第13回『最後までこんなブログだけど、エピステーメー、許してーね。』

チョリーッス。今季ブログの殿(しんがり)を務めさせてもらいやす、徳村でござんす。お控えなすって。最近藤本タツキの漫画にハマってます。チェンソーマン、おもれーっすね。ファイアパンチ、イカれてますね。ルックバック、圧倒されますね。発想力の暴力ですな。もっと早く知りたかったぜ。そして今回のブログは情緒がジェットコースターラブ/KARA状態なので、躁鬱みたいな文章が各地に見られる予報です。エッッッッッッッッッ?なぜかって?なぜってそりゃあ、そうでもしないと滞らせることなくブログ書けないからに決まってるジャーーーン!

今回の前座では岩井俊二の映画『花とアリス』をご紹介。岩井美学が造り上げる映像美はもちろん、劇伴が素晴らし散らかしてんだよなぁ!コレ!!!各種ストリーミングサービスでもオリジナル・サウンドトラック『H&A』が配信されてるだろうから、要(Yo)要(Yo)要(Yo)チェケラだぜ~!!!これ聴けばもう一瞬で花とアリスの世界にトリップできちゃうっていうバリ☆ヤバな代物!!!おっしゃ~花とアリスでレッツ彩ろうぜ日々~!ビバ日々~!

さて、今回メインで扱ったのは、「オリエンタリズム」と「新歴史主義」です。「オリエンタリズム」っていうのは、簡単に言うと西洋人から見た「西洋でない文化」に対するイメージのこと。よく意味の分からない漢字をタトゥーにしたり、やたら仏像を集めてる西洋人がいますよね。そういった西洋人の非西洋的な物に対する好奇の思考・行動様式っていうのをオリエンタリズムというのです。このオリエンタリズムって、一見「非西洋に対する興味があって価値を認めている人」みたいな印象を抱いてしまうのですが、実際にはそんな単純な話ではなくて…。実は西洋っていうのは、そんな感じで非西洋的なものを『他者』として、『異物』として扱って、ある種そうやって非西洋から自らを疎外することによって自己のアイデンティティを確立していたっていう側面があるんですねー。文明が他の地域よりも発達していた西洋っていうのは、非西洋に対して感情的で魔術的で、野蛮な存在だというイメージを抱いていて、それに対比させる形で自らを理知的な存在であると認識していたんです。今となっては、非東洋人、ことさら日本に対して野蛮であるとかそういうイメージを持っている人はごくわずかだと思うのですが、それでも西洋人にとって漢字のタトゥーを自分の身体に入れるっていう行為は、非西洋的な物である漢字に対してある種の魔術的なパワーを感じていることに由来しているんだと考えられます。これはオリエンタリズムの思考様式が未だに西洋において普遍的なコードであるということを示しています。ただ、そういうオリエンタリズムとかを超えて非西洋な物を愛してくれている人も中にはいるわけなんですよね。ただ単に「めずらしいからなんかいい」とかじゃなくて、どういうところが好きで、こういうところが素晴らしくて憧れなんだと言ってくれる人はオリエンタリズムを超えた人なのかなと考えたりします。

で、問題はそういったオリエンタリズムを、非西洋人が受け入れて内面化しちゃってるところにもあるんです。日本でも一般的に、肌が白いことっていうのは優越されていますよね。美白至上主義っていうか。そういうのも、知らず知らずのうちに西洋人(白人)の価値観であるオリエンタリズムに染まっちゃってるってことなんですよね。日本は明治期の文明開化に際に西洋諸国の文化・生活様式を積極的に取り入れたっていう経緯もあって、西洋に対して自分たちは見習わないといけない、みたいな観念があるのかもしれませんよね。文化帝国主義を甘んじて受け入れてしまっているというね。またそういう文化の上下関係っていうのはアジア内でもあったらしいです。例えば日本にはかつて、朝鮮と自国を比較して「日本人は男性的で理知的、朝鮮人は女性的で感情的」という価値観があり、日本も朝鮮や中国などの周辺国から自らを疎外することで自己のアイデンティティを確立していたのです。なので日本ってオリエンタリズムとかポストコロニアルにおいては立ち位置が微妙なんですよね~。そこがなんか陰湿な日本らしいというか何というか…。

