秋学期第6回ゼミ

こんにちは。今回のブログ担当の相田です。

第6回のテーマは「ジェンダー批評」について深めていきました。

今回の題材は田山花袋の『蒲団』と生駒夏美の論文、『田山花袋『蒲団』にみる日本の近代化とジェンダー』です。

 

まず初めに、明治時代の文学の変革に関して、論文では述べられています。製本技術の進化で作品が大量に複製できることによる読者の距離の変化と、西洋文化の導入により生じた言文一致運動によって手本とされた「第三人称のリアリズム」の出現により、日本近代の文学作品は大きく変化することになります。その象徴が田山花袋の『蒲団』を先駆者とする「私小説」というジャンルの出現になります。

 

また、その後、近代文学が明治時代の社会にどのような影響を与えたのかを論じています。日本国を西洋諸国に追いつかせるため、近代的思想を新たに知識層の仲間入りを果たした一般大衆に伝える手段として、近代文学はいい手段となり得ました。

 

その後、論は田山花袋の『蒲団』へ移ります。

ここでは、『蒲団』に登場する女学生、芳子についての考察がなされています。作中でハイカラな女学生として描かれた芳子は、近代日本社会の女性の象徴であり、時雄に代表される旧時代的な男性があこがれる存在として描かれている。

そして、芳子が地元に戻される結末は、芳子が師であり近代化へ導こうとした男性である時雄を裏切った罰であり、そこからは男性知識階級が自らの特権性や優越性を独占しようとする意志が窺えるとしている。

 

また、『蒲団』は告白文学として「抑圧によって存在した性」を初めて描いた作品でもある。これまでの告白文学で描かれた虚構の「性」ではなく、「私小説」という形式により「外面」を描くことで可能になる「内面」を描き出すことに成功し、田山花袋は『蒲団』を、自身を確立することが可能になったのである。

 

私小説という汎用性の高い小説の形態の登場により、自然主義近代作家である田山は焦りを生じていた。それは『蒲団』の中の時雄が芳子の恋人である田中への焦りとしても描かれている。それが芳子に対してではないのが、女性作家があくまで男性作家に支えられたものでしかないという考えによるものであるとしている。

 

まとめとしては、私小説という作品の登場により、「内面」と「外面」という考えが生じ、他者と自分を分ける西洋的思想が日本に広まることとなった。そして、その思想を広めていったのは田山花袋をはじめとする男性近代作家であり、そこには女性近代作家を抑圧する動きが存在していたことが窺えたのであった。

 

 

さて、次回はこの議論を踏まえたうえで中島京子の『FUTON』、田山花袋の『蒲団』の批評を実際にやってみるという一大イベントになります。各々がどのように解釈するのか、非常に楽しみですね!!

秋学期第5回ゼミ

 どうも、今回のブログ担当を務めます前田です。
 第五回のテーマは「新歴史主義」についての学習の続きということで、以前から
このゼミでも登場しては我々の頭を悩ませてきたミシェル・フーコー氏に関する
論文をもとに議論を交わしました。今回セレクトしたのは杉田敦『権力』。
その名の通り、権力論が主体のものとなっております。

 今回読んだ章は「権力は上からくるのか下からくるのか」と題して、権力という
ものの在処を探りました。この問いに対してフーコーは「権力は下からくる」と
結論付けています。権力は「上」に位置する特定の支配的な人物がもつものでは
なく、むしろ「下」の位置する不特定多数の人民の関わり合いの中に成立します。
いわば、点として在るのではなく面として在るというわけです。このような
全体をコントロールする主体が不在な状況は、看守ではなく囚人同士が
相互監視する監獄「パノプティコン」に象徴されます。
 上記の内容に伴ってさらにフーコーは、経済的・知的・性的関係においても
権力は外部ではなく、関係の内部に直接生まれると述べました。経済的関係は
マルクス主義に関わってくる話ですし、性的関係はジェンダーにも関わってくる
話題ですね。そこで議論の的となったのが「生 – 権力」というものについてです。
今で言うと健康診断や予防接種など、否応なしに生きることを管理し強制する
権力形態であり、その源流は18世紀のヨーロッパで生じました。そこでフーコーが
着目したのが当時のキリスト教における告白システムであり、そこでは本来
プライベートなものである「性」に関することが衆人の相互監視下におかれ
管理されることになります。これについてはゼミ内でも多くの具体例などが挙げられ、
議論がヒートアップしました。

 権力はあらゆるものの相互関係から生じるという言説は新歴史主義に通じる
ものがありますし、それがマルクス主義やジェンダーなどにも関わる広がりを
持つことが認識出来た、そんな回だったと思います。

