2022年度2年ゼミ第9回「『ジェンダー・トラブル』とクイア・スタディーズと書き手の自分語りと」

篠原涼子が歌ってそうなタイトルだよね(?)

皆さんどうもこんにちは~

第9回のブログを担当する神津優士です。初見だと「なんて読むんだろう…」ってなりますよね。「こうづ ゆうし」って読みます。神津姓の方にも優士という名前の方にも今まで会ったことないので、いつか会えたらなぁと日々思っております。

最初に簡単な自己紹介させてください。

東京生まれ東京育ちの19歳です。あと1ヶ月もしないうちに20歳を迎えます。趣味はサッカー観戦です。週末になると、スタジアムに出向いたりテレビで観戦したりしてます。トッテナムとFC東京という2つのクラブを応援してるので、皆さんも良ければチェックしてみてください(急な宣伝)。今冬にはカタールW杯も控えているので今からワクワクが止まりません。音楽を聴くことも大好きです。特に、Creepy Nutsが好きでLiveにもしばしば足を運んでます。「かつて天才だった俺たちへ」という曲がかっこよすぎるので、是非皆さん聞いてみてください(急な宣伝Part 2)。あと、最近は『BLEACH』というジャンプから出てる漫画を読んでます。もう既に1周してるのですが、面白すぎて2周目も終えて、今は小説版と呼ばれるまた新たなストーリーを読んでいます。10月から最終章「千年決戦篇」がアニメ化するので、これもまた楽しみです。

とまあ、軽い自己紹介を済ませたところで今回のメインに入っていきましょう。

1.ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』について

今回は、授業中のプロジェクター不調もあって100分みっちり批評理論の学習。リアぺの返答やレポートの構想発表がない分、普段より濃厚で濃密な、例えるならお菓子のトッポに入ってるチョコくらいたっぷりと、批評理論について語り合いました。

そんな今回取り上げたのが、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブルーフェミニズムとアイデンティティの攪乱』です。昨今特に盛んに議論が繰り広げられているジェンダー研究。非常に論争的なテーマであり、かつ自分たちの生活に密着した問題を研究する非常に身近なテーマです。明治大学の情コミの授業でも「ジェンダー論」の授業がありますね(私も履修してます)。このように、今ホットな話題であるジェンダー研究において、パラダイムシフトをもたらした革新的な著作こそ、今回取り扱う『ジェンダー・トラブル』なのです。ではまず、著者ジュディス・バトラーについての紹介をしておきましょう。

ジュディス・バトラー

1956年生まれで、現在もなおご活躍中のアメリカ出身の哲学者です。比較文学研究者やジェンダー・クイア研究の理論家としても知られている方です。自身がレズビアンであることを公言していて、積極的にレズビアン・コミュニティでの活動を行っているそうです。

『ジェンダー・トラブル』

ここから、バトラーの『ジェンダー・トラブル』について具体的に話していこうと思います。先ほども記した通り、『ジェンダー・トラブル』はジェンダー研究のパラダイムシフトをもたらした革新的な作品と言われております。では、どのような点が革新的だったのでしょうか。それは、ジェンダー(社会的性差)とセックス(生物学的性差)の先後関係を脱構築した、と言う点です。脱構築と聞いて「おっ?」と思ったそこのあなた、素晴らしいです。今までの2年ゼミのブログをチェックしている方だと、なじみのある言葉かと思います。初めてこのブログを開いて、脱構築を知っていた方はめちゃくちゃ賢いです。脱構築とは、フランスの哲学者ジャック・デリダが唱えた読解方法であり、あるテクストから、その中心的思想とそれに対立するような思想の可能性(相矛盾する要素)を同時に取り出し、後者によって前者を、あるいはその思想総体そのものを相対化する方法です。簡単に言うと、AとBという二項対立があった時、Aの中にBの要素を見出してなし崩しにする、ということです。詳しくは第7回、第8回で取り上げているのでそちらのブログを参照してください。

そしてバトラーが取り上げた二項対立は、ジェンダーとセックスです。そもそも、フェミニズムという思想は比較的新しい思想なんです。フェミニズムという思想が出てくる前、すなわちフェミニズム以前の考え方では、身体的な特徴に基づく男女の差異(セックス)を社会における男女の役割や規範に応用するのが主流だったんです。

このような潮流に対し、そうした役割や規範は男女の性差とは関係なく、社会的に構築されるものだ!と主張されるようになりました。これこそが、フェミニズムの誕生です。フェミニズムの誕生と同時に、この主張によって掲げられたのが社会的性差「ジェンダー」です。フェミニズムの見解は、ジェンダーに先んじてセックスが存在した、というものでした。「男女」という動かしがたい絶対的な性差(セックス)を前提として、その上に文化的な性差(ジェンダー)があると唱えたわけです。しかし、ここでジェンダー研究は思わぬ壁に当たります。フェミニズムは、性差に影響されない男女平等の社会を目指しています。しかし、セックスを前提としてしまったことで、自らの手で性差を確かなものとしてしまったのです。言うなれば、墓穴を掘ってしまったわけですね。これによって、ジェンダー研究は行き詰ってしまいます。

