3年ゼミ 第9回

 最近運転免許を取りました!浦上です。前と後ろに初心者マークを2ずつ計4つつけてのろのろ地元を運転しています。この間ちょっと険しい、細い道を夜に、しかも雨の日運転していて、ふとルームミラーで後ろを見てみたら車の大行列ができていました。そして今回は高校生の齋藤篤志さんがゼミの見学に来てくれました!!!よくぞエレベーターを乗り継いで21階まで来てくれました!!高校生はやはり若い!隣に座ったおばさん、緊張しちゃいました笑。運転も学問も常に初心忘れないようにしないとですね。

 今回は3限目に、廣野由美子著『批評理論入門』より「結末」「伝統的批評」「透明な批評」4限目にロランバルト『物語の構造分析』について議論をしました。

 「結末」について。小説の終結の仕方には閉じられた終わりと開かれた終わりがあります。
閉じられた終わり:はっきりとした解決に至る。例:ハッピーエンド、悲劇的結末、意外な結末
開かれた終わり:はっきりとした解決がなく、多様な解釈が可能な場合。例:二重の結末、多重の結末、円環をなすもの
ストーリーとプロットを以前学習しました。閉じられた終わり、開かれた終わりを理解するにはこのレベルでの理解が大切でした。たとえばある小説でA B C D Eの5つの出来事があったとします。
ストーリー:(古い)A B C D E(新しい)
プロット :E C D A B 
ちなみにプロットとは、推理小説でもわかるようにストーリーの出来事を入れ替えて物語が構成しているということです。喧嘩→死という本来の流れに対して推理小説では最初に死を持ってきて、どうして死んだのかという、原因(喧嘩)を突き止めます。
閉じられた終わりはAからEすべての出来事がそろっており、その順序は問いません。一方、開かれた終わりはAからEの何かが抜けており、その抜けている何かによって二重の解釈や多重の解釈が生まれます。
 次は「伝統的批評」について。伝統的批評を分けると道徳的批評と伝記的批評の二つがあります。道徳的批評は道徳的観点から作品を批評することです。伝記的批評は作品を主に作者の人生の反映とみるアプローチ方法です。小説『フランケンシュタイン』は道徳的観点から良くないという意見が多くあったり、良いという意見が増えたりしました。同じ作品であるにもかかわらず時代によって評価が異なるのは面白いですね。
 「透明な批評」について。不透明な批評と透明な批評が出てきます。
不透明な批評:テクストを客体とし、その形式上の仕組みをテクストの外側にたって分析する方法。
透明な批評:作品世界と読者の間に仕切りが存在しないかのように、テクストに入り込んで行う批評。
登場人物たちを実在するかのように扱い、テクストから逸脱した憶測に踏み込む事を批判する意見や芸術と現実を切り離すことは突き詰めると読者と作者を限りなく隔てることになり、かえって批評を貧しくするという意見があります。
 次は4限目ロランバルト『物語の構造分析』についてです。ここからは高校生の齋藤さんも参加しました。『物語の構造分析』で「作者の死」について考えていきました。「作者」は近代に生まれた概念であるとされています。作品は作者のものであるという考えが強く根付いていたのですが、ある作家たちは作者が作品を支配する事に疑問を持っていました。なぜなら、作者の言葉によって語られる作品において作者の言葉は作者のものですが、作者自身も様々な作品やテクストから影響受けているため作者のものではないのではないか。また自分の心に感じる唯一無二のものであってもそれを文章にする点で他人にも通じる言語ツールであるエクリチュールに依存するしかないため自己同一性はないのではないか。作者はただ書くだけの存在であり、人格は必要ないと考えることができるのではないか。という意見が出てきました。これが「作者の死」です。この「作者の死」によってテクストの読み方も変化します。作者が存在すると信じられている場合は作品の背後に「作者」あるいは社会や、歴史、心理を発見し、テクストに固定した意味を与えようとしますが、作者が消えることで、テクストを解読するのではなく解きほぐすようにテクストを読むように変化します。
といった内容で、今回も時間が足りず、すべて議論することはできませんでした。夏休みの合宿がとっても怖いです。ではまた。

今回の写真です!

