2023年度研究発表会の様子を1カ月遅れでお届けします…

タイトルにある通り、もう1か月が過ぎ5月に入ってしまいましたが…
3月24日にゼミの研究発表会がありました。今回はその発表会についてのブログです。
前半はわたくし高山が、後半は宮澤さんがブログ執筆を担当します!

大事なことはすぐ忘れてしまうのに、どうでもいい会話の内容はなぜかずっと覚えていたりしませんか…
私はまさにそのタイプすぎて、如何せん1カ月が過ぎてしまったこともあり、研究発表会の記憶がだいぶ断片的ですが、
なんとか記憶を手繰り寄せながら書いていきたいと思います。

 

前半(午前)は私たち9期生の発表でした。

 

まずは阪口さん

阪口さんは、映画『M・バタフライ』のラストシーンについて、主人公ガリマールは何に愛を捧げるために蝶々夫人に扮して自害したのか という問いに対し、
オリエンタリズム、アブジェクション、パフォーマティヴィティを用いて
ガリマールは京劇役者のソンを愛した両性具有的な「完ぺきなヒト」である自分に愛を捧げるために、蝶々夫人に扮して自害した と結論付けていました。

『M・バタフライ』という作品が、実際の事件やオペラ『蝶々夫人』を取り入れた作品だという点や、京劇を扱っている点から、
それらの事件や『蝶々夫人』、京劇について知っているかどうかによっても作品の解釈が変わるのではないか という意見が出ました。

また、疑問点や感想を伝え合う中で、
ラストシーンについては阪口さんの出した結論以外にも様々な解釈が出て来て議論が盛り上がりました。

論文自体はもちろん、発表やその後の議論でも阪口さんの作品への熱量がとても高く、
私個人としてはあまり熱量を言葉で伝えることが苦手なので、
作品愛のにじみ出る素敵な論文だなぁと感じました。

 

2番目は白井さんでした。

白井さんは朝井リョウ『世界地図の下書き』を題材に、童心について生権力を使って論じていました。

子どもとはどのような人間の状態なのか という問いに対し、
子どもとは年齢に関わらず規律訓練されていない、あるいは規律訓練に順応しきれていない人間の状態を意味し、
彼らは自身の身体をコントロールし、〈戦う〉・〈無気力になる〉・〈逃げる〉・〈誤用・撹乱する〉などの複数の方法で生権力に抵抗している と結論付けていました。

議論の中では、
そもそも子どもは童心を意識していない、子どもにも子どもの社会の規律があるなどの意見が出ました。

生権力に抵抗するのが子どもである、
とは言え、年を重ねるにつれて童心に返ることは難しく、どうしたら童心に返ることができるのか という話も議論に上がり、
過去の童心を語る行為が童心に返る一つの方法になるのではないか という話もしました。

個人的には、内藤先生からのフィードバックで、
白井さんが物語の登場人物に伴走しながら論文を書くタイプだというようなことを言われていたところが印象的でした。

 

3番目はわたくし、高山が発表を行いました。

私はミヒャエル・エンデ『はてしない物語』を題材に、
語りの観点、パフォーマティヴィティの観点から、人生の物語化について論文を書きました。

『はてしない物語』の主人公は、自分の人生を語ることを通して、人生を作り上げていっているという結論から、私たちはそれぞれが自分の人生という物語のたった一人の語り手であるという考察を述べたものだったのですが、

他者の人生を物語化して消費してしまうことへの懸念を出発点としていたので、
その点で懸念を払拭し切れたかというと、し切れなかったなぁと感じていました。

しかし、議論の際に、今後人生という物語を語る側ではなく消費する側の視点を取り入れていけたらいいのではないか とアドバイスをいただくことができ、大変参考になりました。

正直、先輩方や先生からもっと詰められるのではないかと思っていたので、
思いの外アドバイスやお褒めの言葉をいただくことができて、頑張って論文書いてよかったなと素直に感じました。

 

9期生最後は宮澤さんでした。

宮澤さんは、アニメ『ユリ熊嵐』から、愛するとは何かについて書いていました。

結論としては、「本物のスキ」とは、「自分の属性の一部を失ってでも、他者をスキでいる選択をすること」であるとし、
「愛する」こととは、「相対するとされる他者の属性を自らの中に受け入れていること」だと考察していました。

“愛”という途方もないテーマに取り組んだ時点ですごいなぁと思っていたのですが、
その中でもきちんと一つの答えを提示しているところが本当にすごいと感じました。

“好き”と“愛する”の共通点や、
愛することが自分の中に革命を起こすことにつながるという考えに気付かせてくれる素敵な論文だったと思います。

また、白井さんは先生から伴走者だと例えられていましたが、先生曰く宮澤さんは憑依して同化するタイプだそうです。
普段宮澤さんと接していて、時々とても深く他者のことを見ているなと感じていたので、
他者の中に入り込んで考えるタイプだからこそなのかなと個人的には納得がいきました。

 

 

いよいよ、研究発表会も後半戦。ここからの執筆は、9期生の宮澤が承ります。

午後の部では、8期生の先輩4名が、卒論の発表をしてくれました!

 

トップバッターは、大本さん

大本さんのテーマは、「『鋼の錬金術師』から見る幸福追求の形」です。

『鋼の錬金術師』と言えば、超王道ものの少年漫画。ゼミで度々話題になる作品らしいです(笑)
私はまだ読んだことがないのですが、大本さんの論文を拝読して、是非読みたいと思いました。

大本さんは、2人の登場人物を中心に、旅路で出会う人物や、彼らが起こした行動を分析することで、幸福の形に関する結論を導きました。また、幸せになる方法は決して1つではなく、十人十色の幸福追求の形があると考察されています。

大本さんの論文の凄さは何か。ずばり、「幸福とは何か?」という、答えのない問いに立ち向かったことです。
全人類が1度は考えたことがある(であろう)幸福について、真っ向から向き合い、結論を出すことは、決して容易ではありません。このような難題に対して、1コマ1コマの発言を追いかけ、緻密にかつ丁寧に分析することで、結論を導いたこの論文は本当に素晴らしいと感じました。
何事にも真っ向から向き合い、努力されてきた大本さんだからこそ、書くことのできる論文だと思いました。

「幸福の形は千差万別で、論文を書いても、自分の幸せが何かは分からなかった」と言っていた大本さん。「幸せになれそうか?」と問われた際、「幸せになれるように頑張ります。」とおっしゃっていた場面が、印象的でした。
簡単に「幸せになりたい」と言うことのできる現代社会で、改めて「幸せ」ってなんだろうと考える機会をくれる。大本さんの論文は、そんな社会の根本を突く素晴らしい論文だと感じました。
「幸せになれるように頑張ります。」とおっしゃった大本さんの姿を見て、もしかしたら「幸せが何か」を追い求められることも、また幸せなのかもしれないと感じました。

 

さて、次の発表者は、斎藤さんです。

斎藤さんのテーマは、「理不尽な暴力や苦しみに対する防御壁を探してー三つの作品に学ぶー」です。

斎藤さんの論文は、他者から振るわれる抗えない暴力、暴言、自分では制御不能な事態に対して、3つの実践可能な解決策を提示してくれました。作品は、『フレッシュプリキュア!』『あの子の考えることは変』『SINK』の3つです。

3つの作品の各登場人物は、理不尽な暴力や苦しみに苛まれます。斎藤さんは、そんな彼らがどのようにその理不尽から身を守ったのか、その具体的な方策を、
① 理不尽に向かって戦い続けること
② 理不尽そのものを解釈し直し、自分や仲間を守ること
③ 自分を苦しめる記憶を改竄し、自分自身のバイアスを可変的なものにすること
と結論づけました。

斎藤さんの論文の凄いところは、「誰でも今すぐにできる実践的な身の守り方」を提示されていることだと感じました。斎藤さんは、「理不尽な暴力や苦しみに対する防御壁は他にもあるけれど、自分自身が使えるものしか取り上げなかった」とおっしゃいました。ここに、斎藤さんの信念を感じました。そんな斎藤さんの信念が源泉となって、他者に救いを与える論文を書くことができるんだな、と思います。

斎藤さんの論文からは、生きる勇気をいただけます。今後も、斎藤さんの論文をお守りに、生きていきたいです。そして、私もそんな論文を書ける人になれたらなと思いました(笑)

 

続いての発表者は、ゼミ長の佐藤さんです。

佐藤さんの発表テーマは、「「不健全」なテクストに宿る精神―再生産の呪縛から逃れる「不健全」な読本―」です。

佐藤さんの論文では、生権力を用いて、「不健全」の表現の正体を分析されました。そして、生権力に従属せず、それに抵抗しようとする作品を排除しようとする政治的配慮の結果、「不健全図書」が生まれたという結論を導きました。

佐藤さんの論文の凄さは、ずばり「不健全の発見」です。
佐藤さんの論文を読んでると、何となく何かが不健全だと分かってしまう(思ってしまう)ことが、日常の中によくあると実感しました。このような今まで何となくの感覚でしかなかったものを、言語化し、形にした素晴らしい論文だと思います。
また、「不健全」という概念が作り出される歴史性に着目している点も、一線を画している部分だと思います。
私自身も、学校教育、はたまた政治的配慮のなされた社会で、「不健全」という感覚を植え付けられていたのだと気づかされ、はっとしました。

佐藤さんの論文を読んだ時、佐藤さんと初めて話した時の衝撃を思い出しました。
不健全か健全かに関わらず、自分の好きなものを好きと言えるその姿を、かっこいいと思いました。
この1年で、そんな佐藤さんや、佐藤さんの論文を通じて、私自身の価値観も大きく変わりました。好きなものを、臆せず好きと言う。そんな姿を、論文や日頃の姿で伝えてくださった先輩に、この場を借りてお礼を申し上げたいです。

 

いよいよ最後の発表者、関口さん

関口さんのテーマは、「映画『天気の子』における「大丈夫」という言葉は、どういった意味を有しているのか?」です。

関口さんの論文では、作中で使われた「大丈夫」という言葉を抽出し、「大丈夫」の再意味化をしました。そして、「大丈夫」という言葉は、ケア・ケアレス・アイロニー・ユーモアの4つの独自の意味を有していると結論づけました。

関口さんの論文の凄いところは、「大丈夫」という言葉自体を分析しているところです。
「大丈夫?」「うん。大丈夫」
このような会話は、日常的に当たり前に使われており、その意味をついつい見過ごしてしまいがちです。
私自身も「大丈夫」という言葉を安易に使うことに、抵抗がありつつも、それでも日常的に使ってしまっていましたと思います。だからこそ、自分自身の発する「大丈夫」を見直す機会になりました。

また、関口さんの論文を通じて、「大丈夫」という言葉の多義性を実感できました。1つの「大丈夫」に、ケア・ケアレス両方の意味が込められることもある点がとても印象的でした。

私自身、「大丈夫?」と言葉に発すること、「大丈夫」と答えてしまうことに不安感を抱いていました。しかし、関口さんのこの論文は、そんな不安感を掬い上げてくれるような論文だと思います。「大丈夫」という言葉の後押しをしてくれる、勇気を与えてくれる、そんな論文でした。

 

 

以上!8期生の先輩4名の研究発表でした!!