続きまして最後の厄介者「新歴史主義」にあたっていくぜぇ~!!!まず(旧)歴史主義っていうのが「歴史を直線的・発展的なものとして捉え、文学を特定の時代精神と結びつける」方法であるのに対して、新歴史主義は「歴史を、ある点では断絶したりある点では繋がっていたりするものであると非直線的・非発展的に捉え、あらゆる文学(書かれたもの)に表象され編み込まれているものとして読み解く」方法であると言えちまうんだなぁ!!!ちょっと何言ってるかわかんねぇと思うんだが、まずはこの方法の元となったフーコーの考えを整理していくんだぜ~!!!フーコーは自身がホモセクシュアルであったこともあって、研究対象を『性』として「なぜホモセクシュアルが排斥されるようになったのか」という問いを解き明かすことに尽力してたってワケなんだが、フーコーは「ホモセクシュアルという異常者は隔離する」という言説が普遍的なものではなく、歴史的な考えに過ぎないということを示すために様々な言説にあたったんだぜ~!!!過去のさまざまな言説を比較することで、歴史上のどのタイミングでそのような言説が生まれたのかその境目を見出そうとしたって事なんだよなぁ~!すげえよなあ!マジで!

で、そういう過程を経て、新歴史主義の「歴史は直線的でも発展的でもない」っていうのを示したのがフーコーなわけだ!これはフーコーの「パノプティコン」っていう刑務所に対する意見を例に挙げて説明するとちょっとわかりやすいかもだから、頑張って説明してみるぜ~!!!パノプティコンっていうのは、看守を受刑者から見えないところから監視させる構造を持った刑務所なんだが、これって、かつての刑罰が見せしめ的に公衆の面前で行われてたことを考えると、受刑者に対して権力の内面化が行われていると考えられるんだぜ~!パノプティコンでは、監視されているかどうかわからないのに、規律に従わざるを得ないわけじゃん???それってもう権力をわざわざ可視化しなくても受刑者をコントロールできちゃってるわけ。これを別の言い方で『身体の規律訓練』って云ったりするんだけど、これって歴史主義的に解釈すると刑罰の方法が発展したってことになりそうじゃん???でもでもでもでも、ここで新自由主義的な解釈をブチ込んでみると、こうやって権力を内面化したり、身体の規律訓練を行っていたのは、元々中世にもあったことなんだよなぁ~実は!!!中世の修道院では自らの罪を自ら告白して、自らに規律訓練を課すっていう風習があったらしきくて、つまり権力の内面化とか身体の規律訓練は、発展して生まれたもんじゃなくて、前にもあったことが再び近代に現れただけってことなんだぜ~!!!こんな感じで、フーコーは社会において覇権的な思考の枠組み=エピステーメー(パラダイム)っていうのが連続的にも間歇的にも現れるっていうことを示したワケよ!!!!いや~なかなかムズイこと言ってくれるよな~、コンチキショー!!!!だぜ~!

そんなわけで今回のブログも終わりが近づいてきました。こんなのが今季最後のブログになってしまうことは心許ないですね。終わってみると色々感慨深いですが、一つ言えることは毎回毎回本当に億劫でした。だってあんなに意味の分からないことにもう一回向き合わなくちゃいけないなんて…。辛すぎるよ…。こんなのってないよ…。あんまりだよ…。こんなの絶対おかしいよ…。と鹿目まどか状態になりながら這いつくばって書いたブログはきっと俺の糧になっていると俺の中のリトルファンキー加藤が言っている(ような気がする)のでいい経験になったと思っています。私のブログを村上さんのブログと比較すると、品質と品格に歴然とした差があることに関して私は極めて自覚的であり、反省の余地はありあまるほどですけども、そうしなければ書き上げられなかったので許してニャンの構えです。