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4年ゼミ 第5回 『羊たちの沈黙』

先週のお話になってしまいました。こんばんは、大下です。
今回は、昨年先輩方もお使いになっていた『Film analysis -映画分析入門』から、心理学的批評の学習をしました。
題材にされているのはジョナサン・デミ監督の『羊たちの沈黙』です。視聴前に先生から「明るいうちにみた方がよい」と助言をいただいていたため、ビビりながら再生をしましたが、”意外とそうでもなかった”が表面的な感想です。もっとスプラッターばりの恐怖映像を想像していました(笑) まあそんな映画、批評の教科書にはあまり載らないですよね……。

ブログ第5回『羊たちの沈黙』

昨年先輩方の議論をのぞき見していたようで、記憶の中にいくつか見覚えのあるシーンがありました。先輩方は檻の格子がどのように映像の中に収まっているかなどショットの話もされていたので、私たちも独学でショットの勉強しないといけないですね。本の前半部分は、論文書きながら見返しましょう。

今回は女性の成長方法のひとつとして「プロ男子」になることが提唱されました。4期にとって「プロ男子」は”評価できなくもないが別に参考にしたいわけでもない。だって女を捨てたくはないし、、”というものでした。このことに先生はだいぶ驚かれていました(笑)映画公開当時はクラリスのようになりたいという女性が多かったようです。ううん、どうなんでしょう。
次週は『ミルドレッド・ピアース』『テルマ&ルイーズ』です。そちらでもまた新たな女性の理想像が提示されることでしょう。来週の女性像にも期待ですね!

文:大下

3年ゼミ 第8回

こんにちは。先日とあるアイドルのライブを見に行ってきました。彼女たちの常に全力なパフォーマンスにかなりの衝撃を受け、また生きる活力を得てしまいました。その衝撃の余波のせいか課題がまったく手につきません! こんな調子で卒論まで辿り着けるのかとても心配な川田です。

第8回では、廣野由美子著『批評理論入門−「フランケンシュタイン」解剖講義』(中央出版)より「間テクスト性」「メタフィクション」、ジュリア・クリステヴァ著『セメイオチケ1』より「言葉、対話、小説」の一部抜粋を取り扱いました。
…が、実際の授業時間内では間テクスト性の途中までしかできませんでした。夏合宿の課題がまた増えてしまいましたが頑張っていきたいところです。

今回取り扱った間テクスト性とは、あるひとつの文学テクストと他の文学テクストとの間の関連性のことをいいます。一般に先行する文学作品との関係をいいますが、広義のテクストでいえば絵画など他の芸術作品も含まれます。

そもそも「テクスト」とは何でしょうか?
その昔、グーテンベルグ革命(活版印刷の発明)以前には、文学作品は原本の書き写しによって複製が行われていました。書き写しであるということは、書き写した人間によっては誤字脱字や改変もありえたわけです。
この一つの例として『源氏物語』があります。現代の私たちが読んでいる『源氏物語』は、作者とは別の人間が各地に散逸した複写を集めて再構成したものを、さらに別の人間が改訂し注釈をつけるなどしています。しかも原本の執筆から再構成され今の形に至るまでに、かなり大きな時間の隔たりがあります。したがって、現在『源氏物語』とされるものは原本とはまったくの別物である可能性が高いのです。
上記の例でいう原本が「テクスト」にあたります。つまり作者が生み出したただ一つの純粋なるもの、オリジナルにあたるものです。そしてテクストの内容の改訂や形態の違いを含む複合的なものの総称を「作品」といいます。その後、作品は作家個人に属するといった近代的な考えが入り込むことで、著作権へと発展していきます。
しかし紫式部が執筆した『源氏物語』自体にもいくつかバージョンがあることがわかっています。その上彼女が執筆したとされる実物が現存していない状況でもあります。これは「オリジナルとは何か?」という問いにも繋がってきますが、それはまた後日ふれることとします。

