3 年ゼミ 第11回

こんにちは、今回の担当の山口です。関東は梅雨明けだそうですね。先日、梅雨真っただ中の天気の悪い日に洗濯機が稼働している音が聞こえ、誰か天気が悪いのに洗濯しているんだなぁと思っていたら我が家の洗濯機で、いつもどこからかやって来る猫がボタンを押していました。ゴウンゴウン音を立てる洗濯機を怪訝そうな目で見ていましたが、それ、君がやったの!

今回は、3限で廣野由美子著『批評理論入門−「フランケンシュタイン」解剖講義』(中央出版)の「脱構築批評」「精神分析批評」について学習しました。4限ではジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル フェミニズムとアイデンティティの攪乱』について学習しました。

脱構築批評では、まず「脱構築」について、いままで学習してきた構造主義と比較しながら理解を深めました。脱構築はジャック・デリダによる有名な概念で、整然と要素同士の関係性を整理し組み上げていく構造主義の特徴を批判し、その要素を確固として自立させることの不可能性を説きました。ここである事物を「脱構築する」という概念の理解にメンバー一同苦しみましたが、図を描いたりじっくり意見を出したりしていわゆる「内破」、「意味の脱臼」について理解を得ることができました。

精神分析批評では、フロイト、ユング、J.G.フレイザー、ラカンなどを扱いました。特にフロイトの理論は性別が重要な因子であることが多く、4限のバトラーのテクストとも関わりが見いだされました。

4限で扱った『ジェンダー・トラブル フェミニズムとアイデンティティの攪乱』では、「女」という主体がもはや安定的・永続的ではなくなったというバトラーの主張から、「実際おそらくセックスは、つねにすでにジェンダーなのだ。」という彼女の斬新で驚くべき主張の理解までを議論しました。単に「女」という代名詞を使うことで、実際には実に色々なシチュエーションの個人が存在しているにも関わらず、まるで典型的に虐げられている集団としての「女」がいるように思われてしまう。さらに、フェミニズムが男性と女性の格差解消を目指すならば、男女の区切りをなくすべきであって、「女」を特別に祀り上げても、それは男女の区切りをさらにを深めるだけである、というのがバトラーの主張でした。

生得的だと思われがちなセックスすらジェンダーであるという理論の理解はやや難航しましたが、体の形や機能で人間をたった二種類に分けられるという考え方がすでに文化の影響を受けているものだということを理解すると、本来関係がないはずのその二種(男女)と着るものや嗜好が関連付けられて限定されているという社会が、いかに強力な固定観念の中にあるかに気付くことができました。

今回の議論は非常に活発で、最後には全員がテクストへの理解を得られたように思いました。ところで川上君、今回出てきた「脱構築」は”déconstruction”で、デカフェは”décaféination”。このde-は同じ意味なんじゃないかな?なんにせよ、「デカめのカフェラテ」の「デ」ではないことは確か…

以上、山口でした。

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3年ゼミ 第10回

こんにちは!最近知ったのですが、もともとカフェインが入っていたものからカフェインを抜いたものを、「デカフェ」というのですね。ずっと「デカめのカフェラテ」のことだと思っていました。そんなわけで今回のブログ担当は川上です!

第10回の講義内容についてですが

3限では、廣野由美子著『批評理論入門−「フランケンシュタイン」解剖講義』(中央出版)の「ジャンル批評」「読者反応批評」「文体論的批評」について学習しました。4限ではヴォルフガング・イーザー『行為としての読書』について学習しました。

1.「ジャンル批評」について

『批評理論入門』によれば、「ジャンル」には、形式上のカテゴリーに基づくものと、テーマや背景など内容上のカテゴリーに基づくものとがあります。そして、ジャンルに関わる諸問題を扱う批評を「ジャンル批評」といいます。ロマン主義文学、ゴシック小説、リアリズム小説、SF小説等、ジャンルの種類は多岐にわたります。

