第5回 7期生『声とイメジャリーに魅せられて』

 ご無沙汰しております、徳村です。諸事情が重なりまして、更新が遅れてしまいました。申し訳ありません。

 今回の前座では私のカメラを紹介しました。Olympus Pen Dというフィルムカメラで、同じフィルムでも他のカメラと比べて2倍の量の写真が撮れるという優れもの。最近購入したものですが、現在はこの子をメインにどこへ行くにも持ち歩いてつれづれなるままに撮り暮らししています。露出決定からピント合わせまでフルマニュアルなので操作が難しいですが、ミスも味になってると思えるのがフィルム撮影のよいところ。作例がこちら。

 なんのフィルムで撮ったのか覚えてないんですが全体的に赤みがかった柔らかく懐かしい印象の写真が多いですね。フィルム代と現像代が嵩んでくるとくらくらしますが、こうやって桜の季節に撮った写真に思いを馳せたり、撮った記憶のない写真が意外と良い感じだったりするのが面白いので皆さんもやってみてください。

 さて、今回のゼミのテーマは「声」と「イメジャリー」でした。

 たまーに、ご都合主義といいますか、作者が「こういう流れにもっていきたい」という意思をもって、登場人物に作者の都合の良い言動をさせることがあります。また、登場人物を単に自分の意見のスポークスマンにさせることとかもありますよね。こういう、作者ひとりの意識だったり視点だったりから物語が進められていく作品というのは「声がひとつしかない」という意味で、モノローグ的であると言われます。逆に、ひとつの小説の中で登場人物が各々の意思を発露させていて、同じくらいの強度をもってぶつかり合っていることがあります。例えば、それは村上さんが指摘したように漫画『ONE PIECE』に顕著で、登場人物たちは様々な立場において、様々な過去とそこから形成された価値観を持ち、各々が信念をもってぶつかり合うわけです。このような形の作品というのは、「複数の声が独立性をもってぶつかり合っている」という意味でポリフォニー的であると言われます。

 小説『フランケンシュタイン』においては、主に手紙から複数の人物の独立した声を聴くことができるため、この作品はポリフォニー的だといえます。また、ポリフォニー小説のパイオニアであるとされるドストエフスキーの小説では、登場人物がドストエフスキーと肩を並べるほどに独立しており、自らの創造主に反旗を翻すことができる自由な人間であると評されています。ポリフォニー的な作品を創作するためには、自身の価値観を超えた範囲のことに関して想像力を働かさなければならず、時には自分の意見と真逆の人間を創造しなければならないため、クリエイターにとっては相当難易度の高いことだと言えるでしょう。ちなみに私が以前、授業の課題で小説を書いたときも、その小説は自分の実体験や価値観を反映させた内省的でモノローグ的な小説でした。きっとそうしないと上手く書けなかったのでしょう。。。ドストエフスキーをはじめとした小説家の凄さが身に染みてわかるなあと思いました。他人の価値観や感情を想像したり創造したりっていうのはホントに難しいっすよ。まあ我々の人生、普通に生きてる分には基本的にモノローグですから。。。自分のことだけを考えていればまあ割と生きていけるでしょうし。優先順位で常に自分が一位になるので迷いもなく、合理的に生きていくことができます。でもそこで一歩踏み出して、他人の感情に思いを馳せてみると、おぼろげながらも色々な声が聞こえてくるもので。そうすると、人生がポリフォニー的になっていく。人生がポリフォニーになることで、声どうしがぶつかり合って選択に迷いが生まれたり、葛藤が生まれたり、そういう人生の無くてもいい部分、ない方がいい部分が増えちゃうと思うのですが、そこの感情の機微っていうのが我々、生きている意味に繋がっていくのではないかと思ったりします。てか私ってすぐ生きるか死ぬかとか人生とかみたいな話する癖ありますね。なんでもそういう話に繋げられる才能かしら。いらねー!てか全ての事は人生とは何かっていうのに繋がってるから繋がるだけなのかも。

