第4回 7期生『運命について考えてみた』

こんにちは。5月19日前座とブログ担当の村上菜々子です。前座では漫画『女の園の星』を紹介しました。すっごく人気で近くの本屋さんでも最新の2巻が売り切れていました。わたしはシュールな、そして日常のささいな出来事を切り取ったようなマンガが好きなのですが、これはまさにそんな感じで現実と虚構のバランスが絶妙です。主人公の星先生のキャラクターが特にお気に入りです。

キャラクターといえば、今回の講義のテーマの1つです。全体ではテーマは3つあります。E•M・フォースターによると、登場人物は平板な人物と立体的な人物に分けられます。わたしの大好きな漫画名探偵コナンの作者青山剛昌先生は、コナンについて、「コナンは成長しません、成長物語ではないので」との言葉を残していますが、このように、キャラクターがどんな場面でも同じ人物で安定している場合、このキャラクターは平板だと言えます。逆に物語の中の経験を通して心情の変化などがあり、行動や性格が安定しない場合、それは立体的な人物と言えます。

2つ目はアイロニーについてです。アイロニーには三つ種類がありますが、一番大事なのは劇的アイロニーというもので、登場人物が把握していないことを観客にはほのめかすことでドキドキやハラハラを生む効果があります。徳村さんはこれをコントにも展開させて考えていました。コントのネタは普通の物語ではなく、人を笑わせるために書かれているので、小説技法を強調させたものも多いのかもしれません。そういう視点で見てみるともっとおもしろいです。

3つ目は魔法昔話の構造についてです。古今東西どんな魔法物語も、プロップの提唱した31の要素のうちどれかで成り立っているという研究があります。物語というのはある程度パターン化されますが、それがよく分かる研究です。これに関連して、若い頃は感性が敏感だから芸術作品によく触れなさいと言われていますが、物語に関して言えば、大人より子どもの方が物語に感動して涙を流すのは、単に心が綺麗なだけではなく、使い回された物語の構造にいままで出会ったことがないことも要因なのではないかと考えました。

さて、今回大きく3つのテーマをまとめてきましたが、いかがでしたでしょうか。番外編として、ここから環境が人格を形成するのか、人格が運命を決めるのかという難しい問いを一緒に考えてみましょう。

小説技法「意識の流れ」というのは物語の筋とは関係がなく、人間が普段取り止めもなく考えている沢山のこと、例えば過去の後悔や今日しなければならないこと、将来への希望や、または不安などを小説に書くことです。私たちと同じように、小説の登場人物達もまた、物語の筋に関わることだけを考えている訳ではなく、あらゆる雑念や思想を平行して持っています。それらは時に矛盾することもあります。それらを敢えて書くことで登場人物の人間味は増します。しかしここで新たな疑問があります。これらの意識は登場人物の性格を表すのかということです。ここで私はマザーテレサのある言葉を思い浮かべました。

「思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい。それはいつか運命になるから。」

というものがあります。意識を思考に言い換えると、思考というのは性格に繋がり、性格は運命につながるのです。自らの運命は自分自身が普段している思考や使っている言葉に導かれているという考え方ですね。しかしこれだけでは「環境によって人格が変わる」のか、「変えることのできない人格が運命を変える」のかという問いの答えにはなりません。人格を性格に置き換えてみても、自らの思考や言葉、習慣は人格に大きな影響を与えることは言えますが、環境が人格を変えるのかどうかについては書かれていないからです。ここで引用するのはヴィクトール・フランクルの名著『夜と霧』の中の一節。

「人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない。」

ここから言えることは、人間は自分ではどうすることもできないこと、例えば親や国籍や環境などによって変えられてしまうこと、制限されてしまうことはある、けれど最後の最後、そこから何をどう感じ、どう生きるかを決めるのは自分自身なのだということです。強制収容所というなにもかも、人間の尊厳すら奪われた場所でも人間の自由意志だけは奪えなかった。人生が終わる最後まで生きる意味や価値は普遍的にあるのではなく、自分自身の心や行動が作るものだということです。

