第13回 自分の言葉で語ること

10期生、13回目のゼミのブログを担当します。中村です。

今週は、エレーヌ・シクスーの「メデューサの笑い」の冒頭部分を読みました。そして理論を用いて映画『バービー』についての議論を行いました。

まず、「メデューサの笑い」で言われていることは、男根中心主義な社会にたいする抵抗として女性が女性の言葉で女性について語る必要があるということでした。それは、女性が男性優位社会において彼女たちの欲望が抑圧されているため、その欲望が女性に戻ってきて解放をするときに女性のエクリチュールが重要なのです。次に、シクスーは古典的ではない両性具有の概念として、自己の中に2つの性があることを突き止め、どの性も排除しないことを主張しています。これは女性は男性性と女性性のどちらも表象することができるが、男性は男性性のみを追求することを教育されているため、2つの性をもちどちらも排除しないと考えることが女性にとって利益のあることなのだといいます。最後に、飛び盗むという表現を使って、男性優位な社会で用いられてきた言語や道具を異なる使い方をしてその制度を壊すことを女性の動作であると説明します。女性が男性の言語の中にいるようで、その実男性の言語を盗んで女性の言語として使うようになれば、既存の秩序はかき乱されるのです。私たちはこの文章を読んで、男性について非常に極端で限定的な表現をしていることに疑問を持ちました。これについての意見として、敢えて女性の言葉で男性について書く時に偏見に満ちた表現をすることで、女性たちが男性の言葉の中で書かれてきたことをやり返しているのではないかと言われました。

次に『バービー』についての分析をしました。この作品は、バービーたちの住むバービーランドから物語がスタートします。毎日楽しいガールズナイトを過ごしていたバービーが死を考えてしまったり、脚にセルライトができたり、ベタ足になってしまったりとショックなことが起こりそれを解消するために現実世界にいってバービーの持ち主に会いにいくことになります。バービーの現実世界への冒険に、なぜかついてきてしまったケンは現実世界で男性が中心となり生活しているのをみて興奮し、バービーより先にバービーランドに戻って改革をはじめます。バービーがバービーランドに戻ったときにはケンランドがつくられており、ほかのバービーたちはケンの洗脳によって本来の自分とは違う行動をしています。バービーは自分の持ち主と共にバービーランドを取り戻すためにバービーたちの洗脳を解いて、ケンの支配から脱しようと計画を立て遂にはケンからバービーランドを取り戻します。

この作品について、どのようにすればケンが上手くバービーランドで生きていくことができたのだろうかと疑問に思いました。そこでシクスーの理論を踏まえて考えると、ケンがケンの言葉でケンのことを語ることができなかったのが問題だったのではないでしょうか。ケンはバービーと現実世界に行った際に男性が中心となった社会を目にしてバービーランドでも改革をおこないます。その改革で行われていたことは、現実世界やバービーのしてきたことのまねごとでしかありませんでした。最終盤で、バービーはケンに「ケンについて」尋ねますがはっきりと答えることができません。我々の議論では、ケンが馬が好きなことをケンの言葉で主張すべきだったという意見が起こりましたが、まさにそういったことが今後バービーランドで行われていくことを望みます。

また、議論では深く話し合いませんでしたが、バービーランド自体がマテル社が作ったものであるということも重要な要素だと思っています。マテル社によって作られる際にバービーは女性が望む女性ではなく、男性が女性に押し付ける女性になっているようにみえます。バービーがケンと現実にいった時の服装が男性からは賞賛される一方、女性にはあまり良い顔をされていませんでした。バービーが現実にいく箇所はケンと共にいく場面と最後の婦人科にいく場面ですが、この2箇所のバービーの服装は大きく違っています。今後この作品について検討する際にはこの服装の違いにも着目をして分析をしたいと思います。

私はこのブログが、今年最後になります。1年間ブログを書いて、確実にゼミの内容を文章にすることになれましたし、ゼミでの学びがより身についたと感じます。

まだまだ今学期のゼミの活動は続きますが、1年間お疲れ様でした!

第9回 カニになるように何になるのか

10期生第9回ブログを担当します、中村美咲子です。

今回は、千葉雅也さんの『動きすぎてはいけない』の序章と1章について、秋尾さんに発表をしてもらい、映画『佐々木、イン、マイマイン』についての議論をおこないました。

『動きすぎてはいけない』では、ドゥルーズの提唱した生成変化という理論を主に取りあげており、このブログではそれについて説明をしたいと思います。

まず意味を持ちすぎる接続を避けるために生成変化がよいとされます。

この生成変化は、別のなにかになる、とも言い換えることができます。

これはカニになる例を用いて説明がされているのですが、これは、ロバート・デ・ニーロがある映画でカニのような歩き方をしたことを生成変化としてしています。ここでいわれていることは、生成変化は知覚しえない動作をしていること、そしてカニの分身としての特異なふるまいを得たということです。つまり、生成変化は、あるものに実際になるわけではなく、特定のものの性質を無自覚的に会得するようなことなのだと考えられます。生成変化がおこなわれることで、動きすぎで接続過剰な現状を切断することができるのです。

