9期生第14回 『映画の理論』第12章 演劇的なストーリー ~演劇と映画の狭間で~

寒い、寒すぎる。着る服困る。どうしよう

どうも、お久しぶりです。3回目の登場になります、宮澤です。

今回で、今学期の授業は終わり。4年春学期、最後のブログになります。(大トリだぁ)

いやそれにしても、皆さん。ほんっとうに、お久しぶりですね!

季節は冬に差し掛かり、服に困るほど寒くなってまいりました。

うん、おかしい、、、

春学期の最後の授業が終わったのは、夏休み前で。でも、今はめちゃくちゃ寒い、もう11月だし。

これ示すのは、いかなることか。(お察しください)

ということで。最後の授業の余韻をかみしめながら(思い出しながら?)、ブログを書いていきたいと思います。

今回のゼミで扱った理論は、ジークフリートの『映画の理論』第12章演劇的なストーリー。作品は、『ロミオとジュリエット』です

学習内容

今回は、映画における演劇的なストーリーについて学習しました。

まず、演劇的なストーリーとは何でしょうか?

演劇的なストーリーの特徴は、主に2つあります。

1つ目は、登場人物や人間関係に対し、強い関心を向けること。そのため、プロットの中心は人間的な出来事や経験になり、その他の物理的な現実は省略されて表現されます。

2つ目は、イデオロギー的な1つの軸を中心に、物語全体が構成されており、閉じたストーリーであること。プルーストは、「戯曲の筋に寄与することのない一切のイメージを無視し、筋の目標を理解させてくれるようなイメージだけ残す」と述べています。

本理論書の中で、演劇的なストーリーは「非映画的なストーリー形式」と言い換えられています。簡単に言うと、演劇的なストーリーは、映画ととても相性が悪いということです。

では、なぜ両者の相性は最悪なのか?

ずばり!演劇の特徴と、映画の特徴は真逆だからです。上記で学習したように、演劇は、イデオロギー的な閉じたストーリーを重視し、登場人物や人間関係以外の描写を軽視する傾向があります。そのため「ストーリー>映像」という構造を持ち、ストーリー・登場人物・人間関係に関係のない、物理的な描写や無機物の描写がされることはありません。

一方、映画は、「映像>ストーリー」という構造を持ち、舞台上で認められない一時的な印象や関係を表現する傾向があります。例えば、登場人物が悲しんでいる場面に、雨が降っている空の場面を差しはさむなど。

演劇的な観点から見れば、雨(無機物)と登場人物は何の関係もないため、雨の描写は必要ありません。しかし、映画的な観点からみると、雨(無機物)は、登場人物の悲しみを間接的に表現することができる素材であるため、あえて描写する必要があるということです。

このように、演劇と映画は相反する特徴があり、とても相性が悪いのです、、、泣

そんな、仲の悪ーい演劇と映画。ところがどっこい、映画に演劇的なストーリーを組み込んじゃおという試みがされたことがあります。例えば、1908年『ギーズ公の暗殺』がその代表です。

この時代には、映画という媒体は、他の媒体に比べて軽視される傾向がありました。映画は、芸術ではなく、大衆向けの単なる娯楽という認識しかされていなかったのです。そのため、映画作品の名誉回復を目指し、ブルジョアの好む演劇と同じ路線を踏襲しようとしたらしいです

そんなこんなで、演劇的なストーリーを映画に適合させるため、様々な方法が実践されました。しかし、いずれも両者の間にある矛盾を解消することはできなかったようです。

以上の学習から、演劇的なストーリーと映画的な説話が、相容れることは決してないという結論に至りました。しかし、両者には相容れない矛盾があることを理解することが、何よりも大事なのかもしれませんね

【作品分析】

以上の学習内容を踏まえて、『ロミオとジュリエット』はどのような作品だと言えるでしょうか。

私たちは、映画版の演劇を見たい観客に向けて作られた作品であると結論づけました。具体的には、演劇が大好きなブルジョア層に向けて作られた作品だと考えます。

本作の大半の場面は、ストーリーに沿って構成されています。そのため、原作に忠実に作られているということもあり「ストーリー>映像」という構造を持つ、演劇的なストーリーの映画と言えるでしょう。

しかし、所々に映画的な要素が散りばめられているのも、本作の特徴です。例えば、ロミオとジュリエットがダンスをする場面では、登場人物と一緒にカメラ(観客の視点)がぐるぐる回るような演出がされています。また、ジュリエットが牧師から薬をもらう場面では、ジュリエットと牧師の顔が交互に映される演出がされています。これらのカメラワークは、演劇にはない、映画的な要素だと言えます。

また、ロミオとジュリエットが城で出会う場面では、演劇的要素と映画的要素が混在していると考えられます。この場面において、ロミオとジュリエットの台詞は、原作に沿っており、演劇的です。しかし、背景の城や木々は、リアルな無機物を扱っており、映画的です。

このように『ロミオとジュリエット』は、演劇的ストーリーを主軸にしつつ、映画の技法を用いることで、物理的な現実を反映した映画的な側面もある作品であると考えられます。

以上の分析を踏まえ、私たちは以下の結論を導きました。

結論:「ストーリー>映像」という演劇的な要素を重視しつつ、映画的な要素があることから、『ロミオとジュリエット』は映画版の演劇を見たい観客に向けて作られた作品である。

4年春学期最後のブログはここまで!

次のブログがあるとしたら、3月の研究成果発表会になるかとおもいます

その頃はもう、入社間近。(まじか)

これが宮澤最後のブログかもしれませんが、いつか再びお会いできればと思います。

では、最後になるかもしれないので、引退するアイドルみたいに退場させてください

私のことは嫌いでも、ゼミのことは嫌いにならないでください!!!