しかし、ここで現れたのがバトラーです。バトラーは、セックスこそがジェンダー概念によって構成されている、と唱えました。我々が普段から考えている生物学的性差は何を根拠にしているのか?という問題提起を行ったのです。外性器か?染色体か?はたまたホルモンか?これら全てを根拠としたところで、これらもまた様々な科学的言説によって作り上げられた社会的構築物に過ぎないのではないか?このようにバトラーは主張したのです。実際問題、新生児の性別というのは医者が決めますが、外性器では区別が難しい新生児が多く生まれているようです。また、遺伝子で性別判断を行う場合にも、判断が難しい新生児がいるようで、バトラーの主張は的を射ていると思えます。この主張こそ、パラダイムシフトを引き起こした大きな要因だったんですね。

2.クイア・スタディーズについて

『ジェンダー・トラブル』から派生して、クイア・スタディーズについても学びました。

クイア・スタディーズの「クイア(Queer)」とは、日本語に訳すと「変態」や「オカマ」というような意味であり、非異性愛者を侮蔑する差別用語です。絶対に他人に言ってはいけない言葉遣いですね。英語圏では1990年代初頭を画期として「クイア」という言葉が運動・学問の領域で使用され始めました。80年代終わりまでは、非異性愛者をLGBTとしてカテゴリー化してきたのですが、そういったカテゴリーを集約する言葉として、また、細分化されたセクシュアリティの多様な差異を浮かび上がらせて思考を深化させるための概念として、当時の研究者たちは「クイア」という言葉を用いたのです。

ここでの「クイア」という言葉は、その人物のジェンダーやセクシュアリティなど、その人物の何らかの属性やアイデンティティを指し示すものではありません。また、ジェンダーやセクシュアリティの領域のみならず「社会規範から逸脱していること全て」において適用できる概念です。なので、そうした逸脱性をクイアとして受け止めるかどうか、そのように言い表すかどうかは当事者意識のもとで成り立ちます。要するに、何らかのマイノリティな一面を持っているとしたら、それはもうクイアと言える一面を持っているということです。そう考えると、ほとんどの人がクイアの要素を持っていると思えませんか?個人的な話になってしまうのですが、私は幼少期から鼻の粘膜が弱くてよく鼻血が出てしまう体質です。つい2週間ほど前にも鼻炎アレルギーが出て鼻血を頻発したので、耳鼻科に行ってきました。これは、紛れもなく「クイア」であるわけです。だけど、これを負い目を感じたり差別されたりといった経験はありません(人より面倒くせえ体質だとは思ってますが…)。人それぞれクイアな一面を持っていることを自覚することで、ジェンダーやセクシュアリティへの差別も減っていくのではないかなぁと感じました。

授業を振り返って

改めて、『ジェンダー・トラブル』そして「クイア・スタディーズ」を振り返って、今までの自分の中の固定概念が崩されて、また、新たな考えが構築されてとても良い貴重な授業だったなと感じました。特に、バトラーのセックスこそがジェンダー概念によって構成されているという主張にはハッとさせられました。ジェンダーとセックスについて議論をするときに、「でも、結局は人って外性器持ってるじゃん。」となりがちです。実際自分も同じようなことを言ってました。しかし、外性器で男女を判断するのはなぜだろうとは、考えたことがなかったです。ましてや、外性器が社会的な利害に寄与するために科学的言説によって作られた構築物である、なんて想像すらしたことがありませんでした。ですが、今回の授業で初めて考えてみた時、確かに疑問点が浮かび上がったんですよね。外性器や染色体で男女を区別するって誰が決めたんだろう、男女の区別に利用するための後付けに過ぎないんじゃないか、って。今回みたいに、当たり前のことを疑って新たな発見を見つけ出す、これがクリティカル・シンキングか!と身に染みて感じました。また1つ、賢くなった気がします。今回の授業を第一歩として、これからの大学生活で自分の考えをどんどんアップデートしていこうと感じました。皆さんも、ぜひ当たり前一度疑ってみて、自分の考えをアップデートしていきましょう!私にも、皆さんにも、まだまだ賢くなる余地があります。ここまで、長文読んでいただきありがとうございました。

ブログの最後は、好きなアーティストの好きな歌詞で締めますね。

俺らまだのびしろしかないわ(Creepy Nuts『のびしろ』より)

二年ゼミ 第8回「脱構築うんぬんをゆるく振り返るよ」

 こんにちは~。寺本です。

 タイトルの通り、今回は第8回にやったことをゆるく振り返ります。

 個人的に、ブログって頭空っぽにしても読めるのが良いところだと思っています。

 なんで、まあ、なるべく読みやすいようにふざけて書きたいんですが、如何せん、ブログなんて今までの人生で書いたことないので、あちらこちらすべっているところがあるかもしれません。

 しかし、すべるのがスキーです。すべろうともしない人はすべることすらできません。スキー場に行ってすべらないのは入場料が無駄です。もったいないです。

 ともかくお目汚しになるかもしれませんが、最後までよろしくお願いします。

1.リアぺの振り返り

 その前に授業方針の変更について。

 今までリアぺ紹介がゼミの大半を占めすぎて他にやりたかったことができないということで、少しリアぺ紹介の時間を減らすことになったそうです。

 確かに復習ばかりしていても前に進まなかったら本末転倒ですね。良い方針だと思います。

 で、そのリアぺについて具体的に振り返ろうと思ったのですが、書けません。

 どんな話してたか忘れました。

 ……前に進んでばかりしていても復習しなかったら本末転倒だということも身をもって分かりました。

 要はバランスが大事だということです。勉強になりましたね!

