8期生ブログ第2回「焦点補完計画」

時に 西暦2022年

我々の失われたモノ

すなわち、焦点の補完は続いていた

だがその全てを記すには、あまりにも時間が足りない

よって今は、上西という青年

彼の解釈する焦点について語ることにする

焦点化・・・誰の知覚(心理、思考なども含む)から物語が描かれているのか(語り手と焦点人物は必ずしも一致するわけではないことに注意)

焦点化は焦点人物がどこに位置しているのかによって大きく三つに分類できる

1.内的焦点化・・・焦点人物が物語世界の中に位置している場合

「水平線に沈みゆく太陽がふと目にとまった。そのとき、私の心の隅にある何かが溶けた。」

2.外的焦点化・・・焦点人物が物語世界の外に位置している場合で、ある人物の外面しか描かれない(ある人物の内面を焦点人物が推測する形で描かれる場合はある)

「彼女は急に席を立ち、彼を睨みつけると、何も言わず店を出て行ってしまった。」

3.非焦点化(神の視点)・・・語りが物語世界の外で行われているにもかかわらず、登場人物の内面を描くことがある場合。(外的焦点化の特性も、内的焦点化の特性も持っている)

「彼は黄色い線の外側に力なく立っている。次の電車が来るまでにカラスが鳴いたら…そのときはこの身を投げて、全てを終わらせよう。そんなことを考えている彼など気にもとめずに、カラスは力一杯声を上げた。自らの孤独に耐えかねて。」

内的焦点化はさらに三つのタイプに分類できる

1.内的固定焦点化・・・焦点人物がある一人の人物に固定されている場合

2.内的不定焦点化・・・焦点人物が変化していく場合

3.内的多元焦点化・・・ある一つの出来事が複数の焦点人物によって語られる場合(不定内的焦点化の上で、特に特定の事象、人物などが描かれる場合)

注意

・物語言説は必ずしも、終始一貫して同じ焦点化を選択し続けるわけではない(上記焦点化の公式は、必ずしも作品の全体に関わるものではなく、むしろ、一つの限定された物語の切片にのみ関わるものである)

・外的焦点化と内的焦点化を区別することが困難な場合がある

「私は終電間際の駅の階段で、一人うずくまって泣いている若い女を見つけた。」

この場合私からは内的焦点化だが、若い女からは外的焦点化である

・内的不定焦点化と非焦点化もまた区別が困難な場合がある。(非焦点化の物語言説は恣意的な内的多元焦点化の物語言説として分析しうる)

「彼は黄色い線の外側に力なく立っている。次の電車が来るまでにカラスが鳴いたら・・・そのときはこの身を投げて、全てを終わらせよう。そんなことを考えている彼など気にもとめずに、カラスは力一杯声を上げた。自らの孤独に耐えかねて。」

この場合「彼の死」というテーマを、彼の内的焦点とカラスの内的焦点を通して語っている

未解決概念「ともにある視像」

見知らぬ、音声

「ともにある視像の場合、作中人物が眺められるのは、その作中人物の自身の内部においてではない。作中人物は、彼が他者について作りあげるイメージにおいて眺められるのであり、言わばそのイメージの中で透視されるわけである。」

じゃあ、僕は僕じゃないの?僕以外の誰かが僕なの?わかんないよ!

そうじゃないわ。地面がなくては歩けないように、自分以外の何かがないとあなたは何も知覚できないのよ。何も知覚することのできないあなたに、あなた自身を知覚することはもはや不可能だわ。

そうか!何か、誰かを知覚する僕、そしてそれに反応する僕が僕を形作っているんだ!それが「ともにある視像」、つまり何かとともにある視像、それが僕なんだ!…でも僕以外のもの、人に対する僕のイメージが僕なら、僕の僕自身に対するイメージは僕じゃないっていうの?わかんないよ!ミサトさん!

いいえ、あなたのあなた自身に対するイメージ、それもあなただわ。でもあなた自身のイメージそのものは他者がいなくては生まれなかったことも確か。自分の顔を正確な意味で自分自身では決してみれないように、自分以外の誰か、何かという鏡を通してあなたはあなた自身をイメージできるようになったの。

そうか!僕の中にある僕以外の誰か、何か、そしてそこから形作られた僕のイメージ、それが僕なんだね!でも僕の中のミサトさんが僕なら、ミサトさんの中の僕は僕じゃないの?わかんないよ!ねえ!わかんないよミサトさん!