秋学期第4回ゼミ

こんにちは。
今回は、秋学期第四回授業についでです。
今回は新歴史主義についての理解を深めるため、
杉井正史氏の「シェイクスピアとロンドン」という論文を使用し、議論を行いました。
執筆担当は提中です。

この論文では、16世紀前半、闘犬や熊いじめといったものと同等なレベルであった劇が、高度なレベルの文化にまで成長した背景には、シェイクスピアやマーローといった才人によるところの他に、エリザベス・ジェームス朝という時間、またロンドンという場が大いに関係しているとし、大衆劇場の発生はロンドンという都市の地理的要素、政治的な要素とどのように関わっていたのか、とくにリバティと呼ばれた特別行政区の役割について、シェイクスピアの喜劇『尺には尺を』を取り上げながら、考察しています。

ここで一度『尺には尺を』の簡単なあらすじを紹介します。
ウィーンの公爵(≒国王)ヴィンセンシオ公爵は、厳格であるアンジェローに公爵代理を任せて、自らは旅に出るといって姿を消すが、実際には、修道僧に変装し、国内の状況を視察する。公爵代理となり統治を行うアンジェローは性道徳について厳しく取り締まり、結婚式の前に許嫁を妊娠させてしまった男・クローディオに対し死刑を宣告する。しかし、クローディオの妹・イザベラに刑の執行を止めるように懇願されると、彼女の美貌に魅了された彼は欲望に屈し、「自分の欲望を満たしてくれるなら、兄を助けてやる」という交換条件を出す。最終的にヴィンセンシオ公爵は正体を現し、悪行を犯したアンジェローに死刑の宣告を下す。しかし、最後には全ての人物が許されて幸福な結果を迎える
という話です。(かなり省略したあらすじなので、気になる方はご自身でお調べ頂くと幸いです。)

今回の授業では、まず、何故外部にリバティという治外法権の場がつくられたのか、ということが議論になりました。リバティは、郊外に存在する地区で、エリザベス朝時代、酒場、淫売窟が王から公認されている場所で、劇場もリバティに出現していました。議論では、リバティという外部に設置された治外法権の場所で発散させることで、内部に権力を適用させることが出来るからなのではないか、という結論になりました。今の世の中でいう競馬や競艇のようなものでしょうか。

さて、次にこの論文は、どう新歴史主義的なのか、ということが議論になりました。新歴史主義について簡単に復習すると、小説や演劇などの言説も歴史の一部になり得る、という考え方です。(詳しくは春学期第14回ゼミの記事にあります。)

この劇の批評史の初期は、「公爵は神の代理人である」という説が有力でした。作品の中で、アンジェローの厳格な立法主義に対して、公爵が寛大な慈悲を施すことによって、自らの統治を回復する、という面に注目すると、公爵は“神の代理人”という解釈がされます。
しかし、現在の批評では、“神”という解釈の逆で、公爵は“神”ではなく私利私欲で動いている、という解釈がされています。国民に自由を与えるように見せながらも、一連の騒動を通して国民を機構の中に封じ込めるという、陰険な権力メカニズムの策謀を、公爵の中に見ようとしているのが現在の批評です。

この劇では、「性」と「死」という人間の二つの属性を最大限に前景化させながら、「自由」と「抑圧」についての言説を提示しています。統治の権力は、一度民衆のもとに晒されますが、この過程を通して人民はより強固に権力機構の中にとりこまれます。『尺には尺を』はこのような権力メカニズムを暴露しています。そしてそれは、エリザベス・ジェームズ朝の、大衆演劇自体の機能も暗示しています。演劇は権力に対する批判の視点を持つが、同時に権力による欲望の封じ込めの手段でもあったため、演劇は現実を映し出す鏡となり得た、ということが書かれていました。『尺には尺を』という作品は時代を反映している作品だということが言え、この点が新歴史主義的であるという議論になりました。

今回のブログ、まとめるのにかなり苦戦してしまいました。頭では理解していても、誰かに伝えられるように文章を書くのはとても難しいですね。精進します。

今回の議論では、フーコーの権力論の話にもなりました。そして権力というものについて詳しく消化することが出来なかったため、次回の授業で、権力論について詳しく扱うこととなりました。
では、また次回もよろしくお願い致します。

秋学期第3回ゼミ

こんにちは。今回のブログ執筆担当の室です。

今回のゼミでは、前回に引き続き、『現代文化論』を使って議論を行いました。

扱った分野は、第1講「映画」と、第10講「お笑い」です。

 