本講義の教科書『フランケンシュタイン』には怪物がでてきます。怪物は自らの呪われた運命を嘆き、それによって人格が変わり、虐殺を繰り返します。しかしこれは本当に環境が人格を変えたと言えるのでしょうか。たしかにそういう見方をすることもできます。そう考えるほうが楽です。自分が悪いことをするのは自分を受け入れてくれない周りのせいだと信じれば、それを盾になにをしても許されると思えるからです。しかしそうではない見方もあります。周りの人はたしかに怪物を受け入れなかった、しかしそれは周りの人が彼らの行動を彼ら自身が決めただけ。それに傷つき怒った怪物が虐殺したのは怪物が決めて自分でしたこと。しないことも選択できた。結局自分の在り方を自分で決めているのです。しかし怪物はそれを環境のせいにしている。自分の人生の意味なんて、行動なんて自分で決めるしかないのに、怪物はその責任をとらなかった。

怪物のような考え方は楽だから、本当に自分が辛いときにはそう考えてもいい。でもいつも覚えておきたい。自分の心の在り方、環境の捉え方は常に自分が決めているということを。人生をどう生きるかは最期まで自分が決めるということを。

第三回 7期生ブログ 『にっくきプルーストVS死ぬ気で生き返りながら生きるわたし』

 ハロー マイネームイズ シズカクドウ ナイストューミーチュー

 嘘です。徳村です。先日の2億4千万のものまねメドレーGPめちゃくちゃおもしろかったですね。冒頭のミラクルひかるによる『工藤静香の自己紹介』モノマネは鉄板で、今大会でも爆笑必至でしたが、個人的に特に笑ったのはゆうぞうの加山雄三モノマネと、山本高広の『麻雀をする高橋克典』ですね。高橋克典本人の声自体は正直あまり記憶にないのですが、皆の中にある潜在的な高橋克典のイメージを呼び起こさせるような声だったと思います。元ネタがあまりわからないのに笑ってしまうという『細かすぎて~』の笑いを彷彿とさせるような大傑作でした。あと相変わらず渡部篤郎のモノマネでも必ず笑ってしまいます。何回見ても面白いですからねアレ。しかも渡部篤郎本人が「そんなセリフ言ったことがない」と証言しているので、完全に山本高広の創作っていうのもスゴイですよね。果たしてモノマネとはなんぞや???とその定義が脅かされるほどの芸当だと思いました。

 さて、爆笑したところで本題に入ります。今回なんてムズすぎて笑ってないとやってられないですからね。第三回の講義テーマは『提示と叙述』、そして『時間』でした。

 まずは【提示】と【叙述】についてまとめてみましょう。提示とは、語り手が出来事や登場人物について語る際、語り手が介入せずに黙ってあるがまま示す手法のことを指します。登場人物の会話がそのまま記録されている場合がこれに当たりますね。一方の叙述は、語り手が前面へ出てきて、出来事や状況、人物の言動や心理などについて解説する手法のこと。語り手が出来事をそのまま語るのではなく、要約などをして解説している場合には、叙述の手法が用いられていると言えるでしょう。この両者には優劣があるというわけではなく、小説は【提示と叙述】を適宜組み合わせることで成り立っているものなのです。

 そして厄介なのが『時間』なのですが、厄介なだけに残念ながら結構な文章量になります。。。皆さんは、小説にはつねに【時間】という要素がつきまとう、ということをなんとなくわかると思うのですが、ここでまず重要なのは【アナクロニー】という概念です。アナクロニーとは、時系列で語られる【ストーリー】と、因果関係で語られる【プロット】とで、出来事の順序が合致しない場合のことを指します。プロットではしばしばストーリーの順番が組み替えられるので、プロットが用いられている場合にはアナクロニーが生じている場合が多いと思われます。アナクロニーは基本的に2つに分類され、ひとつは出来事の継起を語っている途中で過去の出来事や場面に移行する方法である【後説法(フラッシュバック)】で、もうひとつはまだ生じていない出来事を予知的に示す方法である【先説法(フラッシュフォワード)】。後説法の例としては、登場人物の過去が語られたりする「回想シーン」が、先説法の例としては、未来に起こることを仄めかす「伏線」が挙げられそうです。

 そして、物語が進む速度にも様々な形式があります。主なものとして挙げられるのは、ある期間を省略して一気に飛び越える【省略法】、ある期間に起こった出来事を数段落や数ページで要約してしまう【要約法】、物語が【提示】され、物語内容と物語言説の時間の速度が等しくなる【情景法】、そして語り手が物語の流れを中断させ、物語のその時点では登場人物が誰も知らない情景や情報を示す【休止法】の4種類です。省略法と要約法はよく似ていて区別が難しいのですが、小説内で『それから2年が経過したー』のような表現があったとき、その2年間について数行の説明があるようだったら時間の速度が速くなっているので要約法と考えられ、2年間について説明がなく単に2年間が飛ばされただけだったら物語に空白が生まれているので省略法、という解釈で私は落ち着きました。村上さんにはこの『省略法と要約法の違い』について申し訳ないほど説明させてしまいました。この場を借りて謝罪の意を表明したく存じます。ごめす。

