9期生第8回「白井はカーニヴァルへと赴いた」

こんにちは!

今回のブログを担当する白井です。今回の授業後、緑黄色社会のライブに行ってきました。

おかげで授業の記憶が気持ちよく塗り替えられてしまっています。

それでは早速

『シライの日常』という漫画があったとして、物語内のシライがブログを書いているとします。

そんなとき「明日のゼミの文章読み切れてないから、ブログ書かずに逃げちゃってもいいかな?みんなはどう思う?」と漫画の枠を超えて読者に向けて言っちゃったとします。

これがメタ発言。

そんな発言をしちゃったとしても、

「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ! -やります 僕が書きます!」とシライの心が叫んでいる。

これが間テクスト性。      

※この物語はフィクションです

これで第8回の半分を書き終えたようなものです。

自己紹介が苦手なので、挨拶はここらへんにして、お二人のレジュメを頼りにしっかり書き上げていきたいと思います。

前座

授業内容に入る前に前座!

前座はヤンさんでした。ヤンさんはミュージカルが好み。

そんなヤンさんが紹介してくれたのは『イン・ザ・ハイツ』です!

『イン・ザ・ハイツ』は移民をテーマとしたミュージカル映画だそうです。

どうやらミュージカル版『イン・ザ・ハイツ』があるようで、そこから今回紹介してくれた映画版『イン・ザ・ハイツ』が生まれたみたいです。単純に映像美的な面でも面白いそうですが、ストーリー的にも面白いそうです。

自分は見たことがないのですが、温かさとパワーで溢れる映画なのかなと前座を聞いていて思いました。休暇中に見てみたいと思います!

3限

「間テクスト性」

文学テクストとは、常に先行する文学テクストから何らかの影響を受けており、孤立しているものは存在しない→そのテクストと他の文学との間にある関係性=間テクスト性

ジュリア・クリステヴァによると、あらゆるテクストは他のテクストを吸収し変形したものとされます。そして、作品のなかで作者は、先行作品について言及したり、意識的、あるいは無意識のうちにそれについて仄めかしたりします。

『フランケンシュタイン』における関テクスト性を少し確認してみましょう。

作者メアリーに身近の作品の内容や人物像と物語の構成で共通点がみられます。

たとえば、『アラスター』(1816)・ピグマリオン伝説・ファウスト伝説は主人公フランケンシュタインの人物像の原型と考えられるようです。

また『ドン・キホーテ』(1615)は社会から離れることで生まれる悲劇的破局へと向かう点で共通しているようです。

間テクスト性は絵画など他の芸術作品にも現れます。つまり、先行するテクストは文学作品には留まりません。

例として絵画「夢魔」があげられているのですが、苦戦しました。エリザベスが殺害されたシーンを読めば、「夢魔」が浮かんでくるそうなのですが、「夢魔」との関わりが薄い私たちにとって理解しづらい部分。その意味で間テクスト性においてやはり読者が重要となるのだと実感しました。

読者が「夢魔」がどのような絵であるかを社会や思想的な位置づけのレベルで認識している必要があり、同時にそれを読み解かなければこの「夢魔」の間テクスト性を理解しきれません。

そう考えると、「夢魔」が間テクスト性を備えているのではなく、「夢魔」に対する認識にこそ間テクスト性があるのではないでしょうか。

「メタフィクション」

メタフィクションとは語り手が前面にきて読者に向かって、「語り」自体について口上を述べるような小説。もちろん小説にかぎらず創作物全般に当てはまります。

『フランケンシュタイン』におけるメタフィクションをみていきましょう!

と言いたいところですが、『フランケンシュタイン』は枠物語の形式をとっているものの、厳密にいえばメタフィクションではないです。

しかしメタフィクション的な要素はみられます。

まず「語りについての語り」です。フランケンシュタインの語りを包括しているウォルトンの語りにおいて、編集方式や語りに対する言及があります。手紙を書くウォルトンが、どんな状況で書いているのかをウォルトン自身が説明してくれているということです。

次に「真実と語りとの距離」です。読者が目にするフランケンシュタインの物語はフランケンシュタイン→ウォルトン→フランケンシュタインという順番でテクストに手を加えられたものです。つまりウォルトンによる編集版とフランケンシュタインによる修正版が存在し、真実にいくつものフィルターがかけられてしまっています。

このように真実と語りには距離があり、これらによって物語があくまでもフィクションであることを暗示しています。

ではメタフィクションとは?

メタフィクションはジュラ―ル・ジュネットの理論で言い換えるならば「転説法」です。

転説法とはメタフィクション!

