9期生第6回「傲慢と善良と天皇賞・秋」

 はじめまして!内藤ゼミ9期生の高橋凱です!

 少し遅いかもしれませんが、内藤ゼミを考えて下さっている2年生の方々へ、当ゼミへのお誘いです!

 完全に手遅れっぽいことに書いてから改めて気づきましたが、書いちゃったので載せます。来年以降の2年生見てね。

 この学部に一定数存在している(と個人的に感じている) 「授業やゼミの傍ら、とにかく飲んで遊んで恋愛して~」といったノリがしっくり来ない方、ココです!しっくり来てない(はずの)9期生10人が毎週木曜日に集っては、批評理論について議論しています。

 どんな事を学ぶのかはゼミの案内に書いてあると思うので割愛しますが、映画、小説、漫画、アニメ、音楽…などなど、あらゆる芸術作品が好きな方大歓迎のゼミです。

 個人的なオススメポイントは、哲学や新しい考え方に触れる事が多い点です。今まで生きづらさを感じていた事に関して、「救われた」と感じる事が何度もありました。社会に出て再び生きづらさを感じても、内心で言い返せる武器を手に入れることができます。悩みやコンプレックスを抱える人たちへ。学問に「救われる」経験、ぜひ体感してみてほしいです!!

 上述したようなノリから最も遠い「ガチゼミ」であることは間違いないですが、かといって真面目一辺倒な人は一人もいません。内藤先生はたしかに厳しいですが、とても魅力的な方で、理不尽なことで叱るような人では決してありません(当たり前ですが)。

 全員で弱音と文句を垂れ流しながら、協力して何とか立ち向かっているような感じなので、どうかあまり気負わずに検討していただけたら嬉しいです!

 来年以降の2年生がはたしてここまで遡ってくれるのかという疑念は置いといて、第6回の授業内容を説明していきたいと思います!ゼミ志望の2年生の方が読んでも分かりやすいようにしたつもりなので、良ければ読んでみて下さいね!

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第6回 「構造分析」

 前回に引き続き、「構造分析」を学んでいきます!構造分析についてはこの後詳しく説明します。とはいえ、前回扱った小森陽一の論文とは異なる内容です。

 今回使用したテキストはこちら!

論文:Yu.ロトマン著/磯谷孝編訳『文学と文化記号論』

作品:辻村深月著『傲慢と善良』

 前半では、まず論文『文学と文化記号論』を読み解きました。

前半 『文学と文化記号論』について

 この論文を書いたユーリ・ロトマン(1922-1993)はロシアの記号学者であり、「文化記号論」を提唱し「構造分析」という批評理論の手法の形成に貢献した人物です。

 そもそも「批評理論」とは、「構造分析」とはなんでしょう?

 そんな先輩たちの流れを受けて、ロトマンは「文化記号論」の提唱を通して、批評理論の代表的な手法として知られる「構造分析」の発展に寄与しました。「構造分析」とは一言でいうと、小説や映画などのあらゆるテキスト(小説や映画をはじめとした、言語を用いたあらゆる創作物と捉えて下さい!)に含まれる様々な要素を客観的に捉えて、理論的に分析する手法のことです。しっくり来なかった方、この後説明する「文化記号論」は「構造分析」の具体例なので、一旦読み進めてやって下さい。

 ここから、ロトマンの提唱した「文化記号論」について詳しく説明していきます。余談ですが、このゼミの課題論文は本当に読みづらいです。大学入試の現代文を解いた時、こんな分かりづらい文章がどこにあるんだと思っていましたが、ここにありました。あの経験、ホントに大事です。

 さて、ロトマンはまず「文化テキスト」と「文化モデル」という2つの概念を用いて、「文化記号論」を組み立てます。

 人間世界には様々な文化や価値観があり、全てのテキストは、それらの応用物として生まれたものといえます。ロトマンは、これらのテキストにおける諸要素を空間的にモデル化していきます。「たくさんのテキストの諸要素を一つの空間に落とし込んでいくことで、人間の文化の〈綜(総)合テキスト〉が完成する!」とロトマンは主張するのです。意味が分からないですよね。

 言い換えると、テキストを理論的に分解していくことで、人間の文化(およびその応用物であるテキスト)を理論的に分析することができるのです。この分析の形を「文化モデル」と呼びます。そしてこうした「文化モデル」をたくさん合体させると、人間の文化全体を理論的に分析する「綜合テキスト」ができる!と言っているのです。ロトマンはこの綜合テキストを「文化テキスト」と呼びました。何となくでも伝わってたら嬉しい…!