 さて、今回の講義で我々を苦しめたのはテキストの筆者であるジュネットの難解な文章だけではなく、ジュネットが紹介したプルーストという作家の特殊性でもありました。何が特殊化と言うと、プルーストは物語言説における先述の4つのテンポをすべて変質させて用いているのです。特に彼は休止法をこねくり回しており、ジュネット曰く「プルーストの作品の中に休止法は存在しない」そうです。なぜかというと、休止法はふつう静的で客観的なもので、そこに登場人物の主観的な視点が入り込むことはないのですが、プルースト作品の語り手は、休止法的に説明する際にも登場人物の視点が介入され、動的に主観的なことも語ってしまうからなんです。わかりやすくかみ砕いて言うと、ある男が窓の外の風景を眺めている、みたいなシーンを描くとき、普通の作家の語り手は『窓の外には草原が広がっていて、子供たちが遊びまわっている』くらいの表現しかしないものですが、プルーストの語り手は『窓の外には草原が広がってらあ!あの子供たちと一緒に駆け回りたいぜ!』くらいのテンションで表現しちゃうんです。「子供と一緒に駆け回りたい」というのはその男の心情であって、普通の休止法では絶対に述べられることはありません。

 ではなぜプルーストはそのように休止法を改変したのか。それはプルーストが「真に客観的な描写は存在しない」という考えを持っていたことに起因します。プルーストは、人間が情景を描写するとき、必ず個人的な体験や知覚に基づいた描写を行っているということに気づきます。確かに、10人が同じ花を見たとしても、その10人は全員が異なった経験や考えを鼻に対して持っているもので、それによって花をどう描写するかも変わってくることは想像に難くないと思います。プルーストはその考えから、「登場人物の視点から切り離されて存在する景色は存在しない」という結論に至り、作品においても休止法による客観的な描写は行わず、必ず登場人物の視点から主観的に世界を描写するようになったのです。

 私は、はじめプルーストが何を言っているのか皆目見当もつかなかったのですが、村上さんや内藤先生の考えを聞いて理解を深めることで、彼の言っていることにめちゃくちゃ共感することができました。私もこの世の中に客観的な描写とか客観的な評価とかって存在しないと思いますし、何ならこの今目の前に見えている世界も私の主観でしかないと思っています。だってそれはただ私の目が、耳が、鼻が、皮膚が、脳がそう判断しているだけに過ぎないので。もしかしたら、他の生物にはこの世界が全く違って見えているかもしれないし、宇宙人が私たちに見える物質が見えなくて、私たちに見えない物質が見えた場合、宇宙人はこの地球のあらゆるものの形や色や感触を私たちと全く違うように認識するわけですから。だから私はSFとかで宇宙人が「地球って青いよね~」とか言ってるのを見ると、「この宇宙人ってこの見た目で目の作りは人間と同じなんかい!」とツッコミを入れたくなります。もっと言うと、時々、この世界が実際に存在してるかどうかも疑うことがあります。我々の見ている世界はすべてプログラムされた仮想現実である、みたいな。所謂マトリックスの世界観です。これ割とあり得ると思うんです。結局脳にそういう信号を送っちゃえばそういうことになっちゃいそうですし。だって今だって目の前に見えてる景色は目が脳に「そう見える信号」を送っているからそう見えてるだけですし。でも、そぅ考ぇると、この世に確実に存在してぃるのゎ私だけ。。。我考ぇる故に我有り。。。とゆーコトゎ。私の意思以外ゎ全部フェイク。。。まがぃもの。。。もぅマヂ唯我論的。。。サルトルに訊こ。。。

「他我が存在することは、自負や恥じらいの感情でわかるだろう!」

 というわけで、日頃どんなにへんちくりんなことを考えていても、山本高広のモノマネで大爆笑するし、言語表現論で課題が褒められたら嬉しいし、ゼミは毎週水曜日やってくるし、授業のテキストはどんどん長くなっていくし、それらを死にながら、あるいは生き返りながら、あるいは死ぬ気で生き返りながら、やっぱり生きていくわけです私は。関係ない話が思いがけず長くなってしまいました。みなさん良い週末を。私の分まで。