この生成変化の理論を用いて、映画『佐々木、イン、マイマイン』について議論をおこないました。まずこの映画は、売れない役者の石井悠二が高校の同級生の多田と再会して、佐々木という破天荒な同級生と過ごした高校時代を思い返していきます。

私たちは、主に佐々木コールという特徴的なシーンについてと悠二が再度役者として舞台に立つシーンについて議論し、悠二に生成変化が起こったかどうかを検討しました。

佐々木コールとは、「佐々木」「佐々木」とはやし立てるもので、そのコールが起こると佐々木はどこでも脱いで踊り出していました。このコールについて、コールが起こるから佐々木が脱いでいるのか、佐々木が脱ぐからコールが起こっているのか、悠二が考えます。つまり、佐々木は脱ぎたかったのか、それとも脱がされていたのかということです。これについて、最終的に佐々木は脱ぎたくて脱いでいたのだろうと考えたのではないかと思います。そして、この佐々木がやりたいことをやり続けるという特質を会得した悠二が役者をやることになるという生成変化がみられたと考えられます。

今回のブログは取りかかりが遅く、内容もかなり物足りないものになってしまいましたが、個人的に生成変化は面白いと感じているためもっと勉強しようと思いました。

最後までお読みくださりありがとうございました。

第11回 アウトプットをしたいならインプットからはじめよう3

9期生の阪口です。

春学期の第11回の内容を振り返っていきます!!!

書籍は『映画の理論』第7章台詞、著者はジークフリート・クラカウアーさんです。

キーワードは以下の3点!

・映像>サウンド/台詞

・同期化/非同期化

・並列法/対位法

【大論点】映画で音声(台詞)を扱う際に、考えなければいけないことは何か?

【結論】考えるべきことは2つある。

    ①サウンドと映像のそれぞれの役割。

    ②サウンドと映像とが特定の瞬間に同期される方法。

・映像>サウンド/台詞

クラカウアーさんは、映像とサウンド・台詞の、適切な関係は何かという問いに対し、映像に重きを置き、サウンド・台詞の比重を軽くすることで、映像をストーリーの主軸にするとよいと論じます。映像とサウンド・台詞は、均衡をとることはできないとも述べています。

・同期化/非同期化

映画における同期化/非同期化とは?

同期化:画面上で同期しているサウンドと映像とが現実の生でも同期していること

非同期化:現実では同時に生じていないサウンドと映像が、スクリーンでは同時に起こったように処理されること

・並列法/対位法

映画における並列法/対位法とは?

並列法:言葉と映像が類似した意味を表現していること

対位法:言葉と映像が別々の意味を担うこと

ここが本論のポイント!

「同期の4つのタイプから、映像が優位な場合は同期化が適切」

タイプⅠ 同期化並列法

タイプⅡ 同期化対位法

タイプⅢ 非同期化並列法

タイプⅣ 非同期化対位法

音声優位な場合は、タイプIからタイプⅣまでの方法で特別な効果は得られない。しかし、映像が優位な場合は「画面上で同期しているサウンドと映像とが現実の生でも同期していおり、言葉と映像が別々の意味を担う」同期化対位法で特別な効果が得られる!

といった感じでした!映画のメモを全然残しておらず、今回はここまでです…!すみません。

第9回 アウトプットをしたいならインプットからはじめよう2

9期生の阪口です。

マイケル・ライアンらの『Film Analysis 映画分析入門』第2部第10章「編集」を振り返っていきましょう!

キーワードは以下の4点!

・夢 ・無意識

・同一化 ・境界

【大論点】心理学的に見た映画とは何を表しているのか

【結論】映画とは起きて見る夢である

まず夢とは何なのか。

本書では、夢とは「感情を表現したイメージの連なりである」と述べます。無意識の「影の部分」にある恐怖と欲望が、夢の中では人物や行動や語りを伴うストーリーとして出現するそうです。

では、夢と映画の類似性とは何かというと、無意識を無関係な要素の中に隠している点難度そうです。

つまり、無意識を表出させるものが夢や映画だと本書では説明します。

映画における無意識は、構造や一貫性を持った別のもので表現しています!

今回は映画『羊たちの沈黙』を用いて、ジェーミーがなぜ女性の皮を着るのかをフロイトの精神分析の考え方から考察しました。その結果、女性の服を着るよりも女性の皮を切る方が女性のパロディになるからだと結論づけました。女性は皮でさえもジェンダー化されていることに対し、社会への皮肉が込められていると予測できます。

第7回 アウトプットをしたいならインプットからはじめよう1

9期生の阪口です。

今更ですが、春学期の第7回の内容を振り返っていきます!!!

