9期生第8回 『映画の理論』第9章 観客-映画は欲望という名のジャンクフード編-

こんにちは。2回目の宮澤登場です。

梅雨に入って、しばらく経ちましたかね。暑い、、ですね。

暑いのは人間だけではなく、猫も一緒みたいです。

うちの子(猫)、換毛期でして、もう抜け毛が、すんごい。ほんと、猫の毛だけでボールができるくらいなんです。

毛を刈っても刈っても、次の毛が出てくるんです(恐怖)

そのおかげで、部屋中毛だらけ、埃まみれで(絶望) 

掃除してもきりがないので、決めました。汚部屋で生きることを。(諦めるのはまだ早い)

と、個人的などうでもいい話から入ってしまって恐縮です。

ここから、本題に入るので許してください。

今回扱ったテーマは、「映画と観客の関係」。理論は、ジークフリート・クラカウアーの『映画の理論』第9章観客。作品は、『チャーリーとチョコレート工場』です。キーワードは、欲望

【学習内容】

今回は、映画と観客の関係性について学びました。ここでは、映画が観客に与える効果を

①(映画を見た)観客の反応

②(映画を見た)観客の状態

③(映画を見た)観客の満足感

の3つの要素に分けて、整理していきたいと思います。

①観客の反応

映画にはどのような効果があり、観客は映画を見てどのような反応をするのでしょうか。

まず映画は、観客の感覚に作用するという、特殊な効果を持っています。具体的には、観客の感覚に働きかけ、生理的な関与を要求することで、観客を知性的に反応できる状態を導く効果があります。これは、映画が人の感覚的・本能的な部分を刺激することで、観客の感情移入を促し、映画について知的に考える・反応できる状態をさします。

そして、映画が観客の感覚に作用できる理由は、主に3つあります。

1.物理的現実、それ自体の記録する(現実のリアルな事物が、そのまま映像で再現・記録されていること)

映画では、写真的な映像が再生されます。写真的映像は、自然のありのままの物体を、リアルに表現します。このようなリアルな映像を見た観客は、あたかも映像が本物・現前しているものだと感じるようになります。よって、映画は現実の記録という面で、観客の感受性に作用していると言えます。

2.世界の動きという相のもとで、示して見せる(事物の物理的な動きを、リアルに表現していること)

私たちは、常に動きのある世界で生きています。例えば、食べるという行為は、腕や口、手を動かす運動なしにはできません。映画は、この運動を映像としてリアルに表しています。静止画の写真では、現実世界の運動を表すことはできません。こうした動きは、観客の中で筋肉の反射反応や運動インパルスといった運動感覚的な感覚を誘発します。よって、映画は動きの提示という面で、観客の運動感覚に作用していると言えます。

3.映画は、そこに隠された領域を開示する(観客に見知らぬ形状に遭遇させ、新たな発見をさせること)

映画は、観客に見知らぬ形状を提示し、発見をさせることで、好奇心を掻き立てます。そして、観客をより感覚的な領域へ誘い込みます。よって、映画は隠された領域の開示という面で、観客の好奇心や感覚に作用していると言えます。

②観客の状態

では、①の映画の作用を踏まえた上で、映画を見た観客は、どのような状態になるのでしょうか。

一言で表すと、観客はトランス状態(意識が弱まった状況)になります。原因は、観客が暗闇に置かれれることで、現実との接点が減少するためです。適切な判断や精神活動を行うための、視覚情報などを奪い取られることで、観客の意識は弱まります。

また本書では、「意識が低下すると、へと誘われる」と記載があります。実際に、映画愛好家のガブリエル・マルセルは、「覚醒と睡眠のはざまの状態に置かれており、そこでは入眠時に見るさまざまな幻想が促進されている」と述べています。つまり、映画には夢と似たような性質があるということです。

では、夢と映画の似た性質とは何でしょうか? それは、剝き出しの現実性です。

剝き出しの現実性とは、私たちの目で見た現実のことを指します。そのため、俯瞰的・客観的な現実ではなく、近視眼的・主観的現実のことを指します。私たちが、私たちの目を通じてみるものは、ありのままの現実ではなく、私を通じて編集された現実でしかありません。例えば、砂漠でオアシスを見つけた場合、水がすごく輝いているように見えるかもしれません。一方、梅雨のじめじめした日に、水たまりを見た場合、すごく疎ましく感じるかもしれません。水は水でも、人の目線を通じると、違う見え方になってしまうのです。

このように、近視眼的・主観的な現実の見え方は、夢と映画に共通しています。夢は、人の視点で見える現実になぞって、ストーリーや映像が編集されます。また、映画も、誰かの人の視点で見た現実を、カメラワークや構図、編集で調整します。つまり映画は、剥き出しの現実性表す夢と似たような特徴があるということです。

では、映画はどのように観客を、夢を見ている状態にさせるのでしょうか?本書では、主に2つのパターンが提示されています。

1.観客を対象物の方へ向かわせる

単純に、観客が意識から解放されることで、映画に登場する事物や現象に引き付けるということです。映画の事物や現象に引き付けられることで、感覚を刺激され、映像が現実のことのように感じられます。これは、(睡眠時に見る)夢と同じ状態です。

2.観客の自我を撤退させ、意識的ないし、無意識的な経験、不安、希望が姿を現すように働きかけている

これは、観客が映画の範疇を超えて、自身の内面世界で妄想・想像することをさします。観客は映画の対象物に集中し、そこで感覚を刺激されることによって、その感覚に関連した別の事柄に関しても想像するようになります。これも、(妄想したり想像したりする)夢と同様の状態です。

このように、映画は観客の感覚に働きかけ、トランス状態・夢への誘導を行います。だからこそ、映画は強力なプロパガンダの道具にもなりえるのでしょう。

③観客の満足感

皆さんは、何のために映画を見ますか。また、どんな映画を見たときに、満足感を覚えるでしょうか?

本書では、観客は、映画によって生への渇望を満たされた時、満足するとされています。また映画は、観客の充実した生の代用品と言われています。

映画は大衆娯楽であればあるほど、一般大衆の欲望や願望とされるものに応えなくてはいけません。大衆の満たされない欲望や願望をかなえることこそが、映画の売り上げへとつながるためです。

例えば、本書で紹介された映画愛好家は、観客は苦しみの原因を孤立状態に求めていると提示します。この書が誕生した当初は、都市化とともに、個人化という概念が生まれました。そのため、大衆は孤立しており、他者との関わりという生への渇望・欲望を持っていたと考えられます。

このように、時代ごとに大衆が抱える生への渇望を満たすことこそが、大衆の心をつかむ技術なのです。

何もしなかった日の最後に映画を見たくなるというという人がいます。これは、それは何もできず充実していない現実に対して、その1日に価値があったと思えるように、映画で他者の物語を追体験することで、生への渇望を満たしているのかもしれません。

【作品分析】

今回の作品は、『チャーリーとチョコレート工場』です。学習内容を踏まえて、2つの観点から分析しました。

①作品には、夢に似た性質が現れているか

映画全体を通じて、夢と似た性質があると言えるでしょう。例えば、場所指定などが、夢に似た性質に当たります。本作品では、人物が登場する前に、場所の指定がされる場面がいくつもあります。具体的には、ニューヨークの街並みと字幕が出た後に、登場人物の説明がはじまるなど。