 

第二回 7期生 「誰の焦点か分かると、小説ってもっと楽しい」

 こんにちは、村上菜々子です。前座でこの冬私がハマりにハマっていたアニメ「PUIPUIモルカー」をお二人に紹介させていただきました。言葉を使わないアニメーションでこんなに人々に癒しと感動を与える作品は未だかつて無かったのではないでしょうか。ちなみに私はポテトくん推しですが、同じ方いらっしゃるでしょうか。モルカーファンの人とは仲良くなれそうな気がします。

 そんな話から始まった第二回のゼミですが、本編では今回、焦点化について理解を深めました。今まで、物語には語り手がその視点に立って話を進めていて、それがたまに入れ替わったりすることで物語を多面的に見ることができる効果があるということは知っていましたが、それだけでは浅いということが分かりました。焦点化というのはそれよりも複雑で、まず大きく3つに分けることができます。一つ目は非焦点化、二つ目は内的焦点化、そして三つ目が外的焦点化です。二つ目の内的焦点化はさらに三つに分けることができ、それぞれ、内的固定焦点化、内的不定焦点化、内的多元焦点化です。こうやって説明するとなんて小難しいことを言い出したんだと思われそうです。わたしも読んだ時そう思いました。たしかに分かりにくいのですが、先生と徳村さんにわかりやすく説明してもらったので理解できました。特に難しいのは内的不定焦点化と内的多元焦点化の区別と、非焦点化と外的焦点化の区別です。

 まず内的不定焦点化と内的多元焦点化の区別から説明します。内的不定焦点化の例として挙げられるのは湊かなえさんの「告白」のように章ごとに語り手が変わったりして物語が推移していく作品です。対して内的多元焦点化は芥川龍之介の「藪の中」のように一つの出来事についていろんな人物が語るという方式の作品です。ここで見極めるのに重要なのは推移しているかどうかで、語り手が変わることで物語の時間軸が進んでいるのかいないのかが見分けるポイントになります。

 次に非焦点化と外的焦点化の区別ですが、簡単に言うと非焦点化は神の視点なので3人称でも全ての人の心理描写が可能ですが、外的焦点化は語り手が人物の内面に入り込まないので心理描写ができません。

 ここまで色々書いてきましたが、最後まで本当に難しかったのはジェラール・ジュネットの言う、「ともにある視像」です。完全に理解できたわけではないのですが、今分かっていることは、

「一発の銃弾が、鼻の脇から反対側のこめかみへと貫通していた。そしてこの銃弾のために、死体はおそろしいまでに変形していた。死体の片目は、見開かれたままであった。」

この文章が内的焦点化でありながら、外的焦点化にも見えてしまう理由は、これを語っている人は確かに本人で一人称なのだけれどもこれを体験した本人と全く同じではないからだと言うこと。自分の過去について説明する時今の自分は過去の自分をある種客観的に見ざるを得ないので、その語り方がまるで他者が自分を説明するようになってしまうのは当然のことと言えるかもしれません。ここでいう二つの目線が、先にでてきた「ともにある視像」です。このことから、完全なる内的焦点化というものは無く、私たちはいつも誰かの視点を借りているということが分かります。

 そのことに関連して、私はたまに日記を書くのですが、今日あったことを書いている私と今日実際にそれを体験したわたしとではやはり乖離があります。その時怒っていたことでも日記に書くとなると自分の感情だけではなくある程度出来事を整理して書くので客観的になります。日記を書くことによってこころがすっきりする効果があるのは文章にしようとするともう一人の自分がそうやって自分を客観的に見つめ直してくれるから、自分の感情だけに囚われなくなるからなのかもしれないと今回の話を聞いて思いました。

 生きていると誰しもやることが多すぎてパンクしそうな時や、めちゃめちゃないやなことが起きたりすることもあると思います。そんな時は文字に書いて可視化することで単純化したり、モルカーを見たりして癒されながら頑張っていきましょう。また再来週もよろしくお願いします。

第1回 7期生ブログ「追憶は浦島太郎による」

「ふとPCの画面右下に目をやると、現在の時刻が2021年4月22日の午前2時過ぎ、つまり我々7期生にとって2回目のゼミが終了して7時間が経過しているということに気づく。いや、7時間経過しているということよりもこんな時間にブログを書いていることの方がちょっとアレである。なぜ私が深夜2時に無意識と意識のあいだでPCを叩くことになったのか、その真相は約7時間前に遡る。」

