2年ゼミ第7回「最後わかるかな」

 こんにちは、こんばんは。第7回を担当します、石橋と申します。ぶりじすとんです。以上です。残念ながら私はこれ以上特に名前のお話はしません。楽しみにされていた方ごめんなさい、次回以降の担当者さんにこうご期待ですね。その代わり、今回は先生が過去に受け持っていた日本語表現という授業のとある学生さんのお話を共有しようと思います。(ここからは学生さんを〇さんと呼びます)

 〇さんの最終レポートテーマは「なぜクリスマスはカップルのものなのか」について。日本に浸透している、「クリスマスは恋人たちのもの」という認識に怒り心頭だったようです。確かに、日本ってクリスマス≒恋人と過ごす日っていう認識が強いですよね。(私はただただ美味しいものを食べまくっていい日と認識しています。)〇さんはそんな普遍的な現象に疑問を呈したわけです。そしてなんと!そのアプローチ方法が…明治期から直近までのクリスマスに関する新聞記事を全部読むことでした!熱量が凄い(笑)!その研究の結果、〇さんは大発見をしました。クリスマスは以下のように変遷していたのです。

クリスチャンたちが讃美歌を歌う程度のもの→(一般の人にも広がる)→おじさんたちが吞みまくってどぶに落ちるようになる→おじさんだけでなく家族やみんなでワイワイするイベントへ→(バブル期突入)→恋人たちのものに…

そう、”恋人たちのクリスマス”はバブル期以降に突然できたものだったのです!

すごくないですか?!先生曰く、普遍的な現象ほど証明・分析することって難しいようなのです。だからできる限り対象を絞る。でも〇さんは当時1年生にして「大量の新聞記事を読みまくる」(ちなみに新聞の後雑誌も読み漁ってます)という圧倒的熱量でその壁を越えていったのです。私は〇さんのこの熱量をとても面白いと感じました。皆さんはいかがでしょうか?まあ、機会があったら感想教えてください。とりあえず今回の前置きはここらで切り上げて本題に入りたいと思います。では早速、走吧!

1,レポートの構想発表

1人目:大胡田さん

今回のレポート発表でトップバッターを務めたのは、前回発表予定だった大胡田さんです。大胡田さんが扱う作品は、谷崎潤一郎の『細雪』。当時の結婚規範や女性に対する価値観が本作品においてどのように表現されているのか、といった観点からアプローチを試みるようです。実は、本作品はは戦時中に軍部から「内容が戦時にそぐわない」と掲載が取りやめられた作品だったようで、初めはこれをテーマに持ってこようとして選んだのだそうです。こっちもなかなか興味深そうな問いですよね。素敵な作品チョイスだと思います!

2人目:坂入さん

続いての発表者は第五回のブログを担当してくれた坂入さん。扱う内容は「匿名性の高い作者と作品の関係」についてで、前回前々回に取り上げたドランバルト『作者の死』から着想したみたいです。ここでの匿名性の高い作者というのは、ネット小説の作者や性別明かさないアーティストといった情報の流出が極端に少ない作り手のことです。話題の渦中のバンクシーもそうですね。「匿名性の高い作者の作品がなぜ受け入れられるのか」という問いをテーマにしたいと考えているようですが難易度の高い問いのためまだ少しお悩み中のご様子でした。頑張って!!

3人目:松島さん

3人目の松島さんはリモートでパワポを使って発表してくれました。自身の大好きな「美女と野獣」か「シンデレラ」を扱いたいと考えているようです。ただ、「まだテーマが決まっておらず皆のアイデアを聞いてみたい!」とのことだったので数人のメンバーがアイデアを挙げてくれました。「シンデレラ2」「シンデレラ3」の存在を含めた様々なアイデアと情報が出てきました。松島さん、選び放題ですね。どんなテーマにされるのか、楽しみです!!!

2,リアクションペーパーに対する応答

今回もたくさんほほう確かに~となるリアクションペーパーが紹介されました。そこでここではみんなの考えとそれへの先生の応答を一部抜粋してQ&A形式で紹介していきます。

Q作者は単なる文字の媒介者ではないためエクリチュールには作者の価値観が少しは入っているのでは?

