2年ゼミ第9回「乱れても変わらない日本語力」

こんにちは、第9回ブログ担当の木川です。

流れ的にまずは名前の話から始めようと思います。木川という名字ですが、濁点をつけて読むのかどうかと聞かれることが多いのです。私の木川は「きがわ」と濁点をつけて読みます。濁点をつけるかつけないかは、名字を作った人のこだわりなのでしょうか?名字について全然知らないので、気になるところではあります。ですが濁点をつけるかつけないか、どちらかで統一していただけると、私自身も迷わず読めるのでいいな~と勝手に思っています。

では、授業内容に入ります。

1. 前座

今回の前座は、坂入夏さんです。

最近のK-POPの良さから、ジェンダーやルッキズム問題まで様々な視点でK-POPを紹介してくれました。最近のK-POP では、作詞作曲をアイドル自らがしたり、アルバムのプロデュースをしていて、本人たちのメッセージがファンにより伝わりやすくなっているそうです。またK-POPアイドルといえば、その素晴らしい容姿に憧れを抱いている方も多いのではないでしょうか?ですが、この容姿のためには体重制限や男性らしさの押し付けがあり、これらが本人たちを苦しめてしまっているのではないかとのことです。K-POPの良さを知るだけでなく、勉強にもなるお話でした!

2. レポートの構成発表

1人目は、竹本光さんです。

竹本さんのテーマは「映画やドラマにおける登場人物の人数」で、この登場人物の人数とは総計の人数ではなく、場面ごとの人数とのことです。「ホームアローン」であれば、なぜ泥棒は2人だったのか?「花より男子」であれば、なぜF4は4人組だったのか?などなど。たくさんある作品から、どんなジャンルで、どの視点から分析するのでしょうか。とても面白いテーマです!

2人目は、齋藤穂花さんです。

齋藤さんは「ポプテピピック」と「ポケモン」の二つの作品で迷っているとのことでした。「ポプテピピック」では、どうして竹書房は爆破されたのか?というテーマ。「ポケモン」では、悪役の質の変容についてというテーマでした。どちらも面白そうなテーマですが、「ポケモン」の方が取り組みやすいのでは?という意見があり、「ポケモン」を推す声が多かったです。齋藤さんはどちらを選ぶのでしょうか?楽しみです!

3. リアクションペーパーに対する応答

今回もみなさんの素晴らしいリアぺがてんこ盛りでした。その中でも、ジェンダーの話が盛り上がりました。コスプレにもステレオタイプがあり、女装にも色々あるのではないかということや、同性カップルなどLGBTQに対して、社会によって享受の仕方が違うことなど。実際にオランダではどう享受されているかを聞き、日本との違いを感じました。このような違いは、作品への影響があるのではないかという話にもなりました。今回も新たな発見ができた時間でした!

4. 課題文「日本語は乱れているのか」に関する宿題の解答

課題の答え合わせをしながら、文章の構造について学びました。この課題文の第3章は反論が多くなってくる部分なので、事例をたくさん用意する必要があり長くなっています。事例を分厚くすることで、説得させるとのことです。ですが、このように文章が長くなってくると、読むのが大変になってきますよね?(私はなります笑)そこで、論文を構造から読み解くという方法があります。構造から要素を取り出すように読むことで、すっきりして見えるようになるのです。そのため論文が読みやすくなり、量も読めるようになります。私みたいな活字が苦手な方にも、論文が読みやすくなる!というおすすめの方法です。これからはこの読み方で頑張ります…!

5. 批評理論の学習4:ジャック・デリダ「脱構築」

ジャック・デリダはアルジェリア出身で、中心地の出身ではないことが重要です。そんなジャック・デリダは、脱構築という新たな概念を立ち上げました。脱構築とは、Aの中にB的な要素があり、AだかBだかぐちゃっとした状態にすることです。そのため、AとBは対立しないことになります。この具体的な事例は来週となりました。

以上が第9回の授業となります。

今回初めてブログを書いてみて、自由だからこそ文章力が問われている気がしましたね。みなさんのブログが面白すぎて、日本語が下手と言われてきた私ですが、人を惹きつけられるような文章を書けるようになりたい!と思ったり。(あぁレポートも頑張らないと…)

長くなりましたが読んでくださり、ありがとうございました!それでは~。

7期生ブログ第18回『現実逃避?いや、現実と戦うためのパワーチャージだ』

12月2日(木)のゼミでは、オリエンタリズム研究の題材として、ソフィア・コッポラ監督の「ロスト・イン・トーキョー」を扱った。この作品は、家庭や仕事について悩みを抱えているアメリカ人の男女2人がそれぞれ東京のホテルに宿泊し、言語や文化もわからない孤独の中で出会い、交流を深める筋書きだ。

そもそもオリエンタリズムにおいて、西欧の男性はアジアの女性を肉感的でエロチックな存在であると規定し、それとは対照的な自分を理性的な人間だと確立する。つまり、他者を規定することによって、それとは違う自分を初めて確立できるようになるのだ。本作で、物語の前半で精神的に日本から疎外されていたアメリカ人である2人が、後半にいくにつれ自らを取り戻せたことは、人を疎外されている人とされていない人に分けるのではなく、アメリカ人、日本人といった人種では他者を規定できないのだという考えにシフトできたことが要因ではないかと考える。その根拠は2人が東京の夜の街で様々な言語を使う人と会話、交流をしたことや、他のアメリカ人、ドイツ人のような白人が近くにいてもそこには馴染もうとしなかったことなどが挙げられる。単なる彼ら2人と日本人との対比構造ではなく、様々な人種の人間が作品には出てきて、その中には彼らと同じアメリカ人もいたのに彼らは異国の地で心を通いあわせることはなかった。