というわけで7期生初ブログを担当する徳村です。はじめまして。現在、午前2時を周っております。ねみ~。

今日のゼミでは前半でストーリー(時系列)とプロット(因果律)について、後半では「文学とはなにか?」という問いについて議論しました。

後半の「文学とは何か?」パートはめちゃくちゃ難解で、同じ7期生の村上さんによる死ぬほどわかりやすい説明と、死に至らしめんとするほど要点がまとまっているレジュメをもってしても私はその全貌を理解するのに時間がかかってしまいました。。。猛省っス。

さて「文学とは何か?」について再考すると、私は個人的に広告のコピーとかも文学だと思っていて、あれってもはや実用的である範疇超えてると思うんですよ。私が今までに見て最も感銘を受けたコピーは、テレビ鳥人間コンテスト2019のキャッチコピー『最初は湖に飛び込むだけの大会だった』というものですが、ここまでいくともはやこのコピーは文学と言って差し支えないでしょう。所詮テレビ番組の広告なので本当は「見てね!」とかでもいいんです、本当は。でもこういうコピーを創ることによって、このコピーによって鳥人間コンテストという大会の歴史と進歩と出場者の努力が非常に強くいきいきと想起させられますよね。私は、広告であるコピーが生んだ経済効果よりも、そのコピー自体の素晴らしさに感動したわけです。その点において私は個人的に(あくまで個人的に)広告のコピーは文学であると確信しております。

また、今回のゼミではストーリーの形である既存作品をプロットに再構築してみようという試みがありました。我々7期生は「浦島太郎」をプロットにすることにしたのですが、これがなかなか難しかった。「そもそも浦島太郎ってタイムリープした挙句老化してしまうけど、全然悪いことしてないのにおかしくね?」と物語自体を問うてみたり、「竜宮国の人類に対する復讐と警告として人間を誘拐したのちタイムリープ&老化させる」みたいなもはやプロットでも何でもないような星新一ショートショートめいたアイデアが繰り出されたりして作業は困難を極めましたが、村上さんが「冒頭で開いた玉手箱と煙を描写し、その後竜宮城での楽しかった時間を追憶するカットと荒涼とした大地にひとり佇む老人のカットを交互に描き、煙によって老人と化す男のカットでラストシーンを迎える」みたいな非常にエッジィでコントラストの効いた悲劇的なプロットを考えてくれたのでなんとかまとめることができました。「楽しかった時間を追憶する浦島太郎」っていうのがめちゃくちゃいいですよね。

で、まあ今時計見たらもう3時40分なんですけど、なんでこんな時間までブログ書いてるかっていうと、実は私今回の課題文を事前に全く読まないまま授業に臨んでまして。というのも今回の発表担当が村上さんだったもんで、むしろまっさらな状態で村上さんのプレゼンを聞いて理解した方がいいのかしらん、という謎理論が自分の中で成立してしまっていたんですよね。幸い授業内でおおよそ理解できたものの、やっぱり一度課題文も読んでおいた方が良いだろうということで終業後に読もうと思いましたが一見して「ウワ長ーい」とひるんでしまって、やっと課題文に向き合えたのは1時ごろでした。そして1時間でなんとか全部読んで、急いでブログを書き始め今に至ります。猛省に次ぐ猛省でございます。ちなみにこのブログもプロットっぽくなってます。効果的であるかどうかはわかりません。ていうか初ブログめちゃくちゃ長くなってしまいました。これは猛省に次ぐ猛省に次ぐ猛省に…(n)。はい、それではそろそろおやすみなさい、或いはおはようございました。また次の次のブログで宜しくお願いします。

第4回 6期生ブログ「子ども」

こんばんは、本日ゼミ担当でした。おそらく3回分このブログが円滑に回っていないので、本来ならば7回目になるはずです、、、。

さて、私は最近「子どもを産むこと」についてかなり毎日のように考えています。地元の友達が出産をしたり、友達の兄に子どもが生まれたり、友達の友達の赤ちゃんをSNSで見たり、、、などなど。子ども、出産について考える機会が一気に舞い込んできたという感じです。

ゼミでも何度か話していますが、私は本当に子どもが大好きで、可愛いな、面白いなと思います。しかし、子どもならみんな可愛いので、「自分の子ども」に対してどんな感情を抱くのかが全く想像できません。

