3年ゼミ 第8回

こんにちは。先日とあるアイドルのライブを見に行ってきました。彼女たちの常に全力なパフォーマンスにかなりの衝撃を受け、また生きる活力を得てしまいました。その衝撃の余波のせいか課題がまったく手につきません! こんな調子で卒論まで辿り着けるのかとても心配な川田です。

第8回では、廣野由美子著『批評理論入門−「フランケンシュタイン」解剖講義』(中央出版)より「間テクスト性」「メタフィクション」、ジュリア・クリステヴァ著『セメイオチケ1』より「言葉、対話、小説」の一部抜粋を取り扱いました。
…が、実際の授業時間内では間テクスト性の途中までしかできませんでした。夏合宿の課題がまた増えてしまいましたが頑張っていきたいところです。

今回取り扱った間テクスト性とは、あるひとつの文学テクストと他の文学テクストとの間の関連性のことをいいます。一般に先行する文学作品との関係をいいますが、広義のテクストでいえば絵画など他の芸術作品も含まれます。

そもそも「テクスト」とは何でしょうか?
その昔、グーテンベルグ革命(活版印刷の発明)以前には、文学作品は原本の書き写しによって複製が行われていました。書き写しであるということは、書き写した人間によっては誤字脱字や改変もありえたわけです。
この一つの例として『源氏物語』があります。現代の私たちが読んでいる『源氏物語』は、作者とは別の人間が各地に散逸した複写を集めて再構成したものを、さらに別の人間が改訂し注釈をつけるなどしています。しかも原本の執筆から再構成され今の形に至るまでに、かなり大きな時間の隔たりがあります。したがって、現在『源氏物語』とされるものは原本とはまったくの別物である可能性が高いのです。
上記の例でいう原本が「テクスト」にあたります。つまり作者が生み出したただ一つの純粋なるもの、オリジナルにあたるものです。そしてテクストの内容の改訂や形態の違いを含む複合的なものの総称を「作品」といいます。その後、作品は作家個人に属するといった近代的な考えが入り込むことで、著作権へと発展していきます。
しかし紫式部が執筆した『源氏物語』自体にもいくつかバージョンがあることがわかっています。その上彼女が執筆したとされる実物が現存していない状況でもあります。これは「オリジナルとは何か?」という問いにも繋がってきますが、それはまた後日ふれることとします。

クリステヴァによれば、「文学の言葉」は一つの確固とした意味をもつのではなく、いくつもの文章が作家、受け手、当時のあるいは先行する文化のコンテクストが交わり対話することだといいます。ここでいう対話は、以前取り扱ったバフチンのポリフォニーの概念と関連しており、言い換えれば対等に衝突し合い影響を与えあっているということです。
さらにバフチンは、以上のような「言葉のあり方」をテクストに導入しました。
以前までは、作家は先行するテクストを参考にして新しいテクストを生み出す、過去から現在へと流れる通時態が主流でした。しかし通時態の流れから発展して、読者が新しいテクストを読んだ上で再び先行するテクストを読むことで、さらに新しい解釈が生まれることがあります。ここでいう読者が新しいテクストが生み出された時代の人か、今の私たちであるかによっても、生まれてくる解釈は複数存在しそれぞれ異なったものになります。このような考えを共時態といいます。
このようにバフチンは「言葉のあり方」という観点をテクストに導入することで、テクストを歴史と社会の中に位置づけるとともに、歴史と社会それ自体もテクストと見なしました。そして作家が先行テクストを読み新しくテクストを書く行為を通して、通時態を共時態へと変換すると述べました。

テクストに存在する縦の流れを横の流れでも考えられるのだ、というとんでもないことが述べられているのですが、いざ自分でやってみようと思うとなかなかできない考え方ですね…。とても重要な考え方になりますので、この先も気合を入れて立ち向かいたいと思います。

ところで私の書くブログは他人が見てもわかりやすいのかなあといつも疑問に思っているのですが…
自分の言葉でわかりやすく説明できないのは理解が足りていない証拠だとはよく言われるものです。批評理論はただでさえややこしい話が多いので、よりわかりやすく説明できるよう精進して参ります!