3年ゼミ 秋学期第4回

お久しぶりです。紆余曲折ありましたが、ようやくブログの執筆を再開することができました。最近はちょっと遅めな反抗期の到来を実感している川田です。

 

今回はジェンダー批評の振り返りにあたって、田山花袋『蒲団』および中島京子『FUTON』、そして生駒夏実による論文『田山花袋「蒲団」にみる日本の近代化とジェンダー』を取り扱いました。

 

『蒲団』は作家・時雄と彼の女弟子・芳子、そして彼女の恋人・田中を中心とした、田山花袋による私小説です。一方『FUTON』では、日本文学の教授・デイブによる「『蒲団』の打ち直し」、つまり時雄の妻・美穂の視点から『蒲団』の内容を再構成した物語が展開されます。さらに「打ち直し」が進行するとともに、デイブを含む『FUTON』の登場人物たちは『蒲団』における人間関係をなぞる様に、それぞれに複数の三角関係を形成し変化させていきます。

 

私小説の成立は言文一致運動と深く関わっています。明治期の日本は近代国家として成長していく時期にありました。その過程として国民に対し教育を普及させたことで、言文一致体の文学が広く親しまれるようになりました。さらに当時の日本文学は西洋文学の特徴である、第三人称によるリアリズムの方法を取り入れようとしました。しかし明治期以前の日本文学では伝統的な表現や主観的な描写のものが多かったため、西洋文学的特徴はなかなか受け入れられない状況にありました。その中でも一部の作家は、リアリズムの客観的視点をこれまで日本文学で主流であった「私」に向けることで、批判的視点による物語を描こうと試みました。この潮流から生まれたのが”私小説”という形態です。したがって私小説は、西洋に追いつく意志と日本の独自性を反映したものといえるのです。

 

小説は人口に膾炙することで、近代日本という共同体意識を強化させる役割を担いました。それは時としてなんらかの排除や抑圧を伴います。生駒氏は、私小説によって生まれた「日本国民」という同一性から、ジェンダーに関する排除・抑圧に注目しました。

当時の日本の女性は「良妻賢母」のための教育がなされ、権力者によって将来は母親になることが目標とされました。『蒲団』では作家を目指す女学生として芳子が登場します。彼女は母親になるのではなく、作家になるために勉学に励んでいます。これはこれまで特権的であった男性知識階級を脅かす行為であり、女性の自立へとつながります。また物語の中で、時雄は田中に惹かれる芳子を疎ましく思ったり、芳子の手紙の文体が変化したりしています。これらは男性が女性の近代化を好ましく思っていないことを示しています。

また、『蒲団』は時雄による告白文学であり、日本文学史上はじめて性が描かれた作品です。作者である田山花袋はキリスト教徒であり、作中でも芳子や田中にキリスト教の影響が強く表れています。キリスト教では、性とは「恥ずべきもの」であり「罪」でした。そして告白という形態、つまり外側へ向けて自ら発信する行為によって境界が生まれ、真の自己という「内面」が作られたのです。花袋は告白形式を用い、告白されるべき内面・隠すべきこととして性を描きました。彼は『蒲団』をとおして真の自己を描き赦しを得ることを確信しています。作中では時雄の罪は許される一方で芳子の罪は許されることがありません。これは明治期のジェンダー階層を反映しているといえます。

田山花袋から始まった私小説は、その汎用性の高さから急速に普及しました。以前まで男性知識階級が担ってきた文学において、女流作家誕生の兆しがみえると、彼らの特権的地位が不安定で不確実なものとなり始めました。そうした脆弱な特権性を「私」語りによって保つために、私小説は生み出されたのです。そのような作品では女性は差別的に描かれ、男性と対等になることはありません。この「私」語りの特徴は今日の文学作品でも見られるものですが、日本がグローバル化する今まさに「私」の在り方は問い直される必要があるのです。

 

明治期と比べれば現在は男女間の格差は見直され始めていると思います。しかし実際の日本社会では女性に対する差別的視点が未だ根強く残っています。東京大学入学式の祝辞にて、上野千鶴子教授が述べた内容は大きな話題となりました(本文)。ネット上では共感も批判も様々な反応がありました。

また『さよならミニスカート』という少女漫画は、女性および女の子のジェンダー問題を鋭い視点で描き話題となりました(公式サイト)。キャッチコピーは「このまんがに、無関心な女子はいても、無関係な女子はいない。」

昨今話題になりやすいジェンダー問題、今こそひとりひとりが考えていくべき時期なのではないかなと思います。

3年ゼミ 秋学期第3回

久々の更新となってしまい、申し訳ございません。最近自炊が少しだけ出来るようになって調子に乗っている川上です。こういう時にミスは起こるんです…。

今回は秋学期第3回の講義内容についてです。

春学期に学習した「精神分析批評」の理解を深めるということで、キース・ヴィンセント『夏目漱石『こころ』におけるセクシュアリティと語り』を用いて議論しました。今回の論文では、『こころ』をセクシュアリティという観点で分析しています。

作中に登場する青年と先生の関係が同性愛的であるという議論は、これまでもありました。あるいは『こころ』を、同性愛に対する異性愛の勝利の物語として捉える解釈も存在します。同性愛とは、未熟な人物の一時の「倒錯」であり、やがて異性愛に取って代わられるとする理論は、まさにフロイト的なものです。

論文では、『こころ』とは、セクシュアリティの理論化を巡って異なる方法が対峙する様を描き出していると主張します。つまり、セクシュアリティをここで規定しようとするのではなく、むしろ捉えようとする言説を概観可能にし、その有効性を失わせようとします。その根拠を、筆者は次の2つに求めます。

・『こころ』の未完性

・青年(私)の語り

『こころ』は「先生の遺書」以降の描写が存在しません。青年が、先生の自殺を知った後、どういう人生を送るかについての決定的な根拠がなく、その想像は読者に委ねられます。

また、『こころ』は青年(私)によって語られる物語です。語る青年(私)は、先生の自殺を知った後の青年(私)ですね。「同性愛的人生」の果てに自殺してしまった先生を、青年(私)はどう考えたのでしょうか。「先生は同性愛的で潔癖だ」「自分は異性愛者として成熟した」。概ねこのような語りで展開されますが、重要なのは、あくまでそれは青年(私)によって小出しにされた情報に過ぎないということです。

「本当は今の自分も同性愛的な部分があるが、世間的には異性愛者が認められているから、そういう風に演じておくか(汗」

と考え、語っている可能性もあります。つまり、ここでも、青年のセクシュアリティを決定する根拠はないということになります。

『こころ』は、非常に「誤読」に寛容な小説であり、だからこそ面白いのだと思いました。『こころ』がどういう小説であるかよりも、私たちがそれをどう捉えているかの方が重要なのかもしれませんね。