10期生第8回 その出来事は因果か偶然か

第8回のブログを担当します。中村です。
今回は、第7回でも読んだウォーレン・バックランドの「フィルムスタディーズ入門」から、『第二章 映画の構造ー物語と語り口』を勉強し、映画『パルプ・フィクション』について分析をしました。

まず、「フィルムスタディーズ入門」では映画作品のマクロ構造を見るべく「物語」と「語り口」という2つのカテゴリーがでてきます。
「物語」は登場人物にとって動機づけられた原因-結果の論理に基づいた出来事に構成されているといわれています。もちろん、原因と結果が全てではなく、単なる描写的なショットも存在していますが。
次に「語り口」は制限された語り口と全知の語り口の2つがあるのです。制限された語り口は一人の登場人物に結び付けられており、人物と同じだけの情報のみが観客に与えられます。それはその人物が見たもの、聞いたものを含めてその人が知り得た出来事すべてです。しかし、その人が知らない情報は観客にも与えられることはありません。一方、全知の語り口は、カメラが自由に登場人物を飛び移るため、一人の登場人物のもつ情報よりも観客の知る情報の方が多くなります。
全知の語り口が採用される映画作品の観客は、次に何が起こるかを予測できるためむしろ登場人物たちがそれに対してどう反応するかを楽しむことができるのだそうです。

しかし、この2つの語り口の理論は曖昧で、果たしてこの定義が多くの映画に応用できるかは疑問が残りました。

次に、映画『パルプ・フィクション』については、出来事が直線的に並べられていないが構造化されている、と述べられています。そのため、原因と結果の論理は時系列順に並べられる必要はないのだとも言っています。

我々は、『パルプ・フィクション』に関して、この映画は因果関係によって出来事が繋がっていないのではないかと考えています。確かに、バラバラにスクリーンに映し出される出来事を時系列に直す際に、因果によるつながりを見出してしまいそうになります。しかし、男女の強盗と2人の殺し屋がレストランで出会うのも、時計を取りに戻ったアパートやそこからの帰り道で敵対する相手に会うのも、全て偶然の出来事なのではないでしょうか?さらに『パルプ・フィクション』にはいくつかの出来事が時系列をバラバラにして配置されていますが、その出来事の関係はすべて因果関係と言えるのでしょうか?例えば、殺し屋たちがレストランで強盗に出くわすことはその後の展開に関わることがないのです。ボスの妻とヴィンセントが過ごした夜も。確かに殺し屋が足を洗うことを決めてそれ以降出てこないことはある種の原因と結果の関係といえるでしょう。

この映画が出来事をバラバラに見せているのはなぜでしょう。それは、人々が物事に対して原因やそれに伴う結果を求めていることを揶揄する意図があるのではないでしょうか?
今日はいい天気だからきっといいことが起こる。髪が上手く巻けたからいいことが起こる。そう感じたことがあるかもしれませんが、天候やヘアスタイルの調子は試験の結果にも親の機嫌にもなんら関わらないのです。
もしそんな出来事に何かの繋がりを見出したならそれは奇跡かもしれません。

10期生第6回 映画を物語の内容から分析する

第6回のブログを担当します、中村です。今回はベトナムからの留学生のフェンさんが発表を担当してくれました!
読んだのは、ジークフリート・クラカウアーの「映画の理論 物理的現実の救済」から『内容の問題』という章です。その後、黒澤明の映画『羅生門』を分析しました。

ここでは、映画なストーリーに着目して、映画的な物語の内容、主題、モチーフがどのようなものか検討しています。
まず、映画的といえない内容は、映像によって伝えられない要素がある内容で、概念的思考と悲劇的なものがあるといいます。概念的思考は、台詞に頼るなど言葉による伝達が求められる場合です。悲劇的なものは精神的な出来事のためそれを伝えるには映像だけでは難しいです。
次に主題とモチーフの観点では、主題は物理的現実の諸要素を描いている場合は映画的といえますが、モチーフにも影響されるといいます。
そこで、映画的なモチーフが紹介されますが、それらは1.生の流れ、2.探偵活動、3.ダヴィデ-ゴリアテといわれています。生の流れは現実に生きる我々が経験する人生の経過であり、ドキュメンタリー映画で特徴的です。次に探偵活動は、物理的現実を参照して真相究明の過程を描くために映画的モチーフといえます。ダヴィデ-ゴリアテは、弱者が強者に打ち勝つ力を描くことであり、あらゆる小さくて弱いものにインパクトを与えてクローズアップという映画の手法に類似しています。

これらを踏まえて、映画『羅生門』をみていきます。これは芥川龍之介の「藪の中」を元にした作品で中世日本を舞台にした犯罪物語です。
羅生門で男たちがある事件について話しています。彼らが話しているのは森の中で侍が殺された事件に関する証言です。男たちが羅生門に来る前に関係者たちは検非違使の前で事件に関してみたことを語り、それを再現する形で物語が進んでいきます。山賊、木こり、侍の妻といった関係者に加えて、死んだ侍自身も巫女に霊を呼び出して森での出来事を証言します。しかし、それぞれの証言の食い違いから真相はわからないまま物語は進み、男たちは羅生門で赤子を拾います。

この作品を物語の内容のモチーフでみていくと、侍の死という事件の真相を究明しようとする探偵活動の物語であると考えることができましょう。それは非常に映像的な要素を含んでおり、映画的です。その上、侍の死と赤子という新たな生の誕生が含まれており、生の流れを感じずにはいられません。単純に時間の真相を追う、探偵活動だけを描くのではなく、生の流れを取り入れることで、より現実をとらえた映像作品になっていると考えられます。

モチーフの問題から検討することで、映画における物語内容のレベルでも映画を分析することができました。今学期の学習では、形式のレベルでの分析が比較的多かったので意義深い回だったと思います。選んでくれたフェンさんありがとうございました!