 ……今度からメモ取ります。すんませんでした。

 だから結論としては皆、多分良いこと書いてた気がします! 知らんけど

2.脱構築について

※前回の続きなので内容が被っているところがあるかもしれません。あらかじめご了承ください。

 授業を受ける前に「脱構築とやらはどんなもんなのか」と、課題文を読んでみました。

 自慢になりますが、僕は自分がそこそこ理解力のある方だと思っています。

 昔の文献だけれど、僕なら余裕でしょう。

 そんな心持ちでクラスウェブに載っているPDFをクリックしました。

 以下、ジャック・デリダ「グラマトロジーについて」冒頭を引用。

「一、文字言語の知識において輝ける者は、太陽の如くに輝くであろう。

 おおサマス(太陽神)よ。汝は国々が楔形の記号ででもあるかのように、国々の全体を汝の光によってつぶさに見ているのだ。

 ニ、これら三つの書き方は、国民として集まった人々を考察し得る三つの異なった状態にかなり正確に対応している。対象の描写〔絵画化〕は未開の民族に、語や命題の記号化は野蛮な民族に、アルファベットは開花された民族に、ふさわしいものである。

 三、アルファベット的文字言語〔アルファベット文字〕は、即かつ対自的に最も悟性的である。」

 ??????????

 デリダさん?????

 思春期真っ盛りの中学生の押入れにひっそりと隠してありそうな難しい文言が突如視界に表れました。

 1割も……どころか、1%も分かりません。

 初め、楔(くさび)が読めず、文字変換が出来ませんでした。(これは単に僕がバカなだけかも)

 いや、しかしここまではデリダさんではなくどうやらヘーゲルさんのお言葉のようです。

 それなら、ここからがデリダさんの言葉です。読みやすくなるかもしれません。

 僕は諦めずに最後までチャレンジしました。

 ……結局、最初から最後まで何言っているのか分からなかった僕は頭を抱えました。

 なんで僕はブログ決めの時に直感に任せて意気揚々とこの回に挙手をしたのだろうか…。

 後悔に苛まれながらも、前回、今回と脱構築の授業を受けました。

 結果、なんと内藤先生のありがたいご教授のおかげで理解することが出来ました! 7割くらい。

 先生の説明はとても丁寧で、全く問題なかったです。

 どうやら僕の理解力が単純になかったようです。申し訳ありませんでした。

 されど7割。

 野球選手で打率7割はぶっ壊れ性能です。なので振り返ります。

 ゆるく表現するなら脱構築とは「理論の矛盾を見つけて崩壊させること」だと思います。

 色々ありましたが、その中で「民族中心主義」の例を挙げます。

 民族学者のレヴィさんはブラジルの無文字社会を書記言語に支配されていない無垢な共同体だと言いました。つまり褒めたのです。

 一見これは、他国を肯定しているという点で良いことのように思えます。

 でも、少し引っかかりません?

 例えるなら、野菜の味が好きで食べているだけなのに「野菜食べてて偉いね」って言われているみたいな……。

 別にこっちは偉いと思って食べているわけではないのに勝手にそっちの価値観で決めつけられて褒められるみたいな感じ。これはブチ切れても仕方ないと思います。

 あ、因みにこの例えは自分がテキトーに考えただけで、決して実在の人物、団体とは関係ありませんので悪しからず。

 つまり、民族中心主義とは、「自分の育ってきた価値観、文化を基準にして他の文化を評価すること」なんですね。これにデリダさんは異を唱えたんです。

 無文字社会の例に戻りますと、音声言語から文字言語という時間的な発展に過ぎないものを全く文化の違うブラジルにも当てはめるレヴィさんを批判し、その考え方を脱構築したのです。

 こういうことです。……合ってるかな? 

 自信がありませんが、ともかく、脱構築はこのようにして実際に人々の意識に潜んでいる選民思想的な考えを否定しました。

 もちろんこれは数ある例のたった一つで、他にも間違った結論へ行こうとする人々の目を覚ませる良い理論だと思います。

 ただ、これを認めすぎてしまうと、あちらこちら陰謀論だらけになってしまう気がするので、やはり何事もバランスではないでしょうか? どうなんでしょう。

3.レポートの構想発表について

室田雛さん

 テーマは「月9からラブストーリーが減った理由」だったと思います。(間違えてたら僕は馬鹿です)

 月9とは「月曜日9時から始まるドラマ」のこと。

 昔はラブストーリーが多かったそうですが、最近は様々なジャンルのドラマが多いそうです。

 むしろ最近はそのジャンルの中にすらラブストーリーが不自然にないそうです。

 それは何故なのか……というのがテーマになります。

 当方、根暗なもんでドラマに関して全くもって知識がないので共感は出来ません。

 しかし逆にそれがゼミの面白いところで、自分の知らない世界のことを他のゼミ生がこうして発表して、知ることが出来る。色んな人の色んな考え方が分かる。とても良いことだと思います。

 それに、知らなかった僕でも気になる面白そうなテーマですしね。

 白川大翔さん

 テーマは「人が物語に感動する要素は何か?」だったと思います。(間違えてたら僕は大馬鹿です)

 これは物語が好きな人……つまり、ほぼ全人類が気になるテーマだと思います。

 しかし、だからこそ抽象性が高く、難しいと思います。

 例えば、文献の収集がたくさんある点でそもそも難しいことや収集したとしてもその論証も難しい。

 先生も授業でそこを指摘していました。僕もそう思いますし、実際そう彼に伝えました。

 けれど、少し考え直して、僕はやりたいならすべきだとも思いました。

 ここで妥協をして自分の興味ないことをテーマにするくらいなら、多少難しくてもチャレンジするべきだと思います。

 白川君、頑張ってください。

 4.論述分の書き方について

 確か時間がなくて授業内でほとんど触れられてなかった(と思う)ので割愛します。

 決してここまで書いてきてめんどくさくなったわけではありません。

 

 振り返りの振り返り

 今、ここまで読み直したのですが、長くね?