第1講「映画」では「構造主義」・「物語論」、第10講「お笑い」では「フレイミング」・「構築主義」の内容を扱っています。

『現代文化論』については初回のゼミにてどの分野を扱うかを自分たちで決めたのですが、

その中で「お笑い」を選択したのは、「お笑い」を「構築主義」を使って考察するということに興味を持ったためです。

「構築主義」の考え方が「お笑い」という文化にどう関わるのかが想像ができなかったため、テキストの内容や議論を通じて理解できたらいいなあと思い選びました。

 

ではまず第1講「映画」から。

この講では、先述の通り「構造主義」「物語論」を使い、現代文化における「ハイ・コンセプト」映画(=商業映画)に見られる物語の構造や形式を考察しています。

 

前半では、『スター・ウォーズ』を構造主義的に読み解くという形で解説されていました。

『スター・ウォーズ』は、作中で多くの対立関係が登場します。この対立関係を読み解くことで、隠された意味を見出すことができる、ということでした。

これにより、旧三部作ではソ連を仮想敵国としたアメリカの正当性を主張しようしていたこと、新三部作では新たな仮想敵国としてのイラクを暗示していることが指摘できます。

 

後半では、ウラジミール・プロップの昔話研究の内容が、現代の商業映画に色濃く反映されていることが指摘されていました。ここでは、『スター・ウォーズ』『ハリーポッター』を例に、商業映画において物語の「形式」が存在していることが解説されています。

 

議論の内容としては、物語論の歴史の確認を中心に行いました。物語論の歴史の中で、「構造主義」がどのような立場であるのかを再度復習しました。

また、テキストの中で指摘されていた商業映画の物語の形式について、これを壊すような作品も登場しているのではないかという話もしました。英雄譚に見られる形式が「面白い物語」としての規範となっている現代において、そういった規範を受け継がない作品も登場していることが分かりました。形式に則った物語を面白いと感じるのも、多くの商業映画に触れる中で作られた感覚なのかもしれないと思いました。

 

次に第10講「お笑い」です。

前半はお笑いにおいて「フレイミング」がどのように取り入れられているかが解説され、後半は「笑えるもの」が社会の状況に応じて常に変化していることが指摘されていました。

 

「フレイミング」とは、ある出来事に意味づけを行うことです。これにより、それ自体では意味を持たない出来事が、ある経験として残ります。同じ出来事でも、意味づけによって違う経験を手に入れることができますが、この意味づけの行為が「フレイミング」と呼ばれるものです。

 

この「フレイミング」が、現在主流になっているコント形式のお笑いにおいて、重要なものになっています。

ここで例として挙げられたのはアンジャッシュの「障子をへだてて」というネタです。このコントは、同じ状況を、登場人物それぞれが違う状況として定義するという「フレイミング」を利用したものです。

 

後半は、「お笑い」における笑いの要素を、構築主義的に見ていきます。ここで例に挙がったのは「キャラ設定をするお笑い」です。このお笑いは、私たち自身が人間関係を形づくる中で「キャラ」というものが定着したからこそ、成り立つものです。

また、笑い飯の「鳥人」というネタにおいても、マンガ的な感性がなければ受け入れられない、現在だからこそ受け入れられたネタであることが指摘されました。

 

議論の中では、構築主義の例として「指導」と「体罰」が挙がりました。現在では「体罰」として扱われるものの中には、以前には「指導」として行われていたものなどもあることから、物事の認識が社会の状況により変化していくことを確認しました。

 

今回の内容は、個人的に論文に直接関わることが多かったため、執筆を進める際に参考にしようと思います。

作品をどう分析するか行き詰っていましたが、作品の構造を読み解くという事例を確認できたので、取り入れようと考えています。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

秋学期第2回ゼミ

こんにちは!今回のブログ担当の横野です。

秋学期からはゼミの進め方が変わることになり、
①前座として各々の論文内容の発表・議論、
②春学期で学んだ批評理論の復習・フランケンシュタイン以外の作品で批評理論を用いた論文の発表・議論
を行うことになりました。

今回は初回授業ということもあり、①は内藤先生による論文の書き方(パラグラフ・ライティング)の講義に、②は『現代文化論』を用いて室さんがマンガ、相田くんが文学についての発表に代替されました。

パラグラフの構造やトピックセンテンスなど、基本的なことを学び、春学期に提出した論文を事例にして分かりやすく説明してくださりました。

改めて春学期の論文を見返すと、文章がめちゃくちゃになっているので、次に提出する論文ではパラグラフ・ライティングを用いて改善しようと思います!

