春学期13回 4年ゼミ

こんにちはー。13回担当の相田です。
最近部屋の窓にすだれをかけてみました。クーラー要らずの(そもそもない)相田家ですが、風通しがよくなりより快適になればと思います。

というわけで、今回は前回消化しきれなかった「地獄の黙示録」の分析を行いました。
今回の議論で印象的だったのは、完全版で追加されたフランス人との会話のシーンです。

ウィラードがカーツへ会いに行くまでの途中で、ウィラードは農場を経営しているフランス人に遭遇し、歓待を受けます。
このシーンは完全版に追加されたシーンですが、何故このシーンは追加されたのか議論を少し行いました。
そもそもベトナム戦争という戦争の背景や一連の流れが発表時にもう希薄になってしまったのではないか、だからこそベトナム戦争に関しての知識を補完するために、このシーンが追加されたのではという意見が出ました。
実際、世界史を勉強していないゼミ生の中には、ベトナム戦争の背景やそこに潜む社会主義、資本主義の対立をいまいち把握できていないメンバーもいました。このことを考えると、フランス人との遭遇シーンは、足りない知識の補完として追加されたのかもしれませんね。

前回はっきりしなかったウィラードとカーツ、軍上層部の立場に関しては、1週間映画を確認することではっきりできました。また、保守やリベラルという考えのオンパレードでしたが、何とか理解できた気がします。

もう大学生活最後の一年の半分が経過しようとしています。
大学生のうちにできることは全部しながら、ちゃんと単位を回収していきたいと思う所存でございます…

春学期第6回 4年ゼミ

こんにちは。
第六回ブログ担当の相田です!!
4年になり、40000字の論文作成のため、そろそろ動き出さないといけなくなりましたね…
頑張っていきたいと思います!!

というわけで今回の授業はFilmAnalysis第二部第9章、構造主義批評について議論を深めました。
構造主義批評とは、物語などの作品には何かしらの統一的な構造が存在し、その構造が服装や言葉遣いといった文化的コードとして表出していることを明らかにする批評のことです(昨年度の授業の復習ですね)。

この考え方を用いて今回分析したのが、A.ヒッチコック監督によって1959年作成された「北北西に進路をとれ」です。
この作品は、ざっくりと説明すると青いスーツに身を包んだ「アメリカのビジネスマン」であるソーンヒルが、ロシアのスパイやアメリカの諜報機関に振り回される作品です。
この作品で私達は、空砲ではなく実際に銃を撃っているのがアメリカの諜報機関しかない点に注目しました。この点は、他のソーンヒルやロシアのスパイは空砲という虚構の力でしかなく、実際に力を行使できるのはアメリカの諜報機関でしかない、ということを表象しているのかもしれません。

なんにせよ、ゼミ生全員の共通点として、アメリカの政治制度や常識に疎いことが発覚しました…
ちょうどいい機会ですし、皆で予習しておきましょう。

春学期第10回 3年ゼミ

こんにちは。今回の担当は大下です。
第10回目は増尾欠席により私一人のゼミ。こんなにも心細いことがあったでしょうか。先生と一対一の個人授業です。4限ではお世話になっている先輩方が4人も来てくださり、大変ありがたかったです。

ハプニングもあり、予定とは大きくずれ、『批評理論入門』から「ジャンル批評」「読者反応批評」「文体論的批評」の3つを行いました。3限で「ジャンル批評」と「文体論的批評」を先生と読み解き、4限で元のテクストと同じ内容の「読者反応批評」を議論しました。

と、いっても文体論的批評も3限内に終わらなかったので、4限に食い込んでいます。タイムキープごちゃごちゃでした。反省です。

「ジャンル批評」とは19世紀末頃から用いられるようになった分類の考え方。『フランケンシュタイン』にはロマン主義、ゴシック小説、リアリズム、サイエンス・フィクションの4つがあてはまると解釈され、紹介されています。話の焦点となったのは「文化批評用語辞典」に載っていたジャンルの一節から発展した話題。予習としてフェミニズムや現在のジェンダーに関する話を拝聴しました。疑問はすぐにぶつけ、じっくり解釈することができました。

