
本ゼミへの入室を希望する学生は、情報コミュニケーション学部の事務室の指示に従い、以下の書類を提出してください。
1. レポート: 以下の内容について論じること。
1) 志望理由
2)ゼミで取り組みたいこと(対象・作品があれば,それも示すこと)。
書式:WordもしくはPDF、A4横書き、字数2,000字前後
2. エントリーシート: 以下のファイルをダウンロードし、必要事項を記入すること。
みなさんお久しぶりでございます。9期生の高山です!
実は私はこれが今学期最初で最後のブログ担当回です。
学期始めに、授業内での発表とブログ担当の回数がゼミのメンバー内である程度平等になるようにしたはずだったのですが、色々変更などがあった結果、いつの間にかブログの担当は1回分になっていました。
これでよかったのか…?と後になって思ったのですが、発表は3回分担当していて、昨年度の研究発表会のブログも書いたのでそれでトントンということであってほしいです。
さて、今回扱ったのは『映画で入門 カルチュラルスタディーズ』の第3章 子ども でした。
この章で筆者が取り上げている映画は『亀も空を飛ぶ』です。
『亀も空を飛ぶ』は、戦争と民族迫害によって早く成長せざるを得なかった少年たちを描いた作品で、筆者は〈空〉〈戦争〉〈目〉〈四肢〉〈偶像〉の観点から、子どもにはまなざしとか身体の力が備わっており、可能性のある存在だと述べています。
具体的には、
登場人物が眼鏡をかけていることや登場人物の予知能力、登場人物の目が悪いことへの言及から、子どもの目の方が大人より真実を見通していることが表されている
といった具合です。
この作品では、夢や幻想は不幸の予兆ではありつつも、想像することや望むことの権利が示されており、子どもたちは憧れや夢を抱き続ける存在だそうです。
これを踏まえ、今回のゼミでは『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』の解釈を行いました。
メインの視聴者層である子どもだけでなく、大人が見てもおもしろい感動作ということで、他の授業でも取り上げられていた記憶があります。
あらすじとしては、
春日部に20世紀博という万博を模したテーマパーク(?)が作られ、20世紀博の創立者らの企みによって大人たちは大人であることをやめ、20世紀博の懐かしい世界に取り込まれてしまう。子どもたちも20世紀博の組織の隊員らによって捕まってしまうが、しんのすけは逃げ切り、家族の正気を取り戻し、20世紀博の創立者の計画を止める。それにより、日本中の人々は元に戻り、現実の21世紀を生きられるようになった。
といったところでしょうか。
この作品を〈子どもの可能性〉の観点から見ていきました。
作品の中盤までは、子ども化した大人たちがヒーローごっこをしていたり、しんちゃんたち子どもがバーにいたり、〈子ども=何にでもなれる存在〉として描かれていました。
しかし、最終的には大人の子ども性は否定され、消費社会で大人たちは生産性を持っていきていかなければならないという結末に至ります。
大人たちが子ども化していた時は可能性が開かれていましたが、元の世界に戻ったらその可能性は閉じられ、大人と子どもでお互いの可能性を束縛し合う関係構築をしていかなければならない、実際には何にもなれないというバッドエンド…
かと思われたのですが、
そもそも〈子ども=何にでもなれる存在〉ということ自体が子どもにとっての幻想・偶像だったのではないでしょうか。
大人たちはこの幻想・偶像を破壊することができませんでしたが、子どもたちは自身で破壊します。
これは、何にもなれなかったという後悔のない今現在の子どもにしかできないことだったのです。
つまり、【子どもには幻想・偶像を破壊できるという可能性がある】ということを描いた作品だという結論に至りました。
一瞬、子どもは結局何にもなれない、可能性はないという暗い結論にたどり着きそうになりましたが、なんとか回避することができました。
実際、私はバイト先で小学生と毎週話しているのですが、子どもには可能性や選択肢がたくさんあるなぁと感じたりします。
自分自身に関して言えば、成人はしていてもまだ学生だし、実家暮らしで親に頼っている部分が多いし、なんとなくまだ子どもの意識がありつつ、早く大人になりたいというか自立したい気持ちもあります。就職したら大人だという自意識がはっきり芽生えるのでしょうか…。
何にせよ、大人になっても可能性を捨てずに選択肢を増やしていく人生を送りたいですね
では、おそらく秋学期にまたお会いしましょう~
お読みいただきありがとうございました!
こんにちは!今回のブログを担当する白井翔大です。今回は、内田樹『映画の構造分析』第一章 抑圧と分析的知性でした。
キーワード
抑圧、欲望、ラカン、フロイト
大論点「抑圧されたものとは、作品にどのような要素をもたらすのか」
→できるだけ多様な次なる解釈の起点となり得るような解釈を生み出すきっかけ
中論点1 抑圧されたものとは?
→意味はないもの。
小論点1 どのようなものか?
→自然すぎるところに生まれるもの。
論拠
・物語の微妙な仕方での破綻の中にある。
・その中に意外なものを探そうとするが、その正体は「主体が期待していたものではない」
小論点2 抑圧されたものに重要なことは何か?
→それが何であるかより、どのように隠されているのかが重要である。
論拠
・かくれんぼのように、その中身より(何が正体かより)、隠され方を見破ることに意義がある。
中論点2 抑圧されたものはどのように隠されているのか?