マイケル・ライアンらの『Film Analysis 映画分析入門』第1部第3章「編集」を振り返っていきましょう!

キーワードは以下の2点!

・つなげる ・組み合わせる

【大論点】編集はどのような技術であるのか

【結論】編集とは、シークエンスの選択と組み合わせの技術である。

まず、映画における編集の役割とは何か、本書ではずばり「映画の話の一貫性を作る役割である」と述べています!

編集による語りや時間経過などの効果を持たせることで可能にしているみたいですね。

では、その編集による語りとは何を表しているのかというと、「原因と結果、動機と行為」なのだそうです。つまり、因果やつながりを強調するそうです。

因果やつながりを強調する編集には、「類似」「並行」「対照」「皮肉」といった技巧があります。類似を例に考えてみると、類似のショットはアイディアやアクションにおけるメタファー的なつながりを表し、非類似のショットはテーマのコントラストに焦点を当て、個人内の葛藤の強調といった様々な機能を持つそうです。

ここが本論のポイント!

モンタージュとは:

脈略はないが、観客に連想させる断片をつなげる編集を指す。組み合わせによって様々な意味を表す可能性があるよ!

映画は『エイリアン』を見ました!

猫の役割は何かを考えていったところ、猫は人間を異なり、守るべき従順な存在として映画で表現されているのではないかと話しました〜。

アフィニティによる連帯

第7回のブログを担当します、中村美咲子です。

今週は、ダナ・ハラウェイの『猿と女とサイボーグ』から「サイボーグ宣言」について学びました。そして、後半では映画『オーシャンズ8』の分析を行いました。

「サイボーグ宣言」に述べられていることを端的にいえば、我々はサイボーグであるということです。サイボーグとは、おそらく多くの人が思いつくそのまま、機械と生体の2つの特徴を兼ね備えた存在です。そして、この2つの特徴の境界をあいまいにすることで脱構築がおこなわれます。さて、我々がサイボーグであるというのはどういうことでしょうか。ここでは、サイボーグの機械と生体という特徴を「人工」と「自然」という二項対立的なものとして、このような二項対立がさまざまな世界に棲んでおりもちろん我々人間もその二項対立とみられる2つの要素を兼ね備えた存在で、サイボーグ同様に脱構築が可能なのです。

ハラウェイは、さらに再構築も可能であるといいます。そこでは今まで信じられてきた資本主義や家父長制によってつくられてきたアイデンティティによる連帯ではなく、アフィニティを介した連携を考えることを推奨しています。まず、今まで信じられてきた資本主義や家父長制は、ジェンダーや階級、人種などの階層的な二項対立を生み出してきました。これらは、自然なものとして信じられてきています。けれども、それは搾取の構造であって当然自然なものではありません。このような人為的に生まれたアイデンティティによる紐帯には限界があります。なぜなら、アイデンティティの断片化が起こっているからです。つまり、特定の1つのアイデンティティのみで構築されている存在はおらず、我々はいくつものアイデンティティを有しています。このように複数のアイデンティティで構築されることから、ある1つのアイデンティティでは、安定した連帯を築くことができません。そこで、アフィニティによる連帯が検討されます。アフィニティは、血縁によらず自己の選択によって繋がるということで、既存の二項対立的思想を生み出したさまざまな制度に対抗する方法なのだと考えられます。

ここからは、『オーシャンズ8』の分析です。『オーシャンズ8』は、主人公のダニーが刑務所から出所する場面からはじまり、女性のみの犯罪集団で1億5000万ドルのダイヤのネックレスを盗み出すことで巨額の報酬を得て物語が終結します。この作品において、特筆すべき点はやはり女性のみで盗みをおこなうという点です。ダニーによって集められた6人の女性たちは、さまざまな犯罪に必要な技術をもっており彼女たちは無事に作戦を成功させます。この『オーシャンズ8』を「サイボーグ宣言」を踏まえて分析を行うと、彼女たちの紐帯は女性のみであるという点ではアフィニティといえるが、資本主義の制度に対抗するわけではないという結論が出されました。理由としては、彼女たちの中に一定程度の差別意識が見られることと、儲けたお金で資本主義社会に巻き込まれる形で物語が終わることが挙げられます。彼女たちが計画のメンバーを集める際に人種における差別や偏見に似た表現を感じることがありました。それは、ハッキングやスリといった明確な犯罪をおこなうのが西欧人ではないことや、ロシア人がハッカーであるという職業と人種が結びつくような発言などです。また、多くの女性はダイヤを売却して得るお金が目的で計画に参加します。そして、得たお金で望んだ生活を手に入れていくのだと考えられます。彼女たちは資本主義国家において、社会を変化させるわけではなくその社会でうまく生きるすべを模索するだけなのです。この2つの点から、彼女たちの関係を完全なるアフィニティだということはできませんでした。

