秋学期第7回ゼミ

こんにちは、横野です。

今回のゼミでは小野俊太郎の「ジェンダーとセクシュアリティ」について前田くんが発表し、その後みんなで議論をしました。

発表を通して、『女性の身体の「物質(唯物論)」的な基盤と再生産』についてと、文章中に多々見られる『サイボーグ』という言葉の意味についての2点が論点にあがりました。

上記の2点は後で話し合った結果を書きますね。まずは発表内容から!

生物学的なオス・メスというのは長年、人間社会のすべてを決定すると考えられてきましたが、それでは説明のつかないことが発生してきました。それがジェンダーとセクシュアリティの議論に繋がります。

ジェンダーとは「社会における[男女]という性差あるいは性役割」のこと。

一方セクシュアリティは「性的なことがら、特にセックスのパートナー選択に関すること」とあります。

これらジェンダーとセクシュアリティは全ての人に関わっていますが、普段は目に見えず私的なものとなっています。しかし、何かのきっかけで公的な場に“暴力的に”表出するんだそう。

また、先ほど書いたジェンダーは、境界線を「権威」や権力」によって人為的に作られてしまった為、身体的な性とジェンダーにずれが生じる性同一性障害などの事例が見られます。

また、男性優位の「父権制」に対抗したフェミニズム理論が、結果的にジェンダー理論への理解を深めるきっかけとなりました。また、フェミニズムの知見を受けて「女性らしさ」だけでなく「男性らしさ」というものの形成にも注目が集まるようになったそうです。

ここまでジェンダーについてお話しました。次はセクシュアリティについてです。セクシュアリティないしセックスという行動に関して言うと、あまり公然と話すべきでないという風潮がありますよね。もちろんそれは現代でも変わりません。ですが、セックスという行動自体はその人自身の人物評価を大きく左右する事項となっています。これを「公然たる秘密(open secret)」と言います。

例えば、同性とのセックスを行うこと、また異常な異性愛(幼児愛やセックス時に痛めつけるような行為をする愛など)に基づいたセックスを行うことは実子中心主義によって良くないこととされ、通常の異性愛によるセックスを行う人物より下等な存在として捉えられてしまいました。このように、医学の言説(実子中心主義)がセクシュアリティとその人のアイデンティティを結びつけることに繋がってしまったのです。

また、ジェンダー運動において、女性の人権などを尊重し同性愛者がその運動から排除される事例がありました。ここから蔑称である「クィア(queer)」をあえて用い、差別を受け止めながらも対話や議論を進めていく「クィア理論」が生まれていきました。

次にアイデンティティの新しい見方についてです。

「バディ物」という刑事作品などでよく見られるジャンルがあります。男同士が心を通わせ、ヒロインを奪い合うという構図が良く描かれる作品ですね。こういう作品はあくまで「男同士の絆」を描いたものであって、その男性たちを「ゲイ」とは思いませんよね。

これについてイヴ・K・セジウィックは「ホモソーシャル」と「ホモセクシャル」の区分として、ホモソーシャルな欲望は性愛を伴わない男同士の友情であり、社会を構成するメンバーの確認様式である。この考え方の背景として「女性蔑視(ミソジニー)」と「同性愛嫌悪(ホモフォビア)」があると書いています。

しかし、近年では上野千鶴子が『スカートの下の劇場』において女性同士の友情について提示を行うなど、ホモソーシャルな要望へ亀裂をいれる試みが行われています。

そして、ジェンダーについてジュディス・バトラーは『ジェンダー・トラブル』の中でジェンダーやセクシュアリティは身体で決まることはなく、社会によって捏造された言説や身振りが反復されること(=演じること)で成立すると書いています。これは社会構築主義にあたりますね。

そして、ここで一番最初に書いた2つの疑問点が論点に挙がりました。

まず、女性の身体の「物質(唯物論)」的な基盤と再生産という言葉。この「基盤」と「再生産」というのはどういう意味…?と皆で話し合った結果、「子どもを生む行為」であると結論付けました。後に書かれるサイボーグにかけた言葉でもあると思われます。学術的な文章とはいえ、女性陣からは機械的な表現で描かれていることに対して少し否定的な言葉も挙がっていましたね。