2人の主人公−−−−−−シャーロットとボブは、何もオリエンタルな枠組みからのみ脱出した訳ではない。彼らは様々な面で疎外を感じていたし、そのたび孤独を感じてもいた。シャーロットが東京に来たのはフォトグラファーである旦那さんの付き添いであるが、自身は物書きを目指しているがまだ芽は出ていない。そんな夫との関係にも違和感を感じていた。だが東京で高尚な神社や花道に全く何も感じなかったがアングラカルチャーに自ら飛び込み楽しんだ経験により、夫からはお高くとまっていると言われていたシャーロットはこれから旦那さんのカルチャーをフラットに見ることができるかもしれない。もう1人の主人公、ボブは俳優だが最盛期は過ぎ、日本のCMには出演するものの、本国での俳優としての活動は思うようにいかなくなっていた。そして結婚して長い妻との関係にも倦んでいた。普段の夫や俳優という属性が東京という地でアンロックされることを彼は望んでいたのかもしれない。アメリカ人のファンに対応を求められた時、遠慮して引く態度をとったことも関係があるだろう。2人は同郷なのだからアメリカに帰っても交流を続けようと思えばできたはずだがそうはなりそうになく、2人の関係は東京の地でだけ成り立つものだ。それはお互いにとってお互いが非日常でなければその地で得たもの、感じたことが無駄になってしまうからで、もしアメリカで出会ったとしたらこのマジックはかからなかった。

物語のはじめ、男性主人公のボブがタクシーから東京の街を眺めるとき、その目は目新しい景色に泳ぎ、戸惑っていた。しかし、ラストシーンでアメリカに帰る際に乗ったタクシーからは、落ち着いた眼差しで東京の街を眺めていた。他者と自分の規定が変わったことで、彼らの見ている世界は変わった。今見ている現実は自分の見方によって変わるということを知った彼らは、アメリカでの普段の生活に戻った時、それまでとは違うようにそれらを見ることができるだろうし、自ずと家族や仕事とも向き合うことができるようになるだろう。

非日常は私たちの世界の見方を時に変えてくれる大切なものだ。だからこそ日々に疲れた時はフィクションの世界に浸ったり、旅に出ることは悪くないと思う。そこで世界と自分に対する、自らの先入観を捨て、元の現実と戦うパワーを身につけて帰ってくることができるかもしれないから。

(最後になりましたが、先日の無用之用さんでのイベントに来てくださった皆様、ありがとうございました。たくさんの人が来てくださって、お話できてとっても楽しかったです。また、一緒に店長をした徳村さん、機会を与えてくださった先生もありがとうございました。本来なら何か企画をするべきだったのに、私の力不足でできなくてごめんなさい。でもやって良かったと思います。今回来られなかった皆様も、無用之用さんはとっても素敵な本屋さんで売られている林檎も美味しいので機会がありましたらぜひ立ち寄ってみてくださいね。私も林檎をたまに買いに行くつもりです。)

村上菜々子

2年ゼミ第8回「天才の思考の片鱗に触れる喜びを噛みしめる時、自分もまた天才になったと錯覚してしまう」

今回、第8回のブログを書かせていただく形部龍之介です。ここまで同じゼミに参加されてる皆さんにはぜひルビなしで読んでいただきたいと思います。名前について触れることが定例となっているらしいので触れておくと、この名前(特に苗字)を初見で読める人はあまりいないと思います。ついでに書き間違えもよく起こります。形部が刑部になっているなんてことはよくありますね。前置きはこのくらいにして授業の内容を振り返るところから始めます。

  • レポートの構想発表

 一人目は自分でしたので感想を込みで話させていただきたいと思います。自分がテーマとして取り上げたのは「宇宙よりも遠い場所」という作品です。女子高生が南極を目指すという結構びっくりするような設定のものですが、設定だけでなく話も作りこまれていてとても面白い作品であり、2018年の覇権アニメであると個人的に思っています。(覇権アニメの話をすると大概もめるので個人の感想にとどめておきます)いろんな意見を聞き、自分の頭で考えるだけでは限界があると感じました。発表後に気づいたのですが、作品を分析し発表するということは、ネタバレをしてしまうということになります。素晴らしい作品なのでネタバレをしたくないという思いとレポートで扱いたいと思う気持ちのジレンマはいかんともしがたいですね。

 二人目の発表者は佐藤舞さんでした。女児向けアニメであるプリパラを分析するという非常に興味深い内容になっていました。プリパラという作品は年齢や性別に関係なくアイドルになれる空間が存在するという世界観のもので、作品の内容自体もとても興味深いものであると感じます。近年の女児向けアニメは、いろんな価値観が反映されているように思います。プリキュアを例に挙げると、男の子だってプリキュアになっていいんだと肯定するシーンがあってからの男性プリキュアの誕生、出産するプリキュアなど社会性が反映されることが珍しくなくなってきているように感じます。プリパラというアニメもそういう意味で非常に興味深い分析対象だと感じます。レポートの発表が楽しみですね。

  • リアクションペーパーに対する応答

 今回のリアクションペーパーに対する応答をもってして、ようやくバルトの「作者の死」の内容が完了しました。何回もかけて読み解かねばならないような内容のものをゼロから生み出したロラン・バルトという人物の天才性に彼のテクストを読み解くことでふれられたことを非常に幸せにすら感じます。応答の中で出てきたローマン・ヤコブソンの日常言語においては不足なくメッセージが共有されるということは従属関係があるのだという考え方も自分の中には到底ない考え方でした。大学で学ぶ理論などはどれも天才が考えたものであると感じます。天才の思考に頭をぐちゃぐちゃにかき乱されながら、自分の考えが組み替えられ、成熟していく。その過程を楽しめる人間になりたいと感じました。

  • 論文の書き方の学習:パラグラフライティング

ここで、今までの文章とは趣向を変えてみようと思います。

題「つめる」

 期末レポートの文字数を聞いた時、おもわず笑いが込み上げた。8000字というその分量は今までほかの授業で課されてきた文字数の4倍近くにあたるものだったからだ。取り組み始めないことには終わりは来ないので、テーマを選び、課題に沿ってレポートの大きな流れをぼんやりと固めた。しかしまだ8000字という文字数は途方もないものに感じていた。             

そんな気持ちとは関係なく時間は過ぎていく。最近一気に冷え込んできたからか、いろんなことが不安に感じる。授業が8講まで進んでいるという事実もまた不安を掻き立てる材料にしかならないのだ。今日の講義はパラグラフライティングを扱うものであった。論文の書き方を示されるたびに、レポートの進捗がないことが良くないことのような気がして、気分がより一層沈んでいく。

だが、落ち込んでいても腹は減るものである。授業が終わって帰ればもう夕飯時だ。その夜は、自分の胃と相談した結果ピーマンの肉詰めを作ることにした。材料を買って帰り、玉ねぎを刻み、肉と混ぜて肉だねを完成させた。肉詰めの作業の一番手間なところは肉を詰めることである。ところが、悩みがある日は無心で肉を詰める時間が悩みを忘れさせてくれる。

