夏合宿 2日目

こんにちは!
横野です!

ブログ溜めすぎて今あり得ないほど反省しています…。頑張ろう…。

さて、夏合宿二日目ですが、ついに!内藤先生がいらっしゃいました!救世主現る!

前日まで3期生5人で議論を重ねていましたが、やはり前期で後回しにするほど皆で悩み抜いた疑問点を全て解決は出来ず…。

内藤先生に前日までの議論内容を報告し、まだ解決していない疑問点を伝えアドバイスを頂きながら再議論しました。
そのおかげで何とか前期の積み残しはほぼ解消しました。ただ、このままではまた忘れてしまうので、更に理解を深めたい新歴史主義などは後期に回すことに。

そして、ここで2期生の方々もいらっしゃいました!清里セミナーハウスに5人きりで寂しく思っていたので、少し嬉しく思いつつお昼ご飯を食べることに。

その後、後期に行うワークショップについてどのように考察を進めるかを話し合いました。
終わったあとは皆くたくたでしたね…(笑)

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皆真剣に話し合っています。

そして、お風呂に入ってゆっくりしたあと、合宿係の提中さんと相田くんのアイディアで花火をやることに!(二人とも色々と手続きや準備ありがとうございました。)

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線香花火をしている図。

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何で飛んだのかは覚えてませんが、皆楽しくジャンプしています(笑)

そして花火を楽しんだ後は、お楽しみの(?)懇親会!

1つの部屋で皆楽しくお菓子やジュースを飲みながら人狼やインディアンポーカー(知らない方は調べてみてくださいね)をして楽しみました。

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3期生の男子2人組。女子が多い内藤ゼミでも、負けることなく個性を発揮しています!

次の日も朝からやることがたくさんあるのですが、皆テンションが上がって少しだけ夜更かしをしてしまいました(笑)

そんなこんなで、2日目は無事に終わり。
3日目はいよいよ論文の構想発表。皆どきどきしながら眠りについたのでした…。

夏合宿 1日目

 お久しぶりです。内藤ゼミ3年の前田です。
 来る8月28日(日)はいよいよ合宿当日、というわけで清里セミナーハウスへ行ってきました! 都会の喧騒を離れた静かな山奥にたたずむその場所は、意外ときれいな場所でみんなテンションがあがりました。大学の厚生施設って、意外と力が入っているんですね。

 さて、合宿中にやることはたくさんあります。期末論文のアウトラインの共有・発表や、前期授業の振り返り、今後の見通しを立てるなどを、この合計4日間で消化しなければなりません。
 とはいえ、実は各々のスケジュールの都合上、初日は我々3年生しかいません。よって全体で話し合う内容は後回しにして、まずは前期ゼミ議論の積み残しを消化することにしました。今まで様々な批評理論についての議論を課せられてきたのですが、時間内に終わらなかったものも数知れず……というわけで、それらを完了させることにしました。ただ時の流れとは恐ろしいもので、そもそも何が終わらなかったかを誰も覚えていないという異常事態が発生しました。なんとか思い出そうと各自の資料を掘り返したり、その整理に思いのほか時間がかかったりで、大騒ぎでした。でもそのことがきっかけで、授業資料をアーカイブ化するというアイデアがあがったので、まぁ結果オーライでしょう。その後のリマインド作業には、意外にもブログの記述が役に立ちました。初めてブログの意義を実感できた瞬間でした(笑)ようやく積み残した内容を思い出したのですが、当然それらは難物ばかり。みんなウンウン唸りながらも、ようやく消化し終えました。特に『新歴史主義』に手を焼かされた覚えがありますね。
 そして前期の内容に基づいて、後期の授業内容の計画を行いました。我々3年生はちょうど5人なので、それぞれの興味関心に基づいたトピックを一つずつチョイスして、詳細な内容については次の日に内藤先生の指示をあおぐことにしました。
 これにて合宿初日が終了しました。限られた時間で濃密な内容を話し合えたことによる充実感と、明日以降へのかすかな不安を残して、若人たちの夜は明けていくのでした……。

春学期第14回ゼミ

春学期第14回ゼミ(春学期最終)

秋学期が始まりましたね。課外授業、ゼミ合宿や夏季課題に追われていて、すっかり春学期最終ゼミのブログ更新を忘れていました相田です。そろそろ言い訳も見苦しいですが、秋学期はちゃんと更新できるよう、誠心誠意努力いたします。

