9期生第6回「もしかしたら私もドストエフスキー小説の主人公かもしれない」

はじめまして。第6回ブログ担当のヤンです。

簡単に自己紹介させていただきます。

ヤン・スビンです。ヤンが苗字で、スビンが名前です。

名前から分かるかもしれませんが、出身は韓国です。日本に来て450日目、孤軍奮闘しています。(笑)

趣味は映画とドラマを見ること、本を読むこと、音楽を聴きながら散歩することなどです。推理小説やドラマが大好きです。

昔クラシック音楽をやった経験があるのでクラシック音楽が好きで、その中でもオペラが一番好きです。オペラお好きな方がいらっしゃるか分かりませんが、もしいらっしゃったらいつでも声をかけていただければと思います。

それでは第6回の授業内容の振り返りに入ります。

3限「声」「イメジャリー」

第9節 「声」

声が物語の中でどう表現されるのかについて廣野さんは主に2つに分けて説明しています。

モノローグ的

:作者の単一の意識と視点によって統一されている状態。自分の考えを自分の視点で話すことが該当する。

ポリフォニー的

:多様な考えを示す複数の意識や声が、それぞれ独自性を保ったまま互いに衝突する状態(第7節「性格描写」の「立体的な人物」を表す。)

ここで桃太郎の例を挙げると、

昔話の「桃太郎」:モノローグ的

芥川龍之介の「桃太郎」:ポリフォニー的

だとも言えます。

  • 昔話の桃太郎では善と悪が戦う二項対立が現れるので、「善」という正義が「悪」を勝つという作者の考え方と視点が入って、桃太郎という登場人物で統一される : モノローグ的
  • 逆に、芥川龍之介の「桃太郎」では鬼の立場を入れることで、多様な考えを示す複数の意識や声が、それぞれ独自性を保ったまま互いに衝突する状態を作っている:ポリフォニー的

第10節 「イメジャリー」

イメジャリーとは、ある要素によって、想像力が刺激され視覚的映像などが喚起される場合、そのようなイメージ(心象)を喚起する作用のこと、または、イメージの集合体です。

ここでフランケンシュタインにおけるイメジャリーを考えると、主に2つの例が挙げられます。

  • 月:物語の中で重要な出来事が起こるとき、しばしばその前後に「月」が描写される。これは強烈な視覚映像を生じさせると同時に、何か別のものを暗示する象徴になる。
  • 水:湖や海などが「死」を象徴する場として描かれる。そしてメタファーとしても、フランケンシュタインが自分の運命について語る時、川に喩えて自分の破滅について比喩的に示す。

ここでイメジャリーを主に5つの分類に分けられます。

  1. メタファー(隠喩):あることを示すために、別のものを示し、それらの間にある共通点を暗示すること。(ex)夏空に浮かんだ綿菓子=雲)
  1. メトニミー(換喩):ある事物を、その属性と密接な関係がある他の単語を借りて表現すること。(ex)黒帯-有段者、やかんが沸騰している-でも実際沸騰しているのはやかんの中の水)
  1. シネクドキ(提喩):物事の一部として全体を、または一言でそれに関連するすべてを表すこと。(ex)お花見-桜を見ること-多くの花の中で「桜」を思い浮かべる)
  1. 象徴:特に類似性のないものを示して、連想されるものを暗示すること。(ex)ハト-平和(別に関係ないじゃん))
  1. アレゴリー:具体的なものを通して、ある抽象的な概念を暗示し、教訓的な含みを持たせること。(ex)イソップ寓話-ある童話を通して我々に教訓を与える)

4限「ドストエフスキーの詩学」

フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(1821年~1881年)は19世紀ロシアを代表する文豪で、著作としては『罪と罰』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』『白痴』などがあります。彼の著作は「現代の予言書」と言われています。

このドストエフスキーさんを研究して今日扱うテクストを書いたのは、ロシア(ソ連)の文芸学者であるミハイル・ミハイロビッチ・バフチン(1895年~1975年)さんです。

バフチンはこのテクストの中で「詩学」を、狭義の詩に関する理論ではなく、言語芸術の創作において題材、ジャンル、プロット、文体等の選択を支配する、作者の創作姿勢の全体を意味ものだと言っています。

[真のポリフォニー]

批評家たちは、ドストエフスキーの登場人物と対峙し、登場人物のイデオロギーを評価しようとしました。ここで批評家たちがイデオロギー的な側面に注目した理由は、イデオロギー的なのがドストエフスキー作品の特徴であり、彼が作家にさえ反旗を翻す能力を持った自由な人間たちを創造したということ、つまり真のポリフォニーを意味します。ドストエフスキーの主要人物は、作者が登場人物に何かをさせる(客体)のではなく、登場人物が自ら思想を持って行動する(主体)ことでした。彼の小説で登場人物たちは自主性を持って主体的に動きながら物語を進行させ、その点で伝統的な小説とは違うと言えます。

バフチンはここで、他の批評家たちがドストエフスキーの小説の中で登場人物という個別のイデオロギーに注目しすぎて、ドストエフスキーの芸術的特徴に気づいていないと批判します。そして、彼を作家であり芸術家だと表現します。

*バフチンが考えた芸術性は、以前にはなかったスタイルである「自由な登場人物で物語を作っていく」という新しいスタイルを作り出したこと、芸術家として小説の新しいジャンルを開いた開拓者(pioneer)という意味で芸術性が高いと言ったのではないかという議論を授業中に交わしました。

[ポリフォニー小説の創造者ドストエフスキー]

ドストエフスキーの作品は文学史上どの図式にも当てはまらない独自性を持っており、彼を「ポリフォニー小説の創造者」だと言えます。

従来のヨーロッパの小説が

  • 主人公の性格造形は、作者の客観的なイメージに従う
  • 作者の声のメガフォン
  • ストーリーが既に存在し、そのストーリーに合わせて登場人物の性格や行動を作者が決める

という特徴を持っていると言うと、ドストエフスキーの小説では

  • 登場人物の声が極度の自立性を持つ
  • 作者の言葉と登場人物の言葉が肩を並べる
  • 登場人物がいてストーリーが完成される、つまり、登場人物>物語の筋書き

という特徴があります。

また、モノローグ小説の結末が決まっていることが多く、すでに予想が可能な場合が多いのに対し、ポリフォニー小説では人物によって物語が進み、どうなるか予想できないという特徴があります。

そういう意味で、ドストエフスキーが創造したポリフォニー小説の構造は特殊だと言えます。

以上、第6回の内容でした。

ここまで読んでくださった皆様、ありがとうございます!