10期生第4回 意図的な演出の価値は何か

第4回のブログを担当する中村です。今回は、マイケル・ライアンの『Film Analisis 映画分析入門』のアートディレクションを読み、映画『シャイニング』を分析しました。


まず、アートディレクションについてですが、アートディレクションは視覚的または聴覚的に作品のテーマや場面の状況を観客に伝わりやすくする手法です。例えばセットであったり衣装であったり音響であったりするものです。カメラに映る人間の対立関係を際立させるように窓枠が配置されたり、照明によって観客に特定の印象を与えたりすることが例示されています。


しかし、この説明ではアートディレクションの独自性や他の理論との差別化ができませんでした。そこで我々の理解では、映画の作り手が意図を伝えるために使う映画的な手法なのだと一致しました。この理解において重要なのは、意図的にカメラに映るものを調整しているということなのだと考えます。つまり、偶然そこに映り込む地形や常態化している演出は含まれないのではないかということです。

ではこの理解を踏まえて、『シャイニング』をみていきます。この映画はスタンリー・キューブリック監督によるホラー映画です。山の上にあるホテルで、冬季の住み込み管理人としてやってきた家族が怪奇現象に遭遇して精神が蝕まれ、父親である男が妻と子供を殺害しようとする様子が描かれます。


『Film Analisis』では、ホテルのあちこちにアメリカ先住民のモチーフが見られることが、アメリカが先住民を殺戮してきた歴史を見てみぬふりをしてきたメタファーになっているとしています。また、セットの縦線が二つの領域、ここでは文明と獣の領域の間の葛藤を強調するとも言っていますが、これは二項対立的に映画作品内でそれぞれの領域を描いているとしてもセットに見られる縦線では説得力が足りないと感じます。一方で、色の観点では赤色が、統制の利かない怒りや暴力に結びつき、青色が文明や自己統制に結びつくという主張は、セットのトイレの色や管理人の家族の服装から理解することができました。

このアートディレクションという概念について、応用が難しいと感じます。単純にこうではないか、と類推をすることは可能ですが果たしてそれがアートディレクションとして意図的に構築されているか否かを判断するのは容易ではなく、説得力に欠ける主張になってしまうように思います。

未だ、アートディレクションを用いる最適な手法がわからぬままブログを書き始め、大幅に遅くなりましたが、今回は以上です。
最後までお読みくださりありがとうございました。

11期生第6回 始まりも終わりも水が象徴する。

こんにちは!今回のブログを担当します、土田麻織です。

4人で回しているため、早いものであっという間に2度目がやってきました。

木曜日のゼミを基準とした一週間の流れにはだいぶ慣れたものの、取り組む内容に関してはまだまだ試行錯誤、右往左往、暗中模索している今日この頃です。

それでは早速授業内容に移ります。

前座

今回の前座は私が担当しました。紹介したのは、バカリズムさん脚本のドラマ『ホットスポット』です。このドラマは今年の1月から日本テレビで放送されていた作品で、Huluやネットフリックスでも見ることが出来ます。

この作品は「地元系エイリアンヒューマンコメディ―」というキャッチコピーを掲げています。富士山の麓のとある町で暮らす主人公が宇宙人と遭遇して、不思議な出来事が起きたり起きなかったり、、、?と言ったまさに「地元系」の「エイリアンヒューマンコメディ」なのです。

まず、バカリズムさんの脚本なので女子会雑談のテンポが最高で、小ネタ満載でとても面白いのが魅力です。私はこの会話劇にまんまとハマり、同時並行でバカリズムさん脚本の『ブラッシュアップライフ』と『架空OL日記』も一気に見てしまいました!

そして、衣装やセットがかわいいところも私のおすすめポイントです。主人公を含めた幼馴染3人組はよくランチ会をするのですが、回ごとにみんなの衣装の色味が統一されていてとてもかわいいのです!主人公が働いているレイクホテル浅ノ湖の制服も赤色で昭和レトロな雰囲気がとてもかわいくて視覚的にも楽しめる作品です。

ほっこりできてくすっと笑える楽しいドラマなので、見ていない方がいたらぜひご覧ください!

長くなってしまいましたが本題に入ります。

3限 「声」「イメジャリー」

今回の3限はジョウくんが担当して、廣野由美子さんの『批評理論入門』から「声」と「イメジャリー」の2つのテーマについて学びました。

作品における「声」の存在は、読者に語り手の意思を推測したり、登場人物の考えを予測させたりする影響を与えるそうです。

ロシアの批評家ミハイル・バフチンは、小説言語を示す際に「モノローグ」と「ポリフォニー」という二つの概念を用いました。

「モノローグ」は独白を意味して、作者の単一の意識と視点によって統一されている状態を指します。

「ポリフォニー」は対話を意味して、多様な考えを示す複数の意識や声がそれぞれ独自性を持ったまま互いに衝突する状態を指します。

「ポリフォニー」はあらゆる小説に当てはまるものであり、多様な文体や声を取り込み、多性的なメロディを織りなす文学形式であるのです。

実際に『フランケンシュタイン』には複数の語り手が存在していて、それぞれの独立した声が衝突している様子が見られました。

例えば、フランケンシュタインに宛てられたエリザベスの手紙。病に倒れたフランケンシュタインを心配して書いた手紙の後半には世間話が綴られています。彼女の地域の人たちのうわさ話のほとんどが結婚にまつわる話なのです。ここから著者の廣野さんは、エリザベスの「声」を通して彼女自身の想い、つまりフランケンシュタインと結婚したいということがほのめかされていると指摘しています。