そして、まずは室さんによるマンガについての発表。

マンガという題材を用いて〈文化産業論〉〈価値形態論〉を発表してくれました。

文明(文化)は野蛮さの対極にあるものとされてきましたが、実は文明化こそが人間が行ってきた最も野蛮な行為だと『啓蒙の弁証法』では書かれています。

どういうことだろうと皆で話し合いましたが、「そもそも対立しているのではなく、文明も野蛮さも当時の啓蒙的思想に包括されているのだ」という脱構築的考え方によって二項対立を破壊しているとアドルノ・ホルクハイマーは説明しているという結論になりました。

ただし、アドルノはエリート主義的な文化観を持っていたので、クラシックとポップカルチャーを二項対立していたこともあるようです…。

そして、その後に文化産業としてのマンガを『週刊少年ジャンプ』を事例にして見てみることに。

・ジャンプは他の週刊少年コミック誌に比べ圧倒的に売れている。
・売れることに徹底してこだわっており、マンガを作品としてより「商品」として扱っている。

などが『現代文化論』に挙げられていました。

議論の中で「友情・努力・勝利」というジャンプの三大原則も売れやすいコミックの鉄板ネタだからこそではないかという話題になりましたよ。

ついさっきまでジャンプを夢いっぱいのコミック誌だと思っていたので、少しだけ大人の事情や闇を見たような気分になりました(笑)

そして、価値形態論について。

価値形態論はマルクスが『資本論』冒頭で展開しました。

価値は交換という形態(価値形態)をとらずに現れることはなく、商品は交換されることによって“同じ価値がある等価物”となるそう。
確かに、現在でもお金と商品を交換して買い物をしていますもんね。

ここで、よく価値形態論は労働価値説(価値について、「ある商品を生産する際に必要とされる労働時間つまり労働量」だとする経済学説。)を展開していると誤解されるそうですが、マルクスは「労働価値説」を批判しています。

マンガも描かれた当時の社会を反映し、当時の人々にとって価値がある作品が作られています。

例でいうと、バブル経済期は明るい気分のもとで多様な価値観をもつ個人が戦い成長をする作品が描かれています。
代表的な作品として、『ドラゴンボール』『聖闘士星矢』などが挙げられています。

しかし、必ずしも直接反映するわけではなく反転したり、ねじれたり、ゆがんだりしながら社会のあり方を映し出しているそうです。

例として、『鋼の錬金術師』は資本主義(利潤を含んだ交換を最重要課題とする)とは正反対の等価交換を最重要課題としています。

次に相田くんによる文学についての発表。

まず間テクスト性の夏目漱石の『こころ』を題材として復習をし、その後相田くんが春学期論文で題材にした新本格派推理小説の間テクスト性をこれまでの推理小説を時系列に挙げて説明してくれました。

そして、脱構築。
これも復習をしたあとに「リアルとフィクション」の脱構築を実践してくれました。

ライトノベルやケータイ小説を題材として、表紙、作品の特徴、作家などから分析してくれました。

ライトノベルは表紙をアニメ風のカバーにするなど、フィクションを強めたものですが、同時期に流行したケータイ小説はレイプ、ドラッグ、DV、いじめというリアルを追求した作品です。

ですが、ケータイ小説のリアルな舞台設定も1つのフィクションを作り上げる為の装置でしかなく、“リアルという形の中でフィクションであることを徹底しようとする作品である”という点において、近年ではリアルとフィクションという二項対立は緩められているのではないかとのことでした。

こうして久しぶりのゼミは終了。
忘れている批評理論が多々あることも分かったので、改めて復習しなおそうと誓いつつ次のゼミに向けて皆始動し始めました!
長文になってしまいましたが、最後までご覧いただきありがとうございました。

春学期第14回ゼミ

春学期第14回ゼミ(春学期最終)

秋学期が始まりましたね。課外授業、ゼミ合宿や夏季課題に追われていて、すっかり春学期最終ゼミのブログ更新を忘れていました相田です。そろそろ言い訳も見苦しいですが、秋学期はちゃんと更新できるよう、誠心誠意努力いたします。

今回の授業では、まず4限が「文体論的批評」、「透明な批評」の2点。5限は前回の授業で取り扱った「新歴史主義」について深めるため、ミシェル・フーコー著『知の考古学』を読み解きました。