9期生第5回「近代の産物、“猫に餌をやるヤンキー”」

初めまして。今回のブログは柴田が書かせて頂きま~~~す!

~性格描写~

文学はキャラクターが命!というわけで本日扱った最初のテーマは「性格描写」。

突然ですが「二面性のあるキャラ」っていいですよね。

「ヤンキーが野良猫にこっそり餌やってた!」「優しい糸目キャラが開眼したらメッチャ怖かった!」

こういった「多面性」がキャラに深みを与えてるんではないかなと思います。

ですがなんと、このようなキャラクターが持て囃されるようになったのは近代以降!

割と最近なんですね。

ところで近代といえば…

_人人人人人人人人人_

> 個人主義の登場 <

 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄

そう。個人主義です。

近代以前は「複雑な人間性」というものは認められていませんでした。

人は生まれながらに与えられた「天命」に従って生きればよい。貴族に生まれたら死ぬまで貴族らしく、百姓に生まれたら死ぬまで百姓らしく。そこに人格の多面性は要らなかったのです。

(近代以前の物語、例えば歌舞伎なんかだと善玉/悪玉がハッキリ分かれてますもんね。これを平面的人物というらしい)

ですが近代に入り、天命や身分ってそんなに大事か?みたいな風潮になってきました。

「生まれなんか知らねえ!俺は自分らしく生きる!」

しかし程なくして人類は気付きます。

「自分らしさって、何だ…?」

そう。生まれが関係無くなった今、自分で自分のアイデンティティを模索しなければならない。何者かになろうとする度に、何者にもなれない自分に直面する。そもそも一貫した自分なんて本当に存在するのか…?かくして人類は長きに渡る思春期に突入します。

そこで大切にされるようになったのが「一面的でない複雑な性格描写」だったのです!なるほど〜(こっちは多面的人物という)

〜アイロニー〜

次に取り上げたテーマはアイロニー。アイロニーとは「見かけと現実の相違から来る皮肉」のことを言うらしいです。

これだけだとよく分からないので、アイロニーについて自分なりにまとめてみました!↓

〜あらすじ〜

あるところにAちゃんとBくんがいました。

Bくんのことが好きなAちゃん。

しかしなかなか自分の気持ちに素直になれないご様子…。

【言葉のアイロニー】

Aちゃん「Bくんの、バカ………///」

  →言ってることと意味するところが違うので、言葉のアイロニー

【状況のアイロニー】

Aちゃん「Bくんの、バカ………///」

Bくん「ひっど…近寄らんとこ…」

Aちゃん「振り向かせようと思ったのに!ガーン」

  →意図したことと実際に起きたことが違うので、状況のアイロニー

【信頼できない語り手によるアイロニー】

(Aちゃんによる語り部分で)Bくんは馬鹿だと思った。

  →信頼できない語り手によるアイロニー

以上です!

〜昔話の形態学〜

最後に扱ったのはウラジミール・プロップの「昔話の形態学」です。

昔々誰かが言いました。

「文学も良いけどさ、やっぱり時代は科学だよね〜」

文学者プロップ「なんだと💢」

愛する文学を蔑ろにされブチギレたプロップは、どうやって文学を科学の仲間入りさせるか(どうやって科学的に分析可能にするか)を考え始めました。

そこで目についたのが生物学のいち分野「形態学」。

これは構造主義とも関わる学問で、個々の生物の形態に通底する「型」的なものを分析するものらしい。

これを文学に応用できるのでは?と考えたプロップ。そこで思いついたのが「昔話の形態学」でした。簡単に言うと、昔話には「型」(定項という)がある!という話です。その型とは以下の通り。

【7つの登場人物】

  • 主人公
  • 敵対者 …敵
  • 派遣者 …主人公を旅に出させる
  • 贈与者 …主人公に試練を与え、試練に勝ったらお助けアイテム・お助けキャラをくれる
  • 助手 …お助けキャラ
  •  …攫われたり主人公と結婚したりする
  • ニセ主人公

