11期生 第4回 物語の時間はどのように操作されるか

こんにちは、はじめまして!

11期生第3回のブログを担当します、井上紬といいます。

作品としてのエンタメを味わうことはもちろん、自分自身がエンタメの一部になりたくて、ホテルのフロントスタッフとしての接客と、フラッシュモブというダンスによるパフォーマンス活動に力を入れています。

自分が書く論文も、読んでくれた人に新しい気づきや感動を与えられるようなエンタメとなるように執筆活動に励みたいと思います。

これからよろしくお願いします!

前座

今回の前座は私が担当しました。

紹介したのは「童話物語(向山貴彦、1999)」

私にとって人生の一冊であり、亡くなった伯父が生前に著した長編ファンタジー小説でもあります。

手に取ったきっかけこそ伯父という私との関係性でしたが、実際に本を開いてからはただただその世界観に魅了され、作者と切り離しても私のバイブルであると胸を張って言える作品です。

いつかこの作品をアニメ化し、多くの人に魅力を伝えることが、11歳の頃からの私の目標です!

ちなみに現在この話をして、「何その本、気になる・・・!」と言ってくれたゼミの仲間たちに文庫版を貸して回しています(笑)今は土田さんが上巻を読んでくれているようで、感想を共有できる日が今から待ち遠しいです。

3限 「批評理論入門ー『フランケンシュタイン』解剖講義」

3限は藤田さんが「提示と叙述」と「時間」について発表してくれました。

〈提示と叙述〉

この章では、小説が大きく分けて2つの方法で語られていることを指摘しています。

それが提示と叙述です。

提示とは語り手が介入したりせずに黙ってあるがままを示す方法、叙述とは語り手が前面に出てきて要約などによって読者に対し解説する方法です。

著者の廣野さんは、作品の各部分においてこの2つの方法のどちらかふさわしい方が選択されるべきであるとしています。

実際に『フランケンシュタイン』では提示と叙述がうまく使い分けられており、作品を最後まで読ませる工夫がされています。

特に授業中にも議題に上がったのが、フランケンシュタインによる怪物創造のくだりが叙述の方法で語られていることについて。

本書は、要約して語ることで読者はフランケンシュタインに対する共感を保ちつつ物語を読み進めることができると述べています。

ではここでいう共感とはいったい何に対する共感なのでしょうか。

議論の末に出た結論は「人間らしさ」です。彼の怪物創造という行為は人倫にもとる行為であり、「人間らしさ」とはかけ離れています。また、昔は人間をつくることができるのは神だけだと考えられていたことから、フランケンシュタインはその点においても「人間らしさ」とは距離があるように思われます。そこで、実際に怪物がつくられるおぞましい様子は省かれたうえで、フランケンシュタイン自身がその時のことを振り返って「いま思い出しただけでも、めまいがする」と述べることによって、完全には失われていない彼の「人間らしさ」に共感して読者は読み進めることができるのです。

〈時間〉

続くこの章では、物語における時間の操作がどのように行われているかについて指摘されています。

時間で主に操作されているのは順序と速度です。

まず順序について。

ジェラール・ジュネットは、出来事が単に起きた順に並べられる「ストーリー」としばしば時間の移動によって並べ替えられる「プロット」で互いの順序が合致しない場合を「アナクロニー」と名付けました。

「アナクロニー」には大きく2つあります。それが「先説法」と「後説法」です。

「先説法」とは、まだ生じていない出来事を予知的に示す方法です。また、すでにある程度進行している物語の途中から語り始める「イン・メディアス・レース」という方法も「先説法」の一種にあたります。

「後説法」とは、出来事の継起を語っている途中で過去の出来事や場面に移行する方法です。「フラッシュバック」とも呼ばれ、映画でもよく用いられます。

次に速度について。

物語の進行速度には大きく分けて4つあります。

それが「省略法」と「要約法」、「情景法」と「休止法」です。

「省略法」とは、ある期間を一気に飛び越える形式です。「こうして数か月がたった」という表現や「2年後」という表現がこれにあたります。

「要約法」とは、数日間や数か月、数年に及ぶ生活を詳細抜きにして数段落や数ページで要約する形式です。

「情景法」とは、物語内容の時間と物語言説の時間の速度が等しい形式です。台詞の掛け合いで物語が進んでいく場面などがこれにあたります。

「休止法」とは、語り手が物語の流れを中断させる形式です。語り手が自分の心情や置かれている状況を語るなどして物語それ自体は進んでいない場面がこれにあたります。

この3限では、これらの時間の操作について互いの違いを確認することができました。

4限 ジェラール・ジュネット「物語のディスクール」(1972) 時間

4限はジョウさんが発表してくれました。

ジュネットの著書を実際に読み込むことで物語における時間の操作について理解を深めていったのですが、この読み込んで理解するという作業がかなり難航しました。

ジュネットが例に挙げるプルーストという作家、そして彼の作品である「失われた時を求めて」は非常に特殊で、抽象的な本文の記述からは物語がどのように進行しているのかを具体的に想像することが難しかったのです。

