第16回 6期生ブログ「共同体」

昨日、春学期最後の自主ゼミが終了しました。なんと5時間にも及ぶ話し合いになりました!
これまで『ディスタンクシオン』と『リキッド・モダニティ』を読み進めましたが、毎週多くの文量を読んできて、隔週でレジュメを作成し、ゼミでは3時間半もの話し合いという、今振り返れば16回もよく乗り越えられたな、と自分に感心してしまいます(笑)
私は正直、同期のゼミ生2人よりも怠惰な性格であり、大学の授業への向き合い方も違っているなと毎回のゼミでひしひしと感じていました。そんな私がここまで頑張れたのも、義務感からくるものではなく、心から楽しいと感じ、絶対に個人的には読まないであろう文章を読むことで得られる知識、価値観、私とは似ていない(きっと何か共通点もあるからこそ集っているのでしょうが)2人の意見を聞くことで得られる新しい考え方、新しい自分、、、様々な収穫があるからこそ積極的にやってこれたのかなと思っています。

たくさんの話し合いを経て、私は結局「自分が何者なのか」が知りたくて知りたくてしょうがないのだろう、ということがはっきりわかりました。春学期のゼミで取り上げた二つの文章と、先生が講義してくださった内容は共通して「他人・他者性をどう捉えるか」ということだったと、私は感じています。今期のゼミの内容をその観点から捉えているのも、「私らしい」のではないのかなと思います。
私は他人にとても強い関心があり、嫌がられないのであれば、全員に人生について、価値観についてをインタビューしたいぐらいの勢いですが、それも結局「他者を知ることで自分を知るため、結局自分のため」に他者への関心が強いのだな、とようやく理解しました。他者はどういう道を歩み、どう物事を捉えるのか、それは自分とどう違うのか、自分はその他者に対してどういう感情を抱いて接しているのか、自分はその他者に対してなぜその感情を抱くのか、、、という風に、結局は自分自身という人間について明らかにしたくて、他者への関心がどんどん増しているのだろうと思います。自分自身について知りたければ、内省的に考えればいいじゃないか、という意見もあるのでしょうが、私は本能的に、他人を通して自分を浮き彫りにするタイプであります。また、自分とは絶対に同じではない「他人」という存在をとても面白いと思うことができる才能があるのだと思います。だから、「八方美人」と言われがちですし、他人から「あなたは私のことをすごくわかってくれるよね」とよく言われます。他人のことをよく理解しているのは、私が他の人よりも関心が強いからこそなのだな、と思います。完全には理解できないので、おそらく、その他大勢より私が観察をした結果、理解が深まってしまっているだけなのです。好き嫌い関係なく興味があるだけです。
最近では、表象作品に関しても純粋に思う存分楽しんだ後に(私は分析はあまりできません、純粋に鑑賞します)、なぜこの作品に関して自分はこのような感情を抱くのだろうか、という自己分析に繋げてしまうようになりました。結局自分のことばかりです。
最初はきっと他人への関心も表象作品同様に、純粋に楽しんでいたのだと思います。なんでこの人はこんな考え方、こんな行動、こんな趣味があるのか?知りたい!!!私とは違う考え方、知りたい!!!!みたいな。
けれども今は、なぜ各人間はこのような考え方に至り、行動ができるのだろうか、自分は?という風に他人から自分へ繋がってくることが多いです。

そんな私なので、私にとって「他人」はなくてはならない存在であり、一番の興味対象です。いや、一番の興味対象は自分のことも含めるので「人間」ですね。
この春学期のゼミではここには書ききれないほどの多くのことを学び、世界の見方も変わり、自分自身も変化しました。そこで発見したことの一部を綴らせていただきました。
後期も過酷でしょうが、私にとっての「仕事」であり、重要な共同体の一つであるので頑張っていきたいと思います。とても楽しみです!!!