4万字を超える素晴らしい論文を残してくださった先輩たちの背中を見て、私もこんな論文が書けたらな、と改めて思います。けれど、まだまだ道のりは長そうです(笑)

先輩たちの論文をバイブルに、残りの1年間を駆け抜けていきたいと思います!!

ここまで読んでくださった皆さん、本当にありがとうございます。また、先日の研究発表会で素敵な発表をしてくださった8期生の先輩方、参加してくださった皆々様、ありがとうございました!

相変わらず投稿は滞りがちですが、次回のブログでまたお会いしましょう!!

9期生第12回 性別っていつ決まるんだろうね

※このブログは、2023/7/14が最終更新日のデータを眠りから呼び覚まして、再編集したものです。筆無精ここに極まれり。本当に申し訳ございません。過去の私の努力をぜひ見ていただけますと幸いです泣 2024/03/31の私より

ここからがブログ

ブログ2回目の阪口緑です!

この頃の大学3年生って忙しいんですね。

インターンの申し込みとテストとサークルの「やるべきこと」が山のように積み上がっていて、私、驚きが隠せません。

もっとゆっくりしたい…。寝ることに罪悪感を持ちたくない…。

しかし、今日は罪悪感を打ちまかし8時間寝たので、今がチャンスとばかりに文章を書いていきたいと思います!!

前座

今回はヤンさんがNETFLIXで配信されている『サイレン』を紹介してくれました!

あらすじは以下(公式HPより)

警察官、消防士、警護員、兵士、アスリート、そしてスタントウーマン。24人の女性たちが職業別にチームを組み、孤島での過酷なバトルに挑む。

監督や出演者は韓国の方々です。

女性の身体が不利になると思われている職業についている女性たちが、自分の専門知識や培った身体能力を用いて、生存戦略をめぐらせるリアリティ番組だそうです!

いろんな地域の方が出演しているようで、方言の話になりました。

韓国出身のヤンさんが、韓国にも京都弁のように遠回しな言い方を好む地域があると話してくれました!

私は方言が好きです!!方言は演劇や放送などの言葉の表現の世界において重要なアイデンティティです!東京都育ちの私にその表現の幅はないので羨ましいです…!

今度、日本語の方言だけでなく、韓国語や英語などの方言も聴いてみたいなと思いました。

3限

今回も廣野由美子著「批評理論入門」を用いて『フランケンシュタイン』を読みました。

レジュメ担当は高山さんでした。

  • フェミニズム批評

まずフェミニズム批評とは。

フェミニズム批評は1970年代以降、性差別を暴く批評として登場しました。

立場や目的によって様々な批評方法があるそうです。

例1:男性作家の作品を女性の視点から批評。男性による女性の抑圧や家父長制的なイデオロギーの形成を明らかにする。

例2:女性作家の作品を対象とする「ガイノクリティックス」。男性文化によって無視されてきた女性作家の作品の発掘や再評価を行う。

例3:女性と言語との関係を探究する立場。女性作家の作品がいかに女性特有の言語で書かれているか検討する。

以上の例を踏まえて、フランケンシュタインをフェミニズム批評で読み解きます。

ガイノクリティックスの観点から

〈女性として書くこと〉

・女性の読み書き能力は男性よりも劣るとされており、ペンで自己表現することが男の領分に属するとみなされていた。

→メアリがフランケンシュタインを匿名で出版した理由

・夫パーシーが、妻メアリの作品に多くを介入していた。(前書きや校正など)

         →夫が妻に対して無限の優越感を持つという当時のイデオロギーが表面化

〈母性/産むこと〉

・メアリは16歳で最初の妊娠を経験。フランケンシュタインを完成させるまで、ほぼずっと妊娠していたが、生まれた子が次々と死んでゆく経験をした。

         →出産の恐怖、罪悪感を怪物の物語として昇華

・18世紀から19世紀にかけて、名だたる作家で出産を経験した女性はいない

         →出産が文学のテーマとして描かれない

などなど、女性だからこその作品の生まれがあったと解釈できます!

また、作品内容としては、『フランケンシュタイン』の女性の登場人物に注目し、以下の点を廣野さんは説明します。

・男女の領域を二分する19世紀の中産階級的イデオロギーが反映されている。

・一方で、女性の家庭的愛情は男性を守ることも、癒すこともできないことを描き『フランケンシュタイン』は破滅的な終わり方を迎える。ゆえに二分論的イデオロギーの欺瞞も暴露しているのではないか。

女性が書くことで生まれた新たな価値を評価している感じですね〜。

  • ジェンダー批評

ジェンダー批評とは。

男・女という一般のカテゴリー自体に疑問を突きつける批評です。

これは「女であること」を一括りにするフェミニズム批評の批判することから出発しています。また、両性を連続的なものと捉え、いわゆるLGBTQの存在も対象とします!

ここで廣野さんはゲイ批評やレズビアン批評を用いて読み解こうとしたのですが、その際のゲイやレズビアンの定義が広すぎて、ゼミのメンバー的には納得できない感じでした。また、結局ゲイやレズビアンとして研究してしまっていることから、男女の枠を取り外せていないのではとゼミ内で議論が交わされました。

議論の展開からイヴ・コゾフスキー・セジウィックが提唱した「ホモソーシャル」の考えを先生が付け加えてくれました。ホモソーシャルというのは、女性と同性愛を排除して男性間の緊密な結びつきを意味します。いわゆる「男同士の絆」ってやつですね。

フランケンシュタインを批評理論で読み解く上で、ゲイ批評よりもホモソーシャルで解釈する方がわかりやすい部分がありました。

4限

4限の時間ではジュディス・バトラー(1956-)さんの「ジェンダー・トラブル」を学びました。

レジュメは白井さんでした。

フェミニズムは以下の功績を残しました。

“身体的な特徴に基づく男女の差異(Sex)を社会における男女の役割や規範に応用する見方に対し、そうした規範や役割は男女の性差とは関係なく、社会的に構築されるとし、社会性差としての「ジェンダー」を掲げた。”

どういうことかというと、フェミニズムにおいては、男女という身体的な性差に基づき、男性や女性のステレオタイプや性役割は構成されてきたと述べます。そしてこのステレオタイプや性役割は、身体的性を理由に押し付けられていいものじゃないと批判します。

しかし、ここで問題が生じます。ジェンダーは男女の差は関係ないとしつつも、「男」「女」を想定してジェンダーが語られているよね?「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」というが、女になる前は何なのか。女になるということは中立的な「ひと」が存在するかのように語られるが、実際には「男」「女」の区別を前提に議論が始まっているじゃないか。ということは、身体がつねにすでにジェンダー化されているのではないか?とバトラーは考えました。

『ジェンダー・トラブル』でバトラーが行ったことは以下です。

“バトラーはジェンダーとセックスの二項対立を脱構築した。ジェンダーに先んじてセックスが存在したとするフェミニズムの見解に対し、セックスこそジェンダー概念によって構築されていることを主張する。”

難しいですね。つまりどういうことかというと、「生物学的性差(セックス)自体がジェンダー化されたカテゴリー」ということです!

これでもよくわからないですよね。もっとわかりやすく説明すると「性器(胸やペニス、膣など)を性器として見なし、男女の区別をつけること自体が、社会的性差に由来しているのではないか」とバトラーさんは指摘しています!

フェミニズムでは、生物学的性差が、社会的性差を規定していた

ジェンダー・トラブルでは、社会的性差が、生物学的性差を規定している

人間の身体って他にもいろんな違いがありますよね。

例えば、目が一重か二重か、耳たぶが離れているかくっついているかなどなど。内藤先生は、腕を伸ばした状態で小指と小指、肘と肘がくっつけられる「猿腕」らしいんですが、私はできません。

性器と呼ばれているもの以外にも人間の身体には違いがあるのに、性器で分けることで「男/女」という自然の性差が存在すると偽装されているとバトラーは述べました。

ちょうど歌舞伎町タワーの「ジェンダーレストイレ」が話題になっていたので、ゼミ生の議論も白熱していました。文化的な抑圧を受けた性別が自明であるとされている現状では、このトイレは早かったのでしょうか。

皆さんはどう考えますか?

9期生第10回 アニメーションにおける他者表象

こんにちは。満身創痍の阪口緑です。

はじめに謝罪の言葉を述べさせてください。

このブログの締め切りはなんと4ヶ月前でした。

申し訳ございませんでした!!!

この年末年始、そして春休みは、あまりの忙しさに風呂場で気絶する日々でした。

「申し訳ない…!」という懺悔の念に苛まれつつも、腰だけでなく身体まで重く、今やっと筆を取った次第です。

本題

さて、私がブログを担当するのは、12月7日の第10回分です。

吉田香織著『アニメーションにおける他者表象──オリエンタリズムの観点から観たディズニーと宮崎駿の世界──』を分析していきます。

動く絵は無からの創造である。ゆえにアニメーションは「欲望のメディア」である。

また、アニメーションで国家的物語を創造することは、アニメをイデオロギー形成組織として分析する必要があると筆者の吉田さんは述べています。

つまり、本書ではディズニー作品とジブリ作品の「アジア表象」を分析し、どのように異なっているか比較しようと試みます。

第1章「アメリカにおけるアニメーションによるアジア表象例」で、ディズニーの『ムーラン』は再オリエンタル化を促していると分析します。また、第2章「日本のアニメによるアジア表象例」では、ジブリの『千と千尋の神隠し』が「東洋」の中の多様性を示唆し、オリエンタリズム的な「西洋/東洋」という二項対立を脱構築していると指摘します。そして、第3章は「結論」と題し、「『ムーラン』におけるオリエンタリズム的東洋の構築」と「『千と千尋の神隠し』におけるオリエンタリズム的思考の脱構築」を述べます。

ここで、上段で登場する「オリエンタリズム」とは何なのか、確認していきましょう!