続く「文体論的批評」は4限までのびたため、先輩と一緒に議論しました。ひっかかったのは「内的逸脱」と「外的逸脱」について。テクスト内に一定の基準が設けられており、そこから外れることを「内的逸脱」と表記しているが、では内的があるのなら「外的逸脱」もあるのだろうか、という内容。先輩方が大議論を繰り広げ、途中から口をはさめない状況に。けれども見事に議論が収束し、正しいであろう結論に達するところはとても鮮やかで見事でした。外的逸脱とはつまりテクスト外での逸脱を指し、作家や作品、ひいてはジャンルにおいて、それ自体の癖を基準と捉えることができるのではないか。ということになりました。(メモが正しければ)

さて、大議論のあと、残された時間は20分弱。大部分の議論が残されたままでした。超特急で話し合いたいところだけを掬い取って議論。残りは今度もともとの4限テクストの議論と一緒に行うことにしました。大きくは「修辞的な示し方」と「弁証法的な示し方」について、「読むということの怪物性」とはなにかの2点です。

まず、フィッシュの提案した文学の表現方法の2つ。「修辞的」な方では、作品は読者の知りうる情報を強化することに専念し、「弁証法的」では。読者に自分で真実を見つけるように挑みかけるように描かれているという内容です。読者の反応は後者に興味をもつとされていますが、私たちは前者でも、テクストの持つ社会性という点では他の時代において知的欲求を刺激され、挑発されるのではないだろうか、と考えました。

また、読むことの怪物性とは、作者によって押し付けられた読み手の人物像を押しのける力であると解釈し、作者の絶対的権力が失われ、読者によって解釈が変化するという「作者の死」という言葉が改めて浮かびました。

 

議事録は以上ですが、本来やる予定だった4限のテクスト、ヴォルフガング・イーザーの『行為としての読書』は、完全夏休み持ち越しとなりました。単位の出ない特別夏期指導。日程も未定。夏課題とのダブルパンチにおびえる3年生……。私たちの夏は豊かな楽園生活とは程遠いものになる予感がします。。

6月23日 南後ゼミナールとの合同WS 映画『誰も知らない建築のはなし』を観て

こんにちは。
今回は、6月23日に行われたワークショップについて報告をさせて頂きたいと思います。

6月23日、石山友美監督の映画『誰も知らない建築のはなし』のワークショップを行いました。石山監督をお招きし、情報コミュニケーション学部の南後ゼミナールと合同で行いました。
ワークショップの内容は、内藤ゼミ・南後ゼミが、それぞれ『誰も知らない建築のはなし』を鑑賞し、映画または建築について分析し、発表を行い、それらについて議論を行うというものでした。発表は、内藤ゼミ、南後ゼミの順番で行われました。
以下、それぞれの発表内容を紹介します。

まずは、私たち内藤ゼミの発表です。
発表タイトルは、「挑発する物語 —『誰も知らない建築のはなし』の怪物性—」。
私たちは、ウラジミール・プロップ(1895-1970)の物語の31の機能の理論を用いて、この映画には、安藤忠雄と伊東豊雄のWヒーローの冒険譚である、という物語の王道の構造があるということを読み解きました。
しかし、安藤・伊東のWヒーローの冒険譚であるにも関わらず、この映画は、冒頭と最後で同じ課題が語られるという円環構造を成しており、加えて課題の解決法が語られない「開かれた終わり」であり、ハッピーエンドでは終わりません。
では、何故Wヒーローはハッピーエンドを迎えていないように描かれているのか?それは、大衆に寄り添った建築で、民衆からの支持を得た安藤・伊東というWヒーローがハッピーエンドを迎えていないように描かれることで、観客が大衆目線の建築家を素直に肯定する気持ちを逆なでし、むしろそうした建築家のあり方に疑問を抱かせる意図があるのではないかと私たちは考察しました。