小野寺

第15回 6期生ブログ 「蒸発宣言」

 

将来に対する漠然とした不安、一歩先すら見えない恐怖、ますます何が何だかわからなくなり、自分がどこに立っているのかすらはっきりしない。私は今、とてもじゃないほど、不安で押しつぶされそうになっている。

そんな私をピタリと言い当てるようなバウマンの仕事は、私をますます苦しめる。だからこそ、そんなバウマンを倒したい気持ちに駆られるのだ。私はリキッドモダニティの犠牲者かもしれない、だけども、新しい何かが私を救い出してくれるかもしれない。例え机上の理論であったとしても、私はそんな私を助け出す考えを求めている。それが欲しくて何かにすがりたくて必死になっているのだ。

実はこの春学期に、みるみる元気がなくなり、床に冷やし中華をぶちまけてしまったことをきっかけにして、精神科にかかったことがある。そこの、診療室はSMAPのポスターやグッズで埋め尽くされていて、医者はボロボロの白衣を着てボサボサの髪でマスクはずり落ちていて、私の言葉を半分苛立ちながら聞き、私は完全に間違ってしまった!と悔やむような気持ちだったのだが、しばらくして医者が言った言葉に驚愕したのだった。医者は、自身が勉強ができず留年して中退を考えた経験から、「テキトーでイイんだ!」と思ったそうだ。一度置いてけぼりを食らって、社会の規範やレールから落ちることを経験して、何もすることがなくなった”失格”の称号を食らってしまった医者は、もうどうでも良いや!とサジを投げてしまったそうなのだ。それでも、その肩の力を抜いたことによって、もう一度医者になってみる気力が湧いてきたそうなのだ。「そんな感じで、テキトーで良いんじゃないかなあ」と医者は、医者としてのアドバイスとより、ただの人間として私と接し、人生の先輩として助言を試みたのだった。私はまずその事実に驚愕し涙ぐみ、次に、自分が悩ましいと思っていた不確実で不安定な未来に、なんとか乗っかっていけるような気がして再度涙ぐんだのだった。昔から心配性でどこか優等生気質が消えない私が、そういった考えに至ることはなかった。いつも落ちたら終わり=死んだ方がマシ!のような、エリートであることを是として生きてきた私にとっては、目から鱗の考え方だった。そうか、立派(?!)に医者になっているこの人も、テキトーに生きてるんだな、と。テキトーとは、柔軟性と近い考えかもしれないが、臨機応変で計算高い柔軟性に比べて、行き当たりばったりのようなゲーム感覚が強いだろう。そして、偶然性に身を委ねるかのような、達観している印象も持つ。自分で責任を取らなければいけないリキッドモダニティにおいて、テキトーは自己責任が通用しないような、そんな乱暴さもある。

私はこの、人生史上最も難関の岐路に立たされながら、不安定な未来を恨み、なるべく安全安心な道を行こうとしていたのだった。完全にリキッド・モダニティの犠牲者の私は、それでもまだリキッド・モダニティにいなくてはならない。そうなったらもう一つしかない、不安に思わないことだ。例え不安定であったとしても、失業しても、何があっても、もうどうでも良い。テキトーに生きることだ。それしかない。聞こえ方によってはとても自暴自棄のような考えかもしれない。しかし私は、それがこの神経質なリキッドモダニティを生き抜く一種の抵抗運動なのかもしれないと思っている。だから私は、不安定な未来を考えるのはやめて、かといって一瞬の享楽だけを楽しみ、あとは全て不安に怯えるようなこともやめて、今も未来もそして過去も全てを含めた、どこか達観したような落ち着きと適当さを揃えた、気体のような生き方をしたい。水の沸点は100度だ。私は何度で蒸発できるのだろう。

でも…書き終えて、やっぱりなんだか…どうしてこんなに悲しいんだろう。

これが自由というものかしら

自由になると淋しいのかい

やっと一人になれたからって

涙が出たんじゃ困るのサ

やっぱり僕は人にもまれて

みんなの中で生きるのサ

吉田拓郎『どうしてこんなに悲しいんだろう』より

(最近フォークソングばかり聴いて、しかも涙ながらに歌ってしまうのは完全に、私の気分が、時代の気分が、70年代前半の”若者たちの挫折”と似ているからなのだろうなあ、という話はまた別の機会にでもどうぞ)