このように考えると、一見物語にはあまり関係のないように見える描写もそれは実は登場人物の本心であり心の声なのではないか、と検討することが出来るのでしょうか。

読書の幅が広がった気がします。

イメジャリー

ある要素によって、想像力が刺激されて視覚的映像などが喚起される場合、そのようなイメージを喚起する作用を「イメジャリー」と呼びます。

イメジャリーにも様々な働きがあり、使われ方がそれぞれ異なるため、私たちはそれらの働きを使い分けられるようになるまで理解を深めることに努めました。

以下がイメジャリーの働きです。

・メタファー(隠喩):A≒B

 例)白雪姫…雪のように白い姫、あることを示すために別のものを提示してそれらの間の共通性を暗示する

・メトンミー(換喩):A>B 全体と一部の関係

 例)赤ずきん…赤ずきんと聞くと我々は童話のあの「赤ずきん」を思いだすが、赤ずきんと言う言葉は単に赤い頭巾である。あの「赤ずきん」は赤い頭巾をかぶった女の子

・シネクドキ(提喩):A⇊B 具体と抽象の関係 上下移動が生じる

 例)花見…花という抽象的な言葉で桜という具体的な言葉を指す

・シンボル(象徴):ある意味を持つ記号、表象

 例)鳩は平和の象徴…鳩と平和に類似性はないし、鳩である必然性はないものの猫など他のものに置き換えることも出来ない

・アレゴリー(寓意):具体→抽象  具体的なものを通じて抽象的なものを暗示すること

 例)ジョージ・オーウェル『動物農場』…人間の支配に反抗した動物たちが自分たちの理想郷を作ろうとするが、最終的には支配階級のブタが独裁を始める。

→冷戦後のレーニンやスターリンの主導したソビエト全体主義の批判

今回の章では『フランケンシュタイン』の中で用いられているイメジャリーにについて、「月」と「水」が挙げられていました。

月は「象徴」の役割、ギリシア神話において女性のシンボルとして扱われているため、母性を意味します。そこから、狂気や想像力、詩的霊感、純潔と無節操、多産と不妊など、月は様々なものの象徴として使われています。

作中では、フランケンシュタインが怪物を始めとする人造人間を制作する行為を「出産」と考えた時、月明かりに照らされる情景描写から月の母性を象徴とする役割が裏付けられています。

『フランケンシュタイン』で用いられているイメジャリーについては「水」も挙げられています。湖や海は死を象徴とする場として、一方でライン川や新婚旅行に船で出かけた時など、美しく幸せな描写にも水は用いられています。この時の「水」は忘却や浄化を象徴しています。

このように様々な対象物がある事柄のイメージを喚起するものとして作中に登場しているのです。

4限 『ドストエフスキーの詩学』ミハイル・バフチン

4限は藤田くんが担当しました。課題文はミハイル・バフチンの『ドストエフスキーの詩学』です。

この文章を理解するため、そしてブログの執筆が円滑になるようにとこの機会に『罪と罰』を図書館で借りてみました。まだ途中なのですが、バフチンの言っていることはこういう部分からきているのか、と見当がつくようになったので、また読了したらこの文章に帰ってきたいと思います。

この文章では、ドストエフスキーの作品は従来のモノローグ的小説を破壊していて、ポリフォニー的な世界を構築しているというテーマで展開されています。

従来のモノローグ的な小説では主人公は作者の言葉の客体として在るけれど、ドストエフスキーの作品の主人公は、自らを作った者、つまり作者と肩を並べ、創造主に反旗を翻す能力を持つような自由な人間である、と述べられています。

「真実はいつもひとつ!」と声高々に言っている名探偵コナンは紛れもなくモノローグ的であり、シェイクスピアなど悲劇性を出す作品はポリフォニーが使われています。今回は、モノローグの状態とは具体的にどのようなことなのか、例文をそれぞれで考えながら議論を展開していきました。

この二つの違いをはっきりと理解したうえでどちらが好きか?という話になったのですが4人ともモノローグ的な作品が好みなようでした。

今回の文章は比較的読みやすかったものの、内容を深堀していくと理解しきれていない部分や疑問点が浮かび上がってきて、納得するために白熱した議論が繰り広げられたと思います。

おわりに

ここまでお読みいただきありがとうございました。

3限で扱ったイメジャリーで水についての記述がありましたが、私が2年春学期の内藤先生ゼミの期末レポートで同じように水は何を表しているのか?というようなことを書いたことを思い出しました。「メタファー」という言葉を使っていたような気がしますがあれは「シンボル」だったのではないか、といまさらながら不安になっています。AはBのメタファーという言い回しを気に入っていたのですが、あれは全部微妙に違っていたのかも、、、。

余談ですが、前座で紹介した「ホットスポット」作中の宇宙人は、能力を使い消耗した部分を温泉で癒すという特性がありました。温泉も水なので、考え方によっては何かの象徴かもしれないですね。ただ単に温泉=リラックスの意味かもしれませんが。

イメジャリーの理論は好きなので、今回の授業を経て正しく使えるようになっていることを願って今回のブログを締めたいと思います。

長いブログにお付き合いいただきありがとうございました。また次回お会いしましょう。

11期生 第5回 性格描写とアリロニー、そして昔話の形態学から考える作品とは何か

はじめまして、11期生4回目のブログを担当します、ジョウ コウゲンです!

ブログっぽい文を、中学校くらいに趣味で書いたことはありますが、ちなみに投稿閲覧数は8人という惨めな結果でした。読みやすく内容が充実なブログが書けるかどうかと心配する部分もありますが、頑張ってみます!

11期生の中でも、内藤ゼミに入った理由はそれぞれですが、私が内藤ゼミに入ったのは、ある種必然的な結果だと考えた瞬間は、何回もありました。すでにお察しかもしれませんが、私は日本語のネイティブではないです。だから逆に、私が1年生の時内藤先生が担当されている日本語表現+基礎ゼミの授業を乗り越えてきたことに不思議としか思えません。ゼミも過酷だと聞いてますが最後までやり遂げたいです。

さて、本題の授業内容に入っていきます。

前座

今回の前座も私が担当し、角田龍一監督の作品『血筋』を取り上げました。監督名と映画どちらも知名度が低いのですが、私がこの作品を推した理由は、「監督自身が映画の登場人物にもなっている」ということです。ドキュメンタリーのイメージが強いのに関わらず、実話だと考えられないほど、意外な展開が満載されています。物語のテーマも、アイデンティティ・家族といった受けやすい内容私個人にとって魅力的な内容でした。予告編がYoutubeで視聴できますので、ぜひご覧になってください!