 脱線が過ぎました、もうひとつのテーマである「イメジャリー」について書かねば。

 イメジャリーっていうのは要するに、読み手の想像力を喚起させる表現の作用のことですね。主なイメジャリーは3つあって、ひとつは『メタファー』。「白雪姫」っていう表現を使うことで、読み手に「肌が雪みたいに白い美人さんなんだろうなあ」みたいな想像をさせます。次に『象徴』だったら「女は海~♪」みたいに類似性の無いものどうしを結び付けることで読み手に関係を連想させます。最後の『アレゴリー』は具体的なものを通して、抽象的な教訓だったり意見だったりを読者に暗示したりする、童話とか昔話に顕著なイメジャリーですね。『フランケンシュタイン』においては月や水などが不幸の象徴として用いられていました。こういうのも言葉の意味とか成り立ちとか結びつきとか知識がないとできないですよね~。インプットの大事さがわかります。

 そして先生が追加した『提喩(シネクドキ)』と『換喩(メトニミー)」』についても触れなくてはいけません。しかしながら、この二つには類似点も多く、換喩を提喩のひとつとして扱う場合もあるので区別の難しいところがあります。そこで今回は野内良三氏が書いた『レトリック入門』という本の記述に基づいて頭を整理しながら書いていきたいと思います(先生の説明とは多少異なる部分もあるかと思いますがご了承ください!)。

 まず提喩には2つのパターンがあり、ひとつは「花」といって「桜」を指すとき(「花見」など)や「酒」が「日本酒」を指すときの、類概念(花、酒)で種(桜、日本酒)を表す『特殊化の提喩』のパターン、もうひとつは「ご飯」といって「食事」を表すときなどの、種(ご飯)で類概念(食事)を表す『一般化の提喩』のパターンです(野内,2002)。つまり提喩とは上位の概念を下位の概念で表現したり、下位の概念で上位の概念を表現するイメジャリーであるといえます。

 次に『換喩』ですが、提喩について野内氏は「二つの事物のあいだの隣接性(有縁性)に基づく言葉の彩」(野内,2002,p59)と説明する一方で、「この世のありとあらゆるものは『なんらかの関係』で結ばれ、他の物の代わり(記号)になりうる。」(野内,2002,p59)、「換喩は広く現実世界と結びつく。したがってその守備範囲があまりにも広すぎて、統一原理を抽出しにくいのだ。」(野内,2002,p60)とも述べています。しかし、そんな換喩にも一定のパターンはあります。それは、

  • 全体ー部分:「笑う門には福来る」の「門(部分)」→「家(全体)」、「彼は大陸から戻ってきた」の「大陸(全体)」→「中国(部分)」
  • 入れ物ー中身:「お銚子(入れ物)」→「お酒(中身)」、「球場が燃えている」の「球場(入れ物)」→「観客(中身)」
  • 産物ー産地[主題ー場所]:「西陣(産地)」→「西陣産の織物(産物)」、「永田町(場所)」→「首相官邸、政界(主題)」
  • 原因ー結果:「ユニフォームを脱ぐ(原因)」→「引退する(結果)」、「冷や汗が出る(結果)」→「恥ずかしい(原因)」
  • 主体ー属性:「黒帯(属性)」→「有段者(主体)」、「白バイ(属性)」→「警官(主体)」
  • 人ー物:「シェイクスピアを読んだ」の「シェイクスピア(人)」→「シェイクスピアの書いた小説(物)」、「サングラスはお断り」の「サングラス(物)」→「サングラスをつけている人(人)」

の6つのパターン(野内,2002)です。このパターンを見ればわかるように、確かに換喩の守備範囲は広いですね…。提喩はしばしば換喩のひとつとしてみなされることも多いようですが、確かに換喩の「全体ー部分」のパターンなんていうのは提喩の「上位概念/下位概念を下位概念/上位概念で表す」という特徴に似ている気がします。強いて相違点を挙げるなら、提喩はカテゴリーの上下の話をしていて、換喩は横の関係性の話をしていることでしょうか。

 すっかり説明で長くなってしまいました。小説家もさすがに換喩や提喩まで意識して創作活動はしていないでしょうが、これらのイメジャリーを駆使して読者に想像力を喚起させるという芸当はやはり優れた想像力と連想力をもった人間にしかできません。話の筋を作るのはまあ頑張ればそれなりになるでしょうが、修辞法にはセンスが要るでしょうなあ…。

 今回のブログはここまで。疲労がスンゴイ。最近はめちゃくちゃ寝てます。家のwifiが調子悪いので図書館でしか勉強できず、図書館から帰ったらもうすぐ寝てます。今日も寝ます。明日も同じように寝れますように、という願いが続きますように。私の中でお眠りなさい。徳村でした。

 

