チョリーッス。今季ブログの殿(しんがり)を務めさせてもらいやす、徳村でござんす。お控えなすって。最近藤本タツキの漫画にハマってます。チェンソーマン、おもれーっすね。ファイアパンチ、イカれてますね。ルックバック、圧倒されますね。発想力の暴力ですな。もっと早く知りたかったぜ。そして今回のブログは情緒がジェットコースターラブ/KARA状態なので、躁鬱みたいな文章が各地に見られる予報です。エッッッッッッッッッ?なぜかって?なぜってそりゃあ、そうでもしないと滞らせることなくブログ書けないからに決まってるジャーーーン!
今回の前座では岩井俊二の映画『花とアリス』をご紹介。岩井美学が造り上げる映像美はもちろん、劇伴が素晴らし散らかしてんだよなぁ!コレ!!!各種ストリーミングサービスでもオリジナル・サウンドトラック『H&A』が配信されてるだろうから、要(Yo)要(Yo)要(Yo)チェケラだぜ~!!!これ聴けばもう一瞬で花とアリスの世界にトリップできちゃうっていうバリ☆ヤバな代物!!!おっしゃ~花とアリスでレッツ彩ろうぜ日々~!ビバ日々~!
さて、今回メインで扱ったのは、「オリエンタリズム」と「新歴史主義」です。「オリエンタリズム」っていうのは、簡単に言うと西洋人から見た「西洋でない文化」に対するイメージのこと。よく意味の分からない漢字をタトゥーにしたり、やたら仏像を集めてる西洋人がいますよね。そういった西洋人の非西洋的な物に対する好奇の思考・行動様式っていうのをオリエンタリズムというのです。このオリエンタリズムって、一見「非西洋に対する興味があって価値を認めている人」みたいな印象を抱いてしまうのですが、実際にはそんな単純な話ではなくて…。実は西洋っていうのは、そんな感じで非西洋的なものを『他者』として、『異物』として扱って、ある種そうやって非西洋から自らを疎外することによって自己のアイデンティティを確立していたっていう側面があるんですねー。文明が他の地域よりも発達していた西洋っていうのは、非西洋に対して感情的で魔術的で、野蛮な存在だというイメージを抱いていて、それに対比させる形で自らを理知的な存在であると認識していたんです。今となっては、非東洋人、ことさら日本に対して野蛮であるとかそういうイメージを持っている人はごくわずかだと思うのですが、それでも西洋人にとって漢字のタトゥーを自分の身体に入れるっていう行為は、非西洋的な物である漢字に対してある種の魔術的なパワーを感じていることに由来しているんだと考えられます。これはオリエンタリズムの思考様式が未だに西洋において普遍的なコードであるということを示しています。ただ、そういうオリエンタリズムとかを超えて非西洋な物を愛してくれている人も中にはいるわけなんですよね。ただ単に「めずらしいからなんかいい」とかじゃなくて、どういうところが好きで、こういうところが素晴らしくて憧れなんだと言ってくれる人はオリエンタリズムを超えた人なのかなと考えたりします。
で、問題はそういったオリエンタリズムを、非西洋人が受け入れて内面化しちゃってるところにもあるんです。日本でも一般的に、肌が白いことっていうのは優越されていますよね。美白至上主義っていうか。そういうのも、知らず知らずのうちに西洋人(白人)の価値観であるオリエンタリズムに染まっちゃってるってことなんですよね。日本は明治期の文明開化に際に西洋諸国の文化・生活様式を積極的に取り入れたっていう経緯もあって、西洋に対して自分たちは見習わないといけない、みたいな観念があるのかもしれませんよね。文化帝国主義を甘んじて受け入れてしまっているというね。またそういう文化の上下関係っていうのはアジア内でもあったらしいです。例えば日本にはかつて、朝鮮と自国を比較して「日本人は男性的で理知的、朝鮮人は女性的で感情的」という価値観があり、日本も朝鮮や中国などの周辺国から自らを疎外することで自己のアイデンティティを確立していたのです。なので日本ってオリエンタリズムとかポストコロニアルにおいては立ち位置が微妙なんですよね~。そこがなんか陰湿な日本らしいというか何というか…。