また会う日まで。アディオス

10期生 第13回 労働者が世界を変える

みなさま、こんにちは!春学期第13回のブログを担当します、山崎日和です。

今回も春学期の授業内容です。秋学期に入っているのに… アップが遅くなり申し訳ありません。前後の授業内容を確認したい方は、さかのぼってご覧ください。

前座

今回の前座ではユニバーサルスタジオジャパン(USJ)の常設ショー、「WATER WORLD」について紹介しました。

このショーは同名の映画が元になったアクションショーです。その魅力は何といってもアクションやスタント!ハリウッド仕込みの本格的なものがいつでも楽しめるんです。

USJではほぼ毎日、1日約4回公演が行われているので、もし遊びに行く機会があればぜひ見にいってみてください!

3限 「マルクス主義批評」「文化批評」

今回の3限は秋尾さんの担当で、『批評理論入門』から「マルクス主義批評」と「文化批評」について学びました。

「マルクス主義批評」

マルクス主義とは、ドイツの哲学者、カールマルクスによって提示された考え方です。マルクスは、社会の歴史を階級闘争の歴史だと考え、その闘争が起こる原因が生産関係であること、またそういった生産関係や経済といった下部構造が政治や法、思想などの上部構造を規定することを主張しています。階級闘争というのは、ブルジョワジーと賃金労働者の対立といった生産関係において搾取―被搾取の関係にある者同士の間に起こります。搾取されていた人々が搾取に気付くことで闘争が起こり、その結果社会が発展してきたのです。マルクスは、その究極として共産主義があるとしています。また、そうした生産関係の闘争から社会が変化することから、下部構造は上部構造を規定すると言うことができます。

マルクス主義批評はこのマルクス主義を作品分析に適用した批評理論です。具体的には下部構造から上部構造を読み取ったり、生産力と生産関係の矛盾を見出したりすることで分析を行います。

この理論を用いて『フランケンシュタイン』を見てみると、作品内で描かれる歴史的状況や怪物という存在などがマルクス主義的だと言うことができます。

今回の議論では、『批評理論入門』ではマルクス主義批評の内容は詳しく説明されておらず曖昧だったため、読んでいて違和感があるという意見がありました。

また、『フランケンシュタイン』に登場する「怪物」を市民や労働者階級だと考えると、「怪物」の行動を同情的であれ悪いこととして描くこの作品では、闘争や革命を悪と考えているのではないか、という意見も出ました。こうした描かれ方から、作者であるメアリ・シェリーは革命を良く思っていなかったのではないか、そしてそれはメアリ自身が上流階級、つまり搾取する側だったからなのではないか、と結論付けました。

マルクス主義については4限でも取り扱ったので、そちらも併せてご覧ください。

「文化批評」

文化批評とは、知識階級向けの「ハイ・カルチャー」だけでなく、一般大衆向けの「ロウ・カルチャー」も文化として捉え、それらの境界を取り払うことを目指した文化研究(カルチュラル・スタディーズ)の考え方を土台とした批評方法です。これは、マルクス主義批評の影響を受けたものでもあります。具体的には、文学テキストがいかにしてハイ・カルチャーとロウ・カルチャーの間を行き来してきたかという過程を検証する方法や、原作を映画やドラマ、漫画などの翻案と比較する方法、文学作品を通俗的な読み物として読む方法、時代の文化的背景において重要なモチーフやテーマを作品から取り出す方法など、様々な方法があります。

『批評理論入門』では『フランケンシュタイン』について文化批評を試みていますが、その内容は『フランケンシュタイン』の翻案を並べただけであり、それによって何が言えるかまで書かれていなかったため、批評としては不十分ではないかとゼミ生同士で意見が一致しました。

その後、この理論を用いるのにはどのような作品が良いかについて議論を交わし、『パラサイト』や『レディ・プレイヤー1』などが挙がりました。

私は、この理論は上手く分析に用いれば面白い結論を出せるのではないかと感じました。

4限 カール・マルクス『資本論』、『共産党宣言』

4限は中村さんの担当で、カール・マルクスの『資本論』と『共産党宣言』の一部を読みました。

『資本論』

ここでは、商品についての箇所を取り上げました。

マルクスは、商品とは外的対象として、人間の何らかの欲望を満たすものであり、使用価値と交換価値をもつものだと述べています。欲望を満たすものである、というのはわかりやすいですが、使用価値と交換価値とは何でしょうか?

使用価値とは、物自体を使う価値のことです。ここでは時計を例に出して考えます。時計は時間を確認するという属性を持っています。この属性が使用価値です。使用価値は使用されることでしか実現されません。

一方で交換価値とは、ある種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される比率のことです。そしてそれは絶えず変化します。これは物々交換や売買について考えるとわかりやすいです。小麦について考えてみると、1クオーターの小麦がある量の靴墨と交換できるとき、それは異なる使用価値が交換されていることになります。さらに、1クオーターの小麦をお金で買うこともできます。これがいくらかは時代や場所によって変化します。この比率が交換価値です。

この交換価値は交換されるもの同士で共通するものです。つまり、その2つのものは同じ価値を持っていることを意味します。なぜ同じ価値であるのか。マルクスはその理由を労働力が同じであるからだとしています。労働力が多ければ多いほど価値は上がります。しかしこれは生産力とは反比例します。同じ量を生産する時、生産力が大きいほど労働時間は短く、その分労働力が少なくなるからです。このように、商品の価値には労働、生産が大きく関わっているのです。

この文章を読んだ後の議論では、労働力の変化と価値の大きさが比例するのであれば、労働賃金が最低賃金で一定なのはおかしいのではないかという意見や、人件費を抑えるのは交換価値を上げないためだという意見が出ました。

『共産党宣言』

ここではブルジョワジーとプロレタリアートの階級闘争についての箇所を取り上げました。

マルクスは、これまでのすべての社会の歴史は階級闘争の歴史であるとし、抑圧者と被抑圧者の絶え間ない対立は革命か共倒れに終わってきたと述べています。

ブルジョワジーも元々は封建領主に支配されていた存在であり、自らの力でその関係を打ち壊した革命者でした。それまでの宗教的な支配を取り払い、利害関係に重点を置いた社会へと変革したのです。具体的には、生産用具を改良し通信を容易にすることで農村を都市に依存させ、生産力を高めると同時に政治もブルジョワジーに集中させました。これにより階級支配が行われました。