4限では、まず「文体論的批評」についてから議論を行いました。「文体論的批評」は、テクストにおける言語学的要素に着目し、作者が文やテクスト全体の中で言葉や語法、文法などをいかに用いているか分析する批評理論になります。要は、作者がこの作品を描くにあたって用いた言語、並びに文法や語法、単語に意味を見出そうとする批評理論になります。
『フランケンシュタイン』でも、文が長く構造が複雑な部分や文が短く、簡潔な部分など、その場面に応じた文体、文章の区切りが見受けられます。しかし、私達が資料として読んできたのは和訳であり、また作者が前面に押し出されていることからもわかるように、少しこの理論が提唱されたのは古いようです。文章構造や単語の選択から何かを読み取る、批評することで作者の意図などを読み取るという意義は理解できたので、次の批評理論へと進みました。
「透明な批評」では、テクストを客体として見る批評を「不透明な批評」、作品世界と読者自身の世界の仕切りを外し、テクストの中に入り込んで論じる批評を「透明な批評」と分類する批評理論になります。個人的には、『フランケンシュタイン』においてほとんど登場しないヴィクターの弟、アーネスト・フランケンシュタインの今後や、怪物が黄色いと表現される背景を論じることに興味はありましたが、具体的な論証を得ることの難しさと、汎用性が高すぎることからもわかる通り、この批評理論も提唱されたのは昔のことのようです。

5限では、4限の議論とは桁違いに難解かつ白熱した議論になりました。今回の議題は前回議論した「新歴史主義」の応用です。
新歴史主義が、従来の考古学といった歴史主義で言うところの歴史が絶対の基準であるという点を崩し、文学や自然科学も歴史足りえるということを伝えたいのかなぁという、漠然とした考えでしか理解がいかないように感じました。
議論後半、歴史は「一枚一枚大きさや味や色が異なるチップスターみたいなもの」という突拍子もない意見が出、場を沸かせましたが、よく考えるとそれが一番わかりやすい表現なのではないかとなりました。「歴史」というものは、時間という概念での一貫性のあるものではなく、何かしらの出来事の階層のつながりではないかというのを示すために、実際チップスターというのは言い得て妙ではないでしょうか。
こんなにも迷走した議論でしたが、まあ、決着を見ることはなく、合宿へ持ち込みとなるのでした…

ゼミ合宿の様子もブログとして発表しますので、こうご期待です!!

春学期第13回ゼミ

どうも。このページでは初、通算三回目の投稿となる今回のブログ担当・前田です。いよいよ春学期ラストも近い第13回目では「ポストコロニアル批評」「新歴史主義」「オリエンタリズム」を取り扱いました。

「ポストコロニアル批評」とは文学作品を対象とする第三世界の分化研究を指します。『フランケンシュタイン』ではトルコ人や東洋の言語など研究に最適な要素が多数登場し、それらはしばしば西洋的要素と対比されます。例えばトルコ人の父娘が作中に出てきますが、父親は偏見をもって書かれているのに対し娘のサフィーはキリスト教徒という西洋的価値が付加されているためか肯定的に描かれています。このような西洋と東洋の対比の話は後述する「オリエンタリズム」と大きく関わってきます。

「新歴史主義」とは、歴史主義が発生してからニュー・クリティシズム、読者反応批評、ポスト構造主義へ至る道筋の中でいずれも作品の歴史的背景が無視されているという点を受けて生じたものです。歴史を従来の歴史主義的に考えると、歴史を認識するうえで歴史書や科学書などの学術的なテクストのみが信頼におけるものとされ、それらに記された出来事が重視されてきました。だが新歴史主義では歴史をより広範なものと捉え、文学テクストも歴史の判断材料とすることで一種の社会科学として位置付けています。こうすることで文学テクストと他の領域のテクストの境界を取り払うという見方も可能となるわけです。

「オリエンタリズム」とはすなわちオリエント(東洋)と西洋とのあいだに設けられたものを論じる思想様式を指しますが、この「オリエント」という概念は東洋そのものから発生したものではなく、実は西洋人によって作り出されたものなのです。さらに言えば、ヨーロッパ文化のアイデンティティ確立のためにオリエンタリズムを論じる必要があり、そのためにオリエントという概念が作られたと言えます。つまり言葉とイデオロギーが先にあってその後にイメージが作られるわけです。この関係性はセックスとジェンダーの関係とほとんど同じですね。そしてオリエントとオリエンタリズムを分ける言説を分析し、対応関係を論じないのが最大の特徴です。

春学期のゼミ議論も残すところあと一回となりました。出来る限り負債を合宿に持ち込まないようにもうひと踏ん張りです! ではまた次回でお会いしましょう。

春期第12回ゼミ

お久しぶりです。ブログ担当の室です。

今回は『批評理論入門』からⅡ-8「マルクス主義批評」・Ⅱ-9「文化批評」、カール・マルクス『経済学批判』を扱いました。今回は4・5限で分けずに、分野ごとに議論することになりました。

