第8回 7期生『疲れた脳にはマリトッツォを』

こんにちは。村上菜々子です。

最近流行ってるスイーツ?パン?みたいなもの、その名も「マリトッツォ」。皆さんは食べたことありますか?ブリオッシュ生地にたっぷりの生クリームを挟んだスイーツで、イタリア・ローマの名物らしいです。

私はその存在は知っていたのですが、なんだか甘すぎるんじゃないか?どうせ甘いならシュークリームの方が美味しいんじゃないか?などと考え、手を出していませんでした。

ところがある日バイト先の人とマリトッツォの話になり、気になったので休憩時間に食べてみました。すると、一口目から想像以上の味で、これは流行るわ!となりました。まずクリームに柑橘がはいっており、さっぱりした味。それがふわふわのパンと良く合って、噛む顎が止まりません。立ち仕事に疲れた私の心を癒してくれました。

一仕事終えた時など特におすすめです。皆さんもぜひ食べてみてください!

と、グルメ日記のような出だしになってしまいましたね。今回の前座で最初マリトッツォの話をしようと思っていたのですが、迷ってゼミの直前にしていた瞑想の方の話をしたので、代わりにこちらで紹介しました。

さて、本題です。今回はロラン・バルトの『作者の死』を読みました。テーマは、作品と作者の結びつきにあるようです。作品は、誰によって書かれたのかを強く意識されます。作品は作者に支配されるとも言えます。

こうした作者による作品の支配を揺るがそうと、シュールレアリズムが生まれます。氷山の見えている部分がエゴだとすると、その下の見えない部分の氷はスーパーエゴ。ここから生まれる作品は人の理性を超え、神や自然現象のメッセージを書き写します。

作品と作者の関係について、二つの考え方があります。一つは、作者は自分の作品に先行して存在しているというもの。もう一つは、作者が書くのと同時にテクストが誕生するというものです。

一つ目の考え方は、書くことが記録や確認、再現を指しており、思考に書くスピードは敵わないのだから、時間をかけてより良い表現を模索するべきだという古典主義的な考え方。

二つ目は現代の考え方で、作者は考えながら作品を書いているので、書く前頭の中にあったビジョンとは違うものが、書くときには生まれている。テクストは書くのと同時に誕生するというものです。

書く前から一言一句同じ文は頭の中に無く、書いている間に考えが熟成されたり、違う考えと結びついたりしている感覚が私はあるので、二つ目の方がしっくりきます。このブログにしても、2週間前に書いたブログをもう一度同じように書くことはもうできないし、書かれる言葉も話し言葉と同じで生きているような気がします。

ゼミでは、関連して日本の国語入試についての話も出ました。テクストの読者にはそれぞれの生きてきた文脈があるので同じ作品でも読み方が異なってもいいというのが『作者の死』的考え方でした。

しかし日本の入試は、作者や登場人物の考えを記述・選択させ、それに成否をつけるという効率的ではあるが今回の考えとは逆の方式をとっています。しかも作者自身が自分のテキストが使用された入試問題に不正解になるということもあったらしいです。

人それぞれが異なる読み方をするし、それが正しいのだとすると、国語のテストの形式自体に無理があるのかもしれませんね。

もっとも、入試問題を解くことを塾で訓練しすぎた私からすると、自分の認識など入れず、テクスト内にある答えを探すのが国語入試の王道であり、入試はテクストを楽しむ読書とは違うのだと割り切ってしまうのですが。

その作品を読んでどう解釈したのかを自分の言葉で話させるテストを実現できるのなら、その方が本当の意味での思考力を問えるのかなとは思います。

作者と作品の関係についてここまで考えてきました。自然現象や数字の世界と違って、言葉はいつも人から生まれます。だから単純に言葉そのものを分析するよりも、その言葉を発した人をも分析したいと思うのは自然なことなのかもしれません。

人がいなければそこに言葉は存在していなかったのならそれを切り離して考えることはできないからです。

でも本当に人がいなければ言葉は無かったのでしょうか。0から1を作ることが人間には本当にできるのでしょうか。もし人が世界にいなくても、言葉の意味、概念、思想はそこらじゅうにあって、それをたまたま人間が表出しただけなのかもしれません。