【31の機能】

  • 留守 …家族の成員のひとりが家を留守にする
  • 禁止 …〈主人公〉に禁が課される。依頼や忠告、命令、提案の場合もある
  • 違反 …禁が破られる
  • 探り出し …〈敵対者〉が探り出そうとする
  • 漏洩 …犠牲者に関する情報が敵対者に伝わる
  • 謀略 …敵対者は、犠牲となる者なり、その持ち物なりを手に入れようとして、犠牲となる者をだまそうとする
  • 幇助 …犠牲となる者は欺かれ、そのことによって心ならずも〈敵対者〉を助ける
  • 加害 …〈敵対者〉が、家族のひとりに害を加えるなり損傷を与えるなりする
  • 仲介 … 被害なり欠如が〈主人公〉に知らされ、主人公に頼むなり命令するなりして主人公を派遣したり出立を許したりする
  • 対抗開始 …探索者型の〈主人公〉が、対抗する行動に出ることに同意もしくは決意する。
  • 出立 …〈主人公〉が家を後にする
  • 贈与者の第一機能 …〈主人公〉が〈贈与者〉によって試され・訊ねられ・攻撃される。そのことによって、〈主人公〉が呪具なり助手なりを手に入れる下準備がなされる。
  • 主人公の反応 …〈主人公〉が、〈贈与者〉となるはずの者の働きかけに反応する
  • 呪具の贈与・獲得 …呪具あるいは〈助手〉が主人公の手に入る
  • 二つの国の間の空間移動 …〈主人公〉は、探し求める対象のある場所へ連れていかれる
  • 闘い …〈主人公〉と〈敵対者〉とが直接に戦いに入る
  • 標づけ …〈主人公〉に標がつけられる  ※カッコイイ傷、痣など
  • 勝利 …〈敵対者〉が敗北する
  • 不幸・欠如の解消 …発端の不幸・災いか発端の欠如が解消される
  • 帰還 …〈主人公〉が帰路につく
  • 追跡 …〈主人公〉が追跡される
  • 救助 …〈主人公〉が追跡から救われる
  • 気づかれざる到着 …〈主人公〉がそれと気付かれずに、家郷か、他国かに、到着する
  • 不当な要求 …〈ニセ主人公〉が不当な要求をする
  • 難題 …〈主人公〉に難題が課される
  • 解決 …〈主人公〉が難題を解決する
  • 発見・認知 …〈主人公〉が発見・認知される
  • 正体露見 …〈ニセ主人公〉あるいは〈敵対者〉(加害者)の正体が露見する
  • 変身 …〈主人公〉に新たな姿形が与えられる
  • 処罰 …〈敵対者〉が罰せられる
  • 結婚 …〈主人公〉は結婚し、即位する

王道RPGですね〜。

ジャンプ作品にも通じるものがあります。

しかしこの物語形態、批判もあるらしい。

すなわち、マッチョイズム全開すぎる!

(姫との結婚など)主人公が男性である前提なのもそうですが、男はこうあるべし!という価値観も固定されているんだとか。男は黙って、冒険!男は黙って、戦闘!

しかし男女平等化が進んだうえ、人類が根性論に疲れ始めた近年。

アンチ・プロップ的な物語も増えているように感じます。(戦う女性キャラ、誰も戦わないほのぼの日常アニメ 等)

私は愚直を愛しているので王道的な物語も好きなのですが、一面的な価値観からの解放はよいことですね。いろんなお話があったほうが楽しいです。

本日はここまで!

8期生第5回「映像を編む」

度々すいません上西です。

第5回のゼミでは編集について学びました。

テキストいわく、編集とは「選択と組み合わせの技術」であるそうです。

そしてその選択と組み合わせの技術によって、編集者は視聴者にさまざまな印象を与えることができます。

また映像の部分をつなげる際には「類似」「並行」「対照」「皮肉」などさまざまな原理を使うことができます。

代表的なのが、切り返しショットと呼ばれる対面する二人を交互に写す編集です。

切り返しショットでは「類似」と「対照」の原理が主に使われます。

例えば天使と悪魔が切り返しショットで交互に写されていたら、天使と悪魔の「対称性」が強調されると言った具合です。

また「類似」するショットをつなげることでメタファー的なつながりを作り出すこともできます。

例えばならずものの集団が、通りがかりの紳士を襲って殴り殺し、金品を強奪するシーンの間に、ハイエナがウサギを捕食しているショットが挟み込まれていた場合には、そのショットは、ならずものの彼らの行動の動物性のメタファーになっていると解釈できると言った具合です。

また全く似ていないショットをつなげることで、映画のテーマのコントラストに焦点を当てることもできます。

例えば女性の自由がテーマの映画であれば、女性が「男」らしく車で颯爽と荒野を駆け抜けるシーンの後に、男性が「女」らしく家でテレビのメロドラマを見ているシーンがくることで、映画のテーマである女性の自由が強調されると言った具合です。

このように、映像は編集の仕方によって、さまざまな印象を視聴者に与えることができるのです。

ゼミの後半では「地獄の黙示録」(ベトナム戦争が舞台)のラストシーンを編集の視点から分析しました。

ラストシーンでは主人公がカーツというラスボス的な人を斬り殺すシーンと、カーツを崇拝する人々が儀礼的に牛を斬り殺すシーンが重ね合わせられています。そのシークエンスがどのような意味を持っているのかを分析しました。

結論としては、カーツの死を西洋側による殺しによるものではなく、東洋側の殺しによるものとしての意味を与えたかったからこのような編集にしたという話になりました。これだけでは意味不明なので説明します。

まず西洋側による殺しですが、これはアメリカ軍の命令によって主人公が行う裁きです。カーツは元々アメリカ軍にいましたが、ベトナム人のダブルスパイ4人を殺し、ジャングルの奥地で現地人を統治し王国を作っていました。軍はカーツに軍に戻ってくるようにと再三通告しましたが、カーツが無視したため、軍は主人公にカーツの暗殺命令を出します。主人公はカーツを暗殺しにジャングルへと向かいました。

ジャングルの船旅を経て、主人公はついにカーツと対面します。このとき、カーツは主人公に「俺を殺すことはできるが、裁くことはできない」的なことを言って、主人公はそれに納得します。ここで主人公は裁きとしての西洋側の殺しを実行することをやめました。

しかしカーツ本人が自らの死を望んでいること、またジャングルや彼の王国、王国の民がカーツの死を望んでいると感じた主人公は、儀式としてカーツを殺すことに決め、実行します。この殺しが東洋側の殺しです。主人公は西洋側の動機からカーツを殺したのではなく、東洋側の動機からカーツを殺したのでした。そのことを視覚的に表すために、カーツが斬殺されるシーンと牛が斬殺されるシーンが重ね合わせられているのだと結論付けました。

このように、編集は映画を構成する大事な要素です。映画を見るときは、その映画がどのように編集されているかを意識して見ることで、わたしたちの映画鑑賞がより豊かなものになるのではないでしょうか。