今回の授業では、まず4限が「文体論的批評」、「透明な批評」の2点。5限は前回の授業で取り扱った「新歴史主義」について深めるため、ミシェル・フーコー著『知の考古学』を読み解きました。

4限では、まず「文体論的批評」についてから議論を行いました。「文体論的批評」は、テクストにおける言語学的要素に着目し、作者が文やテクスト全体の中で言葉や語法、文法などをいかに用いているか分析する批評理論になります。要は、作者がこの作品を描くにあたって用いた言語、並びに文法や語法、単語に意味を見出そうとする批評理論になります。
『フランケンシュタイン』でも、文が長く構造が複雑な部分や文が短く、簡潔な部分など、その場面に応じた文体、文章の区切りが見受けられます。しかし、私達が資料として読んできたのは和訳であり、また作者が前面に押し出されていることからもわかるように、少しこの理論が提唱されたのは古いようです。文章構造や単語の選択から何かを読み取る、批評することで作者の意図などを読み取るという意義は理解できたので、次の批評理論へと進みました。
「透明な批評」では、テクストを客体として見る批評を「不透明な批評」、作品世界と読者自身の世界の仕切りを外し、テクストの中に入り込んで論じる批評を「透明な批評」と分類する批評理論になります。個人的には、『フランケンシュタイン』においてほとんど登場しないヴィクターの弟、アーネスト・フランケンシュタインの今後や、怪物が黄色いと表現される背景を論じることに興味はありましたが、具体的な論証を得ることの難しさと、汎用性が高すぎることからもわかる通り、この批評理論も提唱されたのは昔のことのようです。

5限では、4限の議論とは桁違いに難解かつ白熱した議論になりました。今回の議題は前回議論した「新歴史主義」の応用です。
新歴史主義が、従来の考古学といった歴史主義で言うところの歴史が絶対の基準であるという点を崩し、文学や自然科学も歴史足りえるということを伝えたいのかなぁという、漠然とした考えでしか理解がいかないように感じました。
議論後半、歴史は「一枚一枚大きさや味や色が異なるチップスターみたいなもの」という突拍子もない意見が出、場を沸かせましたが、よく考えるとそれが一番わかりやすい表現なのではないかとなりました。「歴史」というものは、時間という概念での一貫性のあるものではなく、何かしらの出来事の階層のつながりではないかというのを示すために、実際チップスターというのは言い得て妙ではないでしょうか。
こんなにも迷走した議論でしたが、まあ、決着を見ることはなく、合宿へ持ち込みとなるのでした…

ゼミ合宿の様子もブログとして発表しますので、こうご期待です!!

課外授業:目黒シネマインタビュー

こんにちは!執筆担当の室です。
今回は、夏季休業中に行った課外授業についてのご報告です。

8月26日、目黒シネマを訪問し、支配人の宮久保さんにインタビューを行いました。

今回はインタビュー調査ということで、事前にゼミ生で質問事項を準備しました。
準備では、「人生班」「映画班」の二班に分かれ、それぞれ「宮久保さんご自身について」「目黒シネマについて」という観点から質問を考えました。

目黒シネマでは、上映作品に合わせてロビーで展示を行ったり、スタッフの皆さんでコスプレをするなど、独自の取り組みを多く行っています。
そういったユニークな取り組みに対する考え方や、その発想につながる宮久保さんご自身の考え方などを探りたいという思いから、質問を考えました。

大手のシネコンが多くなり、名画座は少なくなっていますが、目黒シネマは「シネコンとは違う映画館にする」という考えで、様々な取り組みを行っています。
また、目黒シネマの人気の裏には、地道な取り組みがあることもお話しいただきました。

宮久保さんによれば、今まで上映した映画のポスターをすべて保管してあるだけでなく、毎日映画に関する新聞記事を切り取り、保管しているそうです。
こうして、どの作品を上映しても、その作品に関連する展示ができるようにしているとのことでした。
一本一本の映画に対し寄り添っていくような目黒シネマの取り組みが、シネコンにはない魅力につながっているのだと感じました。

また、スタッフの意見を積極的に取り入れているということもお聞きしました。
宮久保さん一人で決めることはせず、アルバイトも含めたスタッフの意見も参考にしているそうです。
「頭は固くなるものだから」とおっしゃる宮久保さんの言葉は、これから論文を書いていく中で、心にとどめておきたいと思いました。

当日は映写室も案内していただき、予告編を実際にフィルム上映していただくという、貴重な体験もさせていただきました。
宮久保さんの朗らかな人柄にも触れることができ、とても楽しい時間になりました。

宮久保さん、スタッフの皆さん、ありがとうございました!