第4回 7期生『運命について考えてみた』

こんにちは。5月19日前座とブログ担当の村上菜々子です。前座では漫画『女の園の星』を紹介しました。すっごく人気で近くの本屋さんでも最新の2巻が売り切れていました。わたしはシュールな、そして日常のささいな出来事を切り取ったようなマンガが好きなのですが、これはまさにそんな感じで現実と虚構のバランスが絶妙です。主人公の星先生のキャラクターが特にお気に入りです。

キャラクターといえば、今回の講義のテーマの1つです。全体ではテーマは3つあります。E•M・フォースターによると、登場人物は平板な人物と立体的な人物に分けられます。わたしの大好きな漫画名探偵コナンの作者青山剛昌先生は、コナンについて、「コナンは成長しません、成長物語ではないので」との言葉を残していますが、このように、キャラクターがどんな場面でも同じ人物で安定している場合、このキャラクターは平板だと言えます。逆に物語の中の経験を通して心情の変化などがあり、行動や性格が安定しない場合、それは立体的な人物と言えます。

2つ目はアイロニーについてです。アイロニーには三つ種類がありますが、一番大事なのは劇的アイロニーというもので、登場人物が把握していないことを観客にはほのめかすことでドキドキやハラハラを生む効果があります。徳村さんはこれをコントにも展開させて考えていました。コントのネタは普通の物語ではなく、人を笑わせるために書かれているので、小説技法を強調させたものも多いのかもしれません。そういう視点で見てみるともっとおもしろいです。

3つ目は魔法昔話の構造についてです。古今東西どんな魔法物語も、プロップの提唱した31の要素のうちどれかで成り立っているという研究があります。物語というのはある程度パターン化されますが、それがよく分かる研究です。これに関連して、若い頃は感性が敏感だから芸術作品によく触れなさいと言われていますが、物語に関して言えば、大人より子どもの方が物語に感動して涙を流すのは、単に心が綺麗なだけではなく、使い回された物語の構造にいままで出会ったことがないことも要因なのではないかと考えました。

さて、今回大きく3つのテーマをまとめてきましたが、いかがでしたでしょうか。番外編として、ここから環境が人格を形成するのか、人格が運命を決めるのかという難しい問いを一緒に考えてみましょう。

小説技法「意識の流れ」というのは物語の筋とは関係がなく、人間が普段取り止めもなく考えている沢山のこと、例えば過去の後悔や今日しなければならないこと、将来への希望や、または不安などを小説に書くことです。私たちと同じように、小説の登場人物達もまた、物語の筋に関わることだけを考えている訳ではなく、あらゆる雑念や思想を平行して持っています。それらは時に矛盾することもあります。それらを敢えて書くことで登場人物の人間味は増します。しかしここで新たな疑問があります。これらの意識は登場人物の性格を表すのかということです。ここで私はマザーテレサのある言葉を思い浮かべました。

「思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい。それはいつか運命になるから。」

というものがあります。意識を思考に言い換えると、思考というのは性格に繋がり、性格は運命につながるのです。自らの運命は自分自身が普段している思考や使っている言葉に導かれているという考え方ですね。しかしこれだけでは「環境によって人格が変わる」のか、「変えることのできない人格が運命を変える」のかという問いの答えにはなりません。人格を性格に置き換えてみても、自らの思考や言葉、習慣は人格に大きな影響を与えることは言えますが、環境が人格を変えるのかどうかについては書かれていないからです。ここで引用するのはヴィクトール・フランクルの名著『夜と霧』の中の一節。

「人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない。」

ここから言えることは、人間は自分ではどうすることもできないこと、例えば親や国籍や環境などによって変えられてしまうこと、制限されてしまうことはある、けれど最後の最後、そこから何をどう感じ、どう生きるかを決めるのは自分自身なのだということです。強制収容所というなにもかも、人間の尊厳すら奪われた場所でも人間の自由意志だけは奪えなかった。人生が終わる最後まで生きる意味や価値は普遍的にあるのではなく、自分自身の心や行動が作るものだということです。

本講義の教科書『フランケンシュタイン』には怪物がでてきます。怪物は自らの呪われた運命を嘆き、それによって人格が変わり、虐殺を繰り返します。しかしこれは本当に環境が人格を変えたと言えるのでしょうか。たしかにそういう見方をすることもできます。そう考えるほうが楽です。自分が悪いことをするのは自分を受け入れてくれない周りのせいだと信じれば、それを盾になにをしても許されると思えるからです。しかしそうではない見方もあります。周りの人はたしかに怪物を受け入れなかった、しかしそれは周りの人が彼らの行動を彼ら自身が決めただけ。それに傷つき怒った怪物が虐殺したのは怪物が決めて自分でしたこと。しないことも選択できた。結局自分の在り方を自分で決めているのです。しかし怪物はそれを環境のせいにしている。自分の人生の意味なんて、行動なんて自分で決めるしかないのに、怪物はその責任をとらなかった。