そして、サイボーグについて。まず、前田くんが「サイボーグってなんなんだよ…」と疑問に思ったことから始まり、小野俊太郎のサイボーグについての考え方を文章から読み解くことに。

その結論として、サイボーグというのは「労働する為の変化をする手段として何か人間の自然現象で発生しない人工物を身につけたもの」ということに。極端に言うと、人間が作った靴を履いた時点で、「足を防御しより労働しやすくなるようになったサイボーグ」ということになります。あまりに極論過ぎて皆絶句(笑)

ですが、逆に言うとサイボーグに男女差はありません。つまり、道具を用いた人間は男女関係なくサイボーグになるということですね。ある意味平等ではあるのかも…。

話は逸れてしまいましたが、このようにサイボーグの事例も挙がりました。

そしてジェンダーに関して近年ではジェンダーのイメージの氾濫が起こっています。また、ジェンダーへのイメージはその人の視線の働きによって変化するとも書かれていました。そして、ジェンダーに対するイメージは幾度もコピーや再生産を繰り返され消費をされているんだそう。BLものを読む女性、レズビアンもののアダルト作品を見る男性というように、新たなイメージがついても結局は生産・消費・流通という道を辿っていくのです。

 

こんな感じで秋学期第7回のゼミはジェンダーやセクシュアリティについてなかなか責めの考え方を持った文章を使って皆苦しみながら議論を進めました!

この後またジェンダーについてたくさん議論や発表を重ねることになっているとは露知らず、無事に授業を終えました(笑)

秋学期第6回ゼミ

こんにちは。今回のブログ担当の相田です。

第6回のテーマは「ジェンダー批評」について深めていきました。

今回の題材は田山花袋の『蒲団』と生駒夏美の論文、『田山花袋『蒲団』にみる日本の近代化とジェンダー』です。

 

まず初めに、明治時代の文学の変革に関して、論文では述べられています。製本技術の進化で作品が大量に複製できることによる読者の距離の変化と、西洋文化の導入により生じた言文一致運動によって手本とされた「第三人称のリアリズム」の出現により、日本近代の文学作品は大きく変化することになります。その象徴が田山花袋の『蒲団』を先駆者とする「私小説」というジャンルの出現になります。

 

また、その後、近代文学が明治時代の社会にどのような影響を与えたのかを論じています。日本国を西洋諸国に追いつかせるため、近代的思想を新たに知識層の仲間入りを果たした一般大衆に伝える手段として、近代文学はいい手段となり得ました。

 

その後、論は田山花袋の『蒲団』へ移ります。

ここでは、『蒲団』に登場する女学生、芳子についての考察がなされています。作中でハイカラな女学生として描かれた芳子は、近代日本社会の女性の象徴であり、時雄に代表される旧時代的な男性があこがれる存在として描かれている。

そして、芳子が地元に戻される結末は、芳子が師であり近代化へ導こうとした男性である時雄を裏切った罰であり、そこからは男性知識階級が自らの特権性や優越性を独占しようとする意志が窺えるとしている。

 

また、『蒲団』は告白文学として「抑圧によって存在した性」を初めて描いた作品でもある。これまでの告白文学で描かれた虚構の「性」ではなく、「私小説」という形式により「外面」を描くことで可能になる「内面」を描き出すことに成功し、田山花袋は『蒲団』を、自身を確立することが可能になったのである。

 

私小説という汎用性の高い小説の形態の登場により、自然主義近代作家である田山は焦りを生じていた。それは『蒲団』の中の時雄が芳子の恋人である田中への焦りとしても描かれている。それが芳子に対してではないのが、女性作家があくまで男性作家に支えられたものでしかないという考えによるものであるとしている。

 

まとめとしては、私小説という作品の登場により、「内面」と「外面」という考えが生じ、他者と自分を分ける西洋的思想が日本に広まることとなった。そして、その思想を広めていったのは田山花袋をはじめとする男性近代作家であり、そこには女性近代作家を抑圧する動きが存在していたことが窺えたのであった。

 

 

さて、次回はこの議論を踏まえたうえで中島京子の『FUTON』、田山花袋の『蒲団』の批評を実際にやってみるという一大イベントになります。各々がどのように解釈するのか、非常に楽しみですね!!