こうした分析を踏まえ、私たちは今後の建築家像について考察を行いました。
文学においても建築同様に、インテリで著名な作者の役割が最重要視される巨匠主義が台頭した時代がありました。しかし、1960年代にロラン・バルトが「作者の死」を提唱して以降、文学研究では作者だけでなく読者も作品解釈の主体たりうるという理解が共有されるようになりました。実際にインテリ作家の時代は終わり、あらゆる人が作者になれる時代が到来しています。
かつてインテリの仕事であった建築ですが、現在、安藤や伊藤のような大衆に寄り添った建築が支持されており、このような建築世界の状況は、文学と同じ道筋をたどっているように思えます。つまり、バルトの言葉になぞらえるならば、「建築家の死」の時代が訪れ、建築家という存在はいずれ無くなるかもしれません。しかし、作者が死を遂げた文学は、現在も残り続けています。磯崎は、映画において、建築家が「エンジニアになるのか、テクノクラートになるのか、アーティストになるのか」と語りますが、今後、建築家という従来の確固とした概念が希薄化し、建築家とそうでない人々の間の溝が埋まっていくかもしれません。しかし、文学が辿って来た軌跡のように、建築家がいなくなった世界でも、建築は作られ、残り続けていくだろう、というのが私たちの考察です。

映画を読み解くにあたり、建築の知識がない私たちは、非常に頭を悩ませました。また、映画自体も、複数の登場人物がそれぞれ異なったことを語っており、混乱させられ、”分かりにくく”、読み解くことは非常に難解であると感じました。しかし、この”分かりにくさ”、”難解さ”が、この作品の怪物性であり、観客に「この難解な映画を読み解けるか」という挑発に満ちた物語であった、ということから、発表のタイトルを「挑発する物語 —『誰も知らない建築のはなし』の怪物性—」としました。
この難解な物語を、建築の知識のない私たち内藤ゼミが読み解くことで、建築が抱えている問題は、建築家以外の人間にも全く関係のない話ではなく、またかつて文学が抱えていた問題とも共通していることから、建築と文学の異なる領域であっても共通の課題として考えられることを示すことが出来たのではないかと思います。

 

ここまでですでに長くなってしまいましたが、続いて南後ゼミの発表です。
南後ゼミは3班に分かれて発表を行いました。

はじめの、1班の発表タイトルは、「境界を“読む”―『誰も知らない建築のはなし』」です。
建築界を構成している要素や、『誰も知らない建築のはなし』の英語タイトル『Inside Architecture』から、建築界の内(inside)と外(outside)に着目し、ハワード・S・ベッカーの『アート・ワールド』や新聞記事から、建築界の境界について考える発表でした。

続いて2班です。発表タイトルは「映像に映り込むもの:『だれもが知っている建築のはなし』」です。
映画のカメラワークや背景、身振り、カット割りなどを分析することで、登場する建築家たちが、P3会議のように会議を行っているように描かれているという考察を行っていました。また、リオデジャネイロ五輪の閉会式で流された東京のPR動画を用いて、アンケート調査を行い、「誰もが知っている建築」とは何か、という考察を行っていました。

最後は、3班の発表です。発表タイトルは「『ポストモダニズムの建築言語』とInstagramから考えるスーパードライホール」です。
映画にも登場したチャールズ・ジェンクスの著書『ポストモダニズムの建築言語』とInstagramの検索結果から、2班で誰もが知っている建築と考察されたスーパードライホール及びポストモダン建築の受容のされ方などについて分析を行っていました。

