12期生 第5回 アイロニーと昔話の機能について

皆さん、こんにちは。第5回のブログを担当する古田です。

近頃一気に暑くなってきました。私は暑さにも寒さにも弱い人間なので、今からもっと暑くなると思うと大変恐ろしいです…。体調に気をつけて今年の夏も乗り切りたいと思います!

【前座】

今回は私が、「書道」についてお話しさせていただきました。

私は小学2年生から習字を習っていて、高校の時も書道部に所属しており、書道には馴染み深い人生を送ってきました。
そのため、書道の中でも私が今までやってきた”臨書”の分野についてお話ししました。

臨書は古典をお手本として書写することを指します。特に中国の古典を書写することが多いです。
字体によってお手本とする古典作品は変わってきまして、基本的な楷書である「九成宮醴泉銘」や行書の「蘭亭序」と有名どころを紹介しました。しかし、同じ楷書や行書の古典作品でも作品によって文字に特徴があります。お手本に選ぶ古典作品でも、人となりが出るのが臨書の面白いところです!

また、私が高校3年間で特に臨書していた草書の「十七帖」を紹介した際に、使っていた筆も紹介させていただきました。筆の素材にも色々あり、馬や羊の他に孔雀の毛を使ったものもあります。素材によって柔らかさや書きごごちが全く異なるので、書く字体によって筆や墨の濃さを変えて書写していきます。

ただ写すだけのような書写ですが、全く同じに書くのは大変難しく、練習が必要不可欠です。ですが、だんだんと書く字に自分らしさが出てきたり、線やバランスが美しく書けるようになったり、面白い部分がたくさんあります。

自分と向き合える良い時間にもなるので、ぜひ機会があれば臨書にチャレンジしてみて欲しいです!

【3限】第7章:性格描写  第8章:アイロニー

今回は飯尾さんが3限、4限と共に発表を行ってくださいました!

前回に引き続き、「批評理論入門『フランケンシュタイン』解剖講義」(廣野由美子 著)の分析を行いました。

まず、第7章では登場人物の性格描写について述べられていました。
小説は登場人物を造形する場であり、造形には性格描写が不可欠となります。

E.M.フォースターは人物描写の観点から登場人物を「平板な人物」と「立体的な人物」に分類しています。
「平板な人物」とはいつも一様の描き方しかされておらず、いかなる場面も同様である人物、「立体的な人物」は描かれている面とは異なる、描かれていない部分や見えない部分を感じる人物のことです。

上記のように様々ある人物の性格描写は、イギリスの小説家たちに重視されてきました。
もちろん『フランケンシュタイン』もその一つです。

『フランケンシュタイン』では主人公を筆頭に人物たちの性格が描かれると共に、その人生が彼らの性格によって運命づけられていることを示唆しています。

第8章ではアイロニーについて述べられていました。
アイロニーとは見かけと現実の相違が認識されること、そこから生じる皮肉のことです。

本書では「言葉のアイロニー」、「状況のアイロニー」、「劇的アイロニー」が挙げられていました。

「言葉のアイロニー」は表面上述べられていることとは異なる意味を読み取らせようとする技法です。
『フランケンシュタイン』では名前を持たない怪物に対して、老人が「あなたは誰なのですか」と呼びかけた言葉が言葉のアイロニーとして現れています。

「状況のアイロニー」は意図されたり予想されたりすることと実際に起きていることの間に相違がある場合を指します。
『フランケンシュタイン』では、ウォルトンが姉に送った手紙において状況のアイロニーが現れていました。

「劇的アイロニー」はある状況に関する事実と、その状況についての登場人物との認識が一致していないことに観客が気づいた際に生じるアイロニーのことを指します。
『フランケンシュタイン』では婚礼の日において怪物の言葉に対してのフランケンシュタインの受け取り方にアイロニーが現れていました。

ここで、アンジャッシュのすれ違いのネタを見ながら「状況のアイロニー」と「劇的アイロニー」の違いについて考えました。アンジャッシュのネタでは、2人が同じことを話していると考えながら全く違うことを話しています。
このすれ違いを私たち(読者)が認識しているので、これは「劇的アイロニー」と言えます。

しかし、読者がいない状態では「状況のアイロニー」、「劇的アイロニー」の区別はどうつけたら良いのでしょうか。これは、そのすれ違いの状況に時間差があるかないかで説明できるのではないかという結論に至りました。
状況のアイロニーであるウォルトンの手紙は、1枚目の手紙と2枚目の手紙に時間差があるのに対し、アンジャッシュのすれ違いネタはすれ違いに時間差はほぼなく連続的に続いていきます。
この違いによって「状況のアイロニー」と「劇的アイロニー」について腹落ちすることができました!