担当:宮本

第14回 6期生ブログ「時間/空間」

こんばんは!
第14回のゼミでは引き続き『リキッド・モダニティ』の精読と関連することについてたくさん話し合いました
。今回は第3章の「時間/空間」でした。

読み終えてから、今のこの新型コロナウイルスによって人々の時間と空間の使い方、考え方がかなり大きく変わったのではないかと考えていました。
人々はまず「移動時間とは何て厄介だったのか!」ということを、頭ではなく体で実感したのではないでしょうか。頭では「リモートワーク」を理解し、とても合理的なことはわかっていましたが、今まで実際にはそこまで普及していなかったように思います。みんなで満員電車に揺られて、わざわざ出勤していましたし、何事も「直接あることが大事」とされていました。しかし、強制的にリモートワークをしなければならなくなったことにより、リモートワークがここまで機能すること、移動時間も交通費もここまで削減できてしまうことに気づいたのです。これは電車が生活の根幹にあった都市部の人間や会社にとって、かなり大きな事実であり、社会が変わる予感がします。

さらに人と人との関わりが薄れ、「自己責任」がより一層強まる社会になってしまうのでしょうか、、、
そうではなく、仕事や学校といったものに何らかの理由で外へ出られない人々が、家でも参加できるようなポジティブな面が進歩していってほしいなと思いました。

第13回 6期生ブログ「オリエンタリズム」

梅雨明けを迎えた途端、セミの声が鳴り響き、焼けるような暑さに日々悲鳴を上げています。

だいぶ時間が経ってしまいましたが、2週間前のゼミではポストコロニアルとオリエンタル研究について取り扱いました。

「東洋(オリエンタル)」と「西洋(オクシデント)」は特定の地域を指す言葉ではなく、もっと概念的なものである。そしてこの2つの概念の関係性は対等ではなく、複雑なヘゲモニーを包含している。そして、西洋人は自分たちのアイデンティティを確立させるために、東洋という概念を用いた。

つまり、東洋の西洋に対する「憧れ」と西洋の東洋に対する「憧れ」は意味合いが異なるというものである。
分かっていたはずの話なのになぜか悲しい気持ちになった。複雑。

私はタトゥーについて研究したいという想いがあります。
日本の若者のタトゥー文化は海外の影響を受けている部分もあるのではないかと推測していましたが、これにもオリエンタリズムに関連してくるものなのでしょうか。
日本人が英字レターのタトゥーをかっこいいと考え入れるのと、西洋人が漢字のタトゥーをかっこいいと考え入れるのでは意味合いが違うのでしょうか…

第12回 6期生ブログ「人間」から「女性」へ

久しぶりに雨のない日を迎え、梅雨明けはもうすぐなのではと淡い期待を寄せる今日この頃です。
梅雨が明けても気軽に遠出はできませんが…
初めての日曜日開催で行われた内容は「ジェンダー、セクシュアリティ、クィア研究」について。

最近ジェンダーの授業を履修していることもあり、色々思うこともあります。
今回の授業ではジュディス・バトラーの「ジェンダートラブル」を扱いました。
話が進む中で、「そもそも男女を規定したのも、男女の枠組みで勝手に人を判断しているのも人間なのではないか」(意訳)というところに行きつきました。

ここで思い出したのが女子校時代。
表象作品の影響かわかりませんが、女子校というと「お嬢様」「女性だけだから陰湿そう」といった印象を持たれがちです。
これは断じて違うと女子校出身者の大半は口をそろえて言うでしょう。
体育祭では必死になりすぎた結果脳震盪起こして保健室に運ばれたり、
学園祭の中夜祭では盛り上がりすぎて体育館の床が抜け翌日からの公演ができなくなったり、
多分世間の一般的なイメージからはかけ離れた女子校でした。
(あまり書きすぎると学校名がバレてしまう…)