それではみなさん読んでくれてありがとうございました。お腹が空いたので終わります。またいつか/どこかで。

第12回 7期生 『Dolce&Gabbanaは香水の専門店ではありません』

「ファッションは毎日を生き抜くための鎧である」

これは写真家ビル・カニンガムの言葉ですが、服は着る人やそれを見る人の心に大きな影響を与えます。今回の前座では内藤先生のジェンダーと絡めたコムデギャルソンのデザインの話を聞いてとても興味深かったです。かくいうわたしも、ラグジュアリーブランドのコレクションを見るのが好きで、毎回発表されると、動画を検索して見るのが高校生の頃からの習慣になっています。

その中でも1番印象的だったのが、2019年春夏のDolce&Gabbana Alta Modaのコレクションです。Valley of the Temples で開催されたウォーキングの動画があり、50分弱と長めですが、今でも何度も繰り返し見ているくらいお気に入りです。何がいいかというと、撮影している場所と、音楽の荘厳さに、お洋服のデザインが絶妙にマッチしていてただただ美しいのです。それでいてたくさん登場する服からはひとつのコンセプトを感じられ、見ているだけで想像力を掻き立てられます。まるで物語の世界のように世界観に入り込めるようなコレクションはほかに知りません。お時間ありましたらぜひ検索してみてください。インスピレーションを得られるかもしれません。

さて、本題にはいります。今回はマルクス主義批評を勉強しました。マルクス主義で大切なのが「下部構造」と「矛盾」です。下部構造は、ピラミッドの下部に経済があり、その上に思想や政治が乗っかっているのをイメージするとわかりやすいです。経済的なことが、社会的、政治的なことを決定付けているという考え方です。矛盾は、文学においてあるべきものが欠落して書かれることで、社会の中の経済的な矛盾が歴史性を生み出します。具体的にいうと、生産体系の歴史はこれまで

アジア的→古代的→封建的→ブルジョア的→[革命]

と移り変わってきました。マルクス主義はこの後に、社会主義的→共産主義的が続くとよいと考えます。これはなぜかというと、生産体系(つまり経済)が牧歌的なものから奴隷を利用するもの、契約によるもの、資本主義によるものと移り変わっていたことで社会に矛盾が生じて、それが労働者の桎梏になり、階級闘争が生まれてしまうからです。そしてその度に争いが起こりました。もし社会主義的、共産主義的生産体系になれば、桎梏は生まれず、平和が訪れると考えるからです。

とはいえ、これを今すぐ実現するのは現実的ではなく、さまざまな問題が残っています。完全に社会主義的生産体系にするのは難しいですが、ベーシックインカムの制度の導入などから考えてみるのもいいかもしれません。これにも教育面や資金面などの問題があり難しいところですが。

このようなマルクス主義を、文学批評に応用してみます。マルクス主義批評です。ゴジラを例に取って考えてみましょう。ゴジラはシリーズ化されており、最初の作品は1954年に発表されていますが、今年にも「ゴジラvsコング」が公開されるなど、関連作品はコンスタントに発表され続けています。もちろん、作品が作られる時代背景も変わっています。時代背景とはマルクス主義でいう経済のことです。一作目が公開された頃、日本の経済は伸びておりそんな中起こった第五福竜丸事件の残留物からゴジラは生まれました。日本のアッパークラスが生み出したゴジラですが、家が潰されるなど、その被害はミドルクラスが受けます。にも関わらずゴジラを倒したアッパークラスはまるで英雄のように描かれる。ここに矛盾が生じます。

この矛盾を解決するのがそのあとに続くシリーズということになります。原子力発電が主流になってからは、それがゴジラを生み出した世界を作り、被害を受けるミドルクラスを描き、国策が間違っているのかもしれないと、日本経済をシニカルに描いています。

よく、原作とそれに続く2次創作についての議論がなされますが、たいていはオリジナルのファンが2次創作を批判して終わりになりがちでした。しかしただ表現を小説から映画、漫画からドラマに変えるだけでなく、2次創作では、階級などの観点でオリジナルでは解決しきれない問題を解決することで原作との差異を生み出せば、それは唯一無二の価値ある2次創作物になりそうです。

マルクス主義批評の話から、現代でも盛んな2次創作についての議論まで展開することができるなんて驚きでした。難しいイメージで今まで手をつけてこなかった経済の分野ですが、これを機に関連本を読んでみようと思いました。とっつきにくそうな分野でも、自分の好きな分野と結びつけて考えると理解しやすくなったりしますね。昨日かの有名な「博士の愛した数式」を初めて読んだのですが、高校時代あんなに嫌っていた数学に少し優しい気持ちになっているのに気付きました。やはり本は偉大です。文学や映像で、理系分野や政経分野を扱った面白い作品がありましたら教えていただけると嬉しいです。

わたしが春学期に書くのは最後のブログになりました。読んでいただきありがとうございました!