黙々と無心で肉だねを詰めているとき、この作業はパラグラフライティングに近い作業なのではないかと感じた。そのまま焼いてもハンバーグとして成立するであろう肉だねを、ピーマンというアウトラインの中に詰めていく。共通項を見出すことでピーマンの肉詰めと論文が似たものであるかのように感じた。そう考えると何も難しいことはない。8000字という文字数であろうとやることはピーマンの肉詰めと変わらないんだから。

気分も晴れやかになり、おいしくできたピーマンの肉詰めを食べて腹も満たされた。不安なんてもうない。さて、レポートの内容をつめていかなくては。

  • 最後に

 内藤まりこゼミがもともと小説を書くゼミだったと聞いて、授業内容を踏まえつつ何か書けないかと考えた結果が先ほどの文章です。フィクションなのでピーマンの肉詰めは実際には作ってません。登場人物が独りで会話がないと難しいですね。つたない文章ですが読んでいただけたならありがたいです。もう2000字以上書いているみたいですが、意外と楽に書けたので8000字も案外すぐなのかもしれませんね。これにて今回のブログを示させてもらいます。最後まで読んでくださりありがとうございました。

2年ゼミ第7回「最後わかるかな」

 こんにちは、こんばんは。第7回を担当します、石橋と申します。ぶりじすとんです。以上です。残念ながら私はこれ以上特に名前のお話はしません。楽しみにされていた方ごめんなさい、次回以降の担当者さんにこうご期待ですね。その代わり、今回は先生が過去に受け持っていた日本語表現という授業のとある学生さんのお話を共有しようと思います。(ここからは学生さんを〇さんと呼びます)

 〇さんの最終レポートテーマは「なぜクリスマスはカップルのものなのか」について。日本に浸透している、「クリスマスは恋人たちのもの」という認識に怒り心頭だったようです。確かに、日本ってクリスマス≒恋人と過ごす日っていう認識が強いですよね。(私はただただ美味しいものを食べまくっていい日と認識しています。)〇さんはそんな普遍的な現象に疑問を呈したわけです。そしてなんと!そのアプローチ方法が…明治期から直近までのクリスマスに関する新聞記事を全部読むことでした!熱量が凄い(笑)!その研究の結果、〇さんは大発見をしました。クリスマスは以下のように変遷していたのです。

クリスチャンたちが讃美歌を歌う程度のもの→(一般の人にも広がる)→おじさんたちが吞みまくってどぶに落ちるようになる→おじさんだけでなく家族やみんなでワイワイするイベントへ→(バブル期突入)→恋人たちのものに…

そう、”恋人たちのクリスマス”はバブル期以降に突然できたものだったのです!

すごくないですか?!先生曰く、普遍的な現象ほど証明・分析することって難しいようなのです。だからできる限り対象を絞る。でも〇さんは当時1年生にして「大量の新聞記事を読みまくる」(ちなみに新聞の後雑誌も読み漁ってます)という圧倒的熱量でその壁を越えていったのです。私は〇さんのこの熱量をとても面白いと感じました。皆さんはいかがでしょうか?まあ、機会があったら感想教えてください。とりあえず今回の前置きはここらで切り上げて本題に入りたいと思います。では早速、走吧!

1,レポートの構想発表

1人目:大胡田さん

今回のレポート発表でトップバッターを務めたのは、前回発表予定だった大胡田さんです。大胡田さんが扱う作品は、谷崎潤一郎の『細雪』。当時の結婚規範や女性に対する価値観が本作品においてどのように表現されているのか、といった観点からアプローチを試みるようです。実は、本作品はは戦時中に軍部から「内容が戦時にそぐわない」と掲載が取りやめられた作品だったようで、初めはこれをテーマに持ってこようとして選んだのだそうです。こっちもなかなか興味深そうな問いですよね。素敵な作品チョイスだと思います!

2人目:坂入さん

続いての発表者は第五回のブログを担当してくれた坂入さん。扱う内容は「匿名性の高い作者と作品の関係」についてで、前回前々回に取り上げたドランバルト『作者の死』から着想したみたいです。ここでの匿名性の高い作者というのは、ネット小説の作者や性別明かさないアーティストといった情報の流出が極端に少ない作り手のことです。話題の渦中のバンクシーもそうですね。「匿名性の高い作者の作品がなぜ受け入れられるのか」という問いをテーマにしたいと考えているようですが難易度の高い問いのためまだ少しお悩み中のご様子でした。頑張って!!

3人目:松島さん

3人目の松島さんはリモートでパワポを使って発表してくれました。自身の大好きな「美女と野獣」か「シンデレラ」を扱いたいと考えているようです。ただ、「まだテーマが決まっておらず皆のアイデアを聞いてみたい!」とのことだったので数人のメンバーがアイデアを挙げてくれました。「シンデレラ2」「シンデレラ3」の存在を含めた様々なアイデアと情報が出てきました。松島さん、選び放題ですね。どんなテーマにされるのか、楽しみです!!!

2,リアクションペーパーに対する応答

今回もたくさんほほう確かに~となるリアクションペーパーが紹介されました。そこでここではみんなの考えとそれへの先生の応答を一部抜粋してQ&A形式で紹介していきます。

Q作者は単なる文字の媒介者ではないためエクリチュールには作者の価値観が少しは入っているのでは?

Aもちろんです。作者の価値観は入っています。ただ、十全に作者の言いたいことが反映されているわけではなく、他のものも入り込んでいます。ここにバルトは注目し、これを用いて作者最強という見方を弱めたかったのだと思われます。

Q作者側の人々は自身の書く文章が読者を通して広がり様々な解釈がされることを望んでいたのではないだろうか。それゆえに、作品の解釈が作者に帰結される事態が生じたときバルトは作者の死を願ったのではなかろうか。

Aとてもなるほどと思います。実際、今の作曲家・写真家・作家といった作者側の方々のお話を聞いても「作品が自分の手を離れた時点でそれはもう自分のものではない。むしろ読者が自分の予想もしないような解釈をどんどんしていってくれる方が喜ばしい」と言う方が多くいらっしゃいますね。

Q引用の織物とは意識・無意識に関係なく今まで見聞きしてきたものの反映に過ぎないのかなと思った。

Aまさにその通りです。ロ二・ホーンの展示はまさしくこの点に関して、私たちがどれほど多様なものを見聞きしていてかつそれを取り込んでいることに気が付いていないのか、ということを明らかにしてくれます。

などなど、色々なリアクションが見られました。皆さんとても熱心に学習されているのが伝わります。次回も楽しみですね。

3,批評理論の学習4:ジャック・デリダ「脱構築」

…の予定だったのですが、時間が無くなってしまったためできませんでした。残念!