3限 批評理論入門 「性格描写」と「アイロニー」

3限の発表担当は土田さんでした。今回のテーマは、「性格描写」と「アイロニー」についてです。

性格描写

この章では、主に性格描写の定義や手法、加えて性格描写が物語に対する影響について述べられています。

まず、性格描写の対象は、小説の登場人物に対して行う行為であり、「批評理論入門」の作者廣野さんは、性格を示さずに物語をうまく語ることは不可能であるとされています。登場人物同士の性格を示し、比較することによって主人公と物語及び結末な関係を明確にすることができるそうです。また、小説における性格描写の方法は自由度が高く、内面と外面からどちらでも描けるといった特徴を持っています。ここで「小説は性格描写をするの最適な媒体か」との議論を挟みましたが、私の答えだけがみなさんと違ったことに若干驚いていました。確かに、小説は具体的な視覚的映像とはなかなか結びつかないため、内的焦点化を用いた表現は小説に適していると言えます。しかし私は、映画もまた、俳優の表情や仕草、映像や音楽といった独自の表現を駆使することで、小説とは違うアプローチの「内的焦点化」が可能であり、豊かな性格描写ができるはずだと考えたのです。

最終的に、私たちの議論は「どちらが優れているか」という単純な結論には至りませんでした。むしろ、「内面の葛藤を言葉でじっくり描くなら小説、俳優の演技や映像の力で直感的に性格を伝えるなら映画」というように、それぞれに得意な表現方法がある、という面白い結論にたどり着きました。媒体の特性を理解することで、作品の見方も一層深まりますね。

次に、先生がおっしゃった「役割があるからこそ人間には性格がある」という考えについて、みんなで議論しました。
人間にはさまざまな性格がありますが、その性格は、担っている社会的な役割によって形づくられるという指摘に、私は強く共感しました。例えば、人が何の役割も持たなければ、一定の枠組みや規範から自由になりすぎてしまい、かえってその人の性格が見えにくくなるのではないかと考えました。

続いて話題になったのが、土田さんからの「物語の結末は、キャラクターの性格によって決まるのか? それとも結末のために作者が性格を操作するのか?」という問いでした。これはまさに、創作における「鶏が先か、卵が先か」の問題。議論は主に二つの意見に分かれました。

一つは土田さんの意見で、「結末が先にある」という考え方です。あらかじめ決めたエンディングに向かって、作者が登場人物の性格を調整していく、という考えでした。

一方、私個人の意見として、そもそも作品の構造を考える時に、作者自身も最初から明確な結末を知らないことが多いのではないないでしょうか。そのため、結末に合わせて性格描写を調整するというより、むしろ登場人物の性格や行動が、物語を結末へと導いていくのだと思います。

もちろん、どちらが正解というわけではなく、非常に興味深い議論でした。

アイロニー

続いて、土田さんがアイロニーについて発表してくれました。

授業の前に「アリロニー」という言葉について調べましたが、以下『大辞林 第四版』より抜粋した内容です。

アイロニー【irony】 ① (修辞法の一つ)非難・風刺などのために、心に思っていることと反対のことを(しばしば称賛などの形で)言うこと。皮肉。反語。

非難、風刺、皮肉などの要素を含んでいる言葉であり、実際、土田さんの発表を聞いて、「アイロニー」を一意的に解釈することができないと実感しました。

発表の内容によってアイロニーは主に三種類だとカテゴリー化されています。

・言葉アイロニー→言葉と本音が逆になった状況

・状況アイロニー→現実と期待が逆になった状況

・劇的アイロニー→読者が理解しているが、登場人物が知らない状況

「言葉アイロニー」と「状況アイロニー」は、文学作品だけではなく、いわゆる日常的にも多用されるアイロニーだと言えるでしょう。例えば、デートに2時間も遅刻した相手に、満面の笑みで「随分早かったんだね!」という(本音:遅すぎるだろ!)というのが、一般的な言葉のアイロニーです。

一方、劇的アイロニーは、語り手における「神の視点」に近く、主に表象作品の中に見られます。例えば、『タイタニック』では、観客は船が沈むことを知っていますが、登場人物たちは「絶対沈まない船だ!」と希望を満ち溢れています。その状況では強烈なアイロニーを生み出します。

ちなみに、私が考えた多数なアイロニーが存在している作品は、『レ・ミゼラブル』でした。

4限 ウラジーミル・プロップ 『昔話の形態学』 物語の31機能

4限は、井上さんが発表してくれたウラジーミル・プロップの『昔話の形態学』を巡って、さらに議論が深まりました。

この理論には物語を構成する「31の機能」があるのですが、時間の関係で、みんなが疑問に思った機能に絞って話し合いました。

まず面白かったのが、31機能における「贈与者の第一機能」の定義です。「贈与者」と聞くと、主人公に不思議な道具をくれる優しい魔法使いのような、ポジティブな存在を想像しますよね。しかしプロップの理論では、必ずしも善良な存在ではないというのです。

先生によると、私たちが読んでいる日本語訳は、原文のロシア語からではなく英語からの翻訳であるため、訳者の解釈などが入り、原文のニュアンスと少しずれている可能性があるとのこと。言葉の奥深さを感じる指摘でした。

続いて議論の的になったのが、31機能の一つ「⑰ 標付け」でした。 これは、主人公が体に傷を負ったり、何か特別な印を付けられたりする機能のこと。では、物理的な印だけでなく、精神的な記憶や経験も「標付け」になり得るのでしょうか?

議論の前提として、「標付け」とは、 1)主人公が物語の結末まで持ち続ける「しるし」であること 2)その「しるし」が、後の主人公の証明や行動の支えになること という条件が挙げられました。

ここで、私はカズオ・イシグロの作品『日の名残り』を例として挙げました。

この物語における「標付け」とは、主人公の執事スティーブンスが体に負った傷ではありません。それは、彼が最後まで決して手放すことのなかった「今は亡き主人ダーリントン卿に仕えたという記憶と、執事としての“品格”」という、精神的な誇りそのものです。

この「品格」という見えないしるしは、彼の行動を支える支柱であり(条件2)、彼は物語の最後までその価値観を抱き続けます(条件1)。

おわりに

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

今回、ゼミでの議論を一つの記事にまとめるという、初めての執筆に挑戦しました。議論の中で出てきた抽象的なアイデアや感覚を、具体的な言葉にしていく作業は、想像以上に難しかったです。

また次回の記事でお会いできるのを楽しみにしています。

11期生 第4回 物語の時間はどのように操作されるか

こんにちは、はじめまして!

11期生第3回のブログを担当します、井上紬といいます。

作品としてのエンタメを味わうことはもちろん、自分自身がエンタメの一部になりたくて、ホテルのフロントスタッフとしての接客と、フラッシュモブというダンスによるパフォーマンス活動に力を入れています。

自分が書く論文も、読んでくれた人に新しい気づきや感動を与えられるようなエンタメとなるように執筆活動に励みたいと思います。

これからよろしくお願いします!