これに対抗したのがプロレタリアートです。かつては労働者だった彼らは、ブルジョワジーによる機械と監視によって奴隷化され没落しました。機械と監視によって、均一化させられたのです。彼らは自らの地位を取り戻すために、まずは個々の労働者が個々のブルジョワジーと戦い始めます。そこから次第に労働賃金の維持を求める同盟を結ぶようになります。プロレタリアートにとって、この同盟、団結が闘争の成果でした。それは、結びつくことによってそれぞれの小さな闘争が一つの国民的な闘争、階級闘争、ひいては政治闘争になるからです。このようにしてブルジョワジーとプロレタリアートの闘争は行われたのです。

この文章を読んだ後の議論では、本文の内容から派生して、労働者と雇用主の関係はある程度相互的な依存関係にあるのではないかということについて話し合いました。労働者がいなければ商品などの価値は生まれないため、雇用主は労働者をないがしろにはできないのではないでしょうか。しかし実際にはどうしても労働者の方が苦しい思いをするのが現状です。これを解決するにはどうすればよいのでしょうか。私たちの議論では、相互評価や第三者の介入によって解決していけるのではないかという結論になりました。

今回の授業ではマルクス主義について詳しく学びました。生産関係など、現実の自分の身の回りにも当てはめて考えることができたと思います。みなさんはどうお考えになりますか?ぜひこの記事をきっかけに考えてみてください!

10期生 第10回 脱構築って何???

みなさま、こんにちは!今回のブログを担当します、山崎日和です。

この記事は春学期の第10回のものです。気づいたら授業からものすごい時間が経ってしまいました… 順番が前後し申し訳ありませんが、前後の記事はだいぶ下の方にありますので、さかのぼってご覧ください。

今回、3限では「ジャンル批評」「読者反応批評」「文体論的批評」の3つのテーマを、4限ではジャック・デリダの『根源の彼方に―グラマトロジーについて』を取り上げて「脱構築」について学びました。

前座

今回の前座は私が担当でした。紹介したのは、まらしぃさんというピアニストの方です。

この方は、主にYouTubeでアニソンやボカロなどのピアノアレンジを投稿しています。ピアノ、ということは歌詞がないわけです。そのため、私はよく作業用BGMや睡眠BGMとして聞いています。

特におすすめのものとして、「ちょっとつよいクラシック」と「メドレー」を上げさせていただきました。詳細は省きますが、気になった方はぜひYouTubeで調べて聞いてみてください!

3限 「ジャンル批評」「読者反応批評」「文体論的批評」

今回の3限は秋尾さんの担当で、『批評理論入門』から「ジャンル批評」、「読者反応批評」、「文体論的批評」の3つのテーマについて学びました。

「ジャンル批評」

ジャンル批評とは、その名の通りジャンルに関わる諸問題を扱う批評です。ジャンルには、形式上のカテゴリーに基づくものと、テーマや背景など内容上のカテゴリーに基づくものとがあり、このことから文学作品が既存の作品群と関係を持つことがわかります。

本文では『フランケンシュタイン』に関する4つのジャンルについて紹介されていました。

①ロマン主義文学

ロマン主義とは、啓蒙主義への反動として現れたもので、自我や個人の経験、無限なるものや超自然的なものを重視するものです。初期ロマン主義では、恐怖、情念、崇高さなどが作品に取り込まれました。後期ロマン主義では、旅、幼年時代の回想、報われない愛、追放された主人公などがテーマとして取り上げられました。

『フランケンシュタイン』は、恐怖や無限なるもの、超自然的なものをテーマとしているという、ロマン主義文学的な側面を持ちます。また、作中に登場する『若きウェルテルの悩み』もロマン主義文学であることから、ロマン主義の思想の影響が濃く反映されていると言えます。

②ゴシック小説

ゴシック小説は、18世紀後半から19世紀初頭を中心に流行した、ロマン主義文学の一種です。中世の異国的な城や館を舞台として、超自然的な現象や陰惨な出来事が展開する恐怖小説です。

『フランケンシュタイン』は、恐怖を主題とし、不気味な描写や陰惨な出来事などを有しているため、ゴシック小説的な要素を持つと言えます。しかし、リアリスティックな描写や自然の神秘に乱入することなど、伝統的なゴシック小説とは相反する要素も持っています。

③リアリズム小説

リアリズムとは、人生を客観的に描写し、物事をあるがままの真の姿で捉えようとする考え方で、ロマン主義とは対極に位置するものです。小説では具体的に、非現実的な描写や美化を避け、人生における日常的・即物的側面を写実的に描くという方法がとられます。

『フランケンシュタイン』では、前述のように、リアリスティックな描写がなされています。たとえば、怪物の超人的な身体特徴や言葉を話す理由付けが描かれていたり、人造人間を造ることへの化学的説明がなされていたりします。一見するとロマン主義的性質の強い『フランケンシュタイン』ですが、相反するリアリズム的性質も取り入れられているのは、この作品の特徴と言えます。

④サイエンス・フィクション

サイエンス・フィクション、通称SFとは、空想上の科学技術の発達に基づく物語を指します。この定義が確立したのは20世紀初頭ですが、この要素を取り入れた作品はそれ以前から存在したと考えられています。

『フランケンシュタイン』は、科学者によって新しい生物が製造されるという発想や、怪物に生命を吹き込む際、電気が関与した可能性がある点から、しばしば最初の本格的なSFとして位置づけられています。

発表の後の議論では、2つのことについて取り上げました。1つ目は、ゴシック小説の舞台はなぜイギリスではないのかについてです。ゴシック小説はイギリスを中心に流行したものですが、その舞台はイタリアやフランス、ドイツなどです。その理由として、近代化していない国を舞台としたかったということが挙げられました。当時、ゴシック小説の題材は超自然的な怪奇現象であり、これは近代化したイギリスでは起こるはずがないこと、中世的な異国で起こることという偏見があったようです。この思想は、日本の怪談の舞台として都会よりも田舎が用いられる、ということに似ている、という意見もありました。