 明らかに他の人より倍ほど長いし、あと、すべってね?

 長くて面白くないってそれもう軽い地獄だけど大丈夫なの?

 自分ではもう分かりませんが……長さに関しては大は小を兼ねる理論で乗り切り、面白さに関してはスキーも一緒理論で論破していきましょう。

 まあブログ書くのも楽しかったんでよしとしましょう。そもそもそんなに読んでくれる人もいないだろうし。

 ほんと長いんで、もう終わります。ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

8期生ブログ第7回「異化ゲーム」

ダジャレかよ……

そうです。ダジャレです。イカと異化をかけたダジャレです。

これを思いついたとき、「ふふっ……w」ってなりましたね。

皆さんもありません? 

おもしろいアイディアを思いついたとき、「ふふっ……w」てなること……。

あ、無い?? ならいいんです…。

申し遅れました。第7回ブログ担当の関口です。

まずは軽く自己紹介をしますね。好きなことは、読書、映画鑑賞、ランニング、食べることです。映画は2日に1本のペースで観てます。映画オタクですね。好きな監督は、ポール・トーマス・アンダーソン、エドワード・ヤン、クリストファー・ノーランです。

好きな作家は、太宰治、村上春樹、ヘルマン・ヘッセです。自意識過剰な主人公が好きなんです…。

走るのも好きです。週に2回、1時間ぐらい黙々と走ってます。確実に村上春樹から影響を受けてますね。恥ずかしい限りです。最近は走りながら、バンプ、宇多田ヒカル、GReeeen、を聴いてます。”ray”、ヤバいですね。“Automatic”、キュンキュンします。”僕らの物語”、マジで最高です。

内藤先生には2年ゼミからお世話になってます。内藤ゼミ2年目になります。でも、ブログ書くのは初めてなんです…。ゼミ生さんには驚かれましたね〜。「おまえブログやったことないんかい!!」とか、「え?? 2年目だよね??」って。2年目だからって、先輩風吹かしていられないですね〜。

それでは、グダグダな前置きはこれくらいにして、サッサと本題に入りましょう。

前座

担当は上西さんです。

松本大洋さんのマンガ、『ルーブルの猫』、『サニー』、『ピンポン』をご紹介いただきました。私が興味を持ったのは『ピンポン』です。なんでも本作は、嫉妬・挫折・敗北を描いたスポーツ・マンガだとか。いいですね〜。このドロドロとした感じ。某◯ャンプ系スポーツ・マンガには見られないものですね。友情・努力・勝利、クソ喰らえ!って感じですかね。

2限

『批評理論入門』の「反復」「異化」について学習しました。

担当は井上さんです。

反復

小説ではさまざまなものが反復されます。例えば、出来事、場面、筋、人物、言葉などです。『フランケンシュタイン』でも反復が見られます。

さらに、ゼミでは、「反復」そのものがテーマとなっている作品が挙げられていました。例えば、登場人物が無限ループにハマったり、あるいは、同じことを淡々と繰り返す作品です。以下がその作品です(異化とのダジャレではない)。

  ・涼宮ハルヒの憂鬱  エンドレスエイト (8を横にすると∞)

  ・シュタインズゲート

  ・うる星やつら

  ・恋はデジャヴ

  ・日常系アニメ

  ・らき☆すた

  ・スローターハウス5(「そういうものだ」が作中で100回以上言及される)

  ・クリーピーナッツ(こちらに関しては頭韻の例として挙げられました)

結構ありますね〜。ちなみに、このとき、すごい盛り上がりました。僕はすごいワクワクしましたね。なぜかって??「押し」について語っているゼミ生さんたちが、とても輝いて見えたからです。自分の好きなものを語るときの「熱意」は、しっかりと伝わってくるものなんですね。

さらには、ドゥルーズというフランスの哲学者の『差異と反復』ついても話し合いました。ですが、正直うろ覚えで、僕には説明ができそうにありません……(笑) 申し訳ありません……。とりあえず、板書だけ載せておきます……。

 

異化

異化とは普段見慣れた事物から、その日常性をはぎ取り新たな光を当てること(新鮮味を与える)。そのためにある要素や属性を強調し読者の注意をひき付けるように際立たせることを前景化という。(レジュメより抜粋)

つまり、「異化」とは、私たちが普段何気なく見ているものに対して、注意を向けさせることです。注意を向けさせるためには、「前景化」という方法が用いられます。「前景化」とは、大雑把に言うと、ある対象を強調することです。この言葉はもともと舞台用語だそうで、舞台の後ろにある物を前のほうに持ってくることです。