→手紙という記号に変えられることによって表されている。
論拠
エドガー・アラン・ポー『盗まれた手紙』の分析
手紙を持つと、マヒ状態になり、身動きが取れなくなる。
小論点1 抑圧されたものはなぜ見えないのか
→知りたくないという欲望をもつ私たちは「見落とそうと」するから
論拠
マクガフィンの機能を使う。
ヒッチコックによると、「機能する無意味」
「機能する無意味」…物語を起動させる力を持つ。=終わりなき欲望へ持ち込む。
小論点2 どうすれば気づくことができるのか
→分析者として、「パスする」立場につくことで可能になる。
論拠
・分析者と患者の間に成立する「転移」と同じ形
・「第三の位置」に身を置くことによって可能=「手紙」の持つ能力を知っていることが条件。
しかし、構造分析であるにもかかわらず、どこに構造があるのか明確になっていなかったので、ゼミ内で整理しました。
ラカンによると、物語の中で、同型的な場面が2回繰り返されるらしく、「原場面」と「第二の場面」と名づけています。この二つの場面では相似的な行動をとる三人の人物が登場します。そして、三人の登場人物のそれぞれの「視線」によって特徴づけられています。
①「何も見ていない視線」
②「第一の視線が何も見てないことを見て、自分が隠しているものはそこから見えないと思い込んでいる視線」
③「さきの二つの視線からは隠されているものが、それを略取しようと望むものにはむき出しのままに放置されているのを知っている視線」
そして、三人の視線の先にあるものが「マクガフィン」です。
「マクガフィン」…小説や映画などのフィクション作品におけるプロット・デバイスの一つであり、登場人物への動機付けや話を進めるために用いられる作劇上の概念のこと。作中人物にとって重要でありドラマもそれをキーアイテムとして進行するが、物語の成立を目的とするならそれ自体が何であるかは重要ではなく代替可能ですらあるものを指す。(Wikipedia1)
これらを『盗まれた手紙』に当てはめてみると、
| 作品名 | マクガフィン | ①の視線 | ②の視線 | ③の視線 |
| 『盗まれた手紙』 | 手紙 | 王様、警察 | 王妃、大臣 | 大臣、デュパン |
本書では、『盗まれた手紙』以外にも触れていました。(ここは時間が足らず、大雑把な把握になってしまいました。)
| 作品名 | マクガフィン | ①の視線 | ②の視線 | ③の視線 |
| ヒッチコック『鳥』 | 鳥(母なる超自我) | 主人公、母 | 男(ミッチ) | いない |
| ヒッチコック『北北西に進路を取れ』 | 架空のスパイの名前(カプラン) | 主人公 | 迫ってくる敵 | 教授 |
応用
今回の理論を踏まえて、ジョーダン・ピール『Us』(2019年)を検討しました。
| 作品名 | マクガフィン | ①の視線 | ②の視線 | ③の視線 |
| 『Us』 | アメリカ人であること | 殺された人々 | 主人公たち | 分身 |
この映画は、「アメリカ人であることに目を背けていた主人公たちが、自分たちの分身にアメリカ人であることを見せつけられて、アメリカという国に絶望し、メキシコに逃げる映画」と結論づけました。
分身がパスすることで、主人公たちが見ようとしなかった自然すぎるもの・抑圧されたもの(アメリカ人であること)に気づかされてしまったということです。
おそらく自分の理解不足なのですが、『Us』でラカンのいう二つの場面に分けたかは不明です。
ただ今回の考え方は、どのような作品に当てはめても、応用できると考えられるので、構造があったということだと思います。
雑記
ここからは雑談です。
この前池袋で飲んだのですが、その後バッティングセンターに行きました。
バッティングセンターの場所が、映画館(グランドシネマサンシャイン池袋、おすすめです)の上にあったことにも驚いていたのですが、久しぶりにバットを振っていて、楽しいと感じる自分にも驚きました。子どものころを思い出してなのか、純粋に体を動かすのが楽しかったのか、それとも酔っていたからなのか。いきなり60球を打ち込んでかなり筋肉痛だったけれども、楽しいのはたしかでした。
それで、バッティングセンターにハマりかけています。地元にもバッティングセンターがあって、200円で20球以上打てるコスパの良さに感激しています。池袋は1100円で60球だったので。
自分の地元は、世界農業遺産に認定されるぐらいには田舎な要素を持っているのですが、都会(台場とか、みなとみらいとか、海浜幕張のような場所)に魅かれる自分が地元に見落としていた部分があったような気がして、なんだか嬉しい気分です。
そう考えると、新しいことや普段やってないことをやってみるのは面白いなと改めて感じました。
自分は最近ライブに行くことにハマっていて、今度UNISON SQUARE GARDENとクリープハイプの対バンに行く予定です。それで、普段クリープハイプを聴くことは『栞』を除いて、全くないのですが、ライブに向けて聴いてみるとハマれる曲があることに気づきます。そして、それと同時に、普段聴いているアーティストの良さにも気づかされます。
つまり何が言いたいかというと、何か新しいことをやってみると、その面白さや奥深さを実感するのはもちろんですが、既に周囲にあるものであっても見え方が変化するかもしれないということです。
何か一つを信じていたいような気持ちもあるけれども、色々と知った方が、もっと面白いのかなぁと思ってます。それが原因で、自分は自分の軸がはっきりしてないような気持ちに陥るのかもしれませんが。
とにかく今学期も終わり、レポートも書かないといけないので、バッティングセンターやライブでリフレッシュしつつ、書き上げなければと思います。
読んでいただきありがとうございました!
みなさま、こんにちは!今回のブログを担当します、山崎日和です。
今回も前回同様投稿期限を過ぎているのですが、なんともだもだしている間にものすごい時間が経ってしまいました…!本当にすみません… 反省しながら執筆にとりかかります。
今回の前座は私が担当でした。紹介したのは「ビリーヴ~シー・オブ・ドリームス~」。東京ディズニーシ―で毎晩行われている水上ショーです。
2022年から上演されているこのショーは、ピーターパンとウェンディが中心となって、さまざまなディズニーキャラクターたちの夢を見てまわり、諦めずに信じ続けることで夢は叶うということを学ぶ、といった内容です。
見どころはなんといっても演出です!水上に現れる大きな船やレーザー、さまざまなところに映し出されるプロジェクションマッピング、水や花火を使った演出など、空間と技術を詰め込んだ演出は、迫力満点です。
また、ショーが行われる場所は360度どこからでも見ることができ、座席の予約や購入をしなくても誰でも見ることができます。その手軽さもこのショーの特徴のひとつだと思います。
美しく壮大な夢の旅、みなさまも是非一度体験してみては?
今回の3限は秋尾さんの担当で、廣野由美子さんの『批評理論入門』から「反復」と「異化」の2つのテーマについて学びました。
「反復」
反復は文学において重要な修辞技法です。反復されるものはさまざまあり、それは大まかに2つの種類に分けられます。
・文法的なもの:音(頭韻、脚韻)、語句(リフレイン、前辞反復)、韻律、 文法構造など
・物語内容に関わるもの:筋、出来事、場面、状況、人物、イメージ、出来事など
本文では、『フランケンシュタイン』に出てくる反復として、出来事、人物の反復や、言葉の反復といった例が挙げられていました。
これに関して、反復は読者の記憶により残りやすくするために行われるものなのでは、という意見が出ました。
確かに、何度も同じものが繰り返されることで、印象に残りやすくなるというのはあると思います。