しかし、ここで何度も「女子校」と連呼をしていますが、女子校時代「女性」であることを意識したことはほとんどなかったように思います。
なぜか。「男」と「女」というような二項対立として捉えられるものは、片方が存在しないともう一方も存在しません。でも女子校は(生徒は)女子しかいないので、この二項対立は成立しません。結果、私たちは「女性」ではなく「人間」だったのです。

女子校育ちはよく「温室育ち」と言われることがあります。
この意味は社会に出てよーーーーーく分かります(笑)
「人間」から「女性」にならなくてはいけないことを端的に表している言葉だと感じます。

p.s.
結局この話も男女の枠組みありきで話しているので枠組みにとらわれないのって難しい…

第11回 6期生ブログ「個人的経験からリキッドモダニティを体感する」

授業の直接的なテーマではないことを、これから書こうと思う。あまりにもセンシティブかつ、プライベートな出来事であるが、このブログがそこまで多くの人に読まれていないことを願い、このようなことを書こうと思う。

『リキッドモダニティ』全体を通じて考えなければいけない問題、「自己責任」この自己責任がますます問われ、今まで隠されていた様々な闇のようなものが表に晒されてしまった出来事こそが、コロナウィルスの蔓延なのかもしれない。

私自身の例を通じて、この問題を考えてみたい。

先日、父親がPCR検査を受けた。毎日測っている体温が、ここ数日37度台を一体きたりしていることと、仕事上の都合から心配に思い、自費で検査させてもらったそうなのだ。私はこのことを聞き、もし陽性だったら…と同じく心配に思い、検査結果が出るまでバイトを休むことにした。そのことを父に言ったら「念押しのために検査したのに、まだ陽性とわかったわけではないのに、どうしてバイトを休むのか。どうして周りの人に伝えたのか。そういう奴が経済を止めるんだよ」と怒られたのだ。私としては、万が一の、最悪のケースを考えた行動であるため、今でも全く悪いことしたとは思っていない。しかし、父の立場に立ってみれば、この発言も少しは同情できる。そういう奴が経済を止めるんだよ…コロナを恐れるがあまり、行動を止めてはならないということだろうか。この発言の根本を流れるのは、次のような価値観だ。コロナにかかるのは完全に自己責任であり、かかったら資本主義というレースからは脱落する。だから、コロナにかかったことは隠さなければいけない。なるべく身内で処理し、極秘で治療しなければいけない…。父は一線で働くビジネスマンであるがゆえに、このような発言が出てきてしまうのだろう。まさに、社会の写し鏡のような、模範解答だった。

父の口から出た言葉は真っ先に溶け、液体と化し、私の体に染み込んでいく。リキッドモダニティを流れる、自己責任の原理は、未曾有のウィルスでさえ、溶かしてしまった。いや、考えろ。コロナにかかるのは、自己責任ではない!だから大声で、「私はコロナにかかりました!だから、休みます!経済止めます!」と叫びたい。そして、その声が受け入れられる社会になるべきだ。優しく、温かい社会に…。

咳をしているスーツ姿の男性を見る車内の乗客は、あいつはコロナではないか?と疑いの厳しい目を向ける。コロナにかかった人はレースから脱落する。だから、自分はかからないようにと、その人を避ける。かかった人は自己責任であるため、好きなだけ差別されるし、休んだ分の補償はない。いつからこんなおかしな世の中になってしまったのか。22歳の私はすっかり絶望し、リキッドモダニティのドロドロの液体に、これから浸からなければならないことを、すっかり恐れてしまう。(逃げるために私は進学するのかもしれない。)

ああ、終わりのないこの問いはしばらく続いていくのです。

『神よ願わくばわたしに 変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと 変えることのできる物事を変える勇気と その違いを常に見分ける知恵とを さずけたまえ』