4,次週までの課題の案内

今回はアウトラインの作成が課題です。ポイントは題目は問いのかたちで書くこととできるところまで埋めること。アウトラインはver1,2,3…と消さずに更新していくことで俯瞰的な視点を失いにくくできます。ここからver何まで作ることになるのか…根気強く頑張りましょう。

さて、今回の内容はこれで以上となります。こういったものを書いた経験がなかったため拙い文章だったとは思いますが、最後までお読みいただきありがとうございました。見聞きしたことを文字に起こすのってとても大変な作業なんですね。勉強になりました。また誰かのブログで登場すると思うので…その時まで、しばしの別れ!

7期生ブログ第16回『ずれ上等!!!!!!』

「サザエさん時空」って知ってますか?

春夏秋冬はあるけれど、1年がすぎても彼らが歳をとったり、急激に状況が変わったりすることはないような時間の流れのことです。特に長寿アニメに多くて、サザエさんの他にも、名探偵コナンや、ドラえもん、クレヨンしんちゃんなどに当てはまります。キャラクターは確固たるアイデンティティーを持っているし、それが変わることもありません。

しかし、私たちが住んでいる世界は、時間が流れゆき、決して止まることはないですよね。今自分が見ている世界が全てではないし、今見ているものは、明日には姿を変えているかもしれないし、無くなっているかもしれません。私たちはよく、自らのアイデンティティについて考えるし、かなりそれにこだわっている人もいると思います。

「クイア」という概念は、ずっと変わらないその人の本質(アイデンティティー)ではなく、そのひとのその時の状態をさすといいます。それは本質なきアイデンテティーです。何かからずれる状態そのものがクイアです。その考え方に立ってみると、私たちは誰もが少なからずクイアの要素を持っていると言えるかもしれません。

私が子供の頃読んでいた児童書青い鳥文庫の「黒魔女さんが通る!」では、すべてが全国平均である男の子のキャラクターがいました。彼はあらゆることにおいてすべて全国平均をとりますが、それだって日本においては平均なだけで、世界規模では平均ではないですし、そもそも身長や体力測定などすべてで世界平均をとったとしても、所属するコミュニティーでは平均ではないので、周りから「普通」だとは認識されないでしょう。もし仮にそんな人が実際にいたら逆にすべてで平均をとること自体が確固たるアイデンティティーにもなりそうです。

今回、授業教材として、映画『ぐるりのこと』をクイア性から分析した卒業生の小野寺さんの論文を扱いました。『ぐるりのこと』は英訳すると『all around us』 映画のラストシーンで主人公カナヲが街ゆく人々の雑踏を見ながら、「人、人、人」とつぶやくシーンは、カナヲと翔子を絶対化しないための描写だとも取れます。クイア性は誰もが持っているものだということを示唆しているようです。

先日徳村さんとある長い話合いをした際に、彼は私よりもかなり楽観主義者で、明るいという新たな発見をしました。私はこれまで、彼と自分は割と似ている方だと思ってきました。もちろん、似ている部分もあるのかもしれません。しかし、そうではない部分の方が大きく、それはとても根本的な違いでした。そしてその違いがあったからこそ、闘争ができました。価値観が違う人同士は分かりあえませんが、それでも2人にとってもっともいい結論を導き出したいという思いが共通しているとき、そこには闘争がおき、そしてそれを乗り越えた先には、それまでなかった平和が訪れるのだと知りました。

闘争を通して、私は徳村さんへの理解が深まると同時に自分についての理解がさらに深まりました。普通に過ごしていて、自分自身の新たな性質に気づける機会はそうありません。しかし、自分と異なる考えの人と、共通の答えを出さなければならない段階になって、初めて見える自分というのがいるのです。その自分は他人からの期待を内面化して自分を追い込んでおり、何かを完璧にこなして認められないくらいならそれをやる必要はないと考える人間でした。しかしそんな自分に気づけたのは、失敗しても、楽をしてもいいから、楽しんでやることが大切だという、真逆の思考を持った徳村さんがいたからです。

それはちょうど、『ぐるりのこと』で「ちゃんとしなきゃ」と思いすぎてそうできない自分に疲れてしまった翔子にカナヲが言った言葉「おってくれたらいい」に通ずるものがあるように、後から思いました。(まあ、ちょっと違いますが)

つまりは「ちゃんとやる」ことができる人間ばかりじゃないけど、ちゃんとできない自分に絶望しないことは難しい、今の自分の限界を思い知るのは苦しいけれど、限界を受け入れられたら、自分がやるべきことがわかってくる、ということです。

ちゃんとできない人に向かって、自分が今まで抱いてきた思い「努力すればちゃんとできるのに、ちゃんとしないやつは甘えているかサボっている」を内面化しては、自分がちゃんとできなくなったとき、それが自分に還ってきて私のように追い込まれてしまうでしょう。

クイアの状態にいる人に対して、自分とは違う、自分はああならないと思うことは、結局自分を苦しめることになります。自分もどこかの一面ではクイアだと認めること。そしてクイアである人やことに抵抗を感じないこと。それが自分も周囲も楽な気持ちで生きていける秘訣だということをシェアしたところで、今回のブログは締めようと思います。

皆さんも、どうか「ずれ」に寛容に。

村上菜々子

(「なんだかいつもより短い」と思った人のために懺悔すると、実は「ぐるりのこと」を扱う前に同じくクイア研究で夏目漱石の「こころ」を扱ったのですが、私が本作のファンでありすぎるためにクイア研究で「こころ」を批評した論文にどうしても納得することができず、納得できてないことをブログに書くことはできなかったのです。それで分量が少なくなってしまったのです、懺悔。)

7期生ブログ第15回『ハズレじゃないよー。゚(゚´ω`゚)゚』

みんなー!滞ってるかーい!?