また、反復が用いられているものとして、ループする物語が挙げられました。ループする物語は、同じ出来事の中で一部が変化していることに登場人物が気付くことで、ループしていることに気付く、といった内容なので、同じ出来事が反復されているといえます。
「異化」
異化とは、見慣れた事物からその日常性を剥ぎ取り、新たな光を当てることです。
この異化を起こすために、ある要素や属性を強調し、読者の注意を引き付けるように際立たせる「前景化」という方法が用いられます。
こう書かれてもどういうことかわかりづらいですが、例えば「人以外のものから見た人間」を考えると想像しやすいと思います。
ここでは芥川龍之介の『桃太郎』から、鬼が人間について話している場面を例とします。
「人間というものは角
の生
えない、生白
い顔や手足をした、何ともいわれず気味の悪いものだよ。おまけにまた人間の女と来た日には、その生白い顔や手足へ一面に鉛
の粉
をなすっているのだよ。それだけならばまだ好
いのだがね。男でも女でも同じように、
はいうし、欲は深いし、焼餅
は焼くし、己惚
は強いし、仲間同志殺し合うし、火はつけるし、泥棒
はするし、手のつけようのない毛だものなのだよ……」
この文章を読むと、普段は当たり前の存在である「人間」がなにか奇妙なものに見えてきませんか?これが異化です。
つまり、異化とは自分の常識を覆すような概念なのです。
『フランケンシュタイン』でも同様に、怪物の目から人間や言葉といったものが異化されていると考えることができます。
この異化は、ヴィクトール・シクロフスキーが用いた言葉です。シクロフスキーは第6回で登場したミハイル・バフチンと同時代の人で、バフチンと同様に言論で社会を変えようとした人です。そのため、本来の異化は見る世界が変わるほどの強烈なものであり、読んでいて好ましい感覚にはあまりならないものです。
現代の日本ではここまで強いものはあまりないと思いますが、授業中で秋尾さんが紹介してくださったジョージ・オーウェルの『動物農場』などはこれに近いもののようです。気になった方はぜひ読んでみてください。
4限は中村さんの担当で、3限でも登場したヴィクトル・シクロフスキーが書いた『手法としての芸術』を読みました。
本文でシクロフスキーは、芸術の目的は異化の手法によって対象物を「直視」させることであるとし、従来の「芸術はイメージによる思考」だという定義を否定しました。
詳しく見ていきましょう。
従来は、イメージなくして芸術は存在しないと考えられており、イメージは変化するものだとされていました。しかしシクロフスキーは、イメージは不変のものであり、芸術の目的はもっと違うものだと考えました。
このような従来の考え方は、詩と散文を区別しなかったことによって生まれてしまったとシクロフスキーはいいます。つまり、散文における知覚のされ方が、根本的に違うものである詩においても用いられてしまったということです。この知覚のされ方が「自動化」です。
「自動化」とは、いわゆる無意識化であり、物事が習慣化されることによって起こるものです。これは日常生活を送る上では必要なことですが、芸術には適していません。
ではどうすればよいのでしょうか。シクロフスキーによると、芸術の目的は直視することであり、なるべく知覚のプロセスを長引かせる必要があるそうです。ここで登場するのが「異化」です。異化によって知覚までに時間がかかるようにするのです。
本文を読み、授業ではさらに「異化」について考えを深めました。
中でも中村さんがおっしゃっていた「異化は絵画を鑑賞する際の感覚に近いのかもしれない」という意見には、納得しました。
先ほども書きましたが、異化とは知覚のプロセスを長引かせるものです。絵画の鑑賞も、その絵画が何を表しているのか考えることに楽しみを見出しているといえます。これらを比較すると、知覚に時間がかかるほど楽しいという点で共通していると考えられます。また、ここからたとえそれがあったとしても、素通りしては意味がないこともわかります。私たちはそれが何を表しているのか、考えなくてはいけないわけですね。
いかがでしょうか?異化、難しいですね… 正直に言うと、私はシクロフスキーの文章を予習で読んだとき、どういうことかいまいち理解できませんでした。なんかわかりそうでわからないもやもやした感じがありましたが、授業でほかの方の意見を聞いて、自分なりに咀嚼してなんとなくわかったような気がします。少しでも読者の方に伝わっていたらいいな…と思います!
ではみなさま、また今度お会いしましょう!
こんにちは。三年ゼミ第9回のブログを担当します、秋尾藍歌です。
いつのまにやら春学期も半ばを越え、もう第9回。いつのまにやら夏休みになり、そしていつのまにやら終わってしまうことになりかねないほどの体感速度のはやさ…。恐ろしい話です。
前座 (担当:わたし)
今回の前座では、キリンジ(KIRINJI)という音楽アーティストを紹介しました。ポップなサウンドとオシャレな歌詞が特徴的なバンドです。メンバーはちらほら変わっているみたい…
私のおすすめソングは、「エイリアンズ」「十四時過ぎのカゲロウ」「時間がない」です。とはいえ本当に当たり曲が多いので(私的に)、おすすめはベストアルバムを聴くことです。「KIRINJI Archives SINGLES BEST」を、聴こう!(私は、このアルバムと先ほどおすすめした曲だけを聴いてキリンジを知った気になっていた時期があります。ちょっとずつ開拓して今に至る)
3限 (担当:中村さん)
第9回の3限では、もはやお馴染みの『批評理論入門』から、「結末」「伝統的批評」「透明な批評」の三つのテーマについて学びました。
「結末」
物語には、大きく分けて二つの終わり方があります。
・閉じられた終わり— はっきりした解決に至って終結する方法。
・開かれた終わり— はっきりとした解決なしに終わり、結末について多様な解釈が可能である場合。
「閉じられた終わり」→ハッピーエンド(主人公の結婚など幸福な状態で締めくくられる)、悲劇的結末(主人公の死や破局によって終わる)、意外な結末(読者の意表をつく終わり方)など。
「開かれた終わり」→二重の結末(二通りの解釈の可能性を含む)、多重の結末、結末が冒頭へとつながり円環をなすような形の実験的な作品などがある。
批評理論入門では、これらの結末を紹介した後で『フランケンシュタイン』の結末について考察しています。そこでは、『フランケンシュタイン』の結末は、フランケンシュタインの死・怪物の消失という悲劇的結末の「閉じられた終わり」である印象を受けるが、「開かれた終わり」として見ることもできるということが語られています。「開かれた終わり」として見ることができる根拠として、①「手紙」の形式をとっている作品であるが訣辞も署名もなく終わっていること、②怪物は消えてはいるが、死んだという描写はないこと、が挙げられています。
ゼミでの議論では、『フランケンシュタイン』が「開かれた終わり」であるとするならば、「閉じられた作品」とはどういったものになるのか、といったことからはじまり、このような解釈の多様性が生まれるようになった原因として、読者の自由な読み方が肯定されたことや、誰の視点で物語が展開していくのか(=誰が焦点人物となっているか)について不定内的焦点化(焦点人物が変わっていく)の手法が取られることが多いことなどが挙がりました。
また、日本だと「開かれた終わり」の作品が多い傾向にあることや、ファンタジーは「閉じられた終わり」が多いこと、なども指摘がありました。
どの登場人物の視点から語るかによって”開かれて”いるか”閉じられて”いるかは変わってしまい、どの作品もどちらの結末とも取れるため、あらすじなど大きい部分から判断する必要があるだろう。そしてそれに基づいて考えると、やはり『フランケンシュタイン』は「閉じられた終わり」の結末の作品であると言えるでしょう。
「伝統的批評」
この章では、『フランケンシュタイン』がこれまでどのような批評をされてきたのか、ということについて紹介されていました。