前座

今回の前座は私が担当しました。

紹介したのは「童話物語(向山貴彦、1999)」

私にとって人生の一冊であり、亡くなった伯父が生前に著した長編ファンタジー小説でもあります。

手に取ったきっかけこそ伯父という私との関係性でしたが、実際に本を開いてからはただただその世界観に魅了され、作者と切り離しても私のバイブルであると胸を張って言える作品です。

いつかこの作品をアニメ化し、多くの人に魅力を伝えることが、11歳の頃からの私の目標です!

ちなみに現在この話をして、「何その本、気になる・・・!」と言ってくれたゼミの仲間たちに文庫版を貸して回しています(笑)今は土田さんが上巻を読んでくれているようで、感想を共有できる日が今から待ち遠しいです。

3限 「批評理論入門ー『フランケンシュタイン』解剖講義」

3限は藤田さんが「提示と叙述」と「時間」について発表してくれました。

〈提示と叙述〉

この章では、小説が大きく分けて2つの方法で語られていることを指摘しています。

それが提示と叙述です。

提示とは語り手が介入したりせずに黙ってあるがままを示す方法、叙述とは語り手が前面に出てきて要約などによって読者に対し解説する方法です。

著者の廣野さんは、作品の各部分においてこの2つの方法のどちらかふさわしい方が選択されるべきであるとしています。

実際に『フランケンシュタイン』では提示と叙述がうまく使い分けられており、作品を最後まで読ませる工夫がされています。

特に授業中にも議題に上がったのが、フランケンシュタインによる怪物創造のくだりが叙述の方法で語られていることについて。

本書は、要約して語ることで読者はフランケンシュタインに対する共感を保ちつつ物語を読み進めることができると述べています。

ではここでいう共感とはいったい何に対する共感なのでしょうか。

議論の末に出た結論は「人間らしさ」です。彼の怪物創造という行為は人倫にもとる行為であり、「人間らしさ」とはかけ離れています。また、昔は人間をつくることができるのは神だけだと考えられていたことから、フランケンシュタインはその点においても「人間らしさ」とは距離があるように思われます。そこで、実際に怪物がつくられるおぞましい様子は省かれたうえで、フランケンシュタイン自身がその時のことを振り返って「いま思い出しただけでも、めまいがする」と述べることによって、完全には失われていない彼の「人間らしさ」に共感して読者は読み進めることができるのです。

〈時間〉

続くこの章では、物語における時間の操作がどのように行われているかについて指摘されています。

時間で主に操作されているのは順序と速度です。

まず順序について。

ジェラール・ジュネットは、出来事が単に起きた順に並べられる「ストーリー」としばしば時間の移動によって並べ替えられる「プロット」で互いの順序が合致しない場合を「アナクロニー」と名付けました。

「アナクロニー」には大きく2つあります。それが「先説法」と「後説法」です。

「先説法」とは、まだ生じていない出来事を予知的に示す方法です。また、すでにある程度進行している物語の途中から語り始める「イン・メディアス・レース」という方法も「先説法」の一種にあたります。

「後説法」とは、出来事の継起を語っている途中で過去の出来事や場面に移行する方法です。「フラッシュバック」とも呼ばれ、映画でもよく用いられます。

次に速度について。

物語の進行速度には大きく分けて4つあります。

それが「省略法」と「要約法」、「情景法」と「休止法」です。

「省略法」とは、ある期間を一気に飛び越える形式です。「こうして数か月がたった」という表現や「2年後」という表現がこれにあたります。

「要約法」とは、数日間や数か月、数年に及ぶ生活を詳細抜きにして数段落や数ページで要約する形式です。

「情景法」とは、物語内容の時間と物語言説の時間の速度が等しい形式です。台詞の掛け合いで物語が進んでいく場面などがこれにあたります。

「休止法」とは、語り手が物語の流れを中断させる形式です。語り手が自分の心情や置かれている状況を語るなどして物語それ自体は進んでいない場面がこれにあたります。

この3限では、これらの時間の操作について互いの違いを確認することができました。

4限 ジェラール・ジュネット「物語のディスクール」(1972) 時間

4限はジョウさんが発表してくれました。

ジュネットの著書を実際に読み込むことで物語における時間の操作について理解を深めていったのですが、この読み込んで理解するという作業がかなり難航しました。

ジュネットが例に挙げるプルーストという作家、そして彼の作品である「失われた時を求めて」は非常に特殊で、抽象的な本文の記述からは物語がどのように進行しているのかを具体的に想像することが難しかったのです。

実際に議論は次の週まで続きました。

ポイントとなったのは以下の2点でした。

1.括複的描写とはどのような描写であるか。

2.プルーストの情景法にはどのような特徴があるか。

まず1.について、最終的に辿り着いた結論は「数回起きた事柄を同じ時間に存在しているかのように見せることでただ一度だけで語ることを可能にした描写」です。過去も現在も同じ画面あるいは描写に混濁させることで実現することが分かりました。

次に2.について、最終的に辿り着いた結論は「確かにリアル・スピードで進む(内容と言説が等しい速度で進む)が、間にさまざまな情報が介入してくるので複雑化している」です。要するに寄り道をするのです。まるで実際に生活している私たちのように、語り手の意識の流れがそのまま反映されているので、物語として読み進めていくと話があっちに行ったりこっちに行ったりして少しややこしさを感じてしまうという特徴があります。

両者ともに結論を出すのに時間はかかりましたが、先生から助言もいただきながら皆で納得できたときには格別の達成感を感じました。

個人的には 第2回 ロラン・バルト「作者の死」に並ぶ抽象度の高い文章で読むのに苦労しました・・・(笑)

少しずつこのような文章にも慣れていきたいです。

ではこれにて、第4回の授業内容は以上となります!

最後に、最近イチオシの映画をひとつ挙げて終わりにします。

「トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦」(2024) ※日本では現在数十か所の映画館にて公開中

香港で制作されたアクション映画なのですが、これが本当に面白いのです。手に汗を握ります。

はじめ私は九龍城という舞台に惹かれて足を運んだのですが、想像以上に作り込まれたセットに圧倒されたうえ、見た目も中身も個性的なキャラクターたちに、少年漫画をリアルに再現したかのようなド派手なアクションなど、盛りに盛られた魅力的な要素に心を奪われ、なんとこの1週間のうちに3回も観に行ってしまいました。こんなことは初めてです。財布が許してくれるのならまた観に行きたいです(笑)

上映館が少ないのが玉に瑕なのですが、皆さんもぜひこの機会にご覧になってみてください!