秋学期 第1回特別講義

今回の特別講義のブログ担当の前田です。
年数回ゼミ外部より講師をお招きして行う特別講義。11/15に行われた秋学期第1回目(通算3回目)は東京大学大学院より平井裕香さんをお招きし、川端康成『禽獣』の研究についてのお話を伺いました。

1480335469055
↑写真右から五番目が平井さん。真ん中の男の方が目立っちゃってますね笑

恥ずかしながら我々ゼミ生の中に川端康成について詳しい人はおらず、平井さんに川端康成のイメージを聞かれても「ノーベル文学賞」「雪国」「伊豆の踊子」ぐらいしか出てこず・・・
しかし、文学研究においては長い歴史が積み重ねられている作家でもあります。故にその先行研究をいかに打ち破るかという平井さんの努力や熱意に、我々は心を打たれました。

『禽獣』は川端康成の初期ごろの作品で、よく文学研究の対象とされる作品です。タイトルの通り、禽(鳥類)と獣(犬など)が多く出てくる小説ですが、それらの死にフォーカスが当てられていてなかなか残酷な内容で、読むのに難儀しました。
従来の文学者もこれを、私小説(的な小説)、動物と女性を重ねるなど「いやらしい」小説、構成が複雑な読みにくい小説であるなどと論じています。ですが平井さんはそれらを越えた読みを行う為、物語の語りの構造に注目しました。
この小説の主人公は、様々な動物や登場人物ごとに区切られた場面を行ったり来たりしながら語りを行っています。その場面一つ一つは動物虐待について淡々と述べられているだけですが、そうした場面の流れ全体を見た時はじめて主人公の良心の呵責が見えるというのです。
その他にも、普通に読むだけでは気づきもしない様々な知見を発表して下さり、作品分析に関する様々なヒントをいただけたように思います。

そして長い特別講義のあとは、全員でお食事会へ行きました。対象とする小説は暗いですが、平井さん自身は気さくな方でとても楽しい時間を過ごせました。
今回は本当にありがとうございました!

ゼミ入室試験:2次募集要項

ゼミ入室試験の2次募集に応募する人は、レポートとエントリーシートを提出すること。

  • レポート:以下の内容を1,500-2,000字の文章にまとめる。(A4横書き)
  1. 志望理由
  2. ゼミで取り組みたいこと(対象・作品があれば、それも示すこと)
  • エントリーシート:以下のリンクからファイルをダウンロードし、必要事項を記入する。

エントリーシート

提出締切日時及び提出場所は、情報コミュニケーション学部事務室に確認すること。

なお、レポートとエントリーシートの両方を提出した者のみ、面接試験を受けられるものとする。

秋学期第5回ゼミ

 どうも、今回のブログ担当を務めます前田です。
 第五回のテーマは「新歴史主義」についての学習の続きということで、以前から
このゼミでも登場しては我々の頭を悩ませてきたミシェル・フーコー氏に関する
論文をもとに議論を交わしました。今回セレクトしたのは杉田敦『権力』。
その名の通り、権力論が主体のものとなっております。