道徳的観点からの批評
作者メアリー・シェリーの夫、パーシー・シェリーの最初の『フランケンシュタイン』批評では、道徳的テーマを持つとされたこの作品は、その後長らくの間、信仰の影響などから道徳的に悪影響を与えかねない作品であるとされてきました(ジョン・クローカー、『エジンバラ・マガジン』など)。しかし、時代が進むにつれて、道徳的目的に基づいて書かれた作品だとする主張がなされるようになったそうです(M・A・ゴールドベルク、モーリーン・クレイマン)。
フランケンシュタインのモデル
また、伝統的批評では、『フランケンシュタイン』の主要な登場人物ヴィクター・フランケンシュタインのモデルについても議論がなされています。夫パーシー・シェリーや、そのパーシー・シェリーが影響を受けた人物であるエラズマス・ダーウィンをモデルとする説などがあるそうです。
ゼミでは、これらの伝統的な批評に関して今利用しても有効であるかなどが話題に上りました。こういった批評から、当時の社会的な価値観が判明することを考えると利用はできるが、今同じ方法で批評をすることだけでは主張として物足りなくなってしまうのではないかと思います。
また、『フランケンシュタイン』が書かれた当時は、作者は『女性』というだけで未熟とされ批判されるようなこともあり、そのこともこころよい評価があまりなされなかった理由のひとつであるのではという指摘もありました。
「透明な批評」
批評の分類のひとつに、「透明な批評」「不透明な批評」というものがあります。
テクストの外側に立って形式上の仕組みを分析するものが「不透明な批評」であり、一方で「透明な批評」は、テクストのなかに入り込んで(作品世界を現実のものとして扱って)論じます。現在論文で行われているようなものより、アニメや漫画などの考察として動画などになっているものの方が「透明な批評」には近いかもしれません。
『フランケンシュタイン』では、アーネスト・フランケンシュタインの消息や、怪物の肌の色などについての透明な批評があります。
しかし、実際今この方法を用いて批評を論理的に展開することは難しいのではないかと思います。
4限 (担当:山崎さん)
4限では、ヴォルフガング・イーザー『行為としての読書』を読み、読者行為論について学びました。
イーザーは、テクストは読者が受容することによって初めて完成するものであり、テクストと読者は相互に働きかけあいつつ成立していると主張しました。
イーザーによると、読者は文章を読み進めることによって、自身の中にその文章全体が持つイメージを形成していきます。そのイメージは、読み進めるとともに形成されていき、また、そのなかで修正が加えられ変形していきます。読者が持つイメージと文章のあいだに生じる矛盾から、その文章に対する期待が生まれます。また、視点の移動によって読者のなかにイメージの分節が生まれ、それらの視点ごとのイメージ同士が違いを際立たせ、また修正しあうということも述べています。
イーザーによれば、テクストにはつねに、読者の想像を促す「空所」や読者やそのイメージへの「否定」があり、読者はそれらに取り組みつつ読書を行うことになります。「否定」は先ほど触れたように読者の読書行為を促し、かつ読者に未知の経験をあたえます。イーザーはこの未知の経験が、読書における「美的行為」であるとしています。一方「空所」は、「否定」とともに、読者の内部に言葉にできないようなイメージを生み出します。そのイメージも美的なものとして考えられます。
ゼミでは、いくつかの指摘がされました。
うまく言い表すことができませんが、私にはイーザーの主張について受け入れ難く思っている部分があります。
例えば、イーザーは、読書はつねに読者への否定(=未知の部分や読者の想像を超えてくる部分)と空所によって成り立っているとしていますが、読者に想像できる部分ももちろんあるはずだと私は思います。否定の部分は、ところどころで登場し、読書へのモチベーションを保つ補給場所になっていると考える方がしっくりくる気がするのです。
みなさんは、イーザーの考える「読書」の構造についてどう思いますか?
今度本を読む時などになんとなく考えてみることもおもしろいかもしれませんよ。
3年ゼミ第8回のブログを担当します。中村美咲子です。
前座
今回の前座は私が担当しました。
そこでは私の好きなVtuverのアニメプロジェクトについて紹介しました。普段はゲーム配信を主に活動されているのですが、視聴者からアニメ制作のできる人を募集して実際に3分のアニメ動画を作成しました。そのアニメは彼の活動をなぞるような内容で、ファンにとってはとても思い出深いものであると同時に、彼の周囲の人との関係性も浮かび上がるものとして、紹介しました。
3限
早速発表の内容についての紹介なのですが、3限では山崎さんが批評理論入門の「間テクスト性」と「メタフィクション」について発表してもらいました。
「間テクスト性」では、「フランケンシュタイン」に影響を与えた作品や、その特徴がみられる作品を具体的に挙げられていました。それについて我々は、それらの作品について、「フランケンシュタイン」との間テクスト性がみられることを認めつつ、果たしてその間テクスト性によって、なにがいいたいのかが曖昧であること、そこに存在するイデオロギー素についての分析がなされていないことを指摘しました。4限でも触れたのですが、クリスティヴァは「間テクスト性」を用いて、その世界を変えようと影響を与えようとしていたのですから、我々もその文脈を受けついでいくことが求められてなりません。また、もう一点議論されたのが、間テクスト性として挙げられた作品が小説や絵画にとどまっていることです。より歴史的・社会的文脈に沿って考えられるのではないかと究明されました。
そして、過去の作品を取り込んでいるという点が、いわゆるパクリの問題につながってしまうのではないかという疑問があがりました。我々は、その類似性の高さや利益の侵害性がひとつの基準軸になるのではないかと考えました。また、作品の中で、独自の創作性がどれだけ含まれているのかという視点でも考えられるのではないかとされました。
次に「メタフィクション」は、語り手が語りの前面に現れて、読者に向かって「語り」自体について口上を述べるようなものとして紹介されました。我々はこの手法が実際にどのように使われているのか、またそれを用いることでなにが起こるのかを話しました。そこで、第4の壁という、舞台などで使われる特殊な表現方法を知りました。また、本文では、作り物にすぎないことを伝えることができるものと紹介されていましたが、作り物であることを読者や観客が意識している状態で、メタフィクションを使うと没入感を強める効果もあるのではないかと考えました。
4限
4限は、秋尾さんによる、ジュリア・クリスティヴァの「セメイオチケ」についての発表でした。そこでは、文学テクスト記号論がどうあるべきか、という論点に対して、言葉の結びつきかたを研究し、対話空間の中でさまざまな結合の仕方に対応する形式表現を見いだすことという結論をあげていました。また、テクストが歴史と社会に位置づけられることや、言語学や論理学との差異を提示し、独自の展開が求められることを指摘しました。
発表の中で先週学んだ異化のように、社会に訴えるような意味をもった理論だという指摘があり、シクロフスキーと同時代のロシアフォルマリズムの系譜であることも再確認されました。
さらに、発表のあとには、連辞と体系という二重性という部分について、先生が詳しい事例を挙げて説明してくださいました。それによって、二重性とは統語的な文章の正しさと連合によって補完される意味という二つの対話的特徴があり、これらが水平と垂直に交わることで、二重性の構造を生み出しているのだと思いました。
今週も非常に難解な文章でしたが、なんとか乗り越えることができたと思っています。
最後までお読みくださりありがとうございました!
