こんにちは。仏の菜々子はんです。突然何を言い出したのかというと、徳村さんの前回のブログの締めの感じだと、私とても怖い人みたいじゃないですか!なので中学、高校時代のあだ名をここで披露して、わたしのイメージ補正をしてみました。正確には、中学のときの異名が、「微笑みななさん」テスト前はいい点がとれるよう、仏のように拝まれていました。高校では京都キャラで、「ななこはん」と呼ばれていました。これだけでもわたしがちょっとやそっとのことでは怒ったりしない、温厚な人だとわかると思います。徳村さん、安心してください、私は仏のように心が広いです。
さて、本題にはいります。今回は主に「脱構築」の話でした。すんなり理解するには難解で、だからこそとっても面白い内容で、きちんと記録できるか分かりませんが、全力を尽くします。まず、構造主義というものがあります。これは、作者の意図には関係なく、テクスト自体が意味を持っているという考えで、今回の課題文の著者ジャック・デリダはこの考えに疑問を持ちます。そこに脱構築批評というものが生まれます。これは、2つのテクストが矛盾した解釈を示すとき、両者の衝突を解決するのではなく、対立を深めさせる事によって、中立的意味の存在を否定することをいいます。ふたつの境界を曖昧にして、片方にもう一方の要素を見出せるかを考えるのですね。
具体的に考えてみましょう。いつものように浦島太郎を例に用います。浦島の世界で対立するもの、それは海と地上です。浦島にとって地上はホーム、海中はアウェイです。たくさんもてなされ、贅沢できて最高に思えそうな竜宮城を、浦島は最後には離れて、地上に帰りたいといいます。この浦島の行動から、どんな場所でも故郷、ホームは大切だ、素晴らしいという主張を、わたしは作品に見出しました。この、対立構造を見出そうとする考えが、構造主義の考えです。
次にこう考えてみます。ホームとアウェイが対立して見えるのは、わたしの前提にある価値観がそう見せているだけなのではないか?ホームにもアウェイにも共に自分を必要としている人はいて、これからホームで過ごした時間より長い時間をアウェイで過ごすことになれば愛着はアウェイにも湧くだろう、それなのにやっぱり自分の生まれたところ、ホームが尊いという価値観が知らずわたしの中にあるから、そのふたつが対立して見えてしまうのでは?これが脱構築です。
これをグランマトロジー(文字自体を中心に据えた学問)に当て嵌めて考えてみます。音声中心主義の考えでは、現前に音声があって、文字はその死体です。しかし、同じ動物の同じ音でも、言語によって動物の鳴き声が変わるように、文字の中に音声があるという考え方もできます。これも脱構築ですね。
かつて文字が無く、文明の発展によって文字を得たヨーロッパの国々は、自国を愛しすぎるが故に、全ての国は文字を発明するべき、または使うべきだと考えるようになりました。先程の音声と文字の他に、セックスとジェンダー、先と後など、どちらかが上でどちらかが下だという見方はすべてなんらかの偏見に基づいています。
男と女をふたつに分けて考えるのも、別にそのふたつに分ける必然性は無いわけですが、その分け方をするのは、ふたつの違いに目をつける認識の枠組みが、わたしたちの世界にびっしりとあって、無意識レベルの偏見となって存在しているからなのです。
人々がそのふたつにどうしても区分したがるので、そのどちらにも当てはまる人や、どちらにも当てはまらない人が居場所を無くしてしまうという問題が起きます。国力=人口の時代には、子どもを産むことができる性なのかそうではないかの区分はとても重要なものでしたが、AIの進歩などで、必ずしもそうでは無くなった場合、これらの区分は今ほどの意味を持たなくなるでしょう。
何かと何かを対比させて考える時、そこにはなんらかの偏見があること、それはとても無自覚なものであることを、今回の脱構築の話から学びました。自分の中の、そして世間の常識を、なぜそうなのか、それで本当にいいのか、考えながら生きていくことが本当に重要なのだなと気づけたとてもいい回でした。考えすぎて動けなくなるのは良くないですが、いい考え方ができると、そのあとの動きにも自信を持てるので、考え方ってとても大事ですね。
さて、本物の仏様には程遠いただの人間のわたしですが、少しでも徳高い人間様になれるよう、これからも精進していきます。脱構築について、記録したいことは全部書けたので満足して眠りにつこうと思います。
おやすみなさい。