カート・ヴォネガット

第10回 6期生ブログ「自由とは何か」

こんばんは!本日レジュメを担当しました小野寺です。
『リキッド・モダニティ』を読み、4時間半ほどのゼミとなりました。
4時間半はゼミだとあっという間です。アルバイトだと時計ばかり見てしまうのに不思議です。

最後にみんなで話し合った「自由とは何か」について、とても面白い議題だなと振り返っていました。
そもそも、「自由」なんてないのではないか、と思うようになりました。どんなに楽しい時間を過ごしていても、完全な「自由」というものは訪れないし、責任や何かの義務を貸されていない子どもだってある意味「家族」や「弱き存在」という制限がかかっていて完全な自由ではないのではないかな、、、と。
そう考えるとその中でも自分がより納得できる「制限」の中で生きることができる人が「自由」に最も近い存在なのかな、と思います。絶対に生きる上で「制限」というものからは逃れられないのであれば、その「制限」がいかに自分にとって優しく、許容できる内容であるのかが大事だと思いました。(少し消極的な自由ですが)

私はどのような制限下なら「まあいいだろう」と思えるのかを考えて、自分にとっての選択肢を増やしておこうと思います。

第9回 6期生ブログ 「働くこと」の価値

3週に1度の理論を学ぶ日。
理論を学ぶと生きやすくなるという人もいるが私はいつも怖くなる。
新しいものを知る怖さなのか。でも無知の方が怖いとも思うのに。
見たくないものまで見えてしまう気がして、
新たな見方を手に入れたのにそれを無邪気に使えず、
視野が広がるはずなのに視野が狭くなったような不安に陥る…

まだ言語化はできないのですがいつもそんな気持ちで理論を学ぶ回に臨んでいます(笑)

今日のテーマはマルクス主義とカルチュラルスタディーズ。
その中で出てきたのが貨幣経済という仕組み。
貨幣経済であるがためにその価値を歪められてしまっているものはたくさんあるのではないかと思いました。

例えば、娯楽。今回のコロナ対策でも経済が優先され、娯楽産業が後回しにされている印象を受けました。私は、ビジネスを意識していないアートが好きです。例えば、道端の落書きだったり、学生の展示だったり。純粋に表現したいものを表現したい形にしてできたものに魅力を感じます。

もしかしたらこれも貨幣経済への抵抗なのでしょうか。

もう1つはボランティア活動。ボランティアの形態はさまざまですが、無償で本人の意志で参加することが多いように思います。この場合ボランティアは無償労働者とは言えますが、こき使っていい奴隷ではありません。また、お金が発生しない分、募集する側と参加する側の信頼関係が重要になってきます。しかし、なぜかここを取り違えて「ボランティア」という言葉を、その場の都合のいいように解釈している場面を目にすることがあります。

これも貨幣経済の影響なのでしょうか。
賃金でしか人の労働力は判断されないのでしょうか。

どちらの例も「働くこと」と比較すると社会では重要視されにくいものだと感じます。

現代では電子決済やカード決済が多くなり、値段を視覚化された量として見る機会も少なくなりました。また仮想通貨のような新たな概念も生まれました。貨幣において国家の括りがなくなるのは近い未来なのかもしれない…貨幣の概念も変わるのではないかと期待したいです。(期待なのかわからないけれど)

第8回 6期生ブログ「ハビトゥス」

『ハビトゥスを乗り越えることはできるか!』

すっかりブルデュー最終回を迎えて私は、「できなそう!でも…!」というような無理やりな言い訳っぽい言葉がどんどんできてしまいますね。

開き直ってもう「ハビトゥスを消すことはできない」と言ってしまったらどうだろうか。でもその代わりにもう一つ、「ハビトゥスは変えることができる」と、希望の言葉を信じていたい。

「構造というのは常に変わるもので、現在進行形の動的な存在だ」と、私の尊敬する先生がある授業の中で何度も仰っていたのを、ディスタンクシオン を読みながら何度も何度も思い出した。現実は変わっていく。それに応じて知らず知らず自分も変わっていく。私が今このような振る舞い(ハビトゥス)をしていても、一週間後の、一年後の、十年後の私も同じハビトゥスをしていると言えるだろうか?確証できるだろうか?