どうも、お久しぶりです。7期の徳村です。

秋学期が始まって早2か月くらい経ってしまっていますが、一度もブログを更新できておりませんでした。

理由としましては、ギリすぎる春学期レポートの執筆と、ギリすぎる明大祭準備スケジュールが挙げられます(以下言い訳パート)。

まず春学期レポート(1万字)なんですけど、これがマジで終わらなくてメチャメチャ精神的な不調に陥り、発表会にもほとんど出来上がっていない状態で参加し、失態を晒すなどした後、先生の助けを借りながら締め切り一週間前にテーマを変更して、締め切り当日に図書館に籠ってなんとか仕上げた、っていう経緯がありました。それ書きながら授業もやってたわけなので、当然ブログなんて書いてる暇ないワケなんですよね!

次に明大祭準備なんですが、私は軽音サークルであるケーパースとお笑いサークルである木曜会Zを兼部しておりまして、今年は初めてそのどちらにも参加することになり、結果的に春学期レポートを終えた後、雪崩れ込むように明大祭準備に飛び込まざるを得なくなってしまったのです。

軽音サークルではレッチリのボーカルだったんですが、私洋楽なんて今までロクに歌ったこともないし、ラップなんてズブの素人だし、もう必死で聴き込んで歌の練習してなんとか形にしました。他のパートの人はメチャメチャ上手い人ばかりなので足を引っ張らないように頑張りました。

そしてお笑いサークルでは、なんと私史上初めて『3日で4ネタやって、そのうち3本のネタを書く』という暴挙に出まして、ネタ披露の当日朝にネタを相方に送って一緒に合わせながら覚えたり、徹夜でコントで使う音楽を編集したりして本当にギリギリのスケジュールをこなしました。ギリギリだった割にはウケてた方なので良かったなと思います。ちなみに私が書いたネタは『フルーチェの黄金比率』『レストラン強盗っぽい人』『パソコンっぽい人』で、私は『~っぽい人』ネタが好きなのかもしれないと思いました。

そんな感じでメチャメチャ多忙を極めた今年の明大祭でしたが、個人的にはもう大満足で、過密スケジュールの中、本番3日間をちゃんと完走できたことが何より嬉しいし、大学生活の中で一番充実感がありました。一夜明けた翌日に「なんか楽しかったなあ」と思えたことって最近あんまりなかったので、私久しぶりに感動してます。過密スケジュールは精神を追い詰めますが、なんとか乗り越えるとこんな感情になるんですね。たぶん現状、私の走馬灯候補のトップ3くらいには入ってるんじゃないでしょうか。もっと走馬灯候補を増やしていける人生でありたいと思っています。過去そして未来のマイ・スウィート・メモリーズの諸君おかれましては、今後一層の熾烈な走馬灯争いを期待したいものです!

さて本題に入りますが何せ1か月前のゼミのブログを書こうとしているため、正直言って記憶がメチャメチャ曖昧です。なので今回は本当に大事なところ(覚えているところ)だけ皆さんにお届けしたいと考えています。ちょっち短くなるカモなんですがヨロシコ!ってなカンジで宜しくお願いします!

※なお、この記事の執筆に際し、同期の村上氏と村上氏がゼミ中に書き留めていたメモに対して最大限の感謝とリスペクトを送りたいと思います。ダンケ!

今回のゼミ前編で精読したのは『異化としてのメディア』という論文で、メディアという『身体を拡張する道具』が知覚を刷新することによって異化作用が生じることが論じられていました。ここでいうメディアとは、新聞や雑誌、テレビやYouTubeだけでなく、『人間の身体機能を拡張するもの』という意味で、車や飛行機なども含んでいます。

例えば、映画『ベッドとソファ』では夫に従属的な立場を取っていた女性が、新聞やラジオ、飛行機、映画などのメディアに触れることで知覚がどんどん刷新され、意識まで変容していく姿が描かれています。

また面白いのは、メディアによって知覚が拡張した場合に起こる『逆転現象』です。例えば『ベッドとソファ』の場合、夫は「妻にもっと家事を頑張ってもらいたい!」「家事の合間に気分転換できればもっと家事をしてもらえる!」という思いから妻にラジオを与えますが、妻はラジオにのめり込んでしまい、結局家事が疎かになり、夫は自分で家事をしないといけなくなってしまったのです。これがメディアによって知覚が刷新された際に、本来の目的とは逆の方向にメディアが作用してしまう結果として起こる逆転現象です。実際、洗濯機が発明された際には「女性にもっと効率的に洗濯をやらせよう」という男性が嬉々として洗濯機を家庭に導入しましたが、結局「誰にでも洗濯ができる」という洗濯機の特性によって、逆に男性が洗濯をする機会が増えてしまったという話があります。

ゼミ後編では、「異化」をテーマにレイ・ブラッドベリの『華氏451度』を読み解きました。『華氏451度』は本を読むことも所持することも禁止された世界が舞台で、主人公のモンターグは本が見つかり次第出動し、本を家ごと燃やし尽くす「昇火士」として働いているものの、クラリスという少女との出会いをきっかけに本が禁止された世界を疑うようになっていくという物語です。本やクラリスによって異化されていく主人公の知覚が克明に描写されていて、今回のテーマにぴったりだと思いました。選書した村上さんに2度目のリスペクトを。

『華氏451度』の考察に関しては、7期生ゼミ史上最もアツい激論が交わされることとなりました。私と村上さんとで意見が対立したり、噛み合ったり、説得したりさせられたり、そして最後には先生も含めた三者の考察が綜合されたより高次の考察がされるに至り、ヘーゲルもにっこりの弁証法的な議論になったことには一種の感動を覚えました。その内容はメチャメチャネタバレなのでここでは書きませんが、ひとつの作品に対して少人数でここまで深く話し合う機会って他のゼミではできない経験だと思いました。みんなも内藤ゼミでヘーゲルをにっこりさせよう!

最後急に宣伝臭くなってしまいましたが、コレなぜかというと、最近他の情コミ生とゼミについて話す機会があって、その際に「徳村はどこのゼミに入ってるの?」と訊かれたので「俺はファッキン刺激的な内藤まりこゼミでファッキン忙しくしてるぜ」的なことを答えたら、「内藤ゼミ?えーそれってハズレゼミじゃない?」と言われて衝撃を受けたからなんですね。

えっ!?俺のゼミってハズレゼミ扱いだったの?