トドロフは『幻想文学』において、「ジャンルとは、つねに他の隣接ジャンルとの差異によって定義されるものである」と述べています。これは一体どういうことでしょうか。

「〇〇という特徴を持つからSF小説/❏❏という特徴を持つからゴシック小説/男らしい特徴を持つから男/女らしい特徴を持つから女」

トドロフは、上記のような、「ジャンル分けを絶対視する考え」に異議を唱えています。そうではなく、ジャンル自体は本質を持たないのであり、作品を無理やりジャンル分けして形式的に批判するのでは駄目だと言っているのです。「男らしい特徴を持つから男」ではなく、「男は、ただ女でないから男」という風に言い換えれば正しいでしょうか。トドロフの主張を踏まえて『フランケンシュタイン』について考えてみると、この作品は、決まったジャンルに分類すればいいのではなく、ロマン主義文学的要素、ゴシック小説的要素等、様々なジャンルの要素を有しているという風に考えられます。

2.「読者反応批評」について

『批評理論入門』によれば、「読者反応批評」は、作品を自立したものとする考えに異議を唱え、作品とはテクストに関わる読者の存在を前提としたものであると再定義しました。テクストが読者の心にどのように働きかけるかという問題に焦点を置いています。

また、「読者反応批評」は、読者を刺激し、積極的な解釈を促すような、いわゆる「弁証法的な示し方」にも主眼を置きます。例えば、「弁証法的な示し方」の手段の一つとして「省略」があります。テクスト中に省略部分があれば、読者はその省力部分について考え、説明づけることを強制的に求められます。

一見、「読者反応批評」は、読者の権利を全面的に保証しているようにみえますが、実際は違います。読者反応批評家は、読者がどんな好き勝手な解釈をしても有効になるとはせず、「読者」とは、ある水準に達した資質の持ち主にかぎられるとしました。「知識のある読者」、「教養ある読者」などと呼称されます。対象を限定する、やや排他的な側面を持つ「読者反応批評」は、人々に受け入れられないこともありました。以下、「読者反応批評を自分はどう思うか」という議題において挙がった5期生4人の意見を簡潔にまとめました。

・読者の解釈がなんでも有効になっては、確かに解釈をすることの意義が減少してしまうのでは。
・作品とは作者の意図を読み解くことが基本であり、そこから逸脱した解釈は、かなり個人的なもので、正当性は発生しないのかもしれない。
・誰のどんな解釈にも意味はあると思う。

3.「文体論批評」について

『批評理論入門』によれば、「文体論」とは、テクストにおける言語学的要素に着目し、作者が分やテクスト全体のなかで、語や語法などをいかに用いているかを科学的に分析する研究方法をいいます。「文体論」を研究することで、作者の特徴を知り、またその特徴を他の作者と比較し、時系列的に作者や作品を考えるといったことも可能となりそうですね。

4限では、ヴォルフガング・イーザー『行為としての読書』を用いて学習しました。主に、テクストと読者の相互作用について記されていました。テクストと読者、2つの要素が作用し合うことで、新たな解釈が生まれ、その新たな解釈がまた合わさるという風に、「書く」という過程には、弁証法的な要素が含まれているようです。

また、読書行為そのものの特徴についても記述がありました。読書とは直進的で退行のない動きは取らず、今目にしているものが前に読んだものを修正するという遡及効果を持っているとされていました。小説のような虚構テクストにおいては、読者の視点があちこちに移動することで、次の文章を予想したり、それまでの解釈を再構成したりという風に、いわば、過去の情報と現在の情報、そして未来の情報に弁証法を適用させることが可能です。しかも、そのような弁証法には決まったレギュレーションがなく、読者に委ねられているというのです。読書行為によって生まれる解釈が無限の可能性を秘めているということ、おわかりいただけるでしょうか。

自分も含め、作品に触れることが好きなゼミ生にとって、今回の内容は考えさせられる部分も多かったのではないでしょうか。普段、自分達がどのように作品を解釈しているかということを再認識させられました。心なしか、今回は議論も白熱し、楽しげであった気がします。
(他の内容がつまらないという意味ではないですよ!!)

4年ゼミ 第7回『亀も空を飛ぶ』

こんばんは、大下です。今回の授業は終了後に懇親会を控えていたため、5期生の皆さんにも一緒に考えていただきました。グダグダな内容でほんとスイマセンでした……。
取り上げたのは本橋哲也さんの『カルチュラル・スタディーズ』から『亀も空を飛ぶ』です。この映画はイラク戦争開始直前の様子を舞台に、大勢の子どもたちの苦悩を描いています。英語字幕のクルド語と格闘しましたが、撃沈しました…。うーん、批評って難しいです。

ブログ第7回 『亀も空を飛ぶ』

言葉につまり、沈黙の時間が大半を占め、高い壁に悩まされました。飛べると言われながら私たちが飛べない始末……。メモ書きも少なく、書きあげられるような議論の成果もわずかだったため、内容が希薄ですみません。次回の『地獄の黙示録』に期待です!!