「オリエンタリズム」(orientalism)とは、芸術作品や、歴史・政治資料などあらゆる言説の中に「オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式(スタイル)」を読み解く理論です。ポストコロニアル批評の旗手であるパレスチナ出身のエドワード・サイード(1935-2003)さんが打ち立てました。

サイードさんは、オリエンタリズムとは「西洋にない属性が東洋にはある」と西洋が一方的に表象することで成り立つ、ヘゲモニー(支配)関係のある二項対立から生じると指摘します。そして、ルネッサンス以降、西洋優位的な世界の中で東洋を叙述した過程で、「東洋の『不変的』ないしは超自然的な性質」や「東洋のエロティシズムの『女らしさ』」といった典型的な東洋のステレオタイプは生産されたといいます。

特徴的な部分

さて、本書の興味深いところは、『ムーラン』の男性キャラクターは「非理性的で、受身的で、女性的な東洋」という他者として描かれているため、西洋の眼差しが反映されていると指摘します。吉田さんは、これを「アブジェクション」の一形態だと説明できるといいます。

この「アブジェクション」こそ、3年ゼミにとってはじめましての考え方でした。

「アブジェクション」(abjection)はブルガリア出身の文学理論家ジュリア・クリステヴァ(Julia Kristeva, 1941-)が著書『恐怖の権力〈アブジェクシオン〉試論』のなかで用いた概念です。元々は精神分析の用語で、主客未分化の状態にある幼児が、自身と精神的に融合した状態にあった母親を「おぞましいもの」として「棄却」することを意味したそうです。

しかし、クリステヴァは『恐怖の権力〈アブジェクシオン〉試論』において、アブジェクト(おぞましきもの)を、「同一性、体系、秩序を撹乱し、境界や場所や規範を尊重しないもの、つまり、どっちつかず、両儀的なもの」と定義します。そして、アブジェクト(おぞましきもの)は人間の生活や文化を維持するために棄却すべきものであると同時に、主体に対し反逆的であり、かつ誘惑し魅了するような不気味さを持つとクリステヴァは述べます。また、高度な変化を遂げた人間は、アブジェクト(おぞましきもの)を切り取り、アブジェクシオン(棄却作用)を放逐することで自己定義を行うとも指摘します。

つまり、『ムーラン』に登場する男性キャラクターの中には、このキャラクターが西洋の白人という属性であればそうは描かないよね、と思うような描写があると吉田さんは述べます。「西洋とは異なる不純なもの」を東洋の描写として描くことで、東洋の他者性を誇張し、再オリエンタル化を世界市場に普及させているとも述べていました。

『千と千尋の神隠し』に関して、吉田さんは「自己」と「他者」の二分法と本質主義の脱構築が行われていると述べます。「日本」「西洋」「アジア」の関係と、その中で日本アイデンティティの形成を示唆しているとも指摘します。

あまり理論が登場しなかったので、ここは省略します。

本書のまとめ

最後に、結論として吉田さんは「『ムーラン』におけるオリエンタリズム的東洋の構築」と「『千と千尋の神隠し』におけるオリエンタリズム的思考の脱構築」を述べます。

また、アニメーションは虚構の世界ではあるが、アニメーションを見るという行為は現実であり、アイデンティティの形成に寄与し得る芸術だと説明しています。

応用

授業ではこの議論を踏まえて、応用として実写版『アラジン』を鑑賞しました。

アニメ版と比較して、露出度合いが低くなったジャスミンの衣装、ジャスミンのソロ曲の増加、そしてジャファー(悪役)とのキスシーンがなくなったこと、これらのことがオリエンタリズムやアブジェクションの観点から説明できるのではないかと話し合いました。

この授業を踏まえて私は秋学期レポートを書いたので、改めて復習できてよかったです…!遅くなって申し訳ございませんでした!!!!!

9期生第9回「実は私たちの選択って不自由なのでは」

第9回のブログを担当します9期生の高山です!

11月30日は、ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン』とディディエ・エリボンの自伝『ランスへの帰郷』を扱いました。

『ディスタンクシオン』も『ランスへの帰郷』もとにかく長かったです…

普段ゼミで扱う文章はPDF10~15ページ分くらい、多くても20ページ前後なのですが、
なんと『ディスタンクシオン』は1章だけで71ページもありまして…
紙派なのでいつもはPDFを印刷して書き込みながら読んでいるのですが、さすがに印刷を諦めました。
レジュメ担当の高橋さんの苦労は相当だったと思います、お疲れ様です、、

そもそもの文章が長い分ブログも長くなってしまいそうなので、さっそく本編に参りましょう!



ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン』

まず用語の説明をしておきます。

・ディスタンクシオン:卓越性
・文化資本:各人が身に着けたあらゆる文化(教養、学歴、文化財、好きなモノ、美的センスなど)を「資本」として捉えたもの。個人に投資され、所有される。
・ハビトゥス:人生において選択や価値判断を行う際に作用する「心理的な傾向性」のこと。社会的・歴史的に構築されるものであって、個人のパーソナリティは関係ない。


さて、前述の通り『ディスタンクシオン』はかなり長いのですが、筆者の主張は割とシンプルです。それは、
「人間の行動・好みはどれも社会によって決定された必然的なものである」
ということです。

正直、1章の内容自体はこれに尽きるのですが、さすがにこれだけで終わらせるのはちょっと…と思うのでもう少し説明していこうと思います。


ブルデューは、「趣味の世界では学歴水準と社会階級に対応して主に3つの趣味世界に分けられる」と主張し、社会階層別の趣味嗜好の傾向の例を挙げています。

ブルデューはフランスの人なので、『ディスタンクシオン』で挙げられている例はあまり身近でないものもあるのですが、一つ共感できたものを紹介します。

正統的趣味支配階級学歴資本高いバッハ『平均律クラヴィーア』
中間的趣味中間階級学歴資本普通ガーシュウィン『ラプソディー・イン・ブルー』
大衆的趣味庶民階級学歴資本低いヨハン・シュトラウス2世『美しく青きドナウ』

どこに共感できたのかというと、『美しく青きドナウ』が大衆的趣味という部分です。

私が通っていた中高ではクラス対抗の合唱コンクールがあったのですが、その曲決めの際に、先生から『美しく青きドナウ』をおすすめされたものの、(ドナウはちょっとダサくない…?笑)みたいな雰囲気があり、結局ドナウが選ばれることはありませんでした。

(ここまで書いてふと思い出したのですが、同じドナウでも『ドナウ川のさざなみ』の方だったかもしれません、なんなら『モルダウ』かもしれない気もしてきました、どれも川の流れがテーマなので…)


…とまぁ、つまりは階級と学歴資本が高いほど正統的趣味を持っており、階級と学歴資本が低いほど大衆的趣味を持っている ということが明らかになったわけですが、

『美しく青きドナウ』に注目してみると、中間階級である小学校教員や文化媒介者の支持率が、支配階級の大商人や自由業の支持率より低いという結果でした。

傾向をそのまま当てはめれば、中間階級の支持率の方が支配階級の支持率より高くなるはずです。

そうなっていないということは、趣味の傾向には階級だけでなく学歴資本が関係している、つまりハビトゥスを形成する要素は一つではないということが言えます。

なぜ学歴資本が趣味の傾向に関係するかというと、ブルデュー曰く「学校教育には一般教養を獲得する「姿勢」を身に着けさせる役割がある」からだそうです。


じゃあ正統的趣味と大衆的趣味はどう分けられるのか?というところが気になるのではないかと思います。

それについてブルデューは「その芸術が形式的かどうか」が基準となると言っています。

作品を抽象化し、その形式を認知して評価できるかどうかが、正統的趣味を持てるかどうか、美的センスがあるかどうかを決めるものとなっているらしいです。


ここまで階級による趣味がどうのこうのという話をしてきましたが、そもそも趣味って何?というところで、ブルデューは「趣味は自分自身を正当化する道具であり、自己表現の一つ。ある文化を評価するとき、別の文化を否定していることは否めない」と言っています。

つまり、私たちは自分の好きなものを主張すると同時に自分のハビトゥスの優位性を誇示する卓越化の闘争をやっているのです。

ちょうどこのゼミの回の前日か当日が、Spotifyの「今年聞いた曲ランキング」がシェアできるようになった日で、インスタのストーリーに挙げている人がたくさんいたので、それこそ「私はこんなに良い曲を聞いてますよ~!」という卓越化じゃん!という話になりました。タイムリーすぎて面白かったです。


少し話は逸れますが、この「何かを“好き”ということ自体が他と比較することになっている」というような話を星野源さんがラジオで言っていたなぁと思い、ネットサーフィン力を駆使してその回の文字起こしを見つけたのですが、

なんと星野源さんがNHK『100分de名著』の『ディスタンクシオン』回を見た上での感想の流れでその話をしていたらしく。私の記憶には全くその情報がなかったので衝撃でした、まさかゼミで扱うより前に星野源ANNで『ディスタンクシオン』の内容をかいつまんで知っていたとは…

文字起こしは公式ではないのでここにリンクを貼ったりはしませんが、「星野源 ディスタンクシオン」とかで検索すれば出て来るので興味のある方はよかったら。


話を戻します。

ここまでブルデューはしきりに「私たちの好みや行動は社会に決定されている」と主張してきましたが、そんなことを主張しても誰も幸せにならないじゃないか、ブルデューはなぜこんなことをしたのか?と疑問に思うのではないでしょうか。


それについて、2つメリットが考えられます。

一つ目は、他者を正しく理解できるようになること。
各々がハビトゥスによって判断を下しているということは、他者がどんなハビトゥスを持っているのかを知ろうとすることが相手を理解することにつながるのではないか ということです。

二つ目は、自分自身を正しく知ることができること。
ブルデューの主張によって、私たちが「自由」な選択だと思っていたものはすべて「不自由」なものであったことが証明されてしまったわけですが、一方でブルデューの言葉には「重力の法則は飛ぶことを可能にする」というものもあります。