2つ目は、ジャンルを有効に用いるにはどうすればよいかについてです。本文中にも登場したツヴェタン・トドロフによると、「ジャンルとは、つねに他の隣接ジャンルとの差異によって定義されるもの」です。この考えに則すると、ロマン主義とリアリズムは両立しえないことになります。しかし、『フランケンシュタイン』はその両方の要素を併せ持つものと今回定義されました。今回の定義から一般化すると、反発するジャンルでも両立し得ると言うことができます。また、1つの作品に含まれるジャンルは1つではないことも『フランケンシュタイン』の例からわかります。さらに、『フランケンシュタイン』に新たな包括的なジャンルを付与することもできると考えられます。このように考えていくことで、ジャンルそのものの発展へ繋がっていくのではないか。今回はこのように結論付けました。

ジャンルを批評理論として用いることができるのか、みなさんはどうお考えになりますか?

「読者反応批評」

読者反応批評は1970年代頃に登場し、テクストが読者の心にどのように働きかけるかという問題に焦点を置いた理論です。従来、読者は作者がテクストに埋め込んだものを受動的に受け取る者として捉えられていました。しかしこの理論では、テクストに活発に関わりテクストとの共同作業によって意味を生産する存在として再定義されています。これを見ると、読者がどんな読み方をしてもいいと言っているように見えますが、実際にはそうではありません。この理論では、一定の水準に達した資質の持ち主(文学を読んだ経験が豊富な読者や作品に想定されているような読者)のみが読者なのです。また、この理論の対象となるテクストは、読者を刺激し挑発するようなものが想定されています。『フランケンシュタイン』においては、作中の「読む」という行為や手紙という形式、語りの入れ子構造といった点が読者反応批評的に解釈できます。

この「一定の水準に達した資質の持ち主のみが読者である」という定義には疑問を感じますが、この理論が誕生した当時は小説はハイカルチャーであり、それを研究できるのは大学に行ける上流階級の人のみだったため、それに当てはまるような人しか想定されていなかった、と考えられます。

この理論に関してはすでに上がっている記事「第9回 読書ってどうなってるの?」において、同様の理論を提示したヴォルフガング・イーザーの文章について記載がありますので、興味のある方はぜひそちらも見てみてください。

「文体論的批評」

文体論とは、テクストにおける言語学的要素、つまり単語や語法などに着目し、作者がいかにしてそれらを用いているかを科学的に分析する研究方法です。

この理論を用いて『フランケンシュタイン』を分析すると、長く複雑な文や曖昧な内容からはフランケンシュタインの人物的特徴が読み取れ、そこから逸脱した短い文や単純な構造によってより出来事への緊張感が高まるように描かれています。

4限 ジャック・デリダ『根源の彼方に―グラマトロジーについて』

4限は中村さんの担当で、ジャック・デリダの『根源の彼方に―グラマトロジーについて』を読みました。

デリダは、アルジェリア出身のフランスの哲学者で、「脱構築」という概念を提唱しました。今回読んだ文章はその概念を用いたものです。では、文章の内容に入る前に、脱構築とはどういう概念か確認しましょう。

脱構築とは、あるテクストからその中心的思想とそれと対立するような思想を同時に取り出し、後者によって前者を、あるいはその思想総体そのものを相対化する方法です。もっと砕けたように言うと、Aという思想とBという思想が対立していると考えられるとき、Aの中にBの要素を見出す、もしくはその対立の背景を見ることによって、AとBが対立していないことを示す方法です。今回の文章は脱構築の具体例なので、以下でさらに詳しく見ていきましょう。

デリダは本文でロゴス中心主義があらゆる世界を支配していると述べています。ロゴス中心主義とは、ロゴス(真理)は事象の背後に存在する、つまり言葉よりも先に意味があったという考え方です。デリダはこの考え方を表音文字の形而上学であり、強力な民族中心主義であると言います。この考えの支配が表れているものとして、文字言語(エクリチュール)の概念、形而上学(哲学)の歴史、科学の概念の3つが挙げられています。ロゴス中心主義では文字言語よりも音声言語の方がよりロゴスが伝わりやすいと考えられており、文字言語は単に音声言語を文字化したものであるとされていました。これは文字言語が音声言語、ひいてはロゴス中心主義に支配されていると言い換えることができます。また、ロゴス中心主義とは形而上学における考え方です。そのため、形而上学を支配しているとも言えるでしょう。さらに、科学は非音声的な表記を行っているため、一見するとロゴス中心主義に対抗しているように感じますが、実際は形而上学と同様のロゴス中心主義から成り立っています。つまり、科学もロゴス中心主義に支配されているのです。

デリダはこれらを指摘し、中でも文字言語と音声言語の関係に関して、グラマトロジーという概念を提示しました。これは、音声言語の文字化が文字言語なのではなく、思考を文字化したものが文字言語なのだということを意味します。これはアルファベットと漢字について考えてみるとより理解しやすくなると思います。アルファベットは表音文字、つまり音声を文字化したものです。しかし、漢字は表意文字、つまり意味を文字化したものです。こう考えると、音声言語→文字言語という先後関係が必ずしも正しいわけではないことがわかります。これが、音声言語→文字言語の脱構築です。

脱構築という概念について、少しはご理解いただけたでしょうか?この概念はこれ以降の授業で扱う理論の成立のきっかけになっています。なかなかに複雑な概念なので上手く説明ができたか不安ですが、なんとなくでも脱構築について知っていただけたら嬉しいです。

それでは、今回のブログはこのあたりで。みなさま、また他の記事でお会いしましょう!