実際に議論は次の週まで続きました。

ポイントとなったのは以下の2点でした。

1.括複的描写とはどのような描写であるか。

2.プルーストの情景法にはどのような特徴があるか。

まず1.について、最終的に辿り着いた結論は「数回起きた事柄を同じ時間に存在しているかのように見せることでただ一度だけで語ることを可能にした描写」です。過去も現在も同じ画面あるいは描写に混濁させることで実現することが分かりました。

次に2.について、最終的に辿り着いた結論は「確かにリアル・スピードで進む(内容と言説が等しい速度で進む)が、間にさまざまな情報が介入してくるので複雑化している」です。要するに寄り道をするのです。まるで実際に生活している私たちのように、語り手の意識の流れがそのまま反映されているので、物語として読み進めていくと話があっちに行ったりこっちに行ったりして少しややこしさを感じてしまうという特徴があります。

両者ともに結論を出すのに時間はかかりましたが、先生から助言もいただきながら皆で納得できたときには格別の達成感を感じました。

個人的には 第2回 ロラン・バルト「作者の死」に並ぶ抽象度の高い文章で読むのに苦労しました・・・(笑)

少しずつこのような文章にも慣れていきたいです。

ではこれにて、第4回の授業内容は以上となります!

最後に、最近イチオシの映画をひとつ挙げて終わりにします。

「トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦」(2024) ※日本では現在数十か所の映画館にて公開中

香港で制作されたアクション映画なのですが、これが本当に面白いのです。手に汗を握ります。

はじめ私は九龍城という舞台に惹かれて足を運んだのですが、想像以上に作り込まれたセットに圧倒されたうえ、見た目も中身も個性的なキャラクターたちに、少年漫画をリアルに再現したかのようなド派手なアクションなど、盛りに盛られた魅力的な要素に心を奪われ、なんとこの1週間のうちに3回も観に行ってしまいました。こんなことは初めてです。財布が許してくれるのならまた観に行きたいです(笑)

上映館が少ないのが玉に瑕なのですが、皆さんもぜひこの機会にご覧になってみてください!

11期生 第3回 誰が語るのか、そして誰を通してみるのか

はじめまして!
11期生の2回目のブログを担当します、藤田雄成といいます。

ブログを書くのは初めてなので何を書けばよいか分からず時間がたってしまいました...
しかし多くの方が同じようなことを思っていたようなので気合い入れて頑張ります!

さて、11期生は4人いるのですが実は私、ほかの3人とは違う点があります。
それは、、、3年になって初めて内藤ゼミを経験したこと!!!
どうやらほかの3人は1年か2年のときに内藤ゼミを経験していてどういうゼミなのかよく知っているとのこと。それを知って私はビクビクしてました。まあ、私もこのゼミの過酷さを知っていながらも入ったんですけど(笑)

前置きはこのくらいにして今回の授業内容に入っていきます

前座

前座も私が担当しました。私が紹介したのは「春休みにみた戦争映画」です。取り上げたのは「プライベートライアン」、「ダンケルク」、「西部戦線異状なし」の3つです。
プライベートライアンに関してはカメラの視点で酔ってしまって30分くらいしか見てません(笑)
実はジョウ君が3つとも見ていたらしくちょっと嬉しかったです。
3作品ともとても考えさせられる内容になっているのでみなさんもぜひ!

3限 批評理論入門

3限は井上さんが批評理論入門の「語り手」、「焦点化」について発表してくれました。

語り手

この章では語りの種類、枠物語、そして信頼できない語り手について述べられています。
まず、語りの種類についてですが一人称の語り、二人称の語り、三人称の語りがあります。その中でフランケンシュタインは一人称の語りに分類されます。
次に枠物語についてですが、そもそも枠物語とは、「物語の中に、さらに物語が埋め込まれているような形の物語形式」をいうそうです。フランケンシュタインにおいては、
ウォルトンの語り>フランケンシュタインの語り>怪物の語り
という感じに構造が成り立っています。ちなみにここで内藤先生が「枠物語山手線ゲームをしよう!」とおっしゃって少し不安になった記憶が(笑)
最後に信頼できない語り手にがいることによって、人間がいかに現実をゆがめたり隠したりする存在であるか、があらわになってくることが述べられています。