つまり、私たちを縛る「法則」「不自由さ」を知ることで初めて、「自由」を知ることができるということです。



ディディエ・エリボン『ランスへの帰郷』

では、『ディスタンクシオン』を踏まえて『ランスへの帰郷』はどのような作品と言えるのでしょうか。

まず概要を紹介します。
『ランスへの帰郷』は、ディディエ・エリボンの自伝です。貧困家庭で生まれたエリボンは、パリの大学に進学し知識人と交流を深めていくうちに下層出身であることを恥じるようになり、家族と距離を置いていました。しかし、父の死をきっかけに帰郷することになり、エリボンが旅の中でいかに家族や自分自身と向き合っていったのかが書かれた作品です。


平たく読めば『ランスへの帰郷』は『ディスタンクシオン』の実践本のように見えるのですが、もう少し深く読み解いてみましょう。

エリボンはずっと自分の階級について考えることを避けていました。しかし、父の死を契機に自分の階級について考えることで、自分の過去を取り戻した、つまり自己を発見したと言えます。また、それは同時に自分の家族の発見でもありました。

ここで本文のラストを引用します。

「現在、私は大学教授だ。大学のポストが提供されたことを母に知らせると、彼女は感激して私に尋ねた。
 それで、何の教授になるんだい?哲学なの?
 というか、社会学だよ。
 何のこと?社会についての学問なのかい?」

ディディエ・エリボン『ランスへの帰郷』みすず書房、2020年5月1日、pp.236-23

この親子の会話には、同じ階級でも学歴資本を手にしたエリボンと手にしていない母との間に壁があることが表れています。しかし、その壁は個人的なものではなく、社会によるものだとエリボンは旅を通して納得できるようになったのです。

つまり、『ランスへの帰郷』はエリボンが社会による「不自由さ」を知ることで、「自由」と「安心」を手に入れ、自己と家族の新しい関係を発見できた過程を描いた作品と結論付けられます。


以上です!

要約能力が低いので長くなってしまいましたが、『ディスタンクシオン』の内容には共感できる人も多いのではないでしょうか?
実際、インスタなどの投稿を見ると卓越化を感じるという声は多く上がり、SNSやメディアの発達によって卓越化がかなり見えやすくなっているよね という話を議論の中でしました。何かを好きである以上卓越化は避けられないので、なかなか難しいものではありますが。


最後に、宮澤さんが猫ちゃんの写真を載せていて、私もうちの猫かわいい自慢したい!と思ったので写真を載せようかと思ったのですが、動画ばかりで良い感じの写真がなかったのでやめておきます。

ちなみにうちの猫は最近5歳にして初めて毛布をふみふみしまして…!!
超かわいかったのですが、その動画を撮影したのが祖母でスマホの扱いに慣れていないためピントが全く合っておらず。しかもその1回きりしかふみふみしていないので、またふみふみしているところを見たいなぁというのが最近の願いです。

お読みいただきありがとうございました~!

9期生第3回 「精神分析批評 他者の存在が必要。自己分析には限界があるらしい」

第3回

こんにちは、今回担当させていただく白井です!

10月5日に扱ったのは、山田広昭「テクストの無意識はどこにある」、谷崎潤一郎『夢の浮橋』で、レジュメ担当は室井さんでした。

様々な内容があったのですが、精神分析批評が成り立つ上で重要なのは「転移」でした。

なぜ重要なのか。簡単にいえば、転移しないと、無意識的欲望を分析できないからです。

カウンセラーや精神科医は患者を治療しますが、その際にこれまでの他無意識的欲望が再演されることがあります。そうした反復を診断することで、患者は無意識的欲望を把握することができるようになります。

つまり転移を発生させるためには、他者の存在が不可欠であり、転移を経験して初めて無意識を把握することができます。

精神分析批評の転回点

テクスト分析を行うためには、上記の転移を基に、読者もまた「テクスト」との間に転移関係を生む必要があるそうです。

批評家(カウンセラーや精神科)はテクスト(患者)を解釈します。その過程で、テクスト無意識が批評家に反復されます。つまり、批評家が解釈するとき、テクストは批評家に無意識的欲望を転移するため、互いに欲望を貸し合う状態だといえます。

そうして、「精神分析」ならぬ「テクスト分析」の実践が開始されます。

『夢の浮橋』の批評 山田広昭「テクストの無意識はどこにある」

『夢の浮橋』は谷崎潤一郎著の小説です。彼が73歳の時に書かれたものです。

今回の論文では、『夢の浮橋』は「転移された欲望、受け渡されたナルシズムの物語」と結論づけられています。

2つの謎

・誰が武(第二の母の子)の父親なのか

息子である「私」

・誰が母を殺したのか

おそらく「私」

作品のテーマ「分身」

・産みの母の分身としての第二の母の姿

・「私」の顔が父親と非常に似ている事実の反復

・武(弟)の顔が母に酷似している

キーワードは隠蔽欲望です。隠蔽欲望とは、主体にとってはるかに重要な意味を持つ記憶、抑圧された性的記憶や幻想を覆い隠したものです。

山本さんは、この用語をずらして、ある欲望が特別な鮮明さをもって現れることで、もう一つの別のより重要な欲望が露出してくることを隠蔽しているとみなしうる場合に、前者の欲望を「隠蔽欲望」と呼んでいます。

では『夢の浮橋』における隠蔽欲望とは何だったのでしょうか?

繰り返される母子相姦的欲望により覆い隠されている欲望。

それは「父の欲望」と呼ばれるべき、息子を自分の分身と設定することで現れるナルシズム色を帯びる欲望のことです。

息子に取り込まれるのはナルシズム的な欲望はそれ自体でした。

それゆえに、ある時点において欲望対象としての母は不要となり、むしろ阻害要因へと変化します。つまり、母を欲望するのは息子である私の欲望から発せられるのではなく、父のナルシズムによるものであるがゆえに、そのナルシズムがエスカレートすると、母の存在は不要になります。

ナルシズムは反復されています。そして、物語の終幕が「私」の独りよがりの理屈、すなわち、武が望んでもいないのに二人で暮らす選択を突き通して終わっています。

端折り端折って、このように『夢の浮橋』は「転移された欲望、受け渡されたナルシズムの物語」と結論付けられるわけですが、

ゼミ内で、この『夢の浮橋』がどのような小説なのかを結論づける必要がありました。

まず武という存在は母に顔が似ているため母のコピーだと考えられますが、私は離れ離れにされてしまった武を武の同意なしに引き戻します。次におそらく私は母を殺しています。

これらは父母>私の権力関係を逆転させる行動です。

なぜならば、主に父への抵抗が見て取れるからです。私は父親の思惑通りに母を欲望し、結果的に武をつくりますが、父親は私と武を遠ざけました。その武を連れ戻す行動は父への抵抗の表れです。さらに父のナルシズムに従うのであれば、母を殺すに至ることはないだろうと考えられます。

つまり『夢の浮橋』とは、私は武を引きずり戻すことで自らの帝国を築き上げることに成功し、父から転移されたナルシズムを私基準で高める物語なのではないか、と授業時間内にまとまりました。私基準というのは、もはや父のナルシズムのレベルではないということです。

しかし、「ぬるい!!」

ゼミ内でそんな声が聞こえてきました。解決したかのように思われた今回の議論も、もっと先にいけるのではないかと。たしかに、もっと先にいけたらよかったかもしれません。

ただ、ちょうど時間になってしまったので、今回はできませんでした。

別作品にはなってしまいますが、精神分析の回はまだ残っているので、作品への理解・解釈を深められたら良いなと思っています。

『夢の浮橋』は初めて読んだので良い体験でした。

正直、精神分析は理論として非常に興味深い一方で、作品批評に用いることは難しそうだなと感じてしまいました。それでも、夏目漱石『こころ』の精神分析の授業がまだ残っているので、その際にビビッとくるものがあれば、是非用いてみたいと思っています。

ここからは雑談です。

先日、名古屋までライブ目的で行ってきました。

何で行ったかというと、高速バスです。朝早くは嫌で、調べたところバスタ新宿を8時ごろに出発するバスがあったので、それに乗ることができました。

始めて使いましたが大学生の味方ですね、高速バスは。

乗るバスの種類にもよりますが、新幹線の半額かそれ以上に安いです。

8時ごろ出発して、少し道路が混んでいて14時前ごろに着いた気がします。

それで、何のライブに行ったかというと、水瀬いのりです。有名な声優さんなので、知っている方も多いかもしれません。

友人がファンクラブに入っていて、その友人が当ててくれた席はなんと6列目!爆音スピーカーが目の前にある状態で、振動と音量がヤバかったです。

それ以上にヤバかったのは、ステージ端の6列目だったので水瀬さんも近くまで来てくれました。目が合っていたのではないかと思います。楽しかったです。

大学生に入ってからライブに行く回数が確実に増えています。楽しいのは良いのですが、確実に耳が悪くなっています。(貯金もできないです)ライブ用の耳栓も売っているみたいなので、買ってみようかなとも思います。

それと矢場とんに行きました。矢場とんはみそカツで有名な飲食店です。

みそカツ食べたくてどこ行くか迷ったとき、矢場とんに行けば後悔しないのではないでしょうか。他の店を知らない白井ですが。

そのくらい美味しかったです。

飯テロしときます!

今回は以上です。ありがとうございました!

9期生第13回「なんのこっちゃの説明の中にも意思があるのです」

こんにちは、第13回のブログを担当します高山です。

夏休みこそはゆっくりする予定だったのですが、バイト先の塾は夏期講習だし、出るつもりのなかったサークルの本番に出演しなければならなくなってしまい、忙し人間から脱出できそうにありません。

というわけで時間がないので授業内容へ。

[前座]

前座では、これを機にそれぞれの呼び方を決めよう!ということで、それぞれ今までどんな呼び方をされてきたのか、どう読んでほしいか話していきました。

私自身は圧倒的に下の名前で呼ばれることが多く、どちらかと言えばその方がしっくりくるのですが、苗字で呼ばれる方がいいという人もいたり、だいぶ人それぞれだなぁと思いました。

その中でも白井くんが白井→白井健三の流れで派生して健二と呼ばれていたことがある話はめちゃくちゃ笑ってしまいました。実際の名前の要素が一つもないところが個人的にかなりツボだったのですが笑いすぎて後から申し訳ない気持ちになりました、すみません。(私に笑われると悲しくなるという人が一定数いるので)

では、本編に参りましょう。

[ポストコロニアル批評]

ポストコロニアル批評は、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』で提起された考え方が基盤となっています。

その考え方とは、西洋の帝国主義諸国が搾取と支配を正当化するために、第三世界に対しいかに誤ったイメージや定型化された神話をでっちあげてきたか という問題提起です。

ポストコロニアル批評の方法は大まかに二つ。

①植民地化された国や文化圏から生まれた文学作品を研究する方法

この方法では、「植民地主義による定型化への異議申し立てがどのようになされるか」「植民地主義の文化的影響からの脱皮がいかに図られているか」に注目します。

②帝国主義文化圏出身の作家が書いた作品において、植民地がいかに描かれているかを分析する方法

『フランケンシュタイン』の作者メアリは西洋出身のため、方法②を『フランケンシュタイン』に当てはめて考えてみます!