最後までお読みくださりありがとうございました。

9期生第10回 『映画で入門カルチュラルスタディーズ』第1章〈自己〉 千と千尋の神隠し

おはようございます。9期生の室井です。

今回は〈自己〉がテーマです。

本文では日本人なら一度は見たことがある宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』を題材に解説を進めていこうと思います。

議論の流れ

今回のゼミでは以下の大論点と結論を設定して議論を進めていきました。

大論点:『千と千尋の神隠し』における自己の役割とはなにか?

結論:現実と異なる世界に迷い込むという経験から、これまでの自分を失い、新たな 自己を獲得する。そして、主人公が世界の不思議を発見する驚きと、出会いの喜びと喪失の悲しみに満ちた旅路を提供する役割を持っている。

中論点1 越境

 今回の議論で外すことができない要素はこの「越境」です。

 越境とは、二つの隔てられた境界を主体が越えることを意味しています。

 この隔てられた二つの境界には様々な種類があり、「自己と他者、過去と現在、日常と夢」という風に対立したり、また相互に依存する多様な関係性で存在しています。また、空間を隔てる境界としては「トンネル、橋、会談、川、鉄道」などが待ちいられることが多いです。

今回の作品では主人公の千尋がトンネルを通ることで現実世界から越境し、異世界に迷い込むことで物語が動き出します。

越境には自己を変化させるという意味があり、千と千尋の神隠しでは異世界出の新たな出会いが新たな自己の形成を促します。

中論点2 名前 

 次に自己にとって重要なのは「名前」です。

 主体にとって名前とは自己と他者とのつねに移り変わり続ける力関係の指標となるものです。

 名前は、他者と自己を区分し、しかしながら、同時にある一定の文化圏においては特定の言語を通じて与えられるものです。つまり、名前とは主体の人生の当初において、あるいはその後も完全に自分だけの意思で切り離すことができないものであるということです。

 『千と千尋の神隠し』では、作品を通して「千尋」「ハク」「カオナシ」の三人の名前の役割を分析します。

 千尋の場合は、湯婆婆に名前をとられることで、失った自己を探すための旅路へ行く契機となる役割を果たしている。

 ハクの場合は、千尋との出会いによって「ミギハヤミ・コハクヌシ」という名前を取り戻す。これによって名前が自分の歴史と体験の記録であると同時に、他者と自己の相互確認の証明の役割を果たしている。

 カオナシの場合は、他者への思いを物質的な交換でしか表現できない存在であった彼が、力を失った後に他者から自己の価値を認識することで、名無しのまま自らのアイデンティティを獲得する役割を果たしている。

中論点3 主体の構築

 最後に、自己の持ち主である主体がどのように生まれるのか分析します。

 

 結論から言うと、主体という存在は他者との関係のうちにしか構築されません。

 以下はその論拠です。

①主体化

 まず初めに、アイデンティティを主題とする物語には、大人になりきれない少年少女が主人公のものが多いという点です。これは主体化という動作自体が「自分がどのような社会関係のうちに存在しているのか」を認識する過程のことであるからです。 そして、その主体化をするのは他者から呼びかけられたときです。

 また、主体化する過程において重要な要素は、主体が固定されたものでなく、多様な社会的差異の範疇(ジェンダー、階級、人種等)が複合的に作用することによって変化するという点です。

 『千と千尋の神隠し』での千尋という主体は、初めは内向的で臆病な少女でしたが、物語を通して、他者の呼びかけに答えていき、最終的に応答責任を持つ存在として主体を形成していきます。

②食べるということ

 次に、『千と千尋の神隠し』では、「食べる」という動作が多くみられます。

 食事とは生物の営みの一つですが、ここでは主体と他者との混交をもたらす過程として描かれています。そしてこれは主体が何かを食べる事によって自己を変容させるという意味があります。

 作品を通して、千尋の両親、言い換えると人間と豚は極めて近い関係として描かれています。さらに、ハクやカオナシは何かを食べることによって自己を変容させます。つまり、食べることは消費であると同時に自己の再生産であり、自己と他者の絆を確認する共同の営みでもあるのです。

