

ニュークリティシズム(1930~1950):作品と作家や時代背景とを切り離して、作品を独立した統一的有機体とみなす考え方

ニュークリティシズムへの反動(1970~):テクストの意味は読者とテクストとの相互作用だとする読者反応批評や、テクストとは内部矛盾をはらんだものだとするポスト構造主義など

⇒ニュークリティシズムへの反動では、歴史が文学と切り離されていましたが、再び文学研究に歴史を復活させたのが新歴史主義です。

新歴史主義では、

歴史=客観的事実ではなく、語り手が出来事に対し取捨選択を行い再編したもの

ととらえ、文学テクストと他の領域のテクスト(歴史資料など)の境界を取り払います。

世間一般で客観的とされている歴史を客観的でないと示すことで、歴史資料などと文学テクストが同じ土俵にいることを示すということですね。

ここで疑問として出たのが、間テクストと新歴史主義の違いは何か?というものです。

どちらも、他のテクストと関係がある という点では同じですが、

間テクスト:先行する文学テクストから影響を受けている

新歴史主義:同時代の異なる領域の考え方などが含まれている

という点に違いがあることが分かりました。

[ミシェル・フーコー『知への意思』]

かなり内容が難しく、書いているうちに何を言っているのかよくわからなくなりそうなので、フーコーが『知への意思』で何を明らかにしたかったのか先に述べておくと、「死の権力から生の権力がどのようにつくられていたか」ということです。

これを念頭においてこの先を読んでいただければと思います。

・性に関する歴史について

17世紀以降、人口を増やすことのできる夫婦の関係や、夫婦間の性的行為のみが正しいとされ、その他の性的欲望は抑圧されたと考える「抑圧の仮説」があります。

しかし、この時代以降、性に関する言説が増えていることから、フーコーはこれを否定し、

権力が性的欲望を抑圧したのではなく、性的欲望を言説化できる場所が限られたことによって沈黙が生じたのだと主張します。

・性の科学が打ち出される

フーコーはこの言説化する行為=「告白」という行為 としています。

性の言説は「告白」を通して科学的な知見と結びつけられ、真理を引き出すことができるとし、

「告白」と科学的な言説性の証明が交差する点で、「性的欲望」が存在すると定義されました。

→つまり、性が秩序だった知の体制のなかに登録された ということだと思います。

・性的欲望の装置が使われる

そして18世紀以降、権力は性的欲望を道具として使い、「性的欲望の産出」がなされました。

・死に対しての権利と生に対する権力

この権力ですが、君主制など古典主義以前の権力は、死に対しての権利(生殺与奪の権)でした。権力を裏付けていたのは「血」(血筋など)だったからです。

それが近代の権力になると、国民を資本主義国家の生産力の一員として緩やかに拘束・管理する「生-権力」へと変化しました。

それにより、「性的欲望の装置」が権力の中で大きな意味を持つようになったのです。

以上、第13回の内容でした。

私の説明が下手すぎて、これをお読みになっている方はなんのこっちゃという状態になっていることが想像できますが、私自身もなんのこっちゃという感じです。

ニュアンスまみれであいまいなこの文章が授業内容とあっていることを願いつつ、今回はここまでとさせていただきます。

では!

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