だとしたらその言葉を誰が発したのかは問題ではなく、テクストはテクスト自体で存在するということになり、そこに作者はもはや介入しないということになりますね。

好きな作品の作者がもし極悪人だったと知ったとしても、自分の中で作品の価値は1ミリも変わらない。

作者に敬意は払いつつも、世の中に出た以上、作品は作者だけのものではなく、それを楽しむ人みんなのものになっていくんですね。

次回のゼミの課題テクストはなんだかこれまで以上に難しそうです。がんばります!

第7回 7期生『メタフィクション的連絡先交換術のすすめ』

またまた更新が滞ってしまいました。【滞りの徳村】の通り名でおなじみの徳村です。今回の滞りに関しましては、モチベーションの問題と家のWiFiが使えない問題の両方の側面から言い訳をすることが可能ですが、まあそれは置いといて。。。

第7回のゼミがおよそ1週間前のことなので、少し記憶が曖昧になっているのですが頑張って思い出しながら復習のつもりで書いていこうと思います。本当は授業後すぐに書いた方がいいのですけどね。でもどうしても疲労で体が動かんのですよ。。。

まず前座では、私が自らの写真撮影スタイルを見直した話をさせていただきました。結構なんでもありなんですねこのコーナー。わたしって、とっても人見知りでシャイボーイなので、いつも人を撮るときには後ろから撮ったり隠し撮りに近いやり方で撮ったり、望遠レンズでステルス的に撮ったりすることが多くなります。このスタイルには被写体を風景の一部に見立てたり、被写体の自然な表情を映したりすることができるっていう狙いがあるのですが、個人的に一番大きい理由は「被写体とコミュニケーションを取らなくても良い」っていうことだったんですね。やっぱり、正面から人を撮るってこと、目線をカメラに向けさせるってことは、被写体とのコミュニケーションがあって初めて成立するわけですよ。で、そうやって被写体と一緒に作り上げた写真っていうのはなんていうか、強度があるんですよね。ディスコミュニケーション状態で撮った写真と比較すると、写真としてのパワーが違うわけです。まあどちらにも良さがあるんですけど、私に関してはこれまで被写体と向き合うことから逃げてきた節があるので、やっぱり、そこを変えていった方がいいなと思ったわけです。そんなことを思い立ったエピソードももちろんあるのですが、それは長くなるので割愛させていただきたく思います。

さて今回のテーマは前半が「間テクスト性」と「メタフィクション」、後半が「相互テクスト性」でした。ちなみに「間テクスト性」と「相互テクスト性」はだいたい同じ意味です。

「間テクスト性」というのは、「あらゆるテクストは他のテクストを吸収し変形したものである」というテクスト同士の関係性のことです。作品の中で作者が先行作品に言及したり、意識的にも無意識的にもそれについてほのめかしたりするケースがよくありますが、つまりそれのことです。これは広義には「小説と小説」だけではなく「小説と絵画」や「小説と映画」など他の芸術作品との関係も含みます。実際、『フランケンシュタイン』では先行する小説や絵画などから色々なモチーフを借用しているんです。音楽家の坂本龍一氏が「世界の99%の曲はパクリです。1%のオリジナリティーがあればいいんです」と言っていたとか、ジョンレノン氏が「ビートルズは盗作バンド」と言っていたとかそういう話がありますが、つまりめちゃくちゃ世界的に評価された曲でも、それより前に誰かが書いた曲を聴いて参考にしていたわけです。私が好きなバンドのART-SCHOOLなんてもうUSインディーバンドとかUKポストロックバンドからやりたい放題メロディー借りまくってますし、なんならそのまま使ってますから。歌詞も村上春樹とか中原中也からフレーズとかモチーフとかもらってますし。それでも私はART-SCHOOLが大好きですし良い曲だと思いますし、ART-SCHOOLにしかできない曲だと思っています。それは、どれだけ数々のテクストを吸収して変形させて生み出された作品であっても、それらのテクストが収斂する読者(リスナー)という地点において必ず1%のオリジナリティーが付与されるからなのです。『セメイオチケ』にてジュリア・クリステヴァが「文学の言葉はひとつの点(固定した意味)ではなくて、いくつものテクストの表面の交錯、いくつもの文章が、すなわち作家、受け手(すなわち登場人物)、当時のあるいは先行する文化のコンテクストが交わす対話となる」、また「作家が歴史に参加するただひとつの方法は、読むことー書くことをとおして、いいかえれば意味構造をもうひとつ別の意味構造に連結させ、あるいは対立させて作り上げてゆくことをとおして、この抽象化を侵犯するということになる」などと述べているのは、ART-SCHOOLのように自分の中で交錯した先行するテクストを自分なりに紡ぎ、それだけでなくオリジナリティーの雫を一滴垂らすことによってただの引用や編集に留まることなく新しいテクストを作り上げることを指しているのかもしれないと思いました。