8期生第2回「映画で実践カルチュラルスタディーズ」

お久しぶりです、8期生の上西です。

今回のブログは少し簡潔に書かせてください。頑張って書いた下書きが消え、意気消沈なうだからです。生暖かい目で見守ってくれると嬉しいです。

第2回のゼミでは、映画「千と千尋の神隠し」を千尋のアイデンティティ獲得をテーマに分析しているテキストを扱いました。主に5つの観点から分析されています。

越境

越境は自己の変化、あるいは自己と他者との関係の変化をもたらします。境界を越える旅を重ねて千尋は成長していきます。

境界の例としては、現実世界と神様の世界を隔てると同時につないでいるトンネルが挙げられていました。千尋はこのトンネルを通り神様の世界に入り、冒険していく中で成長していきます。

名前

名前は自己と他者を区別し個人のアイデンティティを示す記号ですが、基本的に名前とは自分の意思で選択するものではありません。そのため自己と他者の常に移り変わり続ける力関係の指標として機能します。

湯婆婆は千尋に千という新しい名前を与えました。この描写から名前を与える湯婆婆と名前を与えられる千尋という上下関係を見てとることができます。

主体

主体は他者からの呼びかけによって成立しています。そして主体は可変的で、社会的差異が複合的に作用する中で形成されていきます。

物語の序盤では内向的でシャイな千尋でしたが、油屋の人々との関割りの中で社会的に応答責任を持つ存在として主体化されていきます。

食は自己と他者の混交をもたらす過程です。食べることは消費であると同時に自己の再生産であり、自己と他者の絆を確認する共同の営みでもあります。

千尋は銭婆の家で銭婆たちと共同作業をした後でお茶やお菓子を共に食べることで絆を確かめます。

物語とアイデンティティ

千がアイデンティティを獲得できたのは、彼らが自分達の現在を過去から連なる物語の中に位置づけることができたからです。アイデンティティの獲得には自らの言葉で語られる物語を他者に伝えるコミュニケーションが必要です。

テキストは以上5つの観点から千尋のアイデンティティの獲得のプロセスを分析していました。

テキストを読み終えて「千尋は本当にアイデンティティを獲得したと言えるのだろうか」という疑問が挙がりました。ラストシーンでは千尋はトンネルの中での一連の出来事を忘れているように描かれているからです。

話し合いの末、銭婆の「一度あったことは忘れないものさ、思い出せないだけで」というセリフや、最後に銭婆からもらった髪留めがキラリと光ることから、トンネルの中での出来事は千尋本人は覚えていないが、潜在意識下で彼女に影響を与えているだろうという結論に至りました。

以上です。お読みいただきありがとうございました。

何事にもバランスが大事

とうとう4年になってしまった内藤ゼミの8期生、大本祥平と申します。

初めての方ははじめまして、なんか見たことあるなと思ったそこのあなたはお久しぶりです。

簡単に自己紹介を再度。

大本祥平です。

趣味はダイビングや音楽ライブに行くこと、ドライブや旅行などです。最近はゴールデンウィークにフェスにいきました。

サークルもダイビングでして、昨年までは幹事長なんてもんをやってました。沖縄とか静岡とかで潜ってます。

4年生ということで卒論がありますが、完成を目標に活動していきます。その過程を本ブログを通して、皆様にはお付き合いいただければ。

今年度から8期生は映画分析入門を用いて、映画を見て、それを批評や分析する活動を行っています。

かく言う今回私が本ブログを担当する際にも映画を拝見して、それを元にディスカッションを行いました。

今回は「突撃」です。

作品の構図

この作品の分析を、関口が発表してくれました。

今回の授業では作品内の構図がもつ作品内での意味を考察してきました。

①「密度

画面の中で人やものが密集しているかどうか

画面の中で人やものが密集した形で描かれることで受け手には登場人物の抱える追い詰められている心情や、閉塞感を表現。一方まばらに描かれることで余白を生み、空虚な空間を生み出すということですね。

広い部屋にぽつんと1人で佇む男、そんな姿を見たらなんか哀愁感とか虚しさを感じますよね。

②「登場人物の位置関係

登場人物が画面のどこにいるかによって意味を持たせる

画面の中央や上半分にいた場合は、その人物は作品では重要な人物であり、逆に下半分にいた場合はそこまで重要でない人物や従属的な人物である。(例外あり)

画面に映る人物の大きさについても言及されていました。

画面で大きく映し出させる人物は重要であったり、その人にオーラや威圧感を感じる。一方で小さく描かれる人は無力感や疎外感を感じる。

今回はこの他にも「前景と後景の対照性」や「画面内での対照性と非対照性」に着いても言及されていました。

そんな中で特に、構図という観点を構造分析的に見るとどうなるかという話題が上がって来ました。

「構造主義的に分析を行えば、本作品の中で歌が作品の締めで出てきたのが説明できるのでは?」

二項対立の構造を確認し、その対立の変動を見ることで最終的にどうして歌が最後のタイミングで歌われたのかが説明出来る、、ということでした。

まず初めに「突撃」の中で見られたのは

フランス VS ドイツ

の二項対立です。敵のフランス。味方のドイツ軍という構造です。

その後に

上官と部下

の対立項

この流れで他の対立項にも目を向けていくと

「食事」と「女」 「死」と「怪我」

▶︎このふたつの対立も上記の上官と部下の対立から波及するものでもあります。

「人」と「獣」 「男」と「女」 「個人」と「群」

と続いていくことが確認できました。

ここまで対立項をあげてきたことにより、戦争中の兵士たちがみんなでひとつの歌を口ずさむ、最後のシーンの中から

「戦場」と「日常」

の対立構造が浮かび上がり

人としての感性を取り戻していったのでは無いか

と考えることが出来ました。

しかし最後のセリフである

「少し待ってやれ」

から、今後また彼らは戦争に駆り出されることが暗示されている。

つまり、戦争の描写から始まり、みんなで同じ歌を口ずさむことによって、つかの間の日常を取り戻したものの、また戦争に駆り出されていく。永遠と続いてしまうかのような「循環」が見受けられるのではないか。