 では「テキストを理論的に分解する」とは、どういうことでしょうか?

 今回の題材(『傲慢と善良』)が物語のため、ここからはテキストの中でも「物語」に絞って話を進めます。先ほども言いましたが、登場人物の心情や性格、「お前が好きだ!」といったようなセリフを解釈するのは、読み手によって解釈のズレが生まれてしまいます。とても主観的なアプローチなのです。

 ロトマンは、物語を理論的に切り分けるには、明確な「境界」が必要だと主張します。例えば、「上―下」「寒―暖」「包摂的―排他的」「奴隷―自由民」といったような「境界」です。物語を正確に切り分けられる「要素」を見つけ出すこと、これがロトマンのいう「テキストを理論的に切り分ける」ということなのです。ここで大事なのは、「切り分けた要素にダブりがないか」ということです。例えば、「個人―社会」というのも明確な「境界」に思えますが、必ずしもそうとは言えません。「社会」は「個人」の集合体である以上、「個人」は「社会」の一部でもあるのです。つまり、どちらの要素にも当てはまる例があっては、その切り分け方は正確ではありません。

 またロトマンは、テクストの切り分け方の手法として重要なのは「空間的特徴づけ」である、とも主張します。なぜなら空間的・物質的な切り分け方は人間文化の中でもっとも形式的な成分だからです。例えば、『トイ・ストーリー』の物語内容を、「ウッディがアンディの家にいた時」「ウッディがガソリンスタンドでアンディとはぐれた時」「ウッディがシドに捕まり、シドの部屋に閉じ込められた時」と空間的に切り分けたとします。この切り分け方は誰からも異論のでない、とても客観的なものだと思いませんか?

 この後、論文では、文化モデルの具体的な検討法について例をたくさん挙げていますが、説明しだしたらキリがないので割愛します!

 こうして私たちは物語を理論的に切り分ける手法について学んだのでした。

 そしていよいよ応用編です!

後半 小説『傲慢と善良』への応用

 ゼミの後半では、この理論を『傲慢と善良』に応用しました。

 辻村深月著『傲慢と善良』は、2019年刊行の大ヒット小説です。主人公の架が、婚約者である真実の失踪事件を追いかける中で、彼女の「過去」と向き合っていくという物語です。

 【以下、ネタバレ注意!】

 ここからの内容は『傲慢と善良』のネタバレが含まれます!

 まず、『傲慢と善良』のストーリーをおさらいします。

 この物語の主な登場人物は西澤架と坂庭真実の二人です。架は、東京で生まれ育ったシティボーイです。垢抜けた友人と都会的な価値観に自然と囲まれて育ってきました。一方、真実は生まれてから社会人になるまで故郷の群馬県で過ごし、親の強い束縛から逃れるために最近上京しました。二人とも30歳を過ぎており、長いこと婚活をしているものの、どちらも納得いく相手が見つからずに悩んでいました。そんな中、婚活アプリを通して二人は知り合い、婚約するに至りました。

 物語は、架視点の前半、そして真実視点の後半の2つに分けられます。

 前半は、真実が失踪するシーンから幕を開けます。架は、真実が以前から「ストーカーに悩まされている」と悩んでいた事から、真実がストーカーに誘拐されたと考え、真実の母親と共に捜索します。架は、真実がそのストーカーの正体について「群馬時代の人だと思う」と言っていた事を思い出し、真実の群馬時代、ひいては「過去」全体に向き合っていくのです。紆余曲折を経て、真実が訴えていた「ストーカー被害」は全くのウソであることが判明し、前半は幕を閉じます。