村上菜々子

第11回 Can the Subaltern Speaks on Twitter?~サバルタンはツイッターで語ることができるか~

ごきげんよう皆さま。返品と滞りに定評のある徳村です。前回ご紹介した空より青いギターは無事返品しました。そして代わりに御茶ノ水でおニューのギターを購入いたしました。

うん、シンプルイズザベストですね。何よりネックの色がたまりません。このネックの色を見つけるまでどれだけ苦労したことか。。。ボディのクリームっぽい白と、ピックガードの溌溂とした白の組み合わせも絶妙です。美ギター。エレガントで瀟洒で高貴なパリジェンヌを連想させます。仮にマルジェラの新作だと言われても疑いません。もう絶対裏に白い布縫い付けられてますよねコレ。あ、あと勿論音も素晴らしいです。弦一本一本の音がしっかり聞こえて、まるで大阪王将のチャーハンのようなパラパラさ。でも大阪王将のチャーハンあるいは天津炒飯のように最初の一口が一番美味しいけど二口目から惰性で食べざるを得ない、みたいなことはなく、逆に弾けば弾くほど楽しくなってずっと弾いていたくなるような音です。皆さんもぜひ最寄りの大阪王将でチャーハン(天津炒飯でも可)を注文して、このギターの魅力を感じ取ってください!!!

さて皆さんが大阪王将でパラパラしてる間に本題に入ります。今回のゼミで扱ったのは、フェミニズム批評とジェンダー批評、そしてガヤトリ・スピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』になります。

フェミニズム批評は、長い間男性中心に形成されてきた文学伝統の中で行われてきた性差別を暴く批評として登場しました。女流作家であるメアリー・シェリーによって書かれた『フランケンシュタイン』も、そのフェミニズム批評の対象になります。『フランケンシュタイン』ではフランケンシュタインに関係する女性が次々と殺害されることから、女性が抑圧され、再生や代替の可能なものとして扱われている世界を表しているとみることができたりします。

次にジェンダー批評は、フェミニズム批評のように女性の問題のみに焦点を当てるのではなく、生物学的・社会学的に男女区別の基準から逸脱し周縁に追いやられている存在も対象とします。ゲイ批評やレズビアン批評などもジェンダー批評に含まれます。

ジェンダー批評の中でも面白かったのが『ホモソーシャル』と『クイア』という概念でした。

ホモソーシャルというのは男性の社会という意味。アメリカの社会学者ルネ・ジラールは「自分の欲望は他者の欲望の模倣である」という『欲望の三角形』理論を唱え、男二人が一人の女性を取り合う構造について説明しました(つまり、他人の好きな人を好きになっちゃうっていうこと)が、ホモソーシャルの研究を行っていたイヴ・セジウィックはこの理論に異を唱え、「その二人の男性は欲望を共有する(女性を取りあう)ことによって仲を深めている」と主張しました。つまり、ホモソーシャルは女性を利用することでコミュニティーの結束を固くしているということをイヴ・セジウィックは明らかにしたのです。また、このようなホモソーシャルを維持するために、その内部ではホモフォビア(同性嫌悪)やミソジニー(女性嫌悪)も醸造されることとなります。それは、ホモソーシャルが再生産を重視する社会の中で顕著であり、同性愛は生産性に欠け、男性のコミュニティーに女性が入ると結束が崩れてしまうという共通認識を持っているからなんです。しかし、このようなホモソーシャルというのは決して普遍的ではありません。かつては階級によって女性の方が男性よりも重視される社会も存在しましたし、古代ギリシアではホモソーシャルの中でもホモセクシュアルが普通に認められていたといいます。我が国の江戸時代に流行した春画も、性別の違いというよりは階級の違いを重視していて、異性愛も同性愛もどちらも描いていたそうです(異族愛も)。

