9期生第5回 お前はもう、、、死んでいる

こんばんは~!

9期生の宮澤です!お久しぶりです。(前回、自己紹介したので今回は割愛させていただきますね)

最近、ゼミが楽しいです。秋美とのコラボワークショップも始動し、本格的にゼミしてるーって感じがしてます。秋美の方は素敵な方ばかりで、実際に秋田に行く日が楽しみでなりません!

話は変わりますが、いよいよ2年生のゼミ見学が始まったようで、先日2年生の子がゼミに来てくれました。初々しくてとてもかわいい、、、

私も去年はこんな感じだったなーと懐かしい思いをした今日この頃です(お前は初々しくなかったやろ、かわいくもなかったやろ)

宮澤の不要な雑談はここまでにして、さっそく第5回の授業内容に入っていきたいと思いますー


第5回 『構造としての語り』〈書く〉ことと〈語る〉ことの間で

今回使用したテクストはこちら!

論文:小森陽一 『構造としての語り』  作品:小説『坊ちゃん』

発表者担当は、坂口さんでした!

・小森陽一『構造としての語り』の内容

『構造としての語り』では、夏目漱石著作『坊ちゃん』の語りが構造的に分析されています。

本論文では、語りを分析することで、物語内の坊ちゃんが「自分/他者」「本音/建前」「表/裏」といった境界を知り、自己の価値基準・判断基準を確立したと分析できると結論づけられています。

では、具体的な論文の内容に入っていきましょう。

はじめに小森は、坊ちゃんの語りが常に他者を意識しているものであることを指摘します。

『坊ちゃん』の冒頭は、「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている」という一文から始まります。ここで注目したいのが、語り手(坊ちゃん)により、「無鉄砲」な性格という自身の自己規定がされているという部分です。なぜ坊ちゃんは、突然「無鉄砲」という自己規定を聞き手に対して、しかも冒頭で行ったのでしょうか?

この疑問に対して、小森は、〈常識ある他者〉が坊ちゃんによって意識され、語られているからだと述べます。

〈常識ある他者〉とは、他者の言葉は常にその表層とは異なる裏を持つ。場合によっては、裏にある真意や意図を隠蔽するために発せられることもあるとわきまえている他者のことを指します。

坊ちゃんは、2階から飛び降りたり、喧嘩したりするやんちゃ坊主でしたが、彼の行動は「無闇」で「無謀」な行動として人々の目にうつります。そこでは、「なんでそんな無闇なことをしたのか」問い詰めてくるであろう潜在的な聞き手が想定されています。

つまり、坊ちゃんは自分の行動に対して、理由を明示するために、予め冒頭で言い訳がましく、「無鉄砲」という自己定義をしたと考えられるのです。

では、語り手と聞き手という語りの構造は、『坊ちゃん』にどのような影響を及ぼしているのか?以下で、詳しく紹介していきます。

①読者の裏表という二重性

小森によると、読者は坊ちゃんにとって、〈常識ある他者〉と言えます。

読者は、坊ちゃんの非常識性を陰で笑いながら物語を楽しみます。坊ちゃんが2階から馬鹿正直に飛び降りたなどという無闇な行動をしているのを聞いて、なんて単細胞なんだ坊ちゃん(笑)という目線で物語を読み進めるのです。

一方では、「無鉄砲」な性格なせいで無闇な行動をとるんだという坊ちゃんの言い訳を受け入れたふりをする。しかし、一方では、坊ちゃんの非常識性を(彼に隠れて)あざ笑う。これが、読者であり、読者の裏表との二重性の現れだと小森は主張します。

②作中の登場人物と作外の読者という二重性

二重性は①だけではありません。小森は、〈常識ある他者〉は作品外の読者だけでなく、作品内の登場人物にもいると主張します。

作品内の〈常識ある他者〉とは、赤シャツや野だいこ、狸などです。彼らは、作品内で坊ちゃんの非常識性を笑い、馬鹿にする〈常識ある他者〉として描かれています。

その面で、読者は、赤シャツであり、野だいこであり、狸であると言えるでしょう。つまり、読者も作中の登場人物と同じ〈常識ある他者〉という点で、彼らと二重構造になっているのです。

しかし面白いことに、読者は自分たちのことを、赤シャツや野だいこ、狸と同じ〈常識ある他者〉だとは思っていません。むしろ、彼らの俗物ぶりを笑います。そのため、聞き手である〈常識ある他者〉が、物語に登場する〈常識ある他者〉を笑うと言う皮肉的な構造になっていると言えるでしょう。

以上、坊ちゃんの語りからみた、語り手と他者の関係性についての分析でした。次に、上記の語りの分析から、小森さんが坊ちゃんをどのように解釈したのか、3つのポイントに分けてお伝えしていきます。

・裏/表のある世界に放り込まれた坊ちゃん

・公/私に巻き込まれる坊ちゃん、私的価値基準獲得

・坊ちゃんが憧れたうらなり君

・裏/表のある世界に放り込まれた坊ちゃん

坊ちゃんは、四国の中学校に赴任することで、世間の裏表を知ることになります。

赴任前の坊ちゃんは、清という下女と過ごすことで、裏表のない世界で生きていたと小森は考えます。

清は、坊ちゃんにとって良き了解者であり、彼を肯定してくれる存在でした。そのため、赴任前の坊ちゃんは、裏表のない世界で生きることができていたのです。

しかし、四国の中学校に赴任し様々な事件を経た坊ちゃんは、嘘をつく方法や人を乗せる策を知らなければ世間では生きていけないことを知ります。ここで坊ちゃんは、世間の裏表を初めて知るのです。

