3年ゼミ 第14回

こんにちは。先日、美容室で蒸しタオルを手渡されたので顔を拭いていたら、「結構全力で拭いてますね笑」と言われ、義憤にかられてしまいました。どなたか僕に優雅な顔の拭き方を教えてください。今回のブログ担当は川上です。更新が遅れてしまい申し訳ございません。

第14回の講義内容についてですが

3限では、廣野由美子著『批評理論入門−「フランケンシュタイン」解剖講義』(中央出版)の「ポストコロニアル批評」「新歴史主義」について学習しました。4限ではミシェル・フーコー『知の考古学』について学習しました。

1.「ポストコロニアル批評」について
『批評理論入門』によれば、ポストコロニアリズムとは、20世紀後半にヨーロッパ諸帝国が衰退し、アジア・アフリカ・カリブ諸国などの「第三世界」が植民地支配から独立したあとの歴史的段階を指します。ポストコロニアル研究は文化研究の一種で、広義には、西洋によって植民地化された第三世界の文化全般の研究を指し、特に文学作品を対象とする場合をポストコロニアル批評といいます。
その方法として、

 ➀植民地化された国や文化圏から生まれた文学作品の研究
 ➁帝国主義文化圏出身の作家が書いた作品において、植民地がどう描かれているかの分析

等があります。このような研究・分析により、帝国主義文化圏が、自己イメージを明確にするために、植民地を比較の対象として持ち出したり、自身らの支配の正当性を担保するために、植民地のイメージを改ざんしたりしていた、ということが明らかになってきます。

2.「新歴史主義」について
『批評理論入門』によれば、新歴史主義は、旧歴史主義のように出来事を重視したり、歴史を直線的・発展的なものと捉え特定の時代精神と結びつけたりするような方法をとりません。歴史を、旧歴史主義のように文学作品の「背景」とみなすのではなく、社会学や文化人類学などを含む「社会科学」として位置づける点において、新歴史主義は新しいのだといえます。

文学テクストは歴史(事実)よりも信用に値するだとか、逆に、歴史(事実)は文学テクストよりも信用に値するだとかをはっきりさせたいのではなく、ここでは、文学テクストと歴史(事実)は相互に影響しているのだから、その2つを分ける区別をなくさなければならないというわけですね。

4限では、『知の考古学』を用いて学習しました。先述した、歴史的な題材など他の領域のテクストと文学テクストとの境界をなくそうという新歴史主義の手法には、この『知の考古学』を著したミシェル・フーコーの方法論の影響がみられています。

《考古学的比較は、統一化する行為ではなく、多様化する行為である》

つまりは、複数の学問分野が存在するならば、【Aの学問がBの学問に影響を与えた】、【Bの学問がCの学問を生んだ】というような、理論的な一つの構造を見出す(統一化)のではなく、AもBもCも、それぞれ自己の領域を持ちながらも、互いに向かい合い共存していると考える(多様化)のがフーコーです。学問分野の比較のみならず、言説形成と非言説的領域(社会的制度や、政治的実践など)の関係性にも着眼し、考察しています。原因と結果を安易に結びつけてはいけないわけですから、非常に根気のいる分析法だと感じました。

実は、この回は、夏合宿を終えた後に書いています。夏合宿では、春学期に学習した内容の復習もやるのですが、新しい発見が多かったです。例えば今回の『知の考古学』の復習も合宿でやったのですが、レジュメには「やっと分かった!!」的なメモが記されているのですが、合宿で読み返すと「いや、やっぱりよく分からんのだけど。過去の自分なんなの??」となりました。未来の学習が、過去の解釈を塗り替えた瞬間でしょうか。秋学期でも、既存の自分の考えをどんどん上書きしていけたら、大変でしょうが楽しそうだとも思います。