Thesis

【3期生】
室 汐里「「恨む」行為の可能性 ―『マギ』に描かれる「堕転」を読み解く―」
『マギ』は、2009年から2017年に週刊少年サンデーにて連載された、大高忍による日本の漫画作品である。本稿では、作中に描かれる、自分の運命を恨んだ人物が引き起こす「堕転」という現象を分析し、「恨む」という行為が持つ可能性を探った。作中に登場するカシム、ドゥニヤ、モガメット、白龍という4人の人物に関する描写を、ロシアの民話学者ウラジーミル・プロップ(Vladimir IAkovlevich Propp, 1895~1970)の理論を用いて分析し、「恨む」という行為によって成立する「冒険譚」が存在すると結論付ける。
第1章では、漫画作品に関する先行研究を紹介する。第2章では、『マギ』という作品の概要を説明し、分析の上で必要になる前提を共有する。第3章では、作中の「堕転」という行為が、作品の舞台においてどのようなものとされていたのかを確認する。第4章において、「堕転」した人物をプロップの理論を用いて分析し、登場人物たちが「堕転」によって、目的を達成するための力を得てきたことを指摘する。第5章では、「堕転」した人物たちの中で唯一生き残り、作品の結末にも関与する白龍という人物に注目し、「堕転」という行為が持つ可能性を探る。

相田 恭兵「『あなたの人生の物語』から読み取る「語り手」の認識と物語構造の関係性」
『あなたの人生の物語』は複雑な物語である。過去と未来が区別なく語られ、様々な出来事が等しく同じ価値をもって語られる。時系列に沿って物語が語られることは『あなたの人生の物語』において、望むことはできないだろう。読者はこの時系列と出来事の語られ方の不整合に翻弄され、また物語にて語られる宇宙人の思考にもう一度翻弄される。
しかし、だからといって『あなたの人生の物語』という物語が理解不能な物語かと問われれば、その答えは否である。この物語を複雑な構造と読者が判断することは、読者の持つ過去と未来に対しての先入観と、宇宙人の持つ人類とは方向性の異なるものの見方を私たちが想像できていないからである。本論文では、『あなたの人生の物語』がなぜこのように複雑な物語だと感じるのか物語の「語り方」という観点と、物語の内容そのものの双方向から分析を行うことで、この物語の持つ「語り」の特異性を明らかにしていくものとする。

提中 萌夢「「信じる」とは何か ―小説『怒り』を通して考える―」
『怒り』は2014年に吉田修一によって書かれた長編小説である。本稿では、平野啓一郎の「分人」の概念を用いて作品を分析することで、本小説が「信じることの難しさ」や「人を疑ってしまうことの闇」を描いた作品であるということを明らかにし、「信じる」コミュニケーションとは何か、ということについて考える。第1章では、『怒り』のあらすじ及び作品概要、先行研究を紹介する。第2章では、『怒り』の語りの構造について分析することで、本小説が単なる犯人探しのミステリーではなく、人間同士の「信じることの難しさ」が描かれている物語であると論じる。第3章では、平野啓一郎の「分人」の概念を紹介し、『怒り』の中で分人が引き起こした問題を取り上げることで、「信じる」ことの難しさが作品の中でいかに描かれているか考察する。第4章では、難解である「信じる」コミュニケーションをどのように乗り越えていくべきなのかを小説を通して分析し、自身の認め難い「分人」を受け入れ、自分自身を信じることで成立するものであると結論付ける。第5章では、何故『怒り』の中で愛子や優馬のような人物が描かれたのかを考察することで、小説の中で登場人物に起こった出来事は、誰にでも起こりうる事であると指摘する。
社会学や心理学の観点から語られることの多いコミュニケーションについて、本稿では、小説を通して、コミュニケーションに対する人間の意識や問題について考えることが可能であると証明し、研究の意義としたい。