クリステヴァによれば、「文学の言葉」は一つの確固とした意味をもつのではなく、いくつもの文章が作家、受け手、当時のあるいは先行する文化のコンテクストが交わり対話することだといいます。ここでいう対話は、以前取り扱ったバフチンのポリフォニーの概念と関連しており、言い換えれば対等に衝突し合い影響を与えあっているということです。
さらにバフチンは、以上のような「言葉のあり方」をテクストに導入しました。
以前までは、作家は先行するテクストを参考にして新しいテクストを生み出す、過去から現在へと流れる通時態が主流でした。しかし通時態の流れから発展して、読者が新しいテクストを読んだ上で再び先行するテクストを読むことで、さらに新しい解釈が生まれることがあります。ここでいう読者が新しいテクストが生み出された時代の人か、今の私たちであるかによっても、生まれてくる解釈は複数存在しそれぞれ異なったものになります。このような考えを共時態といいます。
このようにバフチンは「言葉のあり方」という観点をテクストに導入することで、テクストを歴史と社会の中に位置づけるとともに、歴史と社会それ自体もテクストと見なしました。そして作家が先行テクストを読み新しくテクストを書く行為を通して、通時態を共時態へと変換すると述べました。

テクストに存在する縦の流れを横の流れでも考えられるのだ、というとんでもないことが述べられているのですが、いざ自分でやってみようと思うとなかなかできない考え方ですね…。とても重要な考え方になりますので、この先も気合を入れて立ち向かいたいと思います。

ところで私の書くブログは他人が見てもわかりやすいのかなあといつも疑問に思っているのですが…
自分の言葉でわかりやすく説明できないのは理解が足りていない証拠だとはよく言われるものです。批評理論はただでさえややこしい話が多いので、よりわかりやすく説明できるよう精進して参ります!

3年ゼミ 第7回

こんにちは。最近私が一人暮らししているアパートのベランダに通ってくる猫が、網戸に登って自分の訪問をアピールするため網戸がボロボロになり、ついに隙間から腕(前足?)を入れてくるようになったので、網戸を一人で張り替えることに奮闘して休日を使い切った山口です。猫と虫の侵入を防ぎたい。

さて、第7回の3限では、廣野由美子著『批評理論入門−「フランケンシュタイン」解剖講義』(中央出版)から「反復」「異化」について学習しました。4限ではヴィクトル・シクロフスキイ『手法としての芸術』について学習しました。

「反復」は同じモチーフや物語上の構造などを何度も登場させることにより、作品全体にテーマや雰囲気の統一感を与える修辞方法です。『フランケンシュタイン』では「死」「フランケンシュタインと怪物の出会い」などが反復されます。これに対し、
・同じモチーフを繰り返し登場させるのは、常に作者の意図か、それとも無意識か
・「異化」と対比して考えると、「反復」にはどんな効果が考えられるか
などの意見が出ました。

「異化」は事物から日常性をはぎ取り、新たな光を当てることです。『フランケンシュタイン』では、怪物の目を通して人間を子細に観察することによって、普段私たちが見慣れている人間の一般的な生活や行動が異化されています。

そしてシクロフスキイの『手法としての芸術』でも、「異化」について語られています。彼はそれを、芸術における、知覚の自動化作用(=慣れ)から事物を救出するための手段だと説明しました。同様に彼は「芸術の手法とは物事を<異化>し、形式を難解にして知覚を長引かせる手法」だと語り、物語が馬の視点から語られるトルストイの『ホルストメール』の一部を例示しています。これに対し、
・日常で体験した「異化」の例はどんなものがあるか
・シクロフスキイの言う「詩」と「散文」の違いは何か
・シクロフスキイの理論と、彼がこのテクストで批判したポテブニャーの理論の違いは何か
などについて議論しました。

小説で異化というと、サルトルの「嘔吐」を彷彿とさせますね。漫画で異化というと…昔の少女漫画「はみだしっ子」で、主人公のひとりが「こんなにたくさんいる人間が全員違うことを考えながら生きている」ことに気づいて「怖い」というシーンがあったことを思い出しました。この漫画、好きなんですよね…もし知っている人がいたらぜひ語り合いたい。私はアンジーが好きです。以上、山口でした。

4年ゼミ 第4回 「論文の書き方」

更新遅れてしまい失礼しました……。第4回5月7日の講義文の担当、増尾です。
2週にわたりお休みをいただいておりましたが、ようやく先週から復活しました!
先生と大下には大変ご迷惑をおかけしましたが、いつも通りの雰囲気で迎えていただけて心の底からほっとしました。
更なる飛躍目指してもう一度走り出したいと思います!!