これは、とても夢に似た性質です。近視眼的・主観的な現実の見え方だからこそ、場所という情報が事前に提示される編集がされていると考えられます。ゼミ生の中には、夢を見る時、まず場所の提示から始まる方もいました。

②生の本質を満たしてくれる映画か

まず、この作品を見る観客(大衆)を、「工場労働者」と定義し、彼らの欲望を3つに整理しました。

1.工場という無機質な場所で、同じ作業をしている毎日がつまらない状況。面白くて、非現実的なことへの欲望。

2.工場で一日働いているのに、貧乏。一方、楽して稼ぐ資本家がいる不平等な状況。資本家を蹴落としたいという欲望。

3.貧乏で、生活が苦しい状況。脱貧乏・脱社会的弱者したい欲望。

これらの大衆の欲望は、充実した生への渇望へとつながります。では、『チャーリーとチョコレート工場』は、彼らの欲望・充実した生への渇望を満たせているのでしょうか。

1. 作中の工場内は、とてもファンタジスティックで、明るい雰囲気。本来無機質なはずの工場内に、面白み・非現実性が加わっている。つまり観客に、労働者の働く工場は、無機質でアンハッピーな場所ではなく、面白くてハッピーな場所であると認識させ、欲望を満たしている。

2.作中の工場内では、主人公以外の資本家の子供たちが、ウォンカの手によって、次々とひどい目にあう。観客の資本家への不満、蹴落としたいという欲望を満たしている。

3.物語の最後で、貧乏な主人公の家族は、資本家のウォンカと暮らすようになる。脱貧乏&脱社会的弱者を果たし、資本家の一員になるという欲望を満たしている。

以上の分析を踏まえると、本作品は観客の生への渇望を満たす作品と言えるでしょう。

結論:『チャーリーとチョコレート工場』は、社会的地位が低かったり、貧乏だったりする工場労働者たち(大衆)の生への渇望を満たす映画である。

今回の学習はここまで!少し長くなってしまってすみません。

最後に、猫の毛で作ったボールの写真をのせて、お別れしましょう。また次回のブログでお会いしましょう~

→自分の毛で作ったボールを頭にのせられて、不服そうな猫

10期生 第6回 テクストは作者の意図の反映か

みなさま、はじめまして!今回初めてブログを担当します、10期生の山崎日和と申します。初めてなのにすでに授業から3週間が経っております… 遅くなり申し訳ないです… 3週間前の記憶を掘り起こしながら書いていきたいと思います!

前座

今回の前座は留学生のダンドレアさんが担当でした。

紹介されたのは「Blood borne」というゲームです。このゲームはH.P.ロブクラフトの小説がベースとなったPlayStation用アクションRPGで、主人公である「ハンター」がアイテムを探しながら悪夢から逃げるという内容だそうです。

このゲームの良さの一つとして、グラフィックの綺麗さが挙げられていました。発表用のスライドで何枚かゲーム内の写真を見せていただいたのですが、本当に綺麗で、写真を見るだけでも世界観が伝わってきました!

私はそこまでゲームに詳しいわけではないのですが、いつかやってみたいと思いました!(残念ながらPlayStationを持っていないのですぐにはできないのですが…)

3限 「声」「イメジャリー」

今回の3限は中村さんの担当で、廣野由美子さんの『批評理論入門』から「声」と「イメジャリー」の2つのテーマについて学びました。

「声」

小説には2種類の形式があると示されました。それは「モノローグ」と「ポリフォニー」です。

モノローグとは、作者の単一の意識と視点によって統一されている状態を指します。

一方ポリフォニーとは、多様な考えを示す複数の意識や声が、それぞれ独自性を保ったまま互いに衝突する状態を指します。

これだけではいまいちどういう違いがあるのかわからず議論をしたのですが、

モノローグ=結論が1つにまとまるもの

ポリフォニー=結論が1つにまとまらないもの

なのではないかという結論に至りました。

このポリフォニーについては4限でより詳しく学んでいきます。

「イメジャリー」

イメジャリーとは、読者の想像力を刺激し、視覚的映像など(イメージ)を喚起する作用、またイメージの集合を指します。

本文ではイメジャリーの種類として「メタファー」、「象徴」、「アレゴリー」の3つが挙げられていました。

・メタファー:あることを示すために別のものを示し、それらの間にある共通性  を暗示する。

・象徴:特に類似性のないものを示して連想されるものを暗示する。

・アレゴリー:具体的なものを通してある抽象的な概念を暗示し、教訓的な含みを持たせる。

授業では象徴とアレゴリーの違いについて議論をしました。その結果、2つには明確な違いがあることがわかりました。

象徴は、言葉とそれが指す意味に類似性がないため、普遍的でなく、学習しないとわからないものだという特徴があります。たとえば「鳩」は平和の象徴ですが、鳩と平和には類似性はありませんし、知識がなければ鳩を見ても自然と平和を思いつくこともないので、普遍的でないといえます。

一方アレゴリーは、象徴よりも類似性があり、一定程度普遍性が高いという特徴があります。また、具体的なものに抽象的なものが重ねられたものでもあります。上記の説明にも書きましたが、アレゴリーは教訓的な意味を持つものであり、これを物語化したものが寓話にあたります。たとえばグリム童話やイソップ童話です。

つまり、この2つの違いは類似性の有無と普遍的であるかどうかが主なものであるわけです。

また、今回の内容に関連して、内藤先生から「メタファー(隠喩)」、「メトニミー(換喩)」、「シネフドキ(提喩)」の3つの比喩の違いについても解説がありました。

・メタファー(隠喩):あることを示すために別のものを示し、それらの間にある共通性を暗示する。例)白雪姫(実際に雪ではなく、雪のように白いことを表している)

・メトニミー(換喩):あることを示すためにそれと深い関わりのあるもので置き換える。例)赤ずきん(赤いずきんを被った女の子)

・シネフドキ(提喩):あることについて、その一部にあたる言葉で全体を、また全体を指す言葉で一部を表す。例)ペンタゴン(アメリカ国防省)(国防省の建物の形で国防省そのものが表されている)、「人はパンのみにて生くるにあらず」(人間は物質的に満たされるだけでなく、精神的にも満たされて生きることを求めるという意味。パンは物質の具体例)

ひとえに比喩といってもさまざまな種類があるんだと勉強になりました。

4限 ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』

4限は私の担当で、3限で取り扱った「ポリフォニー」を提唱したミハイル・バフチンの『ドストエフスキーの詩学』を読みました。

このテクストはドストエフスキーの小説の特徴が語られたもので、その中でポリフォニーの概念が登場します。

ドストエフスキーはロシアの小説家で、19世紀のロシア・リアリズム文学の代表者と言われています。以前のドストエフスキー批評は作品に登場するイデオロギー的な問題ばかり扱い、構造上の特徴は見過ごされてきました。そこに一石を投じたのがバフチンです。

バフチンは、ドストエフスキーの本質的な特徴は真のポリフォニーにあるといいます。真のポリフォニーとは、それぞれの世界を持った複数の対等な意識が、各自の独立性を保ったまま作品に織り込まれていくことです。わかりやすく説明すると、ドストエフスキーの作品に登場する主人公たちはそれぞれが独立した考えを持っており、それは作者の考えに収束していかないということです。

