第二回 7期生 「誰の焦点か分かると、小説ってもっと楽しい」

 こんにちは、村上菜々子です。前座でこの冬私がハマりにハマっていたアニメ「PUIPUIモルカー」をお二人に紹介させていただきました。言葉を使わないアニメーションでこんなに人々に癒しと感動を与える作品は未だかつて無かったのではないでしょうか。ちなみに私はポテトくん推しですが、同じ方いらっしゃるでしょうか。モルカーファンの人とは仲良くなれそうな気がします。

 そんな話から始まった第二回のゼミですが、本編では今回、焦点化について理解を深めました。今まで、物語には語り手がその視点に立って話を進めていて、それがたまに入れ替わったりすることで物語を多面的に見ることができる効果があるということは知っていましたが、それだけでは浅いということが分かりました。焦点化というのはそれよりも複雑で、まず大きく3つに分けることができます。一つ目は非焦点化、二つ目は内的焦点化、そして三つ目が外的焦点化です。二つ目の内的焦点化はさらに三つに分けることができ、それぞれ、内的固定焦点化、内的不定焦点化、内的多元焦点化です。こうやって説明するとなんて小難しいことを言い出したんだと思われそうです。わたしも読んだ時そう思いました。たしかに分かりにくいのですが、先生と徳村さんにわかりやすく説明してもらったので理解できました。特に難しいのは内的不定焦点化と内的多元焦点化の区別と、非焦点化と外的焦点化の区別です。

 まず内的不定焦点化と内的多元焦点化の区別から説明します。内的不定焦点化の例として挙げられるのは湊かなえさんの「告白」のように章ごとに語り手が変わったりして物語が推移していく作品です。対して内的多元焦点化は芥川龍之介の「藪の中」のように一つの出来事についていろんな人物が語るという方式の作品です。ここで見極めるのに重要なのは推移しているかどうかで、語り手が変わることで物語の時間軸が進んでいるのかいないのかが見分けるポイントになります。

 次に非焦点化と外的焦点化の区別ですが、簡単に言うと非焦点化は神の視点なので3人称でも全ての人の心理描写が可能ですが、外的焦点化は語り手が人物の内面に入り込まないので心理描写ができません。

 ここまで色々書いてきましたが、最後まで本当に難しかったのはジェラール・ジュネットの言う、「ともにある視像」です。完全に理解できたわけではないのですが、今分かっていることは、

「一発の銃弾が、鼻の脇から反対側のこめかみへと貫通していた。そしてこの銃弾のために、死体はおそろしいまでに変形していた。死体の片目は、見開かれたままであった。」

この文章が内的焦点化でありながら、外的焦点化にも見えてしまう理由は、これを語っている人は確かに本人で一人称なのだけれどもこれを体験した本人と全く同じではないからだと言うこと。自分の過去について説明する時今の自分は過去の自分をある種客観的に見ざるを得ないので、その語り方がまるで他者が自分を説明するようになってしまうのは当然のことと言えるかもしれません。ここでいう二つの目線が、先にでてきた「ともにある視像」です。このことから、完全なる内的焦点化というものは無く、私たちはいつも誰かの視点を借りているということが分かります。

 そのことに関連して、私はたまに日記を書くのですが、今日あったことを書いている私と今日実際にそれを体験したわたしとではやはり乖離があります。その時怒っていたことでも日記に書くとなると自分の感情だけではなくある程度出来事を整理して書くので客観的になります。日記を書くことによってこころがすっきりする効果があるのは文章にしようとするともう一人の自分がそうやって自分を客観的に見つめ直してくれるから、自分の感情だけに囚われなくなるからなのかもしれないと今回の話を聞いて思いました。

 生きていると誰しもやることが多すぎてパンクしそうな時や、めちゃめちゃないやなことが起きたりすることもあると思います。そんな時は文字に書いて可視化することで単純化したり、モルカーを見たりして癒されながら頑張っていきましょう。また再来週もよろしくお願いします。