発表後は質疑応答の時間が設けられ、南後先生や石山監督からコメントを頂くことができました。また、映画について、直接石山監督から、映画制作時のお話や、編集の意図などをお話いただくことができ、とても貴重な体験をすることができました。
最後には、全体を通して議論が行われました。「建築家の死」について、誰もが建築家になれる時代に対してどう思うか、などについて議論が行われました。とても議論が白熱し、終了予定時刻を大幅に過ぎてしまっていたのですが、とても充実した時間を過ごすことが出来ました。

ワークショップ終了後は、懇親会を行い、交流を深めました。今回は南後ゼミの提案で、レンタルスペースで、ケータリングを利用して行われました。内藤ゼミで懇親会を行う際は、いつも飲食店を利用していたので、新鮮でした。懇親会では、今回の発表についてや、各々の研究内容、各ゼミの雰囲気などについてゼミ生同士で意見交換が出来ました。内藤ゼミでは、基本的にテクスト分析がメインとなるので、アンケート調査やフィールドワークなどを行う南後ゼミ生のお話は新鮮で、とても興味深かったです。他のゼミとの合同ワークショップは、内藤ゼミにとって初めての試みだったため、他のゼミの研究内容や研究方法などをお話する機会がなかった私たちにとっては、とても貴重な体験ができ、充実した時間を過ごすことが出来ました。
石山監督、南後ゼミの皆さん、ありがとうございました!

 

写真は、ワークショップ後に行われた懇親会の写真です。
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執筆担当:提中

春学期第9回  3年ゼミ

今回の担当は増尾です。

6/13の第9回では
3限 廣野由美子著『批評理論入門-「フランケンシュタイン」解剖講義-』(中公新書)の15「結論」、第2部1「伝統的批評」13「透明な批評」
4限 ロラン・バルト著『物語の構造分析』
をとりあげました。

3限の担当は増尾。
「結論」物語の終わり方には二つある。
はっきりとした解決を持って終わる「閉じられた終わり」
結末について多様な解釈が可能な「開かれた終わり」
湊かなえ著『告白』は開かれた終わりだよね、小さい子が読むものは閉じられた終わりのものが多いよね などと読んだことのあるものを挙げて話し合いました。
ではなぜ小児向けの作品は閉じられた終わりが多いのか。
教育的な面から閉じられた終わりのほうが都合がよいのではないか。という答えにいたりました。

「伝統的批評」(=作家論)
印象主義的な論調で分析したり、教訓を作品から得ようとする「道徳的批評」
文学作品と作者の人生は切り離せないとする「伝記的批評」
の2つをみていきました。
作家論は作品を分析する時に使いやすいものであるが、それだけで物語を理解した気になってしまうのは危険だ。と先生から注意が。
あっぶない……。使おうとしてた……。と先生の助言のおかげで、これだけに頼ることはやめようと固く誓った増尾でした。

4限の担当は大下。
そして、今回は高校生に向けた大学の公開授業ということで、明治大学付属中野高校のO君が参加してくれました!!

作者の死 ということで、そもそも「作者」とは何であるのか、どのようにして「作者」がいなくなっていくのかといったことを読み解いていきました。
文学作品はとりわけ作者というものが見えやすいが、絵画などの他の芸術においてはどうなのだろうかという点について議論を発展させました。

私たち(主に私)が頭を抱えてうなっている中、O君が「〜〜ということもありますか?」、「〜〜いうことを他のところで聞いたのですが……」と積極的に意見をくれました!そこで出た話をさらに発展させ……といつも以上に濃密な議論になりました!!
O君ありがとうございました!
あと少し素敵な楽しい高校生をすごしてくださいね!いつかまたお会いできるのを楽しみにしております!!