そんな私ですが、一応は子どもや子育てに興味がありすぎて、SNSで主婦の「子育てあるある漫画」のような投稿をかなり読み込んでいます。子どもの可愛らしい面白い日常の発言や、子育てで大変だったことを興味本位で読んでいました。しかし最近は考えすぎた結果「全部、産む選択をしたのはあなたなんだから、子育てが大変と言っているのはおかしいのではないかな」と思ってしまい、そういう類の投稿をみるのが嫌になってしまいました。また、子ども、赤ちゃんのことを「可愛い」と言っているのもなんだかおかしな感覚になっています。目的はなんであれ、子どもを「欲しい」というそのシンプルな気持ちだけで世の中の人々はよく人間を生むことができてしまうな、と恐ろしく思っています(笑)

「みんなやっていることだから」「可愛いから」「パートナーとの関係を円滑にするため」「親からのプレッシャー」「パートナーとの子どもが欲しいから」などなど、、、出産する理由なんかいくらでも思いつきますが、私はどんな理由も1人の人生を背負うには軽すぎるように思えてしまいます。

子どもを生むということは、今の時代においてもはや自分のためでしかないように思えてならないのです。(国のためではない、国のためであったとしてもそれは自分のために回帰するようにも思う)

私は子どもが好きですし、子どもを生むときっと楽しいことや喜びがたくさんあるのだろうなと思いますが、自分のため以外の何かを見出せないと中途半端なこの気持ちがずっとどこかに残ってしまう気がします。(と言いつつ、けろっと忘れるかもしれませんが)

一度この思考沼にハマってしまうと永遠にループして抜け出せないと思うので誰かに救ってもらいたいです。

ゼミ入室試験:募集要項

ゼミ入室試験に応募する人は、レポートとエントリーシートを提出し、面接を受けること。

  • レポート:以下の内容を2,000字前後の文章にまとめる。(A4横書き)
  1. 志望理由
  2. ゼミで取り組みたいこと(対象・作品があれば、それらも示すこと)
  • エントリーシート:以下のリンクからファイルをダウンロードし、必要事項を記入する。

エントリーシート

提出締切日時及び提出場所等は、情報コミュニケーション学部事務室に確認すること。

第3回 6期生ブログ「暗いもの」

遅くなりましたが先週担当だったのでブログを更新していきたいと思います。

先週は皆さんに改めて映画『友罪』を見ていただきました。私はもう何回目かになりますが、何回見てもこの映画は暗いなと思います、、、。

思い返せば、私は小学生の頃から何かと暗いものが好きでした。ピアノを習っていましたが、発表会の曲を選ぶときに「とにかく暗いもので短調の曲がいいです」とピアノの先生にリクエストしていたのを思い出しました。

クラシックでも映画でも小説でも割と暗いものが好きです。(暗ければなんでもいいというわけではありませんが!)なぜ暗いものが好きなのか考えてみても答えがあまりはっきり出ないので、これは感覚的なものなのかなと思います。

ですが、論文を書くにあたっては、この「感覚的」なものだけではなく、はっきりと目的意識と順序立てて理論を展開しなければなりません。

今からただの感想作文になってしまわないかとても不安ですが、自分が惹かれた作品に自信を持って、自分の中の主張や考え方を整理して論文という形で提示できればなと思います。

引き続き色々な作品を見つつ、私から見えた『友罪』をしっかり言語化していきたいです。

小野寺

 第2回 6期生ブログ「仁義なき戦い」

今回から本格的に卒論に向けての個人発表が始まりました。私は『仁義なき戦い』を題材にし、様々な議論をしました。

それぞれの意見の違いや感じ方の違いを共有することは、映画を観るという行為の醍醐味であると思っています。しかし、私は残念ながら語り合う人がそんなにいないので、このような場で議論することができたのはとても良い経験になりました。そして一人では見る気にならないだろう(?)『仁義なき戦い』をみなさんに観ていただけたのは、よかったです。今は古い映画にも簡単にアクセスできるので、積極的に観ていただきたいですね。

以下、私が以前書いた『仁義なき戦い』シリーズの批評文になります。この機会に載せます。内容は議論で私が話したこととそこまで変わっていません。

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「極道っちゅうもんは、死を覚悟しなければいいけないのだよ!」