横野 由佳「テルマとルイーズは何故崖から飛び降りたのか? ―映画『テルマ&ルイーズ』から読み解く新たなヒーロー像と承認の形―」
1991年に公開されたリドリー・スコット監督の映画『テルマ&ルイーズ』は主人公であるテルマ、ルイーズという2人の女性が崖から飛び降りることで映画のエンディングを迎える。本論文では、何故テルマとルイーズが崖から飛び降りたのかを考察しようとするものである。そのためにまず、『テルマ&ルイーズ』がどのような作品であるかを作品情報から分析する(第1章)。次に、『テルマ&ルイーズ』に関する論評や研究からこの作品が性差による視点でしか語られていないといった問題点をいくつか指摘する(第2章)。第2章で指摘した問題点を解決するために第3章で構造主義について説明を行う。その後ウラジーミル・プロップの提唱する「物語の31の機能」「7つの行動領域」を『テルマ&ルイーズ』への照応を行い、この作品がこれまでの冒険譚とは異なり「成功報酬を獲得しないヒーロー」であるということを明らかにする(第3章)。そして、第3章で行った分析をもとに第4章でテルマとルイーズが崖から飛び降りた理由を「承認」という視点から分析する。その結果、テルマとルイーズは「自らの望まない承認しかされない世界や他者からの逃避を行う為に崖から飛び降りた」という結論に至った(第4章)。

前田 旅人「REFERENCE OF THE DEAD  ―物語の表現形態とゾンビの自己言及性の関係についての考察­―」
この論文は、映画・小説・ゲームの異なる表現形態に登場するゾンビの表象のされ方を分析し、表現形態の違いに応じて、作品に描かれるゾンビの性質がどのように変化するのかを検討したものである。
第1章では、ゾンビ表象について分析した先行研究を挙げ研究の到達点を確認した上で、先行研究の問題点を指摘し、本論文で取り組む課題について明らかにした。加えて、ゾンビと他の怪物表象の比較を通してゾンビが独自に持つ「怪物と人間の性質を併せ持つ境界的な存在」という特徴を明らかにし、そこから脱構築批評を行う余地を見出した。
第2章では、『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』を例に挙げて映画におけるゾンビ表象を分析した。その結果、撮影と編集という映画特有のプロセスが作品の作り手や受け手の欲望を充足させるために作品に作用した結果、残虐に打倒されるべき存在としてのゾンビの一面が強調されて表現されていることを明らかにした。
第3章では、『コンテクスト・オブ・ザ・デッド』『高慢と偏見とゾンビ』を例に挙げて小説におけるゾンビ表象を分析した。その結果、ゾンビが文学の抱える問題点を物語る存在として、また過去の文学作品において描かれてこなかったものの存在を物語る批評的な存在として描かれていることを明らかにした。
第4章では、『SIREN』を例に挙げてゲームにおけるゾンビ表象を分析した。その結果、作品の受け手であるプレイヤーに失敗および成功体験を与えるというゲーム作品特有の要件を満たす存在として独自の性質を持つゾンビが用いられていることを明らかにした。
結論として、ゾンビは映画、小説、ゲームの各表現形態に対して自己言及的な存在として立ち現れる批評性を持つ存在であり、ゾンビはあらゆる事象に対して批評を持ち得る一種の概念ではないかという考察に至った。

【2期生】
三宅萌木「なぜ映画『わたしを離さないで』で描かれるルースの最期は残酷なのか」
 読んだことのある小説が映画化されている。小説で読んだあの場面はどのような映像になっているのだろうと映画を観ると、原作の小説と台詞や表現、細かな設定が変更されていることに気が付くことはないだろうか。しかし、よほどの原作ファンでない限り、映画化に伴って起こる細かな変更は映画の上映時間の事情によるものだと考え、執着しないのではないかと思われる。そこで、本稿では小説を映画化するに伴って起こった細かな変更点に目を向けたいと思う。
本稿はカズオ・イシグロの長編小説『わたしを離さないで』とそれを原作とする映画を比較する。「小説と比較して、なぜ映画の中で描かれるルースの最期は残酷なのか」をテーマに設定し、映画の中に内包されるイデオロギーをあぶり出すである。まず第1章において小説と映画のストーリーの比較を行い、映画化に伴う変更点を洗い出す。第2章で本稿における論点の整理を行う。第3章、第4章、第5章でストーリー比較から見えてきた要素を取り上げ、より丁寧に比較していく。第6章で映画に見られるイデオロギーを探る。最後に結論として、これまでの分析を踏まえたうえで、「なぜ映画の中で描かれるルースの最期は残酷なのか」を考察する。