焦点化

この章では焦点化の種類、そしてフランケンシュタインの物語での焦点化について述べられています。
まず、焦点化の種類について内的焦点化と外的焦点化に分類され、さらに内的焦点化は固定内的焦点化、不定内的焦点化、多元内的焦点化に分類されます。外的焦点化とは?という問いに少し戸惑ったのですが、例として横光利一の「蠅」を思いつき理解できました。さらに内藤先生の「固定されたカメラで映し出された場面を小説で書いた感じ」、という説明でより理解が深まりました。
次にフランケンシュタインでの焦点化について、焦点人物を変えることによって物語に深みが出ているように感じました。

4限 ジェラール・ジュネット『物語のディスクール』「焦点化」


さて、続いて4限は土田さんが発表してくれました。
今回の文章は前回の文章よりも読みやすく、議論も簡単かなと思ったのですが「ともにある視像」について考えるのにかなり苦戦することに、、、

まず、この文章では焦点化の種類について述べられています。ここは3限と被るところもあるので詳細は省略します。
次に、内的焦点化と外的焦点化、被焦点化は区別できるのかということが述べられています。物語は終始一貫して同じ焦点を持つわけではなく、内的、外的の両義性をもつことがあります。また、内的と被焦点化も時として区別が困難な場合があります。
そして「ともにある視像」についてです。みんなかなり悩みました(笑)かなりの時間をかけてようやく「内的視点で語られている作中人物、それを語っている者」が「ともにある視像」なのでは?という結論にいたりました。ここは個人的にロラン・バルトよりも難しかったかも、、

二回目の議論、ということで初回よりは慣れた感じがします。ブログに関してはまだまだ至らない部分がたくさんあると思うのでこれから成長できればいいなと思います!あと読み返してみるとちょっと恥ずかしいですね(笑)

私のブログでは最後に映画やアニメなどで印象に残った言葉で締めたいと思います。
では今回はこのへんで!

「何も捨てることができない人には何も変えることはできない」
                    進撃の巨人 アルミン・アルレルト


11期生 第2回 作者とは、そして書かれたものとは何だろうか。

はじめまして!

内藤ゼミ11期生初回のブログを担当いたします、土田麻織と申します。

人生で初めてのブログなのでお手柔らかに見ていただけますと幸いです。

そして最初なので軽く自己紹介をしてみようと思います。

好きなことは本を読むことと音楽を聴くこと。小説が好きなのでこのゼミにたどり着いたのですが、映像表現にも興味があるので最近は映画もちょこちょこ見ています。

好きな作家は湊かなえさんと芦沢央さんで、イヤミスと呼ばれるジャンルをよく読みますが、このゼミを通して大学生活の集大成にふさわしいと思える作品に出会えたらいいなと思っています。

そして、今の私を構成しているものといえばやはりサークルになるかと思います。

私はaccessというジャズダンスサークルに所属しています。週2回の通常練習に加えて、新歓ライブや夏ライブ、明大祭期間には別で練習が入るためほぼ毎日サークルに行っているのでは?という期間も多々あります。この前までの春休みは2か月間ほとんどをサークルに費やしていました(汗)

サークルにそれなりの熱量を割いている私ですが、今年度からはゼミとサークルの2本軸で頑張っていこうと意気込んでいます。

思いのほか長くなってしまったのでここで授業内容に移ります!

前座

初回は私、土田が担当しました。取り上げたのは住野よるさんの『また、同じ夢を見ていた』です。

普段はミステリーや暗くて重い話を好んで読んでいますが、このような場で紹介するにはふさわしくないなと思い、初心に戻って小学生の頃恐らく初めて手にした、いわゆる一般的な小説を紹介することにしました。

自分の前座なので割愛しますが、とても温かいお話ですので、疲れているときや余裕のない時にこそ是非読んでいただきたいなと思います。悲しくないのになぜか涙が出でくる、そんなお話です。

3限

お待たせしましたが3限の発表内容に移ります。

廣野由美子著『批評理論入門 フランケンシュタイン解剖講義』

1冒頭 2プロット

3限の発表はジョウくんでした。

第1章の前に、まえがきでは本著が『フランケンシュタイン』を扱う理由として、誰もがタイトルを知っていてそれについてのイメージを持っていること、映画や演劇など数多くのメディアによって物語は伝播していったが、言語を媒体とした小説という形式でなければ本質を表現できない点が挙げられています。