ここまでを読んで、「作者が書いてるものだから、少なからず作者の考えが反映されているはずだ」と考える人もいるでしょう。これは「作者も意図せずに無意識のうちに書くことがある」ということを考えると解決できます。私たち人間は何かを書くときいつも自分の意志のままに書いているわけではありません。たとえば、なにかの感想文を書いているとき、書き終えてみると本来自分が書きたかったことからずれていた、なんてことはありませんか?私は筆が乗るとよくそのようなことがあります。また、二項対立的に一人を生み出したらもう一人も生み出される(正義と悪みたいな)ということもあります。こういったことを考えると作者の考えが反映されていないテクストが生まれることも納得できるのではないでしょうか。

次にポリフォニー的な小説の具体例について、私はあまり思いつかなかったので他の方にも例を尋ねたところ、内藤先生から芥川龍之介の『藪の中』が、中村さんからはやみねかおるさんの公式ファンブックの最後の書き下ろし小説がそれにあたるのではとおっしゃっていました。

私はどちらも読んでみたのですが、確かにポリフォニー的な作品だと感じたので、もしこれを読んでいて「ポリフォニー、なんだかよくわからないな。」と感じた人はぜひ読んでみることをおすすめします。

また、内藤先生からバフチンがポリフォニーを提唱した背景についても解説がありました。バフチンもドストエフスキーと同様にロシアの人です。この『ドストエフスキーの詩学』は1929年に発表されたもので、その当時のロシアはロシア革命によってソビエト連邦が成立したあとの時代になります。内藤先生によると、バフチンは文学で社会を変えようとしたそうです。レーニンのような一人の意見だけが強い力を持つ社会に対して異議を唱えるために、モノローグよりもポリフォニーを推し進めたということです。バフチンはまたカーニバルも提唱しています。カーニバルとは非日常であり、カオスでもあります。このカオスがないと日常が平凡でつまらないものになると主張しました。これも当時の社会状況の反映ですね。

このように、バフチンの理論には社会を変えようとした背景があります。現代は革命的な動きが少ない分、こういった価値観は新鮮でした。また、だからこそ最初はポリフォニーについてうまく理解できなかったのかもしれないとも感じました。

長くなってしまいましたが、今回のブログは以上となります!さて、このブログはきちんと授業内容が伝わるものになっているでしょうか… 無意識のうちに自分の書く意図のなかったことまで書いているような気がして、これこそまさにポリフォニーへの第一歩ですね!と、雑なまとめをして終わろうと思います笑

ではみなさま、また次回お会いしましょう!

9期生第5回 『映画講義入門』第5章 映画と観客 ~再現的イリュージョンの世界で生きる私たち~

皆さんお久しぶりです!9期生の宮澤です。

先日、明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会に行ったんです。

我がゼミの阪口さんが、コンマスを務める発表会だったのですが、とても感動したので、この場を借りて、叫ばせてください。

面白かった!阪口さん、ほんとに凄かった!小林幸子さん、歌うまいですね!

以上、宮澤の心の叫びでした。どうでも良くてすみません。阪口さん、本当に本当にお疲れさまでした。

さて、本題に入りましょう。

今回のゼミで扱ったテーマは、「観客」です。理論は、J.オーモンの『映画講義入門』の第五章映画と観客。作品は、『オリンピアー民族の祭典』なり。

学習内容

今回は、映画の観客に関する研究を学びました。

①観客の精神と映画の関係

②観客の心理を使った映画の技法

の2つに分けて、おさらいしていきます。キーワードは「再現的イリュージョン」です。

まず前提として、観客の研究は、大きく分けて2つの分類ができます。

1つ目は、観客の外在性に注目した研究。統計学や経済学、社会学の方法から、観客集団を分析する研究です。2つ目は、観客の内在性に注目した研究。心理学を応用して、映画の観客の精神を分析する研究です。今回は、2つ目の研究について、勉強しました。

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①観客の精神と映画の関係

映画は見る人、つまり観客がいないと成立しません。そして、映画の受け取り方は、個々の観客によって異なります。例えば、映画の作り手が想定していた通りに、観客が解釈してくれるとは限りませんよね。そのため、観客なしに映画を語ることはできないでしょう(多分)

でも、そもそも、観客とは何なのでしょうか。簡単に言うと、観客とは、映画に対して「再現的イリュージョン」などの精神活動を行う存在です。

では、再現的イリュージョンとは何でしょうか。「再現的イリュージョン」とは、観客の心的過程で勝手になされる補正精神のことを指します。よう分からん、詳しく(白目)

突然ですが、皆さんゲシュタルト崩壊を経験したことがありますか?1つの文字をずっと見ていると、その文字が何だか分からなくなってくるという、例のあれです。

これは、同じ文字をずっと見てると、文字の一画ばかりが見えてきて、文字全体が認識できなくなってしまうことが原因です。つまり、私たち人間は、物事を要素で捉えているのではなく、全体で捉えているということが分かります。

逆に言うと、私たちは、総合的(全体的)に物事を見る力を持っているといえます。

実はこの能力、観客が映画を見る時にも発揮されています。

そもそも映画(映像)は、静止画の連続にすぎません。てことは、本来肉眼で映画を見たら、高速で静止画が変わっていく様子が見えるはずです。しかし私たちは、映画を静止画ではなく、自然な映像として見ます。

つまり、静止画の連続(要素)を、つながった映像(全体)として認識してると言えます。つまり私たちは、肉眼そのものが見せる以上のものを、精神を通じて見ているということです。

そしてこれこそが、「再現的イリュージョン」です!!!!!

つまり、「再現的イリュージョン」とは、観客の心的過程で勝手になされる補正精神のことを指します。このように、観客の精神を通じて補正が起こるため、人によって映画の認識が異なったりするわけですね(自信ない)

②観客の心理を使った映画の技法

①では、心理学の研究を応用することで、観客は精神活動を行い、映画を見ていることが分かりました。次に、観客の精神活動に効果的に影響を与える映画の技法について、紹介します。

映画は、様々な情動を誘導できるような方法を模索してきました。人の情動を誘導する方法は、特にプロパガンダ映画を通じて、研究が進んでいきます。そして現在では、観客の感情を盛り上げたり、登場人物に共感できるようにしたり、様々な場面で応用されるようになりました。

要は、人間の心的過程を理解し、触発するような技法を使うことで、観客の思考を操作できるということです。モランの『映画あるいは創造的人間』では、同一化という技法が紹介されていました。同一化とは、観客に、自分と全く異なる他者である登場人物を同一視させること技法です。

心理学を応用して、観客の「再現的イリュージョン」が明らかになったことで、作り手側が見せたいものを見せる技巧の研究に繫がったと言えるでしょう。

作品分析

以上の学習内容を踏まえて、『オリンピアー民族の祭典』はどのような作品だと言えるでしょうか。

『オリンピアー民族の祭典』は、ナチス政権下のドイツで行った、ベルリンオリンピックの記録映画です。この作品は、ただの記録映画にとどまらず、独自の編集技術で、スポーツの普遍的な身体美や躍動感が表現されている作品として評価されています。一方、ナチス政権下で撮影されたこともあり、プロパガンダ映画であるという評価もされている作品です。