まずは「マルクス主義批評」から。

「マルクス主義批評」とは社会主義思想をベースとした批評理論で、文学テクストを「物」として扱う点が特徴です。この批評においては、文学作品はある歴史的時点に生じた「産物」であり、そのテクストの生産には政治的・社会的・経済的条件があるはずだと考えます。

ここで挙げられる「経済的条件」に関してですが、マルクス主義批評では思想よりも経済を重視します。K・マルクスは生産体制が思想に影響を与えていることを指摘しました。これまで思想と作品を結びつける動きはありましたが、思想の前の段階として生産体制が存在すると考え、その生産体制に着目し作品を読み解くのがこの批評理論です。

さて、マルクス主義批評的に『フランケンシュタイン』を読むと、実際の当時の状況と作品の記述にはいくつもの矛盾が見つかります。

『フランケンシュタイン』の物語が進行している時点は、フランス革命のさなかでした。しかし、作品内ではその150年前に起こった清教徒革命に関する記述は見られるものの、フランス革命については全く語られません。また、専制君主の典型であるチャールズ一世に対し同情的な様子が見られることも、自由思想のメアリとは本来相容れないものです。

怪物が何を表しているのかということも、マルクス主義批評的に読み解こうとすると、これまでの批評とはまた違った見方になります。怪物は、フランケンシュタインによって科学技術で作られ、凄まじい破壊力を持ち、創った人間の手にも負えない存在となりました。

この「破壊力」や「制御ができない存在」という点は、市民革命が呼び起こし制御ができなくなった「群衆の力」と取ることができます。また、科学技術から生まれ、「理解を超えた存在」としての怪物は、「産業技術」とも取ることができます。フランケンシュタインによって創られながらも、創った人間に逆らい手が負えなくなるという点では、支配者層が作り出した「労働者」の姿とも重なります。

このように、怪物はある立場の人にとっての、理解不能な恐ろしい存在を表したものと取ることができます。しかし、この作品における怪物は単に恐ろしい存在としてではなく、言葉を操り、哀れみの感情を抱かせるものとして描かれました。モンタークはこれについて、メアリが言葉を持たない労働者を、怪物を通して代弁しているのだと主張しています。

ここで、この後に続く「メアリは労働者階級への同情とフランス革命再来への恐怖というジレンマを抱えていた」という記述について、この「ジレンマ」というのが何か、ということが議論の中で疑問として上がりました。

結論としては、メアリが抱えていた「自由思想」としての立場と、「支配者層」としての立場のジレンマを指しているという意見で一致しました。

「労働者階級への同情」として言葉を持たない人々を代弁したのは、自由思想家としてのメアリです。ただし、メアリ自身は労働者階級ではなく、支配者層にあたる上流社会の人間です。そのため、フランス革命再来により特権が失われる恐怖を感じていたと指摘できるのではないか、という意見が出ました。チャールズ一世に同情の様子を見せたのは支配者層としての立場によるものだったと考えると、自由思想とは相容れないはずの姿勢をみせたことにも納得ができました。

その他、モンタークは「怪物創造のプロセスが省かれている点」、「産業社会が描かれていない点」を矛盾点として指摘しています。こういった描写がないことを、ゴシック文学として扱えば「憧れ」として説明することができますが、マルクス主義ではこれを批判し、この「矛盾点」を徹底的に読み込み、「歴史性」を見出そうとします。

現代的なものに対する直接的な描写が避けられたことで、怪物が現代的なものを一身に負って体現したために、怪物が真の怪物性を帯びたのだと『批評理論入門』の中ではまとめられました。

怪物以外に不安・恐怖の対象が作品内で描かれれば、怪物が持つ怪物性が薄れてしまいます。怪物性を持った他の存在を排除し、怪物にその時代の恐怖のすべてを付与させたことで、怪物が「怪物」らしく表現されたのではないか、ということで理解しました。

ここまで『フランケンシュタイン』の批評に重点を置きマルクス主義について確認していきましたが、今回の議論の最終的な目標は「マルクス主義の面白さとは何か?」という問いについて考えることでした。

この批評の面白さは、文学テクストを通じて実際の社会の矛盾を読み解くことができる点です。作品からは「作品=社会の派生」ということが読み取れますが、その中から大きく矛盾している点を探ることで、社会の脆弱性を指摘することが可能になります。

 