Aもちろんです。作者の価値観は入っています。ただ、十全に作者の言いたいことが反映されているわけではなく、他のものも入り込んでいます。ここにバルトは注目し、これを用いて作者最強という見方を弱めたかったのだと思われます。

Q作者側の人々は自身の書く文章が読者を通して広がり様々な解釈がされることを望んでいたのではないだろうか。それゆえに、作品の解釈が作者に帰結される事態が生じたときバルトは作者の死を願ったのではなかろうか。

Aとてもなるほどと思います。実際、今の作曲家・写真家・作家といった作者側の方々のお話を聞いても「作品が自分の手を離れた時点でそれはもう自分のものではない。むしろ読者が自分の予想もしないような解釈をどんどんしていってくれる方が喜ばしい」と言う方が多くいらっしゃいますね。

Q引用の織物とは意識・無意識に関係なく今まで見聞きしてきたものの反映に過ぎないのかなと思った。

Aまさにその通りです。ロ二・ホーンの展示はまさしくこの点に関して、私たちがどれほど多様なものを見聞きしていてかつそれを取り込んでいることに気が付いていないのか、ということを明らかにしてくれます。

などなど、色々なリアクションが見られました。皆さんとても熱心に学習されているのが伝わります。次回も楽しみですね。

3,批評理論の学習4:ジャック・デリダ「脱構築」

…の予定だったのですが、時間が無くなってしまったためできませんでした。残念!

4,次週までの課題の案内

今回はアウトラインの作成が課題です。ポイントは題目は問いのかたちで書くこととできるところまで埋めること。アウトラインはver1,2,3…と消さずに更新していくことで俯瞰的な視点を失いにくくできます。ここからver何まで作ることになるのか…根気強く頑張りましょう。

さて、今回の内容はこれで以上となります。こういったものを書いた経験がなかったため拙い文章だったとは思いますが、最後までお読みいただきありがとうございました。見聞きしたことを文字に起こすのってとても大変な作業なんですね。勉強になりました。また誰かのブログで登場すると思うので…その時まで、しばしの別れ!

7期生ブログ第16回『ずれ上等!!!!!!』

「サザエさん時空」って知ってますか?

春夏秋冬はあるけれど、1年がすぎても彼らが歳をとったり、急激に状況が変わったりすることはないような時間の流れのことです。特に長寿アニメに多くて、サザエさんの他にも、名探偵コナンや、ドラえもん、クレヨンしんちゃんなどに当てはまります。キャラクターは確固たるアイデンティティーを持っているし、それが変わることもありません。

しかし、私たちが住んでいる世界は、時間が流れゆき、決して止まることはないですよね。今自分が見ている世界が全てではないし、今見ているものは、明日には姿を変えているかもしれないし、無くなっているかもしれません。私たちはよく、自らのアイデンティティについて考えるし、かなりそれにこだわっている人もいると思います。

「クイア」という概念は、ずっと変わらないその人の本質(アイデンティティー)ではなく、そのひとのその時の状態をさすといいます。それは本質なきアイデンテティーです。何かからずれる状態そのものがクイアです。その考え方に立ってみると、私たちは誰もが少なからずクイアの要素を持っていると言えるかもしれません。

私が子供の頃読んでいた児童書青い鳥文庫の「黒魔女さんが通る!」では、すべてが全国平均である男の子のキャラクターがいました。彼はあらゆることにおいてすべて全国平均をとりますが、それだって日本においては平均なだけで、世界規模では平均ではないですし、そもそも身長や体力測定などすべてで世界平均をとったとしても、所属するコミュニティーでは平均ではないので、周りから「普通」だとは認識されないでしょう。もし仮にそんな人が実際にいたら逆にすべてで平均をとること自体が確固たるアイデンティティーにもなりそうです。

今回、授業教材として、映画『ぐるりのこと』をクイア性から分析した卒業生の小野寺さんの論文を扱いました。『ぐるりのこと』は英訳すると『all around us』 映画のラストシーンで主人公カナヲが街ゆく人々の雑踏を見ながら、「人、人、人」とつぶやくシーンは、カナヲと翔子を絶対化しないための描写だとも取れます。クイア性は誰もが持っているものだということを示唆しているようです。

先日徳村さんとある長い話合いをした際に、彼は私よりもかなり楽観主義者で、明るいという新たな発見をしました。私はこれまで、彼と自分は割と似ている方だと思ってきました。もちろん、似ている部分もあるのかもしれません。しかし、そうではない部分の方が大きく、それはとても根本的な違いでした。そしてその違いがあったからこそ、闘争ができました。価値観が違う人同士は分かりあえませんが、それでも2人にとってもっともいい結論を導き出したいという思いが共通しているとき、そこには闘争がおき、そしてそれを乗り越えた先には、それまでなかった平和が訪れるのだと知りました。