 今回読んだ章は「権力は上からくるのか下からくるのか」と題して、権力という
ものの在処を探りました。この問いに対してフーコーは「権力は下からくる」と
結論付けています。権力は「上」に位置する特定の支配的な人物がもつものでは
なく、むしろ「下」の位置する不特定多数の人民の関わり合いの中に成立します。
いわば、点として在るのではなく面として在るというわけです。このような
全体をコントロールする主体が不在な状況は、看守ではなく囚人同士が
相互監視する監獄「パノプティコン」に象徴されます。
 上記の内容に伴ってさらにフーコーは、経済的・知的・性的関係においても
権力は外部ではなく、関係の内部に直接生まれると述べました。経済的関係は
マルクス主義に関わってくる話ですし、性的関係はジェンダーにも関わってくる
話題ですね。そこで議論の的となったのが「生 – 権力」というものについてです。
今で言うと健康診断や予防接種など、否応なしに生きることを管理し強制する
権力形態であり、その源流は18世紀のヨーロッパで生じました。そこでフーコーが
着目したのが当時のキリスト教における告白システムであり、そこでは本来
プライベートなものである「性」に関することが衆人の相互監視下におかれ
管理されることになります。これについてはゼミ内でも多くの具体例などが挙げられ、
議論がヒートアップしました。

 権力はあらゆるものの相互関係から生じるという言説は新歴史主義に通じる
ものがありますし、それがマルクス主義やジェンダーなどにも関わる広がりを
持つことが認識出来た、そんな回だったと思います。

秋学期第4回ゼミ

こんにちは。
今回は、秋学期第四回授業についでです。
今回は新歴史主義についての理解を深めるため、
杉井正史氏の「シェイクスピアとロンドン」という論文を使用し、議論を行いました。
執筆担当は提中です。

この論文では、16世紀前半、闘犬や熊いじめといったものと同等なレベルであった劇が、高度なレベルの文化にまで成長した背景には、シェイクスピアやマーローといった才人によるところの他に、エリザベス・ジェームス朝という時間、またロンドンという場が大いに関係しているとし、大衆劇場の発生はロンドンという都市の地理的要素、政治的な要素とどのように関わっていたのか、とくにリバティと呼ばれた特別行政区の役割について、シェイクスピアの喜劇『尺には尺を』を取り上げながら、考察しています。

ここで一度『尺には尺を』の簡単なあらすじを紹介します。
ウィーンの公爵(≒国王)ヴィンセンシオ公爵は、厳格であるアンジェローに公爵代理を任せて、自らは旅に出るといって姿を消すが、実際には、修道僧に変装し、国内の状況を視察する。公爵代理となり統治を行うアンジェローは性道徳について厳しく取り締まり、結婚式の前に許嫁を妊娠させてしまった男・クローディオに対し死刑を宣告する。しかし、クローディオの妹・イザベラに刑の執行を止めるように懇願されると、彼女の美貌に魅了された彼は欲望に屈し、「自分の欲望を満たしてくれるなら、兄を助けてやる」という交換条件を出す。最終的にヴィンセンシオ公爵は正体を現し、悪行を犯したアンジェローに死刑の宣告を下す。しかし、最後には全ての人物が許されて幸福な結果を迎える
という話です。(かなり省略したあらすじなので、気になる方はご自身でお調べ頂くと幸いです。)

今回の授業では、まず、何故外部にリバティという治外法権の場がつくられたのか、ということが議論になりました。リバティは、郊外に存在する地区で、エリザベス朝時代、酒場、淫売窟が王から公認されている場所で、劇場もリバティに出現していました。議論では、リバティという外部に設置された治外法権の場所で発散させることで、内部に権力を適用させることが出来るからなのではないか、という結論になりました。今の世の中でいう競馬や競艇のようなものでしょうか。

さて、次にこの論文は、どう新歴史主義的なのか、ということが議論になりました。新歴史主義について簡単に復習すると、小説や演劇などの言説も歴史の一部になり得る、という考え方です。(詳しくは春学期第14回ゼミの記事にあります。)

この劇の批評史の初期は、「公爵は神の代理人である」という説が有力でした。作品の中で、アンジェローの厳格な立法主義に対して、公爵が寛大な慈悲を施すことによって、自らの統治を回復する、という面に注目すると、公爵は“神の代理人”という解釈がされます。
しかし、現在の批評では、“神”という解釈の逆で、公爵は“神”ではなく私利私欲で動いている、という解釈がされています。国民に自由を与えるように見せながらも、一連の騒動を通して国民を機構の中に封じ込めるという、陰険な権力メカニズムの策謀を、公爵の中に見ようとしているのが現在の批評です。