続きまして最後の厄介者「新歴史主義」にあたっていくぜぇ~!!!まず(旧)歴史主義っていうのが「歴史を直線的・発展的なものとして捉え、文学を特定の時代精神と結びつける」方法であるのに対して、新歴史主義は「歴史を、ある点では断絶したりある点では繋がっていたりするものであると非直線的・非発展的に捉え、あらゆる文学(書かれたもの)に表象され編み込まれているものとして読み解く」方法であると言えちまうんだなぁ!!!ちょっと何言ってるかわかんねぇと思うんだが、まずはこの方法の元となったフーコーの考えを整理していくんだぜ~!!!フーコーは自身がホモセクシュアルであったこともあって、研究対象を『性』として「なぜホモセクシュアルが排斥されるようになったのか」という問いを解き明かすことに尽力してたってワケなんだが、フーコーは「ホモセクシュアルという異常者は隔離する」という言説が普遍的なものではなく、歴史的な考えに過ぎないということを示すために様々な言説にあたったんだぜ~!!!過去のさまざまな言説を比較することで、歴史上のどのタイミングでそのような言説が生まれたのかその境目を見出そうとしたって事なんだよなぁ~!すげえよなあ!マジで!
で、そういう過程を経て、新歴史主義の「歴史は直線的でも発展的でもない」っていうのを示したのがフーコーなわけだ!これはフーコーの「パノプティコン」っていう刑務所に対する意見を例に挙げて説明するとちょっとわかりやすいかもだから、頑張って説明してみるぜ~!!!パノプティコンっていうのは、看守を受刑者から見えないところから監視させる構造を持った刑務所なんだが、これって、かつての刑罰が見せしめ的に公衆の面前で行われてたことを考えると、受刑者に対して権力の内面化が行われていると考えられるんだぜ~!パノプティコンでは、監視されているかどうかわからないのに、規律に従わざるを得ないわけじゃん???それってもう権力をわざわざ可視化しなくても受刑者をコントロールできちゃってるわけ。これを別の言い方で『身体の規律訓練』って云ったりするんだけど、これって歴史主義的に解釈すると刑罰の方法が発展したってことになりそうじゃん???でもでもでもでも、ここで新自由主義的な解釈をブチ込んでみると、こうやって権力を内面化したり、身体の規律訓練を行っていたのは、元々中世にもあったことなんだよなぁ~実は!!!中世の修道院では自らの罪を自ら告白して、自らに規律訓練を課すっていう風習があったらしきくて、つまり権力の内面化とか身体の規律訓練は、発展して生まれたもんじゃなくて、前にもあったことが再び近代に現れただけってことなんだぜ~!!!こんな感じで、フーコーは社会において覇権的な思考の枠組み=エピステーメー(パラダイム)っていうのが連続的にも間歇的にも現れるっていうことを示したワケよ!!!!いや~なかなかムズイこと言ってくれるよな~、コンチキショー!!!!だぜ~!
そんなわけで今回のブログも終わりが近づいてきました。こんなのが今季最後のブログになってしまうことは心許ないですね。終わってみると色々感慨深いですが、一つ言えることは毎回毎回本当に億劫でした。だってあんなに意味の分からないことにもう一回向き合わなくちゃいけないなんて…。辛すぎるよ…。こんなのってないよ…。あんまりだよ…。こんなの絶対おかしいよ…。と鹿目まどか状態になりながら這いつくばって書いたブログはきっと俺の糧になっていると俺の中のリトルファンキー加藤が言っている(ような気がする)のでいい経験になったと思っています。私のブログを村上さんのブログと比較すると、品質と品格に歴然とした差があることに関して私は極めて自覚的であり、反省の余地はありあまるほどですけども、そうしなければ書き上げられなかったので許してニャンの構えです。
それではみなさん読んでくれてありがとうございました。お腹が空いたので終わります。またいつか/どこかで。