これから本論を読み進めていく中で、言語でしか『フランケンシュタイン』の本質が伝えられない理由を肌で体感出来たら、と思います。

第1章では『フランケンシュタイン』の冒頭について取り上げられています。初版の「11月のある陰鬱な夜のこと、、」という書き出しが、私たちが現在目にする第3版では第5章に移動していて、その代わり手紙文が冒頭に置かれています。

筆者は、「小説における冒頭は現実世界と虚構の世界とを分かつ『敷居』のようなものである」としたうえで、冒頭部分は読者にとって負担の大きな部分であると述べています。初版の冒頭では読者は世界に入り込めないと考え改定されたそうですが、果たして本当に手紙形式が有効なのでしょうか。

ここが本題ではないため省略しますが、私は冒頭が手紙の方が物語世界の中にさらにもう一つの壁を感じるため、筆者の言うことは必ずしも正しいとは限らないのではと思いました。

第2章ストーリーとプロット

第2章では小説におけるストーリーとプロットについて学びました。

ストーリーは出来事を起きた時間順に並べたもので、プロットは物語が語られる順に出来事を再編成したものです。ストーリーを組み替えることで真相の提示を先延ばしにすることができ、謎やサスペンスが誕生するそうです。

4限

ロランバルト『作者の死』

4限の発表担当は藤田くんでした。

発表前に藤田くんは「頭の中がエクリチュール状態です」と軽いジョークを飛ばしてゼミの場を温めていましたが、今回の課題テキストを通して私にとって謎めいた文字列となってしまった「エクリチュール」という言葉を使ってユーモアを発揮できて、みんなもそれに笑うことが出来るのか、と私は陰でこっそり冷や汗をかいていました。

そんなエクリチュールがキーワードのテキストです。「エクリチュールの本来あるべき場とは」という大論点を掲げてスタートしました。

そもそもエクリチュールとは簡単には、フランス語で「書くこと」「書法」「文字法」「書かれ方」などを意味する言葉です。

現代の文学イメージはある作品における作者の情報に集中しており、作品には作者が大きく介入しています。しかし、何かを語るのは言語活動そのものであり、作者ではないということが今回の大きな主張です。作品はたくさんの人の言葉を引用したものであるため、自分の意思は還元しないという考え方です。織物のたとえが分かりやすかったのですが、一見1枚の布に見える織物も、実は様々な意図が織りなして形作っているように、1つの作品には多く書物の引用から成り立っているということです。

物語られたものから作者が切り離されたとき、エクリチュールが誕生します。

そしてその様々な要素から織りなされた、多源性を持つエクリチュールが収斂する場は作者ではなく読者であるという結論です。

物語を「解読する」というとそこには有限性が与えられてしまいますが、文章の言葉を借りて説明するなら、歴史も伝記も心理も持たない読者が「解きほぐす」ことは無限性を持ちます。

エクリチュールは作者の死によって読者の中に誕生するのです。よって冒頭で提示した「エクリチュールの本来あるべき場とは」という問いに対しては「読者」と結論付け、「作者の死」が宣告されて第2回のゼミは終了しました。

以上が授業内容になります。

初回の授業で作者が死んでしまったため、「作者はなぜこうしたのだろうか。」「この設定にした作者の意図は?」とよく考えてしまったり、そもそも作者情報に先行して読むものを選んでしまったりする私は、これからどうすればいいのだろうか、となっていますがそれも含めてこれからのゼミ活動で考えを深められたら、と思います。

ブログを書いていて、文字に起こすには100%の理解が必要不可欠なんだなとひしひしと感じました。課題文を読み直したりレジュメを見直したり自分のメモを解読したり、がっつりおさらいをしてなんとなく理解した状態で書きましたがかなり長くなってしまったと思います、、。次回以降はもっと簡潔にわかりやすくまとめられるように精進していきます!

ただインプットしたことを整理してアウトプットする過程は、知識を自分のものにする上でとても大切なことだなと言うことを改めて感じました。

なのでブログ担当でないときも、ブログを書ける勢いで自分の中に落とし込むぞ!という気合を入れて今回のブログを締めたいと思います。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

第2回 繰り返される構図が持つ意味とは

久しぶりのブログの執筆で若干緊張しております。内藤ゼミ10期の中村です。今回は4年ゼミ第2回の内容をお届けしていきます。

初週はオリエンテーションのため、4年生になって発表や議論をするのは今日が初めてでした。やっぱり楽しい!これにつきます。今学期は映画の理論を中心に勉強するので、映像を分析するという新しい試みが出来るのはワクワクします。前置きはこの辺りで終わりにして早速本題に入りたいと思います。