さらにゼミのなかでは、「前景化」があるのならば、「後景化」もあるのではないかという議論になりました。つまり、「後景化」とは、本来語られるべきことをあえて作中で語らないことによって、異化効果を発生させるというものです。これはなかなかおもしろい発想ですね。毎回こういう驚きと発見があるから、ゼミはおもしろいんですよね

 

4限

4限では、ヴィクトール・シクロフスキー『手法としての芸術』に取り組みました。

シクロフスキーは自説を展開するにあたって、ポテブニャーという言語学者にツッコミを入れています。

ポテブニャーは、「イメージは、移り変わる主語に対する一定不変の術語、すなわち近くの不安定な諸対象を一転に引き付ける一定不変の手段である」と述べました。要するに、目に見えるものは変わるけど、そこから生まれるイメージは不変だということです。それに対してシクロフスキーは、「それって逆じゃね?」とツッコミ入れました。つまり、目に見えるものは変わらないけど、そこから生まれるイメージは変化していくものだということです。そして、シクロフスキーは、異化効果を備えた作品こそが素晴らしいと述べていました。

続いて、「異化」の具体例について話し合いました。 まず例に出されたのが、「詩」です。

例として、萩原朔太郎の『竹』という詩が挙げられていました。この詩の中では、竹という言葉が何度も繰り返されます。これによって、「そもそも竹ってなんだっけ??」と読者に疑問を抱かせることができます。これこそ「異化」です。この詩は、私たちが普段何気なく使っている「竹」という言葉を「前景化」し、「竹」に対する私たちの認識を滞らせているのです。

 「異化」のその他の例としては以下のものが挙げられました。

  ・言文一致体

  ・止まっているエスカレーター

  ・スポーツ 

  ・書道

  ・21世紀美術館のプール

書道の例には唸りましたね…! 私たちは幾度も文字を書いているはずなのに、いざ綺麗に書こうと思ったら、途端に考え込んでしまう。これこそまさに「異化」ですね。

以上が第7回ゼミの概要になります。あと、4限の板書も載せておきますね。

イギリス土産

内藤先生からイギリスのお土産をいただきました!

なんと『フランケンシュタイン』のペーパーブックです!

しかも、6種類の『フランケンシュタイン』をいただきました! これらはすべて装丁が異なっていて、ゼミ生さんそれぞれが違うバージョンの『フランケンシュタイン』になってます。ちなみに僕のは下のものです。

装丁も然ることながら、挿絵がとにかく素晴らしいんです……! 

読んでてワクワクが止まりません!しかも、スティーブン・キングの序文がついてる……! 少しずつ丁寧にじっくりと読んでいきたいと思います!

内藤先生、とても素敵なお土産をどうもありがとうございました!

2022年度 2年ゼミ 第七回『ジャック・デリダと脱構築』

こんにちは!第七回のブログを担当する井出楓子です。よろしくお願いします。ブログの更新にだいぶ期間が空いてしまい申し訳ありません。というのも実は私、ブログにログインするためのパスワードを読み間違えていて、永遠に投稿画面にたどり着けずにいました。それも「小文字のlと大文字のIを読み間違える」というあまりにもベタすぎる間違いでして、大変お恥ずかしい限りです。

1.前座 枝松空さん

 今回枝松さんが前座で紹介してくれたのは、グッナイ小形さんという、高円寺歴七年目のミュージシャンの方。いくつかあったアピールポイントの中でも、特に印象的だったのは、彼と彼の音楽が、高円寺という街のコミュニティと共にあるということ。路上ライブの後には、小形さん御本人と観客で飲みに行くこともあるのだとか。枝松さんもその一人らしいです。とても素敵で不思議な関係性だなと思いました。これから小形さんがもっと有名になって、その人気が高円寺の街には収まりきらなくなった時、少し寂しいけれど、きっと高円寺のファンの方々は喜んでくれるんだろうな~とか、勝手に想像してうるっときちゃいました。まったくの部外者がすみません。

曲は、昭和っぽく、男臭い、渋~い雰囲気がある一方で、まるで曲そのものが邦画のような感じもして、私の語彙ではうまく言えないんですけど、とにかく素敵でした。プレイリストに入れました。

2.リアクションペーパーに対する応答

皆さん素敵なリアぺを書いていらっしゃったんですが、このブログでは省略させていただきます。もうグラスの中のロイヤルミルクティの残量が多くはないので。(カフェで書いている人)

3.レポートの構想発表

 宮沢美月さん

 テーマは「ジブリ作品と作中でキスが果たす役割」。完全に記憶頼りなので、少し間違っているかもしれないですが…。すごく面白そうなテーマだなと思いました。考察として、キスを呪いと仮定したり、ジブリ作品の女性は魔女説だとか、普通じゃなかなか思いつかないような視点でジブリ作品を捉えていてすごく興味深かったです。

 白井翔太さん

 テーマは、『ブルーピリオド』と『さよならの朝に約束の花をかざろう』の二つでまだ迷っているらしく、でもどちらも本人の好きな作品だとのこと。愛があるからきっと面白い論文になるのではないかと楽しみにしています。

4.批判理論の学習:ジャック・デリダ「脱構築」

 ジャック・デリダは、アルジェリア出身のフランスの哲学者です。

 そして彼が生み出した脱構築とは、「その中心的思想とそれと対立するような思想の可能性を同時に取り出し、後者によって前者を、あるいは思想そのものを相対化する方法」です。この説明は、先生のレジュメからお借りしました。う~ん!この時点で難しい!一回寝ようかな!いや、もう少しだけ。