10期生第14回 生の権力はいかにしてできたのか

10期生春学期第14回のブログを担当します。中村美咲子です。

今回は、山崎さんに、廣野由美子さんの『批評理論入門』から「ポストコロニアル批評」と「新歴史主義」について、秋尾さんに、ミシェル・フーコーの『性の歴史Ⅰ 知への意志』について、それぞれ発表をしてもらいました。

『批評理論入門』は、それぞれの理論についての説明があり、その理論を使って『フランケンシュタイン』を分析していました。

ポストコロニアル批評

ポストコロニアル批評は、西洋によって植民地化された第三世界の文学作品を扱う批評で、植民地化された国や文化圏から生まれた文学作品を研究する方法と、帝国主義文化圏出身の作家が書いた作品に植民地がいかに描かれているか分析する方法に分けられます。

『フランケンシュタイン』は、帝国主義文化圏から生まれた文学作品です。この作品でポストコロニアル批評を実践すると、オリエンタリズム的描写や帝国主義的な描写が描かれているといいます。それは、トルコ人親子や怪物に関する描写から見られるそうです。トルコ人親子は民族的な偏見のために無実の罪を着せられた犠牲者と、狡猾な忘恩者の2つの側面を持つ存在として描かれます。しかし、娘のサフィーはキリスト教徒であることから肯定的に描かれていると考えられます。

また黄色人種のような見た目の怪物が言葉を学ぶ場面では、アジア人の劣性とヨーロッパ人の先天的・文化的優性が対比されます。このようにいくつかの点で、『フランケンシュタイン』はオリエンタリズム的で、帝国主義的だといえます。

発表の中で、『ピーターパン』においても、インディアンを描いた場面で偏見の含まれた描写があることを知りました。

新歴史主義

新歴史主義は、ニュー・クリティシズムに対抗するものとして誕生しました。また、既存の歴史主義は、出来事を重視して歴史を文学作品の「背景」であるとみなしますが、新歴史主義は出来事としての歴史だけでなく社会学や文化人類学含めた「社会科学」という領域のテクストと文学テクストの境界を取り払って分析を行います。

『フランケンシュタイン』においては、怪物の創造に関して、新歴史主義で分析を行っています。そして、歴史資料の中で、人造人間製作や自然科学といった点で影響を受けていることを指摘しています。

性の歴史Ⅰ 知への意志

今回の授業では、この文章の一部分のみを取り上げて発表をしてもらいました。

その中で、主張されていたことは、現代における権力のメカニズムが、生の権力であることとそれが性と結びついて性の政治的な文脈を生み出しているということです。

まず告白という行為が、性に関する言説を産出していることがいわれています。そして、「性的欲望」によって、その告白が科学と結びつけられたとされます。そしてこの「性的欲望」はわれわれの主体と形成するものなのです。

次にこの性的欲望は権力において、道具として形成されます。それは性的欲望の装置であり、家族という形態の中に組み込まれて発展します。

最後に、「死」の権利が「生権力」に移行していったことがいえます。つまり、政治が生を管理することに興味をもちはじめたのです。そしてそれは、資本主義の発達に不可欠なものでした。さらに、性的欲望が身体の規律や人口の管理に結びつくことから重要視されます。このように生を管理する政治がおこなわれ、性的欲望と結びついているのだといいます。

若干飛び飛びの内容になってしまいましたが、発表の内容は以上です。

更新が遅くなってしまいましたが、今回が春学期の最終回でした。この半年間たくさんのことを学び、ゼミ生同士もたくさん交流ができたので、秋学期も多くのことを学べるようにがんばりたいと思います。

最後までお読みくださりありがとうございました。

10期生第11回 セックスは構築物である

10期生春学期第11回のブログを担当します。中村美咲子です。

今回の3限では、廣野由美子さんの『批評理論入門』から「脱構築批評」と「精神分析批評」についてダンドレアさんに発表してもらいました。

4限では、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』の一部分を秋尾さんに発表してもらいました。

脱構築批評

まず、脱構築批評とは、ジャック・デリダの提唱した理論で、テクストが矛盾や不一致を内包していることを示し、その矛盾がテクストの意味を決定不可能にすることを証明しようとしました。つまり、テクストに焦点をおいて、そこに見られる二項対立を解体するのです。

『フランケンシュタイン』においては、死体から生命を創造する試みによって多くの犠牲をもたらします。そこで、生と死、美と醜、光と闇といった二項対立が崩壊し、境界が曖昧になります。また、フランケンシュタインと怪物の関係の優劣や主従階層が逆転する様子が描かれていると指摘しています。

この文章において、脱構築の手法については詳しく書かれているものの、二項対立が崩壊したことによって何が起きているのかという解釈を導くことに触れられていなかった点が問題であると議論しました。

精神分析批評

精神分析批評については、フロイトの理論、ユングの理論、神話批評の3つを取り上げていました。まず、フロイトの理論については、自我やイド、スーパーエゴが『フランケンシュタイン』の分析を応用できるとして、エディプス・コンプレックスとファミリー・ロマンスの影響を指摘しています。エディプス・コンプレックスは、幼い男児が母親に対して抑圧された欲望を持つというもので、ヴィクターのもつこの欲望が怪物として具現化されたと解釈しています。また、親から十分な愛情を受けなかった子供が創作を通じて欲望を満たすことを「神経症患者のファミリー・ロマンス」と名づけたのですが、この『フランケンシュタイン』もファミリー・ロマンスを反映させた作品だといっています。

次にユングの理論では、集団的無意識によって継承された心象=「原型」が夢や文学作品にあらわれるといいます。『フランケンシュタイン』にみられる「原型」のパターンとして、「影」「ペルソナ」「アニマ」を挙げている。「影」は、フランケンシュタインにおける怪物で、彼の抑圧された本能や汚れの象徴とされます。「ペルソナ」はフランケンシュタインが良家の息子であるということで、その内部の抑圧された本能や欲望が怪物としてあらわれたのです。「アニマ」はフランケンシュタインにとってのエリザベスで、彼女が怪物によって殺されてしまうことで、人格の統一を失い、自身の影との対決を決意するのです。