そんなセリフはないものの、でも、そういうことなんだろう。言うまでもない共通認識なんだろう。死と、刑務所は、極道のつきものかもしれない。このシリーズを通じて多くのものが血を流し、多くのものが刑務所に放り込まれた。それが極道なのだからしょうがないね、の視点もありつつも、結局は…結局戻ってくるのは、死の匂いだった。死んでも守りたいものはあるのか?無駄な死と呼びたくない気持ちを抑えてまでも、無駄だと思ってしまう死があまりにも多くないか?広能は最終的に、死んでまでも行う組の増殖に、懐疑的になってしまったのだ。そのことを決して口には出さないし、体現はしない。彼は身を引くだけだ。

このシリーズはどの話も最終的には若者の死を描いていることからも、制作人の意図的なメッセージが伝わってくる。広島という死の記憶がこびりついている場所を舞台としながら、さらに上乗せされていく多くの死に、それを引き起こしてしまう制御の効かない組という生き物に、懐疑的な目を向けていく。組員の駆け引きは非常に人間味があふれ、広能の筋の通った力強さ、感情豊かにぶつかりながらの生き方は、このシリーズの唯一無二の答えを提示していた。広能に寄り添うばかりで、広能の弱さが見えてこないところがまた映画のずるいとことではあるが。広能は死に対して人一倍敏感だったのだと思う。特に部下たちの死に。殺した本人でさえ責任を取ることのできない、組という生き物が引き起こした死に、彼はやり場のない怒りを持つ。その怒りは、結局は復讐という形をとってしまう場合も多々あったが、抱え込んで生きていく道徳の教科書ではないのだから、当然だと言ってもいいだろう。しかし、他のヤクザたちには欠けているような、広能の死を嗅ぎ分ける繊細な心遣いに、観客はひかれたのだろう。

物語の最後は、常に原爆ドームが象徴的に使われる。弱肉強食の暴力は、押さえ込んでも時代が経ても、形を変えて続いていく。これは今も言えるだろう。物理的な暴力ではない様々な暴力も多々溢れている。そんな中で発生してしまう死に、広能のような繊細さを持って、深く傷つき、絶望する必要があるのだと思う。たとえそれを防げないとしても、固有名詞の死に、自分一人で接すること。原爆ドームという非常に匿名的で象徴的な存在をまえに、広能は一人ひとりの死を嘆くのだ。顔にも言葉にも出さずに。

宮本

卒論構想発表を終えて

お久しぶりです!だいぶ日数が経ってしまいましたが、9月5日に行われた「卒論構想発表」の振り返りをしたいと思います。
オンラインでの発表となりましたが、なんと8時間も発表、話し合いを行いました。地下ゼミのOBの先輩方も参加してくださり、とても濃い時間となりました。
私は、映画を用いて卒論を書きたいと思っており、今回もみなさんには映画「友罪」を見てきてほしいとお願いしました。お忙しい中先輩方は見てくださっていて、それぞれのご意見をお話していただきました。本当にありがとうございました。私の発表と映画にとても真剣に向き合ってくださり、全く衰えを感じさせない鋭いご指摘をたくさんもらえたので自分自身がどういう方向性で書いていきたいのかが以前よりも見えてきました。
しかし、私が考えたいテーマ「家族・つながり」については、先輩方がすでに考え尽くしたテーマでもあるので、何かしら自分らしい色をつけなければならないなと思います。とても難しいです。がんばります。
また来年OBとして、この地下ゼミの7期生の卒論構想発表で鋭い意見を言いたいいなあ。なんて考えています(笑)
後半戦もがんばります!

小野寺

第16回 6期生ブログ「もういくつもの世界」

春学期のゼミを終えてから、このブログを書くまでに一週間もかかってしまった。何を書こうかしばらく考えていたが、どうしても『リキッドモダニティ』の絶望的ともいえる結末に何も言葉が出てこなくなってしまったのだ。

答えのないバウマンの語りに終始ウンザリしつつも、その的確さに、ついつい納得してしまうもどかしさ。『じゃあどうしたらいいの?!』でも、答えはそう簡単にわからない、そう簡単にわからないからこそ、こうして同じように頭を抱えるしかないのだ。