 後半では真実に焦点を当て物語が展開します。真実は、架が過去に自分の友人らに話した「真実は結婚相手としては70点」(直接こうした表現を用いたわけでなかったのですが)という発言を聞き、耐えられずに宮城県へ逃避してしまっていたのです。宮城での震災復興のボランティア活動を通して、真実は様々な人物や場所と触れ合い、今までの自分を見つめなおします。真実は気持ちの整理をつけたことで再び人生と向き合う覚悟を決め、架に連絡します。そうして二人が再会し、宮城県の神社で結婚式を挙げるシーンで物語は終わります。

 分析する前に、まずお互いの意見・感想を交換しました。すると、私を含めた多くの人が「なぜ物語の最後に架と真実は結婚したのか」という疑問を持っている事が判明しました。こうした感想を踏まえて我々は、2グループに分かれて、架と真実についてそれぞれ分析を試みました。ロトマンの手法である「空間的特徴に着目すること」と「〈内〉と〈外〉で切り分ける」という2つのアプローチを組み合わせて分析を進めました。まず「空間的特徴に着目」すると、この物語は、「真実の群馬時代」「真実・架の東京時代」「真実の宮城時代(逃避行)」の3つにわけることが出来ます。そして真実と架それぞれにとっての「内」を「物理的に同居している存在」、「外」を「それ以外の存在」と定義し、物語内容を分析していきました。すると、真実の行動パターンについてある特徴が見えてきました。

 まず「真実の群馬時代」について、真実は実家に住んでいた為、真実の「内」には「家族」が当てはまります。真実は大学の進学先から結婚相手まで、強く親の影響を受けており、心身ともに「家族」に縛られていたといっていいでしょう。真実は、結婚相手まで親に縛られる生活に嫌気が差し、東京へ向かいます。その後の「東京時代」において、真実と架は同棲していたため、それぞれの「内」にはお互いがいたことになります。しかし、そこで真実は、架が自分を「70点の存在」(語弊あります!ごめんね架!)と評価していた事を知り、宮城県へと逃避します。ここから、真実の行動パターンは、〈「内」にいる存在〉に疑念を抱くと空間的に移動し、新たな空間と〈「内」にいる存在〉を獲得していたといえるでしょう。

 ラストで真実は架を自分のいる宮城に呼び出し、話し合います。そこで架は改めて真実に求婚します。彼女もそんな彼のことが改めて好きである事に気づき、結婚を受け入れるのです。こうして再びそれぞれの「内」にお互いが入ることになるのです。

 しかし、そもそも真実は「東京時代」に、〈「内」にいる存在(=架)〉に疑念を抱き宮城まで逃避したはずです。そこで自分を改めて見つめ直すことができたのならば、新たな〈「内」にいる存在〉を獲得するはずです。にもかかわらず、真実は架と結婚する事を選択します。これは〈「内」にいる存在〉の再獲得とでも言うべき状況で、これまでの真実の行動パターンとは異なるのです。

私たちはこの議論を通して、ここに、多くの人が感じた違和感の正体があるのではないかという結論に至りました。

 このように今回は、ロトマンの理論を学び『傲慢と善良』に応用する事で、多くの人が感じていた違和感の原因を理論的に示す事が出来ました。一方で、では「なぜそんな違和感を感じる選択を真実がしたのか」という根本的な解決まで考える時間がなかったことは心残りです。前半のロトマンの論文を読解するのに時間をかけすぎてしまったことが原因かもしれません(難しすぎる)。また、これまでは課題論文が明確に課題作品について論じたものである事が多かったのに対し、今回はこの議論を通して論文を課題作品に当てはめていくものだったので、ホント難しかったです……。

個人的に、感情移入して読んだ(見た)物語を、客観的に切り分けることほど苦痛なことはありません。どうしてもムズムズしてしまいます。今回もやはり苦手意識を感じながら過ごしていました。それでも、ある物語内容を分析するとき、こうしたアプローチでしか得られない知見があることを実感できたので、何とか会得したいです!