だんだんと今まで得たものを踏まえて考えることができるようになってきました。
その理論の誕生した時代背景などの知識も積み重なってきた気がします。
たぶん……できてます!!いや……とりあえずもう1度整理しようかな……。

O君に良い刺激をもらい気を引き締めた増尾でした。

ブログ用写真2

増尾

春学期第8回 3年ゼミ

こんにちは。今回の担当は大下です。
第8回では『批評理論入門』の「間テクスト性」「メタフィクション」、ジュリア・クリステヴァの『セメイオチケ1』の一部分を取り上げて議論しました。

「間テクスト性」の章では、じつに多くの作品が『フランケンシュタイン』に関係していると説明されており、研究量の膨大さに圧倒され、この夏の研究に恐れをなしていました。間テクスト性とは、文学テクストは必ず先行するテクストと関連があるということ。作者の意図しないところでなんらかの影響が出ているということは、個人主義的な思想を打ち壊したとも言えます。ひとりの人を一面的に構成されたものとしてみるのではなく、多面的な側面をもち、数々のテクスト、社会、人物から影響を受け続け、与え続けるものだと考えると、他者との境界は分かりづらく、そして自分のオリジナリティとは何かという根源的な問いにまで及びます。そうした不安というのは人間にとってとても怖いことではありますが、新たに自己を見つめなおすきっかけにつながるのではないかな、と考えました。

続く「メタフィクション」では、語り手が語りの前面に現れて、作品を作りものであると強調させる作用を学びました。漫画「忍たま乱太郎」に見られるように、作者がコマの外側からコマを破って物語の内に入っていく様子を例に、メタフィクションの現象について話し合いました。

4限のセメイオチケでは、エクリチュールという言葉をキーワードに、難解な文章を読解することに専念しました。3限の内容に引き続いた間テクスト性の話では、言葉自体が社会によって変容し、歴史や社会に触れるためには、文学が必要であるというように語られていると解釈しました。また、バフチンがカーニヴァルへ赴いたとする理論は、話し合いの末納得のいく解決ができましたが、テクスト空間と言葉のところは、時間オーバーで手つかずとなりました。

このセメイオチケは、まだまだ議論をせねばならない積み残しが多いため、夏休みに大学でもう一度議論しなおすことになりました。骨のある文章に、2人とも完敗です……。ではまた次回。

春学期第7回  3年ゼミ

今回の担当は増尾です。

5/30に行われた第7回では
3限は廣野由美子著『批評理論入門-「フランケンシュタイン」解剖講義-』(中公新書)「反復」「異化」
4限ではヴィクトル・シクロフスキー『手法としての芸術』を用いての講義となりました。

まず3限は増尾が担当。
「反復」とは修辞技法のひとつで、強調をもたらす。
というのが大前提。
人々に気づき、危機を感じてもらい、日常には刺激をあたえるものだということを知りました。

「どんな場面で反復を感じる?」という先生からの問いかけで、3人でしりとりのような形で「反復」の事象をあげていきました。
生と死、親子関係という大きなものから、通勤、父親が週末にかける掃除機という身近なものまで様々でした。
では、反復された結果としてどうなるか。
最初はもちろん強調され、それが繰り返されることで日常化し、意識されなくなっていく(自動化)
反復というのは突き詰めたら強調だけではないのだ と知りました。
また、あること(言葉だけではなく事象でもよい)が繰り返されることによって構造が生み出されるとのことでした。これにより構造主義、ロシア フォルマリズム的な考え方とつながるということに驚きました。

「異化」は日常の事象を非日常的なものとして表現すること。
比喩とは違います。石を例に説明すると、
比喩:石と何かを結びつける ことに対し、異化:石という概念をはぎとってよく分からない固形物にする ということなのです。
情報の多い比喩とは違い、まっさらなものを提示するものが異化だと言うこと。
うまく説明出来ていない気がします……。自分では納得してるのです……が……。

4限は大下が担当。
イメージには思考のための実用的手段、印象を強める詩的なものの二つがあり、それらの目的は私たちの理解をたやすくすることではなく、対象物に対する独自の知覚を生み出すこと。
ということでした。

イメージというとわかりやすくするためにあるという印象だったので衝撃的でした……。

芸術の目的はそれを認めることのレベルではなく見ることのレベルで事物を感じとらせることにあり、その手法とは事物を〈異化〉するものであり形式を難解にして知覚をより困難にしより長引かせる手法
ということも書いてあり、自分が芸術を理解し難い、読み解けない理由がわかった気がしました……(笑)
でも負けない……!!