こんにちは。2回目の宮澤登場です。
梅雨に入って、しばらく経ちましたかね。暑い、、ですね。
暑いのは人間だけではなく、猫も一緒みたいです。
うちの子(猫)、換毛期でして、もう抜け毛が、すんごい。ほんと、猫の毛だけでボールができるくらいなんです。
毛を刈っても刈っても、次の毛が出てくるんです(恐怖)
そのおかげで、部屋中毛だらけ、埃まみれで(絶望)
掃除してもきりがないので、決めました。汚部屋で生きることを。(諦めるのはまだ早い)
と、個人的などうでもいい話から入ってしまって恐縮です。
ここから、本題に入るので許してください。
今回扱ったテーマは、「映画と観客の関係」。理論は、ジークフリート・クラカウアーの『映画の理論』第9章観客。作品は、『チャーリーとチョコレート工場』です。キーワードは、夢と欲望。
今回は、映画と観客の関係性について学びました。ここでは、映画が観客に与える効果を
①(映画を見た)観客の反応
②(映画を見た)観客の状態
③(映画を見た)観客の満足感
の3つの要素に分けて、整理していきたいと思います。
①観客の反応
映画にはどのような効果があり、観客は映画を見てどのような反応をするのでしょうか。
まず映画は、観客の感覚に作用するという、特殊な効果を持っています。具体的には、観客の感覚に働きかけ、生理的な関与を要求することで、観客を知性的に反応できる状態を導く効果があります。これは、映画が人の感覚的・本能的な部分を刺激することで、観客の感情移入を促し、映画について知的に考える・反応できる状態をさします。
そして、映画が観客の感覚に作用できる理由は、主に3つあります。
1.物理的現実、それ自体の記録する(現実のリアルな事物が、そのまま映像で再現・記録されていること)
映画では、写真的な映像が再生されます。写真的映像は、自然のありのままの物体を、リアルに表現します。このようなリアルな映像を見た観客は、あたかも映像が本物・現前しているものだと感じるようになります。よって、映画は現実の記録という面で、観客の感受性に作用していると言えます。
2.世界の動きという相のもとで、示して見せる(事物の物理的な動きを、リアルに表現していること)
私たちは、常に動きのある世界で生きています。例えば、食べるという行為は、腕や口、手を動かす運動なしにはできません。映画は、この運動を映像としてリアルに表しています。静止画の写真では、現実世界の運動を表すことはできません。こうした動きは、観客の中で筋肉の反射反応や運動インパルスといった運動感覚的な感覚を誘発します。よって、映画は動きの提示という面で、観客の運動感覚に作用していると言えます。
3.映画は、そこに隠された領域を開示する(観客に見知らぬ形状に遭遇させ、新たな発見をさせること)
映画は、観客に見知らぬ形状を提示し、発見をさせることで、好奇心を掻き立てます。そして、観客をより感覚的な領域へ誘い込みます。よって、映画は隠された領域の開示という面で、観客の好奇心や感覚に作用していると言えます。
②観客の状態
では、①の映画の作用を踏まえた上で、映画を見た観客は、どのような状態になるのでしょうか。
一言で表すと、観客はトランス状態(意識が弱まった状況)になります。原因は、観客が暗闇に置かれれることで、現実との接点が減少するためです。適切な判断や精神活動を行うための、視覚情報などを奪い取られることで、観客の意識は弱まります。
また本書では、「意識が低下すると、夢へと誘われる」と記載があります。実際に、映画愛好家のガブリエル・マルセルは、「覚醒と睡眠のはざまの状態に置かれており、そこでは入眠時に見るさまざまな幻想が促進されている」と述べています。つまり、映画には夢と似たような性質があるということです。
では、夢と映画の似た性質とは何でしょうか? それは、剝き出しの現実性です。
剝き出しの現実性とは、私たちの目で見た現実のことを指します。そのため、俯瞰的・客観的な現実ではなく、近視眼的・主観的現実のことを指します。私たちが、私たちの目を通じてみるものは、ありのままの現実ではなく、私を通じて編集された現実でしかありません。例えば、砂漠でオアシスを見つけた場合、水がすごく輝いているように見えるかもしれません。一方、梅雨のじめじめした日に、水たまりを見た場合、すごく疎ましく感じるかもしれません。水は水でも、人の目線を通じると、違う見え方になってしまうのです。
このように、近視眼的・主観的な現実の見え方は、夢と映画に共通しています。夢は、人の視点で見える現実になぞって、ストーリーや映像が編集されます。また、映画も、誰かの人の視点で見た現実を、カメラワークや構図、編集で調整します。つまり映画は、剥き出しの現実性表す夢と似たような特徴があるということです。
では、映画はどのように観客を、夢を見ている状態にさせるのでしょうか?本書では、主に2つのパターンが提示されています。
1.観客を対象物の方へ向かわせる
単純に、観客が意識から解放されることで、映画に登場する事物や現象に引き付けるということです。映画の事物や現象に引き付けられることで、感覚を刺激され、映像が現実のことのように感じられます。これは、(睡眠時に見る)夢と同じ状態です。
2.観客の自我を撤退させ、意識的ないし、無意識的な経験、不安、希望が姿を現すように働きかけている
これは、観客が映画の範疇を超えて、自身の内面世界で妄想・想像することをさします。観客は映画の対象物に集中し、そこで感覚を刺激されることによって、その感覚に関連した別の事柄に関しても想像するようになります。これも、(妄想したり想像したりする)夢と同様の状態です。
このように、映画は観客の感覚に働きかけ、トランス状態・夢への誘導を行います。だからこそ、映画は強力なプロパガンダの道具にもなりえるのでしょう。
③観客の満足感
皆さんは、何のために映画を見ますか。また、どんな映画を見たときに、満足感を覚えるでしょうか?
本書では、観客は、映画によって生への渇望を満たされた時、満足するとされています。また映画は、観客の充実した生の代用品と言われています。
映画は大衆娯楽であればあるほど、一般大衆の欲望や願望とされるものに応えなくてはいけません。大衆の満たされない欲望や願望をかなえることこそが、映画の売り上げへとつながるためです。
例えば、本書で紹介された映画愛好家は、観客は苦しみの原因を孤立状態に求めていると提示します。この書が誕生した当初は、都市化とともに、個人化という概念が生まれました。そのため、大衆は孤立しており、他者との関わりという生への渇望・欲望を持っていたと考えられます。
このように、時代ごとに大衆が抱える生への渇望を満たすことこそが、大衆の心をつかむ技術なのです。
何もしなかった日の最後に映画を見たくなるというという人がいます。これは、それは何もできず充実していない現実に対して、その1日に価値があったと思えるように、映画で他者の物語を追体験することで、生への渇望を満たしているのかもしれません。
今回の作品は、『チャーリーとチョコレート工場』です。学習内容を踏まえて、2つの観点から分析しました。
①作品には、夢に似た性質が現れているか
映画全体を通じて、夢と似た性質があると言えるでしょう。例えば、場所指定などが、夢に似た性質に当たります。本作品では、人物が登場する前に、場所の指定がされる場面がいくつもあります。具体的には、ニューヨークの街並みと字幕が出た後に、登場人物の説明がはじまるなど。
これは、とても夢に似た性質です。近視眼的・主観的な現実の見え方だからこそ、場所という情報が事前に提示される編集がされていると考えられます。ゼミ生の中には、夢を見る時、まず場所の提示から始まる方もいました。
②生の本質を満たしてくれる映画か
まず、この作品を見る観客(大衆)を、「工場労働者」と定義し、彼らの欲望を3つに整理しました。
1.工場という無機質な場所で、同じ作業をしている毎日がつまらない状況。面白くて、非現実的なことへの欲望。
2.工場で一日働いているのに、貧乏。一方、楽して稼ぐ資本家がいる不平等な状況。資本家を蹴落としたいという欲望。
3.貧乏で、生活が苦しい状況。脱貧乏・脱社会的弱者したい欲望。
これらの大衆の欲望は、充実した生への渇望へとつながります。では、『チャーリーとチョコレート工場』は、彼らの欲望・充実した生への渇望を満たせているのでしょうか。
1. 作中の工場内は、とてもファンタジスティックで、明るい雰囲気。本来無機質なはずの工場内に、面白み・非現実性が加わっている。つまり観客に、労働者の働く工場は、無機質でアンハッピーな場所ではなく、面白くてハッピーな場所であると認識させ、欲望を満たしている。
2.作中の工場内では、主人公以外の資本家の子供たちが、ウォンカの手によって、次々とひどい目にあう。観客の資本家への不満、蹴落としたいという欲望を満たしている。
3.物語の最後で、貧乏な主人公の家族は、資本家のウォンカと暮らすようになる。脱貧乏&脱社会的弱者を果たし、資本家の一員になるという欲望を満たしている。
以上の分析を踏まえると、本作品は観客の生への渇望を満たす作品と言えるでしょう。
結論:『チャーリーとチョコレート工場』は、社会的地位が低かったり、貧乏だったりする工場労働者たち(大衆)の生への渇望を満たす映画である。
今回の学習はここまで!少し長くなってしまってすみません。
最後に、猫の毛で作ったボールの写真をのせて、お別れしましょう。また次回のブログでお会いしましょう~

→自分の毛で作ったボールを頭にのせられて、不服そうな猫
みなさま、はじめまして!今回初めてブログを担当します、10期生の山崎日和と申します。初めてなのにすでに授業から3週間が経っております… 遅くなり申し訳ないです… 3週間前の記憶を掘り起こしながら書いていきたいと思います!