さて、10月末に行われた天皇賞・秋に、同じく9期生の室井、滝沢と行ってきました。目玉はなんといっても世界最強馬イクイノックスと、宿命のライバル・ドウデュースの対決。私は初めて当てた馬券がダービーのドウデュースの馬券だったため、ドウデュースの馬券を買うよう脳が焼かれてしまっています。

 今回が競馬デビューの2人と一緒に東京競馬場のゲートをくぐると、そこには8万人近い大観衆が!天皇陛下が行幸されていた事もあり、盛り上がりは最高潮に達していました。

室井はドウデュースの姿を見るや否や、「本命はドウデュース!」と一目惚れ。顔をほころばせてドウデュースの馬券を買っていました。ドウデュース党の私としても嬉しい限りです。

滝沢の本命はなんとジャックドール。なかなか渋いチョイスですが、確かに展開次第では上位に食い込んでくる一頭です。

当然、私もドウデュースの馬券を購入。ドキドキしながらレースに臨みました。

結果は、イクイノックスの圧勝。ドウデュースはまさかの7着に散り、ジャックドールも11着に沈んでしまいました。

それでも、2人は「馬券は外れたけど、来て良かった!」「かけがえのない経験が出来た!」と満面の笑みを浮かべていました。私もとても嬉しくなり、3人で「絶対にまた来ようね!」と約束したのでした。

そんなイクイノックスとドウデュースの再戦が見られるのは、なんと今週末!

今回はこの2頭に加え、今年の三冠牝馬リバティアイランドと昨年の二冠牝馬スターズオンアース、捲土重来を期す昨年の最強馬タイトルホルダー、さらに土壇場で伝説の大逃げ馬パンサラッサまでもが参戦し、まさに現役最強馬を決めるに相応しい役者が揃いました。

今度の日曜日は15時にフジテレビをチェック!今から待ちきれませんね!!

9期生第5回 お前はもう、、、死んでいる

こんばんは~!

9期生の宮澤です!お久しぶりです。(前回、自己紹介したので今回は割愛させていただきますね)

最近、ゼミが楽しいです。秋美とのコラボワークショップも始動し、本格的にゼミしてるーって感じがしてます。秋美の方は素敵な方ばかりで、実際に秋田に行く日が楽しみでなりません!

話は変わりますが、いよいよ2年生のゼミ見学が始まったようで、先日2年生の子がゼミに来てくれました。初々しくてとてもかわいい、、、

私も去年はこんな感じだったなーと懐かしい思いをした今日この頃です(お前は初々しくなかったやろ、かわいくもなかったやろ)

宮澤の不要な雑談はここまでにして、さっそく第5回の授業内容に入っていきたいと思いますー


第5回 『構造としての語り』〈書く〉ことと〈語る〉ことの間で

今回使用したテクストはこちら!

論文:小森陽一 『構造としての語り』  作品:小説『坊ちゃん』

発表者担当は、坂口さんでした!

・小森陽一『構造としての語り』の内容

『構造としての語り』では、夏目漱石著作『坊ちゃん』の語りが構造的に分析されています。

本論文では、語りを分析することで、物語内の坊ちゃんが「自分/他者」「本音/建前」「表/裏」といった境界を知り、自己の価値基準・判断基準を確立したと分析できると結論づけられています。

では、具体的な論文の内容に入っていきましょう。

はじめに小森は、坊ちゃんの語りが常に他者を意識しているものであることを指摘します。

『坊ちゃん』の冒頭は、「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている」という一文から始まります。ここで注目したいのが、語り手(坊ちゃん)により、「無鉄砲」な性格という自身の自己規定がされているという部分です。なぜ坊ちゃんは、突然「無鉄砲」という自己規定を聞き手に対して、しかも冒頭で行ったのでしょうか?

この疑問に対して、小森は、〈常識ある他者〉が坊ちゃんによって意識され、語られているからだと述べます。

〈常識ある他者〉とは、他者の言葉は常にその表層とは異なる裏を持つ。場合によっては、裏にある真意や意図を隠蔽するために発せられることもあるとわきまえている他者のことを指します。

坊ちゃんは、2階から飛び降りたり、喧嘩したりするやんちゃ坊主でしたが、彼の行動は「無闇」で「無謀」な行動として人々の目にうつります。そこでは、「なんでそんな無闇なことをしたのか」問い詰めてくるであろう潜在的な聞き手が想定されています。