この劇では、「性」と「死」という人間の二つの属性を最大限に前景化させながら、「自由」と「抑圧」についての言説を提示しています。統治の権力は、一度民衆のもとに晒されますが、この過程を通して人民はより強固に権力機構の中にとりこまれます。『尺には尺を』はこのような権力メカニズムを暴露しています。そしてそれは、エリザベス・ジェームズ朝の、大衆演劇自体の機能も暗示しています。演劇は権力に対する批判の視点を持つが、同時に権力による欲望の封じ込めの手段でもあったため、演劇は現実を映し出す鏡となり得た、ということが書かれていました。『尺には尺を』という作品は時代を反映している作品だということが言え、この点が新歴史主義的であるという議論になりました。

今回のブログ、まとめるのにかなり苦戦してしまいました。頭では理解していても、誰かに伝えられるように文章を書くのはとても難しいですね。精進します。

今回の議論では、フーコーの権力論の話にもなりました。そして権力というものについて詳しく消化することが出来なかったため、次回の授業で、権力論について詳しく扱うこととなりました。
では、また次回もよろしくお願い致します。

秋学期第3回ゼミ

こんにちは。今回のブログ執筆担当の室です。

今回のゼミでは、前回に引き続き、『現代文化論』を使って議論を行いました。

扱った分野は、第1講「映画」と、第10講「お笑い」です。

 

第1講「映画」では「構造主義」・「物語論」、第10講「お笑い」では「フレイミング」・「構築主義」の内容を扱っています。

『現代文化論』については初回のゼミにてどの分野を扱うかを自分たちで決めたのですが、

その中で「お笑い」を選択したのは、「お笑い」を「構築主義」を使って考察するということに興味を持ったためです。

「構築主義」の考え方が「お笑い」という文化にどう関わるのかが想像ができなかったため、テキストの内容や議論を通じて理解できたらいいなあと思い選びました。

 

ではまず第1講「映画」から。

この講では、先述の通り「構造主義」「物語論」を使い、現代文化における「ハイ・コンセプト」映画(=商業映画)に見られる物語の構造や形式を考察しています。

 

前半では、『スター・ウォーズ』を構造主義的に読み解くという形で解説されていました。

『スター・ウォーズ』は、作中で多くの対立関係が登場します。この対立関係を読み解くことで、隠された意味を見出すことができる、ということでした。

これにより、旧三部作ではソ連を仮想敵国としたアメリカの正当性を主張しようしていたこと、新三部作では新たな仮想敵国としてのイラクを暗示していることが指摘できます。

 

後半では、ウラジミール・プロップの昔話研究の内容が、現代の商業映画に色濃く反映されていることが指摘されていました。ここでは、『スター・ウォーズ』『ハリーポッター』を例に、商業映画において物語の「形式」が存在していることが解説されています。

 

議論の内容としては、物語論の歴史の確認を中心に行いました。物語論の歴史の中で、「構造主義」がどのような立場であるのかを再度復習しました。

また、テキストの中で指摘されていた商業映画の物語の形式について、これを壊すような作品も登場しているのではないかという話もしました。英雄譚に見られる形式が「面白い物語」としての規範となっている現代において、そういった規範を受け継がない作品も登場していることが分かりました。形式に則った物語を面白いと感じるのも、多くの商業映画に触れる中で作られた感覚なのかもしれないと思いました。

 

次に第10講「お笑い」です。

前半はお笑いにおいて「フレイミング」がどのように取り入れられているかが解説され、後半は「笑えるもの」が社会の状況に応じて常に変化していることが指摘されていました。

 

「フレイミング」とは、ある出来事に意味づけを行うことです。これにより、それ自体では意味を持たない出来事が、ある経験として残ります。同じ出来事でも、意味づけによって違う経験を手に入れることができますが、この意味づけの行為が「フレイミング」と呼ばれるものです。

 