次にメタフィクションですが、これは簡単に言うとフィクション小説を読んでいる読者に、作中でフィクションの構造を見せちゃうということです。例えば、小説内に作者が登場して語りだしたり、作中の登場人物が自分のことを作品の登場人物であると自覚していたりすることがこれに当たります。かつて毎月コロコロコミックを読んでいたであろう皆さんならすぐに思いつくかもしれませんが、「でんじゃらすじ~さん」にはこのような反則スレスレな手法がよく使われていました。よく曽山先生が本人役で登場したりしてましたし、登場して三コマで死んでしまうキャラクターである「三子間弟下ヌ」の存在自体、漫画であることが前提とされています。ジャンプだと「銀魂」がメタフィクションの手法を良くとります。現実世界が舞台の作品ではないのですが、実際の時事ネタをふんだんに盛り込んだり、他作品のパクリ、パロディーは常套手段という実に凶悪な漫画でした。しかしそれに終始することなくシリアスパートや人情噺も盛り込まれているのでそのバランスが癖になるんですよねえ。ここで「なぜ作家はメタフィクションを書くのか」という話題になった(と思う)のですが、自意識と承認欲求の話にまで発展したのが面白かったですね。私が小学生時代に無茶やってた話が暴露されるなどしました。メタフィクションを書く理由は~。なんでしょうか。簡単にアイロニーが起きて面白いからでしょうか。最初に銀魂観たときなんて私呼吸できなくなるくらい笑ってましたからね。絵本とか漫画とかを経て、普通の物語がだいたいどんなもんかわかってきた小学生の常識がパロディのメタフィクションにぶん殴られたのは鮮烈でした。あとは照れ隠しの線もありそうです。私もたまに照れ隠しでメタすることあります。例えば連絡先交換したい人がいるとき、「どうやら巷の陽キャラ大学生は、仲良くなりたい人と連絡先を交換するときに、その人の写真を撮ってあげたり一緒に写真を撮るなどして、その写真を共有するという口実のもと自然な流れで連絡先を交換しているらしいですよ。いやーすごいですよね。その手があったかというか。よく考えたな~って感じですよねホント。…で、今から私もその方法であなたと連絡先を交換したいと画策しているんですけど、それについてどう思われますか?」といった感じで。これなんか良くないですか?ひねくれものが健気に頑張ってる感じが心をくすぐりませんか?ちょっと洒落てませんか?いや~、考えついたはいいもののまだ試してはいないんですよね~。…えっ?回りくどくて気持ち悪いって?う~ん。言われてみれば確かに。引かれたら嫌なんでやめときましょうか。

そんなこんなでなんとかブログを書くことができました。ありがちょす。次回はもうちょっと早く書きたいです。反省~。わたしは今からエヴァの薄い本を貰いに映画館まで行ってきますー。みなさんごきげんよう!