神話批評では、個人を超えた人間経験の原型を文学作品に探し当てる批評法です。『フランケンシュタイン』においては、フランケンシュタインが神話のプロメテウスのように、人類に恩恵を与える英雄であることがうかがえます。また、フランケンシュタインは英雄としての試練に失敗し、怪物という災いをもたらします。この災いから、英雄の死をもって国を救うというモチーフを、フランケンシュタインと怪物の死からみることができます。

ジェンダー・トラブル

ここでは、セックスとジェンダーの概念の捉え方について、セックスからジェンダーが規定されるのではなく、ジェンダーによって社会的にセックスが構築されていると主張されます。さらに、ジェンダーはセックスのように、固定化されたものではなく、身体が身に纏う文化的意味でこれも構築物だといいます。

この主張を踏まえて、現代の日本においては、セックスやジェンダーが構築物であるという認識は広まっていないだろうという意見がありました。この認識がより共有されることが重要であるが、メディアにおいてはあまり的を得た議論はされておらず、むしろ特定のマンガやアニメにおける表象の方が適切にこの主張が反映されているのではないかと話し合いがおこなわれました。

最後まで、お読みいただきありがとうございました。

10期生第4回 奇妙で信頼できない語り手

第4回のブログを担当します、中村美咲子です。

今回のゼミでは、ドイツの小説家、イェンゼンの『グラディーヴァ』について分析を行いました。

まず、『グラディーヴァ』のあらすじについて説明します。物語は、主人公のノルベルト・ハーノルトが若い娘の浮彫作品に惹きつけられて、「グラディーヴァ」という名前をつけるシーンからはじまります。その後大まかに第一の夢、イタリア旅行、第二の夢、ツォーエと結ばれるという流れに分けられます。

第一の夢では、グラディーヴァの妄想を繰り返すハーノルトが、古代ポンペイの夢を見ます。その中で、グラディーヴァを見つけ彼女の死を目の当たりにします。

夢を見たあと、主人公はイタリア旅行に出発します。そこでは、グラディーヴァによく似た女性ツォーエに出会いますが、ハーノルトはツォーエをグラディーヴァと同一人物だと思いこみながら関係を続けます。

第二の夢では、夢の中の「どこか太陽の下」でグラディーヴァと出会います。そこで彼女は、蜥蜴を捕まえようとしています。

夢からさめたハーノルトは、現実でグラディーヴァに会いにいきます。そこで彼女の肌に触れてしまい生きた人間であることに気づきます。さらには、ツォーエがハーノルトの近所に住んでいる幼いころの友人であることを知らされます。幼いころの恋心を思いだしたハーノルトがツォーエと結ばれて物語を終えます。

ゼミの前半では、オーストリアの神経科医で精神分析の創始者であるフロイトが行った「グラディーヴァ」の夢解釈についての発表を山崎さんがしてくれました。

フロイトは詩人が夢を通して主人公の心の状態を描こうとすることから、夢を研究する意義があると述べています。さらに、無意識と抑圧という言葉を用いて、幼年期の印象が無意識的なもので意識に到達できなかった結果妄想や空想が出現しているといいます。

そして、第一の夢は、ツォーエへの恋着がポンペイ没落とグラディーヴァ喪失へと作り替えられたものであるとしています。次に第二の夢については、夢を見る前に起こった複数の出来事を取り込んでおりハーノルトの無意識下で知っていることや気づいていることが夢として現われているのだそうです。

フロイトはツォーエについて、彼女はハーノルトの病的な状態を治療する存在として扱っています。その治療は、本質的に精神医学と根底を同じにしていることを指摘し、詩人も医者と同様に無意識の法則を知っているためにこのような小説がつくられたのだとしています。

わたしたちは、このフロイトによる批評について検討したのちに、この小説についての語りに奇妙な点を2つ見つけました。

1つは、ツォーエとグラディーヴァを同一人物であることを強調するように物語が進行していく点です。そしてもう1つは、ハーノルトの行動について評価をするような語りが行われていく点です。

なぜこのような語りになっているのかについて検討を行い、わたしたちは、この語り手はハーノルト自身なのではないかという結論に達しました。ただし、彼が後生になって行った自伝的な語りだと考えられます。この結論であれば、妄想の影響でツォーエとグラディーヴァを同一視していたハーノルト自身の語りであるから、二人を同一人物とする語りが行われているのだといえます。また、ハーノルトの行動を評価する語りについても、後生の彼が、若いころの自分の行動について教育的な語りを行っていると考えられます。

この結論を補う発見として、ハーノルトの心的描写が複数あるにも関わらず、ツォーエについてはたった1箇所のみしか心的描写が行われていないということがあげられます。これは、語り手がハーノルト自身であること、またすべてを知っていてそれを語りに反映させないことでトリックを見せないようにするためだったと考えると自然に思えます。

最後までお読みくださりありがとうございました。

10期生 第3回 虚構世界の秩序とそこで起こること

秋学期第3回のブログを担当します。中村美咲子です。

長い夏休みも終わりついに秋学期がはじまって1ヶ月ほど経過しました。今学期はベトナムからの留学生のフエンさんともゼミの活動が行えるので、ますますよいゼミ活動になっていけたらと思います。

今週取り上げたのは、ジョルジュ・アガンベンの『ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生』です。この本では、ホモ・サケルについてローマ古法に存在する殺害可能で犠牲化不可能な存在であるとしています。つまり法律上では、彼を殺しても裁くことができないのです。これまでのフーコーなどによる生政治は、近代に特有なものだとされていましたが、アガンベンはホモ・サケルが現代にも適用されることから、この「生政治」の在り方が古代ローマから続くものであると主張しています。

この『ホモ・サケル』について理解を深めたあと、われわれはスティーブン・スピルバーグ監督の映画『レディ・プレイヤー1』の分析を行いました。

この作品では世界的に普及したVRオアシスの設立者であるジェームス・ハリデーが死後、オアシス内に3つの鍵を残したといいます。その鍵を手に入れたものはオアシスの管理権限を得ることができるため多くのプレイヤーが鍵を求めて争いをおこなっています。そして、この映画は主人公のウェイドが鍵を探す冒険の物語だということができます。

