4年ゼミ 第11回『Film art』よりミザンセン後半

遅くなってしまい申し訳ございません。今回は、先週に引き続き大きくて分厚い『Film art』よりミザンセンの章を、後半部のみ扱っていきました。
先週で一通りミザンセンの種類を把握しましたが、今回はそれに加え空間と時間に関するミザンセンと、最後に総集として『荒武者キートン』という映画を用いながら、効果的なミザンセンとはどのように扱われているのかをさらっていきました。

ミザンセンには空間的、時間的な要因が複数存在しており、これが観客に期待をもたらせ、映像の見方を方向付けます。映像は平面ですが、照明や色、動きなどによって、それを立体的、空間があるように見せることができます。色のコントラスト、構図のバランス、奥行きの手がかりといったことがキーワードになります。

時間においては、映画のリズムに関して説明されていました。映画のリズムはビート、ペース、アクセントのパターンがかかわっており、セッティングを駆使して観客の見る方向や時間的な流れを誘導することもできるそうです。

さて、荒武者キートンですが、増尾の発言から、論文に書かれているものとは別のミザンセンを発見する流れになりました。メーキャップに関しては、キートンが以上に顔が白いこと、煤のついた状態のことについて触れました。ライティングに関しては、論文で言われていた最初の決闘のシーンを精査しました。ほかの場面とは違ってキートンの住む家が映されるときのみ青白い光が使われていること、シルエットを映すときの照明の置き方などです。また、ディープスペースに関して、滝のシーンを意見をすり合わせながら理解していきました。キートンが滝の出現によって「後景の後景」に押しやられるため、ディープスペースができ、近くにいるのに遠くに感じるという錯覚を利用しているとのことでした。

映画批評は、映像の解釈があってこそのものだと思います。作品批評をする場合、ミザンセンの理論を効果的に使えるといいなと思います。

(文:大下)

4年ゼミ 第9回『地獄の黙示録』

こんばんは、大下です。今回は『Film Analysis 映画分析入門』から第14章「政治的批評」を取り扱いました。
この本自体、日本社会に浸っていればあまり鋭く聞かれない「右か、左か」の前提に沿って話をしているらしく、特にこの章は露骨にそれが表れている部分でした。私は公民の授業でリベラルがなんだ、保守がなんだに苦しめられた経験があり、だいぶ大人になったいまでも映画を見てまとめるのに苦労しました。

ブログ第9回『地獄の黙示録』

昨年度の先輩方とは違い、私たちは前年にコンラッドの『闇の奥』を読了しており、話の展開は視聴前から理解していました。また、『闇の奥』を学習する際参考にした田尻芳樹さんの論文も思い出しながら議論しました。田尻さんの論文では、マーロウが最後カーツと出会い、彼の死を見届けることで空虚に出会い、ジャングルを旅して得るものは自己同一性の崩壊とそれによる自己認識の獲得、空虚な中心への旅の物語が、脱構築を先駆的に試みている、とのことが論じられていました。今回の論文ではそうした脱構築的な解釈は一切なく、「右か、左か」「可か、不可か」の二択で議論が展開しているように感じました。二人とも「そうじゃない」と粘り、「右か左、どちらだと思いますか」という先生の問いかけにも「どちらでもありません」と生意気に結論付けました。

この批評は映画作品が一つの政治扇動に利用されているという発想からきています。マスメディアを専攻する学生が多い学部であるゆえに、こうした批評には真摯に向き合いたいですね。たしかに当時のアメリカとしては保守擁護の必要性があり、見方によっては保守的に見えるような描き方があったのかもしれません。けれども、私たちには原作の意図を完全になし崩しにし、見え透いた保守への扇動をしていたようには見えませんでした。人々の争いは右だ左だと言い合っているばかりでは解決しません。別の道を導き出すのも一つの手ではないかと私は思います。まあお金が解決させてくれないんでしょうけど。

(文:大下)