この「フレイミング」が、現在主流になっているコント形式のお笑いにおいて、重要なものになっています。

ここで例として挙げられたのはアンジャッシュの「障子をへだてて」というネタです。このコントは、同じ状況を、登場人物それぞれが違う状況として定義するという「フレイミング」を利用したものです。

 

後半は、「お笑い」における笑いの要素を、構築主義的に見ていきます。ここで例に挙がったのは「キャラ設定をするお笑い」です。このお笑いは、私たち自身が人間関係を形づくる中で「キャラ」というものが定着したからこそ、成り立つものです。

また、笑い飯の「鳥人」というネタにおいても、マンガ的な感性がなければ受け入れられない、現在だからこそ受け入れられたネタであることが指摘されました。

 

議論の中では、構築主義の例として「指導」と「体罰」が挙がりました。現在では「体罰」として扱われるものの中には、以前には「指導」として行われていたものなどもあることから、物事の認識が社会の状況により変化していくことを確認しました。

 

今回の内容は、個人的に論文に直接関わることが多かったため、執筆を進める際に参考にしようと思います。

作品をどう分析するか行き詰っていましたが、作品の構造を読み解くという事例を確認できたので、取り入れようと考えています。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

秋学期第2回ゼミ

こんにちは!今回のブログ担当の横野です。

秋学期からはゼミの進め方が変わることになり、
①前座として各々の論文内容の発表・議論、
②春学期で学んだ批評理論の復習・フランケンシュタイン以外の作品で批評理論を用いた論文の発表・議論
を行うことになりました。

今回は初回授業ということもあり、①は内藤先生による論文の書き方(パラグラフ・ライティング)の講義に、②は『現代文化論』を用いて室さんがマンガ、相田くんが文学についての発表に代替されました。

パラグラフの構造やトピックセンテンスなど、基本的なことを学び、春学期に提出した論文を事例にして分かりやすく説明してくださりました。

改めて春学期の論文を見返すと、文章がめちゃくちゃになっているので、次に提出する論文ではパラグラフ・ライティングを用いて改善しようと思います!

そして、まずは室さんによるマンガについての発表。

マンガという題材を用いて〈文化産業論〉〈価値形態論〉を発表してくれました。

文明(文化)は野蛮さの対極にあるものとされてきましたが、実は文明化こそが人間が行ってきた最も野蛮な行為だと『啓蒙の弁証法』では書かれています。

どういうことだろうと皆で話し合いましたが、「そもそも対立しているのではなく、文明も野蛮さも当時の啓蒙的思想に包括されているのだ」という脱構築的考え方によって二項対立を破壊しているとアドルノ・ホルクハイマーは説明しているという結論になりました。

ただし、アドルノはエリート主義的な文化観を持っていたので、クラシックとポップカルチャーを二項対立していたこともあるようです…。

そして、その後に文化産業としてのマンガを『週刊少年ジャンプ』を事例にして見てみることに。

・ジャンプは他の週刊少年コミック誌に比べ圧倒的に売れている。
・売れることに徹底してこだわっており、マンガを作品としてより「商品」として扱っている。

などが『現代文化論』に挙げられていました。

議論の中で「友情・努力・勝利」というジャンプの三大原則も売れやすいコミックの鉄板ネタだからこそではないかという話題になりましたよ。

ついさっきまでジャンプを夢いっぱいのコミック誌だと思っていたので、少しだけ大人の事情や闇を見たような気分になりました(笑)

そして、価値形態論について。

価値形態論はマルクスが『資本論』冒頭で展開しました。

価値は交換という形態(価値形態)をとらずに現れることはなく、商品は交換されることによって“同じ価値がある等価物”となるそう。
確かに、現在でもお金と商品を交換して買い物をしていますもんね。

ここで、よく価値形態論は労働価値説(価値について、「ある商品を生産する際に必要とされる労働時間つまり労働量」だとする経済学説。)を展開していると誤解されるそうですが、マルクスは「労働価値説」を批判しています。

マンガも描かれた当時の社会を反映し、当時の人々にとって価値がある作品が作られています。

例でいうと、バブル経済期は明るい気分のもとで多様な価値観をもつ個人が戦い成長をする作品が描かれています。
代表的な作品として、『ドラゴンボール』『聖闘士星矢』などが挙げられています。