ここからは、ゼミ内での分析になります。

肉体美を表す独自の技術について

・スローモーション→選手の競技の瞬間を、スローモーションにしている。観客が息を飲んで見守る瞬間の感覚を、スローモーションで表す技巧。観客の再現的イリュージョンを理解した上で、映像表現をした技法だと言える。

・競技以外の演出→得点が入る場面や観客が盛り上がっている映像を、所々で差しはさんでいる。ただの記録映画ならば、選手の競技のみを映像にすればよい。そのため、観客目線のオリンピックのハイライトが上手く描かれていると言える。

プロパガンダ性について

・ヒトラー→ヒトラーの映像が所々差しはさまれている。(自国の選手が得点を入れた時など)しかし、ヒトラーの映像に威厳があるようにはあまり見えない。むしろ、オリンピックを成功させようと必死な表情が多く映っている。よって、ヒトラーやナチスのプロパガンダのために作られているわけではないのではないか。むしろ、観客の再現的イリュージョンで、プロパガンダ映画になってしまったのではないか。

以上を踏まえ、『オリンピアー民族の祭典』は、技法を活用して身体美を表した作品だが、観客の再現的イリュージョンによってプロパガンダ映画として認識されてしまった映画と分析しました。元々、『オリンピア』は、観客の再現的イリュージョンを理解した技法で、スポーツの肉体美や躍動感を表現した記録映画だった。しかし、枢軸国が形成された戦争下の世界では、製作者の意図に関わらず、プロパガンダ映画として機能してしまった可能性があると分析しました。特に、自国のために戦争に行く人たちにとっては、自国の強さを再確認し、自分を鼓舞する映画になっていたかもしれませんね。

私は普段観客であることが多いので、改めてこの理論を勉強すると大変興味深かったです。これから映画を見る時は、映画にどのような再現的イリュージョンがあるのか、意図されているのかを見ていくのも、面白いかと思います。

ここまで見てくださった方、本当にありがとうございました!次回のブログでお会いできることを楽しみにしています!

9期生 第6回『film analysis 映画分析入門』第1部 第2章 カメラワーク

こんにちは。白井翔大です。面白そうな映画やアニメがたくさんあることを再認識しています!もちろん授業を通じても、そうですし、鑑賞記録をつけていくアプリでもそのように感じています。
他の人の鑑賞記録を見ていて思うことのなのですが、この人は普段何をやっている人なのだろうと。というのも、記録の更新数が圧倒的だからです。作品への熱量が高いことはたしかなのですが、それにしてもどのような過ごし方をしていれば、これだけ多くの作品に触れることができるのか気になることがあります。

以下、授業内容になります!

キーワード:カメラワーク
観客は映画を「カメラという眼」を通して見ます。
→カメラがどこに置かれ、どのように動いているかは、映画の意味にとって極めて重要となります!

大論点:カメラワークは映画にどのような意味を与えるのか
それぞれのカメラワークが映画の内容を表す役割を持っています!

中論点1:ショットはどのような意味を持つのか
場面に応じて多様な意味を持ちます!
 小論点1:クローズアップショットは何を表しているのか
 ① 親密性②登場人物の心情について隠しています
 小論点2:ミディアムショットは何を表しているのか
 人物間の関係を表しています
 小論点3:ロングショットは何を表しているのか
 社会環境や自然環境を表しています

中論点2:アングルはどのような意味を持つのか
アングルの持つ意味は単一ではない!
 ハイアングルのショットはどのような印象を与えるのか
 ① 支配の印象②力や高潔さ、道徳などの喪失
 ローアングルショットはどのような印象を与えるのか
 ① 優越性や権威、何らかの価値②登場人物の感情を表します

中論点3:カメラの動きはどのような意味を持つのか
出来事や登場人物を強調したり、価値判断を行ったりします!
 小論点1:パンショットはどのような意味を持つか
 関係づけ(人間関係の樹立、社会集団の説明)のために使われます!
 小論点2:トラッキングショットはどのような意味を持つのか
 技術的進歩によって多様な意味を創り出すことが可能になりました

中論点4:レンズの使い分けにどのような意味があるのか
観念を伝える意味を持っています!

中論点5:焦点距離(ズーム)を変えることによってどのような意味があるのか
① ズームインにはある人や物へ焦点を絞っていく効果②ズームアウトには周囲の空間との対比の中で事物を消してゆく効果がある

応用
今回は、ヒッチコック『鳥』の分析でした。メラニー・ダニエルスが、ミッチ・ブレナー(メラニーが気になる男性)の家に愛の鳥を届けに行きます。するとメラニーがカモメに襲われるのですが、それ以降メラニーだけではなく周囲の人間までもが、鳥にひたすら襲われ続けるというパニックものになります。

今回扱った文献『film analysis 映画分析入門』によると、『鳥』は「強い男性によって社会秩序が維持される、男女の不平等を必要としていることを示唆する映画」です。
メラニー:独立心旺盛な「プレイガール」
→ヒッチコックの思う「女性の自然な役割」に逆らっている
→自然(鳥)が彼女に復讐

カメラワーク
たとえばメラニーが湾を一人で渡るシーンでは、
ミディアム・クローズショット:メラニーが状況を支配している
ロングショット:危うさ、不吉な予感
というように、二つショットが用いられています。

他にもショットがあって、
極端なハイアングル:誤った方向へ向かう人類を疫病で罰するという聖書のテーマが隠れていて、「神による配材」を喚起
といように用いられています。

ここからは、ゼミ内での解釈です。

バードウォッチングのカメラワーク(映画序盤)
バードウォッチングされるかのように、メラニーはミッチに覗かれます。
ミッチが覗く際は、クローズアップ
カメラはミッチをロングショットで撮りますが、鳥が飛ぶ姿も映します。その後ミッチが双眼鏡でメラニーを観察する際、メラニーをクローズアップします。
このクローズアップは、鳥とメラニーの親密性や、そのことによってメラニーが解放的な野生の鳥の仲間、すなわち、かごの鳥ではないことを表現しています。
ついでに言うと、このショットは男性(ミッチ)が女性(メラニー)を一方的に眼差しを向けるショットであり、男女の非対称性を読み取ることができます。

鳥に襲われてからのカメラワーク(映画終盤)
ミッチを中心のミディアムショット
→ミッチの母が家族の中心だった状態から、ミッチが中心になったことを表現
ローアングル
→ミッチが家族内での支配的な存在になったことを表現

鳥の役割は?鳥が襲う対象は?
家父長制や生権力から逸脱する存在を襲いやすいです。

野生/かご(鳥かごの鳥、つがいの鳥)
独り身は襲われやすいし、助け合うことができないので、生存できません。
実際に殺害されてしまった人は、独り身と考えられる人でした。

ではなぜ独り身が殺害されてしまったのでしょうか?
それは、家父長制(生権力)の視点に立つと、独り身は望ましいものではないからです。
その一方で、家族は襲われたとしても助け合い、生存し続けます。