転説法の説明通りにいえば、語り手(および聴き手)が位置づけられる世界と物語世界(水準)との関係を扱うものを語りの水準といいますが、その語りの水準の境界を侵犯して登場人物が語ることを指します。

劇場版名探偵コナン『迷宮の十字路』のOP説明には明らかな転説法が使われているらしく、服部と和葉が言い合っている中で

和葉「アホは あんたやん 誰に向かって しゃべってんの?」

それに対して服部「誰って お前… 見てるみんなに 分かりやすう しゃべってんやないかい」と発言します。

この流れの中で服部は誰に向けて話しているでしょうか?

正解は和葉!

だけではないです。

そうです、和葉だけではなくこの映画をみている観客に向けても話しています。

プリキュアの映画もかなりメタフィクションのようです。

劇場で応援ライト(ミラクルライト)を受け取るらしく、プリキュアがピンチに陥ると、「プリキュアに力を!」や「ミラクルライトで応援して!」とプリキュアが観客に呼びかけるようです。

このメタ発言を受け取った観客は、ライトを振りながら全力で応援するわけです。

楽しそうですよね。

しかしここで問題が発生。

なんと、ライトが貰えるのは中学生以下らしく、ライトを受け取れない大人たちは全力で心の中で応援するそうです。

ライトが無くても心でつながっているなんてカッコ良いっす!

それでも必要だと思う人は自前のライトを用意して臨むそうです。覚悟が違いますね。

この話は置いておいて、

メタフィクション全体に関わる問題があります。それは「メタフィクションが興醒めな効果を持ってしまわないか?」ということです。

メタフィクションは物語の世界を侵犯して、語りかけてくることがあるために、そのフィクションの捉え方が良い意味でも悪い意味でも変化します。

個人の解釈が伴う部分であり、一概には言えませんがプリキュアのようなタイプの作品であれば問題がないのではないかと思います。

プリキュアのような状況だったら、呼びかけに応じてフィクション世界の一人としてプリキュアを応援しているかたちになり、他人事ではなくなります。このとき、より一層プリキュアと観客の心は通じ合うのではないでしょうか。(もはやプリキュアの一員まである)

メタフィクションが受け入れられるかどうかは作品の雰囲気にもよるかもしれないです。

3限はここらへんにしておきます。

4限

4限はジュリア・クリステヴァ『セメイオチケ1』です。セメイオチケとはギリシア語で「記号論」という意味になるようです。

クリステヴァはバフチンを褒めまくります。

そして次にクリステヴァは「言葉のあり方」という概念を導入して、「相互テクスト性」という考え方を提唱します。

「言葉のあり方」とは、以下のように定義できます。

まず水平的にみれば、テクストにおける言葉は、書く主体とその受け手との両方に属しています。

次に垂直的にみれば、テクストにおける言葉は、それに先立つあるいは同時点の文字資料の全体へと向けられています。

テクスト上の言葉は、「共時的」に見れば作者と読者それぞれの解釈があり、「通時的」に見れば他の様々なテクストと相互に影響を及ぼしあっているということです。

「作者」と「読み手」の間で、「先行するテクスト」と「テクスト」の間で、それぞれ相互作用によってテクスト上の言葉は理解されていきます。そしてこの部分に「対話」が存在しています。

その相互作用では、相反する考え方や価値観がテクスト空間の中で共存し(どれも排除されない)、対立しながらも相互に影響を与えています。

これについて発表者の高橋さんがナイスな例をあげてくれています。

「人生はチョコレートの箱のようなもの。開けてみるまでは何が入っているかわからない」で有名な映画『フォレスト・ガンプ』の解釈です。

知能の低い少年の人生を温かく描いた、すべての人間を応援する優しい映画⇔反知性主義的で国を疑わない白人男性の主人公を描いた白人至上主義映画

というように

これらは相反する解釈なのですが、相反する考え方や価値観がテクスト空間の中で共存し、対立しながらも相互に影響を与えるからこそ、生まれる解釈でもあります。

「作者」と「読み手」の間

「先行するコンテクスト」と「テクスト」の間

この2つの軸がそれぞれで「対話」あるいは「対立するものの併存」が起きているのであれば、0から生み出されたテクストなんてものは存在せず、あらゆるテクストは何らかのテクストから影響を受けています。

「詩の言葉は、多面的な結合が可能であり、多面的に決定されていることによって、コード化された言説(ディスクール)の論理を凌駕する論理に従っている。」

その論理を研究するためにバフチンはカーニヴァルへと赴いた。

カーニヴァル?カーニヴァルとはなんでしょうか?