終わりなき戦争の二項対立になるのでは無いのかというのが途中で出た仮説ですね。

ただその後の注目したのは、「歌どドラムロール」です。

本作品では

歌は日常

ドラムロールは戦争

のメタファーを表すのでは無いか。

では、最後のシーンで歌とドラムロールの両方が流れていることが確認できるが、これらの流し方によっては「循環」ではなくなるのでは無いか。

そこで最後のシーンを確認したところ、歌とドラムロールは重なって同時に流されていました。

もし歌が切れて、ドラムロールが別々に流されているのであれば、日常は終わり、戦争がこれからまた始まることを表すことが出来るだろうが、同時に流れているため、循環構造ではないのでは。

つまり今後の展開に

変化の可能性を示している

と考察しました。

全く同じ戦争を繰り返さない、人の進歩の可能性が暗に描かれているのでは無いかという事で「螺旋」構造で現せるのではないか、結論を出しました。

最後に

今回は「突撃」を参考作品に映画分析入門を理解、分析、考察してきました。

私の説明力の不足により、少々分かりずらい所もあるかと思います。

「突撃」、こちらを見ていただければ、二項対立の対立項として上げているものたちもご理解いただけるのではと思っていますのでよければご覧下さい。

長らくお付き合いいただき、ありがとうございます。

では。

9期生第2回 語る存在と見る存在のはなし

はじめまして。9期生2回目のブログを担当します、高山花恋と申します。

最初なので簡単に自己紹介をしようと思います。

とにかく猫が好きです。友人からもはや猫派ではなく猫過激派だと言われたことがあるくらいには好きです。(犬派を弾圧とかするつもりは毛頭ありませんが)

あとは前回阪口さんがサークルの話をしていたので、私もサークルの話を。
実は3つのサークルに入っております。どれもガチサーではないのですが、どういうわけか忙しい時期が被りがちなので結果的にセルフガチサーをやっている状態になったりもします。余裕を持って生活できるときは来るのでしょうか。

そんなことを言っていますが、2回目の授業から2週間が経過してしまい、既に余裕がないので早速4月27日の授業の内容に参りましょう。

[前座]

前座は白井翔大くんでした。

前の週の前座を担当した滝沢くんに引き続き、アイスの話から始まりました。pinoが好きだそうです。

また、おすすめの漫画として『これ描いて死ね』を教えてくれました。
漫画好きの女子高校生が、自ら漫画を描くことに挑む物語。作品を生み出す苦しみも歓びも余さず描かれるとのこと。

漫画好きとしては興味を持たずにはいられないなぁと思います。

3限を担当したのは阪口緑さんでした。
重要なところはその都度「ここ重要なのでマーカーを引いておいてください!」と言ってくれたので、レジュメがあとから見返しても大変わかりやすいものになりました。ありがたい。

[語り手]

まず語り手について。
小説には、「語り手」が必要である という一つ大きな約束事があります。

語り手は、大きく以下の二つに分けられます。

①一人称で語る、物語世界内的語り手
②三人称で語る、全知の語り手・物語世界外的語り手

ここで「二人称で語る語り手はいないのか?」と疑問に思う方もいるかもしれませんが、ゼロではないにしろとても稀です。

次に、信頼できる語り手・信頼できない語り手、含意された作者について説明してもらいました。
この概念は、文献で(私からしてみれば)無駄に受動態が使われていたりするせいでかなりみんなを悩ませていました。

結論から言うと、

含意された作者=読者が、作品内の規範などについて「作者がこういう規範を決定したんだろう」と作者を観念化した存在
◎含意された作者と同じ価値観の語り手 ⇒ 信頼できる語り手
◎含意された作者と価値観が異なる語り手 ⇒ 信頼できない語り手

ということになります。

[焦点化]

ここから焦点化の話に入ります。
焦点化については4限を担当した柴田千華さんも説明してくれたので、二人の説明を私なりにまとめて書いてみようと思います。

注意すべきなのは、あくまで“視点”の話であること。普段小説を読んでいてもなかなか意識しない部分なので混同しやすいですが、語り手とは区別する必要があります。

焦点化は大きく①外的焦点化 ②内的焦点化 ③焦点化ゼロ の三つに分けられ、内的焦点化はさらに固定内的焦点化、不定内的焦点化、多元内的焦点化に分けられます。

まとめると以下の通り。

外的焦点化:焦点人物が物語の外側にいる場合。登場人物の思考や感情は記述されない。

内的焦点化:焦点人物が物語の内側にいる場合。ある登場人物を焦点人物とし、焦点人物の思考や感情のみが記述される。
  ・固定内的焦点化:焦点人物が固定されている場合
  ・不定内的焦点化:焦点人物が変わる場合
  ・多元内的焦点化:同じ出来事に対し複数の焦点人物がいる場合

焦点化ゼロ:「神の目」「全知の語り手」すべての時・場所の出来事、あらゆる登場人物の内面を記述できる。

ここで先生から、議論を深めるために二つ質問を挙げていただきました。

まず一つ目。
・焦点化ゼロと内的焦点化は1つの作品に共存するのか?

結論としては、共存する という答えになりました。
あくまで焦点化ゼロは、物語外に焦点人物が設定されているものです。なので、焦点化ゼロの中で、一つの方法として内的焦点化を採用することも、どこにも焦点を決めないことを採用することもできる、という。
「神の目」なのでなんでもできるということですね。

そして二つ目。
・焦点化ゼロと外的焦点化の違いは?

この二つは、物語外に焦点人物がいることは同じです。
何が違うかと言うと、登場人物の内面について書かれる際、焦点化ゼロでは内的焦点化を採用しますが、外的焦点化では「~と思われた」などの伝聞・推定のような書き方になる部分という結論になりました。

最後に、「ともにある視像」が重要な概念として挙げられましたが、時間が足りず未解決案件となりました。

以上、第2回のゼミの内容でした。ここまでお読みいただいたみなさま、ありがとうございます。

本来ブログを2週間以内に書かなければいけないのに少し過ぎてしまい申し訳ない気持ちでいっぱいです。GWと休講のおかげで一応第3回のゼミの前には記事を上げることができたので許されたい…
完全に言い訳ですが、今月が冒頭に言ったセルフガチサー月間なので…なんとか乗り越えたい…

次回私がブログを書くときにはきちんと2週間以内にアップしたいと思います!