植民地支配をする人物をどう描いているか という観点で見ると、

植民地支配をする人物=クラヴァルと言えます。

これは、クラヴァルが少年の頃から「インドでの植民地建設と貿易の発展に貢献する」という「冒険的偉業への情熱」に駆られており、大学で東洋の語学・文学を研究していたことが理由として挙げられます。

つまり、クラヴァルが目指した「偉業」には植民地支配という帝国主義的侵犯要素が含まれていたのです。

しかし、クラヴァルはインドに出発する前に怪物によって殺されてしまいます。

⇒西洋が東洋を侵犯すると失敗する。

⇒『フランケンシュタイン』は東洋を支配しようとする西洋に対して警鐘を鳴らす作品

と読み解けます。

[新歴史主義]

新歴史主義が成立するまでには、以下の三つの考え方がありました。

歴史主義(20C前半):歴史は客観的であり、確固とした事実である とする考え方

ニュークリティシズム(1930~1950):作品と作家や時代背景とを切り離して、作品を独立した統一的有機体とみなす考え方

ニュークリティシズムへの反動(1970~):テクストの意味は読者とテクストとの相互作用だとする読者反応批評や、テクストとは内部矛盾をはらんだものだとするポスト構造主義など

⇒ニュークリティシズムへの反動では、歴史が文学と切り離されていましたが、再び文学研究に歴史を復活させたのが新歴史主義です。

新歴史主義では、

歴史=客観的事実ではなく、語り手が出来事に対し取捨選択を行い再編したもの

ととらえ、文学テクストと他の領域のテクスト(歴史資料など)の境界を取り払います。

世間一般で客観的とされている歴史を客観的でないと示すことで、歴史資料などと文学テクストが同じ土俵にいることを示すということですね。

ここで疑問として出たのが、間テクストと新歴史主義の違いは何か?というものです。

どちらも、他のテクストと関係がある という点では同じですが、

間テクスト:先行する文学テクストから影響を受けている

新歴史主義:同時代の異なる領域の考え方などが含まれている

という点に違いがあることが分かりました。

[ミシェル・フーコー『知への意思』]

かなり内容が難しく、書いているうちに何を言っているのかよくわからなくなりそうなので、フーコーが『知への意思』で何を明らかにしたかったのか先に述べておくと、「死の権力から生の権力がどのようにつくられていたか」ということです。

これを念頭においてこの先を読んでいただければと思います。

・性に関する歴史について

17世紀以降、人口を増やすことのできる夫婦の関係や、夫婦間の性的行為のみが正しいとされ、その他の性的欲望は抑圧されたと考える「抑圧の仮説」があります。

しかし、この時代以降、性に関する言説が増えていることから、フーコーはこれを否定し、

権力が性的欲望を抑圧したのではなく、性的欲望を言説化できる場所が限られたことによって沈黙が生じたのだと主張します。

・性の科学が打ち出される

フーコーはこの言説化する行為=「告白」という行為 としています。

性の言説は「告白」を通して科学的な知見と結びつけられ、真理を引き出すことができるとし、

「告白」と科学的な言説性の証明が交差する点で、「性的欲望」が存在すると定義されました。

→つまり、性が秩序だった知の体制のなかに登録された ということだと思います。

・性的欲望の装置が使われる

そして18世紀以降、権力は性的欲望を道具として使い、「性的欲望の産出」がなされました。

・死に対しての権利と生に対する権力

この権力ですが、君主制など古典主義以前の権力は、死に対しての権利(生殺与奪の権)でした。権力を裏付けていたのは「血」(血筋など)だったからです。

それが近代の権力になると、国民を資本主義国家の生産力の一員として緩やかに拘束・管理する「生-権力」へと変化しました。

それにより、「性的欲望の装置」が権力の中で大きな意味を持つようになったのです。

以上、第13回の内容でした。

私の説明が下手すぎて、これをお読みになっている方はなんのこっちゃという状態になっていることが想像できますが、私自身もなんのこっちゃという感じです。

ニュアンスまみれであいまいなこの文章が授業内容とあっていることを願いつつ、今回はここまでとさせていただきます。

では!

9期生第8回「白井はカーニヴァルへと赴いた」

こんにちは!

今回のブログを担当する白井です。今回の授業後、緑黄色社会のライブに行ってきました。

おかげで授業の記憶が気持ちよく塗り替えられてしまっています。

それでは早速

『シライの日常』という漫画があったとして、物語内のシライがブログを書いているとします。

そんなとき「明日のゼミの文章読み切れてないから、ブログ書かずに逃げちゃってもいいかな?みんなはどう思う?」と漫画の枠を超えて読者に向けて言っちゃったとします。

これがメタ発言。

そんな発言をしちゃったとしても、

「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ! -やります 僕が書きます!」とシライの心が叫んでいる。

これが間テクスト性。      

※この物語はフィクションです

これで第8回の半分を書き終えたようなものです。

自己紹介が苦手なので、挨拶はここらへんにして、お二人のレジュメを頼りにしっかり書き上げていきたいと思います。

前座

授業内容に入る前に前座!

前座はヤンさんでした。ヤンさんはミュージカルが好み。

そんなヤンさんが紹介してくれたのは『イン・ザ・ハイツ』です!

『イン・ザ・ハイツ』は移民をテーマとしたミュージカル映画だそうです。

どうやらミュージカル版『イン・ザ・ハイツ』があるようで、そこから今回紹介してくれた映画版『イン・ザ・ハイツ』が生まれたみたいです。単純に映像美的な面でも面白いそうですが、ストーリー的にも面白いそうです。

自分は見たことがないのですが、温かさとパワーで溢れる映画なのかなと前座を聞いていて思いました。休暇中に見てみたいと思います!

3限

「間テクスト性」

文学テクストとは、常に先行する文学テクストから何らかの影響を受けており、孤立しているものは存在しない→そのテクストと他の文学との間にある関係性=間テクスト性

ジュリア・クリステヴァによると、あらゆるテクストは他のテクストを吸収し変形したものとされます。そして、作品のなかで作者は、先行作品について言及したり、意識的、あるいは無意識のうちにそれについて仄めかしたりします。

『フランケンシュタイン』における関テクスト性を少し確認してみましょう。

作者メアリーに身近の作品の内容や人物像と物語の構成で共通点がみられます。

たとえば、『アラスター』(1816)・ピグマリオン伝説・ファウスト伝説は主人公フランケンシュタインの人物像の原型と考えられるようです。

また『ドン・キホーテ』(1615)は社会から離れることで生まれる悲劇的破局へと向かう点で共通しているようです。

間テクスト性は絵画など他の芸術作品にも現れます。つまり、先行するテクストは文学作品には留まりません。

例として絵画「夢魔」があげられているのですが、苦戦しました。エリザベスが殺害されたシーンを読めば、「夢魔」が浮かんでくるそうなのですが、「夢魔」との関わりが薄い私たちにとって理解しづらい部分。その意味で間テクスト性においてやはり読者が重要となるのだと実感しました。

読者が「夢魔」がどのような絵であるかを社会や思想的な位置づけのレベルで認識している必要があり、同時にそれを読み解かなければこの「夢魔」の間テクスト性を理解しきれません。

そう考えると、「夢魔」が間テクスト性を備えているのではなく、「夢魔」に対する認識にこそ間テクスト性があるのではないでしょうか。

「メタフィクション」

メタフィクションとは語り手が前面にきて読者に向かって、「語り」自体について口上を述べるような小説。もちろん小説にかぎらず創作物全般に当てはまります。

『フランケンシュタイン』におけるメタフィクションをみていきましょう!

と言いたいところですが、『フランケンシュタイン』は枠物語の形式をとっているものの、厳密にいえばメタフィクションではないです。

しかしメタフィクション的な要素はみられます。

まず「語りについての語り」です。フランケンシュタインの語りを包括しているウォルトンの語りにおいて、編集方式や語りに対する言及があります。手紙を書くウォルトンが、どんな状況で書いているのかをウォルトン自身が説明してくれているということです。

次に「真実と語りとの距離」です。読者が目にするフランケンシュタインの物語はフランケンシュタイン→ウォルトン→フランケンシュタインという順番でテクストに手を加えられたものです。つまりウォルトンによる編集版とフランケンシュタインによる修正版が存在し、真実にいくつものフィルターがかけられてしまっています。

このように真実と語りには距離があり、これらによって物語があくまでもフィクションであることを暗示しています。

ではメタフィクションとは?

メタフィクションはジュラ―ル・ジュネットの理論で言い換えるならば「転説法」です。

転説法とはメタフィクション!

転説法の説明通りにいえば、語り手(および聴き手)が位置づけられる世界と物語世界(水準)との関係を扱うものを語りの水準といいますが、その語りの水準の境界を侵犯して登場人物が語ることを指します。

劇場版名探偵コナン『迷宮の十字路』のOP説明には明らかな転説法が使われているらしく、服部と和葉が言い合っている中で

和葉「アホは あんたやん 誰に向かって しゃべってんの?」

それに対して服部「誰って お前… 見てるみんなに 分かりやすう しゃべってんやないかい」と発言します。

この流れの中で服部は誰に向けて話しているでしょうか?

正解は和葉!