【4限】昔話の形態学

この時間では、ウラジーミル・プロップによる昔話の形態学の分析を行いました。

この理論は魔法昔話から不変の要素であり、根本的な構成要素である「機能」を抽出し列挙したものです。魔法昔話には31もの機能があります。

今回はその機能を見ていく中で、理解が曖昧な機能を『鬼滅の刃』を参考に理解を深めていきました。

特に『鬼滅の刃』が参考になったのは、17つ目の標づけの機能ですね。この機能は闘いを経て体に何か(傷やハンカチ)が残ることなのですが、これは主人公が主人公たる理由づけの役割を果たします。これを私は炭治郎が発現させる痣が当てはまるのでは?と考えたのですが、これは他の登場人物にも当てはまり、主人公特有とは言えません。

飯尾さんとも話し合い、炭治郎だけが使える「ヒノカミ神楽」がこれに当てはまるのではと考えました。これは技ですが、闘いの中で得られる技でもあるため、標づけとして成立すると結論づけました。

『鬼滅の刃』は社会現象にもなった作品ですが、昔話の形態学を理解するのにもすごく役立つ作品だと改めて感じました!

以上で今回のブログを終わります!


11期生 第3回 パルプ・ブログ

皆さんこんにちは、今回のブログを担当します、土田です。

今回は『フィルムスタディーズ』より、「映画の構造」について学びました。

映画には様々な要素がありますが、その中でも今回は「物語」と「語り口」について、どのように構成されているのかを学びました。

まず前提として、映画には様々な出来事が原因—結果の論理に基づいて関連しあいながら構成されており、これは登場人物によって動機付けられている、と説明されています。つまり、映画には必ず動機付けるシーンが挿入されており、動機がなければその出来事は意味のないものとなるのです。

また、物語は、冒頭・中間部・結末の3つの段階に構造化することができ、この段階を均衡状態・ある出来事によるこの均衡の崩壊・均衡を回復するのに成功する試みの3段階に分けられます。それぞれの段階に移行する際には必ずターニングポイントが存在すると言います。何かが発端となり均衡が崩れると、それらを取り戻そうという試みに突き動かされて均衡が再び達成するという流れが生まれるのです。

続いて語り口についてです。

映画には、特定の登場人物一人が経験する物語の部分だけを観客が受け取る「制限された語り口」

複数の登場人物を自由にカメラが映すため登場人物の誰よりも多くの情報を得ることができる「全知の語り口」の2種類があります。

この2種類の語り口を効果的に用いることで、観客が知り得る情報を制限して、観客が知らないことを予測させたり、観客は既に知っているが登場人物が知らないことに対して、どのような反応を取るかを期待させたりする役割があります。

ここまで学んだところで、映画『パルプ・フィクション』の分析をしました。

『パルプフィクション』は1994年公開のクエンティン・タランティーノ監督による犯罪オムニバス映画で、時系列がシャッフルされた斬新な構成が特徴的な映画です。

今回の論文では、『パルプ・フィクション』の物語の時系列について取り上げられていました。本作品に描かれている出来事が起こった順、時系列順に並べた時に1,2a,2b,3,4a,4b,5,6と番号を付けた時に、実際に描かれる順番は4a,2a,5,1,6,2b,3,4bの順番で示されると指摘しています。

実際の映画の順番を考えると、観客がラストシーンとして見るシーンは全く物語の中盤であり、実際の時系列で最後のシーンは、観客からすると明確に最後と認識することなく流れてしまうのです。

この時系列の組み換えはなぜ起こっているのか、ということを考えました。

そして今回は、因果律に基づいた一般的な物語では、直接関係のない微細な要素が取りこぼされてしまうことに抗うため、と結論付けました。

つまり、何らかの出来事にはその起因になった動機があるという一般的なルールの中で、無視されてしまう動機以外の事象を生かそうとしているのではないか、と考えました。

我々視聴者は、提示されたものに従順ではないかと思います。そのため、この『パルプ・フィクション』を見たら、綺麗に事態が収拾した場面でエンドロールを迎えるため、何となく、色々あったけどよかったね、くらいの感想を抱くかもしれません。しかし、実際の時系列に直すと、そう呑気にはいられません。

そういったところで、見たようにしか受け取ることのできない視聴者に対して皮肉めいた構成になっているのではないかとも思いました。

一方で、タイトルの『パルプ・フィクション』は、粗悪な紙に印刷された三文小説、つまり安価で大衆向けの娯楽小説という意味を持ちます。

バラバラな時系列に、何か大きな意味を見出そうとすること自体もそもそも意味のないことかもしれません。

授業冒頭で、動機のない出来事は意味のないものであると学んだことで、動機と出来事の場面をバラバラにして分からなくしている、という結論になったので、とても興味深い分析が出来たと思います。

個人的には、動機のないことなんてたくさんあるのにな、と思っています。でもこのゼミではしっかりと言いたいことに対して根拠をもって論証をしなければいけないので、そこは訓練!頑張ります。

それでは今回のブログはここまで!また次回お会いしましょう。