つまり、清(裏表のない世界)↔四国の中学校(裏表のある世界)と解釈できます。

・公/私に巻き込まれる坊ちゃん、私的価値基準獲得

裏表のある世界では、公の言葉と私的行為が使い分けられます。例えば、赤シャツは公の場では、教育者としての立場を演じ発言します。しかし、プライベートではうらなり君の婚約者を奪い取るという、公の教育者という立場ではあるまじき行動をとります。

このような裏表を知った坊ちゃんは、次第に他者の言葉に対する無意識の信頼と実践という行動原理でを失い、他者の言葉を疑うことを覚えます。そして、今までの公私を使い分けない、裏表のない坊ちゃんは死んでしまい、裏表を知った坊ちゃんが誕生したのです。

坊ちゃんは他者と接し公私を知ったことで、自分の中に「人間は好き嫌で働くものだ。論法で動くものぢゃない。」という考えを抱きます。つまり、裏表のある世界を体験したことで初めて、「好き嫌」という自己の価値基準、行動基準を獲得したのです。

代償として、裏表なく他者を疑うことを知らない坊ちゃんは死んでしまったと言えるでしょう、、、

・坊ちゃんが憧れたうらなり君

しかし、そんな裏表のある世界に身を置きながら、巻き込まれなかった人間が一人います。それが、うらなり君です。

うらなり君は、婚約者を奪われても、九州まで左遷されても、最後まで沈黙を貫きました。沈黙することで、裏表のある世界に染まらない、正直で純粋な美質を最後まで保ったと言えます。そして、坊ちゃんはそんなうらなり君を、聖人だと考えるようになるのです。

以上をまとめると、坊ちゃんは、赴任し裏表のある世界に巻き込まれることで、「好き嫌」という自己の価値基準、行動基準を獲得したと言えます。

ここで思い出したいのは、坊ちゃんの語りでは、〈常識ある他者〉が意識されているということです。坊ちゃんは裏表を知り、他者の価値基準を自分の中に組み込んだことによって、〈常識ある他者〉を認識できるようになりました。

つまり、「坊ちゃん」が死んでいたからこそ、この語りがされている。『坊ちゃん』は、坊ちゃんが死んで初めて語られた小説なのです。


以上が、小森さんの分析による『坊ちゃん』の解釈です。ここからは、私たちゼミ生が、『構造としての語り』と『坊ちゃん』をどのように読んだのかについて軽く触れていきます。

最初に、小森さんの『構造としての語り』について、ゼミ生から出た意見(と少々の不満)記載していきます。

私個人としては、小森さんの分析、チョベリ納得~って感じだったのですが。ゼミ生のみんなと議論して、小森さんの論文には反論できる余地があるなと思いました!

まず、そもそも〈常識ある他者〉って何やねん

小森さんは、〈常識ある他者〉って言いますけど、〈常識ある他者〉って本当にいるんかいな!?って疑問がゼミ生からあがりました。いや、マジでそう。

そもそも、常識って時代によって変わりますよね。今は常識でも、昔は非常識だったことを例に挙げればきりがないです。

ってことは、『坊ちゃん』が描かれた時代の常識と現代の私たちの常識って違くない!?そしたら、現代の読者は〈常識ある他者〉って言えなくない!?

しかも、常識なんて目に見えないもの、現代人の間でもみんなが同じ共通認識できてるわけないじゃないですか。だったら、〈常識ある他者〉なんてどこにもいないだろーーーー!って。

つぎに、漱石の言葉を根拠づけにしちゃいかんやろ、、、という意見。

小森さんは本論文で、作者(漱石)の言葉を引用して根拠づけを行いました。

しかし、構造主義の観点から考えると、こりゃよろしくないかも。

そもそも、構造主義は、何でもかんでも作品と作者を紐づけて考えるのはやめようよーという立場のはず。だったら、作者の言葉を根拠づけにして良いものだろうか。過去の時代の一つの意見として引用するならいざ知らず。根拠薄くて不安だったのかな、小森さん(´;ω;`)なんて話もしました。

次に、『坊ちゃん』を私たちがどう解釈したかについて触れます。

今回は、2グループに分かれて『坊ちゃん』を構造分析しました。

1グループは、小森さんの論文に沿って、「自分/他者」「本音/建前」「表/裏」という境界について分析していました。秋美とのワークショップの題材である「コンビニ人間」における境界と絡めながら、2項対立で分析を行いました。

もう1グループは、プロップの31の機能に当てはめて分析してみました。

そこで『坊ちゃん』では、18.勝利の機能が抜けていることに気が付きました。家を出て、敵と遭遇し、お供と一緒にバトルして、帰還するという流れ自体は、プロップの時代の物語と変わりないのですが。

18.勝利の機能だけが抜けている。その意味で、坊ちゃんは、勝たなくてもいい主人公、近代の新しい人物像の表れなのかもしれないねという話をしました。

個人的には、坂口さんの「坊ちゃんは最後まで坊ちゃんだったよね」という発言が印象に残っています。坊ちゃんは、四国の赴任経験を経て確かに、昔の坊ちゃんではなくなった。それでも、坂口さんが最後まで坊ちゃんを坊ちゃんだと思えた理由はどこにあるのか、とても気になります。

以上で今回のブログは終わりですー。

最後に、第3回で白井君が飯テロしてたので、私も猫テロしておきます(うちの猫かわいいでしょ自慢もかねて)矢場とんおいしいよね。

↓ 写真撮られてご機嫌斜めなうちの猫です。猫には肖像権なんかなくてかわいそうですね

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