黒澤明監督『生きる』 

★あらすじ

 市役所で市民課長を務める渡辺勘治は、かつて持っていた仕事への熱情を忘れ去り、毎日書類の山を相手に黙々と判子を押すだけの無気力な日々を送っていた。市役所内部は縄張り意識で縛られ、住民の陳情は市役所や市議会の中でたらい回しにされるなど、形式主義がはびこっていた。ある日、渡辺は体調不良のため休暇を取り、医師の診察を受ける。医師からは軽い胃潰瘍だと告げられるが、実際には胃癌にかかっていると悟り、余命いくばくもないと考える。その翌日、渡辺は市役所を辞めるつもりの部下の小田切とよと偶然に行き合う。渡辺は若い彼女の奔放な生き方、その生命力に惹かれる。自分が胃癌であることを伝えると、とよは自分が工場で作っている玩具を見せて「あなたも何か作ってみたら」と勧めた。その言葉に心を動かされた渡辺は「まだ出来ることがある」と気づき、次の日市役所に復帰する。

★分析

 今回のゼミでは、主人公渡辺が、「まだ出来ることがある」と気づく前後で、彼の事故がどのように変容したのかを分析しました。

気づく前

 消費者として、目標達成のために生きていた。→官僚制の中で自己を殺して中身のない主体として行動していた。

気づいた後

 自身の行動に自己の証明を見出し、他者のために何かを作ることで最終的に自分自身のアイデンティティに還元されると気づく。

 →つまり、パフォーマティビティを獲得することで主体を形成することになった。

 

結論

 作品『生きる』では、主人公渡辺が小田切という他者を通じて、空っぽな自己を自覚し、他者を通して自己を形成することに達成した物語である。という結論に至りました。

 今回のゼミの流れは以上です。

あとがき

 このブログ執筆にあたり、久しぶりに『千と千尋の神隠し』を視聴しました。

 「良きかな神様」がくれた団子、どう見ても体に悪そうです。

 千尋さんは普通に一口食べてましたが、皆さんは知らない人がくれたものを安易に口にしてはいけません。

 以上です。皆さんまた逢う日まで____

 

 

9期生 第4回 『film analysis 映画分析入門』第1部第1章 構図

皆さんお久しぶりです。9期生の室井です。

投稿が遅れてしまい、大変申し訳ございませんでした。

現在11月中頃、秋をあっという間に通り越して肌寒い季節になってきました。

今回取り扱ったのは『film analysis 映画分析入門』の第1部第1章 構図です。

ここでいう「構図」とは、映像フレーム内での重要な要素の配置のことです。

例えば、映画を一時停止した際に現れる写真と似た何かのことで、しかしながら、写真と異なりその実態は人為的に構成された人為的要素から成り立っているものです。

議論の流れ

今回のゼミでは以下の大論点と結論について議論を進めました

大論点:「映画における構図とは何か?」

結論:注意深く人為的に配置された要素から成り立つもの。偶然映っているものはほぼ存在しない。(作り手が考えを伝え、ストーリーを語る際に重要となるもの。)

中論点1 フレームに関する要素

 まず、フレームにはタイトな(密集した)ものと、ルースな(まばらな)ものが存在します。前者には人物間の空洞をなくすことで抑圧的な意味を、後者には空虚な空間を作ることで脆弱性というテーマを表す意味を持っています。

 次に、フレーム内の配置についてです。通常、重要人物はフレーム中央もしくは上半分に配置され、その他の人物は下半分か端のほうに配置され、従属的な意味を持たされます。

 しかしながら、これらの配置の持つ意味は単一な者ではありません。例えば主人公の哀愁や感情移入のために周辺部にあえて配置される場合もあります。そのほかにも下方部の人物が犠牲者である暗示や、積極性のある人物を上下の端に設置する場合も存在します。

 最後に、フレーム内の占める空間配分についても意味があります。例えば、空間の多くを占めている人物はその他を支配している、という意味を持たせたり、さらには、何もない空間にも人物との対比を映して強調の意味を持たせることがあります。

※補足 前景と背景

→構図には前景と背景という要素が存在しています。前者には犠牲を払うという意味  が、後者には人物を小さく映すことで不道徳という意味を持たせることがあります。

中論点2 シンメトリとアシンメトリ

 構図には秩序立っているシンメトリ(対照的)とアシンメトリ(非対称)の場合があります。特に、シンメトリの場合は要素をグループ分けする線が引けることが多く、三角形などの図形で示すことができます。

 シンメトリには統一や調和を意味することがあり、また作品によっては否定的な意味や厳密さ、そして融通の利かなさを意味することもあります。

 対してアシンメトリは、不道徳さや裏切り、嘘などの溢れるストーリーの中で、こうした性質を示すために非伝統的なものとして用いられることがあります。

この二つの構図は両方用いられる場合もあります。これらは組み合わされることで対立や緊張関係を意味します。

作品『ジョーカー』(2019年)

★簡単なあらすじ

舞台は1981年のゴッサム・シティ。大都市でありながらも、財政の崩壊により街には失業者や犯罪者があふれ、貧富の差は大きくなるばかり。そんな荒廃した街に住むアーサー・フレックは、ピエロとしてわずかな金を稼ぎながら、母親ペニーとつつましい生活を送っていた。しかし、アーサーには一流のコメディアンになるという夢があった。そんなある日、アーサーは同僚のランドルから受け取った拳銃を小児病棟の慰問中に落としてしまい、上司からクビを宣告される。さらにはその帰りの地下鉄で男三人に暴行を受けると反射的に銃殺してしまう…!