今週の理論書はマイケル・ライアンとメリッサ・レノスの『Film Analysis』でその中の「構図」を山崎さんが発表してくれました。これは配置に意味が付与されるというもので、さまざまな映画のカットを紹介するような形で説明をしていました。 議論としては、前半では果たして「構図」の分析は我々が映像分析を行う上で使えるものなのか?という論点で話が進みました。その後、後半では実際に映画『第三の男』をこの「構図」を用いた分析をすると何が言えるか?を話し合いました。

まず、「構図」は特定の1つのカットそれだけで何かを断定したり論証していくには論拠が弱いという意見がありました。そこでより普遍的に応用するためには、1つのカットを検討するのではなく、連続した映像を通して意味を持つ構図が変化していくもの、例えば権力関係に変化が見られるなど、そして繰り返し同じ構図が用いられるものであれば構図を用いた論証が可能なのではないかと考えました。 我々が1月に行ったワークショップでも映画を分析しましたが、その際も窓枠が使われる同じ構図が3.4回みられることから特定の意味を含んだカットだと考えたので、この意見はかなり有力なものになりました。

次に『第三の男』の分析ですが、この映画は非常に不思議な構図がいくつも見られます。例えば、主人公が乗り物に乗って歩いている女性を追い越すシーンが物語の最後にありますがこれは序盤にも全く同じ構図で見られます。さらに、主人公が死んだはずの友人を見かけて追いかけるシーンでは、低い視点で視界が斜めになっている構図が使われていて不穏な印象を与えてきます。我々はこのようなさまざまな構図の妙の中でも、繰り返し同じ構図が見られることについて検討していきました。 そこから得られた結論は、構図が登場人物の距離感を示す要素として用いられているということです。具体的には、主人公のマーチンスと死んだはずの友人ハリーの距離は物語を通してどんどん近づいていき最後にはマーチンスが追いつきます。しかし、マーチンスがハリーの死の謎を追う中で出会った女性アンナとマーチンスの距離は物語を通して縮まることなく一定に保たれています。

まず、マーチンスとハリーの距離ですが、これは彼らが追いかけ合うシーンの中で同じ道を通る時に同じ構図で撮られているのですが、同じ構図が再度現れる間隔が終盤にかけて短くなっていきます。これは2人の距離が近づいているだけでなく追われるハリーが焦る心理的状況も示していると考えられます。 次にマーチンスとアンナのシーンは先ほども説明した乗り物に乗ったマーチンスが道の端を歩くアンナを追い越す構図です。序盤ではその後アンナが出てくることはありませんが、最後のシーンではアンナを追い越したマーチンスは乗り物から降りて道端に立ち止まりアンナを待ちます。しかし、道を歩いてきたアンナは立ち止まることなくマーチンスを追い越してどこかへ行ってしまい、そのまま物語が閉じられます。 物語を通してマーチンスがアンナに好意を寄せていることは明確に見られますが、アンナがどう思っているか不明なまま最後のシーンで判明するのです。しかし、同じ構図が序盤と最後という大きな隔たりをもって採用されていることからアンナとマーチンスの距離は離れているということが暗に示されていたと言えるのではないでしょうか?

100分という短い時間の中でかなり納得のいく面白い結論が導けたと思います。改めて楽しい!と感じるのはこういう瞬間があるからですね。 今回のまとめとしましては、構図の概念は映像、特に物語を通して構図を見る時に誰かの視点であり、心理的な要素や人間関係が示される可能性があるという意識で見ることで面白い論証ができるということがわかりました。 最後までお読みくださりありがとうございました!

第13回 自分の言葉で語ること

10期生、13回目のゼミのブログを担当します。中村です。

今週は、エレーヌ・シクスーの「メデューサの笑い」の冒頭部分を読みました。そして理論を用いて映画『バービー』についての議論を行いました。

まず、「メデューサの笑い」で言われていることは、男根中心主義な社会にたいする抵抗として女性が女性の言葉で女性について語る必要があるということでした。それは、女性が男性優位社会において彼女たちの欲望が抑圧されているため、その欲望が女性に戻ってきて解放をするときに女性のエクリチュールが重要なのです。次に、シクスーは古典的ではない両性具有の概念として、自己の中に2つの性があることを突き止め、どの性も排除しないことを主張しています。これは女性は男性性と女性性のどちらも表象することができるが、男性は男性性のみを追求することを教育されているため、2つの性をもちどちらも排除しないと考えることが女性にとって利益のあることなのだといいます。最後に、飛び盗むという表現を使って、男性優位な社会で用いられてきた言語や道具を異なる使い方をしてその制度を壊すことを女性の動作であると説明します。女性が男性の言語の中にいるようで、その実男性の言語を盗んで女性の言語として使うようになれば、既存の秩序はかき乱されるのです。私たちはこの文章を読んで、男性について非常に極端で限定的な表現をしていることに疑問を持ちました。これについての意見として、敢えて女性の言葉で男性について書く時に偏見に満ちた表現をすることで、女性たちが男性の言葉の中で書かれてきたことをやり返しているのではないかと言われました。

