11期生 第3回 パルプ・ブログ

皆さんこんにちは、今回のブログを担当します、土田です。

今回は『フィルムスタディーズ』より、「映画の構造」について学びました。

映画には様々な要素がありますが、その中でも今回は「物語」と「語り口」について、どのように構成されているのかを学びました。

まず前提として、映画には様々な出来事が原因—結果の論理に基づいて関連しあいながら構成されており、これは登場人物によって動機付けられている、と説明されています。つまり、映画には必ず動機付けるシーンが挿入されており、動機がなければその出来事は意味のないものとなるのです。

また、物語は、冒頭・中間部・結末の3つの段階に構造化することができ、この段階を均衡状態・ある出来事によるこの均衡の崩壊・均衡を回復するのに成功する試みの3段階に分けられます。それぞれの段階に移行する際には必ずターニングポイントが存在すると言います。何かが発端となり均衡が崩れると、それらを取り戻そうという試みに突き動かされて均衡が再び達成するという流れが生まれるのです。

続いて語り口についてです。

映画には、特定の登場人物一人が経験する物語の部分だけを観客が受け取る「制限された語り口」

複数の登場人物を自由にカメラが映すため登場人物の誰よりも多くの情報を得ることができる「全知の語り口」の2種類があります。

この2種類の語り口を効果的に用いることで、観客が知り得る情報を制限して、観客が知らないことを予測させたり、観客は既に知っているが登場人物が知らないことに対して、どのような反応を取るかを期待させたりする役割があります。

ここまで学んだところで、映画『パルプ・フィクション』の分析をしました。

『パルプフィクション』は1994年公開のクエンティン・タランティーノ監督による犯罪オムニバス映画で、時系列がシャッフルされた斬新な構成が特徴的な映画です。

今回の論文では、『パルプ・フィクション』の物語の時系列について取り上げられていました。本作品に描かれている出来事が起こった順、時系列順に並べた時に1,2a,2b,3,4a,4b,5,6と番号を付けた時に、実際に描かれる順番は4a,2a,5,1,6,2b,3,4bの順番で示されると指摘しています。

実際の映画の順番を考えると、観客がラストシーンとして見るシーンは全く物語の中盤であり、実際の時系列で最後のシーンは、観客からすると明確に最後と認識することなく流れてしまうのです。

この時系列の組み換えはなぜ起こっているのか、ということを考えました。

そして今回は、因果律に基づいた一般的な物語では、直接関係のない微細な要素が取りこぼされてしまうことに抗うため、と結論付けました。

つまり、何らかの出来事にはその起因になった動機があるという一般的なルールの中で、無視されてしまう動機以外の事象を生かそうとしているのではないか、と考えました。

我々視聴者は、提示されたものに従順ではないかと思います。そのため、この『パルプ・フィクション』を見たら、綺麗に事態が収拾した場面でエンドロールを迎えるため、何となく、色々あったけどよかったね、くらいの感想を抱くかもしれません。しかし、実際の時系列に直すと、そう呑気にはいられません。

そういったところで、見たようにしか受け取ることのできない視聴者に対して皮肉めいた構成になっているのではないかとも思いました。

一方で、タイトルの『パルプ・フィクション』は、粗悪な紙に印刷された三文小説、つまり安価で大衆向けの娯楽小説という意味を持ちます。

バラバラな時系列に、何か大きな意味を見出そうとすること自体もそもそも意味のないことかもしれません。

授業冒頭で、動機のない出来事は意味のないものであると学んだことで、動機と出来事の場面をバラバラにして分からなくしている、という結論になったので、とても興味深い分析が出来たと思います。

個人的には、動機のないことなんてたくさんあるのにな、と思っています。でもこのゼミではしっかりと言いたいことに対して根拠をもって論証をしなければいけないので、そこは訓練!頑張ります。

それでは今回のブログはここまで!また次回お会いしましょう。

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