次にクイアについて。クイアは元々「奇妙、気狂い」といった意味で、主に性的マイノリティを侮蔑する言葉として用いられていました。しかし現在ではそれを逆手にとって「性的マイノリティに対する差別に対抗する」という意味で、あらゆる性的マイノリティの人々を包括的に表す言葉として使用されています。このクイアという概念は人間の属性を常に変化するものと捉え、男女の区別を確定できないものとして考えており、その意味で非常に脱構築的だと言えます。つまりそのことを理解している人はみんなクイアなのです。このクイアという概念を今回のゼミで理解したことで、昨今のフェミニズムや性的マイノリティに対する扱いに個人的に抱いていたモヤモヤが少し晴れた気がしました。近頃、ネット上のフェミニストは女性の権利だけを求めがちだし、性的マイノリティに対する世間の扱いも腫れ物に触れるみたいに神経質すぎると考えていた私なのですが、クイアという単純明快でロックな概念には好感を持てます。結局、みんな人間なんだぜっていう。自分がどう生きるかは自分が決めることで、しかも決めた後でも迷っていいし変更してもいいっていうことなんだと思うんですよね。勿論制度設計の上で考えることは山ほどあると思います。例えばトイレ問題とか、スポーツ問題とか、たぶん私が思いつかないだけで沢山の問題がそこにあるんだと思うんですが、そういう問題を解決するにあたっても土台になるべきなのはやはりクイアなんじゃないかなと思います。

そして締めに『サバルタンは語ることができるか』ですが、まずサバルタンというのは被抑圧民のことで、植民地時代に列強によって支配されていた国々に住んでいた人々のことを指します。今回のサバルタンは特に「女性、非白人、非インテリ」の人々のことを指しているのですが、結論から言ってこのようなサバルタンは語ることができません。それは知識人や権力者がつねにサバルタンの声を代弁してしまい、当事者であるサバルタンの声は聞こえてこないからです。仮にサバルタンの意見を取り上げようと直接話を聞いたとしても、日常的に男性の言いつけを守ったり支配されたりしているサバルタンは本音を言えなかったり、そもそも自分の本音がなんなのかよくわかってなかったりするのであまり意味がないんですね。それでも、著者であるスピヴァクは書き手・読み手が白人のインテリに限られていたこれまでの文学やその他の学問の中にある、彼らが気づけなかった「空白」のようなものを見つけ出すことができるのは、有色人種や女性や非インテリなどのサバルタンであると期待を寄せているのです。サバルタンに語らせることは難しいことですが、どうしたらサバルタンの声を掬い上げることができるのかを考えていかなければなりません。

サバルタンの声について考えると、2014年にノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんってすごかったんだなあと思います。彼女は非白人の女性でしかも当時はまだ10代だったわけで、そんな彼女の声を掬い上げたメディアの功績は大きかったのですね。。。今になってその凄さがわかりました。もしかしたら、メディアやSNSを有効に用いることで、サバルタンは語れるようになるのかもしれません。勿論そこにもデジタル・ディバイドの障壁など様々な課題が残っているでしょう。サバルタンはツイッターで語ることができるか、それともインスタグラムで語ることができるか、あるいはまったく別の方法で語ることができるようになるのか、そして誰が語らせるのか、答えはまだ出ませんが、考えてみると面白いかもしれませんね。

今週はここまでとします。僕の滞り癖も今週は落ち着いていますね、よかったです。しかしながら今週の発表がまだ残っています。一難去ってまた一難、いつになったら凪になるやら。何も考えずギターの練習ができる日が来るとイイナ、と夢想する徳村なのでした。

第10回 7期生『アルカイックに脱構築を語る-archaic smile-』

こんにちは。仏の菜々子はんです。突然何を言い出したのかというと、徳村さんの前回のブログの締めの感じだと、私とても怖い人みたいじゃないですか!なので中学、高校時代のあだ名をここで披露して、わたしのイメージ補正をしてみました。正確には、中学のときの異名が、「微笑みななさん」テスト前はいい点がとれるよう、仏のように拝まれていました。高校では京都キャラで、「ななこはん」と呼ばれていました。これだけでもわたしがちょっとやそっとのことでは怒ったりしない、温厚な人だとわかると思います。徳村さん、安心してください、私は仏のように心が広いです。