文:大下

3年ゼミ 第9回

 最近運転免許を取りました!浦上です。前と後ろに初心者マークを2ずつ計4つつけてのろのろ地元を運転しています。この間ちょっと険しい、細い道を夜に、しかも雨の日運転していて、ふとルームミラーで後ろを見てみたら車の大行列ができていました。そして今回は高校生の齋藤篤志さんがゼミの見学に来てくれました!!!よくぞエレベーターを乗り継いで21階まで来てくれました!!高校生はやはり若い!隣に座ったおばさん、緊張しちゃいました笑。運転も学問も常に初心忘れないようにしないとですね。

 今回は3限目に、廣野由美子著『批評理論入門』より「結末」「伝統的批評」「透明な批評」4限目にロランバルト『物語の構造分析』について議論をしました。

 「結末」について。小説の終結の仕方には閉じられた終わりと開かれた終わりがあります。
閉じられた終わり:はっきりとした解決に至る。例:ハッピーエンド、悲劇的結末、意外な結末
開かれた終わり:はっきりとした解決がなく、多様な解釈が可能な場合。例:二重の結末、多重の結末、円環をなすもの
ストーリーとプロットを以前学習しました。閉じられた終わり、開かれた終わりを理解するにはこのレベルでの理解が大切でした。たとえばある小説でA B C D Eの5つの出来事があったとします。
ストーリー:(古い)A B C D E(新しい)
プロット :E C D A B 
ちなみにプロットとは、推理小説でもわかるようにストーリーの出来事を入れ替えて物語が構成しているということです。喧嘩→死という本来の流れに対して推理小説では最初に死を持ってきて、どうして死んだのかという、原因(喧嘩)を突き止めます。
閉じられた終わりはAからEすべての出来事がそろっており、その順序は問いません。一方、開かれた終わりはAからEの何かが抜けており、その抜けている何かによって二重の解釈や多重の解釈が生まれます。
 次は「伝統的批評」について。伝統的批評を分けると道徳的批評と伝記的批評の二つがあります。道徳的批評は道徳的観点から作品を批評することです。伝記的批評は作品を主に作者の人生の反映とみるアプローチ方法です。小説『フランケンシュタイン』は道徳的観点から良くないという意見が多くあったり、良いという意見が増えたりしました。同じ作品であるにもかかわらず時代によって評価が異なるのは面白いですね。
 「透明な批評」について。不透明な批評と透明な批評が出てきます。
不透明な批評:テクストを客体とし、その形式上の仕組みをテクストの外側にたって分析する方法。
透明な批評:作品世界と読者の間に仕切りが存在しないかのように、テクストに入り込んで行う批評。
登場人物たちを実在するかのように扱い、テクストから逸脱した憶測に踏み込む事を批判する意見や芸術と現実を切り離すことは突き詰めると読者と作者を限りなく隔てることになり、かえって批評を貧しくするという意見があります。
 次は4限目ロランバルト『物語の構造分析』についてです。ここからは高校生の齋藤さんも参加しました。『物語の構造分析』で「作者の死」について考えていきました。「作者」は近代に生まれた概念であるとされています。作品は作者のものであるという考えが強く根付いていたのですが、ある作家たちは作者が作品を支配する事に疑問を持っていました。なぜなら、作者の言葉によって語られる作品において作者の言葉は作者のものですが、作者自身も様々な作品やテクストから影響受けているため作者のものではないのではないか。また自分の心に感じる唯一無二のものであってもそれを文章にする点で他人にも通じる言語ツールであるエクリチュールに依存するしかないため自己同一性はないのではないか。作者はただ書くだけの存在であり、人格は必要ないと考えることができるのではないか。という意見が出てきました。これが「作者の死」です。この「作者の死」によってテクストの読み方も変化します。作者が存在すると信じられている場合は作品の背後に「作者」あるいは社会や、歴史、心理を発見し、テクストに固定した意味を与えようとしますが、作者が消えることで、テクストを解読するのではなく解きほぐすようにテクストを読むように変化します。
といった内容で、今回も時間が足りず、すべて議論することはできませんでした。夏休みの合宿がとっても怖いです。ではまた。

今回の写真です!