高山花恋

9期生第1回 全ての物事はテンションを上げればなんとかなる。

こんにちは!皆さま初めまして。

9期生ブログ、記念すべき第1回担当の阪口緑です。

明治大学マンドリン倶楽部という毎週末に演奏会があるガチサーで、1stマンドリンと司会を務めています。1stマンドリンは主旋律パートです。司会は、お客様に次の曲の解説を伝えつつ演奏会の雰囲気を変えたり、裏方の舞台さん、音響さん、照明さんと結託して、なんとか演奏会を進めたりする指示役です。

今の私にはガチサー、ガチゼミ、フル単の三拍子が揃いました。たまにはゆっくり寝たいです。

趣味は舞台鑑賞、特に2.5次元と宝塚歌劇団と劇団四季が好きです!月に一度は何かを観劇しに行っています。こういった趣味からメディアミックス作品に興味があって、描き方の違いに注目して卒論を書けたらいいなと思っています。

長いですね。司会をやっているくらいなので、おしゃべりなんです。

自己紹介はこのくらいにしておいて、早速4/20の授業内容を振り返っていきましょう。



3時間目 プレゼミ

○前座

4/20の前座担当は滝沢桃介くん。

彼はアイスが大好物なんだそうです。そして彼はおもむろにビニール袋からアイスを取り出しました。

「明治エッセルスーパーカップ大人ラベル とことんショコラ」

一番上にはチョコレートソースが。チョコレート特有のしっとり感が味わえる。その下のチョコレートアイスはコク深く、練りこまれたクッキーのサクサク感もまた堪らない…!

彼の味わって食べている姿に「をかし」を感じました。

また、彼は明治大学演劇研究部に所属しており、4/28から3日間公演を行うそうです。

https://stage.corich.jp/stage/249509

ちなみに、演劇研究部の部室はマンドリン倶楽部の部室の隣にあります。

猿楽町第二校舎1階にぜひ行ってみてくださいね。


○廣野由美子著『批評理論入門 フランケンシュタイン解剖講義』

「1 冒頭」「2 ストーリーとプロット」

1 冒頭

レジュメ担当は高山花恋さんです。

メアリー・シェリー著『フランケンシュタイン』はもともと短編小説の予定だったのですが、旦那パーシーの勧めで長編に。その際、冒頭部分が変更されました。

一一月のうら寂しい夜のことでした。苦労の成果を目にする時がやってきました。

手紙 I

ミセス・サヴィルへ、イングランド

一七**年一二月一一日

①を小説の冒頭部にすると、日時場所等が不明で、なぜ無生物に命を与えることが可能なのか不明で、いかにも作り話っぽいため、読者は虚構の世界に容易に入っていくことができません。しかし、②を冒頭部にすると、手紙という現実的な枠組みであり、日時場所等が明確なので、容易に入っていくことができます。

これを踏まえて、作り話と知っていて読んでいるのに、なぜ現実味が必要なのか?という議論を交わしました。結論から言えば、必ずしも現実味は必要ではないのではないかとなり、作り話っぽい印象であれ現実らしくあれ、いかに惹きつけられるかが大切だという考えに行きつきました。

なんだろう、私がまとめると賢くなさそうに見えるの、やめてもらっていいですか?


2 ストーリーとプロット

小説において、ストーリーは出来事が起こった「時間順」に並べた物語内容です。ビーズ玉を繋ぐ糸と考えられます。そしてプロットは物語が語られる順に出来事を再編成したものです。出来事の間の因果関係に重点が置かれています。これは、ビーズ玉が糸で繋がれている順序と方法と言えます。そして出来事がビーズ玉と例えられます。

このプロットを活かして作られるのが「サスペンス」です!

英語「suspense」は「精神的に宙ぶらりん」という意味ですね。出来事の時間的配列が組み替えられることで、不安と恐怖を感じさせることができます。

これを踏まえて、なぜ御伽噺や民話などでは出来事を時間順に並べていく形式が多いのか、という点を議論しました。これは語り手と聞き手の関係性に原因があるのではないかと私たちは考えます。リアルタイムで語られるからではないか。しかし、映画や舞台もリアルタイムだ。つまり、語り手の媒体に視覚情報があるかがどうかに起因するのではないだろうか。という結論になりました。


4時間目 ゼミ

○テリー・イーグルトン著 大橋洋一訳

『文学とは何か −現代批評論への招待−』 「はしがき」

レジュメ担当は室井亨太くんです。

ここで懺悔なのですが、私はこの文章を今でも理解できていません。室井くんのレジュメの一部をそのままお伝えします。

テリー氏によると、文学とは

1 その存在は客観的なものではない。

2 構成する価値判断は歴史的に変化を受けるものである。

3 価値判断は社会的イデオロギーと密接に関係している。

  (社会的イデオロギーとは、特定の社会集団における前提事項のこと)


は〜…そう、なんですね…。室井くんのわかりやすいレジュメで要点は掴めました。ただ、本文のほうは「Aなのか?いやBだ。しかしそれも違う。ならCか?これも部分的に違う。」みたいなイタチごっこで訳がわかりませんでした。はしがきだけでは私はわからないので、いつか全文読みたいです。

また、ここではイデオロギーについて意見を交わしました。テリー氏は、イデオロギーとは「私たちが話し信じていることと社会構造や権力関係を結びつける仕掛け」であるが、「私たちが無意識のうちに抱えているすべての価値判断やカテゴリーすべてが即イデオロギーではない」と考えます。この考え方に室井くんは救われたみたいです。確かに、自分の発言のすべてが一貫したものではないし、こういう思想があるからそう思うんだねと決めつけられるのは気持ちいいものではないと私も思います。

最近、私の高校の担任が学校を辞めて、区議会かなにかの議員候補として出馬しました。同級生が彼の演説を見に行ったみたいですが、彼女は彼とは思想が違います。それでも、旧知の仲だから応援していると伝えたそうです。イデオロギーが違うだけで即敵対とか、そんな訳ないですよね。


はい、こんな感じでした。一発目から難しい文章を読んで、え、ついて行ける?と不安になりましたが、ゼミの同期の解説がわかりやすいので、なんとか耐えられそうです。何より、内容が興味深く面白いので、しっかり批評理論を身につけられるよう頑張ります!