11期生 第3回 誰が語るのか、そして誰を通してみるのか

はじめまして!
11期生の2回目のブログを担当します、藤田雄成といいます。

ブログを書くのは初めてなので何を書けばよいか分からず時間がたってしまいました...
しかし多くの方が同じようなことを思っていたようなので気合い入れて頑張ります!

さて、11期生は4人いるのですが実は私、ほかの3人とは違う点があります。
それは、、、3年になって初めて内藤ゼミを経験したこと!!!
どうやらほかの3人は1年か2年のときに内藤ゼミを経験していてどういうゼミなのかよく知っているとのこと。それを知って私はビクビクしてました。まあ、私もこのゼミの過酷さを知っていながらも入ったんですけど(笑)

前置きはこのくらいにして今回の授業内容に入っていきます

前座

前座も私が担当しました。私が紹介したのは「春休みにみた戦争映画」です。取り上げたのは「プライベートライアン」、「ダンケルク」、「西部戦線異状なし」の3つです。
プライベートライアンに関してはカメラの視点で酔ってしまって30分くらいしか見てません(笑)
実はジョウ君が3つとも見ていたらしくちょっと嬉しかったです。
3作品ともとても考えさせられる内容になっているのでみなさんもぜひ!

3限 批評理論入門

3限は井上さんが批評理論入門の「語り手」、「焦点化」について発表してくれました。

語り手

この章では語りの種類、枠物語、そして信頼できない語り手について述べられています。
まず、語りの種類についてですが一人称の語り、二人称の語り、三人称の語りがあります。その中でフランケンシュタインは一人称の語りに分類されます。
次に枠物語についてですが、そもそも枠物語とは、「物語の中に、さらに物語が埋め込まれているような形の物語形式」をいうそうです。フランケンシュタインにおいては、
ウォルトンの語り>フランケンシュタインの語り>怪物の語り
という感じに構造が成り立っています。ちなみにここで内藤先生が「枠物語山手線ゲームをしよう!」とおっしゃって少し不安になった記憶が(笑)
最後に信頼できない語り手にがいることによって、人間がいかに現実をゆがめたり隠したりする存在であるか、があらわになってくることが述べられています。

焦点化

この章では焦点化の種類、そしてフランケンシュタインの物語での焦点化について述べられています。
まず、焦点化の種類について内的焦点化と外的焦点化に分類され、さらに内的焦点化は固定内的焦点化、不定内的焦点化、多元内的焦点化に分類されます。外的焦点化とは?という問いに少し戸惑ったのですが、例として横光利一の「蠅」を思いつき理解できました。さらに内藤先生の「固定されたカメラで映し出された場面を小説で書いた感じ」、という説明でより理解が深まりました。
次にフランケンシュタインでの焦点化について、焦点人物を変えることによって物語に深みが出ているように感じました。

4限 ジェラール・ジュネット『物語のディスクール』「焦点化」


さて、続いて4限は土田さんが発表してくれました。
今回の文章は前回の文章よりも読みやすく、議論も簡単かなと思ったのですが「ともにある視像」について考えるのにかなり苦戦することに、、、

まず、この文章では焦点化の種類について述べられています。ここは3限と被るところもあるので詳細は省略します。
次に、内的焦点化と外的焦点化、被焦点化は区別できるのかということが述べられています。物語は終始一貫して同じ焦点を持つわけではなく、内的、外的の両義性をもつことがあります。また、内的と被焦点化も時として区別が困難な場合があります。
そして「ともにある視像」についてです。みんなかなり悩みました(笑)かなりの時間をかけてようやく「内的視点で語られている作中人物、それを語っている者」が「ともにある視像」なのでは?という結論にいたりました。ここは個人的にロラン・バルトよりも難しかったかも、、

二回目の議論、ということで初回よりは慣れた感じがします。ブログに関してはまだまだ至らない部分がたくさんあると思うのでこれから成長できればいいなと思います!あと読み返してみるとちょっと恥ずかしいですね(笑)

私のブログでは最後に映画やアニメなどで印象に残った言葉で締めたいと思います。
では今回はこのへんで!

「何も捨てることができない人には何も変えることはできない」
                    進撃の巨人 アルミン・アルレルト


11期生 第2回 作者とは、そして書かれたものとは何だろうか。

はじめまして!

内藤ゼミ11期生初回のブログを担当いたします、土田麻織と申します。

人生で初めてのブログなのでお手柔らかに見ていただけますと幸いです。

そして最初なので軽く自己紹介をしてみようと思います。

好きなことは本を読むことと音楽を聴くこと。小説が好きなのでこのゼミにたどり着いたのですが、映像表現にも興味があるので最近は映画もちょこちょこ見ています。

好きな作家は湊かなえさんと芦沢央さんで、イヤミスと呼ばれるジャンルをよく読みますが、このゼミを通して大学生活の集大成にふさわしいと思える作品に出会えたらいいなと思っています。

そして、今の私を構成しているものといえばやはりサークルになるかと思います。

私はaccessというジャズダンスサークルに所属しています。週2回の通常練習に加えて、新歓ライブや夏ライブ、明大祭期間には別で練習が入るためほぼ毎日サークルに行っているのでは?という期間も多々あります。この前までの春休みは2か月間ほとんどをサークルに費やしていました(汗)

サークルにそれなりの熱量を割いている私ですが、今年度からはゼミとサークルの2本軸で頑張っていこうと意気込んでいます。

思いのほか長くなってしまったのでここで授業内容に移ります!