闘争を通して、私は徳村さんへの理解が深まると同時に自分についての理解がさらに深まりました。普通に過ごしていて、自分自身の新たな性質に気づける機会はそうありません。しかし、自分と異なる考えの人と、共通の答えを出さなければならない段階になって、初めて見える自分というのがいるのです。その自分は他人からの期待を内面化して自分を追い込んでおり、何かを完璧にこなして認められないくらいならそれをやる必要はないと考える人間でした。しかしそんな自分に気づけたのは、失敗しても、楽をしてもいいから、楽しんでやることが大切だという、真逆の思考を持った徳村さんがいたからです。

それはちょうど、『ぐるりのこと』で「ちゃんとしなきゃ」と思いすぎてそうできない自分に疲れてしまった翔子にカナヲが言った言葉「おってくれたらいい」に通ずるものがあるように、後から思いました。(まあ、ちょっと違いますが)

つまりは「ちゃんとやる」ことができる人間ばかりじゃないけど、ちゃんとできない自分に絶望しないことは難しい、今の自分の限界を思い知るのは苦しいけれど、限界を受け入れられたら、自分がやるべきことがわかってくる、ということです。

ちゃんとできない人に向かって、自分が今まで抱いてきた思い「努力すればちゃんとできるのに、ちゃんとしないやつは甘えているかサボっている」を内面化しては、自分がちゃんとできなくなったとき、それが自分に還ってきて私のように追い込まれてしまうでしょう。

クイアの状態にいる人に対して、自分とは違う、自分はああならないと思うことは、結局自分を苦しめることになります。自分もどこかの一面ではクイアだと認めること。そしてクイアである人やことに抵抗を感じないこと。それが自分も周囲も楽な気持ちで生きていける秘訣だということをシェアしたところで、今回のブログは締めようと思います。

皆さんも、どうか「ずれ」に寛容に。

村上菜々子

(「なんだかいつもより短い」と思った人のために懺悔すると、実は「ぐるりのこと」を扱う前に同じくクイア研究で夏目漱石の「こころ」を扱ったのですが、私が本作のファンでありすぎるためにクイア研究で「こころ」を批評した論文にどうしても納得することができず、納得できてないことをブログに書くことはできなかったのです。それで分量が少なくなってしまったのです、懺悔。)

2022年度問題分析ゼミナール:入室試験のご案内

本ゼミへの入室を希望する学生は、情報コミュニケーション学部の事務室の指示に従い、以下の書類を提出してください。

1. レポート: 以下の内容について論じること。

1) 志望理由 2)ゼミで取り組みたいこと(対象・作品があれば,それも示すこと)。

書式:WordもしくはPDF、A4横書き、字数2000字前後

2. エントリーシート: 以下のファイルをダウンロードし、必要事項を記入すること。

7期生ブログ第15回『ハズレじゃないよー。゚(゚´ω`゚)゚』

みんなー!滞ってるかーい!?

どうも、お久しぶりです。7期の徳村です。

秋学期が始まって早2か月くらい経ってしまっていますが、一度もブログを更新できておりませんでした。

理由としましては、ギリすぎる春学期レポートの執筆と、ギリすぎる明大祭準備スケジュールが挙げられます(以下言い訳パート)。

まず春学期レポート(1万字)なんですけど、これがマジで終わらなくてメチャメチャ精神的な不調に陥り、発表会にもほとんど出来上がっていない状態で参加し、失態を晒すなどした後、先生の助けを借りながら締め切り一週間前にテーマを変更して、締め切り当日に図書館に籠ってなんとか仕上げた、っていう経緯がありました。それ書きながら授業もやってたわけなので、当然ブログなんて書いてる暇ないワケなんですよね!