阪口緑

8期生ブログ第9回「水無月、8ヶ月前のそれは」

これは、8ヶ月前の上西の記録。

2限

結末

物語には2種類の結末があります。閉じられた終わりと、開かれた終わりです。

閉じられた終わりは、はっきりとした解決に至って終結する方法です。例としては、主人公が結婚して幸福な状態で締め括られる「ハッピーエンド」などが挙げられます。ハッピーエンドといえば、日本の伝説のバンド「はっぴいえんど」が思い浮かびます。このバンドの曲に「続はっぴ-いいえ-んど」という曲があります。この曲は、『はっぴ「いいえ」んど』という歌詞が繰り返されていくにつれだんだん声が小さくなり、最後にはいいえという歌詞が微かに聞こえて終わります。この曲のような場合であれば、ハッピーエンドではないといって締め括られているので、ギリギリ閉じられた終わりです。

さて本題に戻りまして、結末のもう一つの形態、開かれた終わりは、はっきりとした解決なしに終わり、結末について多様な解釈が可能な結末のことを言います。二通りの解釈があるような「二重の結末」や、結末が冒頭部へとつながり円環構造を持つ結末などのことです。

伝統的批評

伝統的な批評スタイルとして、道徳的批評、伝記的批評があります。道徳的批評はテクストからどんな教訓を得られるのか的な批評スタイル、伝記批評は作者の経験が反映されたものとして作品を批評するスタイルです。

透明な批評、不透明な批評

不透明な批評は、テクストを客体としてみてその形式上の仕組みをテクストの外側に立って分析する方法です。

透明な批評は作品世界と読者の世界の間の世界との間に仕切りが存在しないかのようにテクストの中に入り込んで論じるような方法です。

ここで批評と考察の違いを話し合いになりました。分析した後に実社会に対して何か新たな価値観を提示しているのであれば批評、分析が物語内にしか及ばず、読んだ後に「なるほど・・・で?」となってしまうようなものは考察であるとの結論に至りました。不透明な批評は批評として成り立ち易いが、透明な批評は考察にとどまってしまい、批評たり得ない可能性があります。アカデミックな文章を書くときは考察でなく批評となるように気をつけなくてはなりません。

4限

フロイトの「妄想と夢」を扱い、精神分析批評、夢分析を学びました。

このテクストは主人公の行動原理を夢の内容から考察したもので、精神科医であったフロイトが臨床の現場で確立した夢分析の理論を物語内の登場人物の夢に応用したものなので、典型的な透明な批評です。

フロイトは夢は抑圧された願望を充足する行為であり、その夢を分析することは、無意識を意識化するのに役に立つと考えていました。そして神経症の原因である無意識に抑圧された願望を夢を解釈し患者に意識化させることで、患者の神経症を治療していました。

そういえば千と千尋の神隠しの銭婆が、「一度あったことは忘れないものさ。思い出せないだけで」といっていました。僕はこの言葉が好きです。意識上ではもう思い出せなくなってしまった僕にとってかけがえのない経験は、思い出せないからといってなくなってしまったのではなく、無意識ではしっかりと覚えていて大事に保存されているとおもっています。そしてそれらが今の僕を形作ってくれているとおもうのです。

2023年度問題分析ゼミナール入室要項

本ゼミへの入室を希望する学生は、情報コミュニケーション学部の事務室の指示に従い、以下の書類を提出してください。

1. レポート: 以下の内容について論じること。

1) 志望理由 2)ゼミで取り組みたいこと(対象・作品があれば,それも示すこと)。

書式:WordもしくはPDF、A4横書き、字数2,000字前後

2. エントリーシート: 以下のファイルをダウンロードし、必要事項を記入すること。

8期生第10回:読書とはテクストと読者の“ガチンコバトル”である。(齋藤)

えー、いま私は土下座をしています。え、見えないって? そうですよね、文字で書いてあるだけではわかりませんよね。

とにかく、私はいま土下座をしています。なんでかって、このブログが第10回のものだからです。ちなみに、第9回のゼミは6月23日、第11回は7月7日にありました。これが意味するところが何か、もうおわかりでしょう……。

ということで、私は土下座をし続けています。ついでに言うと、授業内容をなかなか思い出せなくて白目を剥いています。え、見えない? それはもう……心の目で見てください……。それが今回学習した「読者反応批評」というものです(※全然違う)。

あ、名前を申し上げ忘れていました。齋藤です。ブログ担当は2回目になります(雑)。

では、さっそく授業のおさらいに参りましょう!