前座

初回は私、土田が担当しました。取り上げたのは住野よるさんの『また、同じ夢を見ていた』です。

普段はミステリーや暗くて重い話を好んで読んでいますが、このような場で紹介するにはふさわしくないなと思い、初心に戻って小学生の頃恐らく初めて手にした、いわゆる一般的な小説を紹介することにしました。

自分の前座なので割愛しますが、とても温かいお話ですので、疲れているときや余裕のない時にこそ是非読んでいただきたいなと思います。悲しくないのになぜか涙が出でくる、そんなお話です。

3限

お待たせしましたが3限の発表内容に移ります。

廣野由美子著『批評理論入門 フランケンシュタイン解剖講義』

1冒頭 2プロット

3限の発表はジョウくんでした。

第1章の前に、まえがきでは本著が『フランケンシュタイン』を扱う理由として、誰もがタイトルを知っていてそれについてのイメージを持っていること、映画や演劇など数多くのメディアによって物語は伝播していったが、言語を媒体とした小説という形式でなければ本質を表現できない点が挙げられています。

これから本論を読み進めていく中で、言語でしか『フランケンシュタイン』の本質が伝えられない理由を肌で体感出来たら、と思います。

第1章では『フランケンシュタイン』の冒頭について取り上げられています。初版の「11月のある陰鬱な夜のこと、、」という書き出しが、私たちが現在目にする第3版では第5章に移動していて、その代わり手紙文が冒頭に置かれています。

筆者は、「小説における冒頭は現実世界と虚構の世界とを分かつ『敷居』のようなものである」としたうえで、冒頭部分は読者にとって負担の大きな部分であると述べています。初版の冒頭では読者は世界に入り込めないと考え改定されたそうですが、果たして本当に手紙形式が有効なのでしょうか。

ここが本題ではないため省略しますが、私は冒頭が手紙の方が物語世界の中にさらにもう一つの壁を感じるため、筆者の言うことは必ずしも正しいとは限らないのではと思いました。

第2章ストーリーとプロット

第2章では小説におけるストーリーとプロットについて学びました。

ストーリーは出来事を起きた時間順に並べたもので、プロットは物語が語られる順に出来事を再編成したものです。ストーリーを組み替えることで真相の提示を先延ばしにすることができ、謎やサスペンスが誕生するそうです。

4限

ロランバルト『作者の死』

4限の発表担当は藤田くんでした。

発表前に藤田くんは「頭の中がエクリチュール状態です」と軽いジョークを飛ばしてゼミの場を温めていましたが、今回の課題テキストを通して私にとって謎めいた文字列となってしまった「エクリチュール」という言葉を使ってユーモアを発揮できて、みんなもそれに笑うことが出来るのか、と私は陰でこっそり冷や汗をかいていました。

そんなエクリチュールがキーワードのテキストです。「エクリチュールの本来あるべき場とは」という大論点を掲げてスタートしました。

そもそもエクリチュールとは簡単には、フランス語で「書くこと」「書法」「文字法」「書かれ方」などを意味する言葉です。

現代の文学イメージはある作品における作者の情報に集中しており、作品には作者が大きく介入しています。しかし、何かを語るのは言語活動そのものであり、作者ではないということが今回の大きな主張です。作品はたくさんの人の言葉を引用したものであるため、自分の意思は還元しないという考え方です。織物のたとえが分かりやすかったのですが、一見1枚の布に見える織物も、実は様々な意図が織りなして形作っているように、1つの作品には多く書物の引用から成り立っているということです。

物語られたものから作者が切り離されたとき、エクリチュールが誕生します。

そしてその様々な要素から織りなされた、多源性を持つエクリチュールが収斂する場は作者ではなく読者であるという結論です。

物語を「解読する」というとそこには有限性が与えられてしまいますが、文章の言葉を借りて説明するなら、歴史も伝記も心理も持たない読者が「解きほぐす」ことは無限性を持ちます。

エクリチュールは作者の死によって読者の中に誕生するのです。よって冒頭で提示した「エクリチュールの本来あるべき場とは」という問いに対しては「読者」と結論付け、「作者の死」が宣告されて第2回のゼミは終了しました。

以上が授業内容になります。

初回の授業で作者が死んでしまったため、「作者はなぜこうしたのだろうか。」「この設定にした作者の意図は?」とよく考えてしまったり、そもそも作者情報に先行して読むものを選んでしまったりする私は、これからどうすればいいのだろうか、となっていますがそれも含めてこれからのゼミ活動で考えを深められたら、と思います。

ブログを書いていて、文字に起こすには100%の理解が必要不可欠なんだなとひしひしと感じました。課題文を読み直したりレジュメを見直したり自分のメモを解読したり、がっつりおさらいをしてなんとなく理解した状態で書きましたがかなり長くなってしまったと思います、、。次回以降はもっと簡潔にわかりやすくまとめられるように精進していきます!

ただインプットしたことを整理してアウトプットする過程は、知識を自分のものにする上でとても大切なことだなと言うことを改めて感じました。

なのでブログ担当でないときも、ブログを書ける勢いで自分の中に落とし込むぞ!という気合を入れて今回のブログを締めたいと思います。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

第2回 繰り返される構図が持つ意味とは

久しぶりのブログの執筆で若干緊張しております。内藤ゼミ10期の中村です。今回は4年ゼミ第2回の内容をお届けしていきます。

初週はオリエンテーションのため、4年生になって発表や議論をするのは今日が初めてでした。やっぱり楽しい!これにつきます。今学期は映画の理論を中心に勉強するので、映像を分析するという新しい試みが出来るのはワクワクします。前置きはこの辺りで終わりにして早速本題に入りたいと思います。

今週の理論書はマイケル・ライアンとメリッサ・レノスの『Film Analysis』でその中の「構図」を山崎さんが発表してくれました。これは配置に意味が付与されるというもので、さまざまな映画のカットを紹介するような形で説明をしていました。 議論としては、前半では果たして「構図」の分析は我々が映像分析を行う上で使えるものなのか?という論点で話が進みました。その後、後半では実際に映画『第三の男』をこの「構図」を用いた分析をすると何が言えるか?を話し合いました。

まず、「構図」は特定の1つのカットそれだけで何かを断定したり論証していくには論拠が弱いという意見がありました。そこでより普遍的に応用するためには、1つのカットを検討するのではなく、連続した映像を通して意味を持つ構図が変化していくもの、例えば権力関係に変化が見られるなど、そして繰り返し同じ構図が用いられるものであれば構図を用いた論証が可能なのではないかと考えました。 我々が1月に行ったワークショップでも映画を分析しましたが、その際も窓枠が使われる同じ構図が3.4回みられることから特定の意味を含んだカットだと考えたので、この意見はかなり有力なものになりました。