…それはあなたの中のあなたではないわ。でもそうね…強いていうなら私の中のあなたは、世界の中のあなた。世界の中では、あなたの中のあなたはもちろん、私の中のあなたもあなたなのよ。そしてあなたの中の私も私だわ。

そう…そしてその世界を焦点人物ひとりひとりに置き換えることで、お前の中の私を私自身にし、私の中のお前をお前自身にする。それが焦点補完計画。そうして無限ともいえる世界中一人一人の関係性の輪廻を自己に統合することで、私は神の視点を手に入れる。いやもはや神に等しい存在となるのだ。

こうして焦点補完計画は遂行され、ゲンドウはユイと彼岸の再会を果たす。今までの物語世界の中ではない、別のどこかで…

                                            終劇

8期生ブログ第1回『このグダ文が文学と崇められる日が来るかもしれない』

はじめましての人ははじめまして。お久しぶりの人はお久しぶりです。……いいカンジに一緒くたにしてくれる挨拶があればいいのに。

というわけで、8期生初回のブログを担当する齋藤穂花です! 内藤先生ゼミには去年からお世話になっているので、自称覚悟して来てる人です(笑)。ちなみに、今季の抱負は一念発起して申し込んだシナリオスクール……に10万エン勝手に振りこんだことを親愛なる両親に隠し通すこと(白目)。あ、ちゃんと自分のお小遣いですよ。ここに記すことで、色々な面での尻たたきにさせてもらいます。

前座:大元さん

大元さんは、井上堅二原作・吉岡公威作画の漫画『ぐらんぶる』を紹介してくれました。大学生の主人公が居候をするダイビングショップのくだらない日常が描かれた作品で、大元さんがダイビングにハマったきっかけなのだとか。大元さんのお気に入りエピソードは、主人公が出会いを求めて文化祭にメイド姿で潜入する回。漫画・アニメ共におススメらしいので、私も疲れたときに読んで大爆笑したいと思います~。

ちなみに、大元さんはこの紹介を3分きっかりで話してくれました! 私はついつい推し作品をうん十分も語り倒しがちになってしまうので、見習いたいと思います……!

2限サブゼミ:ストーリーとプロットについて

嘘です。タイトル(?)詐欺です。正確には2限で扱ったものは、ストーリーとプロット、そしてサスペンス効果について! アツく、アツ~~く議論を交わしました。

まず、ストーリーとプロットについて。両方とも物語の内容を表しますが、ストーリーは時系列、プロットは因果律という違いがあります。例えばミステリーだと、

 ストーリー:事件→発見→依頼→調査→解決

 プロット:依頼→調査→解決→事件

という感じ。……まあ、ここまでは比較的理解が早かったんです。ところが、こっからが問題でした本当に。サスペンス、もといサスペンス効果は、物語の結末の因果を先送りにすることで生まれるハラハラドキドキなのですが、そこでサスペンス? ミステリー? サスペンス効果? となり大混乱。

議論の末、一般に使われる「ジャンルとしてのサスペンス」と「サスペンス効果」は同じではないんだーッ! ってことに気づきました。

最終的に、

 ミステリー:不可解な出来事が起きた物語。ホラーやジャンルとしてのサスペンス(※)もミステリーに入る。ストーリー手法で語られることもプロット手法で語られることもある。

 サスペンス:元々語りの手法としての「サスペンス効果」として使われていた。因果関係を先延ばしにする手法。たとえ不可解な出来事でなくても不可解な出来事に見せることにできる。(※最近では一般的に、犯人がわかった状態で因果関係を先延ばしにするジャンルとして使われることが多い。)

だと分かりました。スッキリ解決!

4限ゼミ:文学とはなんぞや?

4限では、テリー・イーグルトン著の『文学とは何か』を扱いました。問いとなるのは題名そのまま、「文学とは何か」です。

結論から言うと、その基準は社会に生きる人間の価値判断に委ねられます。元々、形式を重んじるフォルマリストは、文学か否かは<文学的な表現⇔日常言語>の乖離(「異化」と言われる)の程度によって決まるとしていました。

しかし! イーグルトンはこの著書の中でそれを痛烈に論破しています。

 1.フォルマリストは詩に着目していたが、文学は詩だけではない。

 2.時代によって日常言語は変わり、また逸脱した言葉は文学以外にもある。

この2つが主な理由です。

ではどうやって定義するのか? イーグルトンは、文学を定義してしまうこと自体に問題があると主張しています。それは、もし文学が何たるかを客観的に決めようとしても、その「客観」を支える価値観は一人ひとりのイデオロギーと関わっているから。つまり、「これは文学だ、これは文学じゃない」と決める客観的評価は存在せず、不変の「文学」も存在しないというのです。「往年の名作」といわれる素晴らしき本たちも、時代によって変化し、作品によって解釈され・書き直され続けることでしょう。

ところで、イデオロギーって何だかわかりますか? 「感情・価値付与・認識・信念の諸様式が、社会権力の維持と再生に何らかのかたちで関係を持ったもの」だそうですよ。難しいですね。特に授業では「イデオロギーと感情が結びつくのはなぜ?」という疑問が出ました。ますます難しい。

これについて、発表者の佐藤さんがめちゃくちゃ分かりやすく解説してくれました。感謝! イデオロギーは政治的なものにとどまらず、私達の比較的身近にある問題にも及ぶそうです。例えば、「同性愛なんて認めないわ」という信念を持つ人が、同性同士で付き合っている人を見ると「あらヤダわ」と感じるかもしれません。辛い。それが、イデオロギーと感情が結びつくということです。愛に性別は関係ないと考える筆者がブログに「辛い。」と記すのも同じことだと思います。

