春学期第14回ゼミ(春学期最終)
秋学期が始まりましたね。課外授業、ゼミ合宿や夏季課題に追われていて、すっかり春学期最終ゼミのブログ更新を忘れていました相田です。そろそろ言い訳も見苦しいですが、秋学期はちゃんと更新できるよう、誠心誠意努力いたします。
今回の授業では、まず4限が「文体論的批評」、「透明な批評」の2点。5限は前回の授業で取り扱った「新歴史主義」について深めるため、ミシェル・フーコー著『知の考古学』を読み解きました。
4限では、まず「文体論的批評」についてから議論を行いました。「文体論的批評」は、テクストにおける言語学的要素に着目し、作者が文やテクスト全体の中で言葉や語法、文法などをいかに用いているか分析する批評理論になります。要は、作者がこの作品を描くにあたって用いた言語、並びに文法や語法、単語に意味を見出そうとする批評理論になります。
『フランケンシュタイン』でも、文が長く構造が複雑な部分や文が短く、簡潔な部分など、その場面に応じた文体、文章の区切りが見受けられます。しかし、私達が資料として読んできたのは和訳であり、また作者が前面に押し出されていることからもわかるように、少しこの理論が提唱されたのは古いようです。文章構造や単語の選択から何かを読み取る、批評することで作者の意図などを読み取るという意義は理解できたので、次の批評理論へと進みました。
「透明な批評」では、テクストを客体として見る批評を「不透明な批評」、作品世界と読者自身の世界の仕切りを外し、テクストの中に入り込んで論じる批評を「透明な批評」と分類する批評理論になります。個人的には、『フランケンシュタイン』においてほとんど登場しないヴィクターの弟、アーネスト・フランケンシュタインの今後や、怪物が黄色いと表現される背景を論じることに興味はありましたが、具体的な論証を得ることの難しさと、汎用性が高すぎることからもわかる通り、この批評理論も提唱されたのは昔のことのようです。
5限では、4限の議論とは桁違いに難解かつ白熱した議論になりました。今回の議題は前回議論した「新歴史主義」の応用です。
新歴史主義が、従来の考古学といった歴史主義で言うところの歴史が絶対の基準であるという点を崩し、文学や自然科学も歴史足りえるということを伝えたいのかなぁという、漠然とした考えでしか理解がいかないように感じました。
議論後半、歴史は「一枚一枚大きさや味や色が異なるチップスターみたいなもの」という突拍子もない意見が出、場を沸かせましたが、よく考えるとそれが一番わかりやすい表現なのではないかとなりました。「歴史」というものは、時間という概念での一貫性のあるものではなく、何かしらの出来事の階層のつながりではないかというのを示すために、実際チップスターというのは言い得て妙ではないでしょうか。
こんなにも迷走した議論でしたが、まあ、決着を見ることはなく、合宿へ持ち込みとなるのでした…
ゼミ合宿の様子もブログとして発表しますので、こうご期待です!!