次の「文化批評」は、おそらく全員の論文に関わる内容だということで、合宿にて詳しく議論することになりました。

文化批評は、「ハイ・カルチャー」と「ロウ・カルチャー」の垣根を壊すことが目的です。それによって、「資本家」「労働者」の関係を壊す意図がありました。

『フランケンシュタイン』は、長い間多くの大衆文学の中に吸収され続け、またその都度時代に沿ってストーリーに変化を加えながら、映像化されてきました。今回、『批評理論入門』では時代ごとにどのように変化してきたかということに重点が置かれていたため、「文化主義批評の意義はなにか?」ということについては、合宿で議論することになっています。

あまりまとまりがない文章になってしまい申し訳ありません。マルクス主義批評については個人的にもう一度おさらいが必要みたいです・・・。文化主義批評に関しても、合宿でがっつり議論できたらいいなあと思っています。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

春学期第11回ゼミ

こんにちは!
ブログ担当の提中です。
早いものでもう7月。春学期ももう終わろうとしています。もうすぐ夏休みですね。
テストやレポートの提出とまだまだ気が抜けませんが、充実した夏休みにしたいです。

さて、さっそく今回のゼミの内容紹介を……。
今回は4限で『批評理論入門』の「フェミニズム批評」「ジェンダー批評」について議論を行いました。
「フェミニズム批評」は、1970年代以降に性差別を暴く批評として登場しました。
この批評の中で、女性の書いた作品を研究対象とする立場を「ガイノクリティックス」といいます。『フランケンシュタイン』は、作者が女性であるということで、ガイノクリティックスの対象となりました。メアリ・シェリーが何故自分の名前を伏せて作品を出版したのか?ということについて、「女性であったから」ということも理由の一つとして考えられています。それは、この作品が書かれた時代、女性の読み書き能力は軽視され、ペンでの自己表現は男の領分だったためです。こうしたことから、フェミニズム批評では、『フランケンシュタイン』はペンを持って書きたいという女の欲求不満と羨望を子供を産みたいという男の子宮願望に置き換えた作品だとされます。
また、当時の作家で出産を経験した女性はほとんどいませんでしたが、メアリは最初に妊娠してから数年間、ずっと妊娠し続け生まれた子供が次々と死んでいくという経験をしました。メアリは出産と死が入り交じる不安の中で、女性としての稀有な立場から母性に伴う陰気な側面を描いています。
フェミニストたちが、「性差別をなくしたい」という思いで登場したフェミニズム批評ですが、母性や出産の経験など、女性にしかないものがあると主張することで、逆に男女の差異が強調され、男性と女性の間に境界が出来てしまい、フェミニズム批評は行き詰ってしまいます。

そこで、登場したのが「ジェンダー批評」です。
「ジェンダー批評」は「フェミニズム批評」と異なり、男性女性両方を連続的なものとして捉えます。
ジェンダー批評には、男の同性愛者を扱う「ゲイ批評」、女の同性愛者を扱う「レズビアン批評」、両性愛者や性転換者なども対象に含めた「クイア理論」があります。
『フランケンシュタイン』では、フランケンシュタインとウォルトン、またはフランケンシュタインとクラヴァルの関係はゲイ批評の対象となり、エリザベスとジャスティーヌの関係は「レズビアン批評」の対象になります。
ここで、ゲイ批評は現代のいわゆるBL二次創作と関係があるのか、ということについて議論になりました。
BL二次創作とは、既存の作品をもとに男性の登場人物たちの間に恋愛感情があると妄想をし、二次的に作品を創作することです。ゲイ批評の目的は、異性愛だけでなく、同性愛も普通の恋愛であると主張することにあります。『フランケンシュタイン』のように、一見異性愛だと思われるものの中でも、同性愛的要素が含まれていることもあるということを分らせることに意味があるとします。そう考えると、異性愛が描かれている作品の中に同性愛的要素を見出し、それを批評という形ではなく作品にしたものがBL(またはGL)二次創作だといえるかもしれません。

5限ではジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』について議論を行いました。
セックスは生物学的性差、ジェンダーは文化的性差をいいます。ジェンダーは一見セックスのうえにあるように思われますが、バトラーは、ジェンダーのほうが先にあり、セックスはジェンダーに含まれるとします。セックスは、身長が高いとか低いとか、目が一重とか二重とか、数ある身体的特徴の一つにすぎません。ただ、性器の有無が、他の機能に比べ再生産において重要なため、2つに分けられるかのように思えてしまうのです。しかしその、再生産をしなければならないという考えも、人口が重要な近代国家によって政治的に都合がいいように構成されてしまっています。

最近は、授業内で疑問点を全て解決できず、夏合宿に持ち越しになることが多かったのですが………
今回は全員すっきり理解することが出来ましたー!
ただ、ジェンダーについての問題は皆なかなか興味深かったようで、時間があれば夏合宿でもっと掘り下げたいということになりました。
個人的にセックスはジェンダーに含まれるのだということが目から鱗でした。

今回も長い文章になってしまいましたが、読んでいただき、ありがとうございました。
ではまたお会いしましょう!