用いた理論
① アブジェクション
メラニーの自立した女性を潜在的恐怖として、その恐怖を棄却。
対照的に支配する側からすると、かごの鳥は支配できているので安心感があります。

② 家父長制(生権力)
ミッチ中心で、その他の家族はミッチを支えます。つまり、ここでもメラニーの自立性は失われて、かごの中の鳥になってしまいます。
このように、『鳥』では近代以降の家族としての安定性を保つことが示されています。

カメラワークと二つの考え方(アブジェクション、家父長制)から『鳥』は次のようにまとめられます。
「メラニーは独立心旺盛で自由な雰囲気を漂わせていますが、鳥1に襲われたことで家族という『かご』に入り、その最下層に移ることを示唆する映画」です。ミッチによって、檻に戻されるメラニーが描かれています。
結果的にミッチと結ばれそうなメラニーですが、この映画がメラニー勝利の物語だったのか、あるいは想定外のことだったのかは、さらなる解釈次第となります!(記号論を用いて、移動の物語として読み取ることもできそうでした)以上が『鳥』の分析になります。

カメラワークも分析に用いることができそうです。ただ、このブログを書いていても思ったことなのですが、映画内の文脈に依存する場面が多々あり、カメラワークが意味を持つというよりは、意味の補強がしっくりくるような気がします。ありがとうございました。

  1. アブジェクションや家父長制、生権力の観点から望ましくない存在を襲いやすい生物、襲うのはメラニーの周囲の人間全員ですが、助かるのは家族 ↩︎

10期生 第5回 シンデレラって実は…

第5回のブログを担当します、中村美咲子です。

突然ですが、今このブログを読んでいるあなたは志摩スペイン村をご存知でしょうか。この回の前座は私が担当だったのですが、志摩スペイン村についてお話させていただきました。三重県にあるテーマパーク施設なのですが、とにかく、景色がよくてキャラクターも神対応で料理もおいしいなのでぜひ皆さんも近くにいくことがあったら訪れてみて欲しいです。

3限は山崎さんに『批評理論入門』から「性格描写」と「アイロニー」の発表をしてもらいました。「性格描写」では、小説の登場人物の描き方について、イギリスの近代小説以前から性格を重視した表現が行われてきたのだといいます。さらには、その性格によってキャラクターの運命が左右されているのだとしています。しかし、本当にそうなのだろうか、という議論がなされました。というもの、著者の展開における怪物が元々善良であったというのは違うと思われるからです。さらに、内藤先生から「分人」という考えが提示され、それぞれの考える性格や個人について話し合いをしました。

次の「アイロニー」では、言葉のアイロニー、状況のアイロニー、劇的アイロニーがあり、それらが用いられることによって作品に深みが増すのだという説明がされました。

4限は秋尾さんにウラジミール・プロップの「昔話の形態学」について発表してもらいました。

そこでは、昔話のもつ31の機能とその特徴について説明してもらったのですが、ここで登場したチャートのわかりやすいことなんのという話で、細かく説明と色分けとなされておりとても有用なものでした。

そして最後に作品を使って31の機能を試してみることになりました。

そこで、「シンデレラ」とは両親を失った少女シンデレラが継母や姉によって虐げられる日々の中で、魔女という助力者の助けを得て街の娘たちとの闘いに勝ち王子様に見初められる。つまり、みすぼらしい少女から美しい姫へと変身した少女が、結婚によって身分を成長させていく物語だと読み取ることができる、と分析することができました。

普段作品を読んでいるだけでは、全く見つけられない構造を見いだしていくのがとても面白かったです。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

10期生第4回 曖昧さの狭間を乗り越えて

第3回のブログを担当します、中村美咲子です。

今日の前座は山崎さんが宝塚について紹介してくれました。実は私は宝塚についてあまり知らなかったので、とても勉強になりました。

一番印象的だったのは、トップの役者が既に決まっており、それによって舞台での役がもらえるようになるという点です。そしてその順位があまり変動せず、多くの場合退団によって上の役がもらえるようになるというのも驚きました。

3限では、秋尾さんが『批評理論入門』の「提示と叙述」そして「時間」について発表をしてくれました。

まず、「提示と叙述」ではそれぞれの特徴の説明と事例を紹介したあと、実際にそれらをわける基準は何かということについて議論しました。「批評理論入門」では提示は情報量が多く、語り手の存在が小さいものだとし、一方叙述は情報量が少なく、語り手の存在が大きいものであるとしています。また、この提示と叙述がバランスよく使われることが小説の面白さや読みやすさを実現しているといいます。

しかし、果たして本質的にその違いはどこにあるのでしょう。我々は提示においては客観性があることがポイントなのではないかという議論をしました。正直なところこの議論は時間内ではうまく結論が出せなかったのでまたどこかで話したいと思ってしまいます。

次に、「時間」では物語の語りの速度について時間が操作されていることと、その4つの速度について説明されていました。まず、省略法はある期間を省略して一気に飛び越える方法であり、最速であるとしています。次に要約法は一定の期間を数ページで要約する方法です。さらに、現実と同じ速度で「提示」される情景法、語り手が物語の流れを中断させて、登場人物がだれも見ていないような光景や情報を示す方法として休止法が紹介されました。

4限では、山崎さんがジュネットの「時間」について発表をしてくれました。

これは、ジュネットが自身の考えを援用しながらプルーストの『失われた時を求めて』について分析しています。それによってに、プルーストが物語言説の速度の形式を変質させることで独自と律動を獲得したのだと考えました。

ここでいう形式とは、3限でも扱った、休止法、情景法、要約法、省略法の4つの形式です。『失われた時を求めて』では、要約法は使用されていません。また、休止法についても物語言説がある対象にとどまる時は主人公の静観的停止が描写され物語内容の時間からは抜け出すことがないため、ここでは存在しないとしています。とすれば、『失われた時を求めて』では省略法と情景法のみが使用されているわけです。さらに情景法については、通常は劇的な集中化が行われるものとして使用されるのにも関わらず、ここでは典型として用いることでいわば非劇的なものという機能の変化をもたらしているのです。

我々にとって、ジュネットのこの文章は難解であったのですが、素晴らしい発表をしてくださった山崎さん本当にありがとうございました。

最後までお読みいただきありがとうございました。

9期生第3回 『film analysis 映画分析入門』第1部第4章アートディレクション

2連続の阪口緑です。

みなさん、新緑の季節となりましたね。

新緑の季節といえば、そう、私の所属する明治大学マンドリン倶楽部の創設者の一人で、昭和の歌謡史に燦然と輝く偉業を残された古賀政男先生作曲の「緑の地平線」ですよね!!

※ここからしばらく宣伝です

阪口がコンサートミストレスを務める明治大学マンドリン倶楽部は、年に2回定期演奏会を行っています。

この春は6月1日土曜日に、神宮球場のすぐ近くにある「日本青年館ホール」にて第194回定期演奏会を開催いたします👏

今回のテーマは「古賀政男先生、生誕120年を祝して」です。

そしてゲストはなんと、あの小林幸子さんです✨

実は小林幸子さんは、古賀政男先生が審査員を務める番組でグランドチャンピオンを獲得し、デビューのきっかけを掴んだんです!

懐かしい古賀メロの旋律、そして小林幸子さんの代表曲や、学生なら誰しも歌える「千本桜」をマンドリンの音色でお楽しみいただけます!!!