怪物のような考え方は楽だから、本当に自分が辛いときにはそう考えてもいい。でもいつも覚えておきたい。自分の心の在り方、環境の捉え方は常に自分が決めているということを。人生をどう生きるかは最期まで自分が決めるということを。

第三回 7期生ブログ 『にっくきプルーストVS死ぬ気で生き返りながら生きるわたし』

 ハロー マイネームイズ シズカクドウ ナイストューミーチュー

 嘘です。徳村です。先日の2億4千万のものまねメドレーGPめちゃくちゃおもしろかったですね。冒頭のミラクルひかるによる『工藤静香の自己紹介』モノマネは鉄板で、今大会でも爆笑必至でしたが、個人的に特に笑ったのはゆうぞうの加山雄三モノマネと、山本高広の『麻雀をする高橋克典』ですね。高橋克典本人の声自体は正直あまり記憶にないのですが、皆の中にある潜在的な高橋克典のイメージを呼び起こさせるような声だったと思います。元ネタがあまりわからないのに笑ってしまうという『細かすぎて~』の笑いを彷彿とさせるような大傑作でした。あと相変わらず渡部篤郎のモノマネでも必ず笑ってしまいます。何回見ても面白いですからねアレ。しかも渡部篤郎本人が「そんなセリフ言ったことがない」と証言しているので、完全に山本高広の創作っていうのもスゴイですよね。果たしてモノマネとはなんぞや???とその定義が脅かされるほどの芸当だと思いました。

 さて、爆笑したところで本題に入ります。今回なんてムズすぎて笑ってないとやってられないですからね。第三回の講義テーマは『提示と叙述』、そして『時間』でした。

 まずは【提示】と【叙述】についてまとめてみましょう。提示とは、語り手が出来事や登場人物について語る際、語り手が介入せずに黙ってあるがまま示す手法のことを指します。登場人物の会話がそのまま記録されている場合がこれに当たりますね。一方の叙述は、語り手が前面へ出てきて、出来事や状況、人物の言動や心理などについて解説する手法のこと。語り手が出来事をそのまま語るのではなく、要約などをして解説している場合には、叙述の手法が用いられていると言えるでしょう。この両者には優劣があるというわけではなく、小説は【提示と叙述】を適宜組み合わせることで成り立っているものなのです。

 そして厄介なのが『時間』なのですが、厄介なだけに残念ながら結構な文章量になります。。。皆さんは、小説にはつねに【時間】という要素がつきまとう、ということをなんとなくわかると思うのですが、ここでまず重要なのは【アナクロニー】という概念です。アナクロニーとは、時系列で語られる【ストーリー】と、因果関係で語られる【プロット】とで、出来事の順序が合致しない場合のことを指します。プロットではしばしばストーリーの順番が組み替えられるので、プロットが用いられている場合にはアナクロニーが生じている場合が多いと思われます。アナクロニーは基本的に2つに分類され、ひとつは出来事の継起を語っている途中で過去の出来事や場面に移行する方法である【後説法(フラッシュバック)】で、もうひとつはまだ生じていない出来事を予知的に示す方法である【先説法(フラッシュフォワード)】。後説法の例としては、登場人物の過去が語られたりする「回想シーン」が、先説法の例としては、未来に起こることを仄めかす「伏線」が挙げられそうです。

 そして、物語が進む速度にも様々な形式があります。主なものとして挙げられるのは、ある期間を省略して一気に飛び越える【省略法】、ある期間に起こった出来事を数段落や数ページで要約してしまう【要約法】、物語が【提示】され、物語内容と物語言説の時間の速度が等しくなる【情景法】、そして語り手が物語の流れを中断させ、物語のその時点では登場人物が誰も知らない情景や情報を示す【休止法】の4種類です。省略法と要約法はよく似ていて区別が難しいのですが、小説内で『それから2年が経過したー』のような表現があったとき、その2年間について数行の説明があるようだったら時間の速度が速くなっているので要約法と考えられ、2年間について説明がなく単に2年間が飛ばされただけだったら物語に空白が生まれているので省略法、という解釈で私は落ち着きました。村上さんにはこの『省略法と要約法の違い』について申し訳ないほど説明させてしまいました。この場を借りて謝罪の意を表明したく存じます。ごめす。