次に『バービー』についての分析をしました。この作品は、バービーたちの住むバービーランドから物語がスタートします。毎日楽しいガールズナイトを過ごしていたバービーが死を考えてしまったり、脚にセルライトができたり、ベタ足になってしまったりとショックなことが起こりそれを解消するために現実世界にいってバービーの持ち主に会いにいくことになります。バービーの現実世界への冒険に、なぜかついてきてしまったケンは現実世界で男性が中心となり生活しているのをみて興奮し、バービーより先にバービーランドに戻って改革をはじめます。バービーがバービーランドに戻ったときにはケンランドがつくられており、ほかのバービーたちはケンの洗脳によって本来の自分とは違う行動をしています。バービーは自分の持ち主と共にバービーランドを取り戻すためにバービーたちの洗脳を解いて、ケンの支配から脱しようと計画を立て遂にはケンからバービーランドを取り戻します。

この作品について、どのようにすればケンが上手くバービーランドで生きていくことができたのだろうかと疑問に思いました。そこでシクスーの理論を踏まえて考えると、ケンがケンの言葉でケンのことを語ることができなかったのが問題だったのではないでしょうか。ケンはバービーと現実世界に行った際に男性が中心となった社会を目にしてバービーランドでも改革をおこないます。その改革で行われていたことは、現実世界やバービーのしてきたことのまねごとでしかありませんでした。最終盤で、バービーはケンに「ケンについて」尋ねますがはっきりと答えることができません。我々の議論では、ケンが馬が好きなことをケンの言葉で主張すべきだったという意見が起こりましたが、まさにそういったことが今後バービーランドで行われていくことを望みます。

また、議論では深く話し合いませんでしたが、バービーランド自体がマテル社が作ったものであるということも重要な要素だと思っています。マテル社によって作られる際にバービーは女性が望む女性ではなく、男性が女性に押し付ける女性になっているようにみえます。バービーがケンと現実にいった時の服装が男性からは賞賛される一方、女性にはあまり良い顔をされていませんでした。バービーが現実にいく箇所はケンと共にいく場面と最後の婦人科にいく場面ですが、この2箇所のバービーの服装は大きく違っています。今後この作品について検討する際にはこの服装の違いにも着目をして分析をしたいと思います。

私はこのブログが、今年最後になります。1年間ブログを書いて、確実にゼミの内容を文章にすることになれましたし、ゼミでの学びがより身についたと感じます。

まだまだ今学期のゼミの活動は続きますが、1年間お疲れ様でした!

第9回 カニになるように何になるのか

10期生第9回ブログを担当します、中村美咲子です。

今回は、千葉雅也さんの『動きすぎてはいけない』の序章と1章について、秋尾さんに発表をしてもらい、映画『佐々木、イン、マイマイン』についての議論をおこないました。

『動きすぎてはいけない』では、ドゥルーズの提唱した生成変化という理論を主に取りあげており、このブログではそれについて説明をしたいと思います。

まず意味を持ちすぎる接続を避けるために生成変化がよいとされます。

この生成変化は、別のなにかになる、とも言い換えることができます。

これはカニになる例を用いて説明がされているのですが、これは、ロバート・デ・ニーロがある映画でカニのような歩き方をしたことを生成変化としてしています。ここでいわれていることは、生成変化は知覚しえない動作をしていること、そしてカニの分身としての特異なふるまいを得たということです。つまり、生成変化は、あるものに実際になるわけではなく、特定のものの性質を無自覚的に会得するようなことなのだと考えられます。生成変化がおこなわれることで、動きすぎで接続過剰な現状を切断することができるのです。

この生成変化の理論を用いて、映画『佐々木、イン、マイマイン』について議論をおこないました。まずこの映画は、売れない役者の石井悠二が高校の同級生の多田と再会して、佐々木という破天荒な同級生と過ごした高校時代を思い返していきます。