さて、今回の講義は「論文の書き方講座」です。
卒論を書き上げるに至るまでに必要な過程として全3回論文執筆に必要な技術や考えを学ぶ機会を設けました。
第1回は「どのような論文が構造として説得力をもつか」というものを理解するため、私たちの先輩である内藤ゼミ2期生の清水 智美さんが4年前期に執筆された『「広島への原爆投下」をめぐる歴史認識のプロセス~井伏鱒二『黒い雨』の分析から~』(初稿と最終稿)を題材に講義を進めていきました。

まず論文に一通り目を通してみて、清水さんの論文は1つの章も置いていかれることなく繋がりをもっていて、流れるように序論から考察まで読むことができるものだと感じました。
私の論文はいつも章ごとにぶつ切りになってしまっていると感じているため、どのポイントが流れを作り出しているのかについて注視して読み込んでいきました。

先生の問いかけから自分であったらどのように『黒い雨』を分析したいか、『黒い雨』のどのような点が気になったかを話し合いました。
・なぜ1947年、1948年といった原爆投下直後に執筆された作品よりも約20年後に登場した本作が「原爆文学」として評価されているのか。
・ポストコロニアルの視点からみるとどのように分析できるのか。
などといった点があがりました。
こういった疑問や気づきが論文執筆の「動機」となります。

では、清水さんはなぜこの題材を選んだ理由とは?
論文を読み、私たちなりに清水さんの論文執筆の動機について考えをめぐらせました。
・(清水さんが卒論では春画・戦争画を扱っていたことからも)多くの日本人がタブー視しているものはそのような見方をされていてよいのかという疑問があったのではないか。
・表象作品から歴史の知識を得、理解したつもりになってしまう恐れのある社会に疑問を投げかけたかったのではないか。
などの意見があがりました。清水さんの動機を想像してみて、書いているうちに動機を見失ってしまう私の論文がいかにもろいものであるかを改めて思い知りました。私は自分の疑問や意見について何かしらの答えをみつけるための論文だということを頭では理解しながらも実践できていなかったのだと感じました。

いよいよ、論文本編へ。
何よりも大切で、そして私たちが上手く書ききれていない部分「第1章」。
清水さんの論文では、分析対象である『黒い雨』については第2章から詳細に記されていて、第1章ではその前段階として「過去に起きた歴史上の出来事を、人はどのように認識しているのか。」ということについて書かれていました。
このように、本論に入る前により広い範囲での話をすることで
・この論文が単なる「黒い雨論」ではなく、「歴史認識のプロセス」を明らかにするための1つの事例としてそれがとりあげられていることがわかる。
・『黒い雨』が様々な読み方をされる可能性が広がる。
ことになります。
また、他作品との比較も可能にし、高次の土台として研究の意義を広めることにもつながり、「黒い雨」に興味がある人だけではなく、歴史認識について興味がある人など多くの人に“読ませる”論文になるそうです。

より広範囲の方によんでもらえ、深みのある論文になることは理解出来たのですが、
知りたいこと、調べたい事象に合わせて分析する作品を選ぶのは難しそう…だと頭を悩ませていたところ、
「分析したい題材から可能性を広げて1章を書いても良いのですよ。」と救いの一言が!
なるほど、その逆転の発想はなかった!私が前回の論文でモヤモヤしていた霧が晴れていきました。
第1章を書いたあとは
テクストについて説明→理論を用いて分析する→分析した結果を記す
という流れになり、このあとは「考察」にはいるのですが、ここで第1章に記した内容につながるように書けると説得力のある論文の構造になります。
たしかに、清水さんの論文では考察部分で「歴史認識のあり方」について述べられていました。だからこそ、第1章から考察までが流れるようなまとまった文章である印象を受けたのだと思います。

今回の講義は論文の組み方について改めて学ぶものでした。
論の流れが章ごとにぶつぎりにならないような書き方、単なる作品分析の論にならないようにするための考え方など、私ができていなかった部分、上手くできていなかった部分について理解することができたのでまずは春学期の論文で上手く構造を組み立てたいと思います!

増尾

3年ゼミ 第6回

こんにちは!部屋に置いてある脱臭剤のジェルがいつまでたっても減らないので、大した脱臭剤だと感心していたのですが、ビニール蓋を剥がしていないだけでした。というわけで今回のブログ担当は川上です!