現実の世界とオアシスの世界が存在していることから、『レディ・プレイヤー1』におけるオアシスがどのような世界なのかホモ・サケルの理論を踏まえて検討しました。最終的に、オアシスでの殺害行為は、アバターを消すことしかできずそれを咎める法が存在していないことから、オアシスはホモ・サケルが存在しない世界だと結論づけました。

さて、この『レディ・プレイヤー1』については第5回の議論でも取り上げることになりました。今週の議論では、作品の構造について検討する時間が長くなってしまい内容の分析の時間をあまり取れなかったため、第5回はもっとおもしろい議論ができるよう精進していきたいです。最後までお読みいただきありがとうございました。

2025年度問題分析ゼミナール入室試験要項

本ゼミへの入室を希望する学生は、情報コミュニケーション学部の事務室の指示に従い、以下の書類を提出してください。

1. レポート: 以下の内容について論じること。

1) 志望理由 

2)ゼミで取り組みたいこと(対象・作品があれば,それも示すこと)。

書式:WordもしくはPDF、A4横書き、字数2,000字前後

2. エントリーシート: 以下のファイルをダウンロードし、必要事項を記入すること。

9期生 第12回 可能性のある大人になりたい

みなさんお久しぶりでございます。9期生の高山です!

実は私はこれが今学期最初で最後のブログ担当回です。

学期始めに、授業内での発表とブログ担当の回数がゼミのメンバー内である程度平等になるようにしたはずだったのですが、色々変更などがあった結果、いつの間にかブログの担当は1回分になっていました。

これでよかったのか…?と後になって思ったのですが、発表は3回分担当していて、昨年度の研究発表会のブログも書いたのでそれでトントンということであってほしいです。

 

 

さて、今回扱ったのは『映画で入門 カルチュラルスタディーズ』の第3章 子ども でした。

この章で筆者が取り上げている映画は『亀も空を飛ぶ』です。

『亀も空を飛ぶ』は、戦争と民族迫害によって早く成長せざるを得なかった少年たちを描いた作品で、筆者は〈空〉〈戦争〉〈目〉〈四肢〉〈偶像〉の観点から、子どもにはまなざしとか身体の力が備わっており、可能性のある存在だと述べています。

 

具体的には、

登場人物が眼鏡をかけていることや登場人物の予知能力、登場人物の目が悪いことへの言及から、子どもの目の方が大人より真実を見通していることが表されている

といった具合です。

 

この作品では、夢や幻想は不幸の予兆ではありつつも、想像することや望むことの権利が示されており、子どもたちは憧れや夢を抱き続ける存在だそうです。

 

 

これを踏まえ、今回のゼミでは『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』の解釈を行いました。

メインの視聴者層である子どもだけでなく、大人が見てもおもしろい感動作ということで、他の授業でも取り上げられていた記憶があります。

 

あらすじとしては、

春日部に20世紀博という万博を模したテーマパーク(?)が作られ、20世紀博の創立者らの企みによって大人たちは大人であることをやめ、20世紀博の懐かしい世界に取り込まれてしまう。子どもたちも20世紀博の組織の隊員らによって捕まってしまうが、しんのすけは逃げ切り、家族の正気を取り戻し、20世紀博の創立者の計画を止める。それにより、日本中の人々は元に戻り、現実の21世紀を生きられるようになった。

といったところでしょうか。

 

この作品を〈子どもの可能性〉の観点から見ていきました。

作品の中盤までは、子ども化した大人たちがヒーローごっこをしていたり、しんちゃんたち子どもがバーにいたり、〈子ども=何にでもなれる存在〉として描かれていました。

 

しかし、最終的には大人の子ども性は否定され、消費社会で大人たちは生産性を持っていきていかなければならないという結末に至ります。

大人たちが子ども化していた時は可能性が開かれていましたが、元の世界に戻ったらその可能性は閉じられ、大人と子どもでお互いの可能性を束縛し合う関係構築をしていかなければならない、実際には何にもなれないというバッドエンド…

かと思われたのですが、

そもそも〈子ども=何にでもなれる存在〉ということ自体が子どもにとっての幻想・偶像だったのではないでしょうか。

 

大人たちはこの幻想・偶像を破壊することができませんでしたが、子どもたちは自身で破壊します。

これは、何にもなれなかったという後悔のない今現在の子どもにしかできないことだったのです。

つまり、【子どもには幻想・偶像を破壊できるという可能性がある】ということを描いた作品だという結論に至りました。

 

一瞬、子どもは結局何にもなれない、可能性はないという暗い結論にたどり着きそうになりましたが、なんとか回避することができました。

 

 

実際、私はバイト先で小学生と毎週話しているのですが、子どもには可能性や選択肢がたくさんあるなぁと感じたりします。

自分自身に関して言えば、成人はしていてもまだ学生だし、実家暮らしで親に頼っている部分が多いし、なんとなくまだ子どもの意識がありつつ、早く大人になりたいというか自立したい気持ちもあります。就職したら大人だという自意識がはっきり芽生えるのでしょうか…。

何にせよ、大人になっても可能性を捨てずに選択肢を増やしていく人生を送りたいですね

 

では、おそらく秋学期にまたお会いしましょう~

お読みいただきありがとうございました!