だけではないです。

そうです、和葉だけではなくこの映画をみている観客に向けても話しています。

プリキュアの映画もかなりメタフィクションのようです。

劇場で応援ライト(ミラクルライト)を受け取るらしく、プリキュアがピンチに陥ると、「プリキュアに力を!」や「ミラクルライトで応援して!」とプリキュアが観客に呼びかけるようです。

このメタ発言を受け取った観客は、ライトを振りながら全力で応援するわけです。

楽しそうですよね。

しかしここで問題が発生。

なんと、ライトが貰えるのは中学生以下らしく、ライトを受け取れない大人たちは全力で心の中で応援するそうです。

ライトが無くても心でつながっているなんてカッコ良いっす!

それでも必要だと思う人は自前のライトを用意して臨むそうです。覚悟が違いますね。

この話は置いておいて、

メタフィクション全体に関わる問題があります。それは「メタフィクションが興醒めな効果を持ってしまわないか?」ということです。

メタフィクションは物語の世界を侵犯して、語りかけてくることがあるために、そのフィクションの捉え方が良い意味でも悪い意味でも変化します。

個人の解釈が伴う部分であり、一概には言えませんがプリキュアのようなタイプの作品であれば問題がないのではないかと思います。

プリキュアのような状況だったら、呼びかけに応じてフィクション世界の一人としてプリキュアを応援しているかたちになり、他人事ではなくなります。このとき、より一層プリキュアと観客の心は通じ合うのではないでしょうか。(もはやプリキュアの一員まである)

メタフィクションが受け入れられるかどうかは作品の雰囲気にもよるかもしれないです。

3限はここらへんにしておきます。

4限

4限はジュリア・クリステヴァ『セメイオチケ1』です。セメイオチケとはギリシア語で「記号論」という意味になるようです。

クリステヴァはバフチンを褒めまくります。

そして次にクリステヴァは「言葉のあり方」という概念を導入して、「相互テクスト性」という考え方を提唱します。

「言葉のあり方」とは、以下のように定義できます。

まず水平的にみれば、テクストにおける言葉は、書く主体とその受け手との両方に属しています。

次に垂直的にみれば、テクストにおける言葉は、それに先立つあるいは同時点の文字資料の全体へと向けられています。

テクスト上の言葉は、「共時的」に見れば作者と読者それぞれの解釈があり、「通時的」に見れば他の様々なテクストと相互に影響を及ぼしあっているということです。

「作者」と「読み手」の間で、「先行するテクスト」と「テクスト」の間で、それぞれ相互作用によってテクスト上の言葉は理解されていきます。そしてこの部分に「対話」が存在しています。

その相互作用では、相反する考え方や価値観がテクスト空間の中で共存し(どれも排除されない)、対立しながらも相互に影響を与えています。

これについて発表者の高橋さんがナイスな例をあげてくれています。

「人生はチョコレートの箱のようなもの。開けてみるまでは何が入っているかわからない」で有名な映画『フォレスト・ガンプ』の解釈です。

知能の低い少年の人生を温かく描いた、すべての人間を応援する優しい映画⇔反知性主義的で国を疑わない白人男性の主人公を描いた白人至上主義映画

というように

これらは相反する解釈なのですが、相反する考え方や価値観がテクスト空間の中で共存し、対立しながらも相互に影響を与えるからこそ、生まれる解釈でもあります。

「作者」と「読み手」の間

「先行するコンテクスト」と「テクスト」の間

この2つの軸がそれぞれで「対話」あるいは「対立するものの併存」が起きているのであれば、0から生み出されたテクストなんてものは存在せず、あらゆるテクストは何らかのテクストから影響を受けています。

「詩の言葉は、多面的な結合が可能であり、多面的に決定されていることによって、コード化された言説(ディスクール)の論理を凌駕する論理に従っている。」

その論理を研究するためにバフチンはカーニヴァルへと赴いた。

カーニヴァル?カーニヴァルとはなんでしょうか?

カーニヴァルの規範は「通常」の生の規範と対立します。カーニヴァルに投げ込まれたとき、それまでの通常世界の秩序に適合して「正しく」生きてきた人間は従うべき「正しさ」を失います。無秩序が秩序らしいです。

つまりカーニヴァル世界において、通常世界の構築された生の規範は通用せず、身分や宗教観、価値観など異なる人々と同じ空間で接触、すなわち、対話するということです。

文法や意味によって厳しく拘束された一義的な法則や「認識」といったものを凌駕するためにはダイアローグ的・多義的な論理が必要となるわけですが、バフチンは「対話」が絶えず行われる「カーニヴァル」を最適な場として考えたのではないか、ということでした。

カーニヴァル内では、文法と意味によって厳しく拘束された言語を支配する法則を破っています。それによって社会的、政治的異議申し立てなっているのではないかと考えられます。

このように多様な声がぶつかり合うカーニヴァルは、決まりきった言説を転覆させる場として最適だったのでしょう。

話が変わります。

「言葉のあり方」という概念を用いたことで、言葉が「対話を交わしている」あるいは「対立しながら併存している」要素の集合として三つの次元(主体—受け手―コンテクスト)において機能しています。

そうして言葉の特有の働きを記述するためには「言語学を超えた言語研究の方法」が必要となります。

その方法は以下の通り。

  • 文学のジャンルを、「言語の下にあるが、かならず言語とともに意味を表す」という不純な記号体系として捉えること
  • 言説の大きな単位、つまり文、応答、対話などによっておこなわれる操作・意味論の拡張という原理によって根拠が与えられる操作

ここから、文学のジャンルの進化はいずれも、言語構造をさまざまなレヴェルで無意識のうちに外在化することである」という仮説が立てられます。

文学ジャンルや表現の仕方は、時代や文化によって変化していきます。

ここでも高橋さんのナイスな例があげられています。

文体が変化したり、「ヤバい」「エモい」などの新しい言葉が使われるようになったりしますが、そうした言語構造の変化を、文学はとても「自然に」(無意識のうちに)取り入れています。

そして小説は、とくに言語に内在する対話を外に表わしています。

言葉に内在する対話(ダイアローグ)とは何なのか?

バフチンにとっては「対話」と「独話」の区分がフォルマリストたちの区分(直接話法が「独話」、間接話法が「対話」)のようなシンプルなものではないようです。

物語の中の独話的な一人称の独り言であったとしても、読者は作品全体や当時の社会全体の文脈のなかでその言葉を理解するので対話的。

一方で、物語の中の他者との対話的なコミュニケーションでも、その中の一人の視点・捉え方でのみ、そのコミュニケーションが描かれてしまったら独話的。

その意味でバフチンは完全な独話・対話は存在しないと訴えているようです。

バフチンによると対話関係が言語活動それ自体に内在しているようです。

言葉というものは一人の思考や表現から成立するものではなく、常に他者とのコミュニケーションによって成立します。その言葉を扱うのが言語活動であるために、対話が内在していると考えられるのでしょう。

バフチンの想定する対話関係は、主体性としてと同時にコミュニケーションの可能性としてのエクリチュール(書かれたもの)、すなわち、「間テクスト性」としてのエクリチュール(書かれたもの)です。

このような対立関係に突き合わせるとき、「個人=エクリチュールの主体」という考えは明確さを失いはじめ、もうひとつの考え、すなわち「エクリチュールにある対立するものの併存」という考えに場を譲り渡します。

本来エクリチュールというものは、単に書かれたものであり、主体=個人が使っているように思えるエクリチュールであっても、他者からの言語を使っています。

この考えに基づけば、

「作者」と「読み手」の間、「先行するコンテクスト」と「テクスト」の間という併存につながるのではないでしょうか。ここ自信ないです。

ここからは余談です。

白井はカーニヴァルへと赴いた。

カーニヴァル?カーニヴァルとはなんでしょうか?

ゼミの議論でもあがったのですが、社会学者のデュルケームが提唱した「集合的沸騰論」がカーニヴァルに似ているということでした。

集合的沸騰論は、緩んでしまったつながりを祭事によって改めてつなげ直すという考えです。お祭りにかぎらず、音楽ライブやスポーツ観戦なども集合的沸騰に当てはまります。

一方で、カーニヴァルは先述したように、通常規範から逸脱し無秩序世界の中での対話が行われる場です。

というわけなのですが

音楽ライブというカーニヴァルに投げ込まれた白井は、「正しさ」なんてものは失い、無秩序の中で対話していた気がします。

もうこれは、「白井はカーニヴァルへ赴いた。」と言ってしまっていいのでは?

これが言いたいだけのタイトルです。

タイトルを決めるのって難しいですよね?自分だけですかね……

作品とか商品とかってタイトルだけで大分印象変わっちゃうと思っています。

タイトルだけで引かれちゃうやつありますよね、惹かれちゃうやつもありますよね、特に知らない人からしたら。

カーニヴァルから帰還した白井は記憶が定かではありません。もちろんライブは素敵でした。

お二人のレジュメに助けられました。ありがとうございます。

第8回は以上です。ありがとうございました。

9期生第7回 みんな、赤毛のアンになってみない??

こんにちは!

第7回のブログを担当する、宮澤です!今回は、ヴィクトール・シクロフスキーの『手法としての芸術』、特に異化についてご紹介していきたいと思います!

では、早速今回の主題に入っていきましょう!!!

と言いたいところなのですが、、、

まずは、2週間以内に投稿できなかったことのお詫びを。

セルフガチサーしてる2回目担当高山さんのように、特殊な事情を抱えているわけではないのですが、何分忙しく、、、面目ない。

ということで、言い訳がましく始まった第7回目のブログですが、改めて宮澤水月が担当します!

あっ、今「みずき」って読んだ人いますよね?笑笑

実は、水月は、みずきではなく、みつきと読みます。自分で言うのもなんですが、珍しいし良い名前です。今まで、水月と書いてみつきさんに会ったことがないのが、密かな誇りだったりします。(他に同じ名前の人がいても、絶対言わないでくださいね。傷つくから!)