第6回の講義内容についてですが

3限では、廣野由美子著『批評理論入門−「フランケンシュタイン」解剖講義』(中央出版)の「声」「イメジャリー」について学習しました。4限ではミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』について学習しました。

1.「声」について

『批評理論入門』によれば、物語が、作者の単一の意識と視点によって統一されている状態を「モノローグ的」、それに対し、多用な考えを示す複数の意識や声が、それぞれ独自性を保ったまま互いに衝突する状態を「ポリフォニー的」といいます。4限で取り扱った『ドストエフスキーの詩学』の著者であるバフチンによれば、ポリフォニーはあらゆる小説に固有の特徴であるとされています。そうなると、全ての小説はポリフォニー的、つまり、いくつもの異なった文体や声を取り込んだ状態にあるという意見が考えられるでしょう。『フランケンシュタイン』は、ポリフォニー的な特徴が顕著にみられます。主人公の父であるアルフォンスや、主人公の婚約者のエリザベスなど、複数の人物の視点が挿入され、この物語は構成されています。

2.「イメジャリー」について

『批評理論入門』によれば、「イメジャリー」とは、ある要素によって、想像力が刺激され、視覚的映像などが喚起される場合、そのようなイメージを喚起する作用、あるいはイメージの集合体のことです。イメジャリーの働きは主に以下のようなものです。

◯メタファー・・・あることを示すのに別のものを示し、それらの間の共通性を暗示する。隠喩
◯象徴   ・・・とりわけ類似性のないものを示して連想されるものを暗示する
◯アレゴリー・・・具体的なものをとおして、ある抽象的な概念を提示し、教訓的な含みをもたせる

『フランケンシュタイン』内ならば、例えば「月」が「象徴」として用いられています。重要な出来事が起こる際、たびたび月が登場しており、「月」は殺害や復讐といった狂気や、フランケンシュタインの創造行為などを暗示させていました。以下、上記の内容に対する5期生4人から挙がった疑問点と意見を簡潔にまとめました。

・「象徴とアレゴリーの違いとは何か」
ー(象徴はアレゴリーに比べてより限定的に使用されるのではないか・象徴が暗示するものを理解するには、その象徴の文化的背景や示唆するものを理解しておく必要があるのかも)

また、この疑問については内藤先生が以下のような解説を付け加えてくださいました。
ー(「象徴」は、物語内で意味が通じる特殊なものである。一方で「アレゴリー」は、物語内に限らず、現実においても意味が通じるような普遍性を持たせうるものである)

4限では、ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』を用いて学習しました。内容は、『批評理論』の「声」の内容と概ね重複しており、さらにポリフォニー小説の代表とされるドストエフスキー作品の特色について詳しく記述されていました。ドストエフスキーの小説では、物語の登場人物たちが、作者の考えを代弁するに留まらず、作者と肩をならべてしまうような言葉を発し互いにぶつかりあっています。彼の小説は極めて独自であり、ドストエフスキーはポリフォ二ー小説の創始者であると言えるだろうとのことでした。以下、上記の内容に対する5期生4人から挙がった疑問点と意見を簡潔にまとめました。

・「そもそも完全なポリフォニー小説は可能か」
ー(自己から完全に独立した登場人物や言葉を生むのは難しいと思う・自分の意見の矛盾性について自覚的であれば、自分と異なる意見も仔細に述べられるかもしれない)
・「ドストエフスキーは本当にポリフォニー小説の創始者か」
ー(ドストエフスキー以前、以後の小説の特徴についてもっと知る必要がある)

「イメジャリー」の内容は、これまでの先輩方も理解するのになかなか苦労したと耳にしていましたが、確かに難しかったですね。難解な内容とむわっとした気温のダブルパンチで何度か船をこぎかけましたが、メンバーの奮闘に励まされ、なんとか最後まで考えきりました!!

3年ゼミ 第5回

 寒暖差が激しい日々か続きますね。初めまして、最近干し野菜を作ろうと思い大根を干してみたら思ったよりも細くなったことに驚いた浦上です。「野菜がみずみずしい」という表現を身にしみて感じました。ちなみに私は花は生けてあるものよりもドライフラワーの方が好きです。私の家にある植物は基本逆さまで吊されてます。どうでもいいですね、では本題に入りましょう。