私はすぐさま反論し、当ゼミの素晴らしいところと辛いところを2:8くらいの割合で紹介した(※実際の比率です)のですが、まあこれは価値基準の違いに終始する話になってしまうのでその人には届かなかったすね。

確かにコスパの良さ、単位取得のためにかかる時間と労力の観点からみると、内藤ゼミはゼミもゼミの準備もメチャメチャ時間かかるのでハズレゼミと言わざるを得ないのかもしれませんが、もっと長い目で見て、そのゼミが自分のためになっているかどうか、という観点から考えてみると、私は内藤ゼミをあたりゼミだと思うことができます。

このゼミは文学批評のゼミなので、文学と向き合い続けるだけのゼミだと思われがち(私もそう思ってました)が、実際には意外と文学よりも世界・社会、そして自己と向き合うことの多いゼミだと私は感じています。なぜなら文学はいつも社会や世界、そして自己を映しているからなんですね。だから文学批評をするには社会や世界や他者や自己を読み解かないといけないんですよ、マジ大変ですよねコレ。でもそれは他のゼミではなかなかできないことなんじゃないでしょうか。内藤ゼミは決してハズレゼミではありません!ちょっと大変なだけです!ちょっと授業時間が長かったり(200分)、ちょっと隔週で論文をまとめてレジュメにして発表する課題があったり、ちょっと学期末に1万字の論文書いたりするだけです!そしてちょっと病むだけです!こわくないよー!ぜーんぜんこわくないよー!ぜーんぜんハズレじゃないよー!

という訳で最後にはゼミ試を受ける2年生向けてのブログになってしまいましたが、次からはしっかりと書けるように頑張ります。もう滞らせません。たぶん。2年生の方々のブログが凄い熱量なのでプレッシャーも感じつつですが、私は私でマイペースにやっていきたいと思います。

ではまた次回~。再见!

2年ゼミ第6回「作者はもう死んでいる」

 こんにちは。第6回担当の齋藤穂花と申します。

 前回まで名前の話が続いていますね。今回は内藤先生の名前の起源についてお話も聞けました。というわけで、私も何か書き記せることがあればと思ってパソコンに向かったのです。……向かったのですが、いかんせん「齋藤穂花」などという、ひと学年に一人は必ず見かけそうな名前と、ひと学年に一人どころか、うじゃうじゃいそうな苗字のコンビ。どうせなら「山田花子」とか、TOP OF 凡庸! といった名前の方が面白かっただろうに……(失礼)。

 ところが、私のThe 凡庸! な名前にも一応、非凡庸な話がありました。なんと、なんと……私の名前は最初、「ユリア」になる予定だったのです! というのも、厄介ヲタク選手権おじさん部門代表である父(どうか父にはご内密に。笑)が『北斗の拳』に熱を上げるあまり、ヒロイン(超絶美女)の名前「ユリア」をそのまま私につけようとしたというのです。しかしなぜ「ユリア」が「ホノカ」に変貌を遂げたのかはいまだに謎のままです。父の酒の肴は『北斗の拳』語りに逸れ、そのまま直進して戻ってきませんでした。そして、なんということでしょう(某住宅改造番組風)。私も『北斗の拳』が読みたくて堪らなくなってしまいました。お父さん、布教用に全巻買ってくれればいいのに。ヲタクは魂を賭けて信ずるものを布教する生き物だというのに(主観と偏見)。

 というのが、今回のブログの何番煎じか分からないタイトルを決めた経緯でございます。魂を賭けた『北斗の拳』ファンの方がいらしたら申し訳ございません。けれど、実際にバルトもこう思っていたり……なんてことはないか。というわけで、自分語りが過ぎてしまった気もしますが、ここからはちゃんとゼミの内容をお送りいたしますよ、たぶん!


1.前座:形部龍之介さん


 今回の前座を担当してくれたのは、形部龍之介さん。アニメーションの作画についてレクチャーしてくれました。素晴らしい作画は作品のクオリティの底上げに一役買っていて、特に作画が良いと評判なのが京都アニメーションだそうです。逆に作画崩壊で有名なのはキャベツ問題。たしかに調べてみたら「キャベツ色のドッジボール……?」となりました。むしろ芸術? 最後に、京アニ最高傑作の『バイオレットエヴァーガーデン』が金曜ロードショーで二週連続放送中なので是非みてみてね、とのことでした。私の積みアニメリストがどんどん膨らんでいきます。うーん、幸せ。(見ろ)


2.リアクションペーパーに対する応答


 前回の講義内容であったロラン・バルト「作者の死」について、今回も熱い熱いラブレターがたくさん届いていました。

 まずは「個」という概念について。まだ掴み切れていないという声もあり、時代背景も含めて先生から解説がありました。その頃西洋に染みついた「個」の概念は、家父長制の文化があった日本にはなかなか広まらず、明治時代の文明開化でがらりと思想が変わるということが起こったといいます。「歴史を学べば当たり前だと思っていた考え方が絶対じゃないと分かる」という先生のお言葉には目の覚めるような思いでした。(本当に寝ていたわけではありませんよ?)

 また、それに関連して、平野啓一郎著の『私とは何か「個人」から「分人」へ』という本を紹介していただきました。就活鬱になったときに救われそうな内容でしたね。ぜひ読んでみたいと思います。

 次に、エクリチュールについて。こちらは先生に前回できなかった説明をしていただきました。バルトは、あるエクリチュールが生み出された「起源」は特定できないと主張しています。ほほ~、なるほど。たしかに私も『北斗の拳』が何年の連載開始か知らん(知識不足)。……ではなくて、エクリチュールとは、起源とは一体何ぞや。 この純然たる(?)疑問を解消するには、バルトの時代に元々浸透していた考え方を知る必要があります。当時、文学については「書かれたものは死」、「声は生」と考えるのが主流でした。書かれたものは半永久に存在し、逆に声は一回的なものであることからです。バルトはそれに異を唱え、エクリチュールはそれを生み出した主体に紐づけられるものではないと主張したのです。そして、エクリチュールではあらゆる自己同一性が失われるとしました。自己同一性? WHAT? という人は『鬼滅の刃』や『鋼の錬金術師』を見てみてください。これらは女性作者が描いていますが、男の主人公像や物語が薄っぺらいなんてことはありませんよね。