 さて、今回の講義で我々を苦しめたのはテキストの筆者であるジュネットの難解な文章だけではなく、ジュネットが紹介したプルーストという作家の特殊性でもありました。何が特殊化と言うと、プルーストは物語言説における先述の4つのテンポをすべて変質させて用いているのです。特に彼は休止法をこねくり回しており、ジュネット曰く「プルーストの作品の中に休止法は存在しない」そうです。なぜかというと、休止法はふつう静的で客観的なもので、そこに登場人物の主観的な視点が入り込むことはないのですが、プルースト作品の語り手は、休止法的に説明する際にも登場人物の視点が介入され、動的に主観的なことも語ってしまうからなんです。わかりやすくかみ砕いて言うと、ある男が窓の外の風景を眺めている、みたいなシーンを描くとき、普通の作家の語り手は『窓の外には草原が広がっていて、子供たちが遊びまわっている』くらいの表現しかしないものですが、プルーストの語り手は『窓の外には草原が広がってらあ!あの子供たちと一緒に駆け回りたいぜ!』くらいのテンションで表現しちゃうんです。「子供と一緒に駆け回りたい」というのはその男の心情であって、普通の休止法では絶対に述べられることはありません。

 ではなぜプルーストはそのように休止法を改変したのか。それはプルーストが「真に客観的な描写は存在しない」という考えを持っていたことに起因します。プルーストは、人間が情景を描写するとき、必ず個人的な体験や知覚に基づいた描写を行っているということに気づきます。確かに、10人が同じ花を見たとしても、その10人は全員が異なった経験や考えを鼻に対して持っているもので、それによって花をどう描写するかも変わってくることは想像に難くないと思います。プルーストはその考えから、「登場人物の視点から切り離されて存在する景色は存在しない」という結論に至り、作品においても休止法による客観的な描写は行わず、必ず登場人物の視点から主観的に世界を描写するようになったのです。

 私は、はじめプルーストが何を言っているのか皆目見当もつかなかったのですが、村上さんや内藤先生の考えを聞いて理解を深めることで、彼の言っていることにめちゃくちゃ共感することができました。私もこの世の中に客観的な描写とか客観的な評価とかって存在しないと思いますし、何ならこの今目の前に見えている世界も私の主観でしかないと思っています。だってそれはただ私の目が、耳が、鼻が、皮膚が、脳がそう判断しているだけに過ぎないので。もしかしたら、他の生物にはこの世界が全く違って見えているかもしれないし、宇宙人が私たちに見える物質が見えなくて、私たちに見えない物質が見えた場合、宇宙人はこの地球のあらゆるものの形や色や感触を私たちと全く違うように認識するわけですから。だから私はSFとかで宇宙人が「地球って青いよね~」とか言ってるのを見ると、「この宇宙人ってこの見た目で目の作りは人間と同じなんかい!」とツッコミを入れたくなります。もっと言うと、時々、この世界が実際に存在してるかどうかも疑うことがあります。我々の見ている世界はすべてプログラムされた仮想現実である、みたいな。所謂マトリックスの世界観です。これ割とあり得ると思うんです。結局脳にそういう信号を送っちゃえばそういうことになっちゃいそうですし。だって今だって目の前に見えてる景色は目が脳に「そう見える信号」を送っているからそう見えてるだけですし。でも、そぅ考ぇると、この世に確実に存在してぃるのゎ私だけ。。。我考ぇる故に我有り。。。とゆーコトゎ。私の意思以外ゎ全部フェイク。。。まがぃもの。。。もぅマヂ唯我論的。。。サルトルに訊こ。。。

「他我が存在することは、自負や恥じらいの感情でわかるだろう!」

 というわけで、日頃どんなにへんちくりんなことを考えていても、山本高広のモノマネで大爆笑するし、言語表現論で課題が褒められたら嬉しいし、ゼミは毎週水曜日やってくるし、授業のテキストはどんどん長くなっていくし、それらを死にながら、あるいは生き返りながら、あるいは死ぬ気で生き返りながら、やっぱり生きていくわけです私は。関係ない話が思いがけず長くなってしまいました。みなさん良い週末を。私の分まで。