さて、本題にはいります。今回は主に「脱構築」の話でした。すんなり理解するには難解で、だからこそとっても面白い内容で、きちんと記録できるか分かりませんが、全力を尽くします。まず、構造主義というものがあります。これは、作者の意図には関係なく、テクスト自体が意味を持っているという考えで、今回の課題文の著者ジャック・デリダはこの考えに疑問を持ちます。そこに脱構築批評というものが生まれます。これは、2つのテクストが矛盾した解釈を示すとき、両者の衝突を解決するのではなく、対立を深めさせる事によって、中立的意味の存在を否定することをいいます。ふたつの境界を曖昧にして、片方にもう一方の要素を見出せるかを考えるのですね。

具体的に考えてみましょう。いつものように浦島太郎を例に用います。浦島の世界で対立するもの、それは海と地上です。浦島にとって地上はホーム、海中はアウェイです。たくさんもてなされ、贅沢できて最高に思えそうな竜宮城を、浦島は最後には離れて、地上に帰りたいといいます。この浦島の行動から、どんな場所でも故郷、ホームは大切だ、素晴らしいという主張を、わたしは作品に見出しました。この、対立構造を見出そうとする考えが、構造主義の考えです。

次にこう考えてみます。ホームとアウェイが対立して見えるのは、わたしの前提にある価値観がそう見せているだけなのではないか?ホームにもアウェイにも共に自分を必要としている人はいて、これからホームで過ごした時間より長い時間をアウェイで過ごすことになれば愛着はアウェイにも湧くだろう、それなのにやっぱり自分の生まれたところ、ホームが尊いという価値観が知らずわたしの中にあるから、そのふたつが対立して見えてしまうのでは?これが脱構築です。

これをグランマトロジー(文字自体を中心に据えた学問)に当て嵌めて考えてみます。音声中心主義の考えでは、現前に音声があって、文字はその死体です。しかし、同じ動物の同じ音でも、言語によって動物の鳴き声が変わるように、文字の中に音声があるという考え方もできます。これも脱構築ですね。

かつて文字が無く、文明の発展によって文字を得たヨーロッパの国々は、自国を愛しすぎるが故に、全ての国は文字を発明するべき、または使うべきだと考えるようになりました。先程の音声と文字の他に、セックスとジェンダー、先と後など、どちらかが上でどちらかが下だという見方はすべてなんらかの偏見に基づいています。

男と女をふたつに分けて考えるのも、別にそのふたつに分ける必然性は無いわけですが、その分け方をするのは、ふたつの違いに目をつける認識の枠組みが、わたしたちの世界にびっしりとあって、無意識レベルの偏見となって存在しているからなのです。

人々がそのふたつにどうしても区分したがるので、そのどちらにも当てはまる人や、どちらにも当てはまらない人が居場所を無くしてしまうという問題が起きます。国力=人口の時代には、子どもを産むことができる性なのかそうではないかの区分はとても重要なものでしたが、AIの進歩などで、必ずしもそうでは無くなった場合、これらの区分は今ほどの意味を持たなくなるでしょう。

何かと何かを対比させて考える時、そこにはなんらかの偏見があること、それはとても無自覚なものであることを、今回の脱構築の話から学びました。自分の中の、そして世間の常識を、なぜそうなのか、それで本当にいいのか、考えながら生きていくことが本当に重要なのだなと気づけたとてもいい回でした。考えすぎて動けなくなるのは良くないですが、いい考え方ができると、そのあとの動きにも自信を持てるので、考え方ってとても大事ですね。

さて、本物の仏様には程遠いただの人間のわたしですが、少しでも徳高い人間様になれるよう、これからも精進していきます。脱構築について、記録したいことは全部書けたので満足して眠りにつこうと思います。