しかし、必ずしも直接反映するわけではなく反転したり、ねじれたり、ゆがんだりしながら社会のあり方を映し出しているそうです。

例として、『鋼の錬金術師』は資本主義(利潤を含んだ交換を最重要課題とする)とは正反対の等価交換を最重要課題としています。

次に相田くんによる文学についての発表。

まず間テクスト性の夏目漱石の『こころ』を題材として復習をし、その後相田くんが春学期論文で題材にした新本格派推理小説の間テクスト性をこれまでの推理小説を時系列に挙げて説明してくれました。

そして、脱構築。
これも復習をしたあとに「リアルとフィクション」の脱構築を実践してくれました。

ライトノベルやケータイ小説を題材として、表紙、作品の特徴、作家などから分析してくれました。

ライトノベルは表紙をアニメ風のカバーにするなど、フィクションを強めたものですが、同時期に流行したケータイ小説はレイプ、ドラッグ、DV、いじめというリアルを追求した作品です。

ですが、ケータイ小説のリアルな舞台設定も1つのフィクションを作り上げる為の装置でしかなく、“リアルという形の中でフィクションであることを徹底しようとする作品である”という点において、近年ではリアルとフィクションという二項対立は緩められているのではないかとのことでした。

こうして久しぶりのゼミは終了。
忘れている批評理論が多々あることも分かったので、改めて復習しなおそうと誓いつつ次のゼミに向けて皆始動し始めました!
長文になってしまいましたが、最後までご覧いただきありがとうございました。

夏合宿4日目(最終日)

こんばんは!!

夜の投稿となってしまい申し訳ありません。最終日を担当する相田です。

 

ずっと会議室にこもっていた3日間でしたが、最終日は打って変わって観光メインの一日でした!この日は前日の快晴の星空に続いていい天気で、今までの暗い会議室からおさらばということで一層晴れているようにも感じましたね(笑)。
dsc_0041-1
セミナーハウスでの集合写真です。

合宿最終日の8月31日、この日私たちが観光したのは合宿先である清里セミナーハウスから10分ほどの、「サンメドウズ清里」です。ここは、冬場はスキー場として利用されるようですが、その時にも使われるリフトに乗って、ただでさえ標高1000mを超えているところから更に900mも登るんです!!メンバー一同、下で昼食を買ってリフトへ。数名高所恐怖症が混じっていたようで、個人的には楽しいリフトになりました。(約1名に睨まれましたが。)dsc_0047

少し雲がでてはきてしまいましたが、清里一帯だけでなく、遠くの山々まで見通せる絶景に自分も感動しました。特に、日が差した際に、下の森に雲の影が差しているところと晴れているところが混在している時なんか、今まで自分たちがいたところをこうやって見下ろしている違和感と、自分が相当高いところにいる実感から、得もしれぬ感動を抱きました。似たような感覚を前にも体験した気がしましたが、あれです。飛行機の窓から下を除く感覚ですね。でもここには狭い窓はなく、まるでパノラマのようでした。dsc_0100

また、このサンメドウズのポイントとして、斜面にせり出したソファーが売りになっています。この美しい風景を寝転がりながら見ることのできる幸福感。日差しでポカポカと暖かくなったソファー、もといベッドは、眠気を誘うのには十分でしたzzz。dsc_0124
われらが3期生の女子メンバーです。皆さんプレッシャーから解放されて実に幸せそうです。

この観光を終え、私達のゼミ合宿のイベントは終了しました。
最後はバスでゆっくり揺られながら東京へ。
皆ぐっすり眠っていたので、すぐ着いてしまいました。

 

以上で合宿の報告は終わりです!!お付き合いいただきありがとうございました。
会議は中々精神的にくるものがありましたが、全体的にとても楽しい3泊4日でした!!その一端でもこのブログから窺っていただけてれば幸いです。来年の合宿はどうなるかはわかりませんが、また楽しく有意義な合宿になればと思います。