春学期第10回ゼミ

こんにちは!
ブログ担当の横野です。
ついにゼミも第10回です!あっという間に6月も終わります。ゼミはもちろん、ワークショップの計画やサークル活動、インターンなど様々なことに追われながらも充実した日々を過ごせています!
では早速、ゼミの内容を…。
まず、4限では廣野由美子著『批評理論入門』の「脱構築批評」「精神分析批評」について議論しました。
脱構築批評とは不一致や矛盾を予め含んだものであるということを明らかにするための批評とのこと。従来の解釈を否定して別の解釈を提示するのではなく、テクストが矛盾した解釈を両立させていることを証明することが目的となっているそうです。

具体例として、昔話の『桃太郎』は鬼が悪いことをして成敗される悪の存在だけど、違う解釈をすると鬼は桃太郎一行から成敗された時に大きな怪我を負っているので同じように被害を被っているのではないか…という意見が出ました。

そして、脱構築批評の反論として「テクストには揺るがない解釈である意味の『中心』が存在する」と考える構造主義や、形式主義があらわれてきたそうです。

『フランケンシュタイン』は、当時の西洋的作品の特徴である二項対立を多く扱った作品ですが、終盤にはその境界線が曖昧になり、二項対立は消滅していきます。その意味では当時の西洋的イデオロギーを脱構築した作品と言えるのではないか、とのことでした。

そして精神分析批評ですが、これにはフロイト的解釈・ユング的解釈・神話的解釈・ラカン的解釈の4つがあります。その中でも特に議論が白熱したのはフロイト的解釈でした。

フロイトは意識から追い払われたものから成り立つ貯蔵庫=無意識と定義しました。
なので、フロイト的解釈では作品や登場人物より作者自身や作者の作品製作過程に関心が向けられることが多いそうです。
ちなみに、フロイトは幼児期の性的欲望が無意識に繋がっているとの考え方を持っており、「父に代わり母の愛を独占したい」という男児の欲望であるエディプス・コンプレックスもこれに関連しています。
疑問点として
1「フランケンシュタインと怪物がフランス革命の擬人化をした点」
2「フランケンシュタインと怪物が逆方向の道筋をたどろうとしている点」
の二点がよく分からないという意見が出ました。

1点目はボッティングが説明しており、フランケンシュタインがフランス革命の保守的立場、怪物が急進的立場をパロディ化しているとのことです。

2点目は
フランケンシュタイン=社会不適合者・自分で生物を作り出し社会作ろうとする
怪物=1人で社会に出ていこうとする
という真逆の立場であり、話が進むにつれフランケンシュタインは社会の外側から内側へ、怪物は社会の内側から外側へ進もうとしているという意味で逆方向の道筋をたどっているという結論に至りました。
次は5限です。5限ではジャック・デリダ『エクリチュールと差異』について議論しました。
そのなかで疑問点として「スキャンダルには他に例があるのか」という1点が出てきました。
なので、先にスキャンダルについて説明します。

スキャンダルとは構造主義にとって困ったもの・出てくると矛盾が生じてしまうもので、「受け入れられている自然/文化の対立をもはや容認せず、自然と文化の両方に与えられた賓辞を同時に要求するような何ものか」だそう。一例として「近親相姦の禁止」があげられています。
先ほど4限で取り扱った脱構築や次の講義で取り上げられるジェンダートラブルなどは今回のスキャンダルに含まれるそうです。

そして、先ほどの疑問点の回答として「殺人の禁止」「カニバリズム」などがあげられました。なかなか恐ろしい例があがったなあと思います(笑)

そして、5限の内容の要点として「脱構築は、形而上学の主要な諸概念の階層秩序的二項対立を解体しようとする」という点があげられました。
4.5限を通して西洋の作品の特徴である二項対立を解体するという点があげられていた辺りは、やはり西洋的作品が当時の最先端であり、研究も西洋中心であったんだなあと少しだけ感じてしまいました。

ゼミに入って、今まで西洋の小説や映画をあまり観てこなかったことを少し後悔しています。
これからゼミ活動の合間をぬってこれらの作品に触れていけたらいいなと思います。

次回もお楽しみに!