おやすみなさい。

第9回 7期生『村上さん本当にすんませんでした』

ついに1週間以上滞らせてしまいました、”徳村 the KING OF 滞り”です。いやー、先週は結構忙しくてー。外部のお笑いライブに出たり色々やってたらもう1週間経過していました。申し訳ないー。ちなみにライブではコントをやったのですが、ややウケでした。私ネタ書いてないので、あまりそこに関しては言及できないのですが、まあウケるところはめちゃくちゃウケて、ウケなかったところは空調の音が聞こえるくらいシーンとしてました。久々の舞台でしたが焦りました~!ネタを当日朝に貰ったので練習不足感は否めませんでしたが、できる限りは尽くしたんじゃないかなと思っています。3年生はお笑いもバンドもできる限り全力で取り組んでいきたいと思っているので、本当はブログを滞らせている場合ではないのですが。。。次回からは当日に書けるようにします!!!

さて、今回のゼミ前半はジャンル批評について。ジャンルには、形式上のカテゴリーに基づくものと、テーマや背景など内容上のカテゴリーに基づくものとがあり、このようなジャンルにまつわる諸問題を扱う批評をジャンル批評といいます。

例えば、カナダの原型批評家フライによると、文学作品は四季に関連する4つの原型的物語のグループ、喜劇(春)、ロマンス(夏)、悲劇(秋)、風刺(冬)のいずれかに分類されるとのこと。一方でフランスの構造主義批評家のトドロフは「ジャンルはつねに他の隣接ジャンルとの差異によって定義されるものである」とフライの恣意的な分類を批判します。実際、今でも支持されているのはトドロフの考え方です。トドロフはまた、ジャンルの存在を認めないのは、文学作品が既存の作品群と関係を持たないと主張することに等しいということも述べています。

文学には様々なジャンルがありますが、ある小説がどのジャンルに属するか議論するのもジャンル批評のテーマのひとつです。例えばフランケンシュタインは、ロマン主義小説としても読めるし、ゴシック小説としても読める。さらにはリアリズム小説としてもSF小説としても読むことができ、複数ジャンルにまたがって多角的な読みをすることができる作品となっています。

次に取り上げたのは、作品を自立した存在として捉えた形式主義批評に対して異議を唱えた読者反応批評でした。読者反応批評は、読者によって作品に対する反応の仕方が異なることに着目し、テクストが読者の心にどう働きかけるかという問題に焦点を置きます。従来、読者とは作者がテクストに埋め込んだものを受動的に受け取る者として捉えられていましたが、読者反応批評はこれを再定義し、テクストに活発に関わりテクストとの共同作業によって意味を生産する存在として「読者」を捉え直したのです。

しかしながら、読者反応批評はどんな読みも許容するわけではなく、作品によって想定された「含意された読者」を演じることで読者は作品を真に理解できるという考えがあることには注意が必要です。出鱈目な読みは許されません。

また、読者反応批評はテクスト中の空白に注目します。テクスト中の空白には、読者の活発な読みを引き出す機能があるからです。このように読者を刺激するような文学表現を「弁証法的な示し方」と言います。逆に、読者がすでに持っている意見を反映し、強化する方法を「修辞的な示し方」と言います。

こんな感じで3限の分は終わりました。正しくは、終わったような気がします。やはり1週間経つと記憶も曖昧になってきますね。。。反省しました。ハァイ。確か、その後のペアワークでは浦島太郎のジャンル批評をやりました。いろんな観点から浦島太郎を分類するのは骨の折れる作業でしたが、面白かったのは『浦島太郎』と『鶴の恩返し』の構造が似ている点でした。どちらも、困っている動物を助けたのちにその報酬として贅沢ができるが、約束を破ってしまったことによって不利益を被ってしまうという物語になっています。鶴と亀という縁起の良い動物の物語であることにも運命的なものを感じますね。