 
 今回は廣野由美子著『批評理論入門−「フランケンシュタイン」解剖講義』(中央出版)の 性格描写、アイロニーそしてウラジミール・プロップ『昔話の形態学』について議論をしました。
 まずは性格描写についてです。登場人物にはそれぞれ性格がありますが、人間の性質を描く上での豊かさと多様性、心理的動作の深さなどでは小説に勝るものはないとのことです。特にイギリスでは、近代小説が生まれる前から「性格」に対する関心が顕著でした。ヴィクトリア朝後期の小説家トロロープ(1815-82)が小説においてはプロットよりも登場人物を優先すべきと主張したほどです。性格を重視するのはイギリス的特徴だと言えるのですが、ここで小説における日本的特徴とは何かという議論になりました。これを議論するには私たちの知識があまりないため深くできませんでしたが、日本の小説に心情吐露シーンが多くなったのは近代以降だそうです。近代以前の小説を読まない私には驚きの事実でした。
 次はアイロニーについてです。アイロニー簡単に言うとズレのことです。アイロニーには①言葉のアイロニーと②状況のアイロニーがあります。
①言葉のアイロニー:表面上の意味と違う意味を読み取らせようとする修辞法。隠喩や直喩とは異なり解釈を通して初めて理解される。
②状況のアイロニー:意図・予想された展開実際の展開との間に相違があることを指す。特に、ある状況についての事実に登場人物の認識が一致しておらず、そのことに観客が気づく場合を「劇的アイロニー」という。
皆さん、どうですか、わかりますか??
①ここで隠喩と直喩の違いはすぐにわかりますが、隠喩と言葉のアイロニーの違いは理解するのに少し時間がかかりました。たとえば、とあるカップルの会話で「君は僕の太陽だ」という表現が使われたとします。「君は僕の太陽だ」は隠喩ですよね。しかし、この表現が使われる前に、君(彼女)が他の男の人と二人で出かけたという事実を僕が知ったとします。僕が「おまえ、もう俺のこと好きじゃないんだな」と煮えたぎる怒りをこらえながら、彼女に「君は僕の太陽だ」と言った場合、これは言葉のアイロニーになります。この場合、他の男の人と出かけたのを知っているのにもかかわらず「君は僕の太陽だ」と言っているところにズレが生じます。このズレに気づくには、文脈を解釈する必要があります。
②言葉のアイロニーは言葉や文節にアイロニー性が潜んでいるのに対して、状況のアイロニーは出来事にアイロニー性が潜んでいます。授業では主に劇的アイロニーについて議論しました。劇的アイロニーとは簡単に言うと、小説を読んでいる読者がその状況に対して「えっ、そうじゃないよ!ちがうのに!」と突っ込んでしまいたくなることです。先ほどカップルの例を出しました。彼女が他の男の人とお出かけしたことを知った僕が、「おまえ、もう俺のこと好きじゃなくなったんだな」と思いながらも「君は僕の太陽だ」と彼女に言いましたね。しかしそれは、もうすぐ誕生日の彼氏に買うプレゼントを買うために、一番信頼できる男の人を買い物につきあわせたという状況だったとします。彼女は彼氏のことが好きで真剣にプレゼントを選びました。しかし彼は彼女はもう自分のことを好きでないと思っています。この状況の真実を知っているのは読者だけですね。
どうですか?理解していただけましたか??

次はウラジミール・プロップの『昔話の形態学』についてです。魔法昔話には31の機能があります。31の機能の前に昔話の機能のテーゼが4つあります。
【昔話の機能のテーゼ】
①昔話の恒常的な不変の要素となっているのは登場人物たちの機能。これらの機能が、どのような人物によって、どのような仕方によって実現されるかは関与性を持たない。これらの機能が、昔話の根本的な構成部分となる。
②魔法昔話に認められる機能の数は限られている。
③機能の継起順列は常に同じである。
④あらゆる魔法昔話が、その構造の点では単一の類型に属する。
これらのテーゼを基軸に魔法昔話の様々な筋を比較し登場人物たちの機能を析出していくことになります。
31の機能については割愛させてください。ここでどうして31の機能がすべての魔法昔話に当てはまるのだろうという疑問に、メンバーのひとりが昔は口で伝えていたから語るのに覚えやすい展開が31の機能なのではないかという意見が出ました。また現代の魔法物語の機能とは違うのだろうかという意見も出ました。
 小説において構造はとても重要です。私は構造を意識して小説を読んだことはあまりなかったので31の機能を習得して、他の小説と比較したりしていろいろな角度から分析していきたいと思いました。