ジャンル批評

「ジャンル」と言われるものは以下の2種類があり、今回は②をジャンルとして学びました。

①形式上のカテゴリーに基づくもの(小説/詩 など)

②テーマや背景など、内容上のカテゴリに基づくもの

トドロフ(ロラン・バルトの弟子)によると、「ジャンルとは、つねに他の隣接ジャンルとの差異によって定義されるものである」といいます。

ジャンル批評は、ゼミで題材にしている『フランケンシュタイン』でもできます。以下の通り。

1.ロマン主義文学

 自我や個人の体験、無限なるものや超自然的なものを重視する文学。啓蒙主義への反動として現れました。

 ロマン主義    ←→    写実主義

  超自然的           科学的

 個人を凌駕           個人

 <『フランケンシュタイン』におけるロマン主義的な要素>

 ・「老水夫行」や「ティンターン寺院」などロマン主義の発端ともいわれるような作品を引用

 ・題材やテーマそのものが恐怖や無限なるものの、超自然的なものと密接に関わる

 ・「若きウェルテルの悩み」を怪物が読んで主人公の苦悩に共感する日々。

2.ゴシック小説

 ロマン主義文学の中に位置づけられる小説。中世の異国を舞台に、超自然的な現象や陰惨な出来事が展開される恐怖小説を指します。

 <『フランケンシュタイン』におけるゴシック小説的な要素>

 ・作者の父ゴドウィンからの間テクスト性

 ・少年フランケンシュタインが中世の錬金術に魅せられること、スイスやドイツなど異国が舞台となっていること

 しかし、当時のゴシック小説の権威・オースティンは、『フランケンシュタイン』をゴシック小説として認めたものの、嫌悪感を示したといいます。理由は以下の通り。

・ゴシック小説には真実味に欠けた内容を仰々しく語るという特色がある。一方『フランケンシュタイン』はリアリスティックな描写における飾り気のない文体。

・伝統的なゴシック小説では超自然的要素が侵されないが、『フランケンシュタイン』では主人公が科学によって自然の神秘に乱入する。

3.リアリズム小説

 これは近代につれてできたジャンルです。人生を客観的に描写し、ものごとをあるがままの姿で捉えようとする芸術上の信条のこと。非現実的な描写や美化を避け、人生における日常的・即物的側面を写実的に描く、ロマン主義とは逆方向の文学となります。

 <『フランケンシュタイン』におけリアリズム小説的な要素>

 ・怪物が険しい山を楽に登る、超人的な速度で歩くなどの要素で、出来事に蓋然性を持たせる

 ・人造人間を造るという非現実的出来事に驚異的進歩を遂げた科学的発見がそれを可能にしたという設定を加えることで、リアリティを帯びさせる

 ・フランケンシュタインと家族との関係

④サイエンス・フィクション

 いわゆる「SF」です。空想上の科学技術に基づく物語のこと。また、サイエンス・フィクションには認知的・化学的なものの見方が不可欠とされています。『フランケンシュタイン』は最初の本格的なサイエンス・フィクションと言えるでしょう。

読者反応批評

次に、読者反応批評。教材に使ったのは、ヴォルフガング・イーザー『行為としての読書』です。

みんなで血反吐を吐く思いで読み解きました(死)。

・読者反応批評とは……

読者によって作品に対する反応の仕方が異なることに着目した批評方法。これは、読者がテクストに活発に関わる存在であることを前提としています。

伝達(読書)はテクスト構造と理解という行為の相互作用によって成り立ちます。

そして、理解という行為はテクストが完全にコントロールしているのではありません。「理解させるテクスト」と「理解する読者」、双方によって理解が成り立つということですね。

理解は作者と読者が想像力の“ゲーム”を分かち合うことです。つまり、読者はテクストをただ鵜呑みにしているのではなく、想像力を働かせて読んでいるということですね。

ここで、テクストがすべてを明らかにしすぎたりしなさすぎたりすると、読者は“ゲーム”から落ちてしまいます。しかしこれは、「読者の教養がないとテクストを読み解くことができない」という意味ではありません。

<視点の移動>

例えば紙の本は、ページを捲らないと読み終えることができません。テクストには、物理的にその全体を目で一度に把握することができないという特徴があるのです。

必然的に、読者は視点を移動させながら(ページをめくりながら)読み進めます。そのため見えない部分が出てくるという意味で、テクストは理解において超越性を持ちます。読者は見える範囲までしか捉えることができませんが、テクストの美的対象(=テクストを読んだときに立ち表れるイメージ)は総体を捉えます。

<読解の過程>

読者はテクストを単語(「あ」「い」)ではなく、ある程度、意味の塊として把握します。テクストが虚構(=物語!)である場合、読者の関心は文の相関体(=関わり合う文の前後の文脈)に置かれるため、その塊と知覚対象は同一視できません。……うーん、難しい。

例を挙げると、テクストに「眠る」と書かれていても、読者がすべて経験則の対象、つまり「睡眠」と理解するとは限らないということです。

虚構テクストでは、相関体が相互に入り組み、読者の領域で意味が満たされます。

同じ相関体において、個々の文が示す意味方向は、常に予覚(=次へ来る内容への予測)を含んでいます。個々の相関体は、その都度生み出す予覚を絶え間なく変化させ、読者に追いつかれまいとするのです。

このとき、読者がいる位置(ページのめくり具合など)は予覚(=次へ来る内容への予測)と保有(=過去のイメージ)の頂点になります。しかし、それはすぐに次の相関体の背景に回ってしまい、修正されることに。文の相関体はどこかが欠落しており、それに対して予覚がまた生み出されます。

つまり、文脈はどれも次にくる内容への予測を補足しており、同時に新しい内容の予測を生み出すことになります。

また、読者はテクストを読むときに視点を調節し、遠近法のレベルで見ていきます。

遠近法は絵を描くときに中心点をつけ、それにそって遠くの光景は小さく、手前は大きく見せるあれですね。中心点がずれると同じ線ではなくなってしまいます。視点が移動する中で、線が道のように立体になるのです。

まとめます(雑)。

読書過程において、読者の領域で期待は常に修正を加えられ、記憶は新たな変化を起こし、相互に作用しあいます。つまり、読書は予覚と保有との弁証法なのです。

(※弁証法=一つの物事を対立した二つの規定の統一としてとらえる方法)

『行為としての読書』では他にも難しい用語がたくさんでてきたのですが(死)、積み残しとなりました(死)。

ちなみに私はまだ土下座をし続けています。みなさんは積極的にテクストに関わる存在なので、反省している私の姿が見えますよね? ……はい、すみませんでした。