私たちは、主に佐々木コールという特徴的なシーンについてと悠二が再度役者として舞台に立つシーンについて議論し、悠二に生成変化が起こったかどうかを検討しました。

佐々木コールとは、「佐々木」「佐々木」とはやし立てるもので、そのコールが起こると佐々木はどこでも脱いで踊り出していました。このコールについて、コールが起こるから佐々木が脱いでいるのか、佐々木が脱ぐからコールが起こっているのか、悠二が考えます。つまり、佐々木は脱ぎたかったのか、それとも脱がされていたのかということです。これについて、最終的に佐々木は脱ぎたくて脱いでいたのだろうと考えたのではないかと思います。そして、この佐々木がやりたいことをやり続けるという特質を会得した悠二が役者をやることになるという生成変化がみられたと考えられます。

今回のブログは取りかかりが遅く、内容もかなり物足りないものになってしまいましたが、個人的に生成変化は面白いと感じているためもっと勉強しようと思いました。

最後までお読みくださりありがとうございました。

第11回 アウトプットをしたいならインプットからはじめよう3

9期生の阪口です。

春学期の第11回の内容を振り返っていきます!!!

書籍は『映画の理論』第7章台詞、著者はジークフリート・クラカウアーさんです。

キーワードは以下の3点!

・映像>サウンド/台詞

・同期化/非同期化

・並列法/対位法

【大論点】映画で音声(台詞)を扱う際に、考えなければいけないことは何か?

【結論】考えるべきことは2つある。

    ①サウンドと映像のそれぞれの役割。

    ②サウンドと映像とが特定の瞬間に同期される方法。

・映像>サウンド/台詞

クラカウアーさんは、映像とサウンド・台詞の、適切な関係は何かという問いに対し、映像に重きを置き、サウンド・台詞の比重を軽くすることで、映像をストーリーの主軸にするとよいと論じます。映像とサウンド・台詞は、均衡をとることはできないとも述べています。

・同期化/非同期化

映画における同期化/非同期化とは?

同期化:画面上で同期しているサウンドと映像とが現実の生でも同期していること

非同期化:現実では同時に生じていないサウンドと映像が、スクリーンでは同時に起こったように処理されること

・並列法/対位法

映画における並列法/対位法とは?

並列法:言葉と映像が類似した意味を表現していること

対位法:言葉と映像が別々の意味を担うこと

ここが本論のポイント!

「同期の4つのタイプから、映像が優位な場合は同期化が適切」

タイプⅠ 同期化並列法

タイプⅡ 同期化対位法

タイプⅢ 非同期化並列法

タイプⅣ 非同期化対位法

音声優位な場合は、タイプIからタイプⅣまでの方法で特別な効果は得られない。しかし、映像が優位な場合は「画面上で同期しているサウンドと映像とが現実の生でも同期していおり、言葉と映像が別々の意味を担う」同期化対位法で特別な効果が得られる!

といった感じでした!映画のメモを全然残しておらず、今回はここまでです…!すみません。

第9回 アウトプットをしたいならインプットからはじめよう2

9期生の阪口です。

マイケル・ライアンらの『Film Analysis 映画分析入門』第2部第10章「編集」を振り返っていきましょう!

キーワードは以下の4点!

・夢 ・無意識

・同一化 ・境界

【大論点】心理学的に見た映画とは何を表しているのか

【結論】映画とは起きて見る夢である

まず夢とは何なのか。

本書では、夢とは「感情を表現したイメージの連なりである」と述べます。無意識の「影の部分」にある恐怖と欲望が、夢の中では人物や行動や語りを伴うストーリーとして出現するそうです。

では、夢と映画の類似性とは何かというと、無意識を無関係な要素の中に隠している点難度そうです。

つまり、無意識を表出させるものが夢や映画だと本書では説明します。

映画における無意識は、構造や一貫性を持った別のもので表現しています!

今回は映画『羊たちの沈黙』を用いて、ジェーミーがなぜ女性の皮を着るのかをフロイトの精神分析の考え方から考察しました。その結果、女性の服を着るよりも女性の皮を切る方が女性のパロディになるからだと結論づけました。女性は皮でさえもジェンダー化されていることに対し、社会への皮肉が込められていると予測できます。

第7回 アウトプットをしたいならインプットからはじめよう1

9期生の阪口です。

今更ですが、春学期の第7回の内容を振り返っていきます!!!

マイケル・ライアンらの『Film Analysis 映画分析入門』第1部第3章「編集」を振り返っていきましょう!

キーワードは以下の2点!

・つなげる ・組み合わせる

【大論点】編集はどのような技術であるのか

【結論】編集とは、シークエンスの選択と組み合わせの技術である。

まず、映画における編集の役割とは何か、本書ではずばり「映画の話の一貫性を作る役割である」と述べています!