 最後に、テクストについて。「テクスト」とは本来織物のことであり、バルトはテクストを「無数にある文化の中心からやって来た引用の織物である」としています。ここではその「引用」に関連し、先生のお名前の由来を聞くことができました。究極をいえば、私たち人もテクストなのだということが分かりますね。私の中にも『北斗の拳』という偉大なる引用が……入っていると言えるのでしょうか。笑

 そんなこんなで、「作者の死」については今回でひとまず終わりとなります。皆さん、お疲れ様でした! 次週からはもっと難解そうな理論が立ちはだかりますね。頑張り……ましょう……。


3.学期末レポートの構想発表:大胡田さん

 ……のはずだったのですが、時間が押してしまったので次回に発表してもらうことになりました。楽しみです。


4.論述文の書き方の学習2

 今回は論文の構成要素(内容)の復習と、アウトラインの作成について学習しました。論文の構成要素にはテーマ、論点、結論、論拠の四つがあり、アウトラインには序論、本論、結論があります。アウトライン、と聞くと輪郭を思い浮かべそうですが、ここでは骨組みを意味するそうですね。骨を組み立てては崩し、組み立てては崩してまた組み上げる……という作業の大切さは、ブログ執筆にあたって改めて痛感しました。更新が遅くなってしまったこと、お詫び申し上げます。私のようにならないように、皆さん学期末レポートに向けて頑張りましょうね(どの口が)。

 ちょくちょく私見や願望がにょきっと顔を出してしまいましたので、スパッと締めたいと思います。ここまで読んでくださりありがとうございました! 私は期末レポートまでに『北斗の拳』……ではなく、厄介だけど優しいヲタクの父が録画してくれたハガレンの一挙放送と『ヴァイオレットエヴァーガーデン』を、先に見尽くしたいと思います。それではお元気で!

2年ゼミ第5回「前前前世」

 こんにちは。第5回担当の坂入夏と申します。名前の話の流れはもういいかなと思ったのですが、お2人とはまた違った意味で結構珍しい名前ですよね。春さん秋さん冬さんにまだ会ったことがないのですが、春夏秋冬コンプリートしたいというのが密かな夢です。

 何について書こうかなあと頭を悩ませていたところで唐突ですが、「縁」について考えていることを書いてみようかと思います。実はつい数日前にとあるアーティストのコンサートの当落発表があり、なんと!なんと!!落選しました!!!残念!!!!兄も応募していましたがこちらも落選。そういうこともありますよね。こういうとき、私は「まあ縁がなかったんだなあ」と思うようにしています。買おうかどうしようか迷った挙句「明日になっても気になっていたら買おう!」と思って狙っていた洋服が、翌日行くともう売れていたときも「縁がなかった!でもその分のお金はまた別に使えるわけだし!」と割り切って前向きに考えるわけです。(もちろん悲しいは悲しいのですが。)

 何が言いたいかというと、自分ではどうしようもない力って絶対あるよね〜という話です。どんなに頑張っても、祈っても、ちょっとしたことで叶わなかったことって世の中いっぱいあると思っています。ですが、目標としていたものと、結果的には違っていても実はそれがいい方向に結局は導いてくれたりもします。(私のまだ短いたった20年の人生でこんなことを言うのは気が引けますが。)今こうして内藤ゼミで一緒になった方々は何かのご縁が「ある」ということだと思うので、ぜひ仲良くしてください!とてもとても人見知りですが、話しかけてくれたら嬉しいです。

前置きが長くなりました。本題の授業内容に入りましょう。

1.今後の予定確認

 第13回、第14回の2回にわたって研究成果発表会を行うことになりました。みんな!頑張ってそこまで生き抜こうね!ちなみにレポート8000字はまだ私は書いたことがありません…。不安がすごいです。

2.ゼミ活動振興費

 ゼミの活動費で美術展や映画、書籍の購入がOKになりました。ただし領収書がないと返金できないそうです。絶対忘れないようにしましょう。ちなみに私はゴッホ展行きたいです。

3.リアクションペーパーに対する応答

 毎度熱いこのコーナー。今回もドラえもんの分析をしたリアクションペーパーがありました。これをまとめただけで学期末レポートが書けてしまいそうなくらいレベルの高いリアぺで、毎回楽しみです。

4.レポートの構想発表:佐藤杏海さん

 前座トークだけでなくレポート構想発表のトップバッターも務めてくれた佐藤さんのレポートのテーマは、「擬人化」について。具体的な作品よりも擬人化という現象に焦点を当てるそうです。どのような問いにするか、まだ迷っていたのでグループに分かれてそれぞれ問いを出し合いました。「なぜ人は擬人化するのか?」「なぜ擬人化は人を惹きつけるのか?」など、8000字には収まらなさそうな壮大なテーマしか私には思いつきませんでした。字数と期間が足りる範囲内のレポートを書くには、どういう状況でどういう人が惹きつけられているのか、などもっと掘り下げて考えていくことでより明確で具体的な問いを立てることができるそうです。これから構想発表する人は多いと思うので、ぜひ参考にしましょう。

5.批評理論の学習:3ロラン・バルト「作者の死」

 さて、最後に本題のロラン・バルト「作者の死」です。初めはグループになって、まずはこの訳の分からないものに取り組んだ健闘を称えあいつつ、ロラン・バルトは何が言いたかったのかを確認しました。後半は先生の講義形式になりました。「作者の死」の要点は主に4つ。この日はそのうちの1つ目である「作者について」の要点と、そもそもロラン・バルトとはどのような人であったかを学びました。

 ロラン・バルトはフランスの批評家・文学理論家で、文学だけでなくファッションや日本論など、幅広い分野の批評をした人です。彼が活躍した1960年代のフランスは構造主義全盛期で、ロラン・バルトはそれを牽引していった第一人者でした。大学生なら文学を勉強している、していないに関わらず構造主義について誰もが語り合えるような、アカデミーが開けていた時代だったそうです。ではなぜ、1960年代のフランスで、構造主義が流行したか。第2回の授業で取り扱ったプロップの「31の物語の機能」を代表とする、1920年代に花開いたロシアのフォルマリズムに関する本が英訳を経て仏訳されたためでした。