今回の前座は留学生のダンドレアさんが担当でした。
紹介されたのは「Blood borne」というゲームです。このゲームはH.P.ロブクラフトの小説がベースとなったPlayStation用アクションRPGで、主人公である「ハンター」がアイテムを探しながら悪夢から逃げるという内容だそうです。
このゲームの良さの一つとして、グラフィックの綺麗さが挙げられていました。発表用のスライドで何枚かゲーム内の写真を見せていただいたのですが、本当に綺麗で、写真を見るだけでも世界観が伝わってきました!
私はそこまでゲームに詳しいわけではないのですが、いつかやってみたいと思いました!(残念ながらPlayStationを持っていないのですぐにはできないのですが…)
今回の3限は中村さんの担当で、廣野由美子さんの『批評理論入門』から「声」と「イメジャリー」の2つのテーマについて学びました。
「声」
小説には2種類の形式があると示されました。それは「モノローグ」と「ポリフォニー」です。
モノローグとは、作者の単一の意識と視点によって統一されている状態を指します。
一方ポリフォニーとは、多様な考えを示す複数の意識や声が、それぞれ独自性を保ったまま互いに衝突する状態を指します。
これだけではいまいちどういう違いがあるのかわからず議論をしたのですが、
モノローグ=結論が1つにまとまるもの
ポリフォニー=結論が1つにまとまらないもの
なのではないかという結論に至りました。
このポリフォニーについては4限でより詳しく学んでいきます。
「イメジャリー」
イメジャリーとは、読者の想像力を刺激し、視覚的映像など(イメージ)を喚起する作用、またイメージの集合を指します。
本文ではイメジャリーの種類として「メタファー」、「象徴」、「アレゴリー」の3つが挙げられていました。
・メタファー:あることを示すために別のものを示し、それらの間にある共通性 を暗示する。
・象徴:特に類似性のないものを示して連想されるものを暗示する。
・アレゴリー:具体的なものを通してある抽象的な概念を暗示し、教訓的な含みを持たせる。
授業では象徴とアレゴリーの違いについて議論をしました。その結果、2つには明確な違いがあることがわかりました。
象徴は、言葉とそれが指す意味に類似性がないため、普遍的でなく、学習しないとわからないものだという特徴があります。たとえば「鳩」は平和の象徴ですが、鳩と平和には類似性はありませんし、知識がなければ鳩を見ても自然と平和を思いつくこともないので、普遍的でないといえます。
一方アレゴリーは、象徴よりも類似性があり、一定程度普遍性が高いという特徴があります。また、具体的なものに抽象的なものが重ねられたものでもあります。上記の説明にも書きましたが、アレゴリーは教訓的な意味を持つものであり、これを物語化したものが寓話にあたります。たとえばグリム童話やイソップ童話です。
つまり、この2つの違いは類似性の有無と普遍的であるかどうかが主なものであるわけです。
また、今回の内容に関連して、内藤先生から「メタファー(隠喩)」、「メトニミー(換喩)」、「シネフドキ(提喩)」の3つの比喩の違いについても解説がありました。
・メタファー(隠喩):あることを示すために別のものを示し、それらの間にある共通性を暗示する。例)白雪姫(実際に雪ではなく、雪のように白いことを表している)
・メトニミー(換喩):あることを示すためにそれと深い関わりのあるもので置き換える。例)赤ずきん(赤いずきんを被った女の子)
・シネフドキ(提喩):あることについて、その一部にあたる言葉で全体を、また全体を指す言葉で一部を表す。例)ペンタゴン(アメリカ国防省)(国防省の建物の形で国防省そのものが表されている)、「人はパンのみにて生くるにあらず」(人間は物質的に満たされるだけでなく、精神的にも満たされて生きることを求めるという意味。パンは物質の具体例)
ひとえに比喩といってもさまざまな種類があるんだと勉強になりました。
4限は私の担当で、3限で取り扱った「ポリフォニー」を提唱したミハイル・バフチンの『ドストエフスキーの詩学』を読みました。
このテクストはドストエフスキーの小説の特徴が語られたもので、その中でポリフォニーの概念が登場します。
ドストエフスキーはロシアの小説家で、19世紀のロシア・リアリズム文学の代表者と言われています。以前のドストエフスキー批評は作品に登場するイデオロギー的な問題ばかり扱い、構造上の特徴は見過ごされてきました。そこに一石を投じたのがバフチンです。
バフチンは、ドストエフスキーの本質的な特徴は真のポリフォニーにあるといいます。真のポリフォニーとは、それぞれの世界を持った複数の対等な意識が、各自の独立性を保ったまま作品に織り込まれていくことです。わかりやすく説明すると、ドストエフスキーの作品に登場する主人公たちはそれぞれが独立した考えを持っており、それは作者の考えに収束していかないということです。
ここまでを読んで、「作者が書いてるものだから、少なからず作者の考えが反映されているはずだ」と考える人もいるでしょう。これは「作者も意図せずに無意識のうちに書くことがある」ということを考えると解決できます。私たち人間は何かを書くときいつも自分の意志のままに書いているわけではありません。たとえば、なにかの感想文を書いているとき、書き終えてみると本来自分が書きたかったことからずれていた、なんてことはありませんか?私は筆が乗るとよくそのようなことがあります。また、二項対立的に一人を生み出したらもう一人も生み出される(正義と悪みたいな)ということもあります。こういったことを考えると作者の考えが反映されていないテクストが生まれることも納得できるのではないでしょうか。
次にポリフォニー的な小説の具体例について、私はあまり思いつかなかったので他の方にも例を尋ねたところ、内藤先生から芥川龍之介の『藪の中』が、中村さんからはやみねかおるさんの公式ファンブックの最後の書き下ろし小説がそれにあたるのではとおっしゃっていました。
私はどちらも読んでみたのですが、確かにポリフォニー的な作品だと感じたので、もしこれを読んでいて「ポリフォニー、なんだかよくわからないな。」と感じた人はぜひ読んでみることをおすすめします。
また、内藤先生からバフチンがポリフォニーを提唱した背景についても解説がありました。バフチンもドストエフスキーと同様にロシアの人です。この『ドストエフスキーの詩学』は1929年に発表されたもので、その当時のロシアはロシア革命によってソビエト連邦が成立したあとの時代になります。内藤先生によると、バフチンは文学で社会を変えようとしたそうです。レーニンのような一人の意見だけが強い力を持つ社会に対して異議を唱えるために、モノローグよりもポリフォニーを推し進めたということです。バフチンはまたカーニバルも提唱しています。カーニバルとは非日常であり、カオスでもあります。このカオスがないと日常が平凡でつまらないものになると主張しました。これも当時の社会状況の反映ですね。
このように、バフチンの理論には社会を変えようとした背景があります。現代は革命的な動きが少ない分、こういった価値観は新鮮でした。また、だからこそ最初はポリフォニーについてうまく理解できなかったのかもしれないとも感じました。
長くなってしまいましたが、今回のブログは以上となります!さて、このブログはきちんと授業内容が伝わるものになっているでしょうか… 無意識のうちに自分の書く意図のなかったことまで書いているような気がして、これこそまさにポリフォニーへの第一歩ですね!と、雑なまとめをして終わろうと思います笑
ではみなさま、また次回お会いしましょう!