昼の部は完売目前ですが、夜の部でしたらまだ小林幸子さんを近くで見られるお席もあります!

ぜひお越しください!!!!!

公式HP↓

http://mumc.jp/concert/?id=22

長文お付き合いいただきありがとうございました!

本日の課題文

さて、9期生3回目はマイケル・ライアン&メリッサ・レノス著『film analysis 映画分析入門』第1部第4章アートディレクションを扱いました。

今回のキーワードは「アートディレクション」です。

アートディレクションとは、プロダクション・デザインとも呼ばれ、映画の中の視覚・聴覚的な環境を構築することを指します。

著者の主張はこちら!

視覚・聴覚的な環境(セット、ロケ地、照明、色彩、音響など)は、単なる背景や映像・音ではない。そこには、何かしらの意味が込められている!

大論点:映画におけるアートディレクションとは何か?

結論:セット、ロケ地、照明、色彩、音響などの意味づけを行う重要な要素

Q.映画のセットには、どのような意味づけがされているか?どのようなアートディレクションの要素があるか?

→下記の4つ

①作品テーマの想起

②作品テーマの強調

③アクションの示すことの強調

④ストーリー内で起きる重大な変化の提示

Q.道具・衣装には、どのような意味づけがされているか?どのようなアートディレクションの要素があるか?

→下記の3つ

①人物の内面の表現

②人物の内面の変化の表現

③作品テーマの表現

Q.照明には、どのような意味づけがされているか?どのようなアートディレクションの要素があるか?

→下記の4つ

①作品全体を統一する雰囲気の提示

②人物の感情表現

③人物の性格表現

④観客のミスリーディング

Q.色彩には、どのような意味づけがされているか?どのようなアートディレクションの要素があるか?

→下記の2つ

①人物の変化の表現

②作品全体を統一する雰囲気の提示

Q.音(音源、音響)には、どのような意味づけがされているか?どのようなアートディレクションの要素があるか?

→下記の2つ

①観客の感情的反応を引き出す、観客の注意を引き付ける

②作中のテーマやモチーフの提示

本日の応用

この理論を踏まえて、1980年のアメリカ映画『シャイニング』はどのように解釈できるのかを議論しました。

シャイニングの道具やセットには、本や写真、貯蔵庫、文化財のホテル、寒い場所といった「保管、貯蔵に向いたもの」が登場します。

これらは人工的かつ一方的に保管されてきたものなので、サバルタンとして機能しているアートディレクションなのではないかと考えました。

サバルタンとは、「自らを語る声を持たない従属させられた社会的集団※1」を意味します。

※1時事用語事典「サバルタン」

https://imidas.jp/genre/detail/L-101-0117.html

つまり、『シャイニング』に登場する「保管、貯蔵に向いたもの」をアートディレクションとして全面に出すことによって、視聴者に埋もれた歴史(=人工的かつ一方的に保管されてきた自らを語る声を持たないもの)を考えさせているのではないでしょうか。

また、『シャイニング』では、主人公が最後凍死します。

この描写を記述された歴史の一部として貯蔵されたと解釈するのであれば、主人公も最終t系に、人工的かつ一方的に保管されてきた自らを語る声を持たないサバルタン側になったと述べることができるのでは、と結論づけました。

私はアートディレクションめちゃくちゃ好きな理論でした!

9期生第2回 『映画の理論』第8章 音楽

9期生の4年ゼミ2回目を担当する阪口です!

4年春学期は映画の分析について学んでいきます!

本日の課題文

それでは早速参りましょう。

『映画の理論』第8章 音楽

ジークフリート・クラカウアー

今回のキーワードは「映像の写真的な生」

映画のショットは写真の延長である

=音があることで現実的なものとして感じられる。生がある!

写真:本質的に自己完結

映画:充溢した生を完全再現

無音の映像を長時間見続けるって、想像してみると結構退屈だと思います。

私は5分ももたないです。

これをクラカウアーさんは「色褪せた亡霊」と呼んでます

大論点「映画音楽にどのような機能があるのか」

結論「観客に映像へ向かわせる機能がある!」

  • 中論点1:映画音楽の生理的機能とは何か

結論:観客をスクリーン上の映像の流れに生理的に適合させること

映画音楽は美的欲求から必要とされたのではなく、「音楽が伴奏されていること」が必要だったから生まれた

Q.無声映画時代における音楽の役割とは?

→観客を無声の映像の中心に引き込み、映像の写真的な生を経験させること

・現実の生を実感させる

・聴衆の受容能力を刺激する(共感覚効果)

Q.有声映画時代における音楽の役割とは?

→音楽伴奏(「解説的な」音楽)の役割は、観客の焦点を映像に合わせること

・音楽が全部環境音の映画は、映像に集中できない

・自然な音は断続的にしか知覚されず、それによる空隙を保つために必要

・言葉の陰に隠れてしまいそうになった映像を支えることができる

  • 中論点2:映画音楽の美的機能とは何か

結論:聴衆を視覚的探求へと向かわせること

音楽は、解説的音楽や伴奏として機能するだけでなく、実際の音楽や作品の核としても使用される

Q.解説的な音楽とは?

→ショットに潜在しているさまざまな含意の一部を控えめに強調する機能を担っている

・並列法では、物語全体の雰囲気や特定の視覚的テーマを重視して表現し、強化している

・対位法では、映画と音楽との齟齬によって、観客が映像をよく調べるよう導く

Q.実際の音楽は映画に対して適切か?

→使われ方によって問題を含んだり、映画的になったりする

・音楽演奏を映像化することは映画とは相容れない

・ミュージカル映画のストーリーは現実の生に基づいており、歌の数々はプロットに基づいている。ゆえにプロット的リアリズム傾向と歌を使いたい造形的傾向の葛藤から緊張感が生まれる

・音楽演奏を中位の中心から外すことによって、映画の一要素に注目させる

Q作品の核として音楽が使われる場合の美的効果は?

→作品の核としての音楽は、映像の糧にありながら映像を強調する

・視覚化された音楽は、映画において映像の方が音声より優先される結果、音楽が主導的役割を放棄し、伴奏という役割に逆戻りする

・オペラ映画では、オペラの世界の前提がが映画的アプローチと異なっているため、融合するために一体感が生まれることがある。 

作品分析

応用では、2016年のアメリカ映画『ラ・ラ・ランド』を今回の理論を用いて分析したらどのように解釈できるかを話しました。

ラ・ラ・ランドでは繰り返し使われている曲があります(シティ・オブ・スター)

この音楽は映像に集中させていると考えられます。でも、ラ・ラ・ランドは最初の曲と最後のIFの世界のシーンしか覚えてないよねって話になり、ちゃんと論理的にこの理論を使わないと説得力は生まれないと結論づけました。最終的には、この理論を用いて分析を行うこと自体の難しさが争点になりました。

2023年度研究発表会の様子を1カ月遅れでお届けします…

タイトルにある通り、もう1か月が過ぎ5月に入ってしまいましたが…
3月24日にゼミの研究発表会がありました。今回はその発表会についてのブログです。
前半はわたくし高山が、後半は宮澤さんがブログ執筆を担当します!