ちなみに、猫2匹、人間2匹と暮らしている、実家住み系女子です!アニメと飯と睡眠さえあれば生きていける、ぴちぴちの20歳です。(猫も必要ですね)

まぁそんなところで、特に自己紹介できるネタがなくなったので、授業内容に入っちゃいます笑

では、気を取り直して、授業内容にレッツらゴーです。

ー--ー----ーー

    反復

ー--------ー

今日のテーマ異化に入る前に、ちょっと違うテーマを。3限の授業で取り扱った反復について、ご紹介しておきます。

反復とは?読んでそのまま、同じことを繰り返し行うことです。

物語内の反復ってほんと多種多様で、筋や出来事、場面、状況、人物、イメージ、言葉など、使われ方は無限大だったりします。『フランケンシュタイン』の物語内でも、随所にみられる表現です。

例えば、最も頻繁に繰り返される「死」という出来事。『フランケンシュタイン』では、登場人物が次々に悲惨な死を遂げるという反復が起こっています。また、怪物の殺しの手口は、いつも絞殺で犠牲者の首に指の跡がつく様子が、3度も描写されています。残酷(´;ω;`)

さらに、言葉が反復されることもあります。例えば、「鍵盤がひとつ、またひとつとふれられた。弦がひとつ、またひとつかき鳴らされた。やがて私の心は、一つの思い、ひとつの概念、ひとつの目的で満たされた。」など。ひとつという言葉を何度も繰り返すことで、フランケンシュタインの熱烈な思いを表現しているんですね。同一語や類語が全編にわたって反復されてたり、同じ文章表現を違う登場人物が繰り返すなんてパターンもあります。

その他にも、deep,dark,deathlike,solitudeのように頭韻での反復や、月・海・湖・雨・雷といったイメジャリーの反復もあります!

つまり、『フランケンシュタイン』では、色んなレベルで反復が起きていると言えます!

反復は、言葉や場面の強調、さらには物語全体の統一性を持たせるために必要な要素です。反復が、『フランケンシュタイン』の作品としての魅力をマシマシにしてくれているんですね~。

ー--------ー

    異化

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お待たせしました!いよいよ、今回の主役の登場なり!

異・化です(^ω^) よろしくね。

まず、異化って何やねんっていうところから。

異化は、普段当たり前だと思っているものを異なるものにしちゃおうぜって考え方のことを指します。異化は英語で、defamiliarization。発表者の白井君が、de(離れる)+familiarization(慣れ親しませること)→ 当たり前と離れる、非日常化という風に考えると分かりやすいよ~、と教えてくれました!

もうちょっと砕いた表現をすると、物事をいつもとは違う角度から見てみようやーってことですね。

次に、異化が生まれた経緯には、『手法としての芸術』の著者であるヴィクトル・シクロフスキーさんが深くかかわっています。そう、彼こそが異化の生みの親なのです。

シクロフスキーさんが言いたいことは主に3つ。

・象徴主義への批判

・芸術は、直視(見ること)のレベルで物事を感じさせること

・自動化に対抗するには、異化

です。これだけ見ても、???って感じだと思いますので、異化という考えが生まれた流れをもうちょっと見ていきますね。

まず、当時は象徴主義的な詞が流行しておりました。象徴とは、抽象的な概念を具体的な事物に置き換える技法のことを指します。

そこで、シクロフスキーさんは象徴主義に対して批判しだすんですね。お前らの言う詩ってやつは、芸術などではないぞ!という具合に。

彼は、イメージが先にあって芸術が生まれる=手段としてのイメージだけが、芸術の在り方ではない。強い印象を生み出す=詩的イメージこそが、芸術なのだと主張します。※ここでのイメージは、比喩的形象のことを指す。

なるほど。んー----、分かりにくいですね。

さらに言い換えると、

今までは、抽象概念を具体的事物に置き換えるという、普段使っている日常レベルでしかない、上澄みの詩が芸術的だともてはやされてきた。けど、そうじゃない。できるだけ、強い印象をもたらす詩こそが芸術的だと主張したということです。

いや、強い印象って何やねん!!って突っ込みたくなりません?笑笑

ここで、例の異化が登場してくるわけです。

シクロフスキーさんは、私たちの知覚は、習慣化していくのと同時に自動化されてしまうと主張します。そして、彼はこの自動化を否定的に捉えます。

皆さん、朝起きたら何しますか?まずは、歯を磨いて、トイレいって、水飲んで、顔洗ってみたいな基本的なルーティンありません?別に、歯を磨きながら、「俺スゲー。今歯磨いちゃってるんだ。てか、歯磨くって何?歯ブラシって何?」とか思いませんよね笑笑 しかし、彼にとっては、歯磨きを何の違和感もなく、習慣として行っている私たちの日常行為こそが、習慣化、自動化された否定すべきものなのです。

彼は、こう思います。習慣化され、自動化されてしまうと、人間の知覚も鈍ってしまう。当たり前を当たり前だと認識し、事物を見慣れたものとしてスルーしてしまうと。(例えば、石が落ちていても、普通はスルーして歩きますよね。いちいち、一個ずつ拾って、これが石というものなのかと感銘を受けたりしないと思います。これが、シクロフスキーの考える自動化、スルーにあたります)

でも、スルーしちゃダメなんだ!何も感じない人間も、何も感じ取らせない詩も、そんなんは芸術じゃなー----------い!!(^ω^)

そして、芸術は、直視(見ること)のレベルで物事を感じさせること。石の石らしさを鮮烈に感じ、「生の感覚」を感じることこそが芸術なのだと主張しました。つまり、事物をスルーせず、一回一回立ち止まり時間をかけて、事物のそのものらしさを「生の感覚」を取り戻さなければならないということです。人々に「生の感覚」を取り戻させる手法こそ、異化という芸術であり、人々を立ち止まらせる異化を使用した詩こそ芸術であると、彼は主張しました。

そんなこんなで、別の視点を通じて当たり前を崩す手法として、異化が爆誕したのです。オメデトウ\(^o^)/

異化とは、実際どのように使われているか?『フランケンシュタイン』を通じて少しだけ見てみましょう。例えば、怪物が初めて人間を見たときに「今まで見たことのあるものと違う」と表現し、異星人が地球人を見るような視点で、人間を捉えます。また、怪物は、夜の闇を「暗い不透明のかたまり」、鳥を「羽のある小さな生き物」と表現します。事物の名称や人間すら知らない怪物の視点を借りて、世界に存在する一つ一つのものが、新鮮に捉えなおされている。これこそが、異化です。

以上、異化の説明はここまでになります。個人的に、シクロフスキーめちゃくちゃ難しくて。上手く伝わるブログになっているか、とても不安です。伝わってると嬉しいな、、、

余談ですが、異化が色濃い作品って、赤毛のアンなのかなって思います。あれって、結構日常ものなのに、なぜか面白いんですよ。その理由が、アンの視点を通じて、異化が多用されているからなのかなと改めて思いました。日常の中でも、アンという一風変わった女の子の視点を借りることで、異化した世界を見ることができるから楽しいのではないかと。むしろ、日常的なお話だからこそ、アンの異化ってる度合いが癖になるのかもしれません。まあ、なかなかアンみたいな感受性を持つことは難しいですよね笑笑

それでも、苦しいときや辛いときに、日常を少し異化してみると、救われるのかもしれないと思う今日この頃です。行き詰ったときでも、異化してみたら違う世界が見えるかも。

そゆことで、皆様もぜひ、異化ってみない??アンになってみない??

ここまで、ブログにお付き合いいただきありがとうございました!また、お会いできることを楽しみにしてます!じゃあねっ★

9期生第6回「もしかしたら私もドストエフスキー小説の主人公かもしれない」

はじめまして。第6回ブログ担当のヤンです。

簡単に自己紹介させていただきます。

ヤン・スビンです。ヤンが苗字で、スビンが名前です。

名前から分かるかもしれませんが、出身は韓国です。日本に来て450日目、孤軍奮闘しています。(笑)

趣味は映画とドラマを見ること、本を読むこと、音楽を聴きながら散歩することなどです。推理小説やドラマが大好きです。

昔クラシック音楽をやった経験があるのでクラシック音楽が好きで、その中でもオペラが一番好きです。オペラお好きな方がいらっしゃるか分かりませんが、もしいらっしゃったらいつでも声をかけていただければと思います。

それでは第6回の授業内容の振り返りに入ります。

3限「声」「イメジャリー」

第9節 「声」

声が物語の中でどう表現されるのかについて廣野さんは主に2つに分けて説明しています。

モノローグ的

:作者の単一の意識と視点によって統一されている状態。自分の考えを自分の視点で話すことが該当する。

ポリフォニー的

:多様な考えを示す複数の意識や声が、それぞれ独自性を保ったまま互いに衝突する状態(第7節「性格描写」の「立体的な人物」を表す。)

ここで桃太郎の例を挙げると、

昔話の「桃太郎」:モノローグ的

芥川龍之介の「桃太郎」:ポリフォニー的

だとも言えます。

  • 昔話の桃太郎では善と悪が戦う二項対立が現れるので、「善」という正義が「悪」を勝つという作者の考え方と視点が入って、桃太郎という登場人物で統一される : モノローグ的
  • 逆に、芥川龍之介の「桃太郎」では鬼の立場を入れることで、多様な考えを示す複数の意識や声が、それぞれ独自性を保ったまま互いに衝突する状態を作っている:ポリフォニー的

第10節 「イメジャリー」

イメジャリーとは、ある要素によって、想像力が刺激され視覚的映像などが喚起される場合、そのようなイメージ(心象)を喚起する作用のこと、または、イメージの集合体です。

ここでフランケンシュタインにおけるイメジャリーを考えると、主に2つの例が挙げられます。

  • 月:物語の中で重要な出来事が起こるとき、しばしばその前後に「月」が描写される。これは強烈な視覚映像を生じさせると同時に、何か別のものを暗示する象徴になる。
  • 水:湖や海などが「死」を象徴する場として描かれる。そしてメタファーとしても、フランケンシュタインが自分の運命について語る時、川に喩えて自分の破滅について比喩的に示す。

ここでイメジャリーを主に5つの分類に分けられます。

  1. メタファー(隠喩):あることを示すために、別のものを示し、それらの間にある共通点を暗示すること。(ex)夏空に浮かんだ綿菓子=雲)
  1. メトニミー(換喩):ある事物を、その属性と密接な関係がある他の単語を借りて表現すること。(ex)黒帯-有段者、やかんが沸騰している-でも実際沸騰しているのはやかんの中の水)
  1. シネクドキ(提喩):物事の一部として全体を、または一言でそれに関連するすべてを表すこと。(ex)お花見-桜を見ること-多くの花の中で「桜」を思い浮かべる)
  1. 象徴:特に類似性のないものを示して、連想されるものを暗示すること。(ex)ハト-平和(別に関係ないじゃん))
  1. アレゴリー:具体的なものを通して、ある抽象的な概念を暗示し、教訓的な含みを持たせること。(ex)イソップ寓話-ある童話を通して我々に教訓を与える)