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春学期第13回ゼミ

どうも。このページでは初、通算三回目の投稿となる今回のブログ担当・前田です。いよいよ春学期ラストも近い第13回目では「ポストコロニアル批評」「新歴史主義」「オリエンタリズム」を取り扱いました。

「ポストコロニアル批評」とは文学作品を対象とする第三世界の分化研究を指します。『フランケンシュタイン』ではトルコ人や東洋の言語など研究に最適な要素が多数登場し、それらはしばしば西洋的要素と対比されます。例えばトルコ人の父娘が作中に出てきますが、父親は偏見をもって書かれているのに対し娘のサフィーはキリスト教徒という西洋的価値が付加されているためか肯定的に描かれています。このような西洋と東洋の対比の話は後述する「オリエンタリズム」と大きく関わってきます。

「新歴史主義」とは、歴史主義が発生してからニュー・クリティシズム、読者反応批評、ポスト構造主義へ至る道筋の中でいずれも作品の歴史的背景が無視されているという点を受けて生じたものです。歴史を従来の歴史主義的に考えると、歴史を認識するうえで歴史書や科学書などの学術的なテクストのみが信頼におけるものとされ、それらに記された出来事が重視されてきました。だが新歴史主義では歴史をより広範なものと捉え、文学テクストも歴史の判断材料とすることで一種の社会科学として位置付けています。こうすることで文学テクストと他の領域のテクストの境界を取り払うという見方も可能となるわけです。

「オリエンタリズム」とはすなわちオリエント(東洋)と西洋とのあいだに設けられたものを論じる思想様式を指しますが、この「オリエント」という概念は東洋そのものから発生したものではなく、実は西洋人によって作り出されたものなのです。さらに言えば、ヨーロッパ文化のアイデンティティ確立のためにオリエンタリズムを論じる必要があり、そのためにオリエントという概念が作られたと言えます。つまり言葉とイデオロギーが先にあってその後にイメージが作られるわけです。この関係性はセックスとジェンダーの関係とほとんど同じですね。そしてオリエントとオリエンタリズムを分ける言説を分析し、対応関係を論じないのが最大の特徴です。

春学期のゼミ議論も残すところあと一回となりました。出来る限り負債を合宿に持ち込まないようにもうひと踏ん張りです! ではまた次回でお会いしましょう。

いよいよ再始動

内藤ゼミ・文学理論研究ブログが装いを新たに再始動しました!
長らくお待たせしてしまい申し訳ございません

これを機に心機一転しこれからも各自の研究に取り組んでいくつもりです。
これからもご愛読の程をよろしくお願いいたします。

春期第12回ゼミ

お久しぶりです。ブログ担当の室です。

今回は『批評理論入門』からⅡ-8「マルクス主義批評」・Ⅱ-9「文化批評」、カール・マルクス『経済学批判』を扱いました。今回は4・5限で分けずに、分野ごとに議論することになりました。

まずは「マルクス主義批評」から。

「マルクス主義批評」とは社会主義思想をベースとした批評理論で、文学テクストを「物」として扱う点が特徴です。この批評においては、文学作品はある歴史的時点に生じた「産物」であり、そのテクストの生産には政治的・社会的・経済的条件があるはずだと考えます。

ここで挙げられる「経済的条件」に関してですが、マルクス主義批評では思想よりも経済を重視します。K・マルクスは生産体制が思想に影響を与えていることを指摘しました。これまで思想と作品を結びつける動きはありましたが、思想の前の段階として生産体制が存在すると考え、その生産体制に着目し作品を読み解くのがこの批評理論です。

さて、マルクス主義批評的に『フランケンシュタイン』を読むと、実際の当時の状況と作品の記述にはいくつもの矛盾が見つかります。

『フランケンシュタイン』の物語が進行している時点は、フランス革命のさなかでした。しかし、作品内ではその150年前に起こった清教徒革命に関する記述は見られるものの、フランス革命については全く語られません。また、専制君主の典型であるチャールズ一世に対し同情的な様子が見られることも、自由思想のメアリとは本来相容れないものです。