次に明大祭準備なんですが、私は軽音サークルであるケーパースとお笑いサークルである木曜会Zを兼部しておりまして、今年は初めてそのどちらにも参加することになり、結果的に春学期レポートを終えた後、雪崩れ込むように明大祭準備に飛び込まざるを得なくなってしまったのです。

軽音サークルではレッチリのボーカルだったんですが、私洋楽なんて今までロクに歌ったこともないし、ラップなんてズブの素人だし、もう必死で聴き込んで歌の練習してなんとか形にしました。他のパートの人はメチャメチャ上手い人ばかりなので足を引っ張らないように頑張りました。

そしてお笑いサークルでは、なんと私史上初めて『3日で4ネタやって、そのうち3本のネタを書く』という暴挙に出まして、ネタ披露の当日朝にネタを相方に送って一緒に合わせながら覚えたり、徹夜でコントで使う音楽を編集したりして本当にギリギリのスケジュールをこなしました。ギリギリだった割にはウケてた方なので良かったなと思います。ちなみに私が書いたネタは『フルーチェの黄金比率』『レストラン強盗っぽい人』『パソコンっぽい人』で、私は『~っぽい人』ネタが好きなのかもしれないと思いました。

そんな感じでメチャメチャ多忙を極めた今年の明大祭でしたが、個人的にはもう大満足で、過密スケジュールの中、本番3日間をちゃんと完走できたことが何より嬉しいし、大学生活の中で一番充実感がありました。一夜明けた翌日に「なんか楽しかったなあ」と思えたことって最近あんまりなかったので、私久しぶりに感動してます。過密スケジュールは精神を追い詰めますが、なんとか乗り越えるとこんな感情になるんですね。たぶん現状、私の走馬灯候補のトップ3くらいには入ってるんじゃないでしょうか。もっと走馬灯候補を増やしていける人生でありたいと思っています。過去そして未来のマイ・スウィート・メモリーズの諸君おかれましては、今後一層の熾烈な走馬灯争いを期待したいものです!

さて本題に入りますが何せ1か月前のゼミのブログを書こうとしているため、正直言って記憶がメチャメチャ曖昧です。なので今回は本当に大事なところ(覚えているところ)だけ皆さんにお届けしたいと考えています。ちょっち短くなるカモなんですがヨロシコ!ってなカンジで宜しくお願いします!

※なお、この記事の執筆に際し、同期の村上氏と村上氏がゼミ中に書き留めていたメモに対して最大限の感謝とリスペクトを送りたいと思います。ダンケ!

今回のゼミ前編で精読したのは『異化としてのメディア』という論文で、メディアという『身体を拡張する道具』が知覚を刷新することによって異化作用が生じることが論じられていました。ここでいうメディアとは、新聞や雑誌、テレビやYouTubeだけでなく、『人間の身体機能を拡張するもの』という意味で、車や飛行機なども含んでいます。

例えば、映画『ベッドとソファ』では夫に従属的な立場を取っていた女性が、新聞やラジオ、飛行機、映画などのメディアに触れることで知覚がどんどん刷新され、意識まで変容していく姿が描かれています。

また面白いのは、メディアによって知覚が拡張した場合に起こる『逆転現象』です。例えば『ベッドとソファ』の場合、夫は「妻にもっと家事を頑張ってもらいたい!」「家事の合間に気分転換できればもっと家事をしてもらえる!」という思いから妻にラジオを与えますが、妻はラジオにのめり込んでしまい、結局家事が疎かになり、夫は自分で家事をしないといけなくなってしまったのです。これがメディアによって知覚が刷新された際に、本来の目的とは逆の方向にメディアが作用してしまう結果として起こる逆転現象です。実際、洗濯機が発明された際には「女性にもっと効率的に洗濯をやらせよう」という男性が嬉々として洗濯機を家庭に導入しましたが、結局「誰にでも洗濯ができる」という洗濯機の特性によって、逆に男性が洗濯をする機会が増えてしまったという話があります。

ゼミ後編では、「異化」をテーマにレイ・ブラッドベリの『華氏451度』を読み解きました。『華氏451度』は本を読むことも所持することも禁止された世界が舞台で、主人公のモンターグは本が見つかり次第出動し、本を家ごと燃やし尽くす「昇火士」として働いているものの、クラリスという少女との出会いをきっかけに本が禁止された世界を疑うようになっていくという物語です。本やクラリスによって異化されていく主人公の知覚が克明に描写されていて、今回のテーマにぴったりだと思いました。選書した村上さんに2度目のリスペクトを。

『華氏451度』の考察に関しては、7期生ゼミ史上最もアツい激論が交わされることとなりました。私と村上さんとで意見が対立したり、噛み合ったり、説得したりさせられたり、そして最後には先生も含めた三者の考察が綜合されたより高次の考察がされるに至り、ヘーゲルもにっこりの弁証法的な議論になったことには一種の感動を覚えました。その内容はメチャメチャネタバレなのでここでは書きませんが、ひとつの作品に対して少人数でここまで深く話し合う機会って他のゼミではできない経験だと思いました。みんなも内藤ゼミでヘーゲルをにっこりさせよう!