皆さんお久しぶりです!9期生の宮澤です。
先日、明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会に行ったんです。
我がゼミの阪口さんが、コンマスを務める発表会だったのですが、とても感動したので、この場を借りて、叫ばせてください。
面白かった!阪口さん、ほんとに凄かった!小林幸子さん、歌うまいですね!
以上、宮澤の心の叫びでした。どうでも良くてすみません。阪口さん、本当に本当にお疲れさまでした。
さて、本題に入りましょう。
今回のゼミで扱ったテーマは、「観客」です。理論は、J.オーモンの『映画講義入門』の第五章映画と観客。作品は、『オリンピアー民族の祭典』なり。
今回は、映画の観客に関する研究を学びました。
①観客の精神と映画の関係
②観客の心理を使った映画の技法
の2つに分けて、おさらいしていきます。キーワードは「再現的イリュージョン」です。
まず前提として、観客の研究は、大きく分けて2つの分類ができます。
1つ目は、観客の外在性に注目した研究。統計学や経済学、社会学の方法から、観客集団を分析する研究です。2つ目は、観客の内在性に注目した研究。心理学を応用して、映画の観客の精神を分析する研究です。今回は、2つ目の研究について、勉強しました。
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①観客の精神と映画の関係
映画は見る人、つまり観客がいないと成立しません。そして、映画の受け取り方は、個々の観客によって異なります。例えば、映画の作り手が想定していた通りに、観客が解釈してくれるとは限りませんよね。そのため、観客なしに映画を語ることはできないでしょう(多分)
でも、そもそも、観客とは何なのでしょうか。簡単に言うと、観客とは、映画に対して「再現的イリュージョン」などの精神活動を行う存在です。
では、再現的イリュージョンとは何でしょうか。「再現的イリュージョン」とは、観客の心的過程で勝手になされる補正精神のことを指します。よう分からん、詳しく(白目)
突然ですが、皆さんゲシュタルト崩壊を経験したことがありますか?1つの文字をずっと見ていると、その文字が何だか分からなくなってくるという、例のあれです。
これは、同じ文字をずっと見てると、文字の一画ばかりが見えてきて、文字全体が認識できなくなってしまうことが原因です。つまり、私たち人間は、物事を要素で捉えているのではなく、全体で捉えているということが分かります。
逆に言うと、私たちは、総合的(全体的)に物事を見る力を持っているといえます。
実はこの能力、観客が映画を見る時にも発揮されています。
そもそも映画(映像)は、静止画の連続にすぎません。てことは、本来肉眼で映画を見たら、高速で静止画が変わっていく様子が見えるはずです。しかし私たちは、映画を静止画ではなく、自然な映像として見ます。
つまり、静止画の連続(要素)を、つながった映像(全体)として認識してると言えます。つまり私たちは、肉眼そのものが見せる以上のものを、精神を通じて見ているということです。
そしてこれこそが、「再現的イリュージョン」です!!!!!
つまり、「再現的イリュージョン」とは、観客の心的過程で勝手になされる補正精神のことを指します。このように、観客の精神を通じて補正が起こるため、人によって映画の認識が異なったりするわけですね(自信ない)
②観客の心理を使った映画の技法
①では、心理学の研究を応用することで、観客は精神活動を行い、映画を見ていることが分かりました。次に、観客の精神活動に効果的に影響を与える映画の技法について、紹介します。
映画は、様々な情動を誘導できるような方法を模索してきました。人の情動を誘導する方法は、特にプロパガンダ映画を通じて、研究が進んでいきます。そして現在では、観客の感情を盛り上げたり、登場人物に共感できるようにしたり、様々な場面で応用されるようになりました。
要は、人間の心的過程を理解し、触発するような技法を使うことで、観客の思考を操作できるということです。モランの『映画あるいは創造的人間』では、同一化という技法が紹介されていました。同一化とは、観客に、自分と全く異なる他者である登場人物を同一視させること技法です。
心理学を応用して、観客の「再現的イリュージョン」が明らかになったことで、作り手側が見せたいものを見せる技巧の研究に繫がったと言えるでしょう。
以上の学習内容を踏まえて、『オリンピアー民族の祭典』はどのような作品だと言えるでしょうか。
『オリンピアー民族の祭典』は、ナチス政権下のドイツで行った、ベルリンオリンピックの記録映画です。この作品は、ただの記録映画にとどまらず、独自の編集技術で、スポーツの普遍的な身体美や躍動感が表現されている作品として評価されています。一方、ナチス政権下で撮影されたこともあり、プロパガンダ映画であるという評価もされている作品です。
ここからは、ゼミ内での分析になります。
肉体美を表す独自の技術について
・スローモーション→選手の競技の瞬間を、スローモーションにしている。観客が息を飲んで見守る瞬間の感覚を、スローモーションで表す技巧。観客の再現的イリュージョンを理解した上で、映像表現をした技法だと言える。
・競技以外の演出→得点が入る場面や観客が盛り上がっている映像を、所々で差しはさんでいる。ただの記録映画ならば、選手の競技のみを映像にすればよい。そのため、観客目線のオリンピックのハイライトが上手く描かれていると言える。
プロパガンダ性について
・ヒトラー→ヒトラーの映像が所々差しはさまれている。(自国の選手が得点を入れた時など)しかし、ヒトラーの映像に威厳があるようにはあまり見えない。むしろ、オリンピックを成功させようと必死な表情が多く映っている。よって、ヒトラーやナチスのプロパガンダのために作られているわけではないのではないか。むしろ、観客の再現的イリュージョンで、プロパガンダ映画になってしまったのではないか。
以上を踏まえ、『オリンピアー民族の祭典』は、技法を活用して身体美を表した作品だが、観客の再現的イリュージョンによってプロパガンダ映画として認識されてしまった映画と分析しました。元々、『オリンピア』は、観客の再現的イリュージョンを理解した技法で、スポーツの肉体美や躍動感を表現した記録映画だった。しかし、枢軸国が形成された戦争下の世界では、製作者の意図に関わらず、プロパガンダ映画として機能してしまった可能性があると分析しました。特に、自国のために戦争に行く人たちにとっては、自国の強さを再確認し、自分を鼓舞する映画になっていたかもしれませんね。
私は普段観客であることが多いので、改めてこの理論を勉強すると大変興味深かったです。これから映画を見る時は、映画にどのような再現的イリュージョンがあるのか、意図されているのかを見ていくのも、面白いかと思います。
ここまで見てくださった方、本当にありがとうございました!次回のブログでお会いできることを楽しみにしています!