板橋洋子「青春小説における自己把握 ― 適切な自己イメージに至るためのトライアル ―」
 近年、「生きづらい」と感じる若者が増加している。それと同時に、「自己肯定感」という単語を耳にする機会が増え、「自己肯定感を抱くことが必要」としきりに言われるようになった。しかし本当に自己肯定感を抱くことは必要なのだろうか。
本稿ではその疑問に答えるため、「自己把握」という、他者の存在を必要とすることなく自分自身を認識する過程が存在すると仮定する。そして既存の心理学の「セルフ・エスティーム」や「自己肯定感」といった概念の持つ問題点を指摘し、現代の若者の抱く「生きづらさ」を解消する方法について考察する。
第1章において心理学の分野における「自己肯定感」と「セルフ・エスティーム」について定義づけを行い、現状の心理学における問題点を指摘する。さらにその問題点を解消するに有効と考えられる「自己把握」という新たな概念について提唱・説明し、第2章~第4章で「古典部シリーズ」、「小市民シリーズ」、『ボトルネック』の分析を通し、その有用性を証明する。第5章において、分析を踏まえて「自己把握」について特徴等を整理する。第6章で「自己把握」の意義を提示し、その有用性を証明する。

清水智美「芸術との対峙で表面化する「想像の共同体」~ 鑑賞者の国民意識を揺さぶる春画・戦争画 ~」
本稿は、絵画や彫刻をはじめとした「芸術」の価値とナショナル・アイデンティティの関わりを明らかにするものである。アメリカの社会学者ベネディクト・アンダーソンは、ナショナリズムによって形成された国民国家を「想像の共同体」と呼び、これに博物館が深く関係していることを指摘した。
公的な美術館や博物館、およびその収集資料である文化財は、人々のナショナル・アイデンティティに大きく影響し、人々の精神を支えている。この関係性は、ある作品を「芸術」に押し上げることが出来るのと同時に、作品が担うイデオロギーごと「芸術」から引きずり下ろしてしまうこともある。その例として本稿では、日本の春画や戦争画に対する評価が、時勢にあわせて大きく変化してきたことを論じ、この現象とナショナリズムの切り離せない関係性を示した。
普段は鳴りを潜めている鑑賞者のナショナル・アイデンティティは、芸術作品と対峙したときに表面化する。博物館や美術館という制度は「想像の共同体」の存在を明示することで、この効果をさらに強化する。その結果、意識的・無意識的に関わらず、鑑賞者は芸術との対峙によって、自身の国民意識との対話を促されているのである。

日高華英「物語の構造に隠された作品の魅力 ― 映画『ハリー・ポッター』シリーズは単なる魔法物語にとどまらない ―」
『ハリー・ポッター』は、小説・映画ともに約10年におよぶシリーズ作品である。本稿では、映画『ハリー・ポッター』シリーズの特徴を明らかにするべく、構造主義の文脈で培われてきた批評理論を援用し、作品の物語分析を行う。具体的には、第2章でロシアの民俗学者ウラジーミル・プロップが提唱した昔話の「31の機能」を参照し、映画『ハリー・ポッター』シリーズが物語の普遍的な構造を有しているかどうかを検討する。なかでも、第3章において「加害」機能に注目することで、シリーズ各作品の構造的な相違について論じる。次に、第4章では、ドイツの文学者マックス・リュティによるヨーロッパの魔法物語の分析を踏まえ、映画『ハリー・ポッター』シリーズに登場する「呪具」が、魔法物語に欠かせない典型的な「呪具」と合致するかどうか検討する。最後に、第5章では、プロップの31の機能のうち「出立」と「帰還」に注目し、映画『ハリー・ポッター』シリーズ各作品において主人公のハリーにとって“家”の役割を果たす場所はどこなのか検討する。これらの分析をもとに、映画『ハリー・ポッター』シリーズ全8作のうち、1~3作目、特に敵対者のいない3作目はシリーズにおける構造的な役割を果たしているのだろうか、という疑問があったが、シリーズ全体を通して活躍する「呪具」に注目することで、1~3作目の重要性を見出した。また、主人公ハリーにとって“家”の役割を果たす場所の完成の過程に注目することで、さらに3作目の重要性を見出した。以上のことから、映画『ハリー・ポッター』シリーズは、多くの人に受け入れられやすいという普遍性だけでなく、典型的な物語とは異なる独自性と複雑さをもっていると考察した。

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