社会で生きるために、様々な他者と関わる。その中で、また新しい出会いが生み出され、ハビトゥスは少しずつ動いていくような気がする。環境が人を変えていく。出会いが人を動かしていく。私はそう思うことで、少しは楽になったような気がしたのだ。そして、それぞれが変化していくことは、世の多様性を作り出していく役割すら果たしてしまうだろう。

構造主義はよく批判されることもあるが、発祥は、始まりは、世界大戦からの反省なのである。

「レヴィ=ストロースの人類学もフーコーの社会史もラカンの精神分析もバルトの記号論もアルチュセールのイデオロギー批判も、「私」を透明で中立的な観想の主体として不当前提することへのきびしい節度を共有している」(橋爪大三郎『構造主義とは何か』より)

中立的かつ絶対的な主体への疑い。ブルデューも、主体を持った「個人」に疑いの目を向け、相対的な視点で人間の振る舞いを観察、考察した結果、このような大著が完成したのだろう。そして彼の冷めた分析はこのような構造主義の前提を受け継ぐものであったのだ。「私」は中立ではない。だから、「私」は様々な階級・集団に属し、それに応じた行動を取る。「私」は透明になることはできない。自分を絶対視することもできない。だから、「私」は人との関わりの中でハビトゥスを身につけ、変化させていく。

私のハビトゥスはいつでも変わる可能性があるのだ。そのことに安堵する思いと同時に、いや「変わって欲しくない!」と倒錯した思いも感じてしまう。まだまだ、ハビトゥスをめぐる問いは続いていくのだろう。人生はまだ長そうなので、引き続き頭を悩ませていきたい。

第7回 6期生ブログ「面接」

こんばんは小野寺です。
地下ゼミは毎回3時間コースが通常運転になってきました。本日もお疲れ様でした。
レジュメの担当は私でしたが、具体例をどの事象に関しても言えるように意識して授業を進めました。
私もブルデューは階級の乗り越え方を説明してくれない点はあまり好きではありませんが、文章はとても面白いし興味がある内容なので好きです!

ゼミの中で雑談しようとしていた話に関して書こうと思います。
私は就職活動の中で「小学生の頃の話から教えて」と言われた面接が二つもありました。一般的な志望動機や学生時代に力を入れたことを聞かれるのではなく、いわば「自分の人生」について聞かれるものです。(南房総ゼミのインタビューをされているような気分でした)
小学生の頃から振り返って根掘り葉掘り聞かれるのですが、私が印象に残った質問が「ご両親とあなたは仲がいい?」「ご両親はあなたの選択に関してどんな意見を言ってくる?」というものです。この質問はどう答えるのが正解なのでしょうか。私は本当に両親と仲がよく、両親は私の選択に異議を唱えたことがないのでその通りに面接で答えました。しかし、もし両親と関係がとても悪かったり、これまでの人生が両親によって決められていたような人はその通りに答えても良いのでしょうか?答えることによってどういった判断がなされるのでしょうか?家族との関係が就職活動に関係があるのでしょうか?
この「人生面接」にはとてもモヤモヤが残りました。『ディスタンクシオン 』によれば、この面接にはその人のハビトゥスを見出すのにきっと意味のあるものなのでしょうが、就職活動において、「自分のせいではない、環境や生まれ」によって判断されるのは違うのではないかなとも思いました。
会社側も欲しい人物像はきっとあるでしょうから、その人の人柄をあぶり出す作業は必須ですが、なんだかもやっとしました。
私は就職先に今とても悩んでいて、自身のハビトゥスに従っても決めきれない決断というものがあることを人生初体験しています。悩んでも悩んでもわからないので、ドラえもんのもしもボックスでそれぞれの会社に入った自分を見て決めたいです。