 今回のゼミでは作品『ジョーカー』を題材にこの「構図」を用いて分析を行いました。そして、構図のテーマの中でも「タイトとルースの対比構造」に注目し、議論を進めていきました。

 議論の流れで私たちは、社会から抑圧されてきたアーサーが、殺人を犯すことで権力からの解放を表す構図を探すことにしました。

 そして議論を進めていくと、あることに誰かが気付きました。

 それはゴミ袋の存在です。映画を通してアーサーの住む街には多くの黒いごみ袋が登場します。あらすじにもある通り彼の住む街は財政崩壊により治安が悪化しており、そこら中にゴミ袋が無造作に捨てられています。しかしながら、最後のアーサーがジョーカーとなって市民に崇められるフレームには一つもゴミ袋が登場しないのです!

 次に、私たちはゴミ袋をアーサーがジョーカーとなる前後で比較しました。

★タイトの時(ジョーカーになる前

 →ゴミ袋は中に詰まっているゴミ(人々)を抑え込む権力である。人々は中身の見えない黒い袋に縛られて生きている。つまり、権力によって人々は「市民」として生きることを強制されて生きている状態である。

★ルースの時(ジョーカーになった後)

 →ゴミ袋が消え、中身のゴミ(人々)は目に見える形になって顕在し、むき出しの性として権力に抵抗を始めた状態になったのである。

結論

 以上のことから、私たちのゼミでは『ジョーカー』を、ジョーカーというむき出しの性を体現する存在を通して、権力に抑え込まれ捨てられてしまった性を市民が取り戻す物語である。

という結論に至りました。

 最近急に寒くなりました。秋が好きなので楽しみにしていたはずなのに、気がついたらもうこんな気温です。どなたか夏さんに労働基準法を教えてあげてください。残業しすぎですよ。

 秋服、買ったのになぁ…

10期生 第2回 脱構築された世界

みなさま、こんにちは!秋学期第2回のブログを担当します、山崎日和です。

あっという間に春学期が終わり、夏休みも終わって、秋学期も学園祭期間に突入しました。最近どんどん1日が過ぎるのが早くなってきているような気がして、毎日時間が足りない!と焦ってしまう日々です。この回も受けてから1か月が経ってしまい、本当に遅ればせながらの執筆で申し訳ありません… 記憶を掘り起こしながら書いていきます。

秋学期からは春学期と打って変わって3限では理論についての論文等を、4限では何らかの作品を取り扱い、3限で学んだ理論を用いて4限で作品分析を行うという形式で進んでいきます。そして、春学期までは3限と4限で分けていた担当者も分けずに行うことになりました。何をやるかは担当者の興味に合わせて、ということなので、春学期とはまた少し雰囲気が変わると思います。

ということで、秋学期最初の(第1回はオリエンテーションだったので)担当者は中村さんです。今回はジョセフ・コンラッドの小説『闇の奥』を取り扱いました。

『闇の奥』は、テムズ川のヨットの上で元船乗りのマーロウが語る、自身のアフリカへの旅の話です。小説のほとんどがマーロウの語りで進んでいきます。叔母のつてで貿易会社に就職したマーロウは、コンゴ川の船の船長になり密林の奥へと旅に出ます。その道中では労働する黒人やそれを束ねる白人に出会いますが、みな「クルツ」という白人の優秀な社員のことを話します。クルツが気になるマーロウは船を進め、原住民からの襲撃の危機も乗り越えて、ついにクルツと彼を慕う青年と出会います。クルツは病気でしたが、未開部族の王となり象牙を集めていたことがわかりました。マーロウはクルツを保護し、アフリカについて話を聞きますが、思っていた回答は得られません。そうしているうちに船の中でクルツは「恐怖だ、恐怖だ」という言葉を残して死んでしまいます。ヨーロッパに帰るとクルツの関係者から次々訪問を受けましたが、最後にやってきたのはクルツの許嫁でした。彼女はクルツをとても尊敬しており、彼女にせがまれてマーロウはつい「クルツの最後の言葉はあなたの名前だった」と嘘をついてしまいました。