最後急に宣伝臭くなってしまいましたが、コレなぜかというと、最近他の情コミ生とゼミについて話す機会があって、その際に「徳村はどこのゼミに入ってるの?」と訊かれたので「俺はファッキン刺激的な内藤まりこゼミでファッキン忙しくしてるぜ」的なことを答えたら、「内藤ゼミ?えーそれってハズレゼミじゃない?」と言われて衝撃を受けたからなんですね。

えっ!?俺のゼミってハズレゼミ扱いだったの?

私はすぐさま反論し、当ゼミの素晴らしいところと辛いところを2:8くらいの割合で紹介した(※実際の比率です)のですが、まあこれは価値基準の違いに終始する話になってしまうのでその人には届かなかったすね。

確かにコスパの良さ、単位取得のためにかかる時間と労力の観点からみると、内藤ゼミはゼミもゼミの準備もメチャメチャ時間かかるのでハズレゼミと言わざるを得ないのかもしれませんが、もっと長い目で見て、そのゼミが自分のためになっているかどうか、という観点から考えてみると、私は内藤ゼミをあたりゼミだと思うことができます。

このゼミは文学批評のゼミなので、文学と向き合い続けるだけのゼミだと思われがち(私もそう思ってました)が、実際には意外と文学よりも世界・社会、そして自己と向き合うことの多いゼミだと私は感じています。なぜなら文学はいつも社会や世界、そして自己を映しているからなんですね。だから文学批評をするには社会や世界や他者や自己を読み解かないといけないんですよ、マジ大変ですよねコレ。でもそれは他のゼミではなかなかできないことなんじゃないでしょうか。内藤ゼミは決してハズレゼミではありません!ちょっと大変なだけです!ちょっと授業時間が長かったり(200分)、ちょっと隔週で論文をまとめてレジュメにして発表する課題があったり、ちょっと学期末に1万字の論文書いたりするだけです!そしてちょっと病むだけです!こわくないよー!ぜーんぜんこわくないよー!ぜーんぜんハズレじゃないよー!

という訳で最後にはゼミ試を受ける2年生向けてのブログになってしまいましたが、次からはしっかりと書けるように頑張ります。もう滞らせません。たぶん。2年生の方々のブログが凄い熱量なのでプレッシャーも感じつつですが、私は私でマイペースにやっていきたいと思います。

ではまた次回~。再见!

2年ゼミ第6回「作者はもう死んでいる」

 こんにちは。第6回担当の齋藤穂花と申します。

 前回まで名前の話が続いていますね。今回は内藤先生の名前の起源についてお話も聞けました。というわけで、私も何か書き記せることがあればと思ってパソコンに向かったのです。……向かったのですが、いかんせん「齋藤穂花」などという、ひと学年に一人は必ず見かけそうな名前と、ひと学年に一人どころか、うじゃうじゃいそうな苗字のコンビ。どうせなら「山田花子」とか、TOP OF 凡庸! といった名前の方が面白かっただろうに……(失礼)。

 ところが、私のThe 凡庸! な名前にも一応、非凡庸な話がありました。なんと、なんと……私の名前は最初、「ユリア」になる予定だったのです! というのも、厄介ヲタク選手権おじさん部門代表である父(どうか父にはご内密に。笑)が『北斗の拳』に熱を上げるあまり、ヒロイン(超絶美女)の名前「ユリア」をそのまま私につけようとしたというのです。しかしなぜ「ユリア」が「ホノカ」に変貌を遂げたのかはいまだに謎のままです。父の酒の肴は『北斗の拳』語りに逸れ、そのまま直進して戻ってきませんでした。そして、なんということでしょう(某住宅改造番組風)。私も『北斗の拳』が読みたくて堪らなくなってしまいました。お父さん、布教用に全巻買ってくれればいいのに。ヲタクは魂を賭けて信ずるものを布教する生き物だというのに(主観と偏見)。

 というのが、今回のブログの何番煎じか分からないタイトルを決めた経緯でございます。魂を賭けた『北斗の拳』ファンの方がいらしたら申し訳ございません。けれど、実際にバルトもこう思っていたり……なんてことはないか。というわけで、自分語りが過ぎてしまった気もしますが、ここからはちゃんとゼミの内容をお送りいたしますよ、たぶん!