 私は割と最後のほうまで、脱構築とはなにかが理解できませんでした。そんな私が授業内で勘違いしていたのは、脱構築の目的です。私は「既存の優劣をひっくり返すこと」が目的だと思っていました。音声中心主義批判を例に挙げると、「パロール(音声)が上位の存在!エクリチュール(文字)は下!」という既存の考えをひっくり返して、「エクリチュール(文字)が上位の存在!パロールは下!」にすれば、それが脱構築なのだと。しかしそうではなく、「既存の枠組みを解体して、対立関係を崩していくこと」、それが脱構築ではないかと、最終的には理解しました。実際、あっているかはわからないけれど、自分の中ではすっきりしました。同じところで引っかかっているひとに伝わればいいなあ。

無事に!グラスのミルクティを飲み終わる前にブログを書き終えました。途中、リアぺの返答の章を省略したあたりでぽろっと話したかと思うんですけど、課題はカフェでやる派です。別にお洒落ぶっているわけではありません。スタバでブラックコーヒー片手にTOEICの勉強をしているような、素敵ガールにはなれません。甘党ですし。私の場合はもっと切実なもので、「追い込まれないと課題が進まない」人だからです。図書館でもなく、わざわざカフェを選ぶのは、「お金を払っているうえに、飲食店に長居したら迷惑」というストレスで、自分を追い詰めたいという変な動機からきています。なのでたまに知らない駅の人通りの多いベンチで課題をやるときもあります。早く帰りたすぎて、課題はあっという間に終わります。ちょっとおすすめです。最後は雑談になってしまいましたが、ここまでお読みいただきありがとうございました。

8期生ブログ第5回「テクストって実はいろんな効果を重ねまくった上に形成される~書き手のエゴを添えて~

おはようこんにちこんばんは、ご覧の皆さまは初めまして。内藤ゼミ八期生の大本祥平といいます。これからよろしくお願いします。

皆さん多分知らない(知ってたらちょっと怖い)と思いますので簡単に自己紹介をさせていただきますね~

って言いますけど自己紹介って難しい。最近思うのはすっごい名前間違えられるなぁ、、、、ってことですかね(笑)よく木本だったり大友だったり、大元とかよく言われたりしています。(最近は学生支援事務室からメールで大木って言われたよw なんで??送ったメールにも大本って書いたよね??)

「大本」って苗字、あんまりいないと思うんですけどね(笑)

趣味はダイビングをやっています。ちょうど今年で50年目の歴史あるサークルにも所属しています。今年も夏は潜りに行きたいな~って考えてますね。

まぁ、名前を間違えられがちな海に潜っている人って感じの認識で問題はないかと思いますよ(笑)

2限

そろそろ本題に入りましょうか。

まず今回の前座は井上でしたね。ズームで参加とのことで教室のスクリーンに大写しにされてましたけど、、

内容は「るろうに剣心」についてでしたね、この中で結構驚きだったのは漫画と劇場版の違いですね。原作は見たことがないし、映画に関しても見たことがないのでどちらがいいのかを井上に聞いてみたんですけど、映画の一押しはアクションシーンらしいです。ただ、自分もそうなんですけど、井上も原作をリスペクトしているので「るろうに剣心」の世界に入るなら原作からのほうがよさそうですね~

ここからが2限の本題、まずは「性格描写」について話していきたいと思います

まずキャラクターとはどのような存在になるのか、レジュメから引用すると以下のようになります。

キャラクター ⇒物語の登場人物のこと。+登場人物の特性・行動様式(=性格)を指す場合も。 人間の性質を描くうえでの豊かさと多様性、心理的洞察の深さなどの点で、小説に勝るものはない。                    

というように説明されています。

その登場人物ごとの比較の例をフランケンシュタインという作品で挙げてみましょう

クラヴァル: 英雄詩や騎士道ロマンスなどを好み人間の行為や美徳、倫理関係などに関心

 ⇔フランケンシュタイン: 興味はもっぱら自然科学的な秘密に集中

こちらから(フランケンシュタインを読んでいる方に限るかもしれないですが)登場人物がどのような存在であるのか

フランケンシュタインにおいてもそれぞれの行動や態度が、キャラクター自身の性格を表現しているということは理解できるのではないでしょうか。

今回は「性格描写」ともう一つ「アイロニー」というテーマにも論じてきました。

アイロニーには2種類あるというように説明されていました。それが以下になります、簡単に説明しますね。

  • 言葉のアイロニー

表面に書かれている言葉とは全く異なった意味を読み手に受け取らそうとする修辞表現のこと

  • 状況のアイロニー

意図されたり予想されたりしていることと、実際に起きていることとの間に、相違があるという修辞表現のこと

  • 劇的アイロニー

これは状況のアイロニーと似ているが、読者側がテクストの中から受け取る情報と、同じテクストの中の登場人物が認識している情報に差異があり、それを読者が気づく際に生じるアイロニーのこと

この中で特に劇的アイロニーは思いうかべ難いと思うので軽く説明しましょう

これは例えば

登場人物は直面している状況に関して、目の前の情報しか目に入ってこないし、インプットすることができない、その一方で読み手には登場人物が直面している状況に加え、地の文や文脈で別の情報も受け取ることができる。これによって起こる認識の差異が「劇的アイロニー」となるんですね