9期生 第13回 「自然すぎるもの」の隠され方を見破ろう

こんにちは!今回のブログを担当する白井翔大です。今回は、内田樹『映画の構造分析』第一章 抑圧と分析的知性でした。

キーワード
抑圧、欲望、ラカン、フロイト

大論点「抑圧されたものとは、作品にどのような要素をもたらすのか」
→できるだけ多様な次なる解釈の起点となり得るような解釈を生み出すきっかけ

中論点1 抑圧されたものとは?
→意味はないもの。

 小論点1 どのようなものか?
 →自然すぎるところに生まれるもの。
 論拠
 ・物語の微妙な仕方での破綻の中にある。
 ・その中に意外なものを探そうとするが、その正体は「主体が期待していたものではない」

 小論点2 抑圧されたものに重要なことは何か?
 →それが何であるかより、どのように隠されているのかが重要である。
 論拠
 ・かくれんぼのように、その中身より(何が正体かより)、隠され方を見破ることに意義がある。

中論点2 抑圧されたものはどのように隠されているのか?
→手紙という記号に変えられることによって表されている。
論拠
エドガー・アラン・ポー『盗まれた手紙』の分析
手紙を持つと、マヒ状態になり、身動きが取れなくなる。

 小論点1 抑圧されたものはなぜ見えないのか
 →知りたくないという欲望をもつ私たちは「見落とそうと」するから
 論拠
 マクガフィンの機能を使う。
 ヒッチコックによると、「機能する無意味」
 「機能する無意味」…物語を起動させる力を持つ。=終わりなき欲望へ持ち込む。

 小論点2 どうすれば気づくことができるのか
 →分析者として、「パスする」立場につくことで可能になる。
 論拠
 ・分析者と患者の間に成立する「転移」と同じ形
 ・「第三の位置」に身を置くことによって可能=「手紙」の持つ能力を知っていることが条件。

しかし、構造分析であるにもかかわらず、どこに構造があるのか明確になっていなかったので、ゼミ内で整理しました。

ラカンによると、物語の中で、同型的な場面が2回繰り返されるらしく、「原場面」と「第二の場面」と名づけています。この二つの場面では相似的な行動をとる三人の人物が登場します。そして、三人の登場人物のそれぞれの「視線」によって特徴づけられています。

①「何も見ていない視線」

②「第一の視線が何も見てないことを見て、自分が隠しているものはそこから見えないと思い込んでいる視線」

③「さきの二つの視線からは隠されているものが、それを略取しようと望むものにはむき出しのままに放置されているのを知っている視線」

そして、三人の視線の先にあるものが「マクガフィン」です。

「マクガフィン」…小説や映画などのフィクション作品におけるプロット・デバイスの一つであり、登場人物への動機付けや話を進めるために用いられる作劇上の概念のこと。作中人物にとって重要でありドラマもそれをキーアイテムとして進行するが、物語の成立を目的とするならそれ自体が何であるかは重要ではなく代替可能ですらあるものを指す。(Wikipedia1

これらを『盗まれた手紙』に当てはめてみると、

作品名マクガフィン①の視線②の視線③の視線
『盗まれた手紙』手紙王様、警察王妃、大臣大臣、デュパン

本書では、『盗まれた手紙』以外にも触れていました。(ここは時間が足らず、大雑把な把握になってしまいました。)

作品名マクガフィン①の視線②の視線③の視線
ヒッチコック『鳥』鳥(母なる超自我)主人公、母男(ミッチ)いない
ヒッチコック『北北西に進路を取れ』架空のスパイの名前(カプラン)主人公迫ってくる敵教授

応用

今回の理論を踏まえて、ジョーダン・ピール『Us』(2019年)を検討しました。

作品名マクガフィン①の視線②の視線③の視線
『Us』アメリカ人であること殺された人々主人公たち分身

この映画は、「アメリカ人であることに目を背けていた主人公たちが、自分たちの分身にアメリカ人であることを見せつけられて、アメリカという国に絶望し、メキシコに逃げる映画」と結論づけました。

分身がパスすることで、主人公たちが見ようとしなかった自然すぎるもの・抑圧されたもの(アメリカ人であること)に気づかされてしまったということです。

おそらく自分の理解不足なのですが、『Us』でラカンのいう二つの場面に分けたかは不明です。

ただ今回の考え方は、どのような作品に当てはめても、応用できると考えられるので、構造があったということだと思います。

雑記
ここからは雑談です。
この前池袋で飲んだのですが、その後バッティングセンターに行きました。
バッティングセンターの場所が、映画館(グランドシネマサンシャイン池袋、おすすめです)の上にあったことにも驚いていたのですが、久しぶりにバットを振っていて、楽しいと感じる自分にも驚きました。子どものころを思い出してなのか、純粋に体を動かすのが楽しかったのか、それとも酔っていたからなのか。いきなり60球を打ち込んでかなり筋肉痛だったけれども、楽しいのはたしかでした。

それで、バッティングセンターにハマりかけています。地元にもバッティングセンターがあって、200円で20球以上打てるコスパの良さに感激しています。池袋は1100円で60球だったので。

自分の地元は、世界農業遺産に認定されるぐらいには田舎な要素を持っているのですが、都会(台場とか、みなとみらいとか、海浜幕張のような場所)に魅かれる自分が地元に見落としていた部分があったような気がして、なんだか嬉しい気分です。

そう考えると、新しいことや普段やってないことをやってみるのは面白いなと改めて感じました。
自分は最近ライブに行くことにハマっていて、今度UNISON SQUARE GARDENとクリープハイプの対バンに行く予定です。それで、普段クリープハイプを聴くことは『栞』を除いて、全くないのですが、ライブに向けて聴いてみるとハマれる曲があることに気づきます。そして、それと同時に、普段聴いているアーティストの良さにも気づかされます。

つまり何が言いたいかというと、何か新しいことをやってみると、その面白さや奥深さを実感するのはもちろんですが、既に周囲にあるものであっても見え方が変化するかもしれないということです。

何か一つを信じていたいような気持ちもあるけれども、色々と知った方が、もっと面白いのかなぁと思ってます。それが原因で、自分は自分の軸がはっきりしてないような気持ちに陥るのかもしれませんが。

とにかく今学期も終わり、レポートも書かないといけないので、バッティングセンターやライブでリフレッシュしつつ、書き上げなければと思います。
読んでいただきありがとうございました!

  1. ウィキペディア(Wikipedia)『マクガフィン』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%82%AC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3 ↩︎