1.前座:形部龍之介さん


 今回の前座を担当してくれたのは、形部龍之介さん。アニメーションの作画についてレクチャーしてくれました。素晴らしい作画は作品のクオリティの底上げに一役買っていて、特に作画が良いと評判なのが京都アニメーションだそうです。逆に作画崩壊で有名なのはキャベツ問題。たしかに調べてみたら「キャベツ色のドッジボール……?」となりました。むしろ芸術? 最後に、京アニ最高傑作の『バイオレットエヴァーガーデン』が金曜ロードショーで二週連続放送中なので是非みてみてね、とのことでした。私の積みアニメリストがどんどん膨らんでいきます。うーん、幸せ。(見ろ)


2.リアクションペーパーに対する応答


 前回の講義内容であったロラン・バルト「作者の死」について、今回も熱い熱いラブレターがたくさん届いていました。

 まずは「個」という概念について。まだ掴み切れていないという声もあり、時代背景も含めて先生から解説がありました。その頃西洋に染みついた「個」の概念は、家父長制の文化があった日本にはなかなか広まらず、明治時代の文明開化でがらりと思想が変わるということが起こったといいます。「歴史を学べば当たり前だと思っていた考え方が絶対じゃないと分かる」という先生のお言葉には目の覚めるような思いでした。(本当に寝ていたわけではありませんよ?)

 また、それに関連して、平野啓一郎著の『私とは何か「個人」から「分人」へ』という本を紹介していただきました。就活鬱になったときに救われそうな内容でしたね。ぜひ読んでみたいと思います。

 次に、エクリチュールについて。こちらは先生に前回できなかった説明をしていただきました。バルトは、あるエクリチュールが生み出された「起源」は特定できないと主張しています。ほほ~、なるほど。たしかに私も『北斗の拳』が何年の連載開始か知らん(知識不足)。……ではなくて、エクリチュールとは、起源とは一体何ぞや。 この純然たる(?)疑問を解消するには、バルトの時代に元々浸透していた考え方を知る必要があります。当時、文学については「書かれたものは死」、「声は生」と考えるのが主流でした。書かれたものは半永久に存在し、逆に声は一回的なものであることからです。バルトはそれに異を唱え、エクリチュールはそれを生み出した主体に紐づけられるものではないと主張したのです。そして、エクリチュールではあらゆる自己同一性が失われるとしました。自己同一性? WHAT? という人は『鬼滅の刃』や『鋼の錬金術師』を見てみてください。これらは女性作者が描いていますが、男の主人公像や物語が薄っぺらいなんてことはありませんよね。

 最後に、テクストについて。「テクスト」とは本来織物のことであり、バルトはテクストを「無数にある文化の中心からやって来た引用の織物である」としています。ここではその「引用」に関連し、先生のお名前の由来を聞くことができました。究極をいえば、私たち人もテクストなのだということが分かりますね。私の中にも『北斗の拳』という偉大なる引用が……入っていると言えるのでしょうか。笑

 そんなこんなで、「作者の死」については今回でひとまず終わりとなります。皆さん、お疲れ様でした! 次週からはもっと難解そうな理論が立ちはだかりますね。頑張り……ましょう……。


3.学期末レポートの構想発表:大胡田さん

 ……のはずだったのですが、時間が押してしまったので次回に発表してもらうことになりました。楽しみです。


4.論述文の書き方の学習2

 今回は論文の構成要素(内容)の復習と、アウトラインの作成について学習しました。論文の構成要素にはテーマ、論点、結論、論拠の四つがあり、アウトラインには序論、本論、結論があります。アウトライン、と聞くと輪郭を思い浮かべそうですが、ここでは骨組みを意味するそうですね。骨を組み立てては崩し、組み立てては崩してまた組み上げる……という作業の大切さは、ブログ執筆にあたって改めて痛感しました。更新が遅くなってしまったこと、お詫び申し上げます。私のようにならないように、皆さん学期末レポートに向けて頑張りましょうね(どの口が)。

 ちょくちょく私見や願望がにょきっと顔を出してしまいましたので、スパッと締めたいと思います。ここまで読んでくださりありがとうございました! 私は期末レポートまでに『北斗の拳』……ではなく、厄介だけど優しいヲタクの父が録画してくれたハガレンの一挙放送と『ヴァイオレットエヴァーガーデン』を、先に見尽くしたいと思います。それではお元気で!