第15回 6期生ブログ 「蒸発宣言」

 

将来に対する漠然とした不安、一歩先すら見えない恐怖、ますます何が何だかわからなくなり、自分がどこに立っているのかすらはっきりしない。私は今、とてもじゃないほど、不安で押しつぶされそうになっている。

そんな私をピタリと言い当てるようなバウマンの仕事は、私をますます苦しめる。だからこそ、そんなバウマンを倒したい気持ちに駆られるのだ。私はリキッドモダニティの犠牲者かもしれない、だけども、新しい何かが私を救い出してくれるかもしれない。例え机上の理論であったとしても、私はそんな私を助け出す考えを求めている。それが欲しくて何かにすがりたくて必死になっているのだ。

実はこの春学期に、みるみる元気がなくなり、床に冷やし中華をぶちまけてしまったことをきっかけにして、精神科にかかったことがある。そこの、診療室はSMAPのポスターやグッズで埋め尽くされていて、医者はボロボロの白衣を着てボサボサの髪でマスクはずり落ちていて、私の言葉を半分苛立ちながら聞き、私は完全に間違ってしまった!と悔やむような気持ちだったのだが、しばらくして医者が言った言葉に驚愕したのだった。医者は、自身が勉強ができず留年して中退を考えた経験から、「テキトーでイイんだ!」と思ったそうだ。一度置いてけぼりを食らって、社会の規範やレールから落ちることを経験して、何もすることがなくなった”失格”の称号を食らってしまった医者は、もうどうでも良いや!とサジを投げてしまったそうなのだ。それでも、その肩の力を抜いたことによって、もう一度医者になってみる気力が湧いてきたそうなのだ。「そんな感じで、テキトーで良いんじゃないかなあ」と医者は、医者としてのアドバイスとより、ただの人間として私と接し、人生の先輩として助言を試みたのだった。私はまずその事実に驚愕し涙ぐみ、次に、自分が悩ましいと思っていた不確実で不安定な未来に、なんとか乗っかっていけるような気がして再度涙ぐんだのだった。昔から心配性でどこか優等生気質が消えない私が、そういった考えに至ることはなかった。いつも落ちたら終わり=死んだ方がマシ!のような、エリートであることを是として生きてきた私にとっては、目から鱗の考え方だった。そうか、立派(?!)に医者になっているこの人も、テキトーに生きてるんだな、と。テキトーとは、柔軟性と近い考えかもしれないが、臨機応変で計算高い柔軟性に比べて、行き当たりばったりのようなゲーム感覚が強いだろう。そして、偶然性に身を委ねるかのような、達観している印象も持つ。自分で責任を取らなければいけないリキッドモダニティにおいて、テキトーは自己責任が通用しないような、そんな乱暴さもある。

私はこの、人生史上最も難関の岐路に立たされながら、不安定な未来を恨み、なるべく安全安心な道を行こうとしていたのだった。完全にリキッド・モダニティの犠牲者の私は、それでもまだリキッド・モダニティにいなくてはならない。そうなったらもう一つしかない、不安に思わないことだ。例え不安定であったとしても、失業しても、何があっても、もうどうでも良い。テキトーに生きることだ。それしかない。聞こえ方によってはとても自暴自棄のような考えかもしれない。しかし私は、それがこの神経質なリキッドモダニティを生き抜く一種の抵抗運動なのかもしれないと思っている。だから私は、不安定な未来を考えるのはやめて、かといって一瞬の享楽だけを楽しみ、あとは全て不安に怯えるようなこともやめて、今も未来もそして過去も全てを含めた、どこか達観したような落ち着きと適当さを揃えた、気体のような生き方をしたい。水の沸点は100度だ。私は何度で蒸発できるのだろう。

でも…書き終えて、やっぱりなんだか…どうしてこんなに悲しいんだろう。

これが自由というものかしら

自由になると淋しいのかい

やっと一人になれたからって

涙が出たんじゃ困るのサ

やっぱり僕は人にもまれて

みんなの中で生きるのサ

吉田拓郎『どうしてこんなに悲しいんだろう』より

(最近フォークソングばかり聴いて、しかも涙ながらに歌ってしまうのは完全に、私の気分が、時代の気分が、70年代前半の”若者たちの挫折”と似ているからなのだろうなあ、という話はまた別の機会にでもどうぞ)

担当:宮本

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