11期生 第6回 映画と小説が違うのは〈映像か活字か〉だけ?

突然ですが、皆さんは、映画と小説の違いはどこにあると考えますか?


映像であるか活字であるか ── それも違いのひとつだといえるでしょう。
では、違いはそれだけでしょうか?

今回はそんな【映画と小説の類似と相違】について、11期生の井上紬がお話させていただきます。

扱う理論は『映画の理論 – 幕間:映画と小説』(ジークフリート・クラカウアー著)です。

まず映画と小説の類似点について。
クラカウアーによれば、これは「劇的なプロットを作ることが求められている点と、始まりも終わりもない時系列順の時間の中で展開されている点」だといいます。

例を用いて解説すると、たとえば、主人公の死によって物語が閉じられる作品があるとします。
これは、【主人公が死ぬ】という事実までを「劇的」に描く「プロット」、 つまり淡々と登場人物の人生が描かれているのではなく、見た人あるいは読む人が引き込まれるように構成されているのです。

また、「始まりも終わりもない時系列順の時間の中で展開されている」とは、さきの例でいうと【主人公の死】が何もかもの終わりを意味するわけではない、ということです。主人公がいなくなろうとも世界は続いていき、周辺の登場人物の生も続いていく。しかしあくまでその物語は、【主人公の死】によって閉じられる。
結末の後に続くだろう展開が途中で切り詰められてしまった感覚に陥り、ある種もどかしく感じるのが、映画と小説の類似点だといえます。

一方で、映画と小説の相違点とは何か。

それは、映画は物質的連続体を表現するのに対して、小説は精神的連続体を表現する点です。

映画において表現されるのは、たとえば【主人公が走っている】というような、「物理的な出来事」の連続。

対する小説において表現されるのは、焦点化されている登場人物の「内面の出来事」の連続。
つまり、映画では再現できない領域まで広がった登場人物の思考の流れを表現することができるのが、小説の特徴なのです。

ここで、実際に今回授業の題材としても扱った、黒澤明監督『羅生門』を見てみましょう。

この映画の特徴は、芥川龍之介による小説『羅生門』に着想を得つつも、そのプロットに、同作家による『藪の中』のプロットを織り交ぜているところにあります。

小説『藪の中』には7人の登場人物が出てきて、とある出来事に対する証言を求められるのですが、7者7様で言っていることが異なります。

そのプロットは、登場人物たちの思考の流れを反映する、小説的な、いわば「非映画的」な翻案。

一方で小説『羅生門』は、ひとりの下人が、(生きるためには仕方ない)と女の死体から髪を引き抜いてかつらを作り売ろうとしている老婆を目にし、「ではおれが引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ」と言ってその老婆から着物を剥ぎ取り闇夜に消えていくさまを三人称・外的焦点化で描いた、小説でありながら「映画的」な翻案の作品です。

これを踏まえて私たちゼミ生は、「映画的」な翻案である『羅生門』の、(生きるためには自分に都合が良いように行動するのも仕方ない)という作品の核にたどりつくために、「非映画的」な翻案である『藪の中』の、登場人物がそれぞれ異なった証言をするというプロットを組み込んだのが、黒澤監督の映画『羅生門』なのだという結論を出しました。

映画『羅生門』は、ふたつの小説のプロットを織り交ぜるという一風変わった例でしたが、原作:小説の作品を映画するという行為自体は珍しくありませんよね。

映画と小説では、表現されるものが 物質的連続体と精神的連続体か で違っている。

この理論を習得することを通じて、あらためて小説を映画化する難しさを想像できるようになった気がします。

最近の作品ですと、朝井リョウさんの『生殖器』なんて、「非映画的」な翻案かもしれませんね。生殖器が己の思考を語っているようす …… 一歩間違えたら大変滑稽な絵面になりそうです(笑)

では、今回のブログはここまで。
ここまで読んでいただき、誠にありがとうございました!

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