編集による語りや時間経過などの効果を持たせることで可能にしているみたいですね。

では、その編集による語りとは何を表しているのかというと、「原因と結果、動機と行為」なのだそうです。つまり、因果やつながりを強調するそうです。

因果やつながりを強調する編集には、「類似」「並行」「対照」「皮肉」といった技巧があります。類似を例に考えてみると、類似のショットはアイディアやアクションにおけるメタファー的なつながりを表し、非類似のショットはテーマのコントラストに焦点を当て、個人内の葛藤の強調といった様々な機能を持つそうです。

ここが本論のポイント!

モンタージュとは:

脈略はないが、観客に連想させる断片をつなげる編集を指す。組み合わせによって様々な意味を表す可能性があるよ!

映画は『エイリアン』を見ました!

猫の役割は何かを考えていったところ、猫は人間を異なり、守るべき従順な存在として映画で表現されているのではないかと話しました〜。

アフィニティによる連帯

第7回のブログを担当します、中村美咲子です。

今週は、ダナ・ハラウェイの『猿と女とサイボーグ』から「サイボーグ宣言」について学びました。そして、後半では映画『オーシャンズ8』の分析を行いました。

「サイボーグ宣言」に述べられていることを端的にいえば、我々はサイボーグであるということです。サイボーグとは、おそらく多くの人が思いつくそのまま、機械と生体の2つの特徴を兼ね備えた存在です。そして、この2つの特徴の境界をあいまいにすることで脱構築がおこなわれます。さて、我々がサイボーグであるというのはどういうことでしょうか。ここでは、サイボーグの機械と生体という特徴を「人工」と「自然」という二項対立的なものとして、このような二項対立がさまざまな世界に棲んでおりもちろん我々人間もその二項対立とみられる2つの要素を兼ね備えた存在で、サイボーグ同様に脱構築が可能なのです。

ハラウェイは、さらに再構築も可能であるといいます。そこでは今まで信じられてきた資本主義や家父長制によってつくられてきたアイデンティティによる連帯ではなく、アフィニティを介した連携を考えることを推奨しています。まず、今まで信じられてきた資本主義や家父長制は、ジェンダーや階級、人種などの階層的な二項対立を生み出してきました。これらは、自然なものとして信じられてきています。けれども、それは搾取の構造であって当然自然なものではありません。このような人為的に生まれたアイデンティティによる紐帯には限界があります。なぜなら、アイデンティティの断片化が起こっているからです。つまり、特定の1つのアイデンティティのみで構築されている存在はおらず、我々はいくつものアイデンティティを有しています。このように複数のアイデンティティで構築されることから、ある1つのアイデンティティでは、安定した連帯を築くことができません。そこで、アフィニティによる連帯が検討されます。アフィニティは、血縁によらず自己の選択によって繋がるということで、既存の二項対立的思想を生み出したさまざまな制度に対抗する方法なのだと考えられます。

ここからは、『オーシャンズ8』の分析です。『オーシャンズ8』は、主人公のダニーが刑務所から出所する場面からはじまり、女性のみの犯罪集団で1億5000万ドルのダイヤのネックレスを盗み出すことで巨額の報酬を得て物語が終結します。この作品において、特筆すべき点はやはり女性のみで盗みをおこなうという点です。ダニーによって集められた6人の女性たちは、さまざまな犯罪に必要な技術をもっており彼女たちは無事に作戦を成功させます。この『オーシャンズ8』を「サイボーグ宣言」を踏まえて分析を行うと、彼女たちの紐帯は女性のみであるという点ではアフィニティといえるが、資本主義の制度に対抗するわけではないという結論が出されました。理由としては、彼女たちの中に一定程度の差別意識が見られることと、儲けたお金で資本主義社会に巻き込まれる形で物語が終わることが挙げられます。彼女たちが計画のメンバーを集める際に人種における差別や偏見に似た表現を感じることがありました。それは、ハッキングやスリといった明確な犯罪をおこなうのが西欧人ではないことや、ロシア人がハッカーであるという職業と人種が結びつくような発言などです。また、多くの女性はダイヤを売却して得るお金が目的で計画に参加します。そして、得たお金で望んだ生活を手に入れていくのだと考えられます。彼女たちは資本主義国家において、社会を変化させるわけではなくその社会でうまく生きるすべを模索するだけなのです。この2つの点から、彼女たちの関係を完全なるアフィニティだということはできませんでした。

最後までお読みくださりありがとうございました。