怪物が何を表しているのかということも、マルクス主義批評的に読み解こうとすると、これまでの批評とはまた違った見方になります。怪物は、フランケンシュタインによって科学技術で作られ、凄まじい破壊力を持ち、創った人間の手にも負えない存在となりました。

この「破壊力」や「制御ができない存在」という点は、市民革命が呼び起こし制御ができなくなった「群衆の力」と取ることができます。また、科学技術から生まれ、「理解を超えた存在」としての怪物は、「産業技術」とも取ることができます。フランケンシュタインによって創られながらも、創った人間に逆らい手が負えなくなるという点では、支配者層が作り出した「労働者」の姿とも重なります。

このように、怪物はある立場の人にとっての、理解不能な恐ろしい存在を表したものと取ることができます。しかし、この作品における怪物は単に恐ろしい存在としてではなく、言葉を操り、哀れみの感情を抱かせるものとして描かれました。モンタークはこれについて、メアリが言葉を持たない労働者を、怪物を通して代弁しているのだと主張しています。

ここで、この後に続く「メアリは労働者階級への同情とフランス革命再来への恐怖というジレンマを抱えていた」という記述について、この「ジレンマ」というのが何か、ということが議論の中で疑問として上がりました。

結論としては、メアリが抱えていた「自由思想」としての立場と、「支配者層」としての立場のジレンマを指しているという意見で一致しました。

「労働者階級への同情」として言葉を持たない人々を代弁したのは、自由思想家としてのメアリです。ただし、メアリ自身は労働者階級ではなく、支配者層にあたる上流社会の人間です。そのため、フランス革命再来により特権が失われる恐怖を感じていたと指摘できるのではないか、という意見が出ました。チャールズ一世に同情の様子を見せたのは支配者層としての立場によるものだったと考えると、自由思想とは相容れないはずの姿勢をみせたことにも納得ができました。

その他、モンタークは「怪物創造のプロセスが省かれている点」、「産業社会が描かれていない点」を矛盾点として指摘しています。こういった描写がないことを、ゴシック文学として扱えば「憧れ」として説明することができますが、マルクス主義ではこれを批判し、この「矛盾点」を徹底的に読み込み、「歴史性」を見出そうとします。

現代的なものに対する直接的な描写が避けられたことで、怪物が現代的なものを一身に負って体現したために、怪物が真の怪物性を帯びたのだと『批評理論入門』の中ではまとめられました。

怪物以外に不安・恐怖の対象が作品内で描かれれば、怪物が持つ怪物性が薄れてしまいます。怪物性を持った他の存在を排除し、怪物にその時代の恐怖のすべてを付与させたことで、怪物が「怪物」らしく表現されたのではないか、ということで理解しました。

ここまで『フランケンシュタイン』の批評に重点を置きマルクス主義について確認していきましたが、今回の議論の最終的な目標は「マルクス主義の面白さとは何か?」という問いについて考えることでした。

この批評の面白さは、文学テクストを通じて実際の社会の矛盾を読み解くことができる点です。作品からは「作品=社会の派生」ということが読み取れますが、その中から大きく矛盾している点を探ることで、社会の脆弱性を指摘することが可能になります。

 

次の「文化批評」は、おそらく全員の論文に関わる内容だということで、合宿にて詳しく議論することになりました。

文化批評は、「ハイ・カルチャー」と「ロウ・カルチャー」の垣根を壊すことが目的です。それによって、「資本家」「労働者」の関係を壊す意図がありました。

『フランケンシュタイン』は、長い間多くの大衆文学の中に吸収され続け、またその都度時代に沿ってストーリーに変化を加えながら、映像化されてきました。今回、『批評理論入門』では時代ごとにどのように変化してきたかということに重点が置かれていたため、「文化主義批評の意義はなにか?」ということについては、合宿で議論することになっています。

あまりまとまりがない文章になってしまい申し訳ありません。マルクス主義批評については個人的にもう一度おさらいが必要みたいです・・・。文化主義批評に関しても、合宿でがっつり議論できたらいいなあと思っています。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!