こんにちは。白井翔大です。面白そうな映画やアニメがたくさんあることを再認識しています!もちろん授業を通じても、そうですし、鑑賞記録をつけていくアプリでもそのように感じています。
他の人の鑑賞記録を見ていて思うことのなのですが、この人は普段何をやっている人なのだろうと。というのも、記録の更新数が圧倒的だからです。作品への熱量が高いことはたしかなのですが、それにしてもどのような過ごし方をしていれば、これだけ多くの作品に触れることができるのか気になることがあります。
以下、授業内容になります!
キーワード:カメラワーク
観客は映画を「カメラという眼」を通して見ます。
→カメラがどこに置かれ、どのように動いているかは、映画の意味にとって極めて重要となります!
大論点:カメラワークは映画にどのような意味を与えるのか
それぞれのカメラワークが映画の内容を表す役割を持っています!
中論点1:ショットはどのような意味を持つのか
場面に応じて多様な意味を持ちます!
小論点1:クローズアップショットは何を表しているのか
① 親密性②登場人物の心情について隠しています
小論点2:ミディアムショットは何を表しているのか
人物間の関係を表しています
小論点3:ロングショットは何を表しているのか
社会環境や自然環境を表しています
中論点2:アングルはどのような意味を持つのか
アングルの持つ意味は単一ではない!
ハイアングルのショットはどのような印象を与えるのか
① 支配の印象②力や高潔さ、道徳などの喪失
ローアングルショットはどのような印象を与えるのか
① 優越性や権威、何らかの価値②登場人物の感情を表します
中論点3:カメラの動きはどのような意味を持つのか
出来事や登場人物を強調したり、価値判断を行ったりします!
小論点1:パンショットはどのような意味を持つか
関係づけ(人間関係の樹立、社会集団の説明)のために使われます!
小論点2:トラッキングショットはどのような意味を持つのか
技術的進歩によって多様な意味を創り出すことが可能になりました
中論点4:レンズの使い分けにどのような意味があるのか
観念を伝える意味を持っています!
中論点5:焦点距離(ズーム)を変えることによってどのような意味があるのか
① ズームインにはある人や物へ焦点を絞っていく効果②ズームアウトには周囲の空間との対比の中で事物を消してゆく効果がある
応用
今回は、ヒッチコック『鳥』の分析でした。メラニー・ダニエルスが、ミッチ・ブレナー(メラニーが気になる男性)の家に愛の鳥を届けに行きます。するとメラニーがカモメに襲われるのですが、それ以降メラニーだけではなく周囲の人間までもが、鳥にひたすら襲われ続けるというパニックものになります。
今回扱った文献『film analysis 映画分析入門』によると、『鳥』は「強い男性によって社会秩序が維持される、男女の不平等を必要としていることを示唆する映画」です。
メラニー:独立心旺盛な「プレイガール」
→ヒッチコックの思う「女性の自然な役割」に逆らっている
→自然(鳥)が彼女に復讐
カメラワーク
たとえばメラニーが湾を一人で渡るシーンでは、
ミディアム・クローズショット:メラニーが状況を支配している
ロングショット:危うさ、不吉な予感
というように、二つショットが用いられています。
他にもショットがあって、
極端なハイアングル:誤った方向へ向かう人類を疫病で罰するという聖書のテーマが隠れていて、「神による配材」を喚起
といように用いられています。
ここからは、ゼミ内での解釈です。
バードウォッチングのカメラワーク(映画序盤)
バードウォッチングされるかのように、メラニーはミッチに覗かれます。
ミッチが覗く際は、クローズアップ
カメラはミッチをロングショットで撮りますが、鳥が飛ぶ姿も映します。その後ミッチが双眼鏡でメラニーを観察する際、メラニーをクローズアップします。
このクローズアップは、鳥とメラニーの親密性や、そのことによってメラニーが解放的な野生の鳥の仲間、すなわち、かごの鳥ではないことを表現しています。
ついでに言うと、このショットは男性(ミッチ)が女性(メラニー)を一方的に眼差しを向けるショットであり、男女の非対称性を読み取ることができます。
鳥に襲われてからのカメラワーク(映画終盤)
ミッチを中心のミディアムショット
→ミッチの母が家族の中心だった状態から、ミッチが中心になったことを表現
ローアングル
→ミッチが家族内での支配的な存在になったことを表現
鳥の役割は?鳥が襲う対象は?
家父長制や生権力から逸脱する存在を襲いやすいです。
野生/かご(鳥かごの鳥、つがいの鳥)
独り身は襲われやすいし、助け合うことができないので、生存できません。
実際に殺害されてしまった人は、独り身と考えられる人でした。
ではなぜ独り身が殺害されてしまったのでしょうか?
それは、家父長制(生権力)の視点に立つと、独り身は望ましいものではないからです。
その一方で、家族は襲われたとしても助け合い、生存し続けます。
用いた理論
① アブジェクション
メラニーの自立した女性を潜在的恐怖として、その恐怖を棄却。
対照的に支配する側からすると、かごの鳥は支配できているので安心感があります。
② 家父長制(生権力)
ミッチ中心で、その他の家族はミッチを支えます。つまり、ここでもメラニーの自立性は失われて、かごの中の鳥になってしまいます。
このように、『鳥』では近代以降の家族としての安定性を保つことが示されています。
カメラワークと二つの考え方(アブジェクション、家父長制)から『鳥』は次のようにまとめられます。
「メラニーは独立心旺盛で自由な雰囲気を漂わせていますが、鳥1に襲われたことで家族という『かご』に入り、その最下層に移ることを示唆する映画」です。ミッチによって、檻に戻されるメラニーが描かれています。
結果的にミッチと結ばれそうなメラニーですが、この映画がメラニー勝利の物語だったのか、あるいは想定外のことだったのかは、さらなる解釈次第となります!(記号論を用いて、移動の物語として読み取ることもできそうでした)以上が『鳥』の分析になります。
カメラワークも分析に用いることができそうです。ただ、このブログを書いていても思ったことなのですが、映画内の文脈に依存する場面が多々あり、カメラワークが意味を持つというよりは、意味の補強がしっくりくるような気がします。ありがとうございました。