カーニヴァルの規範は「通常」の生の規範と対立します。カーニヴァルに投げ込まれたとき、それまでの通常世界の秩序に適合して「正しく」生きてきた人間は従うべき「正しさ」を失います。無秩序が秩序らしいです。

つまりカーニヴァル世界において、通常世界の構築された生の規範は通用せず、身分や宗教観、価値観など異なる人々と同じ空間で接触、すなわち、対話するということです。

文法や意味によって厳しく拘束された一義的な法則や「認識」といったものを凌駕するためにはダイアローグ的・多義的な論理が必要となるわけですが、バフチンは「対話」が絶えず行われる「カーニヴァル」を最適な場として考えたのではないか、ということでした。

カーニヴァル内では、文法と意味によって厳しく拘束された言語を支配する法則を破っています。それによって社会的、政治的異議申し立てなっているのではないかと考えられます。

このように多様な声がぶつかり合うカーニヴァルは、決まりきった言説を転覆させる場として最適だったのでしょう。

話が変わります。

「言葉のあり方」という概念を用いたことで、言葉が「対話を交わしている」あるいは「対立しながら併存している」要素の集合として三つの次元(主体—受け手―コンテクスト)において機能しています。

そうして言葉の特有の働きを記述するためには「言語学を超えた言語研究の方法」が必要となります。

その方法は以下の通り。

  • 文学のジャンルを、「言語の下にあるが、かならず言語とともに意味を表す」という不純な記号体系として捉えること
  • 言説の大きな単位、つまり文、応答、対話などによっておこなわれる操作・意味論の拡張という原理によって根拠が与えられる操作

ここから、文学のジャンルの進化はいずれも、言語構造をさまざまなレヴェルで無意識のうちに外在化することである」という仮説が立てられます。

文学ジャンルや表現の仕方は、時代や文化によって変化していきます。

ここでも高橋さんのナイスな例があげられています。

文体が変化したり、「ヤバい」「エモい」などの新しい言葉が使われるようになったりしますが、そうした言語構造の変化を、文学はとても「自然に」(無意識のうちに)取り入れています。

そして小説は、とくに言語に内在する対話を外に表わしています。

言葉に内在する対話(ダイアローグ)とは何なのか?

バフチンにとっては「対話」と「独話」の区分がフォルマリストたちの区分(直接話法が「独話」、間接話法が「対話」)のようなシンプルなものではないようです。

物語の中の独話的な一人称の独り言であったとしても、読者は作品全体や当時の社会全体の文脈のなかでその言葉を理解するので対話的。

一方で、物語の中の他者との対話的なコミュニケーションでも、その中の一人の視点・捉え方でのみ、そのコミュニケーションが描かれてしまったら独話的。

その意味でバフチンは完全な独話・対話は存在しないと訴えているようです。

バフチンによると対話関係が言語活動それ自体に内在しているようです。

言葉というものは一人の思考や表現から成立するものではなく、常に他者とのコミュニケーションによって成立します。その言葉を扱うのが言語活動であるために、対話が内在していると考えられるのでしょう。

バフチンの想定する対話関係は、主体性としてと同時にコミュニケーションの可能性としてのエクリチュール(書かれたもの)、すなわち、「間テクスト性」としてのエクリチュール(書かれたもの)です。

このような対立関係に突き合わせるとき、「個人=エクリチュールの主体」という考えは明確さを失いはじめ、もうひとつの考え、すなわち「エクリチュールにある対立するものの併存」という考えに場を譲り渡します。

本来エクリチュールというものは、単に書かれたものであり、主体=個人が使っているように思えるエクリチュールであっても、他者からの言語を使っています。

この考えに基づけば、

「作者」と「読み手」の間、「先行するコンテクスト」と「テクスト」の間という併存につながるのではないでしょうか。ここ自信ないです。

ここからは余談です。

白井はカーニヴァルへと赴いた。

カーニヴァル?カーニヴァルとはなんでしょうか?

ゼミの議論でもあがったのですが、社会学者のデュルケームが提唱した「集合的沸騰論」がカーニヴァルに似ているということでした。

集合的沸騰論は、緩んでしまったつながりを祭事によって改めてつなげ直すという考えです。お祭りにかぎらず、音楽ライブやスポーツ観戦なども集合的沸騰に当てはまります。

一方で、カーニヴァルは先述したように、通常規範から逸脱し無秩序世界の中での対話が行われる場です。

というわけなのですが

音楽ライブというカーニヴァルに投げ込まれた白井は、「正しさ」なんてものは失い、無秩序の中で対話していた気がします。

もうこれは、「白井はカーニヴァルへ赴いた。」と言ってしまっていいのでは?

これが言いたいだけのタイトルです。

タイトルを決めるのって難しいですよね?自分だけですかね……

作品とか商品とかってタイトルだけで大分印象変わっちゃうと思っています。

タイトルだけで引かれちゃうやつありますよね、惹かれちゃうやつもありますよね、特に知らない人からしたら。

カーニヴァルから帰還した白井は記憶が定かではありません。もちろんライブは素敵でした。

お二人のレジュメに助けられました。ありがとうございます。

第8回は以上です。ありがとうございました。

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