さて4限の方に移りましょう。4限ではヴォルフガング・イーザーの『行為としての読書』を読みこんでいきました。イーザー曰く、「テクストの言語記号および構造が、読者の理解行為、すなわち読者の意識へのテクストの転移を誘発することによって、その機能を果たすというところにある」ということで、これは小説は読者に読まれることで初めて成立するという考えなんですね。そして読者がどう理解するかっていうのはテクストにはコントロールできないということも指摘しています。つまり、小説を読むという行為は、作者と読者の想像力のゲームということなのです。ただ、テクストがすべてを明らかにしすぎたり、逆に難しすぎたり過度に混乱させたりすると読者はゲームから降りてしまうことには注意が必要なので、そこは作者の腕の見せ所というわけです。

さらにイーザーは、文学の世界を構成しているのが文どうしが結合した意味単位である相関体であり、読者は物語を読み進めながら相関体の中にある欠落部分を見つけていくということを述べました。その欠落は次の相関体への期待となり、予測を生み出すことになりますが、その期待は読み進めていくうちに現れる新たな相関体によって修正されたり裏切られたりします。つまり、相関体は未来の相関体に対する期待を生むとともに、過去の相関体に遡及して影響を与えているのです。読者は読書をしながら、そのテクストをリアルタイムで綜合していくことによって自分の意識に翻訳して転移させているのです。この作業はテクストによって指示されているのではなく、読者の領域に属しているとイーザーは述べています。個々の相関体において、どこに視点を置くか、どこに視点を置かないかというのは作者が目印を置いている場合もありますが、常に読者が作者の想定したように読んでくれるわけではないのです。

また、イーザーの面白いところは読者の読みが弁証法により高次のものに進化していくとしているところで、イーザーはその読むという行為中に生まれたものを「美的対象」と表現しました。イーザーのこの考えは当時の日本の教育にも歓迎的に導入されたらしいのですが、学生があまりにもアナーキーな読みをするということであまり長続きしなかったらしいです。まあ読者反応批評って本をわかる人にしか批評を認めてませんから、読書や批評の基礎を学ばせてからじゃないとそりゃ失敗するよなあと思いますが。。。

またイーザーの考えの問題点として挙げられるのは、弁証法的により高次の解釈を希求していくために常に解釈の更新・修正を迫られるために確定させることができないということ。確定していないということは、まだ存在していないことと同じになってしまうので、いつまで経っても批評が終わらないんですよね。また弁証法という発展思想的な考え方そのものも、第二次世界大戦の勃発によって批判されることになります。常に高め合って上を目指していこうぜ!という考えにも限界があるということですね。。。

さて、なんとか1週間前の記憶とメモを頼りに最低限のことをさらえたと思います。なんやかんやで執筆開始から3日経ちました。個人的には好きな回だったのでまだなんとか記憶がセーブされていて助かりました。やっぱりすぐ書いた方がいいですね、ブログって。でもゼミ終わった後ってめちゃくちゃ一気に疲れが押し寄せてくるんですよね。何もする気になれない。無気力になってしまう。あと一応の達成感もあるので、しばらく浸っていたいっていうのもありますよね。そこからすぐブログっていうのは、もうちょっと勘弁してくれよ。。。という気持ちになります。。。でもそれってつまり一週間のうち2日間ゼミのことしかやってないということになるんですよね。私の場合、火曜日全部使ってレジュメ用意していて、で、水曜日の午前中とかにブログ書いたりしてるので。いやーーーーー。これはーーーーー。まずいよーーーーーー。

まあでも大学に入って一番研究っぽいムズカシイことしてるのってこのゼミなんで。それは大きな意義あるよなって。ということで一応のフォローを入れておきます。

あと余談なんですけど、ヤフオクで買ったギター、実物見てみたら写真よりもだいぶ鮮やかな色で笑っちゃいました。久しぶりに草生やしました。「鮮やかすぎだろwww 舐めてんのかwww 今どき空でもそんな鮮やかじゃねえよwww」って。

いや彩度マイナス80くらいしてんだろコレ。たぶん返品します。返品はロックの基本なので。でも慣れると意外と可愛いかもなあと思ったりもします。

それではここいらでお暇させて頂きたく思います。あと村上さんゼミから2日も引っ張ってしまって本当にすいませんでした。許してください。いや本当にアレだけは勘弁してください。。。アレだけは本当に。。。お願いします。。。どうか。。。すいませんでした。。。ハイ。。。徳村でした。。。