 では、作者という存在に関してバルトはどのように考えていたか。「作者」とは近代に生まれた「個人」という考え方によって成立した概念であり、作品に意味を与える創造主として位置づけられるようになってしまった。作者によって生み出された作品には全て、作者の意図があり作者の生い立ちが関係していると解釈されるようになった。しかし、それに対してシュールレアリストをはじめとする人々は、作者の意図、言い換えれば「自分の意志」から逃れて作品を生み出そうと試みた。

 近代以前には「個人」という考え方はありませんでした。一人一人物理的に異なる人ではあるけれど、「前世の縁で繋がっているかもしれない」などより緩やかな概念だったそうです。前置きの話はここから思いついたわけです。先生は近代以前の考え方が好きだとおっしゃっていましたが、私もそう思います。シュールレアリスト達は自動筆記という手法によって意志を逃れようとしました。だから彼らは意識の及ばない空間、つまり夢や無意識状態に関心があったのです。

 残りの3つの要点については次回の授業の初めに回すことになりました。エクリチュールについて、私は全然理解できなかったので授業が楽しみです。

授業の内容は以上で終わりです。

佐藤さん、ごめん。期待してくれて嬉しかったけれど、私には面白い文は書けませんでした。そして適正な字数が全く分からずダラダラと長い文章になってしまいましたがここまで読んでくださった方々、ありがとうございました。またどこかでお会いしましょう!では!

2022年度問題分析ゼミナール:入室試験のご案内

本ゼミへの入室を希望する学生は、情報コミュニケーション学部の事務室の指示に従い、以下の書類を提出してください。

1. レポート: 以下の内容について論じること。

1) 志望理由 2)ゼミで取り組みたいこと(対象・作品があれば,それも示すこと)。

書式:WordもしくはPDF、A4横書き、字数2000字前後

2. エントリーシート: 以下のファイルをダウンロードし、必要事項を記入すること。

2年ゼミ第4回 「リアペとはこれ則ちラブレターである」

おはこんばんにちは、って便利な言葉ですよね。関根さんからバトンをいただきました佐藤杏海と申します。この文字で“あずみ”と読みます。関根さんのお名前に負けず劣らず難読ですね。さて、私の方はどんなネタを書こうかと考えていたのですが、やはり3分では語り尽くせなかったのでももう少しだけ前座トークの延長戦をしようかと思います。興味のない方はクトゥルフ神話TRPGで検索をかけて動画を見た方がわかりやすいので、私の話よりそちらをどうぞ。

というわけでやっていきましょう延長戦。タイムリーというよりも常に遊んでいる私は、先週の前座トークの時点で7時間(2夜分)かけてTRPG好きなメンバーたちと大正時代を舞台に謎解きをしていました。ゲームの進行役を私が行い、友人たちがそれぞれ「自堕落な作家」「無類の女好きの探偵」「硬派で天然な警官」「ゴシップ大好き記者」というあまりにも癖の強いキャラクターを持ち寄ったセッションです。シナリオの設定によって全員が幼馴染だったので、準備段階から幼い頃のエピソードなどを自由に創作してくれました。気心知れた人間同士の軽妙なやり取りが即興で演じられるのはすごいですよね。そして必ず訪れるゲーム終盤の決断の時。キャラクターが抱えている隠し事や、貫き通したいそれぞれの正義をぶつけ合いながら私も予想しなかった熱い展開をしてくれました。やはりTRPGのいいところは進行役すら想像できない展開と、それぞれの思いが交錯する物語性だなと思います。私はまた今週末に1本、来週に2本ゲームが待っていますので、面白さと中毒性は折り紙付きです。恐ろしいことにこの1年半で60本以上遊んでいたようです。プレイ時間にすると300時間ほど。6000円の本1冊でこれだけ遊べるのでかなりコスパのいい遊びですね。みなさんもぜひ遊びましょう。

さて、前座トーク延長戦が長くなってしまいましたが第4回のゼミの内容に移ります。

1.ゼミブログ執筆順

このゼミブログの執筆順が決まりました。次回は坂入夏さんです。どんなブログになるのか楽しみです。また、私がシメの第14回の編集を担当することになりました。この回はみなさんからのコメントをまとめようと思っているので、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

2.期末レポートの構想発表順

第5回の講義から始まる期末レポート構想の発表。こちらは2年ゼミのみなさんは必須なので自分の担当をお忘れなきよう。初回担当になった私は今必死に考えています。もし発表がボロボロでも優しくしてください…………

3.リアクションペーパーへの応答

毎度とても楽しいリアペ反応のコーナー。今回も非常に面白い視点のリアペと、先生のコメントが続きました。前回の講義はプロップの「物語の31の機能」の実践編。そのため、ゼミ生の中で独自に興味のある作品に機能を当てはめて考察したものが見られました。一方でプロップの意見への鋭い批評もいくつか挙がっています。売れる物語の雛形としてこれらの機能を捉え、あえて逸脱した作品を求める意見や、男性主人公を基準とするプロップの考えは本当に普遍的なのかを問う意見が中心でした。その延長線上ででてきた、先生の現在の“成長物語ではない新たな物語形態について“はぜひもっと深いお話を聞いてみたいです。

他にもオランダの料理やロックダウンに対する感想、私の前座トークに関する感想も頂きました。

4.論述文の書き方の学習Ⅰ:論述文とは何か

第4回の本題です。まずアイスブレイクとして前回の課題であった例文のレポートの採点に関する意見交換を3~5人のグループに分かれてしました。先生の手厳しい採点表に冷や汗をかきながら、自分たちの文章を見直すいい機会になりました。

続いて基礎的なレポートの形式についての確認です。穴埋めプリントを使いながら、再確認をしていきます。動機の書き方や中心文(トピックセンテンス)についてはこれからのゼミで詳しく説明があるので、今回は全体をさらう形でした。この論述文の書き方はレポート以外にも様々な場面で使える文章構成です。ラブレターや感想文、果てはこのブログの文章もある程度その形に添っています。

ざっくりと第4回のゼミを振り返ってみました。やはり一番熱かったのはリアペへの応答ですね。先生へのラブレターのような、そんな熱意を感じました。回を追うごとにプレッシャーが増していきます。

これにて第4回のゼミブログは終わりです。次の担当の坂入さんとは何回か下北沢で遊びましたが非常に面白い方です。ええ、今からとても期待をしています!

冒頭で関係ない話をしすぎたので今回のブログはこのあたりで。拙文をここまで読んでくださりありがとうございました。