こんにちは。村上菜々子です。
最近流行ってるスイーツ?パン?みたいなもの、その名も「マリトッツォ」。皆さんは食べたことありますか?ブリオッシュ生地にたっぷりの生クリームを挟んだスイーツで、イタリア・ローマの名物らしいです。
私はその存在は知っていたのですが、なんだか甘すぎるんじゃないか?どうせ甘いならシュークリームの方が美味しいんじゃないか?などと考え、手を出していませんでした。
ところがある日バイト先の人とマリトッツォの話になり、気になったので休憩時間に食べてみました。すると、一口目から想像以上の味で、これは流行るわ!となりました。まずクリームに柑橘がはいっており、さっぱりした味。それがふわふわのパンと良く合って、噛む顎が止まりません。立ち仕事に疲れた私の心を癒してくれました。
一仕事終えた時など特におすすめです。皆さんもぜひ食べてみてください!
と、グルメ日記のような出だしになってしまいましたね。今回の前座で最初マリトッツォの話をしようと思っていたのですが、迷ってゼミの直前にしていた瞑想の方の話をしたので、代わりにこちらで紹介しました。
さて、本題です。今回はロラン・バルトの『作者の死』を読みました。テーマは、作品と作者の結びつきにあるようです。作品は、誰によって書かれたのかを強く意識されます。作品は作者に支配されるとも言えます。
こうした作者による作品の支配を揺るがそうと、シュールレアリズムが生まれます。氷山の見えている部分がエゴだとすると、その下の見えない部分の氷はスーパーエゴ。ここから生まれる作品は人の理性を超え、神や自然現象のメッセージを書き写します。
作品と作者の関係について、二つの考え方があります。一つは、作者は自分の作品に先行して存在しているというもの。もう一つは、作者が書くのと同時にテクストが誕生するというものです。
一つ目の考え方は、書くことが記録や確認、再現を指しており、思考に書くスピードは敵わないのだから、時間をかけてより良い表現を模索するべきだという古典主義的な考え方。
二つ目は現代の考え方で、作者は考えながら作品を書いているので、書く前頭の中にあったビジョンとは違うものが、書くときには生まれている。テクストは書くのと同時に誕生するというものです。
書く前から一言一句同じ文は頭の中に無く、書いている間に考えが熟成されたり、違う考えと結びついたりしている感覚が私はあるので、二つ目の方がしっくりきます。このブログにしても、2週間前に書いたブログをもう一度同じように書くことはもうできないし、書かれる言葉も話し言葉と同じで生きているような気がします。
ゼミでは、関連して日本の国語入試についての話も出ました。テクストの読者にはそれぞれの生きてきた文脈があるので同じ作品でも読み方が異なってもいいというのが『作者の死』的考え方でした。
しかし日本の入試は、作者や登場人物の考えを記述・選択させ、それに成否をつけるという効率的ではあるが今回の考えとは逆の方式をとっています。しかも作者自身が自分のテキストが使用された入試問題に不正解になるということもあったらしいです。
人それぞれが異なる読み方をするし、それが正しいのだとすると、国語のテストの形式自体に無理があるのかもしれませんね。
もっとも、入試問題を解くことを塾で訓練しすぎた私からすると、自分の認識など入れず、テクスト内にある答えを探すのが国語入試の王道であり、入試はテクストを楽しむ読書とは違うのだと割り切ってしまうのですが。
その作品を読んでどう解釈したのかを自分の言葉で話させるテストを実現できるのなら、その方が本当の意味での思考力を問えるのかなとは思います。
作者と作品の関係についてここまで考えてきました。自然現象や数字の世界と違って、言葉はいつも人から生まれます。だから単純に言葉そのものを分析するよりも、その言葉を発した人をも分析したいと思うのは自然なことなのかもしれません。
人がいなければそこに言葉は存在していなかったのならそれを切り離して考えることはできないからです。
でも本当に人がいなければ言葉は無かったのでしょうか。0から1を作ることが人間には本当にできるのでしょうか。もし人が世界にいなくても、言葉の意味、概念、思想はそこらじゅうにあって、それをたまたま人間が表出しただけなのかもしれません。
だとしたらその言葉を誰が発したのかは問題ではなく、テクストはテクスト自体で存在するということになり、そこに作者はもはや介入しないということになりますね。
好きな作品の作者がもし極悪人だったと知ったとしても、自分の中で作品の価値は1ミリも変わらない。
作者に敬意は払いつつも、世の中に出た以上、作品は作者だけのものではなく、それを楽しむ人みんなのものになっていくんですね。
次回のゼミの課題テクストはなんだかこれまで以上に難しそうです。がんばります!