第1回 7期生ブログ「追憶は浦島太郎による」

「ふとPCの画面右下に目をやると、現在の時刻が2021年4月22日の午前2時過ぎ、つまり我々7期生にとって2回目のゼミが終了して7時間が経過しているということに気づく。いや、7時間経過しているということよりもこんな時間にブログを書いていることの方がちょっとアレである。なぜ私が深夜2時に無意識と意識のあいだでPCを叩くことになったのか、その真相は約7時間前に遡る。」

というわけで7期生初ブログを担当する徳村です。はじめまして。現在、午前2時を周っております。ねみ~。

今日のゼミでは前半でストーリー(時系列)とプロット(因果律)について、後半では「文学とはなにか?」という問いについて議論しました。

後半の「文学とは何か?」パートはめちゃくちゃ難解で、同じ7期生の村上さんによる死ぬほどわかりやすい説明と、死に至らしめんとするほど要点がまとまっているレジュメをもってしても私はその全貌を理解するのに時間がかかってしまいました。。。猛省っス。

さて「文学とは何か?」について再考すると、私は個人的に広告のコピーとかも文学だと思っていて、あれってもはや実用的である範疇超えてると思うんですよ。私が今までに見て最も感銘を受けたコピーは、テレビ鳥人間コンテスト2019のキャッチコピー『最初は湖に飛び込むだけの大会だった』というものですが、ここまでいくともはやこのコピーは文学と言って差し支えないでしょう。所詮テレビ番組の広告なので本当は「見てね!」とかでもいいんです、本当は。でもこういうコピーを創ることによって、このコピーによって鳥人間コンテストという大会の歴史と進歩と出場者の努力が非常に強くいきいきと想起させられますよね。私は、広告であるコピーが生んだ経済効果よりも、そのコピー自体の素晴らしさに感動したわけです。その点において私は個人的に(あくまで個人的に)広告のコピーは文学であると確信しております。

また、今回のゼミではストーリーの形である既存作品をプロットに再構築してみようという試みがありました。我々7期生は「浦島太郎」をプロットにすることにしたのですが、これがなかなか難しかった。「そもそも浦島太郎ってタイムリープした挙句老化してしまうけど、全然悪いことしてないのにおかしくね?」と物語自体を問うてみたり、「竜宮国の人類に対する復讐と警告として人間を誘拐したのちタイムリープ&老化させる」みたいなもはやプロットでも何でもないような星新一ショートショートめいたアイデアが繰り出されたりして作業は困難を極めましたが、村上さんが「冒頭で開いた玉手箱と煙を描写し、その後竜宮城での楽しかった時間を追憶するカットと荒涼とした大地にひとり佇む老人のカットを交互に描き、煙によって老人と化す男のカットでラストシーンを迎える」みたいな非常にエッジィでコントラストの効いた悲劇的なプロットを考えてくれたのでなんとかまとめることができました。「楽しかった時間を追憶する浦島太郎」っていうのがめちゃくちゃいいですよね。

で、まあ今時計見たらもう3時40分なんですけど、なんでこんな時間までブログ書いてるかっていうと、実は私今回の課題文を事前に全く読まないまま授業に臨んでまして。というのも今回の発表担当が村上さんだったもんで、むしろまっさらな状態で村上さんのプレゼンを聞いて理解した方がいいのかしらん、という謎理論が自分の中で成立してしまっていたんですよね。幸い授業内でおおよそ理解できたものの、やっぱり一度課題文も読んでおいた方が良いだろうということで終業後に読もうと思いましたが一見して「ウワ長ーい」とひるんでしまって、やっと課題文に向き合えたのは1時ごろでした。そして1時間でなんとか全部読んで、急いでブログを書き始め今に至ります。猛省に次ぐ猛省でございます。ちなみにこのブログもプロットっぽくなってます。効果的であるかどうかはわかりません。ていうか初ブログめちゃくちゃ長くなってしまいました。これは猛省に次ぐ猛省に次ぐ猛省に…(n)。はい、それではそろそろおやすみなさい、或いはおはようございました。また次の次のブログで宜しくお願いします。