4限

この時間はプロップの形態学を学びました。

構造主義について深堀していった一時間だったと思います。

その中でも今回は「7つの領域」「31の機能」が個人的に重要であったと思うのでちょっと説明できればと思います。

まず「7つの領域」について

具体的に7つとは以下の通りになります。

1 敵対者

2 贈与者

3 助手

4 王女(探求される者)とその父親

5 派遣者(送り出す者)

6 主人公

7 ニセの主人公

以上の7つがテクストに大きい影響を及ぼしているという考えであります。

また「31の機能」についてそちら以下に初めの3つと最後の3つのみ書きますね(31個書くのは多すぎだと思いますので…)

1 留守: 家族の成員のひとりが家を留守にする

2 禁止: 〈主人公〉に禁が課される。依頼や忠告、命令、提案の場合もある

3 違反: 禁が破られる

29 変身: 〈主人公〉に新たな姿形が与えられる

30 処罰: 〈敵対者〉が罰せられる

31 結婚: 〈主人公〉は結婚し、即位する                

個人的には29番の変身はテクストの中で大きな影響を与えているのではないかと考えているので3つずつ書きました。

このような変化がテクストの中で起こることでよりいっそう物語に波が生み出され、面白くなるということですね。

すこし授業の内容が簡潔に書きすぎたかもですね、、、、(笑) 物語を面白くする要素はたくさんあって、それの中にそれぞれ名前がついてるよ、ってところから覚えてもらえれば、今回のこのブログの目標は達成かと思いますけどね。

最後に

こんな感じで見出し付けましたけど話すことはほとんどありませんね…

書くことないので自分が今まで潜った海の写真でも載せておきますね。

以上めちゃくちゃ海に潜りに行きたい、よく名前を間違えられる大本でした。

今回はこの辺で、またの機会にお会いしましょう。

ではでは~

2年ゼミ第6回 「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」とかなんとか言っちゃってみたりして。

こんにちは、あるいはこんばんは。第6回ブログを担当する市川 快です。よろしくお願いします。授業から少し間が空いてしまい申し訳ないです。最近はすっかり暑いですね。僕は30~40分黙々と歩いて大学まで行くのですが、額に汗が滲むようになってきました。ちょっと鬱陶しいです。ならわざわざ長い距離を歩くなんてことはせずに、自転車や電車を使って行けばいいじゃないか。いいえ。僕は歩くことをやめません。なぜなら歩くということはとても楽しいし、わくわくするから。

「日本語は乱れているのか」について

もう少しだけ個人的な話をさせていただくと、つい先日村上春樹の「海辺のカフカ」を読み終えました。まず話が面白かったし、何よりも彼の文体からしか得られない謎の栄養みたいなものを沢山いただくことが出来ました。読んだことがない方はぜひ読んでみてください。以前、彼が書いた「職業としての小説家」というエッセイを読んだのですが、彼の小説の文体に対する考え方は、授業で扱った「日本語は乱れているのか」と近しい気がします。彼は自らの文体がしばしば批判を受けることについて、「言語というのは、長い歴史によって裏付けられた強靭な力を有しており、どれだけ荒く扱われようがその自律性を損なうようなことはない。むしろ冒険心をもってそのツール性を深く追求していくことが、日本語の再生に繋がる」と述べていました。この考え方は、言葉の「乱れ」を単純化、合理化の法則に則った「ことばの変化の必然的な流れ」だとする「日本語は乱れているのか」と通ずる部分がありますよね。僕たちは、今まで触れてきた体系と大きく異なるものと出会うと拒絶してしまいがちです。もちろんそれについてどう思うかなんてことは全くの自由ですが、少なくとも寛容な姿勢を持って接していきたいですね。

坪沼君の前座「タイタンの妖女」について

順番が前後してしまいましたが、今回の前座は坪沼君によるSF小説「タイタンの妖女」の紹介でした。今回も作品への愛がこれでもかと伝わってくる素晴らしい発表でした。皆さんも経験があると思いますが、誰かに向けて自分の好きな作品について話すというのはとても難しい、複雑な作業です。さらにそれを3分以内に収めるとなると、そりゃもう大混乱です。しかし坪沼君は物語のあらすじを述べるだけでなく、皮肉という切り口から適切に文を引用し、朗読することで、小説のもつ引力を十分に引き出せていました。天晴です。「タイタンの妖女」、今度読んでみようと思います。自分が全く知らない作品と出会えるのもこの前座の良いところだと思います。

神津君のレポートの構想発表 「Creepy Nutsの歌詞は結成からどのような変化をとげているか」

「1曲1曲がストーリーといえるのではないか」この一言で一気にプレゼンに引き込まれました。音楽って小説や映画とは一線を画した存在のように思えますが、実は構造を紐解いていくと物語的な要素がいくつもあるんですよね。そう考えると、神津君の一言はとても鋭い指摘だなあと思いました。

メジャーシーンで活躍するアーティスト達にとって、大衆という存在は切っても切り離せない存在ですよね。アーティストと大衆が相互作用を起こしながら、どのような意思を持ってどう変化していくのか。僕自身興味があるトピックでもあるので、神津君がどんなレポートを書き上げるのか楽しみです。授業で扱ったプロップの論じた概念も使えそうですね。