3限は『闇の奥』について脱構築批評を行った田尻芳樹さんの文章『空虚な中心への旅―脱構築批評』を読みました。

まずここで用いる理論「脱構築」について簡単に説明します。脱構築については春学期第10回の授業でも取り上げていますので、ご興味ある方はそちらも併せてご覧ください。

脱構築は、1967年、アルジェリア出身のフランスの哲学者ジャック・デリダによって提唱された考え方で、階層構造をもった二項対立が成り立たないことを主張するものです。デリダはその主張のために、ロゴス(音声)中心主義への批判を行いました。ロゴス中心主義では、音声こそが真理を純粋に体現するのであって、文字は音声を書き写した二次的なものだとされてきました。しかしデリダは、音声言語を説明するときには文字言語を例に取らざるを得ないことを指摘し、音声と文字の二項対立が成立しないことを明らかにしました。

また、アメリカの文芸理論家ポール・ド・マンは、すべての言葉は修辞的で意味は決定不可能なため、テクストの意味は常に誤読されると言います。これは、テクストは自らを脱構築し続けるとも言うことができます。

さらに脱構築と植民地の関係について、香港出身でアメリカで活動するレイ・チョウやイギリスのロバート・ヤングは、かつての構造主義といった理論はヨーロッパで生まれたものであり、それを批判する脱構築をはじめとしたポスト構造主義はヨーロッパの植民地主義への批判であると言います。簡単に言うと、脱構築とはポストコロニアル批評だったというわけです。

では次に、本題である『闇の奥』の分析へと入っていきます。

『闇の奥』の作者であるジョセフ・コンラッドは、ウクライナ生まれのポーランド人で、20代後半でイギリス国籍を取得した人物です。船乗りから作家になったという経歴を持ち、『闇の奥』も彼自身のコンゴへの旅に基づいています。

田尻さんは、この作品のテーマとして、文明と未開、西洋と非西洋、白人と黒人、男と女、光と闇といった様々な二項対立の脱構築を挙げています。これらの脱構築がマーロウの自己同一性に揺らぎを与え、さらに脱構築批評がポストコロニアル批評と関連することを明らかにしているのです。そしてその脱構築が起こる契機となったのがアフリカへの旅でした。田尻さんは、この旅を地理的にも心理的にも「暗黒で空虚な中心への旅」だと述べます。地理的には、空白だったアフリカの地図が、植民地主義によって暗黒の場所になったという描写から、マーロウが向かうアフリカという暗黒の土地の中心は空虚であると言えます。また心理的には、クルツの心に空虚さと暗黒が重ねられています。マーロウはこういった空虚に触れることで自己同一性が崩壊し(脱構築され)、ある種の自己認識に達したと、田尻さんは言います。

4限の議論では、3限の田尻さんの分析に登場する「暗黒」と「空虚」、「空白」の意味について考えました。アフリカの地図の描写から、「空白」は意味がつけられていないもの、「暗黒」は意味が定義されているものだということがわかります。さらに、アフリカに行き空虚になった白人のクルツを考えると、「空虚」は脱構築されたものであると言うことができます。これは「暗黒」と対立するため、「空虚」は意味が定義できないものだと言うことができます。

また、田尻さんの分析はマーロウの語りのみを取り上げていることについても考えました。『闇の奥』はマーロウの語りがほとんどですが、一部その語りを聞いている船乗りの視点も描かれています。つまり、作中のクルツなどの人物はマーロウの視点と語りを聞く船乗りの視点という2つの視点を通して描かれているのです。田尻さんはマーロウの語りのみを取り上げましたが、そこには別の船乗りの考えも反映されていることを考慮に入れる必要があったのではないかという結論に至りました。

今回のブログは以上です。今回の授業では春学期よりも深く脱構築について考えられたと思います。脱構築はその後の批評理論に大きな影響を与えているので、秋学期の最初で取り扱えてよかったです。

それではみなさま、また他の記事でお会いしましょう!

9期生第14回 『映画の理論』第12章 演劇的なストーリー ~演劇と映画の狭間で~

寒い、寒すぎる。着る服困る。どうしよう

どうも、お久しぶりです。3回目の登場になります、宮澤です。

今回で、今学期の授業は終わり。4年春学期、最後のブログになります。(大トリだぁ)

いやそれにしても、皆さん。ほんっとうに、お久しぶりですね!

季節は冬に差し掛かり、服に困るほど寒くなってまいりました。

うん、おかしい、、、

春学期の最後の授業が終わったのは、夏休み前で。でも、今はめちゃくちゃ寒い、もう11月だし。

これ示すのは、いかなることか。(お察しください)

ということで。最後の授業の余韻をかみしめながら(思い出しながら?)、ブログを書いていきたいと思います。

今回のゼミで扱った理論は、ジークフリートの『映画の理論』第12章演劇的なストーリー。作品は、『ロミオとジュリエット』です

学習内容

今回は、映画における演劇的なストーリーについて学習しました。

まず、演劇的なストーリーとは何でしょうか?