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4年ゼミ 第5回 『羊たちの沈黙』

先週のお話になってしまいました。こんばんは、大下です。
今回は、昨年先輩方もお使いになっていた『Film analysis -映画分析入門』から、心理学的批評の学習をしました。
題材にされているのはジョナサン・デミ監督の『羊たちの沈黙』です。視聴前に先生から「明るいうちにみた方がよい」と助言をいただいていたため、ビビりながら再生をしましたが、”意外とそうでもなかった”が表面的な感想です。もっとスプラッターばりの恐怖映像を想像していました(笑) まあそんな映画、批評の教科書にはあまり載らないですよね……。

ブログ第5回『羊たちの沈黙』

昨年先輩方の議論をのぞき見していたようで、記憶の中にいくつか見覚えのあるシーンがありました。先輩方は檻の格子がどのように映像の中に収まっているかなどショットの話もされていたので、私たちも独学でショットの勉強しないといけないですね。本の前半部分は、論文書きながら見返しましょう。

今回は女性の成長方法のひとつとして「プロ男子」になることが提唱されました。4期にとって「プロ男子」は”評価できなくもないが別に参考にしたいわけでもない。だって女を捨てたくはないし、、”というものでした。このことに先生はだいぶ驚かれていました(笑)映画公開当時はクラリスのようになりたいという女性が多かったようです。ううん、どうなんでしょう。
次週は『ミルドレッド・ピアース』『テルマ&ルイーズ』です。そちらでもまた新たな女性の理想像が提示されることでしょう。来週の女性像にも期待ですね!

文:大下

3年ゼミ 第8回

こんにちは。先日とあるアイドルのライブを見に行ってきました。彼女たちの常に全力なパフォーマンスにかなりの衝撃を受け、また生きる活力を得てしまいました。その衝撃の余波のせいか課題がまったく手につきません! こんな調子で卒論まで辿り着けるのかとても心配な川田です。

第8回では、廣野由美子著『批評理論入門−「フランケンシュタイン」解剖講義』(中央出版)より「間テクスト性」「メタフィクション」、ジュリア・クリステヴァ著『セメイオチケ1』より「言葉、対話、小説」の一部抜粋を取り扱いました。
…が、実際の授業時間内では間テクスト性の途中までしかできませんでした。夏合宿の課題がまた増えてしまいましたが頑張っていきたいところです。

今回取り扱った間テクスト性とは、あるひとつの文学テクストと他の文学テクストとの間の関連性のことをいいます。一般に先行する文学作品との関係をいいますが、広義のテクストでいえば絵画など他の芸術作品も含まれます。

そもそも「テクスト」とは何でしょうか?
その昔、グーテンベルグ革命(活版印刷の発明)以前には、文学作品は原本の書き写しによって複製が行われていました。書き写しであるということは、書き写した人間によっては誤字脱字や改変もありえたわけです。
この一つの例として『源氏物語』があります。現代の私たちが読んでいる『源氏物語』は、作者とは別の人間が各地に散逸した複写を集めて再構成したものを、さらに別の人間が改訂し注釈をつけるなどしています。しかも原本の執筆から再構成され今の形に至るまでに、かなり大きな時間の隔たりがあります。したがって、現在『源氏物語』とされるものは原本とはまったくの別物である可能性が高いのです。
上記の例でいう原本が「テクスト」にあたります。つまり作者が生み出したただ一つの純粋なるもの、オリジナルにあたるものです。そしてテクストの内容の改訂や形態の違いを含む複合的なものの総称を「作品」といいます。その後、作品は作家個人に属するといった近代的な考えが入り込むことで、著作権へと発展していきます。
しかし紫式部が執筆した『源氏物語』自体にもいくつかバージョンがあることがわかっています。その上彼女が執筆したとされる実物が現存していない状況でもあります。これは「オリジナルとは何か?」という問いにも繋がってきますが、それはまた後日ふれることとします。