私は最終的に、以前から少しだけ知っていた理論「思弁的実在論」に可能性を見出した。なぜなら、この思弁的実在論は、まさにバウマンをはじめとするカント以来の相関主義を乗り越えることを目的としているからだ。どうして乗り越えなくてはいけないのか。世界は私たちの意識の網の中の作り物であるという認識を持つ相関主義は、今となっては当たり前に感じてしまう考え方であり、これを土台にしているからこそ、様々な作り物を壊し再構成することが求められているのだ。だからソリッドモダニティは溶けて、リキッドモダニティになった。世界は変わるのだ。しかもリキッドモダニティにおいては、世界の形が全く不安定になってしまい、一寸先すら見えぬ道を迷いながら行く孤独で過酷なレースを行く必要があるのだ。バウマンが範疇に入れていたのは、社会と呼ばれる場所で起こる様々な営みだった。個人の行動としての買い物、都市空間や時間認識、仕事形態、そして共同体の姿…その批判的な主張は全く一貫していた。しかし、バウマンは思いもしなかった社会の変化が、この2020年に起きてしまっているのだ。(私はこの点に、ゼミが終わってから気づいたのだった)

もはや政治的な扱いを受けてしまっているようにも感じる新型コロナウィルスは、元はと言えば、人間の力ではどうにもこうにもできないエコロジカルな危機の一つだ。他にも、地震、台風、気候変動などの自然災害も入れることができる。(そういえばバッタの大群はどこで何しているのだろう)しかし、地球環境に何らかの影響を多かれ少なかれ及ぼしてしまっている人間にとって、自然災害が全く無関係なものとして起こるとは考えづらい。しかし、それでもなお操作は不可能なのだ。人間が生きている限り、地球の地面を踏み続ける限り、環境に変化を与え、環境の変化を共に受け入れるしかないのだ。このとき私が対象にしているのは、人間の認識の網の外を出た<世界>だ。これはバウマンが散々語ってきた社会=世界とは異なる。(バウマンはエコロジーについては全く言及していない)バウマンの範疇であった社会=世界が、あまりにも人間中心ではないだろうか?今ここで、ゼミが終わってみて初めての問題提起をしたい。

人間の認識の網の外を出た<世界>は「存在する」のだ。人間が生きている世界だけが、世界だろうか?そうなったら私の愛犬は世界の一員ではないのか?家の外で様々な姿を見せてくれる植物や動物は?また、この熱い太陽は本当の意味で地球には存在していないが、人間をはじめ世界に暮らす様々な存在に大きな影響をもたらしている。バウマンが言うような社会=世界=生活世界だけが、世界ではない。それは広大な世界の、たった一部分なのだ。その一部分が残りの部分に影響をもたらし、もたらされるのだ。私の知らない、絶対経験することのできない<世界>が、私の認識とは関係なしに、紛れもなく「存在する」…そこは決してリキッドモダニティではないだろう。答えのないバウマンの『リキッドモダニティ』を乗り越え明日へと活かすには、リキッドモダニティの外へと出る必要があるようだ。

これらが「思弁的実在論」が語ろうとしている、大まかな考えの一部部分らしい。(ただいま絶賛勉強中です!)これらを貫くのは、温暖化や海洋汚染などのエコロジカルな危機からもたらされる人間の脆さや実在の不安定さとどう向き合っていくかという危機意識だ。その意味で、リキッドモダニティであるが故に生まれたと考えてもおかしくはないだろう。バウマンはここで初めて警告書の外に出るのだ。

私はまだ、知ったかぶりで語ることも許されぬほど、この分野に関しては未熟であるが、本当に大きな可能性を感じていることは確かだ。何よりも、私が生き辛いと感じてしまう世界は広大な世界の小さな小さな一部分でしかないという紛れもない「事実」が、私を生かすのだ。それは現実逃避になってはいけないと思う。脆くて儚くて、不完全で未完成な人間が、それでも生きていくことのできる場所を探すような作業なのだ。リキッドモダニティの外に出て、リキッドモダニティを眺めること。他の世界との関連性の中で、人間の居場所を探すこと。人間中心的な思考を出たときに、初めてバウマンの束縛(これは多くの社会学が陥るようなアポリアである)から解放することができるように感じるのだ。

ふと、童謡『手のひらを太陽に』を思い出して口ずさんでみる。ミミズやオケラやアメンボと友達になった記憶はない。この先も友達として飲み会に誘うようなこともないだろう。それでも、この<世界>を構成する大切な一員であるのだ。人間がリキッドモダニティであろうとなかろうと、ミミズやオケラやアメンボと、人間は友達であり続けるのだ。

もういくつも、世界がいくつでも存在する。リキッドモダニティはその一つに過ぎないのです、みなさん。

宮本