そして、4限で私たち純粋無知な学生を苦悶に陥れた存在がもう一つ。文中に出てきた<記号表現(シニフィアン)><記号内容(シニフィエ)>についてです。どちらもソシュール言語学の用語で、その根底にはソシュールの「あらかじめ世界に存在する個別の事物が言葉を作っているのではなく、言葉によって世界が区切られている」という考え方があります。例えば、虹の色を「七色!」と答える国の人もいれば「二色!」と答える国の人もいる(明るい色・暗い色の区切りだと聞いたことがあります)ことが、その表れですね。

ここでようやく本題。例えば犬という例で考えるとき、

 記号表現(シニフィアン):「イヌ」という言葉

 記号内容(シニフィエ):「イヌ」と意味されるもの・考えられているもの

ということになります。ここで、シニフィエが生きている犬そのものを表すわけではない、というのがポイントです。本書では「象徴主義文学の神秘主義まがいの理論」という記述がありますが、それは記号内容(シニフィエ)が過多になる状態でした。つまり1つの文章に対して10個くらいの意味を連想することですね。深読みしすぎるオタクの考察長文みたいなものでしょうか(※あくまで私個人のイメージです)。その一方で、ロシアのフォルマリストは「文学は物質的事実そのものだ」と主張しました。

そんなこんなで4限をヒーヒー言いながら終えました。今回は初回ということもあり、内藤先生にところどころアドバイスをいただきながら進めましたが、次回からはそんなわけにもいかない気がします。頑張りましょう……!

ところで、今回の発表は2限・4限共に佐藤さんだったのですが、作ってきてくれたパワポがまあ分かりやすいのなんの! なんと作成に10時間も所要したそうです。おお神よ、お恵み感謝いたします……本当に助かりました。次回からはwordでの発表でもよいとのことですが、またいずれPowerPointを駆使する猛者が現れるんじゃないかと震えています。え、言い出しっぺの法則? そんなものは知りません。

お知らせ

最後にお知らせです。秋学期にワークショップの開催が決定しました! やった~~! 横田先生のゼミとコラボさせていただきます。コミュ障人見知り陰キャという三大爆弾を抱えている私、齋藤が渉外を担当します。嘘でしょ……。

長くなってしまったので、文字数が3000字を越えないうちに終わらせたいと思います。こんなグダグダでいいのか……? けれど、当ブログの題名を思い出してみてください。こんなグダ文がいつか文学だと言われる日が来るかもしれません(来ない)。とにかく、ヤバかったら次のブログ担当の人が軌道修正してくれるでしょう、たぶん! それでは、読んでいただきありがとうございました! またどこかで!

7期生研究発表会がありました

もうひと月くらい前のことになってしまいました。今年度も滞ってます。7期生徳村です。

表題の通り、7期生の研究発表会が先月くらいに行われました。我々7期生が3年次の秋学期に執筆したレポートが、先生やゼミの先輩方によって誉められたり、あるいは詰められたりする、非常に充実した発表会になったと思います。いただいたご感想やご指摘は、今後の卒論執筆に活かしていきたいです。

私は今回も村上氏にめちゃくちゃ詰められてタジタジになっておりました…。村上氏のレポートってなんかパワーがすごくて、その力強さって自分には無いものなので圧倒されてしまって「すげえなあ…」という感想しか抱けないんですよね。今回の研究発表会でも、改めてこの人は私に無いものを持っている人だなあと思いましたし、同時にあの人にないものを私が持っているような気もしました。人間を足して2で割れるようになったら、我々は真っ先に足して2で割られるんじゃないかと思います。でもそうやって生まれるのは、ちょっと薄味の全く同じ二人の人間なんだと思うと、やっぱり人間は足して2で割られるべきじゃないなとも思いますね。違いっていうのを、認め合えたらいいですよね。人類。

あとはホントに、打ち上げで食べたインド料理のことくらいしか覚えてないですね…。村上氏が、カニを美味しそうに食べていました。私はカニよりもエビの方が好きなので、あまりその感情を理解できなかったことだけが心残りです。

あと、今回の研究発表会のために論文集を制作しました。

写真とデザインは私が担当しました。この写真は、夕暮れ時の明治大学和泉キャンパスを撮影したものです。3年生なので本当は駿河台キャンパスの写真の方がいいのかな、とも思いましたが、純粋に好きな写真ですし、私も村上氏も主に和泉キャンパスの図書館で論文を執筆したり資料を探したりしていたので、まあオッケーでしょう。時間がなかったのでワープロソフトのみを使用したシンプルなデザインになりましたが、ゴチャゴチャしたデザインが好きじゃないのでこれもオッケー。参考にしたのは川島小鳥の『おはようもしもしあいしてる』という写真集のデザインです。持ってないんですけどね。

とりあえず研究発表会にまつわる殆どのトピックについては語り終えました。ディテールの甘さに関しては許してください。シンプル謝罪です。だらだら書いているうちにまた次のブログを書かないといけなくなってしまいました。次回のブログは、次の授業が終わるまでには書き上げたいと思っている(思っている)ので、首をなが〜〜〜くしてお待ちください。私も忙しいのです、こう見えて。本当です。

7期生 徳村