次に『第三の男』の分析ですが、この映画は非常に不思議な構図がいくつも見られます。例えば、主人公が乗り物に乗って歩いている女性を追い越すシーンが物語の最後にありますがこれは序盤にも全く同じ構図で見られます。さらに、主人公が死んだはずの友人を見かけて追いかけるシーンでは、低い視点で視界が斜めになっている構図が使われていて不穏な印象を与えてきます。我々はこのようなさまざまな構図の妙の中でも、繰り返し同じ構図が見られることについて検討していきました。 そこから得られた結論は、構図が登場人物の距離感を示す要素として用いられているということです。具体的には、主人公のマーチンスと死んだはずの友人ハリーの距離は物語を通してどんどん近づいていき最後にはマーチンスが追いつきます。しかし、マーチンスがハリーの死の謎を追う中で出会った女性アンナとマーチンスの距離は物語を通して縮まることなく一定に保たれています。

まず、マーチンスとハリーの距離ですが、これは彼らが追いかけ合うシーンの中で同じ道を通る時に同じ構図で撮られているのですが、同じ構図が再度現れる間隔が終盤にかけて短くなっていきます。これは2人の距離が近づいているだけでなく追われるハリーが焦る心理的状況も示していると考えられます。 次にマーチンスとアンナのシーンは先ほども説明した乗り物に乗ったマーチンスが道の端を歩くアンナを追い越す構図です。序盤ではその後アンナが出てくることはありませんが、最後のシーンではアンナを追い越したマーチンスは乗り物から降りて道端に立ち止まりアンナを待ちます。しかし、道を歩いてきたアンナは立ち止まることなくマーチンスを追い越してどこかへ行ってしまい、そのまま物語が閉じられます。 物語を通してマーチンスがアンナに好意を寄せていることは明確に見られますが、アンナがどう思っているか不明なまま最後のシーンで判明するのです。しかし、同じ構図が序盤と最後という大きな隔たりをもって採用されていることからアンナとマーチンスの距離は離れているということが暗に示されていたと言えるのではないでしょうか?

100分という短い時間の中でかなり納得のいく面白い結論が導けたと思います。改めて楽しい!と感じるのはこういう瞬間があるからですね。 今回のまとめとしましては、構図の概念は映像、特に物語を通して構図を見る時に誰かの視点であり、心理的な要素や人間関係が示される可能性があるという意識で見ることで面白い論証ができるということがわかりました。 最後までお読みくださりありがとうございました!

第13回 自分の言葉で語ること

10期生、13回目のゼミのブログを担当します。中村です。

今週は、エレーヌ・シクスーの「メデューサの笑い」の冒頭部分を読みました。そして理論を用いて映画『バービー』についての議論を行いました。

まず、「メデューサの笑い」で言われていることは、男根中心主義な社会にたいする抵抗として女性が女性の言葉で女性について語る必要があるということでした。それは、女性が男性優位社会において彼女たちの欲望が抑圧されているため、その欲望が女性に戻ってきて解放をするときに女性のエクリチュールが重要なのです。次に、シクスーは古典的ではない両性具有の概念として、自己の中に2つの性があることを突き止め、どの性も排除しないことを主張しています。これは女性は男性性と女性性のどちらも表象することができるが、男性は男性性のみを追求することを教育されているため、2つの性をもちどちらも排除しないと考えることが女性にとって利益のあることなのだといいます。最後に、飛び盗むという表現を使って、男性優位な社会で用いられてきた言語や道具を異なる使い方をしてその制度を壊すことを女性の動作であると説明します。女性が男性の言語の中にいるようで、その実男性の言語を盗んで女性の言語として使うようになれば、既存の秩序はかき乱されるのです。私たちはこの文章を読んで、男性について非常に極端で限定的な表現をしていることに疑問を持ちました。これについての意見として、敢えて女性の言葉で男性について書く時に偏見に満ちた表現をすることで、女性たちが男性の言葉の中で書かれてきたことをやり返しているのではないかと言われました。

次に『バービー』についての分析をしました。この作品は、バービーたちの住むバービーランドから物語がスタートします。毎日楽しいガールズナイトを過ごしていたバービーが死を考えてしまったり、脚にセルライトができたり、ベタ足になってしまったりとショックなことが起こりそれを解消するために現実世界にいってバービーの持ち主に会いにいくことになります。バービーの現実世界への冒険に、なぜかついてきてしまったケンは現実世界で男性が中心となり生活しているのをみて興奮し、バービーより先にバービーランドに戻って改革をはじめます。バービーがバービーランドに戻ったときにはケンランドがつくられており、ほかのバービーたちはケンの洗脳によって本来の自分とは違う行動をしています。バービーは自分の持ち主と共にバービーランドを取り戻すためにバービーたちの洗脳を解いて、ケンの支配から脱しようと計画を立て遂にはケンからバービーランドを取り戻します。

この作品について、どのようにすればケンが上手くバービーランドで生きていくことができたのだろうかと疑問に思いました。そこでシクスーの理論を踏まえて考えると、ケンがケンの言葉でケンのことを語ることができなかったのが問題だったのではないでしょうか。ケンはバービーと現実世界に行った際に男性が中心となった社会を目にしてバービーランドでも改革をおこないます。その改革で行われていたことは、現実世界やバービーのしてきたことのまねごとでしかありませんでした。最終盤で、バービーはケンに「ケンについて」尋ねますがはっきりと答えることができません。我々の議論では、ケンが馬が好きなことをケンの言葉で主張すべきだったという意見が起こりましたが、まさにそういったことが今後バービーランドで行われていくことを望みます。

また、議論では深く話し合いませんでしたが、バービーランド自体がマテル社が作ったものであるということも重要な要素だと思っています。マテル社によって作られる際にバービーは女性が望む女性ではなく、男性が女性に押し付ける女性になっているようにみえます。バービーがケンと現実にいった時の服装が男性からは賞賛される一方、女性にはあまり良い顔をされていませんでした。バービーが現実にいく箇所はケンと共にいく場面と最後の婦人科にいく場面ですが、この2箇所のバービーの服装は大きく違っています。今後この作品について検討する際にはこの服装の違いにも着目をして分析をしたいと思います。

私はこのブログが、今年最後になります。1年間ブログを書いて、確実にゼミの内容を文章にすることになれましたし、ゼミでの学びがより身についたと感じます。

まだまだ今学期のゼミの活動は続きますが、1年間お疲れ様でした!