「現実にあるものを異化して考えさせるようなものが芸術」という定義について、果たしてこれがあてはまっているか、この定義だけが芸術がなんたるかのすべてを言い切っているのか という意見を元に議論を進めていきました。

今後新しい考えが生まれてくる。そしてそれを私たちが判断するんだ というところまで話して時間がきてしまいました。
芸術的な話を読み解くことはとても大変でしたが、3限との関連もあり、なんとか議論まで辿り着けたのではないかと思います。
復習ちゃんとしないと……またこんがらがってしまう……。
7回目ということで早くも次回で折り返しです!!
まだまだ頑張らなければ……!!

増尾

春学期第6回 3年ゼミ

こんにちは、大下です。
5月23日のゼミでは、3限に『批評理論入門』9「声」、10「イメジャリー」について、4限ではミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』第一章について議論しました。
3限のレジュメはこちらです。
第6回 「声」「イメジャリ―」

物語における「声」には、大きく分けて、モノローグ的なもの、ポリフォニー的なものの2つに分かれます。モノローグ的小説とは、作者の単一の意識と視点によって統一されている状態のもの、ポリフォニー的小説とは、多様な考えを示す複数の意識や声が互いに衝突する状態のものを指します。これは4限でも取り扱うバフチンの中心概念であり、彼の著書では、ドストエフスキーに特徴的な対話的(ポリフォニー的)テクストとは何かが語られています。
始めは文化批評用語辞典の記述に引っ張られ、モノローグについて「ほとんど存在しないものなのだ」と勘違いしていた私。議論の末、モノローグ的小説は、桃太郎のような、「主人公の一本のストーリーのために、ほかの登場人物は従属している小説」、ポリフォニー的小説は「そこに登場するいかなる人物も立体的に描かれている小説」だという風に理解することができました。つまり、世の中の小説の多くはモノローグ的であり、ポリフォニー的であることは非常に厄介であるということです。
先に4限で話したことを書きますが、バフチンはドストエフスキーの素晴らしさをこのポリフォニー性に見出しています。ポリフォニー的に書くということは、例えば登場人物Aの意見が作者の進ませたい物語の方向と同じだった場合、多くの物語では別の登場人物Bの意見はそれに賛成するか、対立意見だとしてもAの発言を補完するものになってしまいます。Bの発言を完全に対話的に描くのは難しく、そして非常にめんどくさいです。それを1から100までやっていたら、キリがない。そのことが、ポリフォニー化を難しくする原因だと言えます。
たしかにすべてが対話的な物語は、書く方も読む方も非常に疲れますし、それを上手に描き切っているということからは、ドストエフスキーの凄さが分かると思います。モノローグとポリフォニーの違いが理解できた瞬間、頭の中がすっと整理された感じがあり、とてもすっきりしました(笑)

さて、3限の話に戻りまして。イメジャリーとは「イメージを喚起する作用のこと」を指し、今回はメタファー、象徴、アレゴリーについて議論しました。
メタファー(隠喩)とは、「風車の森」といったような表現、象徴とは「鳩は自由の象徴」という表現が有名です。アレゴリーとは、寓意的物語に多く、抽象概念を教訓的に示す表現のことを指します。(「森」を「過ち」と結びつけるなど)
そのほかにも関連事項として、メトニミー(換喩)、シネクドキ―(提喩)についても触れたため、頭の疑問符は増加。身近な内容をそれぞれに分類していきます。