第6回 7期生『朝起きたら違う誰かになれたらいいのにって思ったこと、誰でも一回はあるんじゃない?』

こんにちは。村上です。更新の間隔が空いてしまいました。モチベーションの問題です。ところでみなさんはどのように仕事や課題へのモチベーションを維持していますか?私のモチベーション遍歴は色々ありましたが、”人”ということが共通しています。ただ単に好きだからその人に好かれたいという理由だったり、この人がこんなに自分のために行動してくれているのだから自分も頑張ろうという理由だったりです。そうしたモチベーションがないときに行動だけは正しく行うことはいいことなのでしょうか?自分を内側から突き動かすものはないにも関わらず外部から求められる正しさに沿って行動することに意味があるのでしょうか。それをできる人は素晴らしいですが私はそれをするとどんどん自分の中の声が死んでしまうような気がするのでできません。結局自分自身の声に従って生きるしかないのだと思います。自分で自分の機嫌を取り、やる気を出させられるのが大人なのかもしれませんね。

さて今回は、反復と異化がテーマです。反復に関しては、発表者の徳村さんが挙げていたART -SCHOOLというバンドのサビが反復表現であり、それはバンドの世界観である退廃的で破滅的なイメージに向かって後戻りできない勢いで進んでいくことを表しているという例を聞いて、反復への考えが覆されました。もともとそういった曲は手抜きというマイナスなイメージしか持っていなかったからです。(曲聞いてみたらかっこ良かったです)そこで他の音楽の例を考えると、The BeatlesのI Want To Hold Your Handという曲はほとんどタイトルの繰り返しですが、なんだか落ち着くし、繰り返しとあまり意識せず聴いていました。この曲は聴くと平和的な気持ちになるのですが、それは同じ歌詞の反復によって安心するからではないかと思いました。反復はただ曲をポップで軽快にするのではなく、その単調さがどこまでも続いていきそうな曲の世界観の広がりを演出する効果があります。

異化とは、日頃見慣れた世界からその日常性を剥ぎ取り、事物に新たな光を当てることと定義されています。この間『ビューティーインサイド』という映画を観ました。主人公は眠ると体が別人に変わってしまうという話で、老人や子ども、外国人、男、女など様々に変わり、視力や聴力、話せる言語まで変わってしまいます。そのような人なら毎日同じ場所で寝起きし、同じ仕事をしていても世界を新鮮に観ることができるでしょう。しかし大体の人は寝て起きてすぐ変化を感じるほど成長(老化)のスピードは早くないし、混沌とした世界を生きてもいないので眼に映る色々は日々色あせて、自動化され、身の周りにあるものやシステムについて改めて考えることをやめてしまいます。その安心しきった心にストレスを与え、(悪い意味ではない)世界をまっさらな心で、違った方向から見させてくれるのが、異化の効果です。

異化について言語学者ポテブニャーは、眼に見えるものは移り変わるが、その事物に対して人間が思い浮かべるイメージは一定不変だと述べました。今回の文献の著者ヴィクトール・シクロフスキーは、眼に見えるものは変わらないが、その事物に対するイメージは移り変わると主張しました。これらは対比されるものではなく、どちらも自立した意見です。私は目の前にあるコップを、「雨の日の花のように受け止める存在」と比喩してみました。コップは人間から見るとただ飲み物を注いで飲むという実用的なもので、当たり前にそこにあるので改めてそれについて考えたりしません。ですが比喩され、異化されることによって、コップに対するイメージが変容しませんか?この比喩からは、コップからどことなく儚げなイメージを抱くと思います。自動化されていた世界の見方がまた一つ豊かになりましたね。これがヴィクトールのいう異化であり、文学の大事な役割なのです。

例に出したThe Beatlesの曲は反復の作用も相まって癒されます。『ビューティー・インサイド』は主題が恋愛で、主人公は家具職人なので綺麗な家具がたくさん出てきて観ていて楽しいので観たことない方はぜひどうぞ。今世では毎朝鏡で対面するはずの自分のことがきっと愛しく感じられる作品だと思います。違う誰かにはなれなくても、こうした作品に触れることで自分の中の世界の認識を変化させ続け、新鮮な気持ちで生きていけたらいいなと思います。

ではまた再来週。