4限「ドストエフスキーの詩学」

フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(1821年~1881年)は19世紀ロシアを代表する文豪で、著作としては『罪と罰』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』『白痴』などがあります。彼の著作は「現代の予言書」と言われています。

このドストエフスキーさんを研究して今日扱うテクストを書いたのは、ロシア(ソ連)の文芸学者であるミハイル・ミハイロビッチ・バフチン(1895年~1975年)さんです。

バフチンはこのテクストの中で「詩学」を、狭義の詩に関する理論ではなく、言語芸術の創作において題材、ジャンル、プロット、文体等の選択を支配する、作者の創作姿勢の全体を意味ものだと言っています。

[真のポリフォニー]

批評家たちは、ドストエフスキーの登場人物と対峙し、登場人物のイデオロギーを評価しようとしました。ここで批評家たちがイデオロギー的な側面に注目した理由は、イデオロギー的なのがドストエフスキー作品の特徴であり、彼が作家にさえ反旗を翻す能力を持った自由な人間たちを創造したということ、つまり真のポリフォニーを意味します。ドストエフスキーの主要人物は、作者が登場人物に何かをさせる(客体)のではなく、登場人物が自ら思想を持って行動する(主体)ことでした。彼の小説で登場人物たちは自主性を持って主体的に動きながら物語を進行させ、その点で伝統的な小説とは違うと言えます。

バフチンはここで、他の批評家たちがドストエフスキーの小説の中で登場人物という個別のイデオロギーに注目しすぎて、ドストエフスキーの芸術的特徴に気づいていないと批判します。そして、彼を作家であり芸術家だと表現します。

*バフチンが考えた芸術性は、以前にはなかったスタイルである「自由な登場人物で物語を作っていく」という新しいスタイルを作り出したこと、芸術家として小説の新しいジャンルを開いた開拓者(pioneer)という意味で芸術性が高いと言ったのではないかという議論を授業中に交わしました。

[ポリフォニー小説の創造者ドストエフスキー]

ドストエフスキーの作品は文学史上どの図式にも当てはまらない独自性を持っており、彼を「ポリフォニー小説の創造者」だと言えます。

従来のヨーロッパの小説が

  • 主人公の性格造形は、作者の客観的なイメージに従う
  • 作者の声のメガフォン
  • ストーリーが既に存在し、そのストーリーに合わせて登場人物の性格や行動を作者が決める

という特徴を持っていると言うと、ドストエフスキーの小説では

  • 登場人物の声が極度の自立性を持つ
  • 作者の言葉と登場人物の言葉が肩を並べる
  • 登場人物がいてストーリーが完成される、つまり、登場人物>物語の筋書き

という特徴があります。

また、モノローグ小説の結末が決まっていることが多く、すでに予想が可能な場合が多いのに対し、ポリフォニー小説では人物によって物語が進み、どうなるか予想できないという特徴があります。

そういう意味で、ドストエフスキーが創造したポリフォニー小説の構造は特殊だと言えます。

以上、第6回の内容でした。

ここまで読んでくださった皆様、ありがとうございます!

9期生第5回「近代の産物、“猫に餌をやるヤンキー”」

初めまして。今回のブログは柴田が書かせて頂きま~~~す!

~性格描写~

文学はキャラクターが命!というわけで本日扱った最初のテーマは「性格描写」。

突然ですが「二面性のあるキャラ」っていいですよね。

「ヤンキーが野良猫にこっそり餌やってた!」「優しい糸目キャラが開眼したらメッチャ怖かった!」

こういった「多面性」がキャラに深みを与えてるんではないかなと思います。

ですがなんと、このようなキャラクターが持て囃されるようになったのは近代以降!

割と最近なんですね。

ところで近代といえば…

_人人人人人人人人人_

> 個人主義の登場 <

 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄

そう。個人主義です。

近代以前は「複雑な人間性」というものは認められていませんでした。

人は生まれながらに与えられた「天命」に従って生きればよい。貴族に生まれたら死ぬまで貴族らしく、百姓に生まれたら死ぬまで百姓らしく。そこに人格の多面性は要らなかったのです。

(近代以前の物語、例えば歌舞伎なんかだと善玉/悪玉がハッキリ分かれてますもんね。これを平面的人物というらしい)

ですが近代に入り、天命や身分ってそんなに大事か?みたいな風潮になってきました。

「生まれなんか知らねえ!俺は自分らしく生きる!」

しかし程なくして人類は気付きます。

「自分らしさって、何だ…?」

そう。生まれが関係無くなった今、自分で自分のアイデンティティを模索しなければならない。何者かになろうとする度に、何者にもなれない自分に直面する。そもそも一貫した自分なんて本当に存在するのか…?かくして人類は長きに渡る思春期に突入します。

そこで大切にされるようになったのが「一面的でない複雑な性格描写」だったのです!なるほど〜(こっちは多面的人物という)

〜アイロニー〜

次に取り上げたテーマはアイロニー。アイロニーとは「見かけと現実の相違から来る皮肉」のことを言うらしいです。

これだけだとよく分からないので、アイロニーについて自分なりにまとめてみました!↓

〜あらすじ〜

あるところにAちゃんとBくんがいました。

Bくんのことが好きなAちゃん。

しかしなかなか自分の気持ちに素直になれないご様子…。

【言葉のアイロニー】

Aちゃん「Bくんの、バカ………///」

  →言ってることと意味するところが違うので、言葉のアイロニー

【状況のアイロニー】

Aちゃん「Bくんの、バカ………///」

Bくん「ひっど…近寄らんとこ…」

Aちゃん「振り向かせようと思ったのに!ガーン」

  →意図したことと実際に起きたことが違うので、状況のアイロニー

【信頼できない語り手によるアイロニー】

(Aちゃんによる語り部分で)Bくんは馬鹿だと思った。

  →信頼できない語り手によるアイロニー

以上です!

〜昔話の形態学〜

最後に扱ったのはウラジミール・プロップの「昔話の形態学」です。

昔々誰かが言いました。

「文学も良いけどさ、やっぱり時代は科学だよね〜」

文学者プロップ「なんだと💢」

愛する文学を蔑ろにされブチギレたプロップは、どうやって文学を科学の仲間入りさせるか(どうやって科学的に分析可能にするか)を考え始めました。

そこで目についたのが生物学のいち分野「形態学」。

これは構造主義とも関わる学問で、個々の生物の形態に通底する「型」的なものを分析するものらしい。

これを文学に応用できるのでは?と考えたプロップ。そこで思いついたのが「昔話の形態学」でした。簡単に言うと、昔話には「型」(定項という)がある!という話です。その型とは以下の通り。

【7つの登場人物】

  • 主人公
  • 敵対者 …敵
  • 派遣者 …主人公を旅に出させる
  • 贈与者 …主人公に試練を与え、試練に勝ったらお助けアイテム・お助けキャラをくれる
  • 助手 …お助けキャラ
  •  …攫われたり主人公と結婚したりする
  • ニセ主人公

【31の機能】

  • 留守 …家族の成員のひとりが家を留守にする
  • 禁止 …〈主人公〉に禁が課される。依頼や忠告、命令、提案の場合もある
  • 違反 …禁が破られる
  • 探り出し …〈敵対者〉が探り出そうとする
  • 漏洩 …犠牲者に関する情報が敵対者に伝わる
  • 謀略 …敵対者は、犠牲となる者なり、その持ち物なりを手に入れようとして、犠牲となる者をだまそうとする
  • 幇助 …犠牲となる者は欺かれ、そのことによって心ならずも〈敵対者〉を助ける
  • 加害 …〈敵対者〉が、家族のひとりに害を加えるなり損傷を与えるなりする
  • 仲介 … 被害なり欠如が〈主人公〉に知らされ、主人公に頼むなり命令するなりして主人公を派遣したり出立を許したりする
  • 対抗開始 …探索者型の〈主人公〉が、対抗する行動に出ることに同意もしくは決意する。
  • 出立 …〈主人公〉が家を後にする
  • 贈与者の第一機能 …〈主人公〉が〈贈与者〉によって試され・訊ねられ・攻撃される。そのことによって、〈主人公〉が呪具なり助手なりを手に入れる下準備がなされる。
  • 主人公の反応 …〈主人公〉が、〈贈与者〉となるはずの者の働きかけに反応する
  • 呪具の贈与・獲得 …呪具あるいは〈助手〉が主人公の手に入る
  • 二つの国の間の空間移動 …〈主人公〉は、探し求める対象のある場所へ連れていかれる
  • 闘い …〈主人公〉と〈敵対者〉とが直接に戦いに入る
  • 標づけ …〈主人公〉に標がつけられる  ※カッコイイ傷、痣など
  • 勝利 …〈敵対者〉が敗北する
  • 不幸・欠如の解消 …発端の不幸・災いか発端の欠如が解消される
  • 帰還 …〈主人公〉が帰路につく
  • 追跡 …〈主人公〉が追跡される
  • 救助 …〈主人公〉が追跡から救われる
  • 気づかれざる到着 …〈主人公〉がそれと気付かれずに、家郷か、他国かに、到着する
  • 不当な要求 …〈ニセ主人公〉が不当な要求をする
  • 難題 …〈主人公〉に難題が課される
  • 解決 …〈主人公〉が難題を解決する
  • 発見・認知 …〈主人公〉が発見・認知される
  • 正体露見 …〈ニセ主人公〉あるいは〈敵対者〉(加害者)の正体が露見する
  • 変身 …〈主人公〉に新たな姿形が与えられる
  • 処罰 …〈敵対者〉が罰せられる
  • 結婚 …〈主人公〉は結婚し、即位する

王道RPGですね〜。

ジャンプ作品にも通じるものがあります。

しかしこの物語形態、批判もあるらしい。

すなわち、マッチョイズム全開すぎる!

(姫との結婚など)主人公が男性である前提なのもそうですが、男はこうあるべし!という価値観も固定されているんだとか。男は黙って、冒険!男は黙って、戦闘!

しかし男女平等化が進んだうえ、人類が根性論に疲れ始めた近年。

アンチ・プロップ的な物語も増えているように感じます。(戦う女性キャラ、誰も戦わないほのぼの日常アニメ 等)

私は愚直を愛しているので王道的な物語も好きなのですが、一面的な価値観からの解放はよいことですね。いろんなお話があったほうが楽しいです。

本日はここまで!