肌など存在そのものが雪に近しい〈白雪姫〉はメタファーで、ある一部分を切り取って比較していることから〈赤ずきんちゃん〉はメトニミーです。ほかにもメトニミーの例として、メガネをかけた人を「メガネ」という愛称で呼ぶことも挙げられます。
上位概念を下位概念に言い換えることを提喩といいます。換喩の表現に上下の概念を足した感じです。うーん難しい。追加内容だったのでさらっと理解したにとどまりましたが、やはり復習が必要なようです。

そして、議論はアレゴリーとはいったい何のことかについてに発展していきます。ヴァルター・ベンヤミンらが唱えた〈アレゴリーはシンボルより優勢である〉という考え方がさっぱりわからず、先生のお力をお借りしながら、ゆっくりと読み解いていきました。アレゴリーは、ある具体的概念(森など)の背景に、神話などの別の背景が読み取れる場合、その神話などの別の背景におけるメッセージが想起されるということで起こります。一方、シンボルというものは、なぜそのものが全く結びつきのない抽象概念を想起させるのか、ほとんどの場合解釈することができません(鳩がなぜ自由と結びつくのかなど)。そのため、アレゴリーは起源が分かっているという点でシンボルよりも優位に立つ存在であるのです。
……以上のことを理解するのに、30分以上はかかりました。その後ポスト構造主義→構築主義→脱構築などの説明をうけて3限は終了。本日も体力をゴリゴリ消費する3時間でした。

大下由佳

春学期第5回 3年ゼミ

大変遅くなりました!なんとかログインすることに成功いたしました……。今回の担当は増尾です。
5/16に行われた第5回では
3限は廣野由美子著『批評理論入門-「フランケンシュタイン」解剖講義-』(中公新書)「性格描写」「アイロニー」
4限ではウラジーミル・プロップ『昔話の形態学』を用いての講義となりました。
まず3限は増尾が担当。
「性格」というものには正確性があまりみられないということ、その時の状況や誰といるかということによって変化していくものであり、いかなる場合でも同じではないこと、語り手の欲望が如実に反映されており欲望と登場人物の性格というのは対応していく
 などということを理解しました。
「アイロニー」皮肉。
言葉のアイロニー:言葉の表面的な意味とは違う意味を読み取らせる。読者の解釈を通じて初めて認識。
状況のアイロニー:意図・予想と実際に起きている事の間に相違があること。
劇的アイロニー:状況事実と登場人物の認識の不一致に読者が気づいていること
アイロニーにはこの三つがあり、これらが使われることによって受け手に面白さを感じさせる。
『フランケンシュタイン』の書かれた当時は、人=神のつくったものでした。
では、つくられたもの=人ならば怪物は一体何なのだろうか という大きなアイロニーを含んでいるということでした。
また、アイロニーの応用として、お笑い芸人アンジャッシュのコントをあげ、実際にコントをみながら巧妙に使われるアイロニーを楽しみました。
4限は大下が担当。
物語の31の機能を簡潔にまとめた有難いレジュメとともに解説してくれました……!!今後使います!
魔法昔話には共通する機能(=登場人物の行為であり、話の展開上意義のある行為)が31個ある。機能の継起順序は同一であるが、あらゆる物語にすべての機能が備えられている訳では無い。
という前置きのあと、31の機能を詳しくみていきました。
なぜ、「魔法昔話」に限られているのか、機能31「結婚」などからみられるように主人公は男でなければいけないのか、これではない成長のプロセスはないのか
などといった疑問に取り組みました。
小説・演劇だけではなくアイロニーが使われていた面白さ、アンジャッシュのアイロニーの使い方のうまさに感動しました!!
アイロニーだぁ……と思いながら見るお笑いが面白いかというのは疑問ですが笑
また、物語を分析していく上で大切な31の機能。
映画のワークショップでも取り扱いました。
しっかりと自分のものにできるように理解を深めなければ……と思いました。
増尾