つまり、坊ちゃんは自分の行動に対して、理由を明示するために、予め冒頭で言い訳がましく、「無鉄砲」という自己定義をしたと考えられるのです。

では、語り手と聞き手という語りの構造は、『坊ちゃん』にどのような影響を及ぼしているのか?以下で、詳しく紹介していきます。

①読者の裏表という二重性

小森によると、読者は坊ちゃんにとって、〈常識ある他者〉と言えます。

読者は、坊ちゃんの非常識性を陰で笑いながら物語を楽しみます。坊ちゃんが2階から馬鹿正直に飛び降りたなどという無闇な行動をしているのを聞いて、なんて単細胞なんだ坊ちゃん(笑)という目線で物語を読み進めるのです。

一方では、「無鉄砲」な性格なせいで無闇な行動をとるんだという坊ちゃんの言い訳を受け入れたふりをする。しかし、一方では、坊ちゃんの非常識性を(彼に隠れて)あざ笑う。これが、読者であり、読者の裏表との二重性の現れだと小森は主張します。

②作中の登場人物と作外の読者という二重性

二重性は①だけではありません。小森は、〈常識ある他者〉は作品外の読者だけでなく、作品内の登場人物にもいると主張します。

作品内の〈常識ある他者〉とは、赤シャツや野だいこ、狸などです。彼らは、作品内で坊ちゃんの非常識性を笑い、馬鹿にする〈常識ある他者〉として描かれています。

その面で、読者は、赤シャツであり、野だいこであり、狸であると言えるでしょう。つまり、読者も作中の登場人物と同じ〈常識ある他者〉という点で、彼らと二重構造になっているのです。

しかし面白いことに、読者は自分たちのことを、赤シャツや野だいこ、狸と同じ〈常識ある他者〉だとは思っていません。むしろ、彼らの俗物ぶりを笑います。そのため、聞き手である〈常識ある他者〉が、物語に登場する〈常識ある他者〉を笑うと言う皮肉的な構造になっていると言えるでしょう。

以上、坊ちゃんの語りからみた、語り手と他者の関係性についての分析でした。次に、上記の語りの分析から、小森さんが坊ちゃんをどのように解釈したのか、3つのポイントに分けてお伝えしていきます。

・裏/表のある世界に放り込まれた坊ちゃん

・公/私に巻き込まれる坊ちゃん、私的価値基準獲得

・坊ちゃんが憧れたうらなり君

・裏/表のある世界に放り込まれた坊ちゃん

坊ちゃんは、四国の中学校に赴任することで、世間の裏表を知ることになります。

赴任前の坊ちゃんは、清という下女と過ごすことで、裏表のない世界で生きていたと小森は考えます。

清は、坊ちゃんにとって良き了解者であり、彼を肯定してくれる存在でした。そのため、赴任前の坊ちゃんは、裏表のない世界で生きることができていたのです。

しかし、四国の中学校に赴任し様々な事件を経た坊ちゃんは、嘘をつく方法や人を乗せる策を知らなければ世間では生きていけないことを知ります。ここで坊ちゃんは、世間の裏表を初めて知るのです。

つまり、清(裏表のない世界)↔四国の中学校(裏表のある世界)と解釈できます。

・公/私に巻き込まれる坊ちゃん、私的価値基準獲得

裏表のある世界では、公の言葉と私的行為が使い分けられます。例えば、赤シャツは公の場では、教育者としての立場を演じ発言します。しかし、プライベートではうらなり君の婚約者を奪い取るという、公の教育者という立場ではあるまじき行動をとります。

このような裏表を知った坊ちゃんは、次第に他者の言葉に対する無意識の信頼と実践という行動原理でを失い、他者の言葉を疑うことを覚えます。そして、今までの公私を使い分けない、裏表のない坊ちゃんは死んでしまい、裏表を知った坊ちゃんが誕生したのです。

坊ちゃんは他者と接し公私を知ったことで、自分の中に「人間は好き嫌で働くものだ。論法で動くものぢゃない。」という考えを抱きます。つまり、裏表のある世界を体験したことで初めて、「好き嫌」という自己の価値基準、行動基準を獲得したのです。

代償として、裏表なく他者を疑うことを知らない坊ちゃんは死んでしまったと言えるでしょう、、、

・坊ちゃんが憧れたうらなり君

しかし、そんな裏表のある世界に身を置きながら、巻き込まれなかった人間が一人います。それが、うらなり君です。

うらなり君は、婚約者を奪われても、九州まで左遷されても、最後まで沈黙を貫きました。沈黙することで、裏表のある世界に染まらない、正直で純粋な美質を最後まで保ったと言えます。そして、坊ちゃんはそんなうらなり君を、聖人だと考えるようになるのです。