資料の検索方法について

授業の最後では、何枚もレポートを書かなければならない大学生にとってとても重要な、資料の探し方について学びました。恥ずかしながら僕は一年生のときCiNiiというサービスを知らなかったので、片っ端からググって論文を探していました。今冷静に考えるとすごく効率が悪いし、偏った情報に頼ることになるので危険ともいえますよね。これからはこのようなサービスを適切に利用しながらレポートを書きたいし、大学を卒業しても学びの姿勢を捨てることなく利用してきたいです。

明大の図書館についても触れられました。和泉の図書館は本当にきれいでゆったりとした空気が流れていますよね。僕も去年初めて立ち寄ったときあまりのきれいさとデザインのカッコよさに衝撃を受けて、こんなところで勉強できるのか!と嬉しい気持ちになりました。これからも気軽に出入りして、こんなおしゃれなところで本読んでる俺カッケ~!と思いながら利用していきたいです。そういう気持ちって、結構大事だと思うから…///

おわり

8期生ブログ第3回『要約法ってやつが便利すぎるのではないだろうか』

大遅刻、申し訳ありません……。半月猶予があると思っていたら1週間おかわりしていました。なぜ……。

というわけで、昨年に引き続き内藤ゼミにお世話になります佐藤杏海と申します。 普段はゲームと学校と創作に生活の全てを捧げて生きています。最近はもっぱらTRPGにお熱です。

このゼミのブログだし、少しだけ趣味の話をしようかと思います。 これを書いている6月1日からさかのぼること1週間前、TRPGシナリオの『VOID』というシナリオに参加してきました。TRPGについては過去の私の記事を読むかググってください。

この当時の私は大正時代を舞台にしたシナリオに狂っていましたが、現在の私は近未来、アンドロイドが人々の生活に普通にある世界を舞台にシナリオに狂っています。総計20時間にも及ぶ長丁場のゲームに参加し、その物語の世界に浸ってきました。ゲームが終わってもそのキャラクター達のことを考えてしまって大変ですが、そろそろ現実に帰ってくる時間ですね。話を授業に戻しましょう。

1.前座を筆頭にしたetc

実はこの授業、GW明け一回目でした。みなさんGWを満喫したようで、特にダイビングはとても羨ましいですね……綺麗な海は数年見ていないので、旅行に行きたくなりました。

加えて私のメモには「クリスマスの話」とあるのですが、これは一体……。やはり記憶が新鮮なうちに書くべきですね……。

前置きはこれくらいにして、前座の紹介に入りましょう。

本日の前座は関口さんおすすめの「スパイダーマン:スパイダーバース」です。スパイダーマンが死んだ世界で、スパイダーマンの跡を継ぐように言われた主人公・マイルズがパラレルワールドから来た先輩スパイダーマンたちを師として成長する物語だそうです。人生においてそれなりに大きな岐路にいる私たちにこそ見てほしい、とのことで今度調べておこうと思います……!

2.2限「提示と叙述」

サブゼミの今回のテーマは「提示と叙述」です。

・提示:登場人物の会話がそのまま記録されているシーンなど、語り手が介入しないシーン

・叙述:語り手が前面に出てきて読者に解説するシーン

小説はこの2つがバランス良く組み合わされることで成り立つものである、とされています。

小説では常に時間の要素があります。

アナクロニー(時間錯誤)と呼ばれる状況が、実際の時間軸と語りの順番が異なる状況です。これは、後説法(フラッシュバック)と先説法(フラッシュフォワード)に分けられます。先説法でわかりやすい例が伏線です。

さらに小説の時間を示すものとして「時間標識」があります。これはテクスト内でより具体的な時間(○○年など)を表す表現を指します。

物語の語りには速度もあります。

この場合の速度とは割かれているページ数のことで、省略法・要約法・情景法・休止法にわけられます。

省略法はさらに限定的省略法と非限定的省略法に分類されます。この二つは省略された時間が具体的にどれくらいかわかるか否かで判断できます。

省略法よりもう少し間の状況がわかる語りが要約法で、すべての状況が描かれているのが情景法です。休止法は物語の流れが一度止まり、語り手が登場人物たちは見ていない景色の説明をする(話は進んでいない)状態を指します。

これらを踏まえて『浦島太郎』の物語を再構築しました。

ここでなぜか脳内イメージが映画になるゼミ生一同……。後説法や先説法は映像媒体の方がイメージが湧きやすかったのかもしれません。

浦島太郎の軌跡…………

3.4限「不等時法」

ゼミの本編とも言える4限がやってまいりました。

今回の要約としては「物語の語りは不等時法(律動効果)を抜きにしては成立しえない」です。

この律動効果とは、物語の語りの速度(ページ数)が物語の内容で進行する時間に対して増えたり減ったりすることで生まれる波のことです。

小説の語りはこれ抜きには語れない、という主張がプルーストの「失われた時を求めて」を通して語られています。

物語内容を材料、語り方を調理方法としてできあがった料理が小説ということですね。

4限の内容は駆け足気味になってしまいましたが、以上が5月12日のゼミの内容です。

こうしてみるとこのブログはかなり要約法を用いて書かれていることになりますね……。今回のゼミは夏休みへの積み残しもなく終わることができました!では、また次の機会に!

3年 佐藤杏海