大事なことはすぐ忘れてしまうのに、どうでもいい会話の内容はなぜかずっと覚えていたりしませんか…
私はまさにそのタイプすぎて、如何せん1カ月が過ぎてしまったこともあり、研究発表会の記憶がだいぶ断片的ですが、
なんとか記憶を手繰り寄せながら書いていきたいと思います。

 

前半(午前)は私たち9期生の発表でした。

 

まずは阪口さん

阪口さんは、映画『M・バタフライ』のラストシーンについて、主人公ガリマールは何に愛を捧げるために蝶々夫人に扮して自害したのか という問いに対し、
オリエンタリズム、アブジェクション、パフォーマティヴィティを用いて
ガリマールは京劇役者のソンを愛した両性具有的な「完ぺきなヒト」である自分に愛を捧げるために、蝶々夫人に扮して自害した と結論付けていました。

『M・バタフライ』という作品が、実際の事件やオペラ『蝶々夫人』を取り入れた作品だという点や、京劇を扱っている点から、
それらの事件や『蝶々夫人』、京劇について知っているかどうかによっても作品の解釈が変わるのではないか という意見が出ました。

また、疑問点や感想を伝え合う中で、
ラストシーンについては阪口さんの出した結論以外にも様々な解釈が出て来て議論が盛り上がりました。

論文自体はもちろん、発表やその後の議論でも阪口さんの作品への熱量がとても高く、
私個人としてはあまり熱量を言葉で伝えることが苦手なので、
作品愛のにじみ出る素敵な論文だなぁと感じました。

 

2番目は白井さんでした。

白井さんは朝井リョウ『世界地図の下書き』を題材に、童心について生権力を使って論じていました。

子どもとはどのような人間の状態なのか という問いに対し、
子どもとは年齢に関わらず規律訓練されていない、あるいは規律訓練に順応しきれていない人間の状態を意味し、
彼らは自身の身体をコントロールし、〈戦う〉・〈無気力になる〉・〈逃げる〉・〈誤用・撹乱する〉などの複数の方法で生権力に抵抗している と結論付けていました。

議論の中では、
そもそも子どもは童心を意識していない、子どもにも子どもの社会の規律があるなどの意見が出ました。

生権力に抵抗するのが子どもである、
とは言え、年を重ねるにつれて童心に返ることは難しく、どうしたら童心に返ることができるのか という話も議論に上がり、
過去の童心を語る行為が童心に返る一つの方法になるのではないか という話もしました。

個人的には、内藤先生からのフィードバックで、
白井さんが物語の登場人物に伴走しながら論文を書くタイプだというようなことを言われていたところが印象的でした。

 

3番目はわたくし、高山が発表を行いました。

私はミヒャエル・エンデ『はてしない物語』を題材に、
語りの観点、パフォーマティヴィティの観点から、人生の物語化について論文を書きました。

『はてしない物語』の主人公は、自分の人生を語ることを通して、人生を作り上げていっているという結論から、私たちはそれぞれが自分の人生という物語のたった一人の語り手であるという考察を述べたものだったのですが、

他者の人生を物語化して消費してしまうことへの懸念を出発点としていたので、
その点で懸念を払拭し切れたかというと、し切れなかったなぁと感じていました。

しかし、議論の際に、今後人生という物語を語る側ではなく消費する側の視点を取り入れていけたらいいのではないか とアドバイスをいただくことができ、大変参考になりました。

正直、先輩方や先生からもっと詰められるのではないかと思っていたので、
思いの外アドバイスやお褒めの言葉をいただくことができて、頑張って論文書いてよかったなと素直に感じました。

 

9期生最後は宮澤さんでした。

宮澤さんは、アニメ『ユリ熊嵐』から、愛するとは何かについて書いていました。

結論としては、「本物のスキ」とは、「自分の属性の一部を失ってでも、他者をスキでいる選択をすること」であるとし、
「愛する」こととは、「相対するとされる他者の属性を自らの中に受け入れていること」だと考察していました。

“愛”という途方もないテーマに取り組んだ時点ですごいなぁと思っていたのですが、
その中でもきちんと一つの答えを提示しているところが本当にすごいと感じました。

“好き”と“愛する”の共通点や、
愛することが自分の中に革命を起こすことにつながるという考えに気付かせてくれる素敵な論文だったと思います。

また、白井さんは先生から伴走者だと例えられていましたが、先生曰く宮澤さんは憑依して同化するタイプだそうです。
普段宮澤さんと接していて、時々とても深く他者のことを見ているなと感じていたので、
他者の中に入り込んで考えるタイプだからこそなのかなと個人的には納得がいきました。

 

 

いよいよ、研究発表会も後半戦。ここからの執筆は、9期生の宮澤が承ります。

午後の部では、8期生の先輩4名が、卒論の発表をしてくれました!

 

トップバッターは、大本さん

大本さんのテーマは、「『鋼の錬金術師』から見る幸福追求の形」です。

『鋼の錬金術師』と言えば、超王道ものの少年漫画。ゼミで度々話題になる作品らしいです(笑)
私はまだ読んだことがないのですが、大本さんの論文を拝読して、是非読みたいと思いました。

大本さんは、2人の登場人物を中心に、旅路で出会う人物や、彼らが起こした行動を分析することで、幸福の形に関する結論を導きました。また、幸せになる方法は決して1つではなく、十人十色の幸福追求の形があると考察されています。

大本さんの論文の凄さは何か。ずばり、「幸福とは何か?」という、答えのない問いに立ち向かったことです。
全人類が1度は考えたことがある(であろう)幸福について、真っ向から向き合い、結論を出すことは、決して容易ではありません。このような難題に対して、1コマ1コマの発言を追いかけ、緻密にかつ丁寧に分析することで、結論を導いたこの論文は本当に素晴らしいと感じました。
何事にも真っ向から向き合い、努力されてきた大本さんだからこそ、書くことのできる論文だと思いました。

「幸福の形は千差万別で、論文を書いても、自分の幸せが何かは分からなかった」と言っていた大本さん。「幸せになれそうか?」と問われた際、「幸せになれるように頑張ります。」とおっしゃっていた場面が、印象的でした。
簡単に「幸せになりたい」と言うことのできる現代社会で、改めて「幸せ」ってなんだろうと考える機会をくれる。大本さんの論文は、そんな社会の根本を突く素晴らしい論文だと感じました。
「幸せになれるように頑張ります。」とおっしゃった大本さんの姿を見て、もしかしたら「幸せが何か」を追い求められることも、また幸せなのかもしれないと感じました。

 

さて、次の発表者は、斎藤さんです。

斎藤さんのテーマは、「理不尽な暴力や苦しみに対する防御壁を探してー三つの作品に学ぶー」です。

斎藤さんの論文は、他者から振るわれる抗えない暴力、暴言、自分では制御不能な事態に対して、3つの実践可能な解決策を提示してくれました。作品は、『フレッシュプリキュア!』『あの子の考えることは変』『SINK』の3つです。

3つの作品の各登場人物は、理不尽な暴力や苦しみに苛まれます。斎藤さんは、そんな彼らがどのようにその理不尽から身を守ったのか、その具体的な方策を、
① 理不尽に向かって戦い続けること
② 理不尽そのものを解釈し直し、自分や仲間を守ること
③ 自分を苦しめる記憶を改竄し、自分自身のバイアスを可変的なものにすること
と結論づけました。