以上をまとめると、坊ちゃんは、赴任し裏表のある世界に巻き込まれることで、「好き嫌」という自己の価値基準、行動基準を獲得したと言えます。

ここで思い出したいのは、坊ちゃんの語りでは、〈常識ある他者〉が意識されているということです。坊ちゃんは裏表を知り、他者の価値基準を自分の中に組み込んだことによって、〈常識ある他者〉を認識できるようになりました。

つまり、「坊ちゃん」が死んでいたからこそ、この語りがされている。『坊ちゃん』は、坊ちゃんが死んで初めて語られた小説なのです。


以上が、小森さんの分析による『坊ちゃん』の解釈です。ここからは、私たちゼミ生が、『構造としての語り』と『坊ちゃん』をどのように読んだのかについて軽く触れていきます。

最初に、小森さんの『構造としての語り』について、ゼミ生から出た意見(と少々の不満)記載していきます。

私個人としては、小森さんの分析、チョベリ納得~って感じだったのですが。ゼミ生のみんなと議論して、小森さんの論文には反論できる余地があるなと思いました!

まず、そもそも〈常識ある他者〉って何やねん

小森さんは、〈常識ある他者〉って言いますけど、〈常識ある他者〉って本当にいるんかいな!?って疑問がゼミ生からあがりました。いや、マジでそう。

そもそも、常識って時代によって変わりますよね。今は常識でも、昔は非常識だったことを例に挙げればきりがないです。

ってことは、『坊ちゃん』が描かれた時代の常識と現代の私たちの常識って違くない!?そしたら、現代の読者は〈常識ある他者〉って言えなくない!?

しかも、常識なんて目に見えないもの、現代人の間でもみんなが同じ共通認識できてるわけないじゃないですか。だったら、〈常識ある他者〉なんてどこにもいないだろーーーー!って。

つぎに、漱石の言葉を根拠づけにしちゃいかんやろ、、、という意見。

小森さんは本論文で、作者(漱石)の言葉を引用して根拠づけを行いました。

しかし、構造主義の観点から考えると、こりゃよろしくないかも。

そもそも、構造主義は、何でもかんでも作品と作者を紐づけて考えるのはやめようよーという立場のはず。だったら、作者の言葉を根拠づけにして良いものだろうか。過去の時代の一つの意見として引用するならいざ知らず。根拠薄くて不安だったのかな、小森さん(´;ω;`)なんて話もしました。

次に、『坊ちゃん』を私たちがどう解釈したかについて触れます。

今回は、2グループに分かれて『坊ちゃん』を構造分析しました。

1グループは、小森さんの論文に沿って、「自分/他者」「本音/建前」「表/裏」という境界について分析していました。秋美とのワークショップの題材である「コンビニ人間」における境界と絡めながら、2項対立で分析を行いました。

もう1グループは、プロップの31の機能に当てはめて分析してみました。

そこで『坊ちゃん』では、18.勝利の機能が抜けていることに気が付きました。家を出て、敵と遭遇し、お供と一緒にバトルして、帰還するという流れ自体は、プロップの時代の物語と変わりないのですが。

18.勝利の機能だけが抜けている。その意味で、坊ちゃんは、勝たなくてもいい主人公、近代の新しい人物像の表れなのかもしれないねという話をしました。

個人的には、坂口さんの「坊ちゃんは最後まで坊ちゃんだったよね」という発言が印象に残っています。坊ちゃんは、四国の赴任経験を経て確かに、昔の坊ちゃんではなくなった。それでも、坂口さんが最後まで坊ちゃんを坊ちゃんだと思えた理由はどこにあるのか、とても気になります。

以上で今回のブログは終わりですー。

最後に、第3回で白井君が飯テロしてたので、私も猫テロしておきます(うちの猫かわいいでしょ自慢もかねて)矢場とんおいしいよね。

↓ 写真撮られてご機嫌斜めなうちの猫です。猫には肖像権なんかなくてかわいそうですね