演劇的なストーリーの特徴は、主に2つあります。

1つ目は、登場人物や人間関係に対し、強い関心を向けること。そのため、プロットの中心は人間的な出来事や経験になり、その他の物理的な現実は省略されて表現されます。

2つ目は、イデオロギー的な1つの軸を中心に、物語全体が構成されており、閉じたストーリーであること。プルーストは、「戯曲の筋に寄与することのない一切のイメージを無視し、筋の目標を理解させてくれるようなイメージだけ残す」と述べています。

本理論書の中で、演劇的なストーリーは「非映画的なストーリー形式」と言い換えられています。簡単に言うと、演劇的なストーリーは、映画ととても相性が悪いということです。

では、なぜ両者の相性は最悪なのか?

ずばり!演劇の特徴と、映画の特徴は真逆だからです。上記で学習したように、演劇は、イデオロギー的な閉じたストーリーを重視し、登場人物や人間関係以外の描写を軽視する傾向があります。そのため「ストーリー>映像」という構造を持ち、ストーリー・登場人物・人間関係に関係のない、物理的な描写や無機物の描写がされることはありません。

一方、映画は、「映像>ストーリー」という構造を持ち、舞台上で認められない一時的な印象や関係を表現する傾向があります。例えば、登場人物が悲しんでいる場面に、雨が降っている空の場面を差しはさむなど。

演劇的な観点から見れば、雨(無機物)と登場人物は何の関係もないため、雨の描写は必要ありません。しかし、映画的な観点からみると、雨(無機物)は、登場人物の悲しみを間接的に表現することができる素材であるため、あえて描写する必要があるということです。

このように、演劇と映画は相反する特徴があり、とても相性が悪いのです、、、泣

そんな、仲の悪ーい演劇と映画。ところがどっこい、映画に演劇的なストーリーを組み込んじゃおという試みがされたことがあります。例えば、1908年『ギーズ公の暗殺』がその代表です。

この時代には、映画という媒体は、他の媒体に比べて軽視される傾向がありました。映画は、芸術ではなく、大衆向けの単なる娯楽という認識しかされていなかったのです。そのため、映画作品の名誉回復を目指し、ブルジョアの好む演劇と同じ路線を踏襲しようとしたらしいです

そんなこんなで、演劇的なストーリーを映画に適合させるため、様々な方法が実践されました。しかし、いずれも両者の間にある矛盾を解消することはできなかったようです。

以上の学習から、演劇的なストーリーと映画的な説話が、相容れることは決してないという結論に至りました。しかし、両者には相容れない矛盾があることを理解することが、何よりも大事なのかもしれませんね

【作品分析】

以上の学習内容を踏まえて、『ロミオとジュリエット』はどのような作品だと言えるでしょうか。

私たちは、映画版の演劇を見たい観客に向けて作られた作品であると結論づけました。具体的には、演劇が大好きなブルジョア層に向けて作られた作品だと考えます。

本作の大半の場面は、ストーリーに沿って構成されています。そのため、原作に忠実に作られているということもあり「ストーリー>映像」という構造を持つ、演劇的なストーリーの映画と言えるでしょう。

しかし、所々に映画的な要素が散りばめられているのも、本作の特徴です。例えば、ロミオとジュリエットがダンスをする場面では、登場人物と一緒にカメラ(観客の視点)がぐるぐる回るような演出がされています。また、ジュリエットが牧師から薬をもらう場面では、ジュリエットと牧師の顔が交互に映される演出がされています。これらのカメラワークは、演劇にはない、映画的な要素だと言えます。

また、ロミオとジュリエットが城で出会う場面では、演劇的要素と映画的要素が混在していると考えられます。この場面において、ロミオとジュリエットの台詞は、原作に沿っており、演劇的です。しかし、背景の城や木々は、リアルな無機物を扱っており、映画的です。

このように『ロミオとジュリエット』は、演劇的ストーリーを主軸にしつつ、映画の技法を用いることで、物理的な現実を反映した映画的な側面もある作品であると考えられます。

以上の分析を踏まえ、私たちは以下の結論を導きました。

結論:「ストーリー>映像」という演劇的な要素を重視しつつ、映画的な要素があることから、『ロミオとジュリエット』は映画版の演劇を見たい観客に向けて作られた作品である。

4年春学期最後のブログはここまで!

次のブログがあるとしたら、3月の研究成果発表会になるかとおもいます

その頃はもう、入社間近。(まじか)

これが宮澤最後のブログかもしれませんが、いつか再びお会いできればと思います。

では、最後になるかもしれないので、引退するアイドルみたいに退場させてください

私のことは嫌いでも、ゼミのことは嫌いにならないでください!!!

また会う日まで。アディオス