第11回 Can the Subaltern Speaks on Twitter?~サバルタンはツイッターで語ることができるか~

ごきげんよう皆さま。返品と滞りに定評のある徳村です。前回ご紹介した空より青いギターは無事返品しました。そして代わりに御茶ノ水でおニューのギターを購入いたしました。

うん、シンプルイズザベストですね。何よりネックの色がたまりません。このネックの色を見つけるまでどれだけ苦労したことか。。。ボディのクリームっぽい白と、ピックガードの溌溂とした白の組み合わせも絶妙です。美ギター。エレガントで瀟洒で高貴なパリジェンヌを連想させます。仮にマルジェラの新作だと言われても疑いません。もう絶対裏に白い布縫い付けられてますよねコレ。あ、あと勿論音も素晴らしいです。弦一本一本の音がしっかり聞こえて、まるで大阪王将のチャーハンのようなパラパラさ。でも大阪王将のチャーハンあるいは天津炒飯のように最初の一口が一番美味しいけど二口目から惰性で食べざるを得ない、みたいなことはなく、逆に弾けば弾くほど楽しくなってずっと弾いていたくなるような音です。皆さんもぜひ最寄りの大阪王将でチャーハン(天津炒飯でも可)を注文して、このギターの魅力を感じ取ってください!!!

さて皆さんが大阪王将でパラパラしてる間に本題に入ります。今回のゼミで扱ったのは、フェミニズム批評とジェンダー批評、そしてガヤトリ・スピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』になります。

フェミニズム批評は、長い間男性中心に形成されてきた文学伝統の中で行われてきた性差別を暴く批評として登場しました。女流作家であるメアリー・シェリーによって書かれた『フランケンシュタイン』も、そのフェミニズム批評の対象になります。『フランケンシュタイン』ではフランケンシュタインに関係する女性が次々と殺害されることから、女性が抑圧され、再生や代替の可能なものとして扱われている世界を表しているとみることができたりします。

次にジェンダー批評は、フェミニズム批評のように女性の問題のみに焦点を当てるのではなく、生物学的・社会学的に男女区別の基準から逸脱し周縁に追いやられている存在も対象とします。ゲイ批評やレズビアン批評などもジェンダー批評に含まれます。

ジェンダー批評の中でも面白かったのが『ホモソーシャル』と『クイア』という概念でした。

ホモソーシャルというのは男性の社会という意味。アメリカの社会学者ルネ・ジラールは「自分の欲望は他者の欲望の模倣である」という『欲望の三角形』理論を唱え、男二人が一人の女性を取り合う構造について説明しました(つまり、他人の好きな人を好きになっちゃうっていうこと)が、ホモソーシャルの研究を行っていたイヴ・セジウィックはこの理論に異を唱え、「その二人の男性は欲望を共有する(女性を取りあう)ことによって仲を深めている」と主張しました。つまり、ホモソーシャルは女性を利用することでコミュニティーの結束を固くしているということをイヴ・セジウィックは明らかにしたのです。また、このようなホモソーシャルを維持するために、その内部ではホモフォビア(同性嫌悪)やミソジニー(女性嫌悪)も醸造されることとなります。それは、ホモソーシャルが再生産を重視する社会の中で顕著であり、同性愛は生産性に欠け、男性のコミュニティーに女性が入ると結束が崩れてしまうという共通認識を持っているからなんです。しかし、このようなホモソーシャルというのは決して普遍的ではありません。かつては階級によって女性の方が男性よりも重視される社会も存在しましたし、古代ギリシアではホモソーシャルの中でもホモセクシュアルが普通に認められていたといいます。我が国の江戸時代に流行した春画も、性別の違いというよりは階級の違いを重視していて、異性愛も同性愛もどちらも描いていたそうです(異族愛も)。

次にクイアについて。クイアは元々「奇妙、気狂い」といった意味で、主に性的マイノリティを侮蔑する言葉として用いられていました。しかし現在ではそれを逆手にとって「性的マイノリティに対する差別に対抗する」という意味で、あらゆる性的マイノリティの人々を包括的に表す言葉として使用されています。このクイアという概念は人間の属性を常に変化するものと捉え、男女の区別を確定できないものとして考えており、その意味で非常に脱構築的だと言えます。つまりそのことを理解している人はみんなクイアなのです。このクイアという概念を今回のゼミで理解したことで、昨今のフェミニズムや性的マイノリティに対する扱いに個人的に抱いていたモヤモヤが少し晴れた気がしました。近頃、ネット上のフェミニストは女性の権利だけを求めがちだし、性的マイノリティに対する世間の扱いも腫れ物に触れるみたいに神経質すぎると考えていた私なのですが、クイアという単純明快でロックな概念には好感を持てます。結局、みんな人間なんだぜっていう。自分がどう生きるかは自分が決めることで、しかも決めた後でも迷っていいし変更してもいいっていうことなんだと思うんですよね。勿論制度設計の上で考えることは山ほどあると思います。例えばトイレ問題とか、スポーツ問題とか、たぶん私が思いつかないだけで沢山の問題がそこにあるんだと思うんですが、そういう問題を解決するにあたっても土台になるべきなのはやはりクイアなんじゃないかなと思います。

そして締めに『サバルタンは語ることができるか』ですが、まずサバルタンというのは被抑圧民のことで、植民地時代に列強によって支配されていた国々に住んでいた人々のことを指します。今回のサバルタンは特に「女性、非白人、非インテリ」の人々のことを指しているのですが、結論から言ってこのようなサバルタンは語ることができません。それは知識人や権力者がつねにサバルタンの声を代弁してしまい、当事者であるサバルタンの声は聞こえてこないからです。仮にサバルタンの意見を取り上げようと直接話を聞いたとしても、日常的に男性の言いつけを守ったり支配されたりしているサバルタンは本音を言えなかったり、そもそも自分の本音がなんなのかよくわかってなかったりするのであまり意味がないんですね。それでも、著者であるスピヴァクは書き手・読み手が白人のインテリに限られていたこれまでの文学やその他の学問の中にある、彼らが気づけなかった「空白」のようなものを見つけ出すことができるのは、有色人種や女性や非インテリなどのサバルタンであると期待を寄せているのです。サバルタンに語らせることは難しいことですが、どうしたらサバルタンの声を掬い上げることができるのかを考えていかなければなりません。

サバルタンの声について考えると、2014年にノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんってすごかったんだなあと思います。彼女は非白人の女性でしかも当時はまだ10代だったわけで、そんな彼女の声を掬い上げたメディアの功績は大きかったのですね。。。今になってその凄さがわかりました。もしかしたら、メディアやSNSを有効に用いることで、サバルタンは語れるようになるのかもしれません。勿論そこにもデジタル・ディバイドの障壁など様々な課題が残っているでしょう。サバルタンはツイッターで語ることができるか、それともインスタグラムで語ることができるか、あるいはまったく別の方法で語ることができるようになるのか、そして誰が語らせるのか、答えはまだ出ませんが、考えてみると面白いかもしれませんね。

今週はここまでとします。僕の滞り癖も今週は落ち着いていますね、よかったです。しかしながら今週の発表がまだ残っています。一難去ってまた一難、いつになったら凪になるやら。何も考えずギターの練習ができる日が来るとイイナ、と夢想する徳村なのでした。

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