クリステヴァによれば、「文学の言葉」は一つの確固とした意味をもつのではなく、いくつもの文章が作家、受け手、当時のあるいは先行する文化のコンテクストが交わり対話することだといいます。ここでいう対話は、以前取り扱ったバフチンのポリフォニーの概念と関連しており、言い換えれば対等に衝突し合い影響を与えあっているということです。
さらにバフチンは、以上のような「言葉のあり方」をテクストに導入しました。
以前までは、作家は先行するテクストを参考にして新しいテクストを生み出す、過去から現在へと流れる通時態が主流でした。しかし通時態の流れから発展して、読者が新しいテクストを読んだ上で再び先行するテクストを読むことで、さらに新しい解釈が生まれることがあります。ここでいう読者が新しいテクストが生み出された時代の人か、今の私たちであるかによっても、生まれてくる解釈は複数存在しそれぞれ異なったものになります。このような考えを共時態といいます。
このようにバフチンは「言葉のあり方」という観点をテクストに導入することで、テクストを歴史と社会の中に位置づけるとともに、歴史と社会それ自体もテクストと見なしました。そして作家が先行テクストを読み新しくテクストを書く行為を通して、通時態を共時態へと変換すると述べました。

テクストに存在する縦の流れを横の流れでも考えられるのだ、というとんでもないことが述べられているのですが、いざ自分でやってみようと思うとなかなかできない考え方ですね…。とても重要な考え方になりますので、この先も気合を入れて立ち向かいたいと思います。

ところで私の書くブログは他人が見てもわかりやすいのかなあといつも疑問に思っているのですが…
自分の言葉でわかりやすく説明できないのは理解が足りていない証拠だとはよく言われるものです。批評理論はただでさえややこしい話が多いので、よりわかりやすく説明できるよう精進して参ります!

3年ゼミ 第7回

こんにちは。最近私が一人暮らししているアパートのベランダに通ってくる猫が、網戸に登って自分の訪問をアピールするため網戸がボロボロになり、ついに隙間から腕(前足?)を入れてくるようになったので、網戸を一人で張り替えることに奮闘して休日を使い切った山口です。猫と虫の侵入を防ぎたい。

さて、第7回の3限では、廣野由美子著『批評理論入門−「フランケンシュタイン」解剖講義』(中央出版)から「反復」「異化」について学習しました。4限ではヴィクトル・シクロフスキイ『手法としての芸術』について学習しました。

「反復」は同じモチーフや物語上の構造などを何度も登場させることにより、作品全体にテーマや雰囲気の統一感を与える修辞方法です。『フランケンシュタイン』では「死」「フランケンシュタインと怪物の出会い」などが反復されます。これに対し、
・同じモチーフを繰り返し登場させるのは、常に作者の意図か、それとも無意識か
・「異化」と対比して考えると、「反復」にはどんな効果が考えられるか
などの意見が出ました。

「異化」は事物から日常性をはぎ取り、新たな光を当てることです。『フランケンシュタイン』では、怪物の目を通して人間を子細に観察することによって、普段私たちが見慣れている人間の一般的な生活や行動が異化されています。

そしてシクロフスキイの『手法としての芸術』でも、「異化」について語られています。彼はそれを、芸術における、知覚の自動化作用(=慣れ)から事物を救出するための手段だと説明しました。同様に彼は「芸術の手法とは物事を<異化>し、形式を難解にして知覚を長引かせる手法」だと語り、物語が馬の視点から語られるトルストイの『ホルストメール』の一部を例示しています。これに対し、
・日常で体験した「異化」の例はどんなものがあるか
・シクロフスキイの言う「詩」と「散文」の違いは何か
・シクロフスキイの理論と、彼がこのテクストで批判したポテブニャーの理論の違いは何か
などについて議論しました。

小説で異化というと、サルトルの「嘔吐」を彷彿とさせますね。漫画で異化というと…昔の少女漫画「はみだしっ子」で、主人公のひとりが「こんなにたくさんいる人間が全員違うことを考えながら生きている」ことに気づいて「怖い」というシーンがあったことを思い出しました。この漫画、好きなんですよね…もし知っている人がいたらぜひ語り合いたい。私はアンジーが好きです。以上、山口でした。