斎藤さんの論文の凄いところは、「誰でも今すぐにできる実践的な身の守り方」を提示されていることだと感じました。斎藤さんは、「理不尽な暴力や苦しみに対する防御壁は他にもあるけれど、自分自身が使えるものしか取り上げなかった」とおっしゃいました。ここに、斎藤さんの信念を感じました。そんな斎藤さんの信念が源泉となって、他者に救いを与える論文を書くことができるんだな、と思います。

斎藤さんの論文からは、生きる勇気をいただけます。今後も、斎藤さんの論文をお守りに、生きていきたいです。そして、私もそんな論文を書ける人になれたらなと思いました(笑)

 

続いての発表者は、ゼミ長の佐藤さんです。

佐藤さんの発表テーマは、「「不健全」なテクストに宿る精神―再生産の呪縛から逃れる「不健全」な読本―」です。

佐藤さんの論文では、生権力を用いて、「不健全」の表現の正体を分析されました。そして、生権力に従属せず、それに抵抗しようとする作品を排除しようとする政治的配慮の結果、「不健全図書」が生まれたという結論を導きました。

佐藤さんの論文の凄さは、ずばり「不健全の発見」です。
佐藤さんの論文を読んでると、何となく何かが不健全だと分かってしまう(思ってしまう)ことが、日常の中によくあると実感しました。このような今まで何となくの感覚でしかなかったものを、言語化し、形にした素晴らしい論文だと思います。
また、「不健全」という概念が作り出される歴史性に着目している点も、一線を画している部分だと思います。
私自身も、学校教育、はたまた政治的配慮のなされた社会で、「不健全」という感覚を植え付けられていたのだと気づかされ、はっとしました。

佐藤さんの論文を読んだ時、佐藤さんと初めて話した時の衝撃を思い出しました。
不健全か健全かに関わらず、自分の好きなものを好きと言えるその姿を、かっこいいと思いました。
この1年で、そんな佐藤さんや、佐藤さんの論文を通じて、私自身の価値観も大きく変わりました。好きなものを、臆せず好きと言う。そんな姿を、論文や日頃の姿で伝えてくださった先輩に、この場を借りてお礼を申し上げたいです。

 

いよいよ最後の発表者、関口さん

関口さんのテーマは、「映画『天気の子』における「大丈夫」という言葉は、どういった意味を有しているのか?」です。

関口さんの論文では、作中で使われた「大丈夫」という言葉を抽出し、「大丈夫」の再意味化をしました。そして、「大丈夫」という言葉は、ケア・ケアレス・アイロニー・ユーモアの4つの独自の意味を有していると結論づけました。

関口さんの論文の凄いところは、「大丈夫」という言葉自体を分析しているところです。
「大丈夫?」「うん。大丈夫」
このような会話は、日常的に当たり前に使われており、その意味をついつい見過ごしてしまいがちです。
私自身も「大丈夫」という言葉を安易に使うことに、抵抗がありつつも、それでも日常的に使ってしまっていましたと思います。だからこそ、自分自身の発する「大丈夫」を見直す機会になりました。

また、関口さんの論文を通じて、「大丈夫」という言葉の多義性を実感できました。1つの「大丈夫」に、ケア・ケアレス両方の意味が込められることもある点がとても印象的でした。

私自身、「大丈夫?」と言葉に発すること、「大丈夫」と答えてしまうことに不安感を抱いていました。しかし、関口さんのこの論文は、そんな不安感を掬い上げてくれるような論文だと思います。「大丈夫」という言葉の後押しをしてくれる、勇気を与えてくれる、そんな論文でした。

 

 

以上!8期生の先輩4名の研究発表でした!!

4万字を超える素晴らしい論文を残してくださった先輩たちの背中を見て、私もこんな論文が書けたらな、と改めて思います。けれど、まだまだ道のりは長そうです(笑)

先輩たちの論文をバイブルに、残りの1年間を駆け抜けていきたいと思います!!

ここまで読んでくださった皆さん、本当にありがとうございます。また、先日の研究発表会で素敵な発表をしてくださった8期生の先輩方、参加してくださった皆々様、ありがとうございました!

相変わらず投稿は滞りがちですが、次回のブログでまたお会いしましょう!!

10期生第2回 虚構を読ませるためには

第10期生はじめてのブログを担当いたします、中村美咲子です。

といっても、私の更新が遅く第2回の秋尾さんの投稿の後になってしまっております。。。

さて、 今回は4/18の授業について書いていきます。

我々10期生は3人でのスタートとなりましたが、幸いなことに春学期は留学生であるダンドレアさんも一緒に勉強できるということで、4人で多くのことを議論していくのが非常に楽しみです。

今回の授業では、まず廣野由美子による「批評理論入門」の1.冒頭と2.ストーリーとプロットについて、そしてロラン・バルトの「作者の死」についてそれぞれ議論をいたしました。

まず批評理論入門の発表を行ったのは、山崎さんです。 この理論から、我々は『フランケンシュタイン』の冒頭部分であるウィルトン氏の手紙についてとても活発に意見を交わしたのですが、先に理論から説明したいと思います。

『フランケンシュタイン』において、当初怪談話としてつくられた際の冒頭である「一一月のある陰鬱な夜のこと・・・」という文章を、物語になるにあたりウォルトン氏が姉にあてた手紙に変えています。なぜ冒頭の変更を行ったのでしょう。それは、読者にとって小説の冒頭は現実世界と虚構の世界を分かつ「敷居」であり、手紙という形式にすることでより現実味を帯びたものにすることができるからだ、と廣野は述べています。

次に、「ストーリーとプロット」では、廣野は、ストーリーは出来事の時間順に並んだものであり、プロットはそれを再編成したものだとしました。さらにプロットは物語を効果的に伝えることができ、それによりサスペンス効果がもたらします。例えば、物事の真相の提示を先延ばしにすることで、読者の不安をあおることができます。

この2つの理論から、『フランケンシュタイン』について、議論をしたのですが、そこでこの作品に現実味を与えているのは、冒頭の手紙という形式ではなくウォルトンという人物その人なのではないかという結論に達しました。

まず、ウォルトンの手紙は彼の姉に宛てた手紙であり、説明口調になっても違和感を与えないという効果があるのではないかということになりました。さらに彼の見聞したことが書かれている点で確からしさをもたらしているのです。そしてもう一つが、ウォルトンという人間が第三者目線で語られることがなく、ウォルトン自身による心理描写と行動の記録のみが彼を知る手立てとなっています。それが、フィクションよりも、日記のようにリアリティを持たせているのではないかと考えられました。

続いて、ロラン・バルトの『作者の死』について発表を行ったのは秋尾さんでした。

それは、エクリチュールにおいて本来は作者の存在はないのだが、近代社会においては「作者」が重要視されてしまっていること、しかし、それを揺るがすことに貢献した作家もいたという内容でした。ただ、今回の授業ではこの理論についての発表と議論が終わらなかったため、